目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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44

 地下駐車場から上がってきても、鳥居の巨大さが目立った。僕たちは鳥居の足元に近づいていった。僕と母さんが手をつないでへばりついても半分も届かないほどに太い足だった。真下から見上げると、大きさに加えてその鮮やかな朱色が際立つように思えた。

「すごい大きいね」母さんも感心しているようだった。

「そうだね。倒れたりしないのかな」

「大丈夫よ、こんなに足太いじゃない」

「でもすごく高いよ。どれぐらいあるんだろう」

「私十人分くらいじゃない」

「じゃあビル四階くらいだね」

「よくこんなのつくったわね。むかしの人はすごいわね、道具もろくになかったのに」

「そんなにむかしからあるの?」

「いや知らないけどなんとなく」

「ところで今日はこれを見に来たの?」

「違うわよ。これだけが目的じゃないんだから」

 ということはこれもひとつの目的だったわけだ。たしかにけた外れに大きな鳥居というのは、見ていてどこか滑稽でおかしかったけど。

「さあ、行くわよ!」母さんは張り切って北にある神社の建物へと歩きはじめた。


45

 ここは平安神宮という神社らしい。京都の三大祭である時代祭が行われる場所として知られている。

応天門というこちらも馬鹿でかい門の前で、母さんはいそいそとハンドバッグからカメラを取り出し、人力車を引くお兄さんに写真を撮るよう頼んでいる間、僕は門の大きさにひたすら圧倒されていた。

むかしのものっていうのはどうしてこうも不必要に大きいんだろう。大きさが権力とかそういう力の象徴だったんだろうか。それならピラミッドが王様の墓だという主張もうなずける。宇宙から降ってきたなんて途方もない法螺話よりずっと説得力がある。ということはつまり、人間の都合で大きさが決められていたわけだ。神様はべつにこんな巨大な神殿なり社なりは必要としていなかったかもしれない。神の名を利用して権力を誇示するためにこんなものつくったりして、誰か神の天罰が下るかも、という予想はしなかったんだろうか。真剣に神様を崇拝していたなら、ぱっと思いつきそうなものだと思うけど。

「ほらほら正宗くん、写真撮るよ写真」母さんは僕のとなりにぴったり寄り添って腕を組んだ。並ぶと身長はだいたい同じくらいだ。今気づいた。

 母さんは撮ってもらった写真をチェックしている。映りが悪かったらもう一度なんて厚かましいことを言うつもりだろうか。できればやめてほしい。

 どうやら満足したみたいで、お礼を言って戻ってきた。僕はほっと胸をなでおろす。

「さあ、次はあれよ」指さす先には、竹から水がちょろちょろ流れる手洗い場があった。「神社に来たら手を洗わないと入っちゃいけないのよ」

 いけないことはないだろう、神様がわざわざ手を洗うはずがない、と思いながら、洗って損をするわけでもないので、僕はすでに柄杓を待つ列に並んでいる母さんのあとを追った。

 たしか手洗いには、作法というか順序があったはずだ。むかしどこかで誰かに教えてもらった気がするけど、うんと小さいころだったので思い出せない。

「これって作法があるんだよね?」僕は小声で母さんにたずねた。

「そうよ。ちゃんと守らないといけないのよ」

「僕知らないんだ。母さん先にやってみせてよ」

「ふっふーん、私にものを教わりたいってわけね。よかろう。しかと見届けよ!」

 なぜか急に変な話し方で横柄な態度をとる母さんは、自分の番が回ってきたので、柄杓を握った。ちょろちょろ流れる水を柄杓の先に貯めて、左手を洗う。次に持ち替えて右手を洗い、また水を貯め直す。そして柄杓の水を手の皿で受けて口をゆすぐ。最後に柄杓を立てて柄を洗い終了。母さんはこの一連の動作をさも手慣れているようにやってのけた。

「どう? 私を見なおした? 惚れなおした?」

 惚れなおしてないし、もともと惚れた覚えもないけど、感心したのはたしかだったので、僕は賛辞の言葉を口にしようとした。そのとき、となりで手を洗っていたおばあさんが「ふふ」と声を押し殺して笑った。母さんはそれが聞こえたのか、素早くおばあさんに向き直って「ちょっと、文句あんの?」と言った。ずいぶんケンカ腰だったし、母さんを笑ったかどうかわからないのにそのたずね方はどうかと、僕はまた肝を冷やした。こう連続で冷えてしまうとおなかを壊してしまいそうだ。

 おばあさんはゆっくりと母さんと対峙し、背は低いながらもむんと胸をはった。

「お嬢ちゃん、柄杓の水は汲み足してはならんのよ。一杯でやらにゃあ。知らんかえ?」

「え、ほんと?」きょとんとしながら、おばあさんを見つめる。そして「むう」とうなりながら睨みつけて「嘘よ! だましてるわね、この妖怪!」と叫んだ。

 おばあさんは妖怪呼ばわりされても、怒るともなくひゃっひゃと笑った。

「ぼーいふれんどの前でええかっこしたいのはわかるが、知識は正しく身につけんとな。恥かくだけじゃわい」

「なんですってぇ?」

 飛びかかりそうな勢いだったので、僕は母さんをうしろから羽交締めにして、おばあさんに謝りその場からすたすたと去った。あやうく恥の上塗りをするところだった母さんは、僕の腕の中でじたじた暴れながら「あのババア、鍋で煮こんでトイレに流してやる」などと暴言を次々と吐いていた。

 充分距離をとって、誰もこちらに注目しなくなり、母さんが大人しくなった頃に、僕は腕を解いた。「もう危ないなあ」と僕は母さんを責めた。

「だってあの山姥、人がいっぱいいるところで私のこと侮辱したのよ! それに正宗くんのことボーイフレンドとか言っちゃって!」

「それは母さんが大っぴらに腕組んだり、惚れた?なんて発言をするから」

「そんなの母と息子の愛ある交流の一部じゃない! 世界中で行われてるわよ、きっとそうよ!」

 それはないと思ったが、口にせず、興奮する母さんをなんとかなだめて僕はひとりで手を洗いに戻ることにした。母さんには離れたところで待っててもらった。

「さっきの順番で、水を足さなければいいんだな」

 僕は母さんが見せてくれた通りに手を洗い、水を汲み足さず一連の作業を終えて柄杓を置いた。一仕事やり終えた気分になって、ふうと一息吐いたところで、僕の横でさっきのおばあさんが笑っているのに気づいた。ひゃっひゃと笑うその顔はくしゃくしゃに丸めたわら半紙みたいで、たしかにこんな妖怪が事典に載っていても疑わないだろうと思った。

「あの、何か」僕はおそるおそるたずねた。

「お前さん、さっきの嬢ちゃんの彼氏かえ」

「いえ違います。あれは僕の母です」

「ひえっ!」おばあさんは過剰に驚いてみせた。「親子だったんけ、見えねえなこりゃ」

「さっきは母が失礼をしました。その、暴言を吐いて」

「ええがなええがな、ばばはああやって人をからかうのが好きだけえ」

 ずいぶん根性曲がりなおばあさんだ。お年寄りは長く生きてきたぶん、もっと他者への思いやりに満ちているものだと思っていたけど、必ずしもそうではないらしい。

「そうですか。ところで僕に何か用ですか」

 おばあさんは僕をじっと見つめる。少々居心地が悪い。

「お前さんくらいの孫がおってな、なんとなく似とるもんだから」

「でも僕はあなたの孫じゃありませんよ」

「わかっとるがえ。でもばばにはそんなもん、どっちゃでもええんじゃ」

 つまり本人でなくても孫もどきがそばにいるだけでうれしいということか。孫への愛情は本物のようだった。僕が信じていることのひとつに「愛を信じている人間は必ずしも悪ではない」というのがある。ちなみにこの場合の「愛」とは、広義だ。つまり男女間のみに存在する恋愛だけでなく、友達や家族、弱者などをひっくるめた意味として捉える。誰に教わったわけでもないけど、今まで生きてきた中で自然と僕の心の中で培われて構成された概念だった。

 よって僕にはおばあさんが完全な悪には見えなかった。要するに、印象は好意的にかわったということだ。

「お孫さんと僕と、どこが似てるの?」

「顔は似ても似つかん。孫のほうが盥一杯魅力的じゃわい」似ている点をきいたのにひどくけなされた気がして、さっきの印象をまた改めようかと思案した。「でも雰囲気が似とる。賢そうなところとかがな」

 賢そうとは、いったいどこで評価したんだろう。それよりも僕より盥一杯魅力があって賢い同い年となると思い当たる節があったので、まさかな、と偶然を疑いながらきいてみた。

「ひょっとしてお孫さんの名前って、巧っていうの?」

「いんや違う」

 それはそうだ。世間は広いんだから、うっかり巧のおばあさんにけなされることがあるはずがない。

 それでも少し肩すかしをくらって僕がぼーっとしていると、襟首を激しく引っ張られて僕は尻もちをついた。振り向いて見上げると、母さんが仁王立ちして僕に敵意の視線を落としていた。

「さっさと立って。行くわよ」

 自分でこかしておいてそれもないだろう、と思ったけど、僕はゆっくりと立ち上がりおばあさんに挨拶して、すでに応天門をくぐろうとしていた母さんのあとを追った。うしろでおばあさんが「ばばの孫は――」と言っていたけど、聞き取れなかった。


46

「で結局、何しに来たの?」

「今日の一番のお目当てはこちらです!」そう言って指差した先には小屋があった。応天門をくぐると砂利が敷かれた広場になっている。それを超えたところにひときわ大きく目を引く建造物があった。たぶんあれが神様の家だろうと僕は想像した。その神様の家と門の中間くらいにその小屋はあり、木造一階建でこぢんまりしている。神様の家と比べたら、神様の飼っているペットの棲家くらいの規模だ。神様がどんなペットを飼おうと思うかはわからないけど、たぶんかわいいものじゃないだろう。もっとまがまがしくて、特殊な能力を持っていて、いざというときに役に立つような、そんなペットだ。ちょっとほしくなってきた。

 僕たちはその小屋へと歩いていく。途中、細い竹で組まれた物干し竿みたいなものがあった。紙切れがくくりつけられているから、おみくじのお祓いのためのものだろう。そういえば、たまにいいおみくじを引いたにも関わらず、なぜかあの竹に巻きつけて帰る人がいる。むかし二年参りのとき、僕のとなりにいたカップルが「きゃー大吉!」「ほんと!」などと言いながら、うれしそうに竹に巻いている姿を見た憶えがある。うらやましいな、とそのときは思ったけど、よく考えたら、大吉なんだからお祓いの必要がない。持って帰るべきだろう。もしかして、引いたら巻くのがルールだと思い込んでいたのかもしれない。大人になっても、些細な思い込みで多大な損を被ることがあるらしいから、生きるためには正しい知識を身につけないといけないという教訓だ。

 とか考えていたら、小屋の前まで来た。そこはおみくじ売場だった。

「ちょっとこれ持ってて」母さんは僕に自分の持っていたハンドバッグを押しつけた。そして腕をゆっくり左右に持ち上げながら「ふーふー」と呼吸を整え出した。まるで精神統一して今から困難に挑戦でもするかのようだ。その実、おそらく単におみくじを引くだけなんだけど。

「ちょっとおおげさじゃない? 恥ずかしいんだけど」

「なんで正宗くんが恥ずかしいのよ。やってるのは私なのよ。正宗くん、もしかして私のハンドバッグ持ってるのが恥だとでも思ってるわけ?」

 どうしてそういう思考回路になるんだろう。付き人である僕の立場を客観すれば、自然と誰が恥ずかしいかわかりそうなものだ。

「もう精神統一はいいから引いちゃってよ」

「なんで私が引くのよ。正宗くんのために来たんだから、正宗くんが自分で引くの」

「ええ? 僕?」

 意外だったので、ちょっと声が裏返ってしまった。こんなことで不意を突かれるとは不覚だ。それにしても、なぜ僕がおみくじを引かなければいけないのか、理由が知りたい。

「なぜって、来るべき誕生日に向けて、あらゆる対策を講じなければいけないからよ。そのためにおみくじの予言をヒントにするの!」

 ああ、それでか。僕の誕生日のためね。

 そういえば、誕生日が近づいているなあ。

「わかったよ」僕は素直に承知した。

 受付の人に百円を払い、六角柱の箱を逆さに振って、一本棒を取り出した。それを受付の人に渡す。棒の番号を見て、棚から一枚の紙切れを取り出して僕にくれた。そのとき、

「いいのが出るといいわね」

と申し添えてくれた。いい人だな、と僕は思った。

 受け取った紙切れをたたんで、母さんのほうを振り向く。なんだか異常にそわそわしていて、足元の砂利がじゃっじゃっと音を立てるほどだった。出走前の競走馬みたいな感じ。両手を胸の前に持ってきて細かく上下に揺れている。どうしてそんなに不安定でいるのかよくわからない。

「どうどうどう?」母さんのセリフは、僕にきいているのかそれとも自分を落ち着かせるために言っているのかわからないものだった。

 僕は折りたたんだおみくじを開いて内容を読んだ。

「うわ、凶だって」

「うそ! どれ貸して!」母さんは僕の手からおみくじをひったくった。必要以上に顔を近づけて舐めるように文字を睨む。何度読んでも内容は変わらないだろう。

「ほんと、凶だ! 私はじめて見たよ! えー感動!」

 はじめて見たものに感動する心情は理解できるけど、対象があまりにもネガティブなため、僕は同調できなかった。それに凶の災いは僕に降りかかるわけで、母さんにとっては他人事だろう。

「あ、でもー、正宗くんの誕生日にとってはよくない兆候だよね。どうしよう」

「どうにもならないんじゃない? とりあえずお祓いしてもらおうよ」

「お祓いって、あの胡散臭い神様の真似事しながらふりふりのついた棒を振り回すやつ?」

「違うよ。あそこにある竹の棒におみくじを結んで神社に処理してもらうんだよ」僕は向こうに見える竹の枠組みを指さした。

「あれってお祓いなの? 知らなかったー」意外そうな母さんだ。「でも神社なんか信用できない! これは持って帰って私たちでなんとかするのよ!」

 神社が信用できないのに、神社がつくるおみくじは信用できるのか。なんだかちぐはぐだと思ったけど、それで母さんの気がすむならかまわない。僕もそこまでおみくじや神社に信用をおいているわけでもないし。

「正宗くん、おみくじ大事に持っておくのよ」僕は折りたたまれたおみくじをポケットにしまった。

「じゃあ次行こう」母さんは応天門に向かって歩き出した。

「ここはもういいの? 向こうの建物は見て行かないの?」

「あんなとこ、なんの用事があるのよ。おみくじだけでいいの!」

 まるで映画を観に行ってパンフレットだけ買って帰るような母さんの行動は、僕には理解できなかったけど、それほどあちらに興味があるわけでもない。

 門を出ると、人力車が客を乗せて南にある巨大な鳥居のほうへと進む姿が目に入った。あんなものに乗って人目に晒されるなんて、まるで何かの罰ゲームだ。おのぼりさん丸出しの姿は道行く人々の好奇の視線のいい的だろう。僕はごめんだね。たとえ母さんが懇願してもね。

 手洗い場のほうに目をやると、さっきよりもずいぶん空いていた。おばあさんの姿を探してみたけど、もう帰ってしまったのか見当たらなかった。


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 次はどこに行くのかと思ったら、すぐ近くにある京都府立図書館だった。さっき前を通ったときは図書館だとは気づかなかった。何しろその容姿が図書のイメージとはかけ離れていたからだ。僕のイメージでは図書館とは、外見からしてもっと無機質で、余分な機能や装飾を取り除いて洗練されたものだ。それがここはどうだろう。たしかに余分な機能や装飾は見られない。派手派手しい印象もないけど、どうにも高貴さや重厚さといった敷居の高さを感じる。実際、建物の上のほうに「京都府立図書館」と書かれていなかったら、図書館だなんて絶対わからないだろう。なんだか古い建築様式の建物だなあ、という印象しか持てないに違いない。だから、僕はここに入るのにちょっと抵抗があった。

「正宗くんどうしたの、行くわよ」入口手前で歩を止めた僕を振り返って母さんが言った。

「なんかここ変じゃない?」

「何が変なの?」母さんは首をかしげる。

「図書館なんだよね、ここ。そのわりには雰囲気が、こう、重い感じがしてさ。あんまり入りたくないんだ」

「どうしたの? べつにおばけが入口で警備してるわけじゃないし、図書館強盗が来てもすぐそこに交番があるから大丈夫よ」

 いやべつにそんな心配はしていない。おばけは存在からして疑っているし、第一おばけが警備でも役に立たないじゃないか。それに図書館強盗ってなんだろう。わざわざ図書館を襲ってまで手に入れたい本でもあるんだろうか。本屋で買えばいいじゃないか。僕は図書というものにそこまで価値を見出せなかった。

「わかったよ。変な説得」僕はひとつ嫌味を言って、図書館の敷居を跨いだ。


48

 中は外から見た感じよりも一層広かった。東側の壁上部にある大きな窓から明かりがこぼれ、図書棚を明るく照らしている。歴史の重みは内部ではそれほど強く感じられず、むしろ内装はきれいで適度に古いから居心地がいい空間だった。

 何より静かだ。外の喧騒は二枚の入口ガラスドアに阻まれて、ここまで届かない。聞こえるのは、利用者が検索用のパソコンのキーボードをたたく音とこつこつと歩く足音くらいだ。耳触りな騒音が聞こえない空間は京都でここだけしかないと思わせるほどに、快適な静寂だった。

母さんは一階中央にある地下に続く螺旋階段を下っていく。僕も続いた。

 地下一階は、ほとんど書棚で埋め尽くされ、空いたスペースに机といすが置かれていた。土曜日の午前中だからか、机は空いていた。ちらほら本を広げてノートに何か書き込んでいる人たちがいる。ここで勉強するとはかどりそうだ。しかしまだ午前中だというのに、机につっぷしてすーすーと肩を揺らしている人もいた。こんなところで寝るなら家で布団の中にいればいいのに。

 母さんは検索用パソコンへまっすぐ向かい、キーボードをかたかたとたたきはじめた。何を借りるつもりだろう。

「やった! 戻ってる!」そう言ってマウスで何やら操作すると、小さなプリンタから紙切れが一枚出てきた。

 母さんはその紙に自分の名前を書き、受付に持っていって係の人に渡した。「少々お待ちください」と言い残し、係の人は奥に入っていった。

「ねえ、何しに来たの? 僕が楽しいんじゃなくて、母さんが楽しそうだけど」

「いやあねえ、正宗くん」突然おばちゃん口調になったね、などと発言すれば、静寂が暗黙のルールである図書館で母さんは大声で泣き出しかねない。「これも正宗くんの誕生日のためなのよ。伏線よ伏線」

 本を借りることがどう僕の誕生日に結びつくのか。伏線にしては迂遠すぎるな、と思ったけど、きいても教えてくれないので、これは秘密なんだろう。たいした期待を持っていなかったので、僕はあきらめて書棚を見てまわることにした。

 僕は数学書のコーナーをうろついた。北側に縦に並んだ書棚がたくさんあり、その東よりのところに数学コーナーはあった。レオンハルトに通うようになって、学校では得られない算数の知識が増えるにつれ、数学への関心も高まっていた。

算数と数学の違いを老先生にきいてみたことがある。そのとき老先生はうれしそうにこう言った。

「算数は教科の中で一番楽しいもの、数学はそれに輪をかけて楽しいものだ」

 明確な定義で答えてもらえなかったので僕は不服だったけど、老先生の算数と数学への想いが垣間見えたのでまあいいかと納得した。どうせそのうちわかることだろう。

 インターネットで調べてみたこともある。多くの見解があるとのことだったけど、僕が一番納得したのは、「算数には証明がない。数学にはある」という単純で簡潔な言葉だった。ポイントは「証明」という言葉だ。

僕はこの「証明」という言葉が好きだ。なぜかというと、証明されたことは、もう完全に本当のことだから。

そこには疑う余地がまったくなくて、誰もが納得せざるをえない真実となる。完璧だ。本当のことは、世界に証明されたことをおいてほかにないだろう。だから証明されるということはとてもすごいことだし、それを成し遂げた人は尊敬に値する。数学に興味を持つ以前から、僕は完全な本当のことを提示できる人になりたい、と思っていた。

僕の身長の二倍はあるかと思われる棚に、ずらりと書籍が並んでいる。使い古された古書から、カバーがきれいな新書までさまざまだ。表紙に踊る文字はどれも聞いたことのない難しそうな単語が並び、どれを手にとっていいものやらわからなかった。

僕は視線を固定させずにするすると棚の間を移動した。手にとって開いてみたいと思う本は特になかった。あっという間に北側の端の壁まで歩いてきてしまった。北側の端には棚の間に一人用の学習机が備えつけられていて、全部の机には誰かしらが座っていた。

僕は受付にいるだろう母さんのもとへ戻っていった。ちょうど母さんが探していた本を受け取るところだった。なぜか手渡しされる際、母さんは変な顔をしていた。形容するのが難しいけど、あえてたとえるなら、ケチャップのないオムライスみたいな感じ。とにかく、何か不満があるときの顔だ。そんなに待たされたわけでもないのに、何を怒ってるんだろう。

「あ、正宗くん。見たい本とかない? なければもう行くけど」

 僕は首を振った。



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