目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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35

 学校へ向かう途中、僕は昨日老先生が言ったことを思い出しながらまわりに目を配らせて、ことさらに灰皿を探しながら歩いた。今まで気づかなかったけど、街中には至るところに灰皿が設置されている。バス停やコンビニ、自販機のとなりやタバコ屋の店先にあり、突然道端にぽつんと置かれているのも見つけた。今は朝だからそこで一服している人は少なかったけど、これだけの数があるんだから喫煙者も相当いるんだろう。そのうちのひとりが若先生というわけだ。

 若先生の姿は見つからないまま、僕は学校に着いてしまった。昨日の今日だからすぐに見つけられるとは思ってないけど、なんだか宝物探しみたいで楽しい。見つけたからといって何か賞品がもらえるわけじゃないけど、若先生にはなんだか宝物みたいな魅力を感じる。僕にとっては謎解きの鍵みたいな人だ。どうしてそう思うのか、自分でもよくわからないんだけど。

「なんでだろう」

「なんでだろうな」

 巧に若先生のことを話して朝からふたりで首をひねらせていると、定刻にミズカツ先生が入ってきた。不必要にドアを勢いよく開け閉めするものだから、ざわついていた教室内はさっと静かになった。どうも機嫌が悪そうだ。それにしても自分の感情を職場で丸出しにするのは大人としてどうだろう。まるで子供じゃないか。

「席につきなさい」ミズカツ先生は命令形で言うので、クラスの何人かが顔をしかめた。反抗心を態度に表したのは数人だったけど、心の中では全員が先生に対して毒を吐いているだろう。

 ミズカツ先生は教壇に立ち、執拗に出席簿のファイルをとんとん揃える動作をしている。もう揃っているんだから必要ないだろう。うるさいし不愉快だからやめてほしい。どうやら僕も毒を吐いている。

 おほんおほんと咳払いを何度も重ねたりファイルを揃えたりして間をとりながら、ミズカツ先生はクラスを睥睨する。僕は目を合わせるのがいやだったから、視線がこっちに向けられるとすぐに顔を背けた。クラスに向けられる視線はいつものそれよりもネガティブなものだった。いつもの負の感情に加え、もっと深く濃厚でどす黒い怨恨のようなものを感じた。だからより一層教師としての生徒を見る目から遠ざかっているように思える。

「はーい、席についてくださいねえ」

急にミズカツ先生は腰砕けななよなよ声を出した。

 僕を含め、今まで睨まれていた身としては、急な変化にすばやくついていけないのも無理はないと思う。みんなぽかんと口を半開きにして先生を見つめていた。僕のうしろで巧がちっと舌を鳴らすのが聞こえた。

「じゃあ朝の挨拶から。号令お願いしまーす」

「起立!」有里はことさら大きな声で号令をかけた。まるで先生へのあてつけみたいだった。みんなは有里の変わりようにも動揺し、のそのそと時間をかけながら席を立った。

「礼ぃ!」有里の声は完全に裏返った。クラスの何人かがくすくすと笑った。僕もちょっと顔を上げて有里を見た。有里はこっちを向いて片眉をひくひくと動かしながらそのまま頭を下げた。頭を下げても僕を見ていたので、その姿勢がおかしくて僕は下を向きながら肩を震わせて笑った。

「着席」全員がリラックスして腰を下ろした。有里のおかげだ。

「それでは朝の会をはじめます前に、昨日の事件についてちょっとお話ししますね」

 ふたたび全員が身体を固くした。

「昨日の昼休み、教室の窓ガラスが誰かによって割られるというたいへん痛ましいことが起こりました。ガラスはひとりでに割れたりしないので、人間の手で故意に割られたということです。そして原因の調査の結果、ある生徒の犯行であることが判明しました。個人のプライバシー保護のため、その名前は明らかにしませんが、この中にいることだけ告げておきましょう。その人、仮にAと呼ぶことにしますが、Aは犯行後、先生や家族と話し合いをしたにも関わらず自分の行動をまったく反省しませんでした。まるで自分が何も間違ったこと、悪いことをしていないかのような態度をとるのです。これは由々しきことです。六年生にもなって、ガラスを割ることが悪いことだと考えられないのですから」

 ミズカツ先生は一気にまくし立て、一息ついた。クラスはじっと先生の話に聞き入っている。

「今もAは私の話を真剣に受け止めていないでしょう。困ったものです。これからもAとは建設的な関係を築いて、思い出に残る六年生生活をすごしてもらいたいと私は考えているので、名前は伏せていますがあえてみんなの前でこういう話をしているのです。この先生の想いをぜひ本人には理解してもらい、今後こういった惨事が何を招くのか、またその凶悪性についても考えなおして正しい生徒になってもらいたいと思います。みんなもわかっているとは思いますが、いかなる理由があろうとも、悪事に手を染めることのないようにお願いしますね」

 ミズカツ先生にしては謙虚で下手に出た態度だ。こんな話し方もできるんだな、と僕は先生の評価を改めた。

 先生の話の内容に異存点はない。僕の中では窓ガラスを割ることは悪だからだ。でも老先生の話にもあったけど、この場合僕の悪の定義は正しくない。なぜなら有里の正義と矛盾するからだ。有里の中で、窓ガラスを割ることは悪ではないとされている。そこには有里の正義に基づいた理由がある。それがなんなのかはまだ教えてもらってないけど、どんな理由にしろ、僕に納得できるものだとは今のところ到底考えられない。

 先生の話を受け、教室内はざわざわしはじめた。「この中の誰かが犯人?」「どこのどいつだ、そんな馬鹿は」「お前じゃねえの?」「私を疑うやつは窓から放り投げてやる」「ミズカツ今日は先生ぽいな」「四月だけど雪降るんじゃない?」「今日はあったかいから大丈夫だよ」「六年にして洒落がわからんとは哀れな」「お前は老けこみすぎだ」「でもそんな人がいるなんて危ないよね」「常識ってもんがないんだな」

 次第に休憩時間みたいな空気になってきた。みんながそれぞれに好き勝手話しはじめるからがやがやとやかましい。みんな有里のことを知らないみたいだった。もし真実が明らかになれば、みんなさぞ驚くだろう。有里はぱっと見普通の女の子だし――はじめはちょっととっつきにくいけど。

「はーい落ち着いてくださーい。静かにー」ミズカツ先生はいつもみたいにファイルでばんばんするんじゃなくて、言葉で注意してみんなの関心を集めた。本当に雪が降るかもしれない。

「ほかのクラスでも朝の会の前にこのお話をしているはずなので、今日中には六年生全員がこのことを知るでしょう。各所で噂になり、そのうちに誰が犯人か聞いてしまうかもしれません。でもその子を責めたりしないように。たしかにAがやったことは悪いことです。でもだからといってAのすべてを否定したり拒絶したりしてはいけません。物事をひとつの面からだけで捉えるのではなく、多角的な視点を身につけましょう。どう考えてもガラスを割るのは悪いことですが、Aに何かしらの理由があるなら、それを聞いて本人の主張を理解するべきです。そうしたあとで、やっぱり自分が悪かったということを諭してあげることこそ、その人への愛なのです。私はみんなを護る教師です。そのことをわかっておいてくださいね」

 今日のミズカツ先生が謙虚で殊勝なのは、これが言いたいからだったのか、と僕は得心がいった。朝の挨拶からもわかるように、先生はみんなにあまりよく思われていない。授業の進行とかに問題はないし、むしろじつにわかりやすい授業で、このクラスの実力は学年の中でもいいほうだろう。六年生になってから異常な頻度で行われる各教科の小テストがその事実を証明している。でも普段の態度、たとえば生徒を見つめる攻撃的な視線とか気易い話し方とかがみんなの心にかちんとくる。その些細な欠点が先生の全体を表していると僕らは思っている。つまり教師としての仕事、勉強を教えることはしっかりこなしているけど、ひとりの大人として人間が小さいから、尊敬できないし信頼できない。僕たちは先生の表現を用いるなら、物事をひとつの面からしか捉えていないことになる。先生はもっと多角的な視点を持てという。そうすれば、より有里への理解を助けると。手はじめに、自分への印象を改めろと。

 それならどうしてわざわざ嫌われるような態度をとるんだろう。

 そのことを先生にぜひきいてみたいけど、今は発言する空気じゃない。

「さて、それではようやく朝の会をはじめましょう」


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 昼休み。僕と巧が窓際に座って牛乳を飲む光景はもはやデフォルトの風景だ。

「有里大丈夫かな」

「あいつには何も影響がないだろうな」

「でもばれたりしたらみんなにいじめられたりしないかな」

「それは起こりうるな。実際あいつが犯人だって見解が広まってるみたいだぜ」

「昼以降いなかったし、有里のお父さんが迎えに来たりしてたしね」

「傍から見りゃ一目瞭然だな」

「僕らに何かできることはないかな」

「そりゃあるとも」

「どうしたらいい?」僕は巧のほうへ乗り出した。

「あいつの言い分を理解することだ」巧は力強く僕を見た。「それは俺たちにしかできない。そしてそれは俺たちがしなけりゃならない」

 巧の言うことはわかった。僕たちは有里を理解しないといけない。でもその先、有里に賛同するかどうかは僕たちの自由というわけだ。

僕はどうしたらいいだろう。有里のやったことは悪だと思う。でも有里が悪そのものだとは思わない。彼女を受け入れるか拒むか。いずれにしても情報が不足している。窓ガラスの件や有里の正義については五月にならないとわからないみたいだから、今ごちゃごちゃ考えても答えが得られず、最初の問いに戻ってはくり返す堂々巡りだ。

待つしかない。それに僕は有里に待つと言ってしまった。約束は守らないといけない。

「そうだね。少なくとも僕たちはそうすべきだね」

「少なくとも、か。そういう考え方は俺にはできなかったな。可能性の模索すらしなかった。世界を広げるには新たな出会いが一番手っ取り早いからな」

「そうだよ。僕も巧と有里に出会って本当によかった。自分を表現できる友達ができたことをうれしく思うんだ。ありがとうね」

「おいおい照れるじゃねえか。そんな歯の浮くセリフがよくつらつらと言えるな」

 巧は頭を掻きながらにやにや顔でうつむいてしまった。ほほに赤みが差している。本当に照れているみたいだ。僕もちょっと恥ずかしくなってきた。

「いや正直に自分がどう思ってるか伝えたかったんだ。でもちょっと気取りすぎだったかな」

「そこまで正直に言えるやつはなかなかいないぜ。でも馬鹿にしてるわけじゃない。お前の素直さを俺はうれしく思う。俺もお前が転校してきて目の前の席に座ってくれてよかったぜ、ありがとな」

 僕らはお互いににやにやしながら握手を交わした。傍から見ている人がいたら、「青春」とか「親友」とか「かゆい」とかいう言葉が飛び交うような馬鹿の仕方をされるだろう。でも僕は平気だ。たぶん巧もそうだろう。


37

 学校からの帰り道、僕はひとりで灰皿を探しながらいろいろ遠回りして歩いていた。

 校門を出るとき、巧は「用事があるから」と言って家とは反対のほうへと帰っていった。有里はまだいるかな、と教室に戻ってみたけど、すでに誰もいなかった。僕はひとりで帰ることにした。今日レオンハルトは休みだと先日老先生が言っていた。

 僕は学校近くの賀茂川沿い通りを上流に向かって進んでいた。この辺は川中にあちこち雑草の島が浮かんでいて、川岸からはほとんど水が見えない。深さもわからない。けど流れはこのあたりの交通量なみにゆっくりだ。四月はほとんど雨が降らなかったからかな。

 対岸通りには食事処やパチンコ店があるのに、こちら側は畑ばっかりなのはどうしてだろう。これではこちら側に住んでいる人たちは外食のときや遊びに行くときに川を渡らなければいけない。両岸にあればそんな面倒もないのに。それは無理か。そんなにぎやかな店舗の並びに挟まれては、川に棲む魚たちが落ち着いて暮らせないだろう。対岸に並ぶ食事処はなぜか回転寿司の店や懐石料理店ばかりだ。魚たちは毎日まな板の上で捌かれる夢を見ているに違いない。料理店が倍になると、悪夢もひどさを増してしまうだろう。

 上流に向かってどんどん歩を進めていくと、滝のように段差になっているところがあった。高さは四メートルくらいだろう。水量が少ないので、世界の有名な瀑布のように水しぶきが飛び散っていない。なんとも地味な滝だ。

 その滝の上には広場があり、休憩所が設えてあった。屋根つきベンチの下に人影があり、僕は近づいていった。人影から煙が立ち上っていたからだ。

 若先生はベンチに寝転がりながら、屋根の裏側をじっと見つめてタバコを吸っていた。西日が若先生を照らし、立ち上るタバコの煙は紫色に見えた。どうしてだろう。タバコの煙って本当は紫色なのかな。

 僕がじわじわ近づいていくと、ふいに若先生の頭がぐるんとこっちを向いた。あまりの勢いに、くわえたタバコの先から灰が飛び散った。

「よう。こんなところで何してる」

「僕は学校の帰りです。先生は何してるんですか?」

「少なくとも社会的有為な行動はしてないな」

「お休みですか?」

「そんなとこだ。お前今日レオンハルトは行かないのか」

「お休みです」

「休み? どっか悪いのか?」

「僕じゃなくて、老先生が今日は休みだって」

「老師に何かあったのか?」若先生は老先生を老師と呼ぶみたいだ。

「いえ、よく知りませんけど、とにかく老先生が今日はお休みだと」

「そうか。あとで電話しないとな」

「お休みなのがそんなに珍しいんですか?」

「レオンハルトはいつでも門戸を開いている、老師が息災のときはな。休みとはつまり、老師の体調が優れないということだ」

「そう、なんですか」

 なんだか妙だと思った。だって老先生は前もって今日が休みだと言っていたからだ。若先生のいうとおり体調が悪いんだとすると、老先生が今日調子を崩すことを予測していたみたいじゃないか。あるいは、あのときからじつは調子を崩していて、今日は病院に行っているのかもしれない。それが一番現実的だ。

「じゃあお見舞いに行かないといけませんね」

「いやそれはやめとけ」若先生はタバコの火を消してのそりと起き上った。

「どうしてですか?」

「老師は気遣われるのが嫌いなんだ。まだ自分が健康体で若くて現役だと信じているようでな、見舞いなんか行くと怒るぞ、憐れみに来たのか!ってな」

「でも老先生はもうだいぶお歳ですよね」

「大人にならないとわからない感覚ってものがあるのさ。現実から目を背けたくなるんだ。本当のことを信じたくないんだ」

「でも本当のことはいくら疑っても揺らぎようがないじゃないですか」

「そのとおり。それこそ社会の大人を苦しめている真実と言えるな」

 大人はありのままの自分を受け入れることに抵抗があるってことか。理想の自分と現実の自分の差に悩んで日々をすごしている大人たちは、いったいどうしたいんだろう。理想を下げるか、現実の自分を理想にかぎりなく近づけるしか解決法はないように思えるけど。老先生のケースだと、理想を下げるほかないな。若返りの薬でもあればべつだけど。

「大人になるとみんなそうなるんですか?」

「いやみんなじゃない。中には真実に対して正直で、理想と現実がぴったり一致する人だっているだろうよ。俺はそんな人間お目にかかったことないけどな」

「少ないってことですか?」

「かなり希少なんじゃないかな。一致する条件として三通り考えられる。ひとつは理想を思い描いていて、自分の足でそこまでたどり着くことだ。これは大変だぞ。理想の高さにも依るが、なりたい自分ってのは近づくにつれて、わざとかと思うほど意地悪く離れていくものだからな」若先生はタバコに火をつけた。ふんわり吐きだす煙はやっぱり紫色だ。

「次に理想を今の自分のレベルまで落とし込むことだ。自分が歩み寄るんじゃなくて、向こうに下がってきてもらおうというわけだな。ステージの下がった理想を理想と呼ぶべきかは疑問だが、本人がそう認識しているなら誰にも口出しできない。しかし客観的には変化がほとんどなく、いくら理想に近づいたと自分が吹聴しても説得力がないな」

 僕が考えたことと同じだ。若先生と近い考え方ができたことが、少しうれしい。

「もうひとつは理想がはじめから現実と一致している場合だ。理想がないと解釈しても間違いではないな。現在の自分に満足しているわけだ。こういう人間は傍から見ると目標を持たないから蔑まれることもあるが、もとより他人は自分の到達に無関係だ。よって彼らは他人の目を気にしない。俺もする必要がないと考える」

「先生は理想と現実が一致しているんですね」

 若先生は笑いながらふわふわと煙を吐いた。煙が顔を包んで表情を隠している。まるで自在に操っているかのようで、若先生の不思議さが増したように思えた。

「こんなうららかな午後の陽気が味わえるのに、建物の中にこもって仕事をしているやつらが人間社会を支えている。本当のことだ。たいしたもんだよ彼らは。勤勉なことは罪じゃない。しかし勤勉による自由の抑制は罪深いと俺は考える」

ベンチ脇の道路を一台の自動車が通り、若先生の顔を包んでいた煙が霧消した。

「大人はみんな働かないといけない。生きていくための必要条件だ。その見返りとして生活の安定が保障される。また賃金の獲得と蓄積による欲望の実現もおいしいだろう。しかし、労働時間により失われているものは確実に存在する。たとえば今の俺だ。今俺は普通なら働くべき時間にこうして河原のベンチでタバコを吸いながら寝転がっている。これは労働中ならできないことだ。そこで俺が得たものとは何か。これこそが、みんながもっとも欲していて、しかしその欲望に自分で気づいていない、かけがえのないものだ」

「それはなんていう名前なんですか」

「お前ならわかるだろう」

「なんとなくわかるんですけど、でもそれだけでは足りない気がするんです。言い表せていない感じ。漠然としていて本質を捉えていない。何か修飾語をもってくれば、ずばんと伝わるんですけど、それがわからないんです」

「それは俺からの宿題だな。長い年月がかかるぞ、この解答にたどり着くのは」

 少し頭をひねった程度ではわからないということか。あるいは時間が教えてくれるものなのかもしれない。つまり、大人にならないとわからない。

「はじめて会ったときはこんな話はしなかったな。まあする暇もなかったがな」

 出会いのことに頭がシフトし、僕は身体を固くした。自分で意識したわけじゃなくて身体が勝手にそうなった。

「先生と僕はどこでどうして会ったんですか?」僕はそれが知りたかった。

「俺から振っておいてなんだが、あんまり気持ちのいい話にはならんと思うぞ」

「それでも今のもやもやが解けるんだったら聞きたいです」

「そこまで言うなら話そう。俺とお前がはじめて会ったのはこの土地じゃない」若先生は最後に深く煙を吸い込んでタバコの火を消した。「あれはもう六年前だな」


38

 傾いた西日を浴びながら、僕は川沿いを下流に向かって歩いていた。夕陽によってふんわりと温かみを帯びながらも、冬の余韻をいまだ隠し持つ川沿いの冷たい空気が僕の身体を包んで離さない。僕は今、自分が暑いのか寒いのかすらわからなかった。

 僕は歩きながら若先生の話を思い出す。

 若先生の話を聞くうちに、僕の頭に六年前の出来事が少しずつ断片的によみがえってきた。たしかにイベントがそのとき発生し、僕はその忌まわしい記憶を頭の片隅に追いやっていたみたいだ。そう、そのイベントは僕にとって不快な体験で、生半可に思い出すと、精神が壊れてしまいかねないものだった。

「俺もどうしてこんなに鮮明に覚えているかよくわからんが、レオンハルトでひと目見て、お前があのときの子供だとわかった」

話し終えた若先生は気遣うように僕を眺めていた。僕は完全に過去の記憶がよみがえった衝撃で、頭が機能を停止していて何も考えることができなかった。立ち尽くす以外の機能がすべて失われてしまったみたいな。

「大丈夫か?」若先生がそう言って片手を僕のほうに差し出してきた。

 僕は無言のまま若先生の手を両手で掴んでぎゅっと力を入れた。自分が平気でないことをアピールしようとしたつもりだった。若先生も手に力を入れて握り返してくれた。

 僕は力なくうなだれ、うつむいて足元をじっと見た。ぽつぽつと水滴が落ちていくのがわかった。屋根の下にいるんだから足元が雨でぬれるわけがない、とはわかっても、自分が涙を流しているとはわからなかった。

 僕が泣いているのに気づいても、若先生は動揺を見せずにそっと僕の手を引き、自分のとなりに僕を座らせた。片手は僕の手をしっかり握ったままで、タバコの煙をふわりと吐きだした。吐き出す煙は、風もないのに僕の周囲に集まり、僕の視界を白紫色に染めた。不思議なことに煙たくはなかった。

 ふわふわと雲のような煙に包まれながら、僕は気持ちを整理し、ため息ひとつで自分の中の悲しみを追い出した。それは「ふう」と小さいため息だったけど、そのため息により白い世界に穴が空き、そこから煙が悲しみを飲みこんでひゅううと出ていった。顔を上げると、あたりはそろそろ夕陽によって赤みを帯びて輝き、さっきまでの白い世界とのコントラスト効果もあってより美しく見えた。

「大丈夫です」僕はようやく声を出すことができた。若先生へとまっすぐ目を向けて見せる。「そうか」と言って若先生は僕の手からそっと力を抜いて離した。

「先生のタバコの煙は不思議ですね」

「平和の名を冠するこのタバコには魔法がかけられている。俺の好物だ」

「魔法は存在するんですか?」

「定義を正しく理解すれば、存在を認識できる」

「魔法の定義はなんですか?」

「魔法とは、不思議を司る術の総称だ。さらに術とはつまり、なんらかの技術を意味する。ゆえに不思議を起こせるものに魔法がかけられている、と言っても矛盾はない」

「じゃあ先生のタバコは魔法のタバコといっても間違いではないのですね」

「そのとおり」


39

 夕陽差す川沿いの道を僕はとぼとぼ進む。まだ過去のトラウマが僕の心をちくちくと突いているけど、話を聞いた直後よりは冷静に受け止めるだけの心がまえが身についていた。それも若先生のおかげだ。

 僕はカバンのポケットに入っている若先生のお守りを取り出して目の前に持ってきてじっと眺めた。なんとなく心が落ち着く。帰ったら母さんに見つからないように試してみようと決意する。見つかったら母さんがわんわん泣いて近所迷惑だろうから、注意に注意を重ねて注意でぐるぐる巻きにするくらい気をつけよう。

 ふと思い立った。もしかしたら巧がもらったライターも何かのお守りなのかもしれない。そうすると、巧にも何か悩みがあって、それを若先生に話したということになる。巧に悩みなんかあるのかな。僕は目をくるくるとまわして思い当たることを探ってみたけど、何も思いつかなかった。

 カバンのポケットにお守りをそっとしまうと、屋上で見つけた封筒を入れっぱなしにしていたことに気づいた。まだ開封もしていない。見つけてからいろいろあったもんだから、すっかり忘れていたんだ。

 学校の北側にある大きな公園に入り、ブランコに座って封筒を調べた。何も書かれていないし、街灯にあてて中身を透かそうとしても、何も見えなかった。ただ紙が入っていることがわかったくらいだ。そりゃ何かは入っているだろう。

 これを拾ったときのことを思い出した。有里は屋上に僕を呼びだし、不思議で僕を魅了してガラスを割って現実に引き戻すという一連のイベントを起こしてくれた。封筒の中身を見てしまうと、またああいうイベントが起こるようになっているんだろうか。また有里はまた何か無茶をするんだろうか。僕は不思議を体験できる誘惑と有里に無茶をしてほしくない気持ちの間で揺れた。封筒を開ければめくるめく不思議と現実が錯綜する世界に、このままゴミ箱に捨てればアップダウンのない平坦な学校生活に。

 正直なところ、僕はどちらでもいいと思っていた。不思議に触れて自分の常識が揺り動かされるのは愉快だと思う。また平坦な道をきょろきょろしながらまっすぐ進んでいくのも嫌いじゃない。それなりに新発見もあるだろう。つまり両者にそれほど違いはない。じゃあなぜ僕は思いとどまっているのか。

 ああ、そうか。

 有里だ。

 これが有里の仕掛けた罠イベントであることは間違いない。首謀の有里は僕をこの手紙で誘導しながら物語を進めていくつもりだろう。どんな意図があるのか、何が目的なのかさっぱりわからない。だけど、こないだレオンハルトで問い詰めたときの笑顔が、有里がイベントに秘めている想いを物語っているのではないか、と僕は考えた。

つまり、有里は僕がイベントを進めることを期待している。

でも進めてしまうと、また有里が何かしら騒動を起こして自分を世間的に不利な立場に追い込んでしまうんじゃないか。問題を起こしてその理由を問い詰められても、こんな子供じみた傍から見たらいたずらにしか映らないことのために自分を犠牲にしてしまうんじゃないか。僕はそれがいやだった。

でも僕が進むのをやめてしまうと、それは有里の期待を裏切ることになる。何も理解できないまま進んでいるんだから、普通に考えたら僕が前向きに捉える必要なんてまったくないんだけど、やめてしまうと有里は悲しむんじゃないか。彼女を傷つけてしまうんじゃないか。僕はそれもいやだった。

封筒の封を切るのをためらっていたのは有里が原因だったんだ。



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