目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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19
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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103
最終定理-the Last Theorem-
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 昼休み。僕と巧は校舎裏に息をひそめていた。実際はしっかり呼吸していたし、そもそも息をひそめるという呼吸の仕方がどういうものなのか、僕にはよくわからない。

「ミズカツ先生、大丈夫そうだね」僕は朝の感想について述べた。

「どうだろうな。全員が納得したとは俺には思えなかったけど」

「でも少なくとも受け入れる体勢に入った人たちは増えたんじゃないかな。確実に上方修正されてるよ」

「お前にとっては今のミズカツのほうがいいのか?」

「攻撃的なのよりは、フレンドリーなほうがいいじゃない」

「そうか。俺はな、そうだな、前のほうが好ましかったな」

 意外な巧の感想に、僕は正直驚いた。以前の陰険で粘性の攻撃色をまとったミズカツ先生のほうが好ましいなんて。

「巧はああいう人のどこに魅力を感じるの?」

 若先生にもらったライターを取り出して、両手でもてあそびながら、巧は思案顔になった。

「魅力というと語弊がありそうだから、好ましいレベルが高いと表現することにしよう。前のミズカツと今のミズカツで何が違うか、わかるか?」

 僕は巧の言わんとするところを、頭をひねって考えてみた。実際には頭をひねったりはしない。ちょっとだけ視線を上に向けただけだ。そもそも頭をひねるという行為は、どういう状態を指すのか、僕にはわからない。

「何を基準に違いを見つければいいの?」

「ちょうどいいから、練習してみたいんだ。なんでもいいから気づいたことを挙げていってくれ」

「なんの練習?」

「若先生に近づくための練習」

「ふうん。それなら協力するよ。そうだね、まずさっきも言ったけど、生徒への態度が違うね。攻撃的なのと親しげなのと」

「そうだな、態度が違う。これはノートしておく。ほかには?」

「旦那さんの有無だね」

「ミズカツの発言を信じるなら、そうだな」

 そう、たしかに旦那さんに関しては、ミズカツ先生の口から聞かされた情報がすべてだ。旦那さん云々のことは、先生が適当についたウソかもしれないし、本当に少年みたいな旦那さんを射とめたのかもしれない。

「あとは、そうだね、思いつかないな」

「ああ、そんなもんだな。お前にとっては」

 巧の言ったことの意味がわからなかった。彼にはほかに何か見えているんだろうか。

「いやべつに悪い意味で言ったんじゃねえ。俺のほうがミズカツを長く知ってるし、注意して観察する濃度というか頻度というか、それらも異なるだろうからな。そこから来る差異だろうよ」

 それってもしかして。

「巧さ」僕はおそるおそるきいてみた。「好きなの?」

「その質問にはあとで答えよう。今は先の質問に答えるためのディベートが必要だ」

 とても冷静に言うものだから余計に怪しんでしまう。眉ひとつ動かさず、動揺の様子を尻尾一本たりともも見せない。さっきの質問の答え如何で、巧がミズカツ先生のことをどう思っているのかわかるかもしれない。ちょっと楽しくなってきた。

「わかったよ。次は?」

「まずは態度の違いについて考察していく」

「はい先生」僕はおどけて言った。

「ん、現在、ミズカツは生徒と友好な関係を築こうとして親しみやすい態度をとっている。一見問題ない。だが俺にとっては違う。それは前のミズカツのほうがレベルが高かったからだ」

 それはわざわざ言いなおすほどのことなのかと僕は思ったけど、巧のことだから、何か意味があるんだろう。僕はそのまま耳を傾けた。ちなみに僕は物理的に耳だけを傾けるなんて器用なことはできない、なんて冗談はもういいか。

「以前のミズカツの態度は、それはもうひどいもんだった。お前もその身で感じたと思うが、あれはとても教員が生徒にとる姿勢じゃない。収容所の看守だってもう少し慈愛に満ちていると思えるくらいだ」

 僕は収容所の看守が囚人に対してどういう態度をとるのか知らないからなんとも言えないけど、ひどさを表すたとえとしては適当なんだろう。あるいはジョークなのかもしれない。

「だけど、だからこそ現れるミズカツという人間の本質がこれまでは垣間見ることができた。それは、あいつが本来ああいう人間だからだ。人にきつく当たることで、自分が持つ能力や特性を包み隠すことなく体現できていた。あいつの言葉は意地悪く装飾されて攻撃的に聞こえていたけど、だからこそ、その装飾の裏に隠れた本当のミズカツを窺い知ることができたんだ。普通の小学生、ここで言う普通とは、つまり頭の程度が、ということだけど、あいつらの目には、ミズカツが単なる口の悪い教員に映っただろう。だけど、俺にはわかった。ミズカツの本質がな。その点を俺は評価し、高レベルに認定したんだ」

 僕はどうしても気になってきいた。というのも、自分では考えてもわからなかったからだ。

「巧は意地悪なミズカツ先生が、本当はどんな人だと言っているの?」

 巧はライターの火をつけて、しばらく眺めたあと、ふっと吹き消した。これが質問の答えかと思ったけど、どういう意味があるのかわからない。

「それはな、俺の口から言っても意味はない。気になるんなら、自分で探り当てることだな」

 それはそれで意地悪な気がしたけど、あとで考えたら、巧の真意がわかるだろう。今は深い思考を放棄しているから、わからないだけだ。

「で、結局さ、巧はミズカツ先生が好きなの?」

「おそらくだけど、お前が意図するところの好きとは、違うな」

「だろうね。でも上手い表現が見つからないんだ。なんて言ったらいいかな」

「そうだな、承認ってところかな」

「承認か、それいいね」

「俺が認めるところにいるってことだ」

「そうか。若先生たちと同じステージに立ってるんだね」

「ああ。見えにくいけどな。お前も観察してみろよ」

「わかったよ」

 僕はカバンから有里の手紙と若先生のお守りを取り出して巧に見せた。

「また白紙か」巧は呆れて言った。「芸がないな、あいつも」

「そうだね。でも先にこっちを考えたいんだ」

 僕から若先生のお守りを受け取って、巧は仔細にチェックする。

「若先生がいつも吸ってるのと同じ銘柄だな。これどうしたんだ?」

 僕は河原で若先生に出会ったこと、また、むかしの若先生とのイベントをかいつまんで話した。巧はじっくり集中して僕の話を聞いてくれた。

「そうか。それは災難だったな。お前はもう大丈夫なんだな?」

「うん。もう平気」

「よっしゃ」巧は僕の肩をパンチした。僕もやり返した。これが友情ってやつかな。

「でさ、これどうしたらいいんだろう。僕は巧がライター持ってることに意味があるような気がするんだけど」

「若先生の千里眼がそこまで及んでるかどうかは知らねえけど、よくできたストーリーではあるな」

「そうなんだ。ただね、どうしたらいいかわからないんだ」

「未成年の喫煙をお前はどう思う?」

「ダメでしょ。法律に背く行為だから」

「それだけか?」

「一番大きな理由が違法ってことで、ほかにもあるよ」

「俺はそれが聞きたい」

「巧も重々承知なんでしょ?」

「もちろんそうだけど、お前の言葉ではどう表現されるのかに興味があるんだ」

「そうだね、ええと、次に大きい理由は身体によくないってことだね。でも裏づけはないんだ。実際にどう子供の身体に悪影響を及ぼすかどうか知らないし、調べたこともないから」

「もうふたつくらいか?」

「そう。あと、まわりの目と、僕個人の好き嫌いかな」

「そんなところだよな。ほぼ俺と同じだ。俺も確証はない。身体にどう悪いのか知らねえし」

「未成年の喫煙のメリットは何かな?」

「ひとつしかない。まわりの目だな」

「だよね。子供が喫煙でリラックスできるとは思えないし。実験もできないだろうから」

「結論としては、圧倒的に否だな」

「考えるまでもないね。いや、考えた甲斐はあったかな」

 未成年がタバコを吸う理由は、自分をまわりに見せつけたいんだろう。俺はタバコを吸ってるんだぜ、お前たちよりも大人なんだぜ、なんていう自己顕示欲から来る行為だ。あるいは、やんちゃ欲っていうのかな、不良をかっこいいと思い込んでいる子たちの背伸びだという見方もある。似たようなことをニュースで見たな。成人式で暴れる人たちの報道だ。この場合、なんらかの破壊的衝動も手伝っているんだろうけど、やっぱり根っこには自己顕示欲とかやんちゃ欲が隠れていると思う。いずれにしても、そういう人たちは、自分に正直なんだ。その結果、法に背こうとまわりに迷惑をかけようと、自分を優先するんだ。

 なんだかそういう人を知っている気がする。すごく身近にいるような。

「彼らには正義があるのかな」僕は思ったことをぽろっと口にしてしまった。

「彼らって?」巧がきいた。

「タバコを吸う子供とか、他人に迷惑をかける人、とか」

「なんだか含みのある言い方だな。頭の中に固有名詞でも浮かんでるんじゃないのか?」

「そうだとしてもさ、僕にはわからないんだ。彼らがどんな正義を行使して悪の道を走っているのか」

「俺の意見だけど、そいつらの正義ってのは、幼稚なもんだろうよ。もしかしたら私欲と勘違いしてるかもしれねえんだからな」

「つまり自分勝手ってこと?」

「ああ。誰もが自分の行動に正義を持ちだしてるわけじゃないしな」

「でも、少なくとも、有里は」

「それはお前がきけばいいだろ? 俺にもわかんねえからな」

「そうなの?」僕は巧が有里の本心を知っているものだと思っていたから意外だった。

「正直なところ、謎だ」巧の表情は微妙だ。神妙というか、怪訝というか、とにかく形容しがたい顔をしている。「最近のあいつは俺にも理解できないな」

「やっぱりちゃんと話をしないとね」

 神社で会ったとき、有里を問い詰めることが僕の頭をよぎったけど、言えなかった。なんとなくそのときじゃないと感じたからだ。

「火をつけてみようぜ」巧が急に提案した。

「それに?」僕はさっきの話を考えながら、巧の持つ若先生のお守りを指さす。

「ああ。アイテムは使うか装備するかで、はじめて効果が現れるんだ」

「持ってるだけじゃ役に立たないだろうし、そうだね」

「じゃあ俺がライターでお前がお守りな」巧は僕にお守りを渡す。僕はしっかりと握り、先を巧に差し出す。もちろんくわえたりはしない。

「見つかると、言い訳が苦しいね」僕は冗談のつもりで言った。でも見つかったら冗談ではすまないことはわかっている。

「よく考えたらわざわざ学校でやることもないよな。帰りにどっか寄ってくか?」

「うん、でも、今試したいんだ」どうして今すぐやりたいのか、自分でもわからなかった。ただ、僕の中で今がそのときだ、という意見が大半を占めていたんだ。

「わかった。とりあえず見つからないようにな」

 僕たちは身体を使ってできるだけ手元を隠して身を縮めた。巧はライターの火をつけて、タバコに火をつけた。

 先端の紙が赤く光り、中のタバコ葉が燃える。煙が立ち上り僕たちの頭上をゆらゆらと白く染めていく。慌ててふたりでばたばた払ったけど、煙はいくらでも立ち上っては、のろしのように僕たちの存在を外に知らせている。

「もう消すか?」巧は早口になっている。

「そうだね、何もないみたいだし。ああ、やっぱり魔法は使えないなあ」

「どんな魔法使いもタバコを呪術の道具にしたりしないだろ」

「でも若先生は使ったよ」

「若先生が魔法の存在を認めたのか?」

「不思議が起こせたらね、それは魔法だって」

「俺たちにはまだできねえんだろうな」

「そうだね」

 僕は地面にタバコを押しつけて、火を消した。

「おいっ、お前!」巧が思わず叫ぶ。

「ああ!」僕も自分でびっくりした。

 有里の手紙はタバコを押しつけられたところに穴が空いていて、そのまわりがちょっと焦げてしまっていた。僕はうっかり有里の手紙を火消しに使ってしまったんだ。


62

 教室に戻ってから、巧と僕は身体を固くさせながら緊張の糸を張り詰めていた。

「においするか?」

「たぶん大丈夫だと思う。僕は?」

「大丈夫だ。手は洗ったか?」

「うん、石鹸使ったからもうにおわないと思うけど、どう?」

「ああ、問題ない」

 僕たちは席について、お互いのにおいに細心の注意を払っていた。それにしてもタバコがあんなにもにおいを発するものだったなんて、全然知らなかった。

 若先生がとなりで吸っていたときは、においなんて全然気にならなかったんだけど、自分で使ってみると、こんなにもまとわりつくなんて。なんでだろう。まるで、煙がタバコを持っている人間を主人と認めてひっついて離れないみたいだ。そのせいで、身体中タバコのにおいがついてしまったんだけど、手を洗って、髪の毛をぼさぼさになるまで掻きむしって、服のにおいがとれるまで校舎裏を全力で走り続けた。おかげで今はなんとか自分たちでもわからない程度ににおい落としすることができた、と思う。

「とにかく何か嗅ぎつけられても、とぼけとけばいいんだ。証拠は処分したし、見つかる可能性もかなり低いだろう」

「そうだね。早く授業はじまってほしいな。そしてさっさと放課後になってほしいよ」

「時間ってのは、祈れば祈るほど、遅く進むもんだって、若先生が言ってたぜ」

「珍しいね。そんな根拠のない非科学的なこと、若先生が言うなんて」

「ああ、でもよく言うフレーズだろ? だから統計的に人を主体として考えたら、そう感じる人の数で、仮定は真となるわけだ」

「それも若先生のまね?」

「なかなかうまくいかねえな。文章を構成するってのは経験に基づいてるみたいだ」

「語彙も大事だよね。あれってどうやったら身につくのかな?」

「一般的なのは、本を読むことだろうよ。あるいは百科事典でも食べたらどうだ?」

「火を通せないから生食だね。まずそうだなあ」

「不思議なもんだな。紙は草からできてるのに食べられないなんてよ」

「肉だって焼きすぎて炭になったら食べられないよ。世の中には何か作業を加えることで、まったく違うものに変わるものがあるんだね」

「関数みたいだな」

「本当だ。関数みたい」

「面白いな」

「面白いね」


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 昼休み明けの五時間目はとても長く感じられた。まだ僕たちは緊張していたからミズカツ先生の頭上にある時計を睨んでいたんだけど、そのせいかもしれない。おかげで授業内容はまったく頭に入らなかった。

 それ以降はなんだかにおいのことが気にならなくなって、あっという間に放課後になった。終わりの会でもミズカツ先生はフレンドリーだった。これからはあのキャラクターで行くつもりらしい。となると、僕は困る。ミズカツ先生の本質を観察することが難しくなるからだ。

 巧と僕は隠れるように校門まで早足で歩いていって、学校の北側にまわった。僕たちの校舎の北に面している金網に沿って歩いていくと、昼休みにくくりつけておいたビニル袋を無事見つけた。

「よかった、あって」

「そりゃ誰もとったりしないだろうからな」

 僕は袋を回収して、北へと進んでいった。

「どこか公園でもう一度試してみるか」

「こっちに公園あるの?」

「このへんにはな、コンビニ感覚で公園があるんだよ。できるだけ知り合いがいなさそうなところがいいからな、ちょっと歩くぞ」

 信号を渡り、市バス車庫をすぎて、五分ほど歩いていくと、住宅街の真ん中にぽかんと開けた空間があり、そこに空から降ってきたみたいに公園が置いてあった。

「かにがさか公園?」名前を読んで僕は笑ってしまった。変な名前だ。

「この坂を上がっていくと、公立中学校がある。かにじゃなくて中学生が登る坂なんだな。俺たちの学区だと、来年はここに通うことになる」

「巧は公立に進むつもりなの?」

「ああ、なんか変か?」

「てっきりどこかの私立を受験するんだと思ってたから」

「学校なんてどこでも一緒さ。環境に影響されるほど、俺は馬鹿じゃないからな」

「そうなんだ」

 中学も巧と一緒なんだ。それは朗報だ。できれば有里も一緒がいいけど、中学どうするんだろう。私立を受けたりするのかな。

「有里もたぶん一緒だぜ。俺たち受験なんてするつもりないし、そのための準備だって何もしてないからな。まああいつが俺に隠れて受験勉強を進めてないって保障はないけどな」

「どうだろうね。私立はいろいろ厳しくてうるさそうだから、有里は行かないんじゃないかと僕も思うけど」

「そうだな」

 僕たちはジャングルジムと滑り台が合体したような遊具に身を隠して、袋の中身を取り出した。有里の手紙にはやっぱり焦げ穴があいたままだった。

「先に有里の手紙をあぶってみるか」

「そうだね」

 前回と同様に、まずライターで有里の手紙をあぶってみた。これでダメなら水につけるつもりだったけど、今回は文字が浮かびあがってきた。火で正解だったみたいだ。

「変化をつけてきたね」

「凝ってるな。あいつのアホさには言葉もねえよ」

 手紙にはこう記されていた。

 五月二日を待て。

「今度は日付指定か。五月二日っていうと、もろゴールデンウィーク中だな。あいつ休みの日までやっかいになるつもりか」

「どうして知ってるんだろう」僕はつぶやくように声をもらした。

「何を?」僕の様子を怪訝に思ってか、巧がきいた。

「二日はね、僕の誕生日なんだ」

「もうあいつストーカーみたいになってきてねえか」

 ぱっと見の印象はたしかにそうだ。言った覚えもないのに僕の誕生日を知ってるし、当日に何かやらかそうという魂胆はまるわかりだ。ただ、つけまわすんじゃなくて、手紙で僕たちを誘導している点において、ストーカーとは一線を画すものがあるだろう。

「とりあえず有里の件はこれで棚上げだね。誕生日がさらに楽しみだよ」

「お前そんなに誕生日が待ち遠しいのか?」

「というのもね」

 僕は神社で見た誕生日の夢を巧に話して聞かせた。有里に話した表面的なものじゃなくて、全体にストーリーを持たせて、過去の誕生日の悲惨と具体的な出来事、さらに僕の気持ちまで詳細に伝えた。

「俺も一度見てみてえな、お前の母親をさ」巧ははっはと声を出して笑った。

「見た目は普通だよ。話すとその特異性があらわになるかもね」

「お前は変な女に縁があるな」

「うれしいかぎりだよ」

 ふたりで笑いあっていると、坂の上から中学生らしき子たちが下りてきて、向こうの広場でサッカーをはじめた。若先生のお守りをもう一度試そうと思ったけど、人目につくといけないから、もう諦めて捨ててしまうことにした。

「残念だなあ」僕はゴミ箱にお守りを袋ごと放り込みながら呟いた。

「仕方ねえさ。俺たちに魔法は使えねえ」

そして、どちらからともなく、僕たちは公園をあとにした。


64

 そのまま巧と一緒にレオンハルトに顔を出すと、談話室ではほかの学校の生徒や老先生の会話でにぎわっていた。僕たちも空いてる席に腰を下ろしてお菓子とジュースをいただいた。

 せんべいをお茶うけに麦茶を飲んでいると、有里が談話室に入ってきた。まっすぐに僕たちのテーブルに歩いてくる。僕と巧の姿を認めて、開口一番言った。

「五月二日は何してる?」

「五月二日は有機生命体じゃないから、行動の予測は無理なんじゃねえかな」そう言って巧は笑った。

 有里は巧の冗談を無視し、まっすぐ僕を睨んでいる。僕は巧に目線を配ってから応じた。「その日は僕の誕生日なんだ」

「そう。で、何してる?」

「毎年、母さんがイベントを催してくれるんだけど、今年はどうかな。たぶん何かあると思うけど」

「自転車持ってる?」

 脈絡のない質問に多少狼狽したけど、なんとか答えることができた。

「ううん。持ってない」

あからさまに聞えよがしに、有里は舌打ちをした。ちょっと悪っぽい。僕は有里から距離をとった。

「巧、コーラ取ってきて」急に会話の対象を変える有里。「はいはい」と言って巧は立ちあがって冷蔵庫のほうへ向かった。

 有里は巧の座っていた席について、僕の目をじっと捉えた。

「こないだ神社で誕生日の夢を見たって言ってたわね。具体的にはどんな夢だったの?」

 正直に言うのは恥ずかしかったので、僕はそこにいた人間とケーキとプレゼントをもらったことだけ話した。そして、友達と一緒に誕生日をすごせたことがうれしかったんだという旨も説明した。どんな話があったとか、プレゼントに何をもらったかは言わなかった。

「私は何をあげたの?」

 恥ずかしい部分を指摘されて、僕は返事に詰まった。正直に答えると、まるで要求しているみたいにとられてしまう。

「夢の中の登場人物ってさ」とっさに思いついた疑問を有里にぶつける。「僕とは別人格なわけだから、彼なり彼女なりがどういう行動をとるのかってわからないよね」

「それが質問の答えなの?」有里の声には少し苛立ちが混じっている。

「でもその世界は僕が構築したわけで、登場人物も僕がつくり出してるんだ。でも、彼らは僕が思いつきもしない行動をとって僕を驚かせることがある。つまり、僕から彼らは独立しているんだ」

 有里の視線は僕の口あたりに集中している。漏れだす言葉を熱視線で焼き尽くした上で、舌すら焦がしてしゃべれなくしてやると言わんばかりの目つきだ。

 でも僕はめげずに言葉を投げ続ける。

「独立した上で好き勝手やってるわけだけど、僕がつくり出したっていう事実は変わらないよね。だから僕の一部が彼らに反映されて、どこかに生きてると思うんだ。だとすると、彼らの行動には僕にとって意味があることになる。どこか望んでいるように動かすようプログラミングされてるというか。ええと、たとえば、たとえばだよ。好きな女の子が夢に出てきて、一緒に学校から帰ったり、どこか一緒に出かけたり、その、仲良くなったり」

 後半の言葉を聞いて、有里の顔が思い切り歪んだ。顔全体で不思議がっている気持ちを表している感じ。学校中の「何言ってんのこいつ」という気持ちを鍋で煮込んで一気飲みしたみたいな顔だ。

「なんの話してんのよ」冷たい声だ。

 有里の態度を受けて、どうやらたとえを間違えたことにようやく気づいた。好きな女の子じゃなくて、猫が関西弁でしゃべるとかにすればよかった。

 巧がちっとも戻ってこないので怪訝に思い、部屋を見渡してみると、いつの間にか姿を現していた若先生と一緒ににやにやしながらこっちを見ていた。なんで戻ってこないんだろう。それになんだ、あの表情。冷蔵庫に入れたアイスクリームみたいにとろとろじゃないか。気持ち悪いな。

「君はね、プレゼントとして本をくれたんだ。変な本でね、表紙が真っ白で何も書いてない。中もまっさらなんだよ」

「へえ。私はどういうつもりでその本をあげたのかな」

「それはわからない」

「嘘ね」有里はぴしゃりと言った。

 事実を突かれて僕は動揺した。態度には出さなかったけど、内心では警戒アラームががんがん鳴っている。うまくごまかして切り抜けるための策を講じる必要があったけど、いい案が浮かばない。

「なんでそう思うの?」とりあえず時間稼ぎの疑問を投げかける。

「勘よ。そんなこときくんだから、当たってるのね」

 どうしたらいいんだろう。そもそもうそをつくべきじゃなかったのかも、と今後悔しても遅い。正直に答えるには恥ずかしすぎる。

「ねえ、さっき夢の中の登場人物の話をしたよね」

「伏線のつもりだったんだろうけど、無駄よ」有里の言い方には問答無用の響きがある。「ちゃんと言って」

 瞬間的にすべてを悟った。嘘はつけない。本音は言えない。僕は袋小路に追い詰められている。まわりの雑談の声が異常に大きく聞こえてきて、頭がくらくらした。

「ごめん、トイレ」すばやく立ち上がり、有里の視線から逃げるように談話室を出た。出る際に、巧と若先生が僕に落胆の表情を向けているのが視界の端に入った。

「あーあ、逃げちゃった」

トイレの中で便座に座って自分を責めた。今の僕はトイレの排水溝に流す価値もない臆病者だ。

 どうして言えないんだろう?

 もちろん恥ずかしいから。

 どうして恥ずかしいんだろう?

 本音を言って、有里の反応を見るのがこわいから。

 どうしてこわいんだろう?

 本当のことを知るのがこわいから。

 どうして本当のことがこわい? お前は転校初日の挨拶で言ってたじゃないか。

「僕は本当のことが好きです。本当かどうかわからないことがあったら僕に教えてください。一緒に考えましょう」

 人に言っておいて自分で実行しないっていうのはどうなんだ? 正しいのか? お前の正義はそれを許すのか?

 心の中で自分の言葉に打ちのめされて、便座から立ち上がれず、僕はひたすら自分を痛めつけた。鉈で殴られるような、鈍い痛みだ。

 本当に、急だった。

 急に周辺の音が聞こえてきた。

 異常によく聞こえる。

 廊下の床がきしむ音。ドア二枚向こうの談話室の話し声。

自分の息遣い。

吸って、

吐いて、

筋肉の収縮。

縮んで、

伸びて、

なんだこれ?

血の流れる音。

んーんーって。

心が不安定になる。どうしようもなく不安になる。

聞こえるものすべてが僕を不快にする。

原因がわからず、その場で息を続ける。まるで、それだけしかできないみたいに。

こんなこと、はじめてだ。


65

 しばらくトイレにこもり、じっとしながら目を閉じていると、自分が涙を流していることに気づいた。足元のスリッパに水滴が落ちた。ドアの向こうから「誰か入ってんのかよ」と声が聞こえた。今の僕の耳は、僕の意思と無関係にどんな小さな音でもキャッチできるほどに研ぎ澄まされていた。耳はどんな足音も拾い、どんな衣擦れも察知し、不躾に僕の脳に届け続けた。僕は自分の気配を消していた。鍵はかけてあるから姿を見られる心配はない。僕はひとりになりたかった。

 授業の時間になっても僕は出ていかなかった。というか立てなかった。一挙に押し寄せた不安の波は、今や心の大勢を支配していて、考えることすらままならない。誰かに助けてほしいと思ったけど、誰も僕を助けられない。ふさわしい人間がいない。

 これまでで最大級の孤独を感じた、そのとき、

「正宗君」

 朗々とした声がトイレに響いた。僕の耳にしっかり届いたその声の持ち主は、トイレのドアをとんとんと叩いた。

 僕はスリッパに隠れている足の指を動かしてみる。靴下越しに、スリッパの冷たさを感じた。試しに両足に力を入れて立ち上がってみる。うまく立てた。そのまま左手を伸ばしてドアの鍵をはずす。僕が開く前に、ドアが開き、声の持ち主が立っていた。

「老先生」

僕の声はとても小さく消え入りそうでかすれていて、老先生の耳に届いたかどうか不安だ。よく聞こえるかわりに、うまくしゃべる能力を奪われてしまったかのようだ。

「授業は御手月がやっておる。私と一緒においで。外を散歩しよう」

 老先生の伸ばした手を僕はとり、引かれるようにして玄関から外に出た。



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