目次
ユークリッド-Eukleides-
1
2
3
4
5
ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
6
7
8
9
10
ピタゴラス-Pythagoras-
11
12
13
14
15
ルネ・デカルト-René Descartes-
16
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18
19
20
アルキメデス-Archimedes-
21
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23
24
25
レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
26
27
28
29
30
ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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33
34
35
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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39
40
アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
41
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43
44
45
ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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48
49
50
ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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63
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65
ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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67
68
69
70
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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73
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75
ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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92
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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58

 食事を終えて、空いたお皿を重ねてシンクに置く。食器かごに水を貯めて、スポンジに洗剤をつける。お皿を食器かごに入れて汚れを落とす。この作業のレベルは、もはや主婦の域だ、と僕は勝手に思っている。

「この調子で正宗くんにはどんどん私のいいところを吸収していってほしいと思います」

「じゃあ運転技術はほかの誰かを参考にするよ」洗いものを終えて、僕は冷蔵庫から牛乳を取り出す。グラスに注いで一口飲んだ。

「嫌味が上手いのは誰に似たのかしらね。私じゃないでしょ」

「たぶん違うね。それに嫌味のつもりはないんだけど」

「正宗くんね、そういうのむやみやたらに言い散らかしたらダメよ。言葉で傷つく人って本当にいるんだから」

「そうなの? 単なる噂だと思ってたよ」

「正宗くんだって何かひどいこと言われたらいやでしょ、馬鹿とか」

「僕は馬鹿じゃないから、相手の非を訂正すると思うな。あ、でもさっき馬鹿って言われたよ。でも訂正もしなかったし、傷つきもしなかった」

「誰に言われたの?」

「有里に。神社でたまたま遭ったんだ」

「ほう、興味深い」突然妙な言いまわしをするものだから、僕はちょっと面くらった。

「どうしたの?」

「その小娘が正宗くんを馬鹿呼ばわりしたわけね。どうしてそいつはそんなこと言ったのかしら」

「うーんとね」

僕は、神社の芝生で寝転んで眠ったところから、有里と並んでおしゃべりしたところまでを母さんに話した。夢を見たこととその内容については触れなかった。話してしまうと、実現する可能性が失われてしまうような気がしたからだ。

「と、まあこんなところかな。たぶん僕が怒らなかったのを馬鹿って言ったんだと思う」

 じっと僕を睨みながら聞いていた母さんは、いすに背を限界まで預けて大きくのけ反った。ぼきぼきと骨の鳴る音が聞こえた。異常に大きかったから、一瞬いすを壊したのかと勘違いしてしまった。自分でもびっくりしたようで、「おお」と言いながらあわてて背もたれから離れた。

「なるほど。その場合の馬鹿には特に深い意味はないわね。しゃくだけど、許してやるわ」

「よかった」

「それよりも」母さんはぐいっと顔を突き出して僕を見る。動きが素早いからいちいちびっくりする。「気になることがあるんだけど」

「どうしたの?」

「なぜ小娘が偶然にも正宗くんに出会ったのか」

「今日の話?」

「そうよ。はじめの出会い、つまり転校先にたまたま小娘がいたってのは、説明のつかない、回避のできない、どうしようもない偶然だからいいんだけど、今日のことは、偶然と呼ぶには弱いの。ちゃんと説明がつくからね」

「どんな説明?」

「ひとつだけあるの。正宗くんと小娘が神社で顔を合わせたのは、偶然じゃなくて、必然だったのよ。つまり、小娘は正宗くんをつけていて、神社で正宗くんが休憩していたところへ何食わぬ顔して現れたってわけよ」

 たしかにとなりに座っていた有里は、何食わぬ顔をして僕の焼き餅を食べていた。その点は正しいかもしれない。でも僕をつけていたという点には納得がいかない。

「もし本当だとしたら、どうして有里は僕をつけたりするんだろう」

「はあ?」そう言った母さんの顔は今までに見たことのないものだった。口の片方を針で引っ張られたようにつり上げ、僕を見据える両目は全力で人をへこませるだけの力が込められていて、よく見ると嘲笑気味の笑みも含まれているようだ。「正宗くん馬鹿なの?」

「いや、馬鹿じゃないよ」僕は否定した。馬鹿と言われても何も感じない。ただ相手が間違っているから訂正してあげたいと思うだけだ。有里のときはすっと言葉が出てこなかったんだけど、母さんにはすらりと言えてしまう。

「いや、わかってないとしたら、本当に馬鹿よ。小娘のことは腹立つけど、その点に関しては憐憫の情を抱いてやってもいいわね」

「客観的に観察するとね、説明できるよ」僕は牛乳を飲んだ。「有里が僕に好意を持っているということだね。距離を縮めて親しくなるために、僕のあとをつけて接触を図ったわけだね」

「なんだ、わかってるんじゃない。でもそれを主観的に見れないのはどうして?」

「それは、自分でもよくわからないんだけど、できないというよりしたくないんだ」

「正宗くんの中の何かがそうさせてるわけね。その正体は自分でわかってるの?」

「その、不合理性を許せないんだと思う」

「でも人を好きになるっていうのは、もれなくそういうものよ。理屈じゃないの。正宗くんの中で恋愛の解釈を改めないとダメよ」

「いやその理屈はわかるんだ。わかるっていうのは理解できるってことだよ。ただ、飲み込んで消化することに抵抗があるんだ」

「正宗くんもまだまだね。準備ができてないのよ」

「そうなのかな」

「そうよ。経験者の私が言うんだから間違いないわよ」

「母さんもこの不合理性を乗り越えてきたの?」

「恋する乙女はね、そうした苦難を乗り越えて乗り越えて、大人になるの」

 微妙に母さんと僕の間で認識に誤差があるように思えたけど、言葉に還元して説明するのが難しかったから、そのことは言及しなかった。

 母さんの主張は、ままならない恋心を持て余している自分を乗り越えて大人になる、というもので、ようするに経験の蓄積が問題の解決につながるんだ。

 でも僕が思うこの不合理性とは違う。有里が僕を好きだとは思わないし、僕も有里が好きなわけじゃない。有里の行動に、好意という気持ちがもっとも説明がつくからといって、そうだと決めつけてしまうのは早計だと思う。母さんの言う通り、偶然じゃないだろう。でも好意じゃなくてほかの何か。あいにく、日本語にはこの気持ちを表す言葉はないみたいだ。あるいは単に僕が知らないだけかもしれない。

「もしね、頭の中がもやもやしてすっきりしないならね」あごを片手でさすりながら母さんは言う。ひげはないと思うけど。「小娘と話してみることね」

「うん、そうなんだけど、べつに何もきくことがないんだ」

「小娘のことで何か気になることがあるんじゃないの?」

「僕は有里のことが好きだよ。巧と同じようにね。つまり、そういうことだと僕は考えてる」

「ほんとに?」

「新しい情報が入ってこないかぎり、気持ちは変わらないと思う」

「じゃあ話してみたら何か変わるかもね」

「母さんは僕に変わってほしいの?」

「小娘のことは嫌いだけど、これは私じゃどうしようもないことだから。私じゃなくて、ほかの誰かよその女の子と一緒にね。ああむかつくわね」

「むかつくのはどうかと思うけど、母さんの言いたいことはわかったよ。僕に恋愛してこいって言ってるんだね。そして成長しろって」

「なんだ、やっぱり馬鹿じゃないのね。さすが私の正宗くん!」

 それほど感心することだろうか。話の流れから自明なことなのに。そう思ったけど、何も言わないことにした。


59

 月曜になり、僕の誕生日まで一週間を切った。

 なんだか学校が久しぶりに感じる。土日の出来事が普通よりも濃いものだったからだろうか。

 校門に着くまで、僕は神社で見た夢について考えていた。思い出しただけでうれしくなってくる。現実になってくれたら、こんなにうれしいことはない。僕が今一番望むことはこれだな。誕生日プレゼントに、夢の実現を、僕は望む。

 教室に入って中を見渡す。巧も有里もすでに登校していて、それぞれ自分たちの席についていた。僕はまっすぐ自分の席に向かった。

「よう」巧が僕に気づいて声をかけてきた。

「おはよう」答えて席につく。カバンを置いて、巧のほうを振り返った。

「あのさ、有里と若先生のことで話があるんだ」

「うん?」

「あとでゆっくり話すよ。あと、今日若先生にもらったライター持ってきてる?」

「ああ、カバンにずっと入れてるからな」

「よかった。あとで使わせてほしいんだ」

「いいぜ。有里の件だな」

「うん。それもあるけど」

「若先生も絡んでるのか?」

「そうなんだ。ちょっといろいろ危険だから、慎重に事を進めないと」僕は少し真剣な顔で言った。

「あんまり有里に毒されるなよ。守らなけりゃいけない一線ってのがちゃんとあるんだぜ。まあお前ならわかってるだろうけど」

「もちろん、重々承知だよ」

「今日の昼休みは、教室で牛乳飲みながらゆっくりってわけにはいかなさそうだな」

「うん。だから昼食と一緒に飲んじゃって」

「わかった」

 ミズカツ先生が入ってきたところでちょうど話が終わり、僕は前を向いた。


60

「はーい、席について。てゆーか、早く座れー」

 なんだ、あの話し方。

 ミズカツ先生が普通じゃない。いつもの張り詰めた雰囲気がまるで感じられない。緊張の糸がぷつんと切れて結び直すことも諦めたような清々しい印象だ。

「朝の会はじめるわよー。まあ、あんまりネタないけどね」

 あからさまに変なミズカツ先生の態度にみんなもざわついている。どよどよという擬音語が教室を漂っている。

「もうすぐゴールデンウィークですねえ。こんな連休は夏休みまでないから、ゆっくり休養をとってね。受験する人はそれなりにがんばって」

 ゆるゆるだ。ミズカツ先生の言葉だけじゃなくて、本人がかなりゆるんでいる。土日に何かあったのかな。それにしても受験生に対して「それなりに」はないだろう。

「学校から離れてしばらくリフレッシュしてちょうだい。でもフレッシュしすぎて悪に手を染めたらダメよ。タバコとかお酒とかね」

 僕は動揺を隠さないよう、あえてミズカツ先生をじっと見つめた。身体が自然とこわばって引き締まる。できるだけ視線に意味と存在を持たせずに気配を消して。

「私のクラスにそんな極悪人はいないと思うけど、一応釘を刺しておかないとね。私があとで、だから言ったでしょ!って言えないから」

 正直に話しすぎだろう。自分の都合をそんなにもあからさまに打ち明けられると、反抗心で本当にやってしまう子が出てくるかもしれないじゃないか。

「海外とかに遠出する人は飛行機事故に気をつけてね。今の世の中、何があるかわからないから。あと私におみやげ買ってきてね」

 もはや朝の会で話すべきことから逸脱している。だいたい飛行機事故をどうやって気をつけたらいいんだ? 僕らが気をつけたら回避できるとでも言うんだろうか。それに旅行に行って担任におみやげを買ってくる小学生はめったにいない。たぶん全国に三人くらいだろう。その三人は担任と親族関係であるに違いない。

「とにかく、来るゴールデンウィークを楽しくすごしてねってこと。でも今から浮かれて今週の学校生活を疎かにしてはダメよ。いいわね?」

 どうやらみんなの「はーい」という返答がほしいらしい。でも誰も素直に答えなかった。もう少し自分の変化が与える影響を考えてほしい。

「まあいいわ。あ、そういえば挨拶するの忘れてた」ミズカツ先生は、いやーうっかりでしたよ、と世間話でもするみたいに気さくに言った。僕もまったく気づかなかった。気づく余裕がなかった。

 有里に目を向けると、頬杖しながら呆れたようにミズカツ先生を見ていた。おそらくすべてに呆れているんだろう。

「号令係の人、今からやって」ミズカツ先生も有里のほうを見た。

「先生」有里が手をあげて発言した。珍しい。今日は晴れだけど、午後から槍でも降るんじゃないか。

「なあに?」

「何かいいことでもあったんですか」

 有里に言われて、ミズカツ先生は顔をこれでもかとゆがめて、人間にはこれ以上は無理だろうと思われるほどの笑顔をつくった。

「わかるー?」

「その異常なテンションを目前にすれば、サルでもわかるんじゃないですかね」有里が言うと、教室内にくすくす笑いが起こった。僕もちょっと笑ってしまった。

「異常だなんて、私は普段通りよ」

 さっきより一層教室内が騒がしくなる。「えー」「うそつけよー」「キモい」などの言葉が遠慮がちに飛び交う。有里が突破口となって、みんなに発言する勇気が湧いたんだ。

「まあまあ。本当の私はこんなもんよ。たしかに今までこの学校に来てからはちょっとふさぎ込みがちというか、暗い印象があったかもしれないけどね。それは嘘偽りの姿で、これが本当の私。ナチュラルビューティよ」

 いやビューティは関係ない。なんだか母さんと同じ空気を感じるけど、一緒にしたくない、と僕の一部が主張した。

どうやら自分でも意識があったらしい。僕のミズカツ先生の印象は、はじめて職員室で会ったとき最大瞬間風速を記録して、以降テレビゲーム大好きの小学生の視力並みに転げ落ちていった。何度じつは無免許教師じゃないんじゃないかと疑ったかわからない。

 それが最近になって、印象が変わりはじめてきている。すぐに塗り替えられるほど、信用はしてないけど、まったくの邪悪教師ではない、ということは最近わかった。有里の窓ガラス事件のときのスピーチがきっかけだ。

 それにしても、何があったんだろう。去年赴任してきたらしいから、一年近くも何に悩んでいたんだろう。有里の質問から何かヒントが得られるかも、と思い僕は注目した。

「私ね、私生活で最近いいことがあったの。それまではつらくてつらくて、そりゃいくら好きな仕事でもふさぎこむわよ、ってなもんで、みんなに厳しくあたってたかもしれないけど、もう大丈夫よ。今までごめんね。いえ、ごめんなさい」そう言って教壇でみんなに向かい、ミズカツ先生は深々と頭を下げた。

 急に謙虚になられると、正直むずかゆい。みんなもそわそわしている様子だった。真摯な謝罪をどのように消化していいものやら、わからないんだ。

 またむずかゆい一方で、そうもあからさまに私生活が仕事に影響するのもどうかと思う。これまで自分のイライラを僕たちに投げつけてきたというわけだ。それを今ごめんなさいの一言で許してもらおうなんていうのは、少し虫がよすぎるようにも思えるけど。

 有里がまた手をあげた。

「そのいいことをここで発表してくれたら、私を含め、みんな先生を許しましょう」

 ほとんど強迫に近い。有里は何か個人的な恨みでもあるんだろうか。自分の声の大きさにいちゃもんをつけられて、半強制的に号令係にされたことを根に持っているとか。

「それは面白いね」「ちょっと聞きたいかも」「どうせくだらねえことだろ」とみんなも賛成の声を上げはじめる。これではミズカツ先生も断るわけにはいかないだろう。どんな状況でも、多数者が優位に立つのは、この世の法則みたいなもんだ。選挙なんかでも多数決が採用されてるし。

「それはまた刺激的な提案ですね。そんなに私のエピソードが聞きたいの?」

 巧がうしろで「あいつはミズカツを辱めたいだけだろうな」とささやいた。僕もちょっとそう思う。

「聞きたいでーす」みんなが声を揃えて返事をする。これがはじめてじゃないかな、ミズカツ先生の問いかけにみんなが答えたのって。

「仕方ないわね。じゃあ軽く触りだけね」にやにや顔を隠すように、ミズカツ先生は僕らに背を向けて黒板に何か描きはじめた。誰かの似顔絵らしい。白チョークの細い線が深緑色の黒板に踊るように広がっていく。そういえば、どう見ても緑色なのに黒板とはこれいかに、と小学校に入学したとき感じたのを思い出した。なぜ真っ黒じゃダメなんだろう。

 多少気がそれた間に、ミズカツ先生は黒板に似顔絵を描き終えていた。なんだか少女マンガチックだ。無駄な線が少なくて、目が大きく輝きがある。髪の毛が顔を覆うように丸く包んでいるから子供に見える。性別はよくわからない。絵自体は上手いけど、情報を正確に伝える機能は優れていない。いったい誰だろう?

「これは私の旦那様です。そう、このたび私ミズカツ先生こと桂恵美は、結婚することになりました! はい、拍手しろ!」ミズカツ先生はそう言って自分で教卓をばんばんたたきはじめた。突然の衝撃発表の上、手をたたく音があんまりうるさいから、みんなは乗り遅れてしまって、「おめでとうございます」の言葉も呑み込んで旦那さんの絵とミズカツ先生を交互に見比べている。

「みんな拍手してよ! 私を祝福してよ!」必死な声で抗議するミズカツ先生。

「いやめでたいですね」「おめでとうございます」「旦那さんかっこいいですね」「あれ学生じゃないの?」「どこでたぶらかしたんだろう」「ミズカツには男を引きつけるパーツがついてないのにな」「あわれな青年。熊の罠に全裸で飛び込むようなもんだぜ」「あれ私のお兄ちゃんに似てる」「じゃあお前ミズカツと法的に姉妹になるんだぜ」「でもお兄ちゃん今高二だよ」「完全犯罪だな」

 祝福の言葉とけなす言葉が入り乱れてかき混ぜられ、教室内は混沌の渦中にある。僕は窓際うしろから二番目に座っているから、渦に巻き込まれる被害は少なくて済んだ。

「結婚だって」僕は巧へと振り返った。

「そうらしいな」巧の表情がよく読めない。「それにしてもあの絵はひどい」

「どんな旦那さんなのか、あれじゃわからないね」

「さすがに学生じゃないだろうけど。でもミズカツにかどわかされるなんて馬鹿なやつだ」

 かどわかされるってどういう意味だろう。角を湧かされるのかな? でもこれじゃ意味が通らない。

「はーい、みんな落ち着いて」混乱の教室にミズカツ先生の声が響いた。「お祝いの言葉をくれた人、ありがとうね。旦那をけなしたり私の絵画スキルを疑った人、図工の成績どすんと下げちゃうから」

 ミズカツ先生のユーモアは独特だ。もしかしたら本当かもしれないという不安と、まさかね、という楽観がくんずほぐれつで頭の中でじたじたしながら、次第にその滑稽さがあらわになってくる。僕は笑ってしまった。

「とにかく」ミズカツ先生は仕切り直す。「私は結婚します。それが最近あったいいことよ。納得した?」

 僕は納得した。でも有里はどうだろう。

 有里はもう何も発言しなかった。僕の席から見える有里の後頭部は、静寂のオーラを発していて、まるで風林火山の林を体現しているみたいに見えた。

「みんな納得してくれたみたいだし、これで話は終わりね。新しい私と一緒にこれから楽しく学校生活を送っていきましょう!」


61

 昼休み。僕と巧は校舎裏に息をひそめていた。実際はしっかり呼吸していたし、そもそも息をひそめるという呼吸の仕方がどういうものなのか、僕にはよくわからない。

「ミズカツ先生、大丈夫そうだね」僕は朝の感想について述べた。

「どうだろうな。全員が納得したとは俺には思えなかったけど」

「でも少なくとも受け入れる体勢に入った人たちは増えたんじゃないかな。確実に上方修正されてるよ」

「お前にとっては今のミズカツのほうがいいのか?」

「攻撃的なのよりは、フレンドリーなほうがいいじゃない」

「そうか。俺はな、そうだな、前のほうが好ましかったな」

 意外な巧の感想に、僕は正直驚いた。以前の陰険で粘性の攻撃色をまとったミズカツ先生のほうが好ましいなんて。

「巧はああいう人のどこに魅力を感じるの?」

 若先生にもらったライターを取り出して、両手でもてあそびながら、巧は思案顔になった。

「魅力というと語弊がありそうだから、好ましいレベルが高いと表現することにしよう。前のミズカツと今のミズカツで何が違うか、わかるか?」

 僕は巧の言わんとするところを、頭をひねって考えてみた。実際には頭をひねったりはしない。ちょっとだけ視線を上に向けただけだ。そもそも頭をひねるという行為は、どういう状態を指すのか、僕にはわからない。

「何を基準に違いを見つければいいの?」

「ちょうどいいから、練習してみたいんだ。なんでもいいから気づいたことを挙げていってくれ」

「なんの練習?」

「若先生に近づくための練習」

「ふうん。それなら協力するよ。そうだね、まずさっきも言ったけど、生徒への態度が違うね。攻撃的なのと親しげなのと」

「そうだな、態度が違う。これはノートしておく。ほかには?」

「旦那さんの有無だね」

「ミズカツの発言を信じるなら、そうだな」

 そう、たしかに旦那さんに関しては、ミズカツ先生の口から聞かされた情報がすべてだ。旦那さん云々のことは、先生が適当についたウソかもしれないし、本当に少年みたいな旦那さんを射とめたのかもしれない。

「あとは、そうだね、思いつかないな」

「ああ、そんなもんだな。お前にとっては」

 巧の言ったことの意味がわからなかった。彼にはほかに何か見えているんだろうか。

「いやべつに悪い意味で言ったんじゃねえ。俺のほうがミズカツを長く知ってるし、注意して観察する濃度というか頻度というか、それらも異なるだろうからな。そこから来る差異だろうよ」

 それってもしかして。

「巧さ」僕はおそるおそるきいてみた。「好きなの?」

「その質問にはあとで答えよう。今は先の質問に答えるためのディベートが必要だ」

 とても冷静に言うものだから余計に怪しんでしまう。眉ひとつ動かさず、動揺の様子を尻尾一本たりともも見せない。さっきの質問の答え如何で、巧がミズカツ先生のことをどう思っているのかわかるかもしれない。ちょっと楽しくなってきた。

「わかったよ。次は?」

「まずは態度の違いについて考察していく」

「はい先生」僕はおどけて言った。

「ん、現在、ミズカツは生徒と友好な関係を築こうとして親しみやすい態度をとっている。一見問題ない。だが俺にとっては違う。それは前のミズカツのほうがレベルが高かったからだ」

 それはわざわざ言いなおすほどのことなのかと僕は思ったけど、巧のことだから、何か意味があるんだろう。僕はそのまま耳を傾けた。ちなみに僕は物理的に耳だけを傾けるなんて器用なことはできない、なんて冗談はもういいか。

「以前のミズカツの態度は、それはもうひどいもんだった。お前もその身で感じたと思うが、あれはとても教員が生徒にとる姿勢じゃない。収容所の看守だってもう少し慈愛に満ちていると思えるくらいだ」

 僕は収容所の看守が囚人に対してどういう態度をとるのか知らないからなんとも言えないけど、ひどさを表すたとえとしては適当なんだろう。あるいはジョークなのかもしれない。

「だけど、だからこそ現れるミズカツという人間の本質がこれまでは垣間見ることができた。それは、あいつが本来ああいう人間だからだ。人にきつく当たることで、自分が持つ能力や特性を包み隠すことなく体現できていた。あいつの言葉は意地悪く装飾されて攻撃的に聞こえていたけど、だからこそ、その装飾の裏に隠れた本当のミズカツを窺い知ることができたんだ。普通の小学生、ここで言う普通とは、つまり頭の程度が、ということだけど、あいつらの目には、ミズカツが単なる口の悪い教員に映っただろう。だけど、俺にはわかった。ミズカツの本質がな。その点を俺は評価し、高レベルに認定したんだ」

 僕はどうしても気になってきいた。というのも、自分では考えてもわからなかったからだ。

「巧は意地悪なミズカツ先生が、本当はどんな人だと言っているの?」

 巧はライターの火をつけて、しばらく眺めたあと、ふっと吹き消した。これが質問の答えかと思ったけど、どういう意味があるのかわからない。

「それはな、俺の口から言っても意味はない。気になるんなら、自分で探り当てることだな」

 それはそれで意地悪な気がしたけど、あとで考えたら、巧の真意がわかるだろう。今は深い思考を放棄しているから、わからないだけだ。

「で、結局さ、巧はミズカツ先生が好きなの?」

「おそらくだけど、お前が意図するところの好きとは、違うな」

「だろうね。でも上手い表現が見つからないんだ。なんて言ったらいいかな」

「そうだな、承認ってところかな」

「承認か、それいいね」

「俺が認めるところにいるってことだ」

「そうか。若先生たちと同じステージに立ってるんだね」

「ああ。見えにくいけどな。お前も観察してみろよ」

「わかったよ」

 僕はカバンから有里の手紙と若先生のお守りを取り出して巧に見せた。

「また白紙か」巧は呆れて言った。「芸がないな、あいつも」

「そうだね。でも先にこっちを考えたいんだ」

 僕から若先生のお守りを受け取って、巧は仔細にチェックする。

「若先生がいつも吸ってるのと同じ銘柄だな。これどうしたんだ?」

 僕は河原で若先生に出会ったこと、また、むかしの若先生とのイベントをかいつまんで話した。巧はじっくり集中して僕の話を聞いてくれた。

「そうか。それは災難だったな。お前はもう大丈夫なんだな?」

「うん。もう平気」

「よっしゃ」巧は僕の肩をパンチした。僕もやり返した。これが友情ってやつかな。

「でさ、これどうしたらいいんだろう。僕は巧がライター持ってることに意味があるような気がするんだけど」

「若先生の千里眼がそこまで及んでるかどうかは知らねえけど、よくできたストーリーではあるな」

「そうなんだ。ただね、どうしたらいいかわからないんだ」

「未成年の喫煙をお前はどう思う?」

「ダメでしょ。法律に背く行為だから」

「それだけか?」

「一番大きな理由が違法ってことで、ほかにもあるよ」

「俺はそれが聞きたい」

「巧も重々承知なんでしょ?」

「もちろんそうだけど、お前の言葉ではどう表現されるのかに興味があるんだ」

「そうだね、ええと、次に大きい理由は身体によくないってことだね。でも裏づけはないんだ。実際にどう子供の身体に悪影響を及ぼすかどうか知らないし、調べたこともないから」

「もうふたつくらいか?」

「そう。あと、まわりの目と、僕個人の好き嫌いかな」

「そんなところだよな。ほぼ俺と同じだ。俺も確証はない。身体にどう悪いのか知らねえし」

「未成年の喫煙のメリットは何かな?」

「ひとつしかない。まわりの目だな」

「だよね。子供が喫煙でリラックスできるとは思えないし。実験もできないだろうから」

「結論としては、圧倒的に否だな」

「考えるまでもないね。いや、考えた甲斐はあったかな」

 未成年がタバコを吸う理由は、自分をまわりに見せつけたいんだろう。俺はタバコを吸ってるんだぜ、お前たちよりも大人なんだぜ、なんていう自己顕示欲から来る行為だ。あるいは、やんちゃ欲っていうのかな、不良をかっこいいと思い込んでいる子たちの背伸びだという見方もある。似たようなことをニュースで見たな。成人式で暴れる人たちの報道だ。この場合、なんらかの破壊的衝動も手伝っているんだろうけど、やっぱり根っこには自己顕示欲とかやんちゃ欲が隠れていると思う。いずれにしても、そういう人たちは、自分に正直なんだ。その結果、法に背こうとまわりに迷惑をかけようと、自分を優先するんだ。

 なんだかそういう人を知っている気がする。すごく身近にいるような。

「彼らには正義があるのかな」僕は思ったことをぽろっと口にしてしまった。

「彼らって?」巧がきいた。

「タバコを吸う子供とか、他人に迷惑をかける人、とか」

「なんだか含みのある言い方だな。頭の中に固有名詞でも浮かんでるんじゃないのか?」

「そうだとしてもさ、僕にはわからないんだ。彼らがどんな正義を行使して悪の道を走っているのか」

「俺の意見だけど、そいつらの正義ってのは、幼稚なもんだろうよ。もしかしたら私欲と勘違いしてるかもしれねえんだからな」

「つまり自分勝手ってこと?」

「ああ。誰もが自分の行動に正義を持ちだしてるわけじゃないしな」

「でも、少なくとも、有里は」

「それはお前がきけばいいだろ? 俺にもわかんねえからな」

「そうなの?」僕は巧が有里の本心を知っているものだと思っていたから意外だった。

「正直なところ、謎だ」巧の表情は微妙だ。神妙というか、怪訝というか、とにかく形容しがたい顔をしている。「最近のあいつは俺にも理解できないな」

「やっぱりちゃんと話をしないとね」

 神社で会ったとき、有里を問い詰めることが僕の頭をよぎったけど、言えなかった。なんとなくそのときじゃないと感じたからだ。

「火をつけてみようぜ」巧が急に提案した。

「それに?」僕はさっきの話を考えながら、巧の持つ若先生のお守りを指さす。

「ああ。アイテムは使うか装備するかで、はじめて効果が現れるんだ」

「持ってるだけじゃ役に立たないだろうし、そうだね」

「じゃあ俺がライターでお前がお守りな」巧は僕にお守りを渡す。僕はしっかりと握り、先を巧に差し出す。もちろんくわえたりはしない。

「見つかると、言い訳が苦しいね」僕は冗談のつもりで言った。でも見つかったら冗談ではすまないことはわかっている。

「よく考えたらわざわざ学校でやることもないよな。帰りにどっか寄ってくか?」

「うん、でも、今試したいんだ」どうして今すぐやりたいのか、自分でもわからなかった。ただ、僕の中で今がそのときだ、という意見が大半を占めていたんだ。

「わかった。とりあえず見つからないようにな」

 僕たちは身体を使ってできるだけ手元を隠して身を縮めた。巧はライターの火をつけて、タバコに火をつけた。

 先端の紙が赤く光り、中のタバコ葉が燃える。煙が立ち上り僕たちの頭上をゆらゆらと白く染めていく。慌ててふたりでばたばた払ったけど、煙はいくらでも立ち上っては、のろしのように僕たちの存在を外に知らせている。

「もう消すか?」巧は早口になっている。

「そうだね、何もないみたいだし。ああ、やっぱり魔法は使えないなあ」

「どんな魔法使いもタバコを呪術の道具にしたりしないだろ」

「でも若先生は使ったよ」

「若先生が魔法の存在を認めたのか?」

「不思議が起こせたらね、それは魔法だって」

「俺たちにはまだできねえんだろうな」

「そうだね」

 僕は地面にタバコを押しつけて、火を消した。

「おいっ、お前!」巧が思わず叫ぶ。

「ああ!」僕も自分でびっくりした。

 有里の手紙はタバコを押しつけられたところに穴が空いていて、そのまわりがちょっと焦げてしまっていた。僕はうっかり有里の手紙を火消しに使ってしまったんだ。


62

 教室に戻ってから、巧と僕は身体を固くさせながら緊張の糸を張り詰めていた。

「においするか?」

「たぶん大丈夫だと思う。僕は?」

「大丈夫だ。手は洗ったか?」

「うん、石鹸使ったからもうにおわないと思うけど、どう?」

「ああ、問題ない」

 僕たちは席について、お互いのにおいに細心の注意を払っていた。それにしてもタバコがあんなにもにおいを発するものだったなんて、全然知らなかった。

 若先生がとなりで吸っていたときは、においなんて全然気にならなかったんだけど、自分で使ってみると、こんなにもまとわりつくなんて。なんでだろう。まるで、煙がタバコを持っている人間を主人と認めてひっついて離れないみたいだ。そのせいで、身体中タバコのにおいがついてしまったんだけど、手を洗って、髪の毛をぼさぼさになるまで掻きむしって、服のにおいがとれるまで校舎裏を全力で走り続けた。おかげで今はなんとか自分たちでもわからない程度ににおい落としすることができた、と思う。

「とにかく何か嗅ぎつけられても、とぼけとけばいいんだ。証拠は処分したし、見つかる可能性もかなり低いだろう」

「そうだね。早く授業はじまってほしいな。そしてさっさと放課後になってほしいよ」

「時間ってのは、祈れば祈るほど、遅く進むもんだって、若先生が言ってたぜ」

「珍しいね。そんな根拠のない非科学的なこと、若先生が言うなんて」

「ああ、でもよく言うフレーズだろ? だから統計的に人を主体として考えたら、そう感じる人の数で、仮定は真となるわけだ」

「それも若先生のまね?」

「なかなかうまくいかねえな。文章を構成するってのは経験に基づいてるみたいだ」

「語彙も大事だよね。あれってどうやったら身につくのかな?」

「一般的なのは、本を読むことだろうよ。あるいは百科事典でも食べたらどうだ?」

「火を通せないから生食だね。まずそうだなあ」

「不思議なもんだな。紙は草からできてるのに食べられないなんてよ」

「肉だって焼きすぎて炭になったら食べられないよ。世の中には何か作業を加えることで、まったく違うものに変わるものがあるんだね」

「関数みたいだな」

「本当だ。関数みたい」

「面白いな」

「面白いね」



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