目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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27

 巧は教室に戻っていき、廊下には僕ひとりが残された。メッセージを伝えて役目を終えた紙は、今は濡れてぼろぼろになってしまった。これ以上の情報は持っていないだろうから、丸めてゴミ箱に捨てた。

 廊下には誰もいなかった。以前屋上へと足を運んだときと同じシチュエーションだ。偶然だと思いたいんだけど、自然と外の喧騒が僕の耳に届かなくなっていることに気づいた。孤独の恐怖感がじわじわと僕を蝕みはじめたけど、今回は明確な目的があるから前ほど不安には思わなかった。それでもやっぱり少しこわい。

 廊下の突き当たりまで歩いていく。通りすぎる教室には誰もいない。こんな偶然あるんだろうか。これも有里の手まわしのせいだとしたら凝りすぎだ。だけどそこまで演出して僕にエンターテイメントを提供してくれていると思うと、なんだかうれしくなった。有里の気持ちが伝わってくるみたいだ。でも予想が正しいかどうかわからないし、じつは単なる僕の考えすぎである可能性のほうが高いけど。

 屋上の手前に着くと、僕は自分が緊張していることがわかった。何に対する緊張なのか自分でもよくわからない。孤独感への不安なのか、有里とふたりきりになることへの興奮なのか、屋上からの景色の美しさを前にした期待なのか。

 僕はドアノブに手をかけた。鍵が開いていた。ゆっくりと回して押し開ける。

 外に出たのになぜか音ひとつしない。ぴんと張り詰めた空気があたりを漂い、まるで別世界に足を踏み入れてしまったかのようだ。僕は階段を一段ずつ上がっていく。踏みしめる瞬間だけ現実を感じた。足を上げるとすぐに夢の中に戻ってしまう。

 屋上から見える景色は、以前と変わらず美しかった。少しだけ僕の中の不安が落ち着いて、気持ちが軽くなった。僕は有里の姿を探した。給水タンクの陰にいすが置かれていたけど、誰も座っていなかった。僕は屋上をくまなく歩いたけど、有里はいなかった。有里がいないとわかったと同時に、寂しさが一気に僕を襲った。景色の美しい屋上で僕ひとり。外にいるのに、車の走る騒音や子供たちの喧騒も聞こえない。

急に、周囲に張り詰めた空気が僕の身体を包み、身動きがとれなくなった。足が動かない。指先さえ動かせない。いすが目の前にあるけど座ることができない。

なんだこれ? 僕はどうなってしまったんだろう。

 身体は動かなかったけど、頭は動いていた。だから、考えることはできた。

これって、一般にいう金縛り?

この超常現象は論理的に考えたところで原因が究明できるとは思えない。現実に証明されていることに、現状を打開するヒントは何ひとつないからだ。じゃあもういっそ開き直って、全部受け入れてしまおう。超常現象を認めよう。全部信じることにしよう。そうすれば何か解決策が見つかるかもしれない。

――神様。今まで存在を信じてませんでしたけど、いるとしたら教えてください。僕はどうしたらいいですか。

 口も動かないから心の中で神様を勝手につくりだしてお祈りしてみた。何も起こらなかった。

そりゃそうだ。本当は信じてないんだもの。やっぱり自分でなんとかしないといけない。

 僕はもう一度現実的に頭を動かしてみた。現状を説明できる事実はないけど、こうなってしまった原因なら説明できる。

有里だ。有里がここまで僕を導いたからだ。

彼女がじつは本当に超常現象を操る大魔王だった、なんて妄想が一瞬頭をよぎったけど、すぐに霧消した。馬鹿みたいだからだ。現実的に頭を動かしていたつもりがすぐ非現実へとシフトしてしまう。これも環境のせいなのかな。

この状況を有里がつくり出したとして考えてみよう。彼女の好きなミステリじゃなくてSF、いやむしろファンタジーへとジャンルが移っているのが不可解だ。どういうつもりなんだろう。僕をどうしたいんだろう。どうしてほしいんだろう。巧は有里をアホだと言った。僕は今なら頭を縦にぶんぶん振って賛成だ。

ようやく僕は自分の心情に気づいた。僕はこの状況をどう思っているのか考えが向かなかった。僕は今とても興奮しているみたいだ。非日常に巻き込まれて困っているこの状況を楽しんでいる。この状況は有里のせいだけど、この気持ちは有里のおかげだ。感謝していいのかどうか微妙だなあ。

とはいえ、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。午後の授業に出なければいけないし、しばらくすれば足も疲れてくるからだ。もっと長い目で見ると命の危険すらあるんだけど、なぜかそこまで心配できなかった。僕は楽観的な性格みたいだ。

突然だった。

ガラスの割れるような音がして、大勢の悲鳴が聞こえた。僕はびっくりしてあたりを見渡してみたけど、誰もいないし、何も割れていない。そもそも屋上にガラスはない。誰もいないのは当たり前だ。

あれ、身体が動くな。どうしたんだろう急に。

ふう、と一息ついて今起こったことを整理してみる。

屋上に来ると有里はいなかった。急に身体が動かなくなっていろいろ考えた結果、有里がアホだとわかった。非日常の体験を楽しむ自分を発見した。突然ガラスの割れる音がして、それと同時に身体が動くようになった。

振り返ってみても意味不明だ。得られたことは有里がアホだってことくらいだ。べつに悪口じゃなくて、愉快だということを皮肉って表現しているつもりだけど。

ふと有里が座っていたいすに目を向けると、その下に封筒が落ちていた。さっきはたしかになかったのに、どこから出てきたんだろう。

拾い上げて開封してみようとしたけど、きっちり口が閉じられていて開けられない。諦めて折りたたんでポケットにしまった。あとでハサミを使えばいいや。

新しいアイテムを手に入れて満足したので、僕は屋上をあとにした。まだ有里のゲームは続くみたいだ。僕はやっぱり楽しんでいた。


28

 教室に戻ると大騒ぎだった。教師が数人窓際に集まっており、子供が少し遠巻きにしながらざわざわとにぎわっている。興奮と恐怖と好奇が渦巻く空気が教室内を支配していた。

 何事かと思って集団の隙間から覗いてみると、教室の窓ガラスが一枚割れていた。あまりにも見事に割れていたので、窓枠しか残っていない。教室の床にはほとんど破片が落ちていないので、レインボーロードのほうへと割れたんだろう。僕が屋上で聞いたのはこれだったみたいだ。

 一番に有里を探したけど教室にいなかった。巧は自分の席でうすら笑いを浮かばせながら人ごみを眺めていた。僕は自分の席に戻った。

「何があったの?」僕は巧にたずねてみた。

「誰かが教室に入ってきて一直線に窓に歩いてって、持ってたコンクリートの塊をガラスにぶつけやがった」

「見てたの?」

「いや、そう思っただけだ」

「じゃあ先生に言わなきゃ」

「お前なら言うか?」

 巧は試すように僕を見た。考えてみたけど、有里の行為はやりすぎだという結論が当然のように僕の中で出た。ゲームが楽しいのはここまでだ。僕は遊戯より常識を重んじる。

「言うよ」

「そうか」巧は納得したように頷いた。


29

 有里のお父さんが昼休みすぎに学校に来て、彼女を連れて帰っていった。ミズカツ先生と彼女の父さんが話しているうしろにぽつんと立っている有里の姿は、じつに堂々としていてまったく悪気が見られなかった。開き直っているというよりも、えん罪を確信している死刑囚のようだった。えん罪を確信している死刑囚なんて見たことないけどそう思った。クラスのみんなは有里が突然帰ることになったのを怪しんでいたけど、「まさか、あの子がね」という否定の雰囲気が大勢を占めていた。


30

 帰り道、信号が変わるのを待っているとき、巧が口を開いた。

「あいつがあそこまでするとはな。アホを通り越して病気かと思えるぜ」

「巧もあれはやりすぎだと思うよね」

「さすがに俺もフォローはできねえな」信号が青に変わったので僕たちは歩き出した。「しかしまあ、お前が転校してきてから、あいつの新たな面を観察できた」

「そうなの?」

「ああ。以前は他人に対して全然関心を示さなかったんだ。あいつのお眼鏡にかなうやつがいなかったってことだがな」

「僕は選ばれしものなんだね。本当によくできたストーリーだ。僕を勇者に仕立て上げたんだ」

「うれしいだろ?」

「うーん、正直微妙だね。楽しいんだけど、今日みたいに有里が無茶しすぎてまわりに迷惑がかかると困るし、有里が好きでやってるみたいだけど、彼女に負担をかけてることに罪悪感を感じるし」

「良心の呵責ってやつだな」例の自販機の前で巧は足を止めた。「お前も人がいいよな」

 僕たちは自販機で買ったコーラを飲みながら、レオンハルトへと向かった。今日は僕がお金を払った。巧はいいと断ったけど、いろいろ世話になっているので今日は払わせてほしいと僕は押し切った。

 レオンハルトに着き、教室を覗いて老先生を探したけど姿は見えなかった。談話室のドアを開けると老先生と有里が座ってお菓子を食べていた。

「こんにちは」僕たちは老先生に挨拶した。

「やあ」老先生は片手をあげて応えた。

 僕は有里の様子を観察した。ポテトチップを粉々に砕いてもくもくと食べている。僕たちが来たことに気づいているはずだけど、顔も上げない。普段の有里にも見えたけど、怒っているようにも見えた。

「大丈夫?」僕は有里に声をかけた。返事はない。

「お前やりすぎだぜ、あれは。やりたいならもっと水面下で仕事しろよ」

 有里は黙ったままだ。粉々のポテトチップをさらに砕いた。これではほとんど粉末で、食べてもおいしくないだろう。

「さっき有里君から話は聞いたよ」老先生が参加してきた。「ちょっとした騒動になったそうだな」

 僕は有里が老先生に今日のことを話したという事実に少し驚いていた。有里も巧と同じく老先生に信頼を寄せているみたいだ。普段の様子からはそんな気配はうかがえなかった。

「ええ、有里には困ったものです」巧は有里を責める姿勢を変えない。「先生からも何か言ってやってもらえませんか」

「私はジャッジしない」老先生の言葉には重みがあった。それは揺れ動かない確固とした主張だと思った。「正義とは万人が守ってしかるべき正しい概念だ。しかし正義の定義は人により異なる。ここまではかまわないけど、ここからは許せないというラインは各々が自分の裁定で引いている。今回の有里君の件では、彼女の独断と自我により器物破損を招いたわけだが、有里君の中にそれをよしとする正義があるならば私は口を出すことができない。もしそれが間違っていたとしてもだ。そもそも間違いとは確実ではない。観測するものにより間違いの定義はやすやすと塗り替えられてしまうからだ。世間的にまかり通っている間違いとは、社会の正義に背くものを指すが、個々人の正義が必ずしも社会正義の集合に含まれているとはかぎらないのだ。ゆえに私が有里君に対してできることは、話を聞いて客観的な観測結果を提示することのみだ」

 僕は老先生の言葉をひとつひとつ心にしみ込ませ、自分に馴染むかどうか試してみた。ひとつの疑問が思い浮かんだ。僕は気づくと挙手していた。

「正宗君」老先生は僕をあてた。

「はい。もし他人の正義が先生の正義に背くものだった場合、先生は自分の正義を主張されないんですか?」

「よい質問だ」老先生はくふふと笑った。「たしかにふたつの正義が衝突した際、そこに断層が生じて相容れない場合があるだろう。だが他人の正義が己のものとそぐわないからといって、相手を否定する権利があるのだろうか? それは単なるエゴにすぎない。己の正義を他者に押しつけることで自己を主張しようとすることは社会に浸透しすぎており、誰も疑問を持たない程度まで達しているが、一度振り返って考えてみるとよい。そんな権利は存在しない。誰も持ち得ないのだ。社会的権利権限を握るものがしばしばこれをあたかも当然のように振るうが、直接的には束縛される謂われはない。副次的に己が不利な立場に追い込まれるために服従しているにすぎない。これら理由から、質問への答えはノーだ」

 僕は老先生があげた理由について考えてみた。たしかに説得力があり矛盾もないように思える。でもそれでは社会的弱者というか弱い立場の人は何も言えないということになってしまう。これでいいんだろうか。たとえばクラスでひとり浮いていて、いじめに遭っている子は自分の正義、つまり自分の身を守ることをいじめっ子に主張すべきじゃないんだろうか。いじめっ子が暴力にどんな正義を見出しているか僕には想像もつかないけど、それが間違っていると指摘してはいけないんだろうか。悪に対抗するのが正義じゃないんだろうか。

 僕はまた手をあげた。

「正宗君」

「はい。では明らかな悪への対抗として自分の正義を主張することもダメなんですか?」

「その質問に答えるためには、まず『悪』を定義する必要がある。君も自分で述べて気づいていると思うが、『悪』という言葉に『明らかな』という修飾語をつけていることから、『悪』には明確なラインが定まっていないことがわかる。つまり程度に依存するわけだ。殺人を犯すことや不当に人のものを盗むことは現在では誰からみても『悪』だが、他人を物理的に傷つけたり、精神的に傷つけたりすることは観察者によっては『悪』だと見なされないことがある。よって不確定要素を取り除いた上で『悪』を定義することにする」

――悪とは、存在するいかなる正義にも反するものの総称である。

「正義と悪が相対するものであるという理解については既知であるとした上で、悪とは現存するいかなる正義にも反するわけであるから、悪に対して己の正義を行使することになんの問題もない。これが答えだ」

 悪ってそれほど厳密な言葉だったんだ。もっと直感的にマイナスのイメージが連想できるものはすべて悪って呼んでもいいものだと思っていた。

「話を戻すが」老先生は有里が砕いた粉チップを指でつまみ、ぱらぱらと自分の頭に振りかけた。お祓いの塩みたいな使い方だった。どういう意味があるんだろう。

「有里君の話を聞く分には彼女なりの正義があり主張があるようだ。社会の正義には反するが、彼女が悪だと断定するのは話を聞くまでは早計である」そう言って老先生は立ち上がった。「私は一服してくる」そのまま談話室から出て行った。


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 老先生は有里なりに正義があると言った。ならまずそれを聞かないことには、何も変わらないしわからない。

「ねえ有里」僕はもう一度声をかけた。「有里の正義って何?」

 ようやく有里は顔を上げ、僕をまっすぐに見た。それから巧にも視線を移して少しあごを持ち上げた。巧を見ると、有里に向かって妙な目配せをしていた。ふたりの間でなんらかのコミュニケーションがとれたんだろう。僕にはわからない。

「今は話せない」有里は言った。

「どうして?」

「しばらくしたらわかるよ。そうね、少なくとも五月中には」

 今は四月の終わりにさしかかろうとしている時期だ。じゃあもうすぐ明らかになるってことか、有里の正義が。

「だから待ってて」そう言って有里は僕から目をそらした。うつむいてさらに新たにポテトチップを砕きはじめた。

 僕はふうとため息をつき、巧に目を向けた。肩をすくめて両手の平を上に向けるアメリカンアクションをした。三人でいるのにふたりとひとりに分かれてしまったみたいで、どこか寂しい思いがしたけど、それは今だけだと思うことにした。

「うん、じゃあ気長に待ってるよ。こんな経験はじめてで、僕は今楽しいから」

 僕がそう言うと、有里はぱっと顔を上げて僕をじっと見た。意外そうな表情だったから僕はたじろいで、何か変なこと言ったかな、と自分の言葉を反芻してみたけど、特別変なことを言ったとは思えなかった。

 慌てた様子の僕を見つめながら、有里はふいにぱっと笑顔になった。

よく笑顔をたとえるのに「花開く」とか「百万ドル」とかいうけど、有里の笑顔は形容の言葉が見つからないほどに、ただ素直でかわいかった。よく考えたら有里が笑っているのを見たのははじめてだ。表情ひとつでこんなにも印象が違うんだな、と僕は認識を新たにした。



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