目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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46

「で結局、何しに来たの?」

「今日の一番のお目当てはこちらです!」そう言って指差した先には小屋があった。応天門をくぐると砂利が敷かれた広場になっている。それを超えたところにひときわ大きく目を引く建造物があった。たぶんあれが神様の家だろうと僕は想像した。その神様の家と門の中間くらいにその小屋はあり、木造一階建でこぢんまりしている。神様の家と比べたら、神様の飼っているペットの棲家くらいの規模だ。神様がどんなペットを飼おうと思うかはわからないけど、たぶんかわいいものじゃないだろう。もっとまがまがしくて、特殊な能力を持っていて、いざというときに役に立つような、そんなペットだ。ちょっとほしくなってきた。

 僕たちはその小屋へと歩いていく。途中、細い竹で組まれた物干し竿みたいなものがあった。紙切れがくくりつけられているから、おみくじのお祓いのためのものだろう。そういえば、たまにいいおみくじを引いたにも関わらず、なぜかあの竹に巻きつけて帰る人がいる。むかし二年参りのとき、僕のとなりにいたカップルが「きゃー大吉!」「ほんと!」などと言いながら、うれしそうに竹に巻いている姿を見た憶えがある。うらやましいな、とそのときは思ったけど、よく考えたら、大吉なんだからお祓いの必要がない。持って帰るべきだろう。もしかして、引いたら巻くのがルールだと思い込んでいたのかもしれない。大人になっても、些細な思い込みで多大な損を被ることがあるらしいから、生きるためには正しい知識を身につけないといけないという教訓だ。

 とか考えていたら、小屋の前まで来た。そこはおみくじ売場だった。

「ちょっとこれ持ってて」母さんは僕に自分の持っていたハンドバッグを押しつけた。そして腕をゆっくり左右に持ち上げながら「ふーふー」と呼吸を整え出した。まるで精神統一して今から困難に挑戦でもするかのようだ。その実、おそらく単におみくじを引くだけなんだけど。

「ちょっとおおげさじゃない? 恥ずかしいんだけど」

「なんで正宗くんが恥ずかしいのよ。やってるのは私なのよ。正宗くん、もしかして私のハンドバッグ持ってるのが恥だとでも思ってるわけ?」

 どうしてそういう思考回路になるんだろう。付き人である僕の立場を客観すれば、自然と誰が恥ずかしいかわかりそうなものだ。

「もう精神統一はいいから引いちゃってよ」

「なんで私が引くのよ。正宗くんのために来たんだから、正宗くんが自分で引くの」

「ええ? 僕?」

 意外だったので、ちょっと声が裏返ってしまった。こんなことで不意を突かれるとは不覚だ。それにしても、なぜ僕がおみくじを引かなければいけないのか、理由が知りたい。

「なぜって、来るべき誕生日に向けて、あらゆる対策を講じなければいけないからよ。そのためにおみくじの予言をヒントにするの!」

 ああ、それでか。僕の誕生日のためね。

 そういえば、誕生日が近づいているなあ。

「わかったよ」僕は素直に承知した。

 受付の人に百円を払い、六角柱の箱を逆さに振って、一本棒を取り出した。それを受付の人に渡す。棒の番号を見て、棚から一枚の紙切れを取り出して僕にくれた。そのとき、

「いいのが出るといいわね」

と申し添えてくれた。いい人だな、と僕は思った。

 受け取った紙切れをたたんで、母さんのほうを振り向く。なんだか異常にそわそわしていて、足元の砂利がじゃっじゃっと音を立てるほどだった。出走前の競走馬みたいな感じ。両手を胸の前に持ってきて細かく上下に揺れている。どうしてそんなに不安定でいるのかよくわからない。

「どうどうどう?」母さんのセリフは、僕にきいているのかそれとも自分を落ち着かせるために言っているのかわからないものだった。

 僕は折りたたんだおみくじを開いて内容を読んだ。

「うわ、凶だって」

「うそ! どれ貸して!」母さんは僕の手からおみくじをひったくった。必要以上に顔を近づけて舐めるように文字を睨む。何度読んでも内容は変わらないだろう。

「ほんと、凶だ! 私はじめて見たよ! えー感動!」

 はじめて見たものに感動する心情は理解できるけど、対象があまりにもネガティブなため、僕は同調できなかった。それに凶の災いは僕に降りかかるわけで、母さんにとっては他人事だろう。

「あ、でもー、正宗くんの誕生日にとってはよくない兆候だよね。どうしよう」

「どうにもならないんじゃない? とりあえずお祓いしてもらおうよ」

「お祓いって、あの胡散臭い神様の真似事しながらふりふりのついた棒を振り回すやつ?」

「違うよ。あそこにある竹の棒におみくじを結んで神社に処理してもらうんだよ」僕は向こうに見える竹の枠組みを指さした。

「あれってお祓いなの? 知らなかったー」意外そうな母さんだ。「でも神社なんか信用できない! これは持って帰って私たちでなんとかするのよ!」

 神社が信用できないのに、神社がつくるおみくじは信用できるのか。なんだかちぐはぐだと思ったけど、それで母さんの気がすむならかまわない。僕もそこまでおみくじや神社に信用をおいているわけでもないし。

「正宗くん、おみくじ大事に持っておくのよ」僕は折りたたまれたおみくじをポケットにしまった。

「じゃあ次行こう」母さんは応天門に向かって歩き出した。

「ここはもういいの? 向こうの建物は見て行かないの?」

「あんなとこ、なんの用事があるのよ。おみくじだけでいいの!」

 まるで映画を観に行ってパンフレットだけ買って帰るような母さんの行動は、僕には理解できなかったけど、それほどあちらに興味があるわけでもない。

 門を出ると、人力車が客を乗せて南にある巨大な鳥居のほうへと進む姿が目に入った。あんなものに乗って人目に晒されるなんて、まるで何かの罰ゲームだ。おのぼりさん丸出しの姿は道行く人々の好奇の視線のいい的だろう。僕はごめんだね。たとえ母さんが懇願してもね。

 手洗い場のほうに目をやると、さっきよりもずいぶん空いていた。おばあさんの姿を探してみたけど、もう帰ってしまったのか見当たらなかった。


47

 次はどこに行くのかと思ったら、すぐ近くにある京都府立図書館だった。さっき前を通ったときは図書館だとは気づかなかった。何しろその容姿が図書のイメージとはかけ離れていたからだ。僕のイメージでは図書館とは、外見からしてもっと無機質で、余分な機能や装飾を取り除いて洗練されたものだ。それがここはどうだろう。たしかに余分な機能や装飾は見られない。派手派手しい印象もないけど、どうにも高貴さや重厚さといった敷居の高さを感じる。実際、建物の上のほうに「京都府立図書館」と書かれていなかったら、図書館だなんて絶対わからないだろう。なんだか古い建築様式の建物だなあ、という印象しか持てないに違いない。だから、僕はここに入るのにちょっと抵抗があった。

「正宗くんどうしたの、行くわよ」入口手前で歩を止めた僕を振り返って母さんが言った。

「なんかここ変じゃない?」

「何が変なの?」母さんは首をかしげる。

「図書館なんだよね、ここ。そのわりには雰囲気が、こう、重い感じがしてさ。あんまり入りたくないんだ」

「どうしたの? べつにおばけが入口で警備してるわけじゃないし、図書館強盗が来てもすぐそこに交番があるから大丈夫よ」

 いやべつにそんな心配はしていない。おばけは存在からして疑っているし、第一おばけが警備でも役に立たないじゃないか。それに図書館強盗ってなんだろう。わざわざ図書館を襲ってまで手に入れたい本でもあるんだろうか。本屋で買えばいいじゃないか。僕は図書というものにそこまで価値を見出せなかった。

「わかったよ。変な説得」僕はひとつ嫌味を言って、図書館の敷居を跨いだ。


48

 中は外から見た感じよりも一層広かった。東側の壁上部にある大きな窓から明かりがこぼれ、図書棚を明るく照らしている。歴史の重みは内部ではそれほど強く感じられず、むしろ内装はきれいで適度に古いから居心地がいい空間だった。

 何より静かだ。外の喧騒は二枚の入口ガラスドアに阻まれて、ここまで届かない。聞こえるのは、利用者が検索用のパソコンのキーボードをたたく音とこつこつと歩く足音くらいだ。耳触りな騒音が聞こえない空間は京都でここだけしかないと思わせるほどに、快適な静寂だった。

母さんは一階中央にある地下に続く螺旋階段を下っていく。僕も続いた。

 地下一階は、ほとんど書棚で埋め尽くされ、空いたスペースに机といすが置かれていた。土曜日の午前中だからか、机は空いていた。ちらほら本を広げてノートに何か書き込んでいる人たちがいる。ここで勉強するとはかどりそうだ。しかしまだ午前中だというのに、机につっぷしてすーすーと肩を揺らしている人もいた。こんなところで寝るなら家で布団の中にいればいいのに。

 母さんは検索用パソコンへまっすぐ向かい、キーボードをかたかたとたたきはじめた。何を借りるつもりだろう。

「やった! 戻ってる!」そう言ってマウスで何やら操作すると、小さなプリンタから紙切れが一枚出てきた。

 母さんはその紙に自分の名前を書き、受付に持っていって係の人に渡した。「少々お待ちください」と言い残し、係の人は奥に入っていった。

「ねえ、何しに来たの? 僕が楽しいんじゃなくて、母さんが楽しそうだけど」

「いやあねえ、正宗くん」突然おばちゃん口調になったね、などと発言すれば、静寂が暗黙のルールである図書館で母さんは大声で泣き出しかねない。「これも正宗くんの誕生日のためなのよ。伏線よ伏線」

 本を借りることがどう僕の誕生日に結びつくのか。伏線にしては迂遠すぎるな、と思ったけど、きいても教えてくれないので、これは秘密なんだろう。たいした期待を持っていなかったので、僕はあきらめて書棚を見てまわることにした。

 僕は数学書のコーナーをうろついた。北側に縦に並んだ書棚がたくさんあり、その東よりのところに数学コーナーはあった。レオンハルトに通うようになって、学校では得られない算数の知識が増えるにつれ、数学への関心も高まっていた。

算数と数学の違いを老先生にきいてみたことがある。そのとき老先生はうれしそうにこう言った。

「算数は教科の中で一番楽しいもの、数学はそれに輪をかけて楽しいものだ」

 明確な定義で答えてもらえなかったので僕は不服だったけど、老先生の算数と数学への想いが垣間見えたのでまあいいかと納得した。どうせそのうちわかることだろう。

 インターネットで調べてみたこともある。多くの見解があるとのことだったけど、僕が一番納得したのは、「算数には証明がない。数学にはある」という単純で簡潔な言葉だった。ポイントは「証明」という言葉だ。

僕はこの「証明」という言葉が好きだ。なぜかというと、証明されたことは、もう完全に本当のことだから。

そこには疑う余地がまったくなくて、誰もが納得せざるをえない真実となる。完璧だ。本当のことは、世界に証明されたことをおいてほかにないだろう。だから証明されるということはとてもすごいことだし、それを成し遂げた人は尊敬に値する。数学に興味を持つ以前から、僕は完全な本当のことを提示できる人になりたい、と思っていた。

僕の身長の二倍はあるかと思われる棚に、ずらりと書籍が並んでいる。使い古された古書から、カバーがきれいな新書までさまざまだ。表紙に踊る文字はどれも聞いたことのない難しそうな単語が並び、どれを手にとっていいものやらわからなかった。

僕は視線を固定させずにするすると棚の間を移動した。手にとって開いてみたいと思う本は特になかった。あっという間に北側の端の壁まで歩いてきてしまった。北側の端には棚の間に一人用の学習机が備えつけられていて、全部の机には誰かしらが座っていた。

僕は受付にいるだろう母さんのもとへ戻っていった。ちょうど母さんが探していた本を受け取るところだった。なぜか手渡しされる際、母さんは変な顔をしていた。形容するのが難しいけど、あえてたとえるなら、ケチャップのないオムライスみたいな感じ。とにかく、何か不満があるときの顔だ。そんなに待たされたわけでもないのに、何を怒ってるんだろう。

「あ、正宗くん。見たい本とかない? なければもう行くけど」

 僕は首を振った。


49

 図書館を出ると、生暖かい空気が僕を包んだ。木の日陰や自動車の熱気がつくり出す、自然の暖かさだ。僕くらいの年代なら、自動車は自然物と認識してもおかしくないくらいありふれたものとなっている。

 出入り口の目の前は公園になっていて、幼児用の遊具がいくつか設置されている。僕にはさすがに小さすぎだ。

 公園の中に自販機があった。僕は自分のポケットから小銭をとり出して、コーラを買った。となりにあるベンチに腰かけて一口含む。炭酸の激しさと外の空気の緩慢が協奏して、なんともおいしかった。ゆったり落ち着いたところで飲む炭酸飲料は、やかましいところで飲むお茶の百倍おいしい。

 僕の視線はおぼろで、どこも見ていない。視界にあるものが何かは知っていたが、認識は選択的にしなかった。僕はこんなふうに、自分の視界をコントロールして世界を遮断することができる。どうやっているのか自分でもわからないけど、言葉で表現すると「ぼーっとする」ってところだろう。でも何も考えていないわけじゃない。目からの情報を頭に伝えないようにしているだけだから、頭は動いている。視覚からの情報を遮断すると、人間は集中力が増すと聞いたことがある。実際、僕の頭では今、最近の出来事の整理整頓が行われている。

 頭の中で今抱えている懸案事項を並べる。

 レオンハルトで学ぶ「本当の知性」について、有里の手紙、若先生とのイベントの消化、若先生のお守り。老先生の体調。ここに自分の誕生日が加わる。結構多いな。

 「本当の知性」については、今ならなんとなくその意味するところが掴める気がする。巧は先生たちと話せばわかると言った。その通りだ。僕たち生徒の他愛もない質問への回答は、常に本当へと精練されて研ぎ澄まされていて、必ず納得のいく答えが返ってくる。話をするだけで、真実へと近づくことができる。嘘はないし、矛盾もない。完璧な回答だ。そんな答えを生み出せる先生たちを尊敬することは、巧や有里だけじゃなくて全生徒共通で一致するだろう。もちろん僕もだ。このまま通い続けていけば、自分が磨き上げられる確証を感じる。巧に会えて、有里に会えて、レオンハルトに会えて本当によかった。

 有里の手紙。これはもう棚上げした問題だけど、ここには僕が有里をどう思っているか、という新たな課題がある。

 僕が有里をどう思っているか。

 これってどう考えたらいいんだろう。

 まず有里について分析してみよう。巧の幼馴染。同級生。同じ塾に通っている。同じクラスの号令係。声が小さい。アニメ声。胸が小さい。一度見えた下着の色は淡い水色の下地に――いやこれはいいか。背丈は僕と同じくらい。読書好き。好きなジャンルはミステリ。はじめて話したのは学校の屋上。しゃべり方にとげがある。コーラが好きみたい。頭がいい。不思議な手紙で僕を魅惑する。窓ガラスを割るという危ない面がある。老先生を自分の想いを打ち明けるほどに信頼している。手紙の目的を僕に教えてくれない。でも僕に何か伝えようとしている。

 こんなところか。

 さて、これらの情報を受けて僕がどう思うかだけど。

 あれ?

 なんだろう、これ。

 こんなことはじめてだ。説明できない。明確な言葉で言い表せない。

 いや。

 近い表現ならある。

 正しいかどうかわからないけど、広義に捉えるならひっかかるはずだ。

 僕は、有里を、

 面白い、と思っている。

 それが答えか? もっとすっきりした、好意とか友情とわかりやすいものはないだろうか。

 いや、どれも違う。定義に当てはまらない。

一番近いのが、面白い、だ。

新たな言葉を定義すれば、僕のこの思いを正しく表現できるんだけど、どんな言葉にすればいいかわからない。無から何かを取り出すことは、今の僕にはできない。

仕方がない。

有里のことは、面白い、と思うことにしよう。

ふう、そう決めると楽になった。よし、これなら見通しがつきそうだ。

自然と、手紙をどうするかも決心がついた。

若先生とのイベントの消化。少し具体的にイメージしただけで、心が寒くなる。僕はコーラを一口飲んだ。炭酸の刺激で寒気を紛らわす。

以前は雲のように曖昧なイメージが心の奥深くに封印されていた。でもいざわかってみると、雲の中に入ることができる。中は悪天候で、身体を切り裂く冷たい風が吹き荒れ、遠慮のない雨が僕を打ちつける。ひどい環境だった。外からでは決してわからない、過去の汚点。

河原で若先生と話したとき、僕はすべてを思い出した。僕が無理を言って話してもらったんだ。若先生を責めてはいけない。でも、こんな思いをするくらいなら、ごまかしてほしかった。優しい嘘で包んでほしかった。でも若先生は、あえて真実を僕に話した。嘘をついてくれなかった。それが若先生の優しさなんだろう。

若先生の話は、要所をかいつまんだもので、イベントの特徴だけ整理されていた。その断片的な情報は、僕の中に入って、封印されていた全体像を引き起こし、全体像は僕の頭に貼りついた。もう一生はがせないだろうと思う。僕はこれを頭の片隅に壁紙として抱えながら生きていくんだ。そう思うと、未来に向けて足を踏み出すのがいやになる。もうこんなことは起こらないだろうと思うけど、風紀乱れる今日の社会では何が起こるかわからない。犯罪者の存在を伝えるニュースは毎日流れているし、水面下ではどんなおそろしいことが起こっているか、僕には想像もつかない。

こんなことを考えているからか、頭の中に当時の映像がフラッシュバックした。


50

コンビニを出る僕。週刊誌をチェックして満足そうだ。まだ気づいていない。

自転車に乗り、坂を下り、通りを渡り、住宅街を抜けていく。これから新発売の携帯ゲームを買いに行くんだ。財布の中には僕が普段持ち歩かないような大金が入っている。

自転車を走らせていると、僕の両側を二台の自転車が通りすぎていく。僕よりもひとまわり以上年上の男たちだ。僕はなんとも思わない。

少し変だと思いはじめたのは、通りすぎた自転車がスピードを弱めて僕の両側に適度な距離を保ちながら一緒に走ろうとしたときだった。僕は彼らの顔を見る。相手も僕を見ている。ふたりが挟むようにして僕を見ている。その口元は歪んでいた。

いよいよおかしいと思い、僕は自転車を止めた。神様にお願いしてみたけど、やっぱりふたりの男も自転車を止めた。サドルにまたがりながら僕を睨んでにやにやしている。はじめて目にする、邪悪な笑みだった。

「どこ行くの?」左側の男が僕に話しかけてきた。答えても答えなくても状況が悪くなるのはわかっていた。

「ちょっとそこまで」僕はささやくようにか細い声で答えた。

「ふうん」右側の男が自転車を降りた。「さっきコンビニにいたよな。ジャンプ好きなのか?」

「うん」なんとか僕は声を絞り出した。悪寒が湧いてくる。想像が飛躍し、最悪なイメージが頭を支配した。

「ところでさ」左側の男も自転車を降りた。僕の自転車のかごに手をかけて動きを封じる。「金貸してくれない?」

 もしかしたらもしかしたら、と抱いていた淡い明るい希望はついに潰えた。最悪のイメージへの扉が開く。入るのを全力で拒否しても、扉の中から伸びる邪悪で黒い魔の手からは逃れられない。僕の身体は魔の手であちこちを掴まれ、引きずられるようにして扉に吸い込まれていく。

「ちょっとだけ」僕は自分の声が震えているのがわかった。保育園で先生に怒られたときの言い訳の声よりも、か細く弱々しい。これまで経験したことのない種類の恐怖だった。

「いくら持ってんの?」右側の男の顔が僕に近づく。反射的に僕は距離をとったが、そちらはすでに左側の男に固められていた。逃げ場はない。

「百円くらい」自然と嘘がこぼれ出た。信じてもらえるなら、なんでもできた。

「じゃあ財布見せろよ」強い口調で言われて、僕は自分の身体の自由を奪われた気がした。出したらひどい目に遭うだろうけど、出さないともっとひどい目に遭うことがわかった。手が勝手にポケットの財布を取り出した。

 左側の男が僕の手から財布を奪い取った。僕は抵抗できなかった。財布を奪われたことへの疑問すら思い浮かばなかった。

「いっぱい入ってるけど?」お札を見て左側の男が言った。僕は顔を見なかったけど、おそらく邪悪な笑みを浮かべていたに違いない。

「じゃあこんだけ借りてくぜ」そう言って右側の男がお札を全部抜きとった。財布を返す動作が異常に丁寧で、僕は恐怖に戦慄した。これが一番こわかった。

「返してくれるんですか」

「あ?」

 自分で言って驚いた。

相手の反応にさらに驚いた。

自分の中の正義が声を上げたことに一番驚いた。

「いつ返してくれるんですか」二回目に言ったときはわりと意識して口にした。できるだけ反抗的に映らないよう、下手に出て、弱者のオーラをまといながら。

「まあ、次会ったときにな。じゃあな」ふたり組は自転車に乗って、僕のお札を手でひらひらさせながら走り去っていった。

残された僕は茫然としていた。はじめに湧いてきた感情は、安堵感だった。その後、すべてをさらい、どす黒く塗り替える悔しさが襲ってきた。やがて、悔しさは風化し、代わりに芽生えたのは、圧倒的な恥ずかしさだった。その恥ずかしさが、最近まで僕の頭の中でこのイベントを完璧に包み隠していた。

だから、このことは誰にも話したことはない。相談できる人もいなかった。このことに関しては、僕は孤独だった。

だけど今は、今は違う。

僕が恐喝されていたとき、若先生はすぐそばを歩いていたという。まったく無関係の通行人だった。ちょうど僕たちが自転車を止めたときだから、最初はそのまま歩き去ってしまったらしい。だけど、妙な気配というか胸騒ぎがして、戻ってみると、そこにはぽつんと道路の真ん中にたたずむ僕がいた。それだけで何が起こったか察知したらしい。

ふいに僕は若先生を見た。まともに目が合って、若先生は少し驚いたそうだ。僕の視線は責めるような目つきだったらしい。なぜ僕がそんな目で自分を見つめるのか、若先生はすぐに理解した。近づきながらタバコに火をつけて、かけてやるにふさわしい言葉を探す時間を稼いで、煙を吐き出してから、僕に言った。

「無事でよかったな、お前が」

 そのとき、僕の心に若先生の顔と声がしっかりと刻印された。直感的に、僕はいい人だと思った。けれど、このとき僕は六歳だ。心の中の大半を占める安堵感と消えかけていた恐怖感と芽生えかけていた悔しさ、また見ず知らずの他人ではあるものの、僕の危機を知りながら助けてくれなかったことへの憎悪が一挙に表に現れ、僕はうつむいて肩を震わせ、うなるように泣いた。温かい涙が次々とこぼれ落ちた。

 若先生はポケットティッシュを取り出してかがみこみ、僕の顔を拭いてくれた。タバコが煙たくて逃れようとした僕の頭に、若先生は手の平を置いてぐっと力を入れた。僕は大人しくなった。その手を払いのけようとしなかったのは、こわくなかったからだ。

 こうして、僕と若先生は出会った。



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