目次
ユークリッド-Eukleides-
1
2
3
4
5
ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
6
7
8
9
10
ピタゴラス-Pythagoras-
11
12
13
14
15
ルネ・デカルト-René Descartes-
16
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18
19
20
アルキメデス-Archimedes-
21
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23
24
25
レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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27
28
29
30
ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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32
33
34
35
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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37
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39
40
アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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43
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45
ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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48
49
50
ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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55
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
61
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65
ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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67
68
69
70
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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75
ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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92
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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103
最終定理-the Last Theorem-
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54

 翌日の日曜は、何もすることがなかった。今日は母さんもゆっくりしたいのか、昼すぎまで起きてこなかった。この調子だと、どこにも行かず、寝巻のまま部屋でぐったりしているだろう。

 僕は朝九時頃に目が覚めた。いつも通り朝の支度を終えて、母さんの朝食を用意したけど、なかなか起き出してこなかったので、僕はそれを昼食にした。

 昼すぎに母さんが起きてきたので、僕は何か食べるものはいるか、とたずねた。何もいらない、でもホットミルクが欲しいと言うので、僕は牛乳を鍋で温めて砂糖を入れ、マグカップに注いでテーブルに出してあげた。一口飲んで、「ちょっと、熱すぎるわよ!」と文句を言われたけど、腹は立たなかった。休みの日の僕はいつもこんな感じだ。

 母さんはマグカップを両手で抱えてソファに小さく体育座りしながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。僕は退屈だったので、近くを散歩することにした。

 鍵と小銭だけ持って家を出た。僕の住まいが面している道路は、むかしは商店街だったらしい。今では店らしきものはひとつもなく、マンションと一軒家が道路を挟んで南北にずらりと並んでいるだけだった。

 この旧商店街の一筋東に、新商店街という広い道路がある。さすがに現在の商店街を名乗るだけあって、それなりに賑わいがある。といっても、アーケードがあるわけでもないし、店がとなり合わせでずらりと並んでいるわけでもない。点々と道路の両側にあるだけだ。

 僕は商店街を横断し、東のほうへと歩いていった。少しはずれただけで、もう商店街のにぎわいは消え失せ、ひっそり閑とした住宅街に入った。狭い通りなので、京都の大通りみたいにマス目状になっていなくて、突き当たっては曲がり突き当たっては曲がりをくり返しているうちに、四車線の広い通りに出た。通りを挟んだ向こう側に中学校がある。日曜日だというのに、運動服やユニフォーム姿の生徒が校門を出たり入ったりしていた。あれが中学からはじまる、部活動というやつか。

 小学校にもクラブ活動はある。でもそれは中学校の部活動ほど熱心なものじゃない。学校でできる習い事みたいなものだ。以前いた学校では、僕は将棋クラブに所属していた。べつに得意なわけじゃない。低学年のころ、将棋教室に通っていてそこでルールを覚えた程度だ。そういえばあの将棋教室は、ちょっとレオンハルトに似ているな。先生同士はいろいろ似ても似つかないけど、あそこにも談話室があって、いつもお菓子がたくさん振る舞われていた。月謝もたしか同じ千円だった気がする。あれでは、お菓子だけで散財だろう。絶対元が取れていないに違いない。つまり、仕事というより趣味でやっていた教室なんだ。

 よく考えたらレオンハルトもお菓子代だけで月謝が消えてしまうんじゃないだろうか。しかもこちらは毎日生徒が来る。将棋教室は週一回だけだったけど、単純計算で、七倍のスピードでお菓子が消費されることになる。それでは経営が成り立つはずがない。

 巧は小学校二年からはじめたと言っていた。だとすると、少なくとも四年間は経営が続いていたことになる。その間ずっと今のようにお菓子を出し続けてきたんだろうか。それともはじめは月謝が高かったのか。少し踏みこんで考えるだけで、謎めいたことに突き当たる。社会は謎で満ち満ちている。

 信号が青に変わるまで僕はそんなことを考えていた。横断歩道を渡っていく。むかしからのくせで、ついつい白線からはみ出さないように歩いてしまう。向かいから歩いてきた男の人にふと目をやると、僕とまったく同じような歩き方をしていた。大人になってもこのくせはなおらないらしい。不変というのは、時には素敵なものだ。

 中学校の校門前を北に折れ曲がって進んでいく。東には賀茂川が流れていた。あちこち水草だらけで川の流れはやっぱり見えない。おそらく魚や虫にとっては楽園のような環境だろう。大きな水草の塊の中では、メダカたちが毎日いそいそと学校に通っているに違いない。夜になると、羽虫たちがどんちゃん騒ぎの宴会で遊び倒しているんだ。そんな動植物たちの生態と、水草を刈りに刈って人間の目から見たら美しい賀茂川の流水風景と、どちらが大切だろう。僕なら前者に一票入れる。だからここは放置されているんだ、とひとり納得した。

 僕は橋を渡った。さびれたガソリンスタンドを越えると小さなロータリーがあり、その向こうに以前テレビで見たことのある光景が視界に入ってきた。たしかレポーターがここにある店で焼き餅というお菓子をおいしそうに食べていたっけ。今の僕の所持金は五百円玉一枚。お茶も一緒に買えるだろう。

 上賀茂神社の鳥居は、平安神宮のそれと比べ物にならないほど小さく控え目だった。これくらいの大きさなら神様の門だと信じてもいい。

 テレビで見たのと同じ店に入り、焼き餅を三つとペットボトルのお茶を買った。もう何も買えない小銭がお釣りとして返ってきた。

 僕はそのおやつをぶら下げて鳥居をくぐった。砂利道がまっすぐ北に延びていて、また鳥居があった。なぜふたつも必要なのかと思ったけど、あたりを見回して僕は納得した。砂利道を挟むようにして芝生が広がっていた。もっとも、本物の芝かどうかは僕にはわからない。色あせてところどころはげていたから、ゴルフコースにするのは難しいだろうな、と僕は思った。つまり、ここは神様の家の庭なんだ。今くぐった鳥居が門扉で、向こうに見えるふたつめの鳥居が玄関の扉というわけだ。平安神宮と違って、ここの神様は庭を持っているらしい。なんのためかはわからないけど、たぶん控え目な家屋が好きなんだろう。広すぎると落ち着かない人っているからな。でも神様って人だろうか。

 僕は神様の庭におじゃますることにした。鉄の棒を突き刺して紐を通した柵が敷かれていたから進入禁止かと思ったけど、気にするでもないように、芝生で遊ぶ幼児たちをほほ笑ましく見守るお母さんや、行ったり来たりしてランニングに精を出す男の人、小型犬を連れて歩くお年寄りなんかがたくさんいたので、入っても大丈夫なんだろう。

 人があまり通りそうにないスペースを見つけて腰を下ろす。食べる前にごろんと寝転がり、空を見上げた。雲ひとつない快晴とはこのことだ。周囲に高い建物や樹木がないため、僕の視界は空色に染まった。とても気分がいい。精神の糸がだらんとゆるみ、一切のことが気にならなくなった。悪感情のたぐいはすべてふたをされ閉じ込められて、姿かたちは見えない。愉快なこと楽しいことすら、その輪郭だけを残して透明になっていく。すべてがなくなり、空の色だけが、僕の心を支配した。

 僕は目を閉じた。空は心の中に広がっているから、もう見る必要がなかった。このまましばらく浸っていよう。そう思うと、耳に外の騒音が届かなくなり、僕は眠りにおちた。


55

 夢を見た。

 ゴールデンウィークに入り、学校は休み。世間も休み。みんな休み。

 みんな休みだから、一切は停止していた。外に出ても自動車はおろか、道行く人の姿もない。市バスは走らない。地下鉄は止まっている。交通は機能をなくしている。店はどこもシャッターが下りている。自販機は動いていない。郵便も新聞も配達されない。コンビニすら閉店している。あらゆる通信手段も不通になっている。

 つまり、外界はもはや意味を成さない。僕の家だけが、世界のすべてだ。

 僕の誕生日。

 家には僕と母さん。そして巧と有里の四人だけ。世界で生きているのは僕らだけ。

 母さんが手作りケーキをキッチンのテーブルにどんと置く。その顔は自慢げだ。巧は見た目のよさに感心している。有里は自分のフォークをもてあそんでいる。

 僕は喜ぶ。誕生日を祝ってくれる人が三人もいることを。

 ケーキにナイフが入り、みんなに配られる。母さんは食べない。僕ら三人は同時に口に運んだ。巧は一瞬微妙な表情を見せ、「おいしいです」と言う。有里はあからさまに顔をしかめ、「嘘でしょ。おいしくない。まずくもないけど」と言う。母さんが有里に激怒する。「何よ、あんた! 私のケーキがおいしくないっていうの!」「おいしくないわよ。自分で食べてみれば?」母さんは僕の皿からつまんで一口食べる。「あらほんと。おいしくないわね」と言って、ふふふと笑う。「でしょ?」と有里もほほ笑む。巧は爽やかな笑顔になる。僕はうれしくておかしくて笑う。みんな笑う。

「なあにこのケーキ!」全員で声を出して爆笑する。

 僕は喜ぶ。誕生日に笑いあえる人が三人もいることを。

 ケーキを全員でやっつけると、みんながそれぞれにテーブルに何か取り出す。

「じゃあ私から!」母さんが細長いプレゼントをくれる。「正宗くんによく似合うと思うんだ」

 僕は包装紙を破いて中身を取り出す。アナログの腕時計だった。

「これね、防水なの。水の中でも動くのよ。お風呂に三時間くらい沈めて試したから間違いないの!」そう言って自分も同じものをしていることをアピールする。「しかもね、ここのベルト、とってもいいにおいがするの! プリンみたいな!」

 有里が何か言いかけたところを巧が制する。おそらくプリンの無臭性についての指摘だと思う。

「じゃあ次は俺な」巧のプレゼントも細長い。「わりといいもんだぜ」

 取り出すと、シンプルなデザインのペンだ。銀色一色で、表面がぬるりと滑らかで、けっこう重い。

「実用性はしばらくないだろうけど、持ってろよ。それ、若先生のと同じやつだぜ」

 僕は巧に感謝する。大好きな若先生と持ち物を共有しているようで、とてもうれしい。

「俺の誕生日にはそれと違うものにしてくれよ」巧の笑みにはシニカルな成分が含まれている。僕は今度若先生の持ち物を仔細にチェックすることを頭に留める。

「これ」有里はプレゼントを放ってよこす。素直じゃないところがかわいい。

 僕は包みを破いて取り出す。本だ。表紙に何も書かれていない。装丁も何もない。真っ白な本だ。縦書きか横書きかもわからない。

 僕がページをめくろうとしたら、有里が「待って」と言って止める。

「ここで開くと恥ずかしい。あとでひとりで読んで」ごにょごにょと消え入りそうな声だ。

「なんでダメなんだよ」巧が文句をたれる。

「巧の馬鹿」今度ははっきりとした声だった。

「あらあらあらら、親の前で堂々とラブレターならぬラブブックなんて、有里ちゃん勇気あるのね」母さんの口調にはなぜかとげがある。「覚悟はできているのかしら」

 指の関節をぽきぽき鳴らしながら、有里のうしろにゆっくりと移動する母さんを見ずに、有里は言う。

「正宗はそんな馬鹿じゃない」

 はじめて名前を呼ばれて、僕はどきっとする。今から本を開くのが待ち遠しい。

「まあ、ともあれ」巧が場をまとめる。僕に向き直って笑顔を向ける。「正宗、誕生日おめでとう」

「おめでとう!」「おめでとう」母さんと有里も僕を見て笑う。

 そんな、幸せな夢を見た。


56

 目を開けると、さっきと同じ空が浮かんでいるのが見えた。もう僕の心の中は、もはや空一色じゃない。幸せな夢で満たされているから。だから、目の前の空は、さっきと違ってとても現実的に見えた。僕は単に寝転がって空を見上げているだけだった。

 身体を起こして首を左右に傾けると骨がぼきぼきと不安な音を立てた。でもこれが気持ちいい。そこでようやく、となりに誰かが座っているのに気がついた。

「寝ながらにやにやしないでよ。気持ち悪いから」

 有里は僕のとなりに座って、僕のお茶を飲み、僕の焼き餅を食べていた。

「それ僕のだけど」

「大丈夫よ。一個残してあるから」そう言って有里は袋から最後の焼き餅を取り出して、僕に手渡した。僕は一口かじった。あんことお餅だけのシンプルな味で、おいしかった。

「おいしいね。ヨモギとか桜のやつはどうだった?」

「どっちもおいしいけど、あんたが今食べたのが一番ね。飾らないほうがいい」

「ふうん。ありがとね」

「あんた馬鹿なの? 私に自分のもの食べられちゃったのに。もっと怒ったら?」

「でも一番いいのを残しておいてくれたんでしょ。それに対して、ありがとって」

 有里はため息をついて片手で目を覆い隠して、そのままごろんとうしろに倒れ込んだ。「あんた絶対、変」口もとは、笑顔だった。

 僕は自分のお茶を一口含んで、焼き餅を全部口に入れた。よく噛んでからまたお茶を含んで飲み干す。ふうと息をついた。

「僕は普通だよ。有里のほうが変だ」

 僕は有里を見た。変だと言われてどんな反応をするか興味があったからだ。

 有里はTシャツの上に半袖のパーカーをはおってデニムのミニスカートを履いていた。スカートからすらりと伸びる脚は、つるんとした肌でコーティングされていて美しい。頭の中にもやっとした雲みたいな感情が芽生えたけど、何も主張はしなかった。

 有里は黙ったままだ。怒っているんだろうか。でもたぶん違うという直感が僕にはあった。

「よくここに来るの?」僕は有里にきいた。

 有里は目を覆っていた手を頭の下に持っていって枕にした。公開された両目は僕を見ていない。

「まあ晴れてて読む本がなければね」

「そう。読書って楽しい?」

「どうかな。でも現実よりはいくらか楽しい」

「まあそれが本が売れる条件みたいなものだからね」

「必要条件っていうの、そういうの」

「へえ、そうなの」

「なんで笑ってたの?」

「何が?」

「さっき。寝ながらにやにやしてた。気持ち悪いから通りすぎようと思ったけど、これ持ってたから」有里は袋を片手で持ち上げた。

「幸せな夢を見たんだ。だから笑ってたんだと思う」

「どんな夢?」有里は身体を起こしてこちらを向いた。興味があるみたいだ。

「僕の誕生日にみんなが僕の家で祝福してくれる夢」

「みんなって誰?」

「母さんと巧と、有里と」

「みんなってそれだけ? 少なくない?」

「今の僕にはそれで充分なんだ」

「そう」

 有里は立ち上がってお尻をぱっぱと払った。もう興味をなくしたようだった。

「帰るの?」僕は聞いた。

「まあね。ごちそうさま」

 嫌味の言葉が思い浮かんだけど、口にしなかった。僕は黙って有里が去っていくのを眺めながら、お茶を一口含んでまた寝転ぶ。しばらく帰る気にはなれなかった。


57

 家に戻ると、母さんが出たときとまったく同じ状態でソファに座っていた。まるでこの部屋だけ時間が止まっていたようで、既視感の度合いが強烈だった。

「ただいま」僕の声はリビングの空気に吸収されて消えてしまったようで、母さんはこちらを振り向かない。

「母さん?」もう一度声をかける。今度は母さんに対象を絞る。

 返答はない。テレビはクッキング番組を映していて、夏野菜のスパゲッティを紹介していた。まだ夏野菜の季節じゃないと思うけど。よほどネタがないんだろう。

 僕はリビングに行ってソファの前に回り込む。母さんを観察する。やっぱり出たときと何も変わっていない。ひとつだけ違うけど。

 すーすーと寝息を立ててむにゃむにゃしながら目を閉じていることだ。

 人間は成長するにつれて睡眠時間が減少すると聞いたことがある。

赤ちゃんの頃は、寝るのが仕事だ、と言わんばかりに睡眠をとっている。少しずつ大きくなって、幼児になり、小学生になり、今の僕だけど、睡眠時間は平均して八時間くらいだ。これは僕のケースで、最近の小学生は睡眠時間がどんどん減少してきているらしい。小学生のくせに朝の二時まで起きているやつもいるらしい。理由は知らないけど、たぶん大人の真似事だろう。

それから大人に近づいていくにつれて、どんどん寝る時間がなくなっていく。中高生なら部活や勉強、大学生なら研究や社会に出る準備によって時間は殺されていく。大人になると、仕事がこれまでより一層強力な時間の殺し屋となる。大人はたいへんだ。

日々仕事で睡眠時間を削ってまでお金を稼ぎ、子供がいる人たちは彼らの世話をし、学費を貯蓄する。こんなにすごいことってほかにない。その原動力となるエネルギーってなんだろう。なぜ大人はみんな、そのエネルギー源を持っていて、しかもなぜ枯渇しないんだろう。

子供は子供でたいへんだ、なんて言うやつがいるけど、大人と比較するとそんなのたいしたことないに違いない。それがわかってないからこそ、子供なんだろう。

そんなことを考えながら母さんの寝顔を見つめていると、妙な気分になってきた。なんだかとても感謝に満ちた気持ちが湧いてきて、何か親孝行をしなければ、という強い衝動に駆られた。

とりあえず、寝室からタオルケットを持ってきて、母さんにかけてあげた。べつに部屋は寒くないんだけど、こうすることが優しさだという直感から来る行動だ。

次にキッチンに行って、夕食の用意をする。いつも母さんが準備するところを見ているので、何も困ることはなかった。母さんは明太子を使った簡単なものしか夕食につくらない。

昨日は明太子のチャーハンだったから、かぶらないようにしないといけない。冷蔵庫の野菜室を開けてみる。レタスと新玉ねぎとにんじんがあった。どうやらこれでサラダをつくるつもりだったようだ。それなら僕にもできるだろう。

メインは何にしようか。明太子をつかったメイン料理。こういうとき、テレビのクッキング番組で明太子のメニューを扱ってくれていたら、僕はテレビのファンになるかもしれないのに。まったく気が利かない。

結局、一番簡単なスパゲッティにした。テレビで上手なスパゲッティのゆで方が紹介されていたのでありがたい。さっそく実践してみることにしよう。

まずは、サラダからだ。母さんがつくるのをそのままそっくり真似をする。

最初に玉ねぎとにんじんを細長く切って、冷水につけておく。包丁を扱うのは、五年生のときに学校の行事で行ったキャンプでカレーをつくったとき以来だ。キャンプといえばカレーという、短絡的な結論を天動説みたいに信じている教師たちには呆れるけど、僕もカレーは嫌いじゃない。言い訳じゃないけど、久しぶりなものだから、にんじんの細さはばらばらだし、玉ねぎは薄かったり分厚かったりした。次にレタスを手でちぎってこちらも冷水につける。なぜ手でちぎるのか疑問に思ってむかし母さんにきいたことがあるのを思い出した。母さんの答えに、僕はちょっと感動したのを覚えている。

「手でちぎるのはね、愛なの。包丁で切ったらかたちがきれいになって見た目はきれいかもしれないけど、愛想がないっていうかね、とにかくダメなの。手でちぎるとね、かたちがいびつで、でこぼこしてるけど、そこには人の手作業の証があって、食べる人に気持ちが伝わるのよ。だからお寿司屋さんって手で握るのよ」

今考えると、なんだか無理があるし、こじつけの気配がふわりと漂うけど、小学校低学年への説明としては素敵だと思う。だから当時の僕は感動してしまったんだろう。お寿司屋さんの件は、単に機械とかで代用できないからだろうと思うけど、なかなかうまいこじつけだ。

パスタが用意できる直前まで、野菜は冷水につけておく。次はパスタをゆでる作業に取りかかる。

さっきテレビで紹介していた方法を実践してみよう。といってもそんなに特別な処理はいらない。僕でもわかる程度のことだ。

鍋にお湯を沸かす。そして、パスタを入れる前に塩を入れる。これだけだ。

塩がどういった役割を担うのかはわからない。どんな反応が起こるのかも知らない。ただ、こうすると、出来上がったパスタが柔らかくなっておいしいそうだ。

僕は料理のこういうぼんやりしたところがあまり好きじゃない。たとえばこの場合だと、塩の必要性をきちんと理解しないまま結果だけを重視して使用するところだ。鍋の中で塩がどんな働きをするのか。それによって何が起こって結果的にパスタが柔らかくなるのか。あと野菜を水にさらすのもそうだ。しゃきっとさせるためだそうだけど、どうしてしゃきっとするのか、その物理現象の仕組みが知りたい。こういうことが気になる小学生は僕ひとりじゃないと信じたい。

ぐつぐつ煮えるお湯の中で、ゆらゆらと踊るパスタを見つめる。本当にパスタが柔らかくなるのかどうかを観察する。なんとなくわかっていたけど、観察するだけではわからなかった。

一本取り出して食べてみる。ゆであがっているかをチェックするためだ。

塩のせいでしょっぱい。ちょっと固めだけどゆであがっている。火を消してそのまま放っておく。まだ上げないから、少し固めくらいがちょうどいい。

素早く次の作業に移る。野菜を冷水からあげて、水気をよく切る。特にレタスはキッチンタオルを使って丁寧に水気を取り除く。こうしないと、べちゃべちゃのサラダになってしまう。

大皿にレタスを敷いて、その上ににんじんと新玉ねぎを盛りつける。あとはドレッシングをかけるだけだ。

急いで冷蔵庫から明太子と生クリームと牛乳とマヨネーズを取り出す。大きなボウルにそれぞれ適量取り出して、スプーンで混ぜ合わせていく。程よく混ざったところで、黒コショウをぱらぱらと振りかける。しっかり混ぜ合わせ、お湯からあげたパスタを全部投入する。フォークとスプーンでくるくると回転させながらソースとパスタを絡ませる。明太子がパスタの熱で白っぽく変色していく。熱が通っている証拠だ。

平皿二枚に均等に盛りつける。パセリをちょんと添えて完成だ。

ふう。できた。

テーブルをセットして、見栄えを計算する。パスタをお皿の中で動かして、一番きれいに見えるよう調節する。完璧だ。

僕は一仕事終えた充実感を抱えてリビングで寝ている母さんの前に立つ。タオルケットを引っ張ると、母さんはしっかりと掴んで抵抗する。その手をデコピンして放させた。

握っていたものを失った不安からか、「うーん」と高音でうなる母さんの肩をゆすって話しかける。

「起きて。もう夕方だよ」

 座ったまま、もぞもぞとするものだから、まるで目をつむっているだけでじつは起きているように見えるけど、母さんはしっかり寝ていた。こういう人なんだ。

「ごはん出来たよ」

「ごはん?」母さんは反応してゆっくり目を開いた。マンガみたいだけど、母さんはごはんに反応して眠りから目覚める人なんだ。

「んん、もう夕方? ごはんの支度しなきゃ……あれ、正宗くん」ぼんやりした寝起きの声。「ん? 今ごはんって」

「うん。ただいま。僕がつくったよ」

「ほんとに? えー見たい見たい」

 食べたいじゃなくて見たいという感想がよくわからなかったけど、僕はテーブルを指さした。母さんは身体をねじってテーブルを見やる。

「わあ、すごいすごい!」母さんはぐいんと立ち上がってテーブルに駆け寄っていった。僕もあとについていく。

 母さんは大皿に盛られたレタスの小さな片をつまんで口に運ぶ。しゃきしゃきとレタスを砕く音が僕の耳に届いた。

「やるねえ、しゃきっとしてる。ちゃんと水につけたのね」

「いつも準備するのを見てたからね。何も困ることはなかったよ」

「私の正宗くん、料理まで出来ちゃうのね。さっすが!」僕の頬を片手でくすぐりながらうれしそうな顔をする。「それに、私のことちゃんと見てるのね」

 なぜか腰をくねくねさせながら妙に色っぽく言う母さんのニュアンスには、不穏で不埒な雰囲気が漂っていたけど、観察していたことはうそじゃないから、下手に認めることも否定することもできなかった。

「じゃあ食べようか」僕は話題を変える。母さんは特に気にする様子もなくいすに座った。ちょっと安心。

「ドレッシングは?」フォークとスプーンを両手に持って机をとんとん叩きながら要求されて、僕は家族の食事の用意をする主婦の憂鬱が少し理解できた。

「マヨとイタリアンのでいいよね」

「うん。あと味塩とって」

「はいはい」

 好意には全力で甘えるのが、母さんが母さんたる所以だ。僕はそれでかまわない。

「いただきまーす」ふたりで合掌して夕食を掘りはじめる。

「むっ正宗くん、おいしいよこれ!」スパゲッティをちゅるちゅるとすすりながら母さんは笑顔になる。「私の味そっくり! やっぱり親子って似るのよね!」

「それはよかった」僕も自分の作品を味わってみたけど、なんの違和感もなかった。つまり、いつもの夕食と同じ味だ。僕はひっそりと喜びを感じた。


58

 食事を終えて、空いたお皿を重ねてシンクに置く。食器かごに水を貯めて、スポンジに洗剤をつける。お皿を食器かごに入れて汚れを落とす。この作業のレベルは、もはや主婦の域だ、と僕は勝手に思っている。

「この調子で正宗くんにはどんどん私のいいところを吸収していってほしいと思います」

「じゃあ運転技術はほかの誰かを参考にするよ」洗いものを終えて、僕は冷蔵庫から牛乳を取り出す。グラスに注いで一口飲んだ。

「嫌味が上手いのは誰に似たのかしらね。私じゃないでしょ」

「たぶん違うね。それに嫌味のつもりはないんだけど」

「正宗くんね、そういうのむやみやたらに言い散らかしたらダメよ。言葉で傷つく人って本当にいるんだから」

「そうなの? 単なる噂だと思ってたよ」

「正宗くんだって何かひどいこと言われたらいやでしょ、馬鹿とか」

「僕は馬鹿じゃないから、相手の非を訂正すると思うな。あ、でもさっき馬鹿って言われたよ。でも訂正もしなかったし、傷つきもしなかった」

「誰に言われたの?」

「有里に。神社でたまたま遭ったんだ」

「ほう、興味深い」突然妙な言いまわしをするものだから、僕はちょっと面くらった。

「どうしたの?」

「その小娘が正宗くんを馬鹿呼ばわりしたわけね。どうしてそいつはそんなこと言ったのかしら」

「うーんとね」

僕は、神社の芝生で寝転んで眠ったところから、有里と並んでおしゃべりしたところまでを母さんに話した。夢を見たこととその内容については触れなかった。話してしまうと、実現する可能性が失われてしまうような気がしたからだ。

「と、まあこんなところかな。たぶん僕が怒らなかったのを馬鹿って言ったんだと思う」

 じっと僕を睨みながら聞いていた母さんは、いすに背を限界まで預けて大きくのけ反った。ぼきぼきと骨の鳴る音が聞こえた。異常に大きかったから、一瞬いすを壊したのかと勘違いしてしまった。自分でもびっくりしたようで、「おお」と言いながらあわてて背もたれから離れた。

「なるほど。その場合の馬鹿には特に深い意味はないわね。しゃくだけど、許してやるわ」

「よかった」

「それよりも」母さんはぐいっと顔を突き出して僕を見る。動きが素早いからいちいちびっくりする。「気になることがあるんだけど」

「どうしたの?」

「なぜ小娘が偶然にも正宗くんに出会ったのか」

「今日の話?」

「そうよ。はじめの出会い、つまり転校先にたまたま小娘がいたってのは、説明のつかない、回避のできない、どうしようもない偶然だからいいんだけど、今日のことは、偶然と呼ぶには弱いの。ちゃんと説明がつくからね」

「どんな説明?」

「ひとつだけあるの。正宗くんと小娘が神社で顔を合わせたのは、偶然じゃなくて、必然だったのよ。つまり、小娘は正宗くんをつけていて、神社で正宗くんが休憩していたところへ何食わぬ顔して現れたってわけよ」

 たしかにとなりに座っていた有里は、何食わぬ顔をして僕の焼き餅を食べていた。その点は正しいかもしれない。でも僕をつけていたという点には納得がいかない。

「もし本当だとしたら、どうして有里は僕をつけたりするんだろう」

「はあ?」そう言った母さんの顔は今までに見たことのないものだった。口の片方を針で引っ張られたようにつり上げ、僕を見据える両目は全力で人をへこませるだけの力が込められていて、よく見ると嘲笑気味の笑みも含まれているようだ。「正宗くん馬鹿なの?」

「いや、馬鹿じゃないよ」僕は否定した。馬鹿と言われても何も感じない。ただ相手が間違っているから訂正してあげたいと思うだけだ。有里のときはすっと言葉が出てこなかったんだけど、母さんにはすらりと言えてしまう。

「いや、わかってないとしたら、本当に馬鹿よ。小娘のことは腹立つけど、その点に関しては憐憫の情を抱いてやってもいいわね」

「客観的に観察するとね、説明できるよ」僕は牛乳を飲んだ。「有里が僕に好意を持っているということだね。距離を縮めて親しくなるために、僕のあとをつけて接触を図ったわけだね」

「なんだ、わかってるんじゃない。でもそれを主観的に見れないのはどうして?」

「それは、自分でもよくわからないんだけど、できないというよりしたくないんだ」

「正宗くんの中の何かがそうさせてるわけね。その正体は自分でわかってるの?」

「その、不合理性を許せないんだと思う」

「でも人を好きになるっていうのは、もれなくそういうものよ。理屈じゃないの。正宗くんの中で恋愛の解釈を改めないとダメよ」

「いやその理屈はわかるんだ。わかるっていうのは理解できるってことだよ。ただ、飲み込んで消化することに抵抗があるんだ」

「正宗くんもまだまだね。準備ができてないのよ」

「そうなのかな」

「そうよ。経験者の私が言うんだから間違いないわよ」

「母さんもこの不合理性を乗り越えてきたの?」

「恋する乙女はね、そうした苦難を乗り越えて乗り越えて、大人になるの」

 微妙に母さんと僕の間で認識に誤差があるように思えたけど、言葉に還元して説明するのが難しかったから、そのことは言及しなかった。

 母さんの主張は、ままならない恋心を持て余している自分を乗り越えて大人になる、というもので、ようするに経験の蓄積が問題の解決につながるんだ。

 でも僕が思うこの不合理性とは違う。有里が僕を好きだとは思わないし、僕も有里が好きなわけじゃない。有里の行動に、好意という気持ちがもっとも説明がつくからといって、そうだと決めつけてしまうのは早計だと思う。母さんの言う通り、偶然じゃないだろう。でも好意じゃなくてほかの何か。あいにく、日本語にはこの気持ちを表す言葉はないみたいだ。あるいは単に僕が知らないだけかもしれない。

「もしね、頭の中がもやもやしてすっきりしないならね」あごを片手でさすりながら母さんは言う。ひげはないと思うけど。「小娘と話してみることね」

「うん、そうなんだけど、べつに何もきくことがないんだ」

「小娘のことで何か気になることがあるんじゃないの?」

「僕は有里のことが好きだよ。巧と同じようにね。つまり、そういうことだと僕は考えてる」

「ほんとに?」

「新しい情報が入ってこないかぎり、気持ちは変わらないと思う」

「じゃあ話してみたら何か変わるかもね」

「母さんは僕に変わってほしいの?」

「小娘のことは嫌いだけど、これは私じゃどうしようもないことだから。私じゃなくて、ほかの誰かよその女の子と一緒にね。ああむかつくわね」

「むかつくのはどうかと思うけど、母さんの言いたいことはわかったよ。僕に恋愛してこいって言ってるんだね。そして成長しろって」

「なんだ、やっぱり馬鹿じゃないのね。さすが私の正宗くん!」

 それほど感心することだろうか。話の流れから自明なことなのに。そう思ったけど、何も言わないことにした。



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