目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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33

 今日学校で体験したこと、レオンハルトでの老先生との会話を母さんに説明するのは難しかった。特に学校での有里がらみの非現実な事件については、自分でもよく理解していないから、その部分は大まかな流れと僕の心情だけを説明することにした。

「今日はたいへんだったんだねえ」話し終えたあとの母さんのレスポンスはのんきなものだった。

「まあ一言でいえばそうだね、たいへんだった」

「でもなんだか貴重な経験をしたみたいじゃない。私だって超常現象あんまり体験したことないのに」

「あんまりってことは、一度はあるわけ?」

「そりゃあるわよ。私くらいのミドルなエイジになるとね、誰でも一度はあるものなの」

「誰でも? 本当かなあ」

「あ、正宗くん私のこと疑ってますね、いけませんねえ。人を信じることが超常現象への第一歩ですよ」

「そうなの?」

「そうよ。テレビでよくやってる超能力の番組とか心霊特集とかあるでしょ。レポーターの人とか専門家の人とかが熱心にうそくさいこと語ってるじゃない。ああいうのを信じることができたら、そのうち自分にも体験のチャンスが巡ってくるんだよ」

「母さんうそくさいって言ってるじゃない」

「だってうそくさいんだもん。スプーン曲げとか心霊写真とか。たぶんあのスプーンはアルミでできてて、五歳児でも曲げられるんだよ。あと、心霊写真は全部が偽造」

「全然信じてないじゃない」

「うん。だいたいねえ、スプーンなんて両手使えば曲げられるし、今はパソコンソフトとかで画像編集できるんだから、霊らしいのが映ってても本物かどうかなんてわかんないわよ」

「母さんの超常現象体験はどんなだったの?」

「すごかったんだよ!」急に母さんのテンションが上がる。「私が高校生のときね、修学旅行で沖縄に行ったの。いろんな見学ツアーがあってね、その中でむかし戦時中に使ってたっていうね、塹壕っていうの?おっきな洞窟に入るのがあったんだ。で私入口の前まで歩いて行って、いざ入ろうってときに身体が動かなくなっちゃったの」

「現象としては僕と一緒だね」

「そんな感じ。でね、入ろうとして一歩足を踏み出した姿勢のまま動けなくなっちゃったから、友達が私を変な目で見るの。どうしたの?ってきかれたから、身体動かないの、って正直に言ったらみんな大笑いしだしちゃって。失礼な話よね」

「みんなどこが面白かったのかな」

「あとでそれ聞いてみたの。なんで笑うのよ!って。そしたらロボットみたいな姿勢のままそんなシュールなこと言うんだもん、だって!」

 僕は母さんが沖縄にあるという塹壕の手前で一歩踏み出した姿勢のまま固まって困っている風景を想像してみた。なるほど、ちょっと面白いかも。

「正宗くんまで笑ってる! 何想像してるの、私の制服姿?」

「いやその塹壕の光景を。セリフもそうだけど止まってる母さんもシュールだよね」

「ひどい! 正宗くんなんかもう知らない! ばーかばーか!」

 母さんは立ち上がって地団太踏みながらテーブルから離れて自分の寝室に入っていった。ドアの向こうからまだ「ばーか!」という声が聞こえる。なんだかこの頃ますます幼児退行化してきているような気がする。態度に感情が映りやすいというか、みえみえというか。子供は大人へと成長するけど、大人は子供へと後退するんだろうか。じゃあ一番大人でいられる頂点はどこなんだろう。僕はそんなことを考えているうちに、ひとつの疑問を思いついた。

 母さんはどうやって動けるようになったんだろう。

 僕は超常現象の専門家じゃないから詳しいことはわからないけど、僕と母さんの体験した現象はおそらく金縛りというやつだろう。今思うと、超常現象というよりも、一種の自然現象じゃないのかな。何かの拍子に脳からの信号が途絶えて身体が動かなくなるなんてありそうな話だ。想像だけど。

 テーブルを片づけてからパソコンの電源を入れた。インターネットの検索サイトで「金縛り」について調べてみる。何十万件という結果をちらちらのぞいてみると、ほとんどが金縛りを心霊現象でなく生理現象だと説明していた。たぶん近年の科学技術の発達が金縛りの謎を解明したんだろう。つまり、もはや金縛りは超常現象でもなんでもなく、くしゃみなんかとかわらないんだろうという結論が僕の中で出た。

 ただ、検索結果のほとんどは寝ている際の金縛りについて述べられていて、僕や母さんのケースのような突然動かなくなる現象については書かれている記事は少なかった。でもまったくないわけではない。中には全力で胡散臭い記事もあった。こういったものほど科学的裏づけから遠ざかり、説得力は痴漢の言い逃れほどに脆弱な傾向にある。テレビ番組みたいにエンターテイメントとして楽しむにはちょうどいいと思ったので、いくつか読んでいるうちに、面白い見解を持っている記事を見つけた。

 その記事によると、金縛りにあったときの解決策は、「ごめんなさい」ということだとあった。

 僕はレオンハルトでの老先生の言葉を思い出していた。

――すぐにごめんなさいというのはやめたまえ。

(老先生、ときにはすぐにごめんなさいということが、自分の危機を救うことがあるみたいですよ)

僕は心の中で老先生にメッセージを送ると愉快な気分になった。


34

 寝ている間に金縛りにあうこともなく、今朝の目覚めは爽快だった。

キッチンに出ていき牛乳を飲みながらテレビの電源を入れる。ニュース番組にチャンネルを合わせてから玄関へ新聞と取りにいった。広告を抜いて、ホチキスで新聞がばらばらにならないようにする。たたんでテーブルに置き、朝食にシリアルと牛乳とバナナのスライスを用意し、テーブルに並べた。自分の仕事を終えて、僕は歯を磨きに洗面所に向かった。歯をしゃこしゃこ磨いていると、キッチンのほうでごそごそ音がした。母さんが起き出してきたみたいだ。新聞をめくりながらシリアルをざーっとお皿に盛る音が聞こえる。母さんはシリアルをかわいくお皿に盛ってバナナスライスを美しくちらすことに朝の最上の喜びを感じる人だ。そこに牛乳を流し込んで、シリアルが牛乳でひたひたになっていく様子を眺めながら「ああん」なんて悶えたような声をあげるんだけど、常々僕はそれをやめてほしいと思いながらも言い出せずにいる。

歯を磨き終え、洗顔と寝ぐせなおしをすませてキッチンに戻ると、「おはよぅ正宗くん」と母さんがにこにこ顔で座っていた。今朝の気分はいいらしい。昨日不貞寝したままだったから、今朝の機嫌がどうか心配だったんだけど、どうやら問題なさそうだ。

「おはよう。僕はもう学校に行くからね」

「うん。いってらしてぇ。朝ごはんおいしいよぅ」


35

 学校へ向かう途中、僕は昨日老先生が言ったことを思い出しながらまわりに目を配らせて、ことさらに灰皿を探しながら歩いた。今まで気づかなかったけど、街中には至るところに灰皿が設置されている。バス停やコンビニ、自販機のとなりやタバコ屋の店先にあり、突然道端にぽつんと置かれているのも見つけた。今は朝だからそこで一服している人は少なかったけど、これだけの数があるんだから喫煙者も相当いるんだろう。そのうちのひとりが若先生というわけだ。

 若先生の姿は見つからないまま、僕は学校に着いてしまった。昨日の今日だからすぐに見つけられるとは思ってないけど、なんだか宝物探しみたいで楽しい。見つけたからといって何か賞品がもらえるわけじゃないけど、若先生にはなんだか宝物みたいな魅力を感じる。僕にとっては謎解きの鍵みたいな人だ。どうしてそう思うのか、自分でもよくわからないんだけど。

「なんでだろう」

「なんでだろうな」

 巧に若先生のことを話して朝からふたりで首をひねらせていると、定刻にミズカツ先生が入ってきた。不必要にドアを勢いよく開け閉めするものだから、ざわついていた教室内はさっと静かになった。どうも機嫌が悪そうだ。それにしても自分の感情を職場で丸出しにするのは大人としてどうだろう。まるで子供じゃないか。

「席につきなさい」ミズカツ先生は命令形で言うので、クラスの何人かが顔をしかめた。反抗心を態度に表したのは数人だったけど、心の中では全員が先生に対して毒を吐いているだろう。

 ミズカツ先生は教壇に立ち、執拗に出席簿のファイルをとんとん揃える動作をしている。もう揃っているんだから必要ないだろう。うるさいし不愉快だからやめてほしい。どうやら僕も毒を吐いている。

 おほんおほんと咳払いを何度も重ねたりファイルを揃えたりして間をとりながら、ミズカツ先生はクラスを睥睨する。僕は目を合わせるのがいやだったから、視線がこっちに向けられるとすぐに顔を背けた。クラスに向けられる視線はいつものそれよりもネガティブなものだった。いつもの負の感情に加え、もっと深く濃厚でどす黒い怨恨のようなものを感じた。だからより一層教師としての生徒を見る目から遠ざかっているように思える。

「はーい、席についてくださいねえ」

急にミズカツ先生は腰砕けななよなよ声を出した。

 僕を含め、今まで睨まれていた身としては、急な変化にすばやくついていけないのも無理はないと思う。みんなぽかんと口を半開きにして先生を見つめていた。僕のうしろで巧がちっと舌を鳴らすのが聞こえた。

「じゃあ朝の挨拶から。号令お願いしまーす」

「起立!」有里はことさら大きな声で号令をかけた。まるで先生へのあてつけみたいだった。みんなは有里の変わりようにも動揺し、のそのそと時間をかけながら席を立った。

「礼ぃ!」有里の声は完全に裏返った。クラスの何人かがくすくすと笑った。僕もちょっと顔を上げて有里を見た。有里はこっちを向いて片眉をひくひくと動かしながらそのまま頭を下げた。頭を下げても僕を見ていたので、その姿勢がおかしくて僕は下を向きながら肩を震わせて笑った。

「着席」全員がリラックスして腰を下ろした。有里のおかげだ。

「それでは朝の会をはじめます前に、昨日の事件についてちょっとお話ししますね」

 ふたたび全員が身体を固くした。

「昨日の昼休み、教室の窓ガラスが誰かによって割られるというたいへん痛ましいことが起こりました。ガラスはひとりでに割れたりしないので、人間の手で故意に割られたということです。そして原因の調査の結果、ある生徒の犯行であることが判明しました。個人のプライバシー保護のため、その名前は明らかにしませんが、この中にいることだけ告げておきましょう。その人、仮にAと呼ぶことにしますが、Aは犯行後、先生や家族と話し合いをしたにも関わらず自分の行動をまったく反省しませんでした。まるで自分が何も間違ったこと、悪いことをしていないかのような態度をとるのです。これは由々しきことです。六年生にもなって、ガラスを割ることが悪いことだと考えられないのですから」

 ミズカツ先生は一気にまくし立て、一息ついた。クラスはじっと先生の話に聞き入っている。

「今もAは私の話を真剣に受け止めていないでしょう。困ったものです。これからもAとは建設的な関係を築いて、思い出に残る六年生生活をすごしてもらいたいと私は考えているので、名前は伏せていますがあえてみんなの前でこういう話をしているのです。この先生の想いをぜひ本人には理解してもらい、今後こういった惨事が何を招くのか、またその凶悪性についても考えなおして正しい生徒になってもらいたいと思います。みんなもわかっているとは思いますが、いかなる理由があろうとも、悪事に手を染めることのないようにお願いしますね」

 ミズカツ先生にしては謙虚で下手に出た態度だ。こんな話し方もできるんだな、と僕は先生の評価を改めた。

 先生の話の内容に異存点はない。僕の中では窓ガラスを割ることは悪だからだ。でも老先生の話にもあったけど、この場合僕の悪の定義は正しくない。なぜなら有里の正義と矛盾するからだ。有里の中で、窓ガラスを割ることは悪ではないとされている。そこには有里の正義に基づいた理由がある。それがなんなのかはまだ教えてもらってないけど、どんな理由にしろ、僕に納得できるものだとは今のところ到底考えられない。

 先生の話を受け、教室内はざわざわしはじめた。「この中の誰かが犯人?」「どこのどいつだ、そんな馬鹿は」「お前じゃねえの?」「私を疑うやつは窓から放り投げてやる」「ミズカツ今日は先生ぽいな」「四月だけど雪降るんじゃない?」「今日はあったかいから大丈夫だよ」「六年にして洒落がわからんとは哀れな」「お前は老けこみすぎだ」「でもそんな人がいるなんて危ないよね」「常識ってもんがないんだな」

 次第に休憩時間みたいな空気になってきた。みんながそれぞれに好き勝手話しはじめるからがやがやとやかましい。みんな有里のことを知らないみたいだった。もし真実が明らかになれば、みんなさぞ驚くだろう。有里はぱっと見普通の女の子だし――はじめはちょっととっつきにくいけど。

「はーい落ち着いてくださーい。静かにー」ミズカツ先生はいつもみたいにファイルでばんばんするんじゃなくて、言葉で注意してみんなの関心を集めた。本当に雪が降るかもしれない。

「ほかのクラスでも朝の会の前にこのお話をしているはずなので、今日中には六年生全員がこのことを知るでしょう。各所で噂になり、そのうちに誰が犯人か聞いてしまうかもしれません。でもその子を責めたりしないように。たしかにAがやったことは悪いことです。でもだからといってAのすべてを否定したり拒絶したりしてはいけません。物事をひとつの面からだけで捉えるのではなく、多角的な視点を身につけましょう。どう考えてもガラスを割るのは悪いことですが、Aに何かしらの理由があるなら、それを聞いて本人の主張を理解するべきです。そうしたあとで、やっぱり自分が悪かったということを諭してあげることこそ、その人への愛なのです。私はみんなを護る教師です。そのことをわかっておいてくださいね」

 今日のミズカツ先生が謙虚で殊勝なのは、これが言いたいからだったのか、と僕は得心がいった。朝の挨拶からもわかるように、先生はみんなにあまりよく思われていない。授業の進行とかに問題はないし、むしろじつにわかりやすい授業で、このクラスの実力は学年の中でもいいほうだろう。六年生になってから異常な頻度で行われる各教科の小テストがその事実を証明している。でも普段の態度、たとえば生徒を見つめる攻撃的な視線とか気易い話し方とかがみんなの心にかちんとくる。その些細な欠点が先生の全体を表していると僕らは思っている。つまり教師としての仕事、勉強を教えることはしっかりこなしているけど、ひとりの大人として人間が小さいから、尊敬できないし信頼できない。僕たちは先生の表現を用いるなら、物事をひとつの面からしか捉えていないことになる。先生はもっと多角的な視点を持てという。そうすれば、より有里への理解を助けると。手はじめに、自分への印象を改めろと。

 それならどうしてわざわざ嫌われるような態度をとるんだろう。

 そのことを先生にぜひきいてみたいけど、今は発言する空気じゃない。

「さて、それではようやく朝の会をはじめましょう」


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 昼休み。僕と巧が窓際に座って牛乳を飲む光景はもはやデフォルトの風景だ。

「有里大丈夫かな」

「あいつには何も影響がないだろうな」

「でもばれたりしたらみんなにいじめられたりしないかな」

「それは起こりうるな。実際あいつが犯人だって見解が広まってるみたいだぜ」

「昼以降いなかったし、有里のお父さんが迎えに来たりしてたしね」

「傍から見りゃ一目瞭然だな」

「僕らに何かできることはないかな」

「そりゃあるとも」

「どうしたらいい?」僕は巧のほうへ乗り出した。

「あいつの言い分を理解することだ」巧は力強く僕を見た。「それは俺たちにしかできない。そしてそれは俺たちがしなけりゃならない」

 巧の言うことはわかった。僕たちは有里を理解しないといけない。でもその先、有里に賛同するかどうかは僕たちの自由というわけだ。

僕はどうしたらいいだろう。有里のやったことは悪だと思う。でも有里が悪そのものだとは思わない。彼女を受け入れるか拒むか。いずれにしても情報が不足している。窓ガラスの件や有里の正義については五月にならないとわからないみたいだから、今ごちゃごちゃ考えても答えが得られず、最初の問いに戻ってはくり返す堂々巡りだ。

待つしかない。それに僕は有里に待つと言ってしまった。約束は守らないといけない。

「そうだね。少なくとも僕たちはそうすべきだね」

「少なくとも、か。そういう考え方は俺にはできなかったな。可能性の模索すらしなかった。世界を広げるには新たな出会いが一番手っ取り早いからな」

「そうだよ。僕も巧と有里に出会って本当によかった。自分を表現できる友達ができたことをうれしく思うんだ。ありがとうね」

「おいおい照れるじゃねえか。そんな歯の浮くセリフがよくつらつらと言えるな」

 巧は頭を掻きながらにやにや顔でうつむいてしまった。ほほに赤みが差している。本当に照れているみたいだ。僕もちょっと恥ずかしくなってきた。

「いや正直に自分がどう思ってるか伝えたかったんだ。でもちょっと気取りすぎだったかな」

「そこまで正直に言えるやつはなかなかいないぜ。でも馬鹿にしてるわけじゃない。お前の素直さを俺はうれしく思う。俺もお前が転校してきて目の前の席に座ってくれてよかったぜ、ありがとな」

 僕らはお互いににやにやしながら握手を交わした。傍から見ている人がいたら、「青春」とか「親友」とか「かゆい」とかいう言葉が飛び交うような馬鹿の仕方をされるだろう。でも僕は平気だ。たぶん巧もそうだろう。


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 学校からの帰り道、僕はひとりで灰皿を探しながらいろいろ遠回りして歩いていた。

 校門を出るとき、巧は「用事があるから」と言って家とは反対のほうへと帰っていった。有里はまだいるかな、と教室に戻ってみたけど、すでに誰もいなかった。僕はひとりで帰ることにした。今日レオンハルトは休みだと先日老先生が言っていた。

 僕は学校近くの賀茂川沿い通りを上流に向かって進んでいた。この辺は川中にあちこち雑草の島が浮かんでいて、川岸からはほとんど水が見えない。深さもわからない。けど流れはこのあたりの交通量なみにゆっくりだ。四月はほとんど雨が降らなかったからかな。

 対岸通りには食事処やパチンコ店があるのに、こちら側は畑ばっかりなのはどうしてだろう。これではこちら側に住んでいる人たちは外食のときや遊びに行くときに川を渡らなければいけない。両岸にあればそんな面倒もないのに。それは無理か。そんなにぎやかな店舗の並びに挟まれては、川に棲む魚たちが落ち着いて暮らせないだろう。対岸に並ぶ食事処はなぜか回転寿司の店や懐石料理店ばかりだ。魚たちは毎日まな板の上で捌かれる夢を見ているに違いない。料理店が倍になると、悪夢もひどさを増してしまうだろう。

 上流に向かってどんどん歩を進めていくと、滝のように段差になっているところがあった。高さは四メートルくらいだろう。水量が少ないので、世界の有名な瀑布のように水しぶきが飛び散っていない。なんとも地味な滝だ。

 その滝の上には広場があり、休憩所が設えてあった。屋根つきベンチの下に人影があり、僕は近づいていった。人影から煙が立ち上っていたからだ。

 若先生はベンチに寝転がりながら、屋根の裏側をじっと見つめてタバコを吸っていた。西日が若先生を照らし、立ち上るタバコの煙は紫色に見えた。どうしてだろう。タバコの煙って本当は紫色なのかな。

 僕がじわじわ近づいていくと、ふいに若先生の頭がぐるんとこっちを向いた。あまりの勢いに、くわえたタバコの先から灰が飛び散った。

「よう。こんなところで何してる」

「僕は学校の帰りです。先生は何してるんですか?」

「少なくとも社会的有為な行動はしてないな」

「お休みですか?」

「そんなとこだ。お前今日レオンハルトは行かないのか」

「お休みです」

「休み? どっか悪いのか?」

「僕じゃなくて、老先生が今日は休みだって」

「老師に何かあったのか?」若先生は老先生を老師と呼ぶみたいだ。

「いえ、よく知りませんけど、とにかく老先生が今日はお休みだと」

「そうか。あとで電話しないとな」

「お休みなのがそんなに珍しいんですか?」

「レオンハルトはいつでも門戸を開いている、老師が息災のときはな。休みとはつまり、老師の体調が優れないということだ」

「そう、なんですか」

 なんだか妙だと思った。だって老先生は前もって今日が休みだと言っていたからだ。若先生のいうとおり体調が悪いんだとすると、老先生が今日調子を崩すことを予測していたみたいじゃないか。あるいは、あのときからじつは調子を崩していて、今日は病院に行っているのかもしれない。それが一番現実的だ。

「じゃあお見舞いに行かないといけませんね」

「いやそれはやめとけ」若先生はタバコの火を消してのそりと起き上った。

「どうしてですか?」

「老師は気遣われるのが嫌いなんだ。まだ自分が健康体で若くて現役だと信じているようでな、見舞いなんか行くと怒るぞ、憐れみに来たのか!ってな」

「でも老先生はもうだいぶお歳ですよね」

「大人にならないとわからない感覚ってものがあるのさ。現実から目を背けたくなるんだ。本当のことを信じたくないんだ」

「でも本当のことはいくら疑っても揺らぎようがないじゃないですか」

「そのとおり。それこそ社会の大人を苦しめている真実と言えるな」

 大人はありのままの自分を受け入れることに抵抗があるってことか。理想の自分と現実の自分の差に悩んで日々をすごしている大人たちは、いったいどうしたいんだろう。理想を下げるか、現実の自分を理想にかぎりなく近づけるしか解決法はないように思えるけど。老先生のケースだと、理想を下げるほかないな。若返りの薬でもあればべつだけど。

「大人になるとみんなそうなるんですか?」

「いやみんなじゃない。中には真実に対して正直で、理想と現実がぴったり一致する人だっているだろうよ。俺はそんな人間お目にかかったことないけどな」

「少ないってことですか?」

「かなり希少なんじゃないかな。一致する条件として三通り考えられる。ひとつは理想を思い描いていて、自分の足でそこまでたどり着くことだ。これは大変だぞ。理想の高さにも依るが、なりたい自分ってのは近づくにつれて、わざとかと思うほど意地悪く離れていくものだからな」若先生はタバコに火をつけた。ふんわり吐きだす煙はやっぱり紫色だ。

「次に理想を今の自分のレベルまで落とし込むことだ。自分が歩み寄るんじゃなくて、向こうに下がってきてもらおうというわけだな。ステージの下がった理想を理想と呼ぶべきかは疑問だが、本人がそう認識しているなら誰にも口出しできない。しかし客観的には変化がほとんどなく、いくら理想に近づいたと自分が吹聴しても説得力がないな」

 僕が考えたことと同じだ。若先生と近い考え方ができたことが、少しうれしい。

「もうひとつは理想がはじめから現実と一致している場合だ。理想がないと解釈しても間違いではないな。現在の自分に満足しているわけだ。こういう人間は傍から見ると目標を持たないから蔑まれることもあるが、もとより他人は自分の到達に無関係だ。よって彼らは他人の目を気にしない。俺もする必要がないと考える」

「先生は理想と現実が一致しているんですね」

 若先生は笑いながらふわふわと煙を吐いた。煙が顔を包んで表情を隠している。まるで自在に操っているかのようで、若先生の不思議さが増したように思えた。

「こんなうららかな午後の陽気が味わえるのに、建物の中にこもって仕事をしているやつらが人間社会を支えている。本当のことだ。たいしたもんだよ彼らは。勤勉なことは罪じゃない。しかし勤勉による自由の抑制は罪深いと俺は考える」

ベンチ脇の道路を一台の自動車が通り、若先生の顔を包んでいた煙が霧消した。

「大人はみんな働かないといけない。生きていくための必要条件だ。その見返りとして生活の安定が保障される。また賃金の獲得と蓄積による欲望の実現もおいしいだろう。しかし、労働時間により失われているものは確実に存在する。たとえば今の俺だ。今俺は普通なら働くべき時間にこうして河原のベンチでタバコを吸いながら寝転がっている。これは労働中ならできないことだ。そこで俺が得たものとは何か。これこそが、みんながもっとも欲していて、しかしその欲望に自分で気づいていない、かけがえのないものだ」

「それはなんていう名前なんですか」

「お前ならわかるだろう」

「なんとなくわかるんですけど、でもそれだけでは足りない気がするんです。言い表せていない感じ。漠然としていて本質を捉えていない。何か修飾語をもってくれば、ずばんと伝わるんですけど、それがわからないんです」

「それは俺からの宿題だな。長い年月がかかるぞ、この解答にたどり着くのは」

 少し頭をひねった程度ではわからないということか。あるいは時間が教えてくれるものなのかもしれない。つまり、大人にならないとわからない。

「はじめて会ったときはこんな話はしなかったな。まあする暇もなかったがな」

 出会いのことに頭がシフトし、僕は身体を固くした。自分で意識したわけじゃなくて身体が勝手にそうなった。

「先生と僕はどこでどうして会ったんですか?」僕はそれが知りたかった。

「俺から振っておいてなんだが、あんまり気持ちのいい話にはならんと思うぞ」

「それでも今のもやもやが解けるんだったら聞きたいです」

「そこまで言うなら話そう。俺とお前がはじめて会ったのはこの土地じゃない」若先生は最後に深く煙を吸い込んでタバコの火を消した。「あれはもう六年前だな」



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