目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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30

 帰り道、信号が変わるのを待っているとき、巧が口を開いた。

「あいつがあそこまでするとはな。アホを通り越して病気かと思えるぜ」

「巧もあれはやりすぎだと思うよね」

「さすがに俺もフォローはできねえな」信号が青に変わったので僕たちは歩き出した。「しかしまあ、お前が転校してきてから、あいつの新たな面を観察できた」

「そうなの?」

「ああ。以前は他人に対して全然関心を示さなかったんだ。あいつのお眼鏡にかなうやつがいなかったってことだがな」

「僕は選ばれしものなんだね。本当によくできたストーリーだ。僕を勇者に仕立て上げたんだ」

「うれしいだろ?」

「うーん、正直微妙だね。楽しいんだけど、今日みたいに有里が無茶しすぎてまわりに迷惑がかかると困るし、有里が好きでやってるみたいだけど、彼女に負担をかけてることに罪悪感を感じるし」

「良心の呵責ってやつだな」例の自販機の前で巧は足を止めた。「お前も人がいいよな」

 僕たちは自販機で買ったコーラを飲みながら、レオンハルトへと向かった。今日は僕がお金を払った。巧はいいと断ったけど、いろいろ世話になっているので今日は払わせてほしいと僕は押し切った。

 レオンハルトに着き、教室を覗いて老先生を探したけど姿は見えなかった。談話室のドアを開けると老先生と有里が座ってお菓子を食べていた。

「こんにちは」僕たちは老先生に挨拶した。

「やあ」老先生は片手をあげて応えた。

 僕は有里の様子を観察した。ポテトチップを粉々に砕いてもくもくと食べている。僕たちが来たことに気づいているはずだけど、顔も上げない。普段の有里にも見えたけど、怒っているようにも見えた。

「大丈夫?」僕は有里に声をかけた。返事はない。

「お前やりすぎだぜ、あれは。やりたいならもっと水面下で仕事しろよ」

 有里は黙ったままだ。粉々のポテトチップをさらに砕いた。これではほとんど粉末で、食べてもおいしくないだろう。

「さっき有里君から話は聞いたよ」老先生が参加してきた。「ちょっとした騒動になったそうだな」

 僕は有里が老先生に今日のことを話したという事実に少し驚いていた。有里も巧と同じく老先生に信頼を寄せているみたいだ。普段の様子からはそんな気配はうかがえなかった。

「ええ、有里には困ったものです」巧は有里を責める姿勢を変えない。「先生からも何か言ってやってもらえませんか」

「私はジャッジしない」老先生の言葉には重みがあった。それは揺れ動かない確固とした主張だと思った。「正義とは万人が守ってしかるべき正しい概念だ。しかし正義の定義は人により異なる。ここまではかまわないけど、ここからは許せないというラインは各々が自分の裁定で引いている。今回の有里君の件では、彼女の独断と自我により器物破損を招いたわけだが、有里君の中にそれをよしとする正義があるならば私は口を出すことができない。もしそれが間違っていたとしてもだ。そもそも間違いとは確実ではない。観測するものにより間違いの定義はやすやすと塗り替えられてしまうからだ。世間的にまかり通っている間違いとは、社会の正義に背くものを指すが、個々人の正義が必ずしも社会正義の集合に含まれているとはかぎらないのだ。ゆえに私が有里君に対してできることは、話を聞いて客観的な観測結果を提示することのみだ」

 僕は老先生の言葉をひとつひとつ心にしみ込ませ、自分に馴染むかどうか試してみた。ひとつの疑問が思い浮かんだ。僕は気づくと挙手していた。

「正宗君」老先生は僕をあてた。

「はい。もし他人の正義が先生の正義に背くものだった場合、先生は自分の正義を主張されないんですか?」

「よい質問だ」老先生はくふふと笑った。「たしかにふたつの正義が衝突した際、そこに断層が生じて相容れない場合があるだろう。だが他人の正義が己のものとそぐわないからといって、相手を否定する権利があるのだろうか? それは単なるエゴにすぎない。己の正義を他者に押しつけることで自己を主張しようとすることは社会に浸透しすぎており、誰も疑問を持たない程度まで達しているが、一度振り返って考えてみるとよい。そんな権利は存在しない。誰も持ち得ないのだ。社会的権利権限を握るものがしばしばこれをあたかも当然のように振るうが、直接的には束縛される謂われはない。副次的に己が不利な立場に追い込まれるために服従しているにすぎない。これら理由から、質問への答えはノーだ」

 僕は老先生があげた理由について考えてみた。たしかに説得力があり矛盾もないように思える。でもそれでは社会的弱者というか弱い立場の人は何も言えないということになってしまう。これでいいんだろうか。たとえばクラスでひとり浮いていて、いじめに遭っている子は自分の正義、つまり自分の身を守ることをいじめっ子に主張すべきじゃないんだろうか。いじめっ子が暴力にどんな正義を見出しているか僕には想像もつかないけど、それが間違っていると指摘してはいけないんだろうか。悪に対抗するのが正義じゃないんだろうか。

 僕はまた手をあげた。

「正宗君」

「はい。では明らかな悪への対抗として自分の正義を主張することもダメなんですか?」

「その質問に答えるためには、まず『悪』を定義する必要がある。君も自分で述べて気づいていると思うが、『悪』という言葉に『明らかな』という修飾語をつけていることから、『悪』には明確なラインが定まっていないことがわかる。つまり程度に依存するわけだ。殺人を犯すことや不当に人のものを盗むことは現在では誰からみても『悪』だが、他人を物理的に傷つけたり、精神的に傷つけたりすることは観察者によっては『悪』だと見なされないことがある。よって不確定要素を取り除いた上で『悪』を定義することにする」

――悪とは、存在するいかなる正義にも反するものの総称である。

「正義と悪が相対するものであるという理解については既知であるとした上で、悪とは現存するいかなる正義にも反するわけであるから、悪に対して己の正義を行使することになんの問題もない。これが答えだ」

 悪ってそれほど厳密な言葉だったんだ。もっと直感的にマイナスのイメージが連想できるものはすべて悪って呼んでもいいものだと思っていた。

「話を戻すが」老先生は有里が砕いた粉チップを指でつまみ、ぱらぱらと自分の頭に振りかけた。お祓いの塩みたいな使い方だった。どういう意味があるんだろう。

「有里君の話を聞く分には彼女なりの正義があり主張があるようだ。社会の正義には反するが、彼女が悪だと断定するのは話を聞くまでは早計である」そう言って老先生は立ち上がった。「私は一服してくる」そのまま談話室から出て行った。


31

 老先生は有里なりに正義があると言った。ならまずそれを聞かないことには、何も変わらないしわからない。

「ねえ有里」僕はもう一度声をかけた。「有里の正義って何?」

 ようやく有里は顔を上げ、僕をまっすぐに見た。それから巧にも視線を移して少しあごを持ち上げた。巧を見ると、有里に向かって妙な目配せをしていた。ふたりの間でなんらかのコミュニケーションがとれたんだろう。僕にはわからない。

「今は話せない」有里は言った。

「どうして?」

「しばらくしたらわかるよ。そうね、少なくとも五月中には」

 今は四月の終わりにさしかかろうとしている時期だ。じゃあもうすぐ明らかになるってことか、有里の正義が。

「だから待ってて」そう言って有里は僕から目をそらした。うつむいてさらに新たにポテトチップを砕きはじめた。

 僕はふうとため息をつき、巧に目を向けた。肩をすくめて両手の平を上に向けるアメリカンアクションをした。三人でいるのにふたりとひとりに分かれてしまったみたいで、どこか寂しい思いがしたけど、それは今だけだと思うことにした。

「うん、じゃあ気長に待ってるよ。こんな経験はじめてで、僕は今楽しいから」

 僕がそう言うと、有里はぱっと顔を上げて僕をじっと見た。意外そうな表情だったから僕はたじろいで、何か変なこと言ったかな、と自分の言葉を反芻してみたけど、特別変なことを言ったとは思えなかった。

 慌てた様子の僕を見つめながら、有里はふいにぱっと笑顔になった。

よく笑顔をたとえるのに「花開く」とか「百万ドル」とかいうけど、有里の笑顔は形容の言葉が見つからないほどに、ただ素直でかわいかった。よく考えたら有里が笑っているのを見たのははじめてだ。表情ひとつでこんなにも印象が違うんだな、と僕は認識を新たにした。


32

 とりあえず有里の件は棚上げとなり、解決は五月に持ち越されることになった。

 今日僕がレオンハルトへ来たのは正式に入塾を申し込むためだ。正式といっても申込書にちょろっと個人情報とサインを入力して月謝袋をもらうだけだ。小さなところだから、お金の受け渡しは口座振込ではなく月謝袋ですむみたいだった。ちなみに毎月の月謝金はたったの千円だ。習い事としては破格の値段だと思う。どんな習い事や塾でも最低四千円はとるだろう。赤字で困っているならもう少し値上げしてもいいんじゃないかな。生徒の親からは不満の声も上がらないと思うけど。

 手続きをすませて、晴れて僕はレオンハルトの塾生となった。また巧と有里に一歩近づいた気がしてうれしかった。

 そういえば、と思いついたことを巧にきいてみた。

「塾長って老先生のことなの?」

 巧はすばやく僕のほうへと振り向いてはっはと笑った。

「当たり前だろ。そう思わねえのか?」

「いや以前の巧の話の内容からすると、塾長がべつにいる可能性がちらりと頭に浮かんだからさ。でも僕の面接は老先生がやってくれたから可能性としては無視してもいい程度なんだけど、ゼロってわけじゃないし」

「塾長は老先生で、老先生は塾長だ。逆も真ってわけだ」

 僕は巧の言った意味がわからなかった。レオンハルトの人はみんな難しい。唯一情報がないあの人もそうなのかな。僕は若先生のことが気になっていた。

 

 はじめての授業が終わった。授業形態にはじめは戸惑ったけど、すぐに慣れることができた。まわりに知っている顔がいるだけで、未知の空間に放り出されても人間すぐ馴染むものだ。それにしてもノートも教材も何も使わず、僕たち生徒は立ったまま、老先生が思いついたように口にする問題をみんなで考えてホワイトボードをひたすら黒で染めていくという授業は飛びきりかわっている。ホワイトボードを埋めていくのは生徒で、老先生は机についてたまに指摘するくらいだ。最後に全員の総意となった解答をチェックするくらいが先生の役割で、しゃべっているのは基本的に生徒のみだ。老先生は誰かに発言するように指名したりしないから、黙っていたら答えがまとまっていくから見てるだけでもいいんだけど、誰ひとりそんな態度はとらずに積極的に話し合いで自分の意見を言った。僕もみんなに感化されて自分の考えを述べた。意見がかち合って衝突もしばしばあったけど、解決に向かうためにスムーズに衝突が解消されていくのが爽快だった。

 僕の学校の生徒は僕たち三人だけだった。今日来てないだけかもしれない。ほかの学校の生徒はみんなやっぱりどこか一段高く、斜に構えた印象で、こういう子供しか生徒にとらないんだろうと想像した。じゃあ僕はなんでここにいられるんだろう。

まるで今日の授業だけで本一冊読み終わったと錯覚できるほどの知識を得られた。はじめてだから全部覚えることができたわけじゃないけど、いつもより頭の中はすっきりしている。

 今日は若先生は来なかった。出勤の日じゃないんだろう。いつ来るのか老先生にたずねてみた。

「御手月は来週になったら来るぞ」老先生は手の平でサイコロをもてあそびながら言った。

「じゃあ四月中には会えないんですね」

「それは違うだろう」僕のほうへと顔を向けて、老先生は片手でつんと僕の肩を突いた。

 何が違うんだろう。

ああ。

そうだ、違うな。それに若先生の名前はオテツキっていうのか。なんとなく残念な名前だな、と僕は思った。

「違いました。ごめんなさい」

「正宗君、間違いとは罪ではない。すぐにごめんなさいというのはやめたまえ」

「そうなんですか?」

「そうだとも。謝罪、つまり罪を謝るとは、悪事に手を染め罪深いと認められたとき、さらに己がそれを認識してはじめて謝るべきなのだ。己の行為なり精神が罪――すなわち悪ともいえるなこの場合、だと気づき、悔い改めて相手に思いを馳せて、はじめて口からこぼれ出る。謝罪とはそんな言葉なのだ。軽々しく反射的に謝るくせは治さねばならん」

「わかりました。街中で若先生を見かけたら、僕が塾生になったと報告したいです」

「きっと見つかる。彼は市内北部、特に灰皿が置かれているところによくいるだろう」

 僕は今後街中を歩くときは灰皿に目を配ることを心掛けるようにしようと決意した。


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 今日学校で体験したこと、レオンハルトでの老先生との会話を母さんに説明するのは難しかった。特に学校での有里がらみの非現実な事件については、自分でもよく理解していないから、その部分は大まかな流れと僕の心情だけを説明することにした。

「今日はたいへんだったんだねえ」話し終えたあとの母さんのレスポンスはのんきなものだった。

「まあ一言でいえばそうだね、たいへんだった」

「でもなんだか貴重な経験をしたみたいじゃない。私だって超常現象あんまり体験したことないのに」

「あんまりってことは、一度はあるわけ?」

「そりゃあるわよ。私くらいのミドルなエイジになるとね、誰でも一度はあるものなの」

「誰でも? 本当かなあ」

「あ、正宗くん私のこと疑ってますね、いけませんねえ。人を信じることが超常現象への第一歩ですよ」

「そうなの?」

「そうよ。テレビでよくやってる超能力の番組とか心霊特集とかあるでしょ。レポーターの人とか専門家の人とかが熱心にうそくさいこと語ってるじゃない。ああいうのを信じることができたら、そのうち自分にも体験のチャンスが巡ってくるんだよ」

「母さんうそくさいって言ってるじゃない」

「だってうそくさいんだもん。スプーン曲げとか心霊写真とか。たぶんあのスプーンはアルミでできてて、五歳児でも曲げられるんだよ。あと、心霊写真は全部が偽造」

「全然信じてないじゃない」

「うん。だいたいねえ、スプーンなんて両手使えば曲げられるし、今はパソコンソフトとかで画像編集できるんだから、霊らしいのが映ってても本物かどうかなんてわかんないわよ」

「母さんの超常現象体験はどんなだったの?」

「すごかったんだよ!」急に母さんのテンションが上がる。「私が高校生のときね、修学旅行で沖縄に行ったの。いろんな見学ツアーがあってね、その中でむかし戦時中に使ってたっていうね、塹壕っていうの?おっきな洞窟に入るのがあったんだ。で私入口の前まで歩いて行って、いざ入ろうってときに身体が動かなくなっちゃったの」

「現象としては僕と一緒だね」

「そんな感じ。でね、入ろうとして一歩足を踏み出した姿勢のまま動けなくなっちゃったから、友達が私を変な目で見るの。どうしたの?ってきかれたから、身体動かないの、って正直に言ったらみんな大笑いしだしちゃって。失礼な話よね」

「みんなどこが面白かったのかな」

「あとでそれ聞いてみたの。なんで笑うのよ!って。そしたらロボットみたいな姿勢のままそんなシュールなこと言うんだもん、だって!」

 僕は母さんが沖縄にあるという塹壕の手前で一歩踏み出した姿勢のまま固まって困っている風景を想像してみた。なるほど、ちょっと面白いかも。

「正宗くんまで笑ってる! 何想像してるの、私の制服姿?」

「いやその塹壕の光景を。セリフもそうだけど止まってる母さんもシュールだよね」

「ひどい! 正宗くんなんかもう知らない! ばーかばーか!」

 母さんは立ち上がって地団太踏みながらテーブルから離れて自分の寝室に入っていった。ドアの向こうからまだ「ばーか!」という声が聞こえる。なんだかこの頃ますます幼児退行化してきているような気がする。態度に感情が映りやすいというか、みえみえというか。子供は大人へと成長するけど、大人は子供へと後退するんだろうか。じゃあ一番大人でいられる頂点はどこなんだろう。僕はそんなことを考えているうちに、ひとつの疑問を思いついた。

 母さんはどうやって動けるようになったんだろう。

 僕は超常現象の専門家じゃないから詳しいことはわからないけど、僕と母さんの体験した現象はおそらく金縛りというやつだろう。今思うと、超常現象というよりも、一種の自然現象じゃないのかな。何かの拍子に脳からの信号が途絶えて身体が動かなくなるなんてありそうな話だ。想像だけど。

 テーブルを片づけてからパソコンの電源を入れた。インターネットの検索サイトで「金縛り」について調べてみる。何十万件という結果をちらちらのぞいてみると、ほとんどが金縛りを心霊現象でなく生理現象だと説明していた。たぶん近年の科学技術の発達が金縛りの謎を解明したんだろう。つまり、もはや金縛りは超常現象でもなんでもなく、くしゃみなんかとかわらないんだろうという結論が僕の中で出た。

 ただ、検索結果のほとんどは寝ている際の金縛りについて述べられていて、僕や母さんのケースのような突然動かなくなる現象については書かれている記事は少なかった。でもまったくないわけではない。中には全力で胡散臭い記事もあった。こういったものほど科学的裏づけから遠ざかり、説得力は痴漢の言い逃れほどに脆弱な傾向にある。テレビ番組みたいにエンターテイメントとして楽しむにはちょうどいいと思ったので、いくつか読んでいるうちに、面白い見解を持っている記事を見つけた。

 その記事によると、金縛りにあったときの解決策は、「ごめんなさい」ということだとあった。

 僕はレオンハルトでの老先生の言葉を思い出していた。

――すぐにごめんなさいというのはやめたまえ。

(老先生、ときにはすぐにごめんなさいということが、自分の危機を救うことがあるみたいですよ)

僕は心の中で老先生にメッセージを送ると愉快な気分になった。


34

 寝ている間に金縛りにあうこともなく、今朝の目覚めは爽快だった。

キッチンに出ていき牛乳を飲みながらテレビの電源を入れる。ニュース番組にチャンネルを合わせてから玄関へ新聞と取りにいった。広告を抜いて、ホチキスで新聞がばらばらにならないようにする。たたんでテーブルに置き、朝食にシリアルと牛乳とバナナのスライスを用意し、テーブルに並べた。自分の仕事を終えて、僕は歯を磨きに洗面所に向かった。歯をしゃこしゃこ磨いていると、キッチンのほうでごそごそ音がした。母さんが起き出してきたみたいだ。新聞をめくりながらシリアルをざーっとお皿に盛る音が聞こえる。母さんはシリアルをかわいくお皿に盛ってバナナスライスを美しくちらすことに朝の最上の喜びを感じる人だ。そこに牛乳を流し込んで、シリアルが牛乳でひたひたになっていく様子を眺めながら「ああん」なんて悶えたような声をあげるんだけど、常々僕はそれをやめてほしいと思いながらも言い出せずにいる。

歯を磨き終え、洗顔と寝ぐせなおしをすませてキッチンに戻ると、「おはよぅ正宗くん」と母さんがにこにこ顔で座っていた。今朝の気分はいいらしい。昨日不貞寝したままだったから、今朝の機嫌がどうか心配だったんだけど、どうやら問題なさそうだ。

「おはよう。僕はもう学校に行くからね」

「うん。いってらしてぇ。朝ごはんおいしいよぅ」



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