25
巧は校舎の裏側に向かった。僕の教室がある校舎は一番北側にあり、レインボーロードの反対側に位置する裏側は金網一枚挟んで道路に面していて、外からはまる見えだ。今の時間は道路の交通量は少なく、通行する人もほとんどいない。子供はみんな校庭かレインボーロードで遊ぶから誰もここには来ない。巧は目立たない程度にきょろきょろしたりうしろを振り返りながら進んでいった。たぶん人目を気にしているんだろう。
できるだけ廊下の窓から見えないところでかがんで、巧はズボンのポケットから何か取り出した。どうしてライターを持っているのか、と僕は疑問に思った。
「これであぶってみろよ」巧は僕にライターを差し出した。
ライターの火をつけて、そのうえで有里の紙をゆすってみる。しばらく試してみたけど、特に変化は見られなかった。
「違うみたいだね」僕は火を消して巧に返した。「じゃあ水だね」
「そうだな」巧はライターをポケットにしまった。
それにしてもどうしてライターなんか持っているんだろう。まさかとは思ったけど、巧がそんなものに手を出すとは考えにくい。でもほかに用途が思いつかなかったから一層不思議だった。
僕が変な目で見つめているのを受けて、巧は両肩をすくめるアメリカンなリアクションをした。
「まあ俺も興味がないわけじゃない。けどダメなものはダメだ。それにいずれわかることだから今試す必要もないだろう?」
「それはわかるけど、どうして持ってるのかがわからないんだ」
「これはな、若先生がくれたんだ。あの人は喫煙者だぜ。それを隠す様子もなくてな、俺たちの前でも普通に吸ってるんだ。いっそすがすがしいくらいにな。その姿がかっこよくてさ、俺がライターをくれって冗談で頼んだら、ほらよ、ってなんの未練もなさそうに俺に放ってよこしたんだ」
巧の持っているライターはコンビニとかで売っている百円の安物とは違い、ちゃんとふたがついているし、カバーの金属光沢は高級品の様相を呈していた。
「高そうだよね」
「たぶんいいやつだろうな。そのときの若先生の惜しげのなさがかっこよくてさ、がらにもなく感動しちまったぜ。以来持ち歩いてるんだ」
「大事にしてるんだね」
巧は照れたようにくすっと笑ってポケットをぽんぽん叩いた。「俺の宝だ」
26
三階に戻って、僕たちは廊下の流し場の排水溝に栓をして水を一センチほど貯めた。
「結局巧に手伝ってもらっちゃったね」
「有里もそこまで考えてのことだろうから、俺が見ても大丈夫な内容になってるだろうよ」
僕は紙を広げて、水の上にそっと浮かべた。しばらく観察するまでもなく、すぐに紙に水がしみ込み、文字が浮かび上がってきた。
僕は書かれている文章を声に出して読んだ。
「晴れの日、屋上にもう一度来て」
どうやら呼び出し文のようだ。日時の指定がないからいつ行けばいいのかこれだけではわからない。だけど以前巧から有里が晴れの日の昼休みに屋上で読書をしているのを聞いていたし、一度見かけたこともある。つまり、晴れの日の昼休みならいつ行っても大丈夫なんだろう。
「俺が話したことも読まれてるな」巧もすぐに理解した。「まったくアホだなこいつは。たぶんお前でミステリごっこを楽しんでるんだぜ」
「まあ僕は本を読まないけど、こういう物語を自分で動きながら進んでいったら楽しいかもね。ゲームであるでしょ、ロールプレイするやつ。あんな感じだよね」
「まあそうとも言えるかな。アイテムを集めていって、大魔王のところへたどり着いて知力のかぎりを尽くして戦うんだろ。そうして勇者は大魔王を倒して踏みつけにして世界を正しく導くんだ。つまりお前が勇者で有里が極悪非道の大魔王だな」
「そこまで具体的になるとリアリティが湧いてきて気持ちがなえちゃうよ」
巧ははっはと笑った。「お前には有里が大魔王に見えるのか」
僕は頭ににょきっと角を生やしてビキニと黒マントを着た有里の姿を想像した。なぜビキニを連想したのかわからないけど、女の子の魔王なんだからビキニでもありだろう、と考えてみたけどなんの説得力もない。
「いったいどんな妄想してるんだお前」巧は目を見開いて少しあごを引いて僕を見ていた。よっぽど変な顔をしていたんだろう。巧にも読みとれない表情なんだから。
「まあさておき、行ってこいよ」巧は僕の肩をパンチした。「あいつの目的をたしかめてこい」
27
巧は教室に戻っていき、廊下には僕ひとりが残された。メッセージを伝えて役目を終えた紙は、今は濡れてぼろぼろになってしまった。これ以上の情報は持っていないだろうから、丸めてゴミ箱に捨てた。
廊下には誰もいなかった。以前屋上へと足を運んだときと同じシチュエーションだ。偶然だと思いたいんだけど、自然と外の喧騒が僕の耳に届かなくなっていることに気づいた。孤独の恐怖感がじわじわと僕を蝕みはじめたけど、今回は明確な目的があるから前ほど不安には思わなかった。それでもやっぱり少しこわい。
廊下の突き当たりまで歩いていく。通りすぎる教室には誰もいない。こんな偶然あるんだろうか。これも有里の手まわしのせいだとしたら凝りすぎだ。だけどそこまで演出して僕にエンターテイメントを提供してくれていると思うと、なんだかうれしくなった。有里の気持ちが伝わってくるみたいだ。でも予想が正しいかどうかわからないし、じつは単なる僕の考えすぎである可能性のほうが高いけど。
屋上の手前に着くと、僕は自分が緊張していることがわかった。何に対する緊張なのか自分でもよくわからない。孤独感への不安なのか、有里とふたりきりになることへの興奮なのか、屋上からの景色の美しさを前にした期待なのか。
僕はドアノブに手をかけた。鍵が開いていた。ゆっくりと回して押し開ける。
外に出たのになぜか音ひとつしない。ぴんと張り詰めた空気があたりを漂い、まるで別世界に足を踏み入れてしまったかのようだ。僕は階段を一段ずつ上がっていく。踏みしめる瞬間だけ現実を感じた。足を上げるとすぐに夢の中に戻ってしまう。
屋上から見える景色は、以前と変わらず美しかった。少しだけ僕の中の不安が落ち着いて、気持ちが軽くなった。僕は有里の姿を探した。給水タンクの陰にいすが置かれていたけど、誰も座っていなかった。僕は屋上をくまなく歩いたけど、有里はいなかった。有里がいないとわかったと同時に、寂しさが一気に僕を襲った。景色の美しい屋上で僕ひとり。外にいるのに、車の走る騒音や子供たちの喧騒も聞こえない。
急に、周囲に張り詰めた空気が僕の身体を包み、身動きがとれなくなった。足が動かない。指先さえ動かせない。いすが目の前にあるけど座ることができない。
なんだこれ? 僕はどうなってしまったんだろう。
身体は動かなかったけど、頭は動いていた。だから、考えることはできた。
これって、一般にいう金縛り?
この超常現象は論理的に考えたところで原因が究明できるとは思えない。現実に証明されていることに、現状を打開するヒントは何ひとつないからだ。じゃあもういっそ開き直って、全部受け入れてしまおう。超常現象を認めよう。全部信じることにしよう。そうすれば何か解決策が見つかるかもしれない。
――神様。今まで存在を信じてませんでしたけど、いるとしたら教えてください。僕はどうしたらいいですか。
口も動かないから心の中で神様を勝手につくりだしてお祈りしてみた。何も起こらなかった。
そりゃそうだ。本当は信じてないんだもの。やっぱり自分でなんとかしないといけない。
僕はもう一度現実的に頭を動かしてみた。現状を説明できる事実はないけど、こうなってしまった原因なら説明できる。
有里だ。有里がここまで僕を導いたからだ。
彼女がじつは本当に超常現象を操る大魔王だった、なんて妄想が一瞬頭をよぎったけど、すぐに霧消した。馬鹿みたいだからだ。現実的に頭を動かしていたつもりがすぐ非現実へとシフトしてしまう。これも環境のせいなのかな。
この状況を有里がつくり出したとして考えてみよう。彼女の好きなミステリじゃなくてSF、いやむしろファンタジーへとジャンルが移っているのが不可解だ。どういうつもりなんだろう。僕をどうしたいんだろう。どうしてほしいんだろう。巧は有里をアホだと言った。僕は今なら頭を縦にぶんぶん振って賛成だ。
ようやく僕は自分の心情に気づいた。僕はこの状況をどう思っているのか考えが向かなかった。僕は今とても興奮しているみたいだ。非日常に巻き込まれて困っているこの状況を楽しんでいる。この状況は有里のせいだけど、この気持ちは有里のおかげだ。感謝していいのかどうか微妙だなあ。
とはいえ、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。午後の授業に出なければいけないし、しばらくすれば足も疲れてくるからだ。もっと長い目で見ると命の危険すらあるんだけど、なぜかそこまで心配できなかった。僕は楽観的な性格みたいだ。
突然だった。
ガラスの割れるような音がして、大勢の悲鳴が聞こえた。僕はびっくりしてあたりを見渡してみたけど、誰もいないし、何も割れていない。そもそも屋上にガラスはない。誰もいないのは当たり前だ。
あれ、身体が動くな。どうしたんだろう急に。
ふう、と一息ついて今起こったことを整理してみる。
屋上に来ると有里はいなかった。急に身体が動かなくなっていろいろ考えた結果、有里がアホだとわかった。非日常の体験を楽しむ自分を発見した。突然ガラスの割れる音がして、それと同時に身体が動くようになった。
振り返ってみても意味不明だ。得られたことは有里がアホだってことくらいだ。べつに悪口じゃなくて、愉快だということを皮肉って表現しているつもりだけど。
ふと有里が座っていたいすに目を向けると、その下に封筒が落ちていた。さっきはたしかになかったのに、どこから出てきたんだろう。
拾い上げて開封してみようとしたけど、きっちり口が閉じられていて開けられない。諦めて折りたたんでポケットにしまった。あとでハサミを使えばいいや。
新しいアイテムを手に入れて満足したので、僕は屋上をあとにした。まだ有里のゲームは続くみたいだ。僕はやっぱり楽しんでいた。
28
教室に戻ると大騒ぎだった。教師が数人窓際に集まっており、子供が少し遠巻きにしながらざわざわとにぎわっている。興奮と恐怖と好奇が渦巻く空気が教室内を支配していた。
何事かと思って集団の隙間から覗いてみると、教室の窓ガラスが一枚割れていた。あまりにも見事に割れていたので、窓枠しか残っていない。教室の床にはほとんど破片が落ちていないので、レインボーロードのほうへと割れたんだろう。僕が屋上で聞いたのはこれだったみたいだ。
一番に有里を探したけど教室にいなかった。巧は自分の席でうすら笑いを浮かばせながら人ごみを眺めていた。僕は自分の席に戻った。
「何があったの?」僕は巧にたずねてみた。
「誰かが教室に入ってきて一直線に窓に歩いてって、持ってたコンクリートの塊をガラスにぶつけやがった」
「見てたの?」
「いや、そう思っただけだ」
「じゃあ先生に言わなきゃ」
「お前なら言うか?」
巧は試すように僕を見た。考えてみたけど、有里の行為はやりすぎだという結論が当然のように僕の中で出た。ゲームが楽しいのはここまでだ。僕は遊戯より常識を重んじる。
「言うよ」
「そうか」巧は納得したように頷いた。
29
有里のお父さんが昼休みすぎに学校に来て、彼女を連れて帰っていった。ミズカツ先生と彼女の父さんが話しているうしろにぽつんと立っている有里の姿は、じつに堂々としていてまったく悪気が見られなかった。開き直っているというよりも、えん罪を確信している死刑囚のようだった。えん罪を確信している死刑囚なんて見たことないけどそう思った。クラスのみんなは有里が突然帰ることになったのを怪しんでいたけど、「まさか、あの子がね」という否定の雰囲気が大勢を占めていた。