目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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38

 傾いた西日を浴びながら、僕は川沿いを下流に向かって歩いていた。夕陽によってふんわりと温かみを帯びながらも、冬の余韻をいまだ隠し持つ川沿いの冷たい空気が僕の身体を包んで離さない。僕は今、自分が暑いのか寒いのかすらわからなかった。

 僕は歩きながら若先生の話を思い出す。

 若先生の話を聞くうちに、僕の頭に六年前の出来事が少しずつ断片的によみがえってきた。たしかにイベントがそのとき発生し、僕はその忌まわしい記憶を頭の片隅に追いやっていたみたいだ。そう、そのイベントは僕にとって不快な体験で、生半可に思い出すと、精神が壊れてしまいかねないものだった。

「俺もどうしてこんなに鮮明に覚えているかよくわからんが、レオンハルトでひと目見て、お前があのときの子供だとわかった」

話し終えた若先生は気遣うように僕を眺めていた。僕は完全に過去の記憶がよみがえった衝撃で、頭が機能を停止していて何も考えることができなかった。立ち尽くす以外の機能がすべて失われてしまったみたいな。

「大丈夫か?」若先生がそう言って片手を僕のほうに差し出してきた。

 僕は無言のまま若先生の手を両手で掴んでぎゅっと力を入れた。自分が平気でないことをアピールしようとしたつもりだった。若先生も手に力を入れて握り返してくれた。

 僕は力なくうなだれ、うつむいて足元をじっと見た。ぽつぽつと水滴が落ちていくのがわかった。屋根の下にいるんだから足元が雨でぬれるわけがない、とはわかっても、自分が涙を流しているとはわからなかった。

 僕が泣いているのに気づいても、若先生は動揺を見せずにそっと僕の手を引き、自分のとなりに僕を座らせた。片手は僕の手をしっかり握ったままで、タバコの煙をふわりと吐きだした。吐き出す煙は、風もないのに僕の周囲に集まり、僕の視界を白紫色に染めた。不思議なことに煙たくはなかった。

 ふわふわと雲のような煙に包まれながら、僕は気持ちを整理し、ため息ひとつで自分の中の悲しみを追い出した。それは「ふう」と小さいため息だったけど、そのため息により白い世界に穴が空き、そこから煙が悲しみを飲みこんでひゅううと出ていった。顔を上げると、あたりはそろそろ夕陽によって赤みを帯びて輝き、さっきまでの白い世界とのコントラスト効果もあってより美しく見えた。

「大丈夫です」僕はようやく声を出すことができた。若先生へとまっすぐ目を向けて見せる。「そうか」と言って若先生は僕の手からそっと力を抜いて離した。

「先生のタバコの煙は不思議ですね」

「平和の名を冠するこのタバコには魔法がかけられている。俺の好物だ」

「魔法は存在するんですか?」

「定義を正しく理解すれば、存在を認識できる」

「魔法の定義はなんですか?」

「魔法とは、不思議を司る術の総称だ。さらに術とはつまり、なんらかの技術を意味する。ゆえに不思議を起こせるものに魔法がかけられている、と言っても矛盾はない」

「じゃあ先生のタバコは魔法のタバコといっても間違いではないのですね」

「そのとおり」


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 夕陽差す川沿いの道を僕はとぼとぼ進む。まだ過去のトラウマが僕の心をちくちくと突いているけど、話を聞いた直後よりは冷静に受け止めるだけの心がまえが身についていた。それも若先生のおかげだ。

 僕はカバンのポケットに入っている若先生のお守りを取り出して目の前に持ってきてじっと眺めた。なんとなく心が落ち着く。帰ったら母さんに見つからないように試してみようと決意する。見つかったら母さんがわんわん泣いて近所迷惑だろうから、注意に注意を重ねて注意でぐるぐる巻きにするくらい気をつけよう。

 ふと思い立った。もしかしたら巧がもらったライターも何かのお守りなのかもしれない。そうすると、巧にも何か悩みがあって、それを若先生に話したということになる。巧に悩みなんかあるのかな。僕は目をくるくるとまわして思い当たることを探ってみたけど、何も思いつかなかった。

 カバンのポケットにお守りをそっとしまうと、屋上で見つけた封筒を入れっぱなしにしていたことに気づいた。まだ開封もしていない。見つけてからいろいろあったもんだから、すっかり忘れていたんだ。

 学校の北側にある大きな公園に入り、ブランコに座って封筒を調べた。何も書かれていないし、街灯にあてて中身を透かそうとしても、何も見えなかった。ただ紙が入っていることがわかったくらいだ。そりゃ何かは入っているだろう。

 これを拾ったときのことを思い出した。有里は屋上に僕を呼びだし、不思議で僕を魅了してガラスを割って現実に引き戻すという一連のイベントを起こしてくれた。封筒の中身を見てしまうと、またああいうイベントが起こるようになっているんだろうか。また有里はまた何か無茶をするんだろうか。僕は不思議を体験できる誘惑と有里に無茶をしてほしくない気持ちの間で揺れた。封筒を開ければめくるめく不思議と現実が錯綜する世界に、このままゴミ箱に捨てればアップダウンのない平坦な学校生活に。

 正直なところ、僕はどちらでもいいと思っていた。不思議に触れて自分の常識が揺り動かされるのは愉快だと思う。また平坦な道をきょろきょろしながらまっすぐ進んでいくのも嫌いじゃない。それなりに新発見もあるだろう。つまり両者にそれほど違いはない。じゃあなぜ僕は思いとどまっているのか。

 ああ、そうか。

 有里だ。

 これが有里の仕掛けた罠イベントであることは間違いない。首謀の有里は僕をこの手紙で誘導しながら物語を進めていくつもりだろう。どんな意図があるのか、何が目的なのかさっぱりわからない。だけど、こないだレオンハルトで問い詰めたときの笑顔が、有里がイベントに秘めている想いを物語っているのではないか、と僕は考えた。

つまり、有里は僕がイベントを進めることを期待している。

でも進めてしまうと、また有里が何かしら騒動を起こして自分を世間的に不利な立場に追い込んでしまうんじゃないか。問題を起こしてその理由を問い詰められても、こんな子供じみた傍から見たらいたずらにしか映らないことのために自分を犠牲にしてしまうんじゃないか。僕はそれがいやだった。

でも僕が進むのをやめてしまうと、それは有里の期待を裏切ることになる。何も理解できないまま進んでいるんだから、普通に考えたら僕が前向きに捉える必要なんてまったくないんだけど、やめてしまうと有里は悲しむんじゃないか。彼女を傷つけてしまうんじゃないか。僕はそれもいやだった。

封筒の封を切るのをためらっていたのは有里が原因だったんだ。


40

 結局封筒は開けないまま、僕はまっすぐ家に帰った。前回の教訓をいかして母さんには相談しなかった。うっかり封筒を見せて「女の子との正しいつき合いについて」とかいって一席ぶたれてはかなわない。

 あと若先生のお守りも見つかるわけにはいかなかった。こっちはあまりにも言い訳が苦しいし、母さんのとり乱しぶりも容易に想像できるからだ。

「正宗くん、不良なの? 不良なのね? 不良に不良を重ねて不良でぐるぐる巻きにした不良なんでしょ? あの塾の先生にそそのかされたのね? あとたーくんにも? 私が今すぐ全部追い払ってあげるから! そんなに火が好きなら、やつらの家を含めて一切燃やしてやるから!」

 こんな感じだろう。母さんなら言いかねないし、もっとおそろしいのは本当にやりかねないところだ。僕の身辺でこれ以上の犯罪沙汰は勘弁してほしい。

 封筒とお守りに関しては、来週巧に相談してみよう。土日の間はカバンに封印して存在は一時忘れることにしよう。それが一番だ。最近いろいろありすぎてちょっと心が過労気味だから、今週末はゆっくり休むことにしよう。


41

 週末は家でのんびりしようと思っていたのに、母さんが我がままを言いだして聞かなかったため、結局外出を余儀なくされた。

 土曜日、僕は九時頃にのそのそとベッドから抜け出し、もたもたと朝の身じたくを終えた。キッチンで母さんの朝ごはんを用意してから牛乳を飲んでいると、母さんが部屋から出てきた。僕は思わず牛乳をぶっと噴き出した。

 なぜか異常にドレスアップしていた。年甲斐もなく真っ白なフリフリのドレスを着こんでいるものだから、玉手箱を開いたお姫様みたいな印象だった。それはいいすぎか。年増というほどでもないけど若くもない女性が気合を入れて着飾っているのは普通じゃないというのが、僕が思う一般的な見解だけど、「今日は結婚式なの」と言われたら普通の衣装に見えなくもない。もし母さんの役どころが花嫁だったら、の話だけど。ただ、今日は誰の結婚式でもないので、その点が不自然だ。

「どうしたの、その格好」

「えへへ、どう? 私もイケてるでしょ?」くるりと一回転してフリルのスカートを持ち上げながら、母さんは自分に酔っている。

「どこか行くの?」

「もう、正宗くん! 女の子が、どう?ってきいたら褒め称えるボキャブラリーのひとつでも身につけておかないとダメよ!」

「じゃあきれいだよ。どこか行くの?」

「じゃあって何よ! きれいで美しくて小六の子供なんか絶対いませんね、くらい言ってくれてもいいでしょ!」

「まず言葉が重複してるし、それじゃ僕が自分で自分の存在を否定してるみたいじゃない。それにボキャブラリーはひとつでいいんじゃないの?」

「もういいわよ! とにかくね、今日私はデートなの」

「それならもう少しシックでおとなしい服装のほうがよくない?」

「いいの! 相手が相手なんだから!」

「ふうん」僕は牛乳を飲みほしてグラスを洗った。テレビの電源を入れてバラエティなのかニュースなのかよくわからない番組にチャンネルを入れる。

 背後で床をどんどんする音が聞こえたので振り返ると、母さんが悲しそうな顔で地団太踏んでいた。「どうしたの?」と僕はきいた。

「なんで誰と行くのかきいてくれないの?」顔は悲しそうなのに足元は乱暴だから、感情が読みとれない。怒っているのかへこんでいるのか。

「いやあまり立ち入った質問もどうかと思って」

「私の人生に正宗くんはどんどん立ち入っていいの! 棲みついていいの! 親子なんだから!」

「わかったよ。誰と行くの?」

「正宗くんよ」

「そうなの? 聞いてなかったけど」

 突然母さんはシンクで蛇口をいっぱいにひねって、ザーっと水を流しながら「あー!」と叫んだ。蛇口の水は音消しかな。どうしたんだろう。気でもふれたんだろうか。

「正宗くん普通すぎ! もっと驚いて意外そうなリアクションが欲しいのに! それで急に言われても困るよ、勝手すぎるよ、あと僕と出かけるんならそんな服やめてよ、とかそういう文句を期待してたのに! 親子の衝突がほしいの!」

 なぜそんなものをほしがるのか理解できなかったけど、「その服は着替えてほしい」は、次の発言に用意していた言葉だった。

「そんな無意味な衝突したらすり減って傷ついちゃうよ。もっと穏やかに仲良くいこうよ。それに服のことなら言及するつもりだったよ。そんな服で朝ごはん食べて汚れたらたいへんだから着替えてって」

「あっそれもそうね。着替えてくる」母さんは自室に戻っていった。

 ともかく今日はゆっくりしていられないみたいだ。テレビでは、レポーターが京都の上賀茂神社でお菓子をおいしそうにほおばってコメントしていた。今度買いにいってみようと僕は思った。


42

 母さんの運転する車は危なっかしい。今まで事故を起こしたことはないけど、いつ事故が起こってもおかしくないほどに不安定な足運びだ。狭い道で対向車とすれ違うときはいつも「ひいっ」とひきつった声を上げるので、助手席に座る身としては、常に人生にやり残しがないように覚悟しながら乗車しなければいけない。

「で、どこに行くの?」僕は比較的母さんが落ち着いている頃合いを見計らって話しかけた。

「楽しいところ」まっすぐ前を向いたまま母さんは言った。服装は無難なものにかわっていた。暗色のカーディガンの下にはクリーム色のワンピースを着ている。家を出るときはパンプスを履いていたけど、今は車内に備えつけのスニーカーに履き替えている。

「天国じゃないといいけど」

「縁起でもないこと言わないで。今まで私が事故起こしたことなんてないでしょ」

「まあ今のところはね」

「今から行くところは楽しいんだから。久しぶりに私と一緒に出かけるんだから、少しはうれしそうにしてもいいでしょ。むかしは正宗くん連れていろんなところに行ったんだから」

「そんなに頻繁に出かけたっけ」

「行ったわよ。買い物にはもちろん連れていったし、ひまさえあれば公園とか河原とか森とかに遊びに行ったのよ。忘れちゃったの?」

「それいつの話?」

「正宗くんが手の平サイズに小さくて、まだ私のおなかにいたとき」

「もし僕が覚えていたら怪奇現象だね」

「だって生まれてからはこわくて車で出かけられなくなったんだもん」

「こわいって何が?」

 赤信号で止まり、母さんは心底安心したかのようにため息をつき、ギアをニュートラルに入れた。

「自動車事故の死亡率って助手席が一番高いっていうじゃない? そんなところに正宗くんを乗せるのがこわかったの。だから極力よほどの用事がないときは出かけるのを控えるようにしてたのよ」

「自分の運転スキルを正しく認識してるってことはいいことだよね」

 青信号にかわり、前の車が進みはじめた。母さんはなぜか急発進した。僕は一瞬肝を冷やしたけど、ここで余計なことを言って慌てさせるとかえって事態が悪化しかねないので黙っていた。

「正宗くんもね、大人になって免許をとればわかるわよ。運転がいかに神経をすり減らす厳しい修業なのかをね」

「そうかな」

「そうよ。私の子なんだから」

 そこは似たくないな、と思ったけど口にはしなかった。



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