目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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52

 ようやく視界からの情報が脳内へと届けられた。長いポールの先にくっついて背筋を伸ばして立っている時計を見る。時間は十分くらい経過していた。手を動かしてコーラを口に含む。少しぬるくなっていた。炭酸の刺激も弱くなっている。

 太ももに何か乗っているような重みを感じた。視線を下ろすと、母さんと目が合った。さすがにびっくりしたけど、僕は笑ってきいた。

「何してるの?」

 母さんは頭を僕の太ももにのせながらふにゃふにゃと笑う。

「正宗くん、自分の世界に入ってて退屈だから、ひざまくらしてもらってたの」手を伸ばして、僕のあごを指でくすぐった。「耽ってる正宗くん、かっこいいの」

 あたりを見回すと、通りすがりの人たちは、僕が座っているベンチの光景に視線をばしばし送っていた。僕も見られているけど、もっと見られているのは母さんだ。明らかに異様な光景だろう。逆の立ち位置ならわからないでもないけど、ポジションを入れ替えるだけで、ここまで視線を集めるんだから不思議なものだ。もっと不思議なのは、平気で息子のひざに頭をのせて十分もじっとしている母さんだけど。

「変態だと思われるよ」僕は母さんの頭を持ち上げて起き上らせようとした。

「いや! もうちょっとこのままがいい!」僕の手の力に抗って頭を太ももに押しつけるものだから、骨がじんじんと痛い。

「じゃあせめて脚を隠して」僕はちょっとめくれ上がっている母さんのワンピースの裾をなでつけて、できるだけ露出を隠した。

「えーいいでしょべつに」なぜか甘えるように言うので、ちょっと居心地が悪い。つまり恥ずかしい。もし学校の知り合いに見られたら、恥ずかしさだけで百回は死ねるだろう。次の転校先をインターネットで下調べする必要すら生まれてくる。

「よくないよ。なんで道行く人たちにそんな無用のサービスするの」

「あれっ、正宗くんやきもち?」

「起きるよ」僕は腰を上げようとした。

「うそうそ! ごめん」手をばたばたさせながら謝るから、さらに人目を引く。「あと一分このまま」

 僕はため息をつき、コーラを飲んだ。視界を全開に広げ、知り合いの顔を認識したら、母さんの首がもげようと、飛ぶように立ち上がるつもりで準備をした。


53

 帰りのドライブもこわかった。毎回命の危機ととなり合わせだなんて、まったく割に合わない。その対価が、たがが移動時間の短縮なんだから。

 家に着くと、母さんはシャワーを浴びるといってバスルームに入っていった。僕は学校のカバンから有里の手紙が入った封筒を取り出して、リビングに落ち着いた。

 開封する前に、リラックスするため牛乳をグラス一杯飲む。ようやく無事に家に帰ってきた気分になって、心が平静となった。

 僕は封筒をテーブルに置いて、じっと睨んだ。

 有里は面白い。僕はそんな有里ともっと関わりたい。

 方針を決めると、それに向かって進みたいという強い感情が僕の中で芽生え、その力が行動に移るための原動力となった。僕は有里の封筒を開けて中身を取り出した。

 三つ折りの紙が一枚入っていた。

 開いて内容を見る。何も書かれていなかった。

「またか……」前回と同様の展開に僕は肩すかしをくらって、ふうと息をもらした。

 キッチンのコンロであぶってもいいけど、月曜に巧と一緒にライターを使うことにして、有里の手紙を封筒に戻した。忘れないように学校カバンの中にしまっておく。

「有里も芸がないな」テレビのリモコンを操作しながら僕はつぶやいた。聞こえるわけないけど、もし有里が僕の言葉を耳にしていたならどんな反応をするだろう。ちょっと見てみたいと思ったら、僕は笑えてきた。

「正宗くーん、タオルないー」バスルームのほうから母さんの声がした。タオルくらい事前に用意しておいてほしい。

「持っていくよ」僕は立ち上がって、バスルームのほうへ歩いていった。もし浴室から出て全裸で洗面所にいたらタオルを投げつけてやる、とバイオレンスなことを考えていた。


54

 翌日の日曜は、何もすることがなかった。今日は母さんもゆっくりしたいのか、昼すぎまで起きてこなかった。この調子だと、どこにも行かず、寝巻のまま部屋でぐったりしているだろう。

 僕は朝九時頃に目が覚めた。いつも通り朝の支度を終えて、母さんの朝食を用意したけど、なかなか起き出してこなかったので、僕はそれを昼食にした。

 昼すぎに母さんが起きてきたので、僕は何か食べるものはいるか、とたずねた。何もいらない、でもホットミルクが欲しいと言うので、僕は牛乳を鍋で温めて砂糖を入れ、マグカップに注いでテーブルに出してあげた。一口飲んで、「ちょっと、熱すぎるわよ!」と文句を言われたけど、腹は立たなかった。休みの日の僕はいつもこんな感じだ。

 母さんはマグカップを両手で抱えてソファに小さく体育座りしながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。僕は退屈だったので、近くを散歩することにした。

 鍵と小銭だけ持って家を出た。僕の住まいが面している道路は、むかしは商店街だったらしい。今では店らしきものはひとつもなく、マンションと一軒家が道路を挟んで南北にずらりと並んでいるだけだった。

 この旧商店街の一筋東に、新商店街という広い道路がある。さすがに現在の商店街を名乗るだけあって、それなりに賑わいがある。といっても、アーケードがあるわけでもないし、店がとなり合わせでずらりと並んでいるわけでもない。点々と道路の両側にあるだけだ。

 僕は商店街を横断し、東のほうへと歩いていった。少しはずれただけで、もう商店街のにぎわいは消え失せ、ひっそり閑とした住宅街に入った。狭い通りなので、京都の大通りみたいにマス目状になっていなくて、突き当たっては曲がり突き当たっては曲がりをくり返しているうちに、四車線の広い通りに出た。通りを挟んだ向こう側に中学校がある。日曜日だというのに、運動服やユニフォーム姿の生徒が校門を出たり入ったりしていた。あれが中学からはじまる、部活動というやつか。

 小学校にもクラブ活動はある。でもそれは中学校の部活動ほど熱心なものじゃない。学校でできる習い事みたいなものだ。以前いた学校では、僕は将棋クラブに所属していた。べつに得意なわけじゃない。低学年のころ、将棋教室に通っていてそこでルールを覚えた程度だ。そういえばあの将棋教室は、ちょっとレオンハルトに似ているな。先生同士はいろいろ似ても似つかないけど、あそこにも談話室があって、いつもお菓子がたくさん振る舞われていた。月謝もたしか同じ千円だった気がする。あれでは、お菓子だけで散財だろう。絶対元が取れていないに違いない。つまり、仕事というより趣味でやっていた教室なんだ。

 よく考えたらレオンハルトもお菓子代だけで月謝が消えてしまうんじゃないだろうか。しかもこちらは毎日生徒が来る。将棋教室は週一回だけだったけど、単純計算で、七倍のスピードでお菓子が消費されることになる。それでは経営が成り立つはずがない。

 巧は小学校二年からはじめたと言っていた。だとすると、少なくとも四年間は経営が続いていたことになる。その間ずっと今のようにお菓子を出し続けてきたんだろうか。それともはじめは月謝が高かったのか。少し踏みこんで考えるだけで、謎めいたことに突き当たる。社会は謎で満ち満ちている。

 信号が青に変わるまで僕はそんなことを考えていた。横断歩道を渡っていく。むかしからのくせで、ついつい白線からはみ出さないように歩いてしまう。向かいから歩いてきた男の人にふと目をやると、僕とまったく同じような歩き方をしていた。大人になってもこのくせはなおらないらしい。不変というのは、時には素敵なものだ。

 中学校の校門前を北に折れ曲がって進んでいく。東には賀茂川が流れていた。あちこち水草だらけで川の流れはやっぱり見えない。おそらく魚や虫にとっては楽園のような環境だろう。大きな水草の塊の中では、メダカたちが毎日いそいそと学校に通っているに違いない。夜になると、羽虫たちがどんちゃん騒ぎの宴会で遊び倒しているんだ。そんな動植物たちの生態と、水草を刈りに刈って人間の目から見たら美しい賀茂川の流水風景と、どちらが大切だろう。僕なら前者に一票入れる。だからここは放置されているんだ、とひとり納得した。

 僕は橋を渡った。さびれたガソリンスタンドを越えると小さなロータリーがあり、その向こうに以前テレビで見たことのある光景が視界に入ってきた。たしかレポーターがここにある店で焼き餅というお菓子をおいしそうに食べていたっけ。今の僕の所持金は五百円玉一枚。お茶も一緒に買えるだろう。

 上賀茂神社の鳥居は、平安神宮のそれと比べ物にならないほど小さく控え目だった。これくらいの大きさなら神様の門だと信じてもいい。

 テレビで見たのと同じ店に入り、焼き餅を三つとペットボトルのお茶を買った。もう何も買えない小銭がお釣りとして返ってきた。

 僕はそのおやつをぶら下げて鳥居をくぐった。砂利道がまっすぐ北に延びていて、また鳥居があった。なぜふたつも必要なのかと思ったけど、あたりを見回して僕は納得した。砂利道を挟むようにして芝生が広がっていた。もっとも、本物の芝かどうかは僕にはわからない。色あせてところどころはげていたから、ゴルフコースにするのは難しいだろうな、と僕は思った。つまり、ここは神様の家の庭なんだ。今くぐった鳥居が門扉で、向こうに見えるふたつめの鳥居が玄関の扉というわけだ。平安神宮と違って、ここの神様は庭を持っているらしい。なんのためかはわからないけど、たぶん控え目な家屋が好きなんだろう。広すぎると落ち着かない人っているからな。でも神様って人だろうか。

 僕は神様の庭におじゃますることにした。鉄の棒を突き刺して紐を通した柵が敷かれていたから進入禁止かと思ったけど、気にするでもないように、芝生で遊ぶ幼児たちをほほ笑ましく見守るお母さんや、行ったり来たりしてランニングに精を出す男の人、小型犬を連れて歩くお年寄りなんかがたくさんいたので、入っても大丈夫なんだろう。

 人があまり通りそうにないスペースを見つけて腰を下ろす。食べる前にごろんと寝転がり、空を見上げた。雲ひとつない快晴とはこのことだ。周囲に高い建物や樹木がないため、僕の視界は空色に染まった。とても気分がいい。精神の糸がだらんとゆるみ、一切のことが気にならなくなった。悪感情のたぐいはすべてふたをされ閉じ込められて、姿かたちは見えない。愉快なこと楽しいことすら、その輪郭だけを残して透明になっていく。すべてがなくなり、空の色だけが、僕の心を支配した。

 僕は目を閉じた。空は心の中に広がっているから、もう見る必要がなかった。このまましばらく浸っていよう。そう思うと、耳に外の騒音が届かなくなり、僕は眠りにおちた。


55

 夢を見た。

 ゴールデンウィークに入り、学校は休み。世間も休み。みんな休み。

 みんな休みだから、一切は停止していた。外に出ても自動車はおろか、道行く人の姿もない。市バスは走らない。地下鉄は止まっている。交通は機能をなくしている。店はどこもシャッターが下りている。自販機は動いていない。郵便も新聞も配達されない。コンビニすら閉店している。あらゆる通信手段も不通になっている。

 つまり、外界はもはや意味を成さない。僕の家だけが、世界のすべてだ。

 僕の誕生日。

 家には僕と母さん。そして巧と有里の四人だけ。世界で生きているのは僕らだけ。

 母さんが手作りケーキをキッチンのテーブルにどんと置く。その顔は自慢げだ。巧は見た目のよさに感心している。有里は自分のフォークをもてあそんでいる。

 僕は喜ぶ。誕生日を祝ってくれる人が三人もいることを。

 ケーキにナイフが入り、みんなに配られる。母さんは食べない。僕ら三人は同時に口に運んだ。巧は一瞬微妙な表情を見せ、「おいしいです」と言う。有里はあからさまに顔をしかめ、「嘘でしょ。おいしくない。まずくもないけど」と言う。母さんが有里に激怒する。「何よ、あんた! 私のケーキがおいしくないっていうの!」「おいしくないわよ。自分で食べてみれば?」母さんは僕の皿からつまんで一口食べる。「あらほんと。おいしくないわね」と言って、ふふふと笑う。「でしょ?」と有里もほほ笑む。巧は爽やかな笑顔になる。僕はうれしくておかしくて笑う。みんな笑う。

「なあにこのケーキ!」全員で声を出して爆笑する。

 僕は喜ぶ。誕生日に笑いあえる人が三人もいることを。

 ケーキを全員でやっつけると、みんながそれぞれにテーブルに何か取り出す。

「じゃあ私から!」母さんが細長いプレゼントをくれる。「正宗くんによく似合うと思うんだ」

 僕は包装紙を破いて中身を取り出す。アナログの腕時計だった。

「これね、防水なの。水の中でも動くのよ。お風呂に三時間くらい沈めて試したから間違いないの!」そう言って自分も同じものをしていることをアピールする。「しかもね、ここのベルト、とってもいいにおいがするの! プリンみたいな!」

 有里が何か言いかけたところを巧が制する。おそらくプリンの無臭性についての指摘だと思う。

「じゃあ次は俺な」巧のプレゼントも細長い。「わりといいもんだぜ」

 取り出すと、シンプルなデザインのペンだ。銀色一色で、表面がぬるりと滑らかで、けっこう重い。

「実用性はしばらくないだろうけど、持ってろよ。それ、若先生のと同じやつだぜ」

 僕は巧に感謝する。大好きな若先生と持ち物を共有しているようで、とてもうれしい。

「俺の誕生日にはそれと違うものにしてくれよ」巧の笑みにはシニカルな成分が含まれている。僕は今度若先生の持ち物を仔細にチェックすることを頭に留める。

「これ」有里はプレゼントを放ってよこす。素直じゃないところがかわいい。

 僕は包みを破いて取り出す。本だ。表紙に何も書かれていない。装丁も何もない。真っ白な本だ。縦書きか横書きかもわからない。

 僕がページをめくろうとしたら、有里が「待って」と言って止める。

「ここで開くと恥ずかしい。あとでひとりで読んで」ごにょごにょと消え入りそうな声だ。

「なんでダメなんだよ」巧が文句をたれる。

「巧の馬鹿」今度ははっきりとした声だった。

「あらあらあらら、親の前で堂々とラブレターならぬラブブックなんて、有里ちゃん勇気あるのね」母さんの口調にはなぜかとげがある。「覚悟はできているのかしら」

 指の関節をぽきぽき鳴らしながら、有里のうしろにゆっくりと移動する母さんを見ずに、有里は言う。

「正宗はそんな馬鹿じゃない」

 はじめて名前を呼ばれて、僕はどきっとする。今から本を開くのが待ち遠しい。

「まあ、ともあれ」巧が場をまとめる。僕に向き直って笑顔を向ける。「正宗、誕生日おめでとう」

「おめでとう!」「おめでとう」母さんと有里も僕を見て笑う。

 そんな、幸せな夢を見た。


56

 目を開けると、さっきと同じ空が浮かんでいるのが見えた。もう僕の心の中は、もはや空一色じゃない。幸せな夢で満たされているから。だから、目の前の空は、さっきと違ってとても現実的に見えた。僕は単に寝転がって空を見上げているだけだった。

 身体を起こして首を左右に傾けると骨がぼきぼきと不安な音を立てた。でもこれが気持ちいい。そこでようやく、となりに誰かが座っているのに気がついた。

「寝ながらにやにやしないでよ。気持ち悪いから」

 有里は僕のとなりに座って、僕のお茶を飲み、僕の焼き餅を食べていた。

「それ僕のだけど」

「大丈夫よ。一個残してあるから」そう言って有里は袋から最後の焼き餅を取り出して、僕に手渡した。僕は一口かじった。あんことお餅だけのシンプルな味で、おいしかった。

「おいしいね。ヨモギとか桜のやつはどうだった?」

「どっちもおいしいけど、あんたが今食べたのが一番ね。飾らないほうがいい」

「ふうん。ありがとね」

「あんた馬鹿なの? 私に自分のもの食べられちゃったのに。もっと怒ったら?」

「でも一番いいのを残しておいてくれたんでしょ。それに対して、ありがとって」

 有里はため息をついて片手で目を覆い隠して、そのままごろんとうしろに倒れ込んだ。「あんた絶対、変」口もとは、笑顔だった。

 僕は自分のお茶を一口含んで、焼き餅を全部口に入れた。よく噛んでからまたお茶を含んで飲み干す。ふうと息をついた。

「僕は普通だよ。有里のほうが変だ」

 僕は有里を見た。変だと言われてどんな反応をするか興味があったからだ。

 有里はTシャツの上に半袖のパーカーをはおってデニムのミニスカートを履いていた。スカートからすらりと伸びる脚は、つるんとした肌でコーティングされていて美しい。頭の中にもやっとした雲みたいな感情が芽生えたけど、何も主張はしなかった。

 有里は黙ったままだ。怒っているんだろうか。でもたぶん違うという直感が僕にはあった。

「よくここに来るの?」僕は有里にきいた。

 有里は目を覆っていた手を頭の下に持っていって枕にした。公開された両目は僕を見ていない。

「まあ晴れてて読む本がなければね」

「そう。読書って楽しい?」

「どうかな。でも現実よりはいくらか楽しい」

「まあそれが本が売れる条件みたいなものだからね」

「必要条件っていうの、そういうの」

「へえ、そうなの」

「なんで笑ってたの?」

「何が?」

「さっき。寝ながらにやにやしてた。気持ち悪いから通りすぎようと思ったけど、これ持ってたから」有里は袋を片手で持ち上げた。

「幸せな夢を見たんだ。だから笑ってたんだと思う」

「どんな夢?」有里は身体を起こしてこちらを向いた。興味があるみたいだ。

「僕の誕生日にみんなが僕の家で祝福してくれる夢」

「みんなって誰?」

「母さんと巧と、有里と」

「みんなってそれだけ? 少なくない?」

「今の僕にはそれで充分なんだ」

「そう」

 有里は立ち上がってお尻をぱっぱと払った。もう興味をなくしたようだった。

「帰るの?」僕は聞いた。

「まあね。ごちそうさま」

 嫌味の言葉が思い浮かんだけど、口にしなかった。僕は黙って有里が去っていくのを眺めながら、お茶を一口含んでまた寝転ぶ。しばらく帰る気にはなれなかった。



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