目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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19

「それでは説明をはじめる。インターネットのホームページには目を通してもらったと思う。それを前提にして話を進める。まず我が塾では算数が専門科目で……」

 淡々と説明を続ける老先生の話を聞きながら、僕は鼻のキャップが気になって仕方がない。今すぐにその意味をききたかったけど、なかなか話を挟む間が見つからない。救いを求める目で巧を見たが、僕が困っているのをわかっていながら「話を聞いておけ」という含みのある視線をよこしただけだった。

 僕は諦めて、できるだけ老先生の鼻を直視しないようにしながら、耳だけに神経を集中させた。老先生の話はじつに回りくどかった。内容をまとめると携帯メール一通ですむくらいなのに、各所で角を曲がって曲がってたっぷりと余分なことを肉づけしたうえで本題に戻ってくるという話し方だ。それでもすごいのは全体に筋が通っていて矛盾がないことだ。もし道順をたどって地図を描いたとしたら、どこに行くにも道に迷わない地図ができ上がるだろう。

「まあそういうわけで、我が塾では算数に重きを置いている。どうだ、わかったかね?」話終えて一息つき、老先生は僕にきいた。

「はい、大体は」

「何か質問はあるかね?」

「あります」

「よろしい」ここでようやく老先生は鼻のキャップをとった。僕は心の中で深いため息をついた。「巧君」

「はい先生」巧にしては素直な返答だ。巧の老先生への尊敬の念が感じられる。

「授業開始までまだ時間がある。君、名前はなんといったかな」

僕は自分の名前を告げた。「菊池正宗君か。正宗君の面接をするからしばらく談話室で時間をつぶしてきたまえ。有里君もだ」

「わかりました」そう言って巧は去り際に僕の肩をぽんと叩き、出て行った。有里も去ろうとしたが、引き返してきて僕に紙切れを差し出してきた。僕は少し戸惑ったが、素直に受け取った。

「あとで見てみて」有里は僕にそうささやいて出ていった。うしろ姿を見送って、僕は渡された紙をポケットにしまった。

 教室には僕と老先生だけが残された。

老先生は自分の机に戻って腰を下ろした。僕は自分をどこに落ち着ければいいかわからず、ぽつんとその場に立ち尽くす。

「床に座りたまえ。カバンも下ろしてよい」僕は言われた通りにした。

「それでは面接をはじめる」老先生は机から何か取り出した。よく見るとそれは両手に溢れるほどの大きさのサイコロだった。巧と有里は面接で延々と計算問題をやらされたと言っていたが、ほかにも面接の形態があるんだろうか。

 そもそも僕は入塾の面接を受けに来たわけじゃない。「本当の知性」の意味をたしかめに来たんだ。それがなぜかいつのまにか面接を受けることになっている。老先生は僕が入塾希望だと思っているんだろうか。それならきちんと自分の目的を伝えたほうがいいな。

「あのー」

「語尾をのばして話しかけるのはよくない」老先生はぴしゃりと言った。「なんだね」

「ごめんなさい。僕はホームページに載ってた『本当の知性』の意味が知りたくて来たんですけど」

「けどなんだね?」

「ああ、ええと、つまり」一転して冷たい対応をとる老先生に僕は怯え、緊張と恐怖で手に汗がにじんだ。「あの」

 おどおどする僕から目をそらし、老先生は手に持ったサイコロを机の上で転がした。サイコロは勢いよく転がり、机から落ちて床に当たり、カツン、と音を立てた。なんとなくどこかで聞いたことのあるような音質だった。

 僕はびっくりして、びくっと飛び上がった。床に落ちたサイコロを見つめた。プラスチックじゃなくて金属でできているみたいだ。一の目が出ていた。

「サイコロを転がすことにどんな意味があったと思うかね?」

 僕は質問が意味するところを考えてみた。状況を客観視すると、僕があたふたと落ち着きをなくしていたところにサイコロが転がされ、その出来事に僕が注目する。これにどんな意味が隠されているか答えなさい、というのが質問の意味するところと分析できた。つまり結果的には――

「僕を落ち着かせるためです」

「そのとおり。君は観察眼に優れると巧君から報告を受けていた。また自分が認めるほどの頭脳の持ち主だとも言っていた。知らないのは、突然の出来事への対処だと。そういうわけで、少し意地悪をして君を困らせて反応を見させてもらったというわけだ」

 なるほど、巧は僕のことを分析して老先生に報告していたのか。その分析も巧の前での僕の振る舞いから得られる結果を正確に掴んでいる。巧の前でとり乱したことは、そういえばないな。

 老先生は立ち上がってサイコロを拾った。その様子からすると金属性のサイコロは意外と軽そうだ。持ち上げたサイコロをぽんぽんと放りながら老先生は僕に笑顔を向けた。

「巧君の報告はなかなか正鵠的を射ているようだな。どんなときでも観察眼を巡らせることは大切だ。そうして日々磨きあげることで、脳が継続的に刺激され、常に働き続けるようになる」老先生はホワイトボードの前に立ち、黒マーカーのキャップをとった。「また観察から得られたことを頭で整理し、そこから導かれることに意義を見出し有意義なものと認識することで、他人より高等な人生を送ることができる」今度はキャップを鼻に差し込まず、マーカーのお尻にくっつけた。「君にはその素質がある」

 そう言って老先生はホワイトボードにマーカーを走らせはじめた。みるみるホワイトボードが数式で埋め尽くされ、書くところがなくなると老先生は次のボードに移り続きを書き進めた。僕にはさっぱり意味がわからなかったけど、数式で埋め尽くされたホワイトボードは、どこかきれいに見えた。数字と記号とアルファベットで構成された列が並んでいるだけなのに、どうしてこんなにも魅力的に見えるんだろう。芸術品を見て感動するという感覚はまさにこれなんだろうな、と僕は思った。

 老先生は全面の壁のホワイトボードを数式で埋め尽くした。マーカーのキャップを閉じて僕を見た。「さて、正宗君。これを見てどう思うかね?」

「きれいだと思います」僕は正直に答えた。

「きれいか。なるほど」老先生は自分の書いた数式をひとつずつ眺めていき、部屋の中をぐるぐるまわった。そして僕の前に立って、僕の両肩に手をのせた。「とてもよい感覚を持っているな。よろしい」

 何を認められたのかわからず、僕は老先生の目をじっと見つめた。僕をしっかり捉える両眼には好奇の色がうかがえ、僕の何かが老先生を感化したことだけはわかった。

 老先生はにっこりと笑った。今までで一番人間的な表情だった。僕はこの先生のことが少し好きになった。

「それでは」僕の肩から手を離し、老先生はいすに腰かけた。「質問があると言っていたな」

「はい。でももうわかりました」

「そうか。何がわかったのかきいてもいいかね」

「はい。先生がキャップを鼻に差し込んでいた理由ですけど、それが先生なりのユーモアだとわかりました」

 老先生はくっくっくと咳き込むように笑った。さっきの笑顔とはまた違ったパターンで、人間味が広がったように思えた。

「私はこんな容姿だから、子供によってはこわがられてしまうことがあるのだ。だから最初は少しユーモラスな面を見せて愉快である印象を与えるのだが、どうにも受けが悪くてな。私の頭がおかしいと考える子供のほうが多い。よってより一層こわがってしまうのだ。でも私はこれをやめない。これ以外のユーモアは自信がないからな。しかしこれが多くの子供に受けが悪いことも考えて結論づけると、さてどうなるかね?」

「つまり先生にはユーモアのセンスがないということになりますね」

「はっきり言われると傷つくものだな」老先生は口をすぼめていかにも悲しそうな表情をつくったが、あまりにもうそくさい表情だったから、僕は笑ってしまった。

「ごめんなさい。さっきの結論を撤回します。先生は面白いです」

 老先生はまたにっこりと笑った。


20

 老先生と僕が談話室に入ると、巧と有里がお菓子を食べながら学校の宿題をしていた。巧は僕と老先生を見て「おっ、うかったのか」とうれしそうな顔をした。有里はちらりとこちらを向いてから、すぐに手元の宿題に視線を落とした。

「この談話室は生徒がいつでも自由に使える空間としている。私は常に家にいるからいつ来てもかまわない。ここには常に菓子がたっぷり用意されていて空調も効いている。生徒の交流の場でもある。学校の帰りにそのままここに来て授業の時間までひまをつぶし授業を受けて帰る、という生活をしている子もいる」

 こういった場が公園に代わる新たな子供のたまり場となることに僕は大賛成だ。大人がいて安全だし、先生がいるから質問もできるし、落ち着くのに環境もいい。どうしてみんな外に遊びに出たがるんだろう。わざわざ危険が入り乱れる外に出て小さな冒険をするよりも、快適な室内で身体を休めながら頭脳を磨くほうが建設的だと思うんだけど。

「それで、入るのかお前」巧がきいた。入塾のことを言っているみたいだ。

「僕は興味があるから前向きなんだけど、母さんには何も伝えてないんだ。今日も遊びに行くとしか言ってこなかったし。帰ってからきいてみるつもり」

「そうか。許しが下りるといいな」

「うん」

 僕は空いているいすに座り部屋の中を見渡してみた。教室と同じくらいの広さだろうけど、ものがたくさんあるから狭く感じる。喫茶店にあるような丸テーブルをぐるっと囲むいすが三つ、それが二セット置かれている。ほかにもダイニングテーブルがひとつあるけど、いすはない。テーブルはお菓子で溢れている。スナック類やクッキー、おせんべいといったおかき類もある。部屋の隅には小さな冷蔵庫がぽつんと陣取っている。たぶん子供用の飲み物が入っているんだろう。ほかにも書棚がふたつ、小学生用からなんだか難しそうな専門書まで多岐にわたる取り揃えだ。これほど充実した談話室なら、家出したときに便利だと思った。もちろん僕の話じゃない。

「今日の授業に正宗君は参加できないが、開始時間まではここでゆっくりしていくといい」そう言い残して老先生は談話室から出ていった。

 僕はテーブルのお菓子に手を伸ばした。スナック菓子をかじりながらいすに深く沈みこんで談話室の雰囲気を楽しんだ。家よりも学校の教室よりも落ち着くことができた。ここはいいなあ。

「ふう」巧はノートと教科書を閉じて一息ついた。宿題を終えたらしい。「ここいいだろ?」

「うん。落ち着くね。静かでゆったりしてて。時間の流れがスローみたいだ」

「そうなんだ。俺もここが気に入っててな。家でやるより宿題もはかどる」

「じゃあ僕も今度からここにお邪魔して宿題をやろうかな」

「いいな。それならもっと三人で一緒にいられるしな」巧は有里をちらりと見た。

「そうだね。あ、あのさ。さっきのこの紙なんだけど――」

 がたん。

 急に有里は立ち上がった。

「私コンビニ行ってくる」そう言って有里は誰とも目を合わせずにすたすたと出て行った。

 有里のうしろ姿を目で送り出しながら、巧のそばに寄った。

「急にどうしたんだろう」僕がささやくように言うと、

「紙ってなんだ?」と巧が言った。

 僕はポケットから有里に渡された紙を取り出して巧に差し出した。巧がそれを受け取ろうとしたところで僕は手をひっこめた。

「なんだよ」

「いや、僕もまだ見てないんだけど、さっき教室でもらったんだ。あとで見てって」

「おやおや。ラブレターみたいですな」変な口調の巧だった。「で、なんて書いてあるんだ?」

 ふたつに折りたたまれた紙を開いてみる。そこには何も書かれていなかった。じっと見つめて心の目を開眼するくらいに見つめても、やっぱり何も書かれていなかった。

「白紙だけど」僕は巧に手渡した。「どういうことだろう。見てって言ったんだから、何か書いてあるはずなんだけど」

 紙を受け取ってしげしげと見つめる巧は、ふいに「ああ、なるほど」と納得した様子を見せた。

「有里のやつめ。頭がいいけどあいつはアホだな。はじめてわかったよ。これは収穫だな」

「どういうこと?」

「ここにはたしかに有里のメッセージが書かれている。ただお前には読めないだけだ。まあ俺にも読めないんだけど、書いてあるってことはわかった」巧は僕に紙を返した。

「これに? どうしてわかったの?」僕は紙を仔細に調べてみたけど、目に見える文字は見つからない。特に変わった点も……そういえばこの紙ちょっと変だな。

「どこが気になる?」巧はきいた。

「なんか変だよね、この紙。異常にでこぼこしててさ。くしゃくしゃに丸めたんじゃなくて、字を書いた半紙みたいな感じ」

「そういうことだよ」

「でもどうやったの?」

「それは宿題だな。たぶん有里の中ではここまで計算済みなはずだ。あいつは俺に相談しなくてもお前が自分で謎解きできると考えてたかもしれねえな」

 そんな勝手に試されてもなあ。有里といい老先生といい、なんだか相手を自分のペースに巻き込むことに長けている気がする。こんな人たちがまわりにいっぱいいたら、人生はさぞ楽しいだろうと僕は思った。


21

 授業の時間になったので、僕はレオンハルトをおいとますることにした。巧は「じゃあな。宿題やっとけよ」と言って教室に入っていった。有里は談話室に戻ってこなかった。たぶんコンビニから帰ってそのまま教室にこもっていたんだろう。あるいはずっと教室にいたかもしれない。

 僕は最後にスナック菓子をひとつつまみ、廊下に出た。ちょうどそのとき、誰かが玄関から入ってくるのが見えた。長身の男の人が靴を脱いで靴箱の一番上にしまってから、教室のドアに手をかけたところで、僕を見た。目が合ったとき、僕の中で何かが呼び醒まされた。この男の人を見たことがある気がした。いつだったかな。

 男の人はドアを開けずに僕のほうに歩いてきて僕を見下ろした。二十代だと思う。近くまで来られると、見上げないと顔が見えないくらい身長差があった。下から見上げたその顔は、間違いなく見覚えのある顔だった。あごまわりにぷつぷつと黒いひげの剃り残しがあり、頬が少しこけていた。顔立ちはなんとなく巧を大人にした感じだ。

「よう、お前こんなところで何してるんだ」男の人は僕に話しかけた。

「いやちょっと塾の見学に、あの、どこかで会いましたか」

 男の人はかがみこんで僕と視線の高さを合わせた。じっと見つめるその瞳にはどういう感情が宿っているのかわからなかった。

「お前覚えてないのか」

「はい。見たことある人だなとは思うんですけど、いつどこだったかわからないんです」

「そうか、そんなにショックが大きかったとはな。それに年月の経過もあるしな。まあ無理もない。気の毒だったと俺も思う」

「あの、何があったんですか」

「いや、俺たちは単にすれ違っただけだ。そのときちょっとしたイベントがあって、それが原因でお前は俺を認識できないんだろう。そのうちぱっと思い出すさ」

 男の人はぽんと僕の肩に手を置いて、談話室に入っていった。少し笑っていたようだけど、なんだかかわいそうなものを見るような憐憫の表情に見えた。


22

 家に帰り、今日あったことを母さんに報告した。

「正宗くん、塾行きたいの?」夕食を食べたあとで、母さんはめずらしくホットミルクをつくってくれた。「レオンハルトとかいったっけ」

「うん。ひどく変わった塾なんだけど、とても居心地がいいんだ」

「正宗くんにプラスになるものなんだったら、私はかまわないんだけど。自分ではどう思うの?」

「うーん、今のところ自分でもよくわからない、あそこでの学習が僕にどう好影響を与えるかはね。でも友達も行ってるし、よその子との交流にもなるし」

「友達?」母さんは目ざとい。いや鋭いのほうが正しいかな。「たーくん以外にも誰か行ってるの?」

「ええと、巧の幼馴染っていうのかな、有里って女の子も一緒なんだ。同じクラスなんだけど今までしゃべったこともなくて。だけどいざ関わってみるとね、なんだか妙な子でさ。普段はクールに澄ましている感じなのに、突然馬鹿でかいげっぷしたり、それを笑った巧と格闘したり」僕はホットミルクを口に含みながら、昼間のバトルを思い出して笑顔になった。「面白い子なんだ」

「へえ、そう」母さんの反応は薄かった。なぜかわからないけど、とても冷ややか目で僕を見ている。

「どうしたの?」

「え? ああ、いやべつにぃ?」あわててカップを傾けるものだから口のまわりからこぼしてしまい、「あちあち」と飛び上がる母さんを見て僕は怪訝な表情をつくった。

「様子が変だね。今の話で何かおかしなところがあった?」

「いえいえ、そんなことないでございますですはい」ばばばばとティシュを取り出してこぼしたミルクにかぶせながら、あわあわと母さんは言った。

「もうなんなの。あ、それでね、有里からこんなものをもらったんだ」僕はそう言ってカバンから有里にもらった紙を取り出して母さんに見せた。「巧が言うにはね、そこに有里からのメッセージが隠されているらしいんだけど、そのままじゃ読めないんだ。なんとかして謎解きしないといけないんだけど、それは宿題だって言われた」

 紙を受け取ると、母さんはまじまじと観察しながら、次第にぷるぷる震えだした。

「こんなミステリで私の正宗くんを籠絡しようなんざ、どこの小娘か知らんが……」

「母さん?」

「え? いやだよぉ正宗くん、ラブレターなんかもらっちゃって! このぉ、おませさん!」

「いやラブレターかどうかはわからないんだけど」

「おい、イケイケかい? このスケベ!」

異常なテンションの母さんを無視して、僕は頭を左右に振った。こきこきとからくり人形みたいな音がする。

有里の僕に対する態度を考慮すると、ラブレターであるとは考えにくい。むしろ最近巧をひとり占めしているとの誤解による決闘状かもしれない。昼間のバトルから有里の格闘センスおよび経験値を割り出すと、僕の五倍はあるだろう。勝敗は目に見えている。

 あるいは屋上に来るなという忠告文かもしれない。それならあの場で「もう二度とここに来るな」と言えばすむ話だけど、僕を過剰に攻撃してしまうとそのことが巧に漏れて都合の悪い状況が生まれるから、その回避策ともいえる。

 もうひとつ考えられるのは、昼間のげっぷを忘れろという脅迫文という可能性だ。「じつは有里って大声でげっぷするような女なんだよ」などという不快な噂が広まるのを、彼女は潔しとしないだろう。情報の発信源となる僕に先手を打ったというわけだ。巧も聞いててしかも馬鹿にしてたけど、彼はそんなことはしないとわかっているんだろう。

 いずれにせよハッピーな手紙じゃない。そしてもっとも不可解なのは、妙な謎かけが施されているということだ。明確な意図は不明だけど、僕の憶測では、有里はミステリが好きらしいから、その関連から来るリアルとバーチャルの混同だろう。本で読んだことが普段の自分の生活で実際に起こったら面白いものだし。それを僕に対して実践しているというわけだ。彼女はいわば本の書き手で、僕は読み手だ。彼女が提示する謎を解き明かし、真実に近づいていくというわけだ。そう考えると楽しくなってきた。

 目前の母さんはまだ紙を凝視している。睨みつけて心の目で文字が読めるようにならないかというのは僕もすでに試したから無理だろう。親子っていろんなところで似るもんだなあ。

「ねえもう無理だよ。いくら睨んでも文字は浮かんでこないし、そのままだと母さんの熱視線で火がついちゃうよ」僕は母さんの手から紙を奪い返した。

 しばらく「うううぅ」と頭を抱え込んでうなっていた母さんは、ふいにすっと顔を上げてまっすぐ僕を見た。

「正宗くん」

「何?」

「女の子とお付き合いするんだったらね、ちゃんと私にも紹介してよ。あと私のこともちゃんと紹介してね」

「気が早いよ」僕は呆れて、すでに冷めていたホットミルクを飲みほした。


23

 僕はベッドの中で目を閉じながらレオンハルトを出るときに会った男の人のことを考えていた。いったいどこで会ったんだろう。ショックで忘れてしまうようなイベントって言ってたけど、なんのことだろう。わかるのは、はじめて会ったのはこの土地じゃないってことだ。たぶん引っ越す前、市外にいた頃に関わったんだと思う。だってこちらに来てからのことは全部覚えている。まだ日も浅いし、浮き沈みはあるけどそれなりに有意義な学校生活を送っている。夕食のメニューだっていつ何を食べたか思い出せるくらいだ。まあこれは明太子料理のバリュエーションが少ないから覚えているだけだけど。向こうにいた頃にいったい何があったんだろう。特に事件らしい事件に巻き込まれて記憶喪失になってしまったみたいなドラマティックなことはなかったし、何かしらの事故による記憶障害を患った経験もない。あとは僕が思い出したくないことを自分で無意識に封じ込めてしまっているくらいか。単に思い出せないという可能性もあるけど、男の人との会話から考えて、やっぱり何かしら特別なイベントが発生していたようだから、僕がそれを覚えていないというのはすんなり納得できない。どんなイベントがあったのか……。

 いろいろ考えて頭を動かしているうちに、身体は静かに眠りにつき、次第に脳も活動を停止して枕の上で心地よい寝息を立てはじめた。



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