目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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 僕はベッドの中で目を閉じながらレオンハルトを出るときに会った男の人のことを考えていた。いったいどこで会ったんだろう。ショックで忘れてしまうようなイベントって言ってたけど、なんのことだろう。わかるのは、はじめて会ったのはこの土地じゃないってことだ。たぶん引っ越す前、市外にいた頃に関わったんだと思う。だってこちらに来てからのことは全部覚えている。まだ日も浅いし、浮き沈みはあるけどそれなりに有意義な学校生活を送っている。夕食のメニューだっていつ何を食べたか思い出せるくらいだ。まあこれは明太子料理のバリュエーションが少ないから覚えているだけだけど。向こうにいた頃にいったい何があったんだろう。特に事件らしい事件に巻き込まれて記憶喪失になってしまったみたいなドラマティックなことはなかったし、何かしらの事故による記憶障害を患った経験もない。あとは僕が思い出したくないことを自分で無意識に封じ込めてしまっているくらいか。単に思い出せないという可能性もあるけど、男の人との会話から考えて、やっぱり何かしら特別なイベントが発生していたようだから、僕がそれを覚えていないというのはすんなり納得できない。どんなイベントがあったのか……。

 いろいろ考えて頭を動かしているうちに、身体は静かに眠りにつき、次第に脳も活動を停止して枕の上で心地よい寝息を立てはじめた。


24

 晴れの日の学校での昼休み、僕と巧はいつも通り教室の窓際に陣取って給食の牛乳をちゅうちゅう飲んでいた。

「それで、宿題はできたのか?」巧は僕をからかうような口調で言った。

「ううん、母さんと一緒に考えてみたんだけど、ふたりともお手上げだったよ」

「お前アニメとか本とかマンガとか見ないのか? ああいったメディアは意外といろんな知識が身につくぜ。けっこう考えてつくられてるんだ」

「うーん、僕はもうどれも見ないなあ。ヒントがあれば考えるだけでいいから簡単なんだけど。パズルとかクイズは最初のピースがないと、僕はどこにも思考が向かないんだ」

「そういうやつは社会的有為とはいえないな。なおしたほうがいいぜ」

「なおるものなの?」

「ああ、訓練次第でどうにでもなる。もちろん子供だからだけどな。大人になっちまったら頭が固くなってもう柔軟体操もできないからな」

「そうなんだ、じゃあ柔軟な思考の訓練をしないとね。レオンハルトでそれも身につくと思う?」

「結論から言うとイエスだ。でも授業じゃなくて先生との会話でそういった方面の能力は養われる。あそこの先生はふたりともすごい人間だぜ」

 ふたりっていうのは、もしかして、あの男の人のことかな。

「老先生と若い先生だね」

「どちらかというと若先生のほうが優れてるな。老先生は俺らの教育のほかにも経営とかいろんなことを背負い込んでるから教育一筋ってわけにはいかないみたいだ。もちろんそれでもすごいんだけどな。若先生はフットワークが軽くて頭に余計な荷物を背負ってないからな。それに若いし思考が柔軟で、おまけに飛びきりの高次な知性を持ってる。俺が知ってる人間で一番頭がいいんだ」

 巧が一番と断定するほどの人だったとは驚いた。それに巧のレオンハルトへの入れ込みようも相当なものだとこの時点で気づいた。よっぽどあの塾が気に入っているんだろう。たしかに風変わりで魅力的なところだと僕も思う。

「そう言えばね、僕その若先生にむかし会ったことがあるみたいなんだ」

 巧は眉を寄せてしわをつくり、「んん?」といぶかしむ表情を見せた。

「みたいってのはどういうこった?」

「いやね、こないだ顔を合わせたときこの人どこかで見たことがあるなあと思ったら、向こうも僕に久しぶりだな、って声をかけてきたんだ」

「覚えてないのか?」

「うん。こっちじゃなくて前いたところで会ったと思うんだけど。それにね、あの人が言うには僕が覚えてないのも無理ないって」

「どういう意味だろうな」

「なんかそのときイベントが起こってそのショックで僕は覚えてないんだろうって言うんだ」

「へえ。そのイベントにも心当たりはないんだな」

「うん」

 僕たちはふたりして「うーん」としばらく考えてみたけど、なんらいい考察は得られなかった。

 若先生については考えても考えてもわからないので、僕の思考は自然と有里の謎かけへと移行していった。巧はマンガとかのメディアからヒントが得られるという。つまりそういったものでも取り上げられてネタにされる程度にチープな仕掛けであるということだ。なら特別な道具が必要ということもなく、身近なものを使ってなんらかの操作をすれば正解が得られるだろう。

「有里の謎かけだけど」僕は思考に没している巧に話しかけた。「簡単で単純なことで答えが得られるんだよね」

「ああ、そのとおりだ」巧は顔を上げてにやりと笑った。「お前ヒントは必ず見逃さないんだな。そういうところすごいと思うぜ」

 こういう単純なことに感心してくれる巧はとても優しい。

「ジャンルはな、理科だな」

「へえ。じゃあ薬品とか使う――」僕は言いかけて止まった。そうか、わかった。

「いや、火か水だね」

「簡単だろ?」

「本当に。帰ったら試してみるよ」

「いや、今やろう」巧はそう言って立ち上がった。「たぶんだけど、今のほうがいい」

「ええ、今やるの? でも火なんかどこで使えるの?」

「まあまあ、いいから行くぞ」

 巧が教室から出て行こうとするので、僕もあとについていった。


25

巧は校舎の裏側に向かった。僕の教室がある校舎は一番北側にあり、レインボーロードの反対側に位置する裏側は金網一枚挟んで道路に面していて、外からはまる見えだ。今の時間は道路の交通量は少なく、通行する人もほとんどいない。子供はみんな校庭かレインボーロードで遊ぶから誰もここには来ない。巧は目立たない程度にきょろきょろしたりうしろを振り返りながら進んでいった。たぶん人目を気にしているんだろう。

 できるだけ廊下の窓から見えないところでかがんで、巧はズボンのポケットから何か取り出した。どうしてライターを持っているのか、と僕は疑問に思った。

「これであぶってみろよ」巧は僕にライターを差し出した。

 ライターの火をつけて、そのうえで有里の紙をゆすってみる。しばらく試してみたけど、特に変化は見られなかった。

「違うみたいだね」僕は火を消して巧に返した。「じゃあ水だね」

「そうだな」巧はライターをポケットにしまった。

 それにしてもどうしてライターなんか持っているんだろう。まさかとは思ったけど、巧がそんなものに手を出すとは考えにくい。でもほかに用途が思いつかなかったから一層不思議だった。

 僕が変な目で見つめているのを受けて、巧は両肩をすくめるアメリカンなリアクションをした。

「まあ俺も興味がないわけじゃない。けどダメなものはダメだ。それにいずれわかることだから今試す必要もないだろう?」

「それはわかるけど、どうして持ってるのかがわからないんだ」

「これはな、若先生がくれたんだ。あの人は喫煙者だぜ。それを隠す様子もなくてな、俺たちの前でも普通に吸ってるんだ。いっそすがすがしいくらいにな。その姿がかっこよくてさ、俺がライターをくれって冗談で頼んだら、ほらよ、ってなんの未練もなさそうに俺に放ってよこしたんだ」

 巧の持っているライターはコンビニとかで売っている百円の安物とは違い、ちゃんとふたがついているし、カバーの金属光沢は高級品の様相を呈していた。

「高そうだよね」

「たぶんいいやつだろうな。そのときの若先生の惜しげのなさがかっこよくてさ、がらにもなく感動しちまったぜ。以来持ち歩いてるんだ」

「大事にしてるんだね」

 巧は照れたようにくすっと笑ってポケットをぽんぽん叩いた。「俺の宝だ」


26

 三階に戻って、僕たちは廊下の流し場の排水溝に栓をして水を一センチほど貯めた。

「結局巧に手伝ってもらっちゃったね」

「有里もそこまで考えてのことだろうから、俺が見ても大丈夫な内容になってるだろうよ」

 僕は紙を広げて、水の上にそっと浮かべた。しばらく観察するまでもなく、すぐに紙に水がしみ込み、文字が浮かび上がってきた。

 僕は書かれている文章を声に出して読んだ。

「晴れの日、屋上にもう一度来て」

 どうやら呼び出し文のようだ。日時の指定がないからいつ行けばいいのかこれだけではわからない。だけど以前巧から有里が晴れの日の昼休みに屋上で読書をしているのを聞いていたし、一度見かけたこともある。つまり、晴れの日の昼休みならいつ行っても大丈夫なんだろう。

「俺が話したことも読まれてるな」巧もすぐに理解した。「まったくアホだなこいつは。たぶんお前でミステリごっこを楽しんでるんだぜ」

「まあ僕は本を読まないけど、こういう物語を自分で動きながら進んでいったら楽しいかもね。ゲームであるでしょ、ロールプレイするやつ。あんな感じだよね」

「まあそうとも言えるかな。アイテムを集めていって、大魔王のところへたどり着いて知力のかぎりを尽くして戦うんだろ。そうして勇者は大魔王を倒して踏みつけにして世界を正しく導くんだ。つまりお前が勇者で有里が極悪非道の大魔王だな」

「そこまで具体的になるとリアリティが湧いてきて気持ちがなえちゃうよ」

 巧ははっはと笑った。「お前には有里が大魔王に見えるのか」

 僕は頭ににょきっと角を生やしてビキニと黒マントを着た有里の姿を想像した。なぜビキニを連想したのかわからないけど、女の子の魔王なんだからビキニでもありだろう、と考えてみたけどなんの説得力もない。

「いったいどんな妄想してるんだお前」巧は目を見開いて少しあごを引いて僕を見ていた。よっぽど変な顔をしていたんだろう。巧にも読みとれない表情なんだから。

「まあさておき、行ってこいよ」巧は僕の肩をパンチした。「あいつの目的をたしかめてこい」


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 巧は教室に戻っていき、廊下には僕ひとりが残された。メッセージを伝えて役目を終えた紙は、今は濡れてぼろぼろになってしまった。これ以上の情報は持っていないだろうから、丸めてゴミ箱に捨てた。

 廊下には誰もいなかった。以前屋上へと足を運んだときと同じシチュエーションだ。偶然だと思いたいんだけど、自然と外の喧騒が僕の耳に届かなくなっていることに気づいた。孤独の恐怖感がじわじわと僕を蝕みはじめたけど、今回は明確な目的があるから前ほど不安には思わなかった。それでもやっぱり少しこわい。

 廊下の突き当たりまで歩いていく。通りすぎる教室には誰もいない。こんな偶然あるんだろうか。これも有里の手まわしのせいだとしたら凝りすぎだ。だけどそこまで演出して僕にエンターテイメントを提供してくれていると思うと、なんだかうれしくなった。有里の気持ちが伝わってくるみたいだ。でも予想が正しいかどうかわからないし、じつは単なる僕の考えすぎである可能性のほうが高いけど。

 屋上の手前に着くと、僕は自分が緊張していることがわかった。何に対する緊張なのか自分でもよくわからない。孤独感への不安なのか、有里とふたりきりになることへの興奮なのか、屋上からの景色の美しさを前にした期待なのか。

 僕はドアノブに手をかけた。鍵が開いていた。ゆっくりと回して押し開ける。

 外に出たのになぜか音ひとつしない。ぴんと張り詰めた空気があたりを漂い、まるで別世界に足を踏み入れてしまったかのようだ。僕は階段を一段ずつ上がっていく。踏みしめる瞬間だけ現実を感じた。足を上げるとすぐに夢の中に戻ってしまう。

 屋上から見える景色は、以前と変わらず美しかった。少しだけ僕の中の不安が落ち着いて、気持ちが軽くなった。僕は有里の姿を探した。給水タンクの陰にいすが置かれていたけど、誰も座っていなかった。僕は屋上をくまなく歩いたけど、有里はいなかった。有里がいないとわかったと同時に、寂しさが一気に僕を襲った。景色の美しい屋上で僕ひとり。外にいるのに、車の走る騒音や子供たちの喧騒も聞こえない。

急に、周囲に張り詰めた空気が僕の身体を包み、身動きがとれなくなった。足が動かない。指先さえ動かせない。いすが目の前にあるけど座ることができない。

なんだこれ? 僕はどうなってしまったんだろう。

 身体は動かなかったけど、頭は動いていた。だから、考えることはできた。

これって、一般にいう金縛り?

この超常現象は論理的に考えたところで原因が究明できるとは思えない。現実に証明されていることに、現状を打開するヒントは何ひとつないからだ。じゃあもういっそ開き直って、全部受け入れてしまおう。超常現象を認めよう。全部信じることにしよう。そうすれば何か解決策が見つかるかもしれない。

――神様。今まで存在を信じてませんでしたけど、いるとしたら教えてください。僕はどうしたらいいですか。

 口も動かないから心の中で神様を勝手につくりだしてお祈りしてみた。何も起こらなかった。

そりゃそうだ。本当は信じてないんだもの。やっぱり自分でなんとかしないといけない。

 僕はもう一度現実的に頭を動かしてみた。現状を説明できる事実はないけど、こうなってしまった原因なら説明できる。

有里だ。有里がここまで僕を導いたからだ。

彼女がじつは本当に超常現象を操る大魔王だった、なんて妄想が一瞬頭をよぎったけど、すぐに霧消した。馬鹿みたいだからだ。現実的に頭を動かしていたつもりがすぐ非現実へとシフトしてしまう。これも環境のせいなのかな。

この状況を有里がつくり出したとして考えてみよう。彼女の好きなミステリじゃなくてSF、いやむしろファンタジーへとジャンルが移っているのが不可解だ。どういうつもりなんだろう。僕をどうしたいんだろう。どうしてほしいんだろう。巧は有里をアホだと言った。僕は今なら頭を縦にぶんぶん振って賛成だ。

ようやく僕は自分の心情に気づいた。僕はこの状況をどう思っているのか考えが向かなかった。僕は今とても興奮しているみたいだ。非日常に巻き込まれて困っているこの状況を楽しんでいる。この状況は有里のせいだけど、この気持ちは有里のおかげだ。感謝していいのかどうか微妙だなあ。

とはいえ、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。午後の授業に出なければいけないし、しばらくすれば足も疲れてくるからだ。もっと長い目で見ると命の危険すらあるんだけど、なぜかそこまで心配できなかった。僕は楽観的な性格みたいだ。

突然だった。

ガラスの割れるような音がして、大勢の悲鳴が聞こえた。僕はびっくりしてあたりを見渡してみたけど、誰もいないし、何も割れていない。そもそも屋上にガラスはない。誰もいないのは当たり前だ。

あれ、身体が動くな。どうしたんだろう急に。

ふう、と一息ついて今起こったことを整理してみる。

屋上に来ると有里はいなかった。急に身体が動かなくなっていろいろ考えた結果、有里がアホだとわかった。非日常の体験を楽しむ自分を発見した。突然ガラスの割れる音がして、それと同時に身体が動くようになった。

振り返ってみても意味不明だ。得られたことは有里がアホだってことくらいだ。べつに悪口じゃなくて、愉快だということを皮肉って表現しているつもりだけど。

ふと有里が座っていたいすに目を向けると、その下に封筒が落ちていた。さっきはたしかになかったのに、どこから出てきたんだろう。

拾い上げて開封してみようとしたけど、きっちり口が閉じられていて開けられない。諦めて折りたたんでポケットにしまった。あとでハサミを使えばいいや。

新しいアイテムを手に入れて満足したので、僕は屋上をあとにした。まだ有里のゲームは続くみたいだ。僕はやっぱり楽しんでいた。



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