目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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10

 その日のうちに、家のパソコンで『レオンハルト』について調べてみた。検索サイトで「レオンハルト 塾」と入力してみると、数千のヒットがあり、そのトップに『レオンハルト』のホームページがあった。僕はクリックしてジャンプした。トップページはじつにシンプルなデザインで、一番上に「算数塾レオンハルト」の文字があり、下のほうには授業の狙いと入塾案内、それに塾長挨拶とサイトマップがあるだけだった。あまりコンピュータに詳しい人がつくったサイトに見えず、ネット上で拾った知識を使ってつぎはぎのようにつくり上げたものという印象を受けた。とりあえず、僕は授業の狙いを見てみることにした。そこには一行だけの短い文章があるだけで、ほかに主張しているものは何もなかった。

「算数を用いてお子様に本当の知性を授けます」

 僕は『本当の知性』という言葉にひっかかった。どういう意味だろう? じゃあ偽物の知性なんてあるんだろうか。

「正宗くん何見てるの」母さんがうしろからパソコンのディスプレイを覗きこんできた。僕の家は四階建てのマンションの三階に位置する2LDKだ。パソコンはリビングに置かれている。

「今日ね、巧とここについて話してたんだ。通ってる算数の塾」僕はトップに戻り、塾名が見えるようにスクロールした。

「ふうん、たーくん塾に行ってるんだ」母さんは巧のことをたーくんと呼ぶ。最初に巧のことを話したときに、即座に命名された。「賢いのに塾なんて行く必要あるのかなあ」

 このあたりが母さんの独自性というか変わっているところだ。塾に通っているから賢い、という考え方が普通で一般的だと思うんだけど、母さんはまるで巧がもとから賢い上に、さらに塾に通っているという見方をする。この場合、それで正解なのだから勘が鋭いというか頭がいいというか。

「なんかね、ここに通ってから自分の才能に気づいたみたいなことを言ってたよ」僕は母さんの見解が適切であることをそれとなく伝えた。

「へえ、たいした塾なんだね。ええ、なになに塾の狙い?」母さんは僕のうしろに立ってマウスを操作する。やっぱり最初に塾の狙いをチェックした。「どういう意味だろうね、この『本当の知性』って」

「うん、僕もそれが気になったんだ。嘘の知性なんかあるのかなあって」

 母さんはうーん、と腕をくんで考え込む様子をつくる。普通はこういった動作をするとき、人は考えずに目で観察できるものから答えを導き出す習性があるように僕は思う。人はうーん、と考えこんでから「あ、これってそういう意味じゃない?」みたいに見つけたものと考えていたことを結びつけることが多い。考えるんじゃなくて何かヒントを探している感じ。そのほうが次のステップに進みやすいという経験的成長から来る行動結果だと思う。だから、頭の中だけで考える人は、よほど賢くないと、次のステップに進む手がかりを見つけられない。

「ちょっと入塾の案内見てみようよ」いつの間にか母さんも乗り気になっている。いつもそうなんだけど、僕がパソコンで遊んでいたり調べていたりすると、うしろから近づいてきて一緒に遊んだり調べたりする。

 見てみようと言いながらマウスを動かすのは自分でやるから、僕はいすに座ってディスプレイを見ているだけだ。一緒にやり始めると、すぐに自分が主体的になって行動するところは僕も見習わなければいけない。僕はすぐ相手に権利を譲ってしまう傾向にある。それくらいの自己分析ならできる。

 ディスプレイには入塾の案内が表示された。記載されている情報はどれもありきたりなもので、学年ごとのカリキュラムや月ごとの授業料などである。一番下に入塾に際し「個人面接あり」と書いてある。一見特に変わった点は見受けられない。

「塾の狙いの謎を解き明かす鍵はないみたいだね」母さんはマウスを手放して言った。

「うん。ほかに見るところもなさそうだし」僕はマウスを操作してインターネットのウインドウを閉じた。「明日巧に聞いてみるよ」

「そうね」母さんはキッチンに戻っていった。

 僕は立ち上がり母さんのあとに続く。冷蔵庫から牛乳のパックを取り出してグラスに注ぐ。飲みながら僕は考える。

 本当の知性ってなんだろう?

 そこが一番気になる。それも算数を使って子供に教えるなんて。全然想像がつかない。

 でも算数という教科が知性を育てるってことには納得だ。小学校の教科の中でもっとも説得力のある教科だと僕は分析している。苦手な子が多いらしいけど、なぜだか僕にはわからない。一番とっつきやすいと思うんだけど。母さんが言ってたけど、算数、もっと高度になると数学と名前を変えるこの教科ができない人を文系と呼ぶらしい。できる人は理系だ。これには僕は納得がいかない。文系という言葉にまず意義を見出せない。算数ができないからって国語(もし算数の逆が国語だったらと仮定するなら)が得意とはかぎらないはずだ。算数ができないスポーツ選手は文系なのかな? 音楽家は? 芸術家はどうだろう? また、理系という言葉も不可解だ。数を得意とするのに理という文字を採用している点が飲み込めない。これでは理科が得意ということにならないのかな?

 算数で教わることはどれも僕を高い位置へ導いてくれる気がする。僕が一番気合いを入れてがんばる教科だ。先生が授業で言うことを頭の中でくり返して、新たな知識を頭に刻み込む。蓄積した知識をつなぎ合わせて新しいことがわからないか考える。もし思いついたら、それを教科書で調べてみると、大抵次に習うところにつながっている。こうして次々自分で新しいところまで進んでいく。自分で考えながら進んでいける教科って算数だけだ。どうしてみんな好きにならないんだろう。

 レオンハルトではどんな算数を教えているんだろう。塾なんだから学校の授業よりも範囲は進んでいると思うけど、どこまで先を行っているのかな。六年生の内容なんかとっくに終わっていて、中学生からはじまる数学に入っているかも。なんだか興味がわいてきた。

 空になったグラスをシンクで洗い、かごに戻す。うちではシンクに洗いものを放置することが禁じられている。一度面倒だから放っておいたことがあったんだけど、母さんがそれを見つけて今までにない怒り方を見せたことがある。何もそこまで怒らなくてもっていうくらい怒っていた。まるで子供みたいに。

「正宗くん、どうして洗わないの? ねえどうしてどうしてどうして?」

 半泣きでそう叫び続けるものだから僕はちょっとびっくりしたし、何がそこまで悲しいのか傷つくのか全然わからなかった。自分がそんなに悪いことをしていると自覚ができなかったし、たいしたことだと思わなかった。でも母さんには大問題だったみたいで、落ち着いてからどうしてそんなに怒ったのかきいてみた。

「正宗くんが不良になっちゃったのかと思って。いつもはきちんと洗うのに、反抗的に置いてあるんだもん」母さんは拗ねたように口をすぼめながら言った。こういうときの母さんはひどく幼く見える。見えるだけでなく実際に精神年齢が小学生まで退化しているのかもしれない。言わないけど。

「ごめん。べつに不良になったわけじゃないよ。なんとなく、その、ごめん」

「ああ、正宗くん!」そう言って母さんはかがんで僕を抱きしめた。僕はこのとき三年生だった。

 そんなことを思い出しながら僕は母さんの教育法に今更ながら疑問を抱いた。ルールを破った子供に対して叱るんじゃなくて、自分が子供に変身して駄々をこね、僕が自分でしっかり者になるよう促す戦略だと気づいたのは最近だ。なんとなく捨て身の戦法みたいな。もし僕が母さんの幼さに嫌気をさしていたらどうするつもりだったんだろうと思う。たまたまいいほうに転がったからいいものを、責任感に欠けるんじゃないかな。親の威厳をもう少し大切にしてほしい。

「正宗くん、ぼーってしてるよ。君のまわりでぼーぼーいってるよ」

母さんがテーブルに夕食を並べながら言った。今日のメニューは明太子のスパゲティみたいだ。ちなみに昨日は明太子のチャーハンだった。母さんは病的ともいえる明太子好きだ。

「それ意味がわからないよ」

僕は母さんと自分のぶんのグラスをテーブルに置き、牛乳のパックを冷蔵庫から取り出した。僕の家には水道水を除くと牛乳しか飲み物がない。

「私には君のまわりの擬音が視覚化して見えるんだよ」

「じゃあ僕のまわりにぼーって言葉が浮かんで見えたの?」

「そうだよ。今は見えないけど」

「母さんの想像力には平伏する思いだよ」

「ヘーフク? 小学生らしくないなあ。本当に?とか、いかにも信じてみます、みたいなリアクションが欲しいのに」

「その言葉で嘘ってことが今わかったよ」

「あ、今のは誘導尋問です」

「違うと思うけど。でもぼーってしてたのはたしかだから、母さんの見る目もたいしたものだね」

「えへん。私は偉いのです」母さんはフォークを並べてふんぞり返った。


11

「なんかコントみたいだな」

 学校での昼休み。教室の窓からレインボーロードで遊ぶクラスメイトたちを見下ろしながら、巧は言った。

 巧には昨日僕が家でレオンハルトについて調べて疑問に思ったこと、母さんと話したことを伝えたばかりだ。僕と母さんとのやり取りがコントに思えたらしい。

「そうかな。心温まる一般的な家庭の一風景じゃない」

「じゃねえよ」巧は返しがうまい。「お前はときどき小学生らしくない口のきき方するし、母親のほうはお前を友達かなんかと捉えてるみたいに聞こえるぜ。あと嫌味じゃねえけど、お前の母親ちょっと変だ」

「僕もうすうす気づいてたんだけどね、母さんがひと癖ある人だっていうのには」僕もレインボーロードに視線を落とす。人がまるで蟻のようだ。

「でも僕が小学生らしくないっていうのは心外だなあ。僕は普通だよ」

「お前は普通のラインから百歩離れたところでビバークするようなやつだよ」

「それってどれくらい普通じゃないってこと?」

「モンブランの山頂で似顔絵を描くくらいだな」

「ますますわからないよ」

「まあいいじゃねえか」巧は僕の肩をぽんと叩く。「普通じゃねえけど洒落としては高級な部類だし、俺らからしたら愉快に見えるよ」

 俺らって誰のことだろうと考えながら、僕はため息をついた。ちょっとテンションが落ちたのは普通じゃないと指摘されたからじゃない。なんとなく巧との間に距離を感じたからだ。

「なあ、あいつら何してるかわかるか」巧はレインボーロードを走り回るクラスメイトを指さした。「あれ、このクラス独特の遊戯なんだぜ」

 一見するとみんながやっているのは鬼ごっこに見えた。最初からずっと同じ男の子がみんなを追いかけまわしている。ちなみに教室に残っているのは僕と巧だけだ。僕ら以外はみんな下で遊んでいるみたいだった。あの子、有里も参加しているんだろうか。

 独特の遊びというからには、何か鬼ごっことは違う特徴があるはずだ。僕は注意深くみんなの動きを観察した。まず、追いかける役と逃げる役があることから、鬼ごっこの類であることがわかる。また、はじめからずっと同じ子が鬼役をやっている点が鬼ごっこと異なる。鬼に捕まっても役柄が交代しないということだ。あ、もうひとつ気づいた。よく見たら鬼役はひとりじゃないみたいだ。ほかにも追いかけまわしているクラスメイトがいる。あ、今ひとり捕まった。警ドロみたいにどこかへ連れていかれるんだろうか。

ちなみに警ドロというのは鬼ごっこの亜種で、警官役とドロボウ役に分かれてやる鬼ごっこだ。警官はドロボウを捕まえて牢屋に閉じ込める。自由なドロボウは仲間を助けに警官をかいくぐって牢屋を目指す。ドロボウが全員捕まったら終了。鬼ごっこの類には珍しく、きちんと終わりが設定されているので、鬼ごっこみたいにその場の空気で終わったりしないから、僕がいたところでは人気の遊戯だった。

捕まった子はどこに連れていかれるでもなく、さっきまで一緒に逃げていた仲間を追いかけはじめた。捕まると鬼になるという点は鬼ごっこだ。捕まえた鬼はというと、あれ、まだ鬼として追いかけている。鬼役は捕まえても鬼役のままらしい。これじゃ鬼が増えていく一方じゃないか。ということは、全員が鬼になったら終了か。これも鬼ごっこの亜種と言えるかな。

「鬼が交代しない鬼ごっこなんだね。なんだかこわいな。生き残ってまわりを見るとさっきまで一緒だった同士が追いかけてくるんだから」

「ああ、だから名前はバイオハザードだ。なかなかいいネーミングだろ?」

「ぴったりだね。追いかけてるのは鬼じゃなくてゾンビなんだね。巧が名づけたの?」

「いや有里だ」

「彼女も一緒に遊んでるの? 見当たらないけど」

 巧は僕の言葉を聞くと、僕の顔をぎろりと覗き込むようにして言った。

「ああ? なんだお前、じつはこっそり探してたのか?」にやにや顔だ。その表情は悪意に満ち満ちている。いいカモを見つけた結婚詐欺師みたいな。

「いやべつにそんなつもりはないけど」僕は平静を保って答える。保たなければいけないほど慌ててなかったけど、少しでも隙を見せると藪から蛇だという直感があった。

「あいつはいないぜ。休み時間に外で走りまわるタイプの小学生じゃないからな」

 あれ、有里が名づけ親だって言わなかったっけ?

「そうなんだ。じゃあ何してるのかな」

「あいつは読書ガールだ。普通の読書ガールと違う点は図書室にいないところだな」

 僕は読書ガールがどういったタイプの女の子か知らないけど、名前からその属性は容易に想像がついた。ただ図書室にいないとなると、どこで読書しているのだろう。

「どっちが知りたい?」

巧の質問は会話の流れを完全に無視している。たしかに気になった点がふたつある。

「じゃあまずどこにいるのかから」

「順当だな。これは秘密だぜ」釘を刺されたけど、べつにそれを誰かに教える必要も義理もない。

「あいつは屋上にいる」巧は教室の天井を指さした。

「ええ? 入れるの?」

「もちろん普通は無理だ。だけどあいつはけっこうそういうルールを破ったりするんだ。それも大きく破るんじゃなくて、さほどおおげさにならない程度に破るから、ばれてもたいした罰を受けるわけでもないこともわかってやるんだぜ。まあ要領がいいっていうのかな、馬鹿げたルールなんか存在を認めないとでも言わんばかりだ」

 なるほど。たとえば屋上に入ってはいけないというルールは、落ちたら事だという危険性を考慮したものだと考えられる。だけど読書が目的なら、動きまわることもないだろうから落ちる心配はない。なら入っても実際は問題ないだろう。禁止事項に背く倫理の問題はあるけど。

「晴れの日は、あいつが屋上に自分で持ち込んだいすに腰かけてコーラを飲みながら読書してやがるんだ。コーラを持ち込むこともかまわないってやつでな」

 たいしたものだ。もちろん学校にコーラみたいなジュース類は持ってきてはいけない。お茶ならいいんだけど。だけど素直に考えたら「なぜいけないのか」という疑問への答えが明確でないことがわかる。ダメな理由なんてひとつもない。先生に意見したらおそらく規律とか風紀に差し支えるという返答があるだろうけど、コーラなんて瑣末なことにまで風紀を持ち込むべきじゃない。認めてしまうといろいろ破りだす子供がいるから広い範囲にまで及んで禁止されているんだろうけど、分別のある賢い子ならそんな心配ないだろう。そこまで考えての持ち込みなんだろうな、と僕は予想した。巧が認める頭のよさという点がこの予想を可能にしている。

「雨の日はどうしてるんだろう」僕は思ったことを口にした。

「雨のときは本持ってこねえんだよ。なんでも湿気によってダメージを受けるのがいやとかでな」

 合理的な考え方だ。巧の認める頭のよさがさらに保証された。

「じゃあ今日は晴れだから屋上にいるんだね」

「たぶんな」

 一度見てみたいな、と僕は思った。彼女はいつも屋上でどんな景色を見ているんだろう。

「あいつが好きな本はな、ミステリ小説なんだ」ききもしないのに巧が話しはじめた。まあ、これがもうひとつ気になった点だったから、僕は素直に耳を傾けた。

「それも楽しんでいるんじゃなくて、あら探しみたいなもんなんだぜ」

「あら探し?」

「ああ、ミステリっていうとトリックだろ? それが納得のいくものなのか、現実に可能なものなのかを見てやがるんだ。それでもし自分で満足のいかないものだったら、その場で破いて棄てちまうんだぜ」

「へえ、けっこう荒っぽいんだね」

「評価も辛口でな、トリックに満足しても、キャラクターが描けてなかったり、描写がへたくそだったりしてもダメなんだとよ。呆れたやつだよ、まったく」

「面白い子だね」

「まあお前もしゃべってみれば、自分の認識の甘さを自覚することだろうよ。そうだ、今度レオンハルトに遊びに来いよ」

「塾なんでしょ? 遊びに行ったりしてもいいの?」

「ああ、塾長はどんどん外のやつを連れてこいって言ってる。このご時世だからな、生徒を増やしたいんだろうよ。それなら生徒の採用方針を変えりゃいいのにな」

「さっき話したけど、『本当の知性』ってなんなの?」

「うーん、言葉で説明するのは難しいな、俺でも。来てみて自分で確かめろよ」

「でも授業は受けられないんでしょ?」

「そうだけど、たぶんお前なら先生と接するだけで感覚的に掴めると思うぜ」

 巧にとって学校教師は「教員」で、塾講師は「先生」らしい。その使い分けが正しいのかは僕にはわからない。

「じゃあお言葉に甘えて今度お邪魔するよ」

「ああ、俺のほうで話をつけておく」

昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


12

「今度ね、こないだ調べてた塾に遊びに行くことになったんだ」夕食を食べながら、僕は母さんに報告した。今日のメニューは白ご飯と納豆とたまご焼きだ。全部に明太子が加えられている。

「ええ、そうなの? 遊びに? 正宗くん、あの塾、ええと、名前なんだっけ」

「レオンハルト」

「そうそれ。そこに行きたいの?」

「通いたいわけじゃないけど、巧が一度遊びにこないかって」

「ふうん」母さんはたまご焼きを箸でざくざくに分解している。これを納豆に加えてご飯にかける予定らしい。「みんなの邪魔にならないようにね。勉強するところなんでしょ?」

「ネットに載ってた『本当の知性』の意味をたしかめに行くんだ」

「ああ、載ってたね。そういえば」母さんは食事のとき、頭があまり働かない。そういう構造なのだろうと僕は思う。「来ればわかるってたーくんが言ってたの?」

「うん。先生に会えばわかるって」僕は茶碗に残った最後の米粒を箸でつまんで口に運んだ。食べ終わったので、自分の食器を重ねてシンクに持っていく。

「なら見極めてらっしゃい」母さんはたまご焼き入り納豆ご飯を一口食べる。「ああ、おいしい。明太子って本当においしいわよね。無敵ね無敵」

「誰も明太子と敵対したいとは思わないだろうね」食器を洗いながら僕は言った。


13

 学校での昼休み、巧と一緒にいつも通り教室でたむろしていた。眼下のレインボーロードでは今日もバイオハザードが展開されている。

 巧は「今日の学校終わりにレオンハルトに行くぞ」と言った。学校は三時すぎに終わり、塾の授業は六時からだという。レオンハルトは塾長の家を教室としているので、いつ行っても先生がいるそうだ。場所はネットで見たら学校のすぐ近くだった。

 僕はトイレに行くと言って、席を立った。巧はやはり給食の牛乳を飲みながら、窓の外を眺めていた。傍目から見るとすごく絵になる。写真で切り取って額縁に入れたいくらいだ。

 トイレから出て、なんとなく僕は教室とは逆の方向に歩き出した。階段の踊り場に足を踏み入れて、屋上への道を探してみたけど、ここは最上階だし、外に通じるドアも見当たらなかった。僕は方向転換して教室に引き返すことにした。

 そのとき、廊下をまっすぐ突っ切ったところ、僕がいるところとは反対の階段の踊り場に、こちらにはないドアがあり、それが今まさに閉まろうとしているのが見えた。誰かが出て行ったみたい。あの階段はもしかして屋上に続いているんじゃないかな。

 僕は自分の教室を早足で通りすぎ、廊下の突き当たりまで急いだ。通りすぎる教室にはどういうわけか誰ひとりとして生徒の姿を確認できなかった。廊下にも誰もいなかった。

 反対側の踊り場にたどり着き、階段の下をのぞいてみた。誰もいない。振り返って人の姿を探してみたけど、本当に誰もいなかった。普段昼休みは教室にずっといるから、廊下がこんなに静かで誰もいないなんて気づかなかった。耳を澄ましても、階下や外からの喧騒が聞こえなかった。僕は世界に突然ひとり取り残されたような錯覚に襲われた。僕はひとりぼっちになってしまった。さっきまで教室に巧と一緒にいたのに、教室に戻って誰もいなかったらどうしよう。そう思うと引き返すのがこわくなった。

 さっき閉じるのが見えたドアに目をやった。「生徒は立入禁止」と大きく張り紙がされている。ぼろぼろに劣化していたから、ずいぶん前に貼られたものだとういうことがわかる。その紙質がもたらす雰囲気が生徒を遠ざけようとしているように思えた。

 僕はドアの前に立ってドアノブに手をかけた。少し回してみると鍵がかかっていなかった。僕はゆっくりとドアを外に押し開けた。


14

 はじめに学校のまわりをぐるりと取り囲んで屹立している木々が見えた。外界の騒音が聞こえてきて、心地よかった。胸をなでおろしたい気分だ。左に上へ続く階段がある。現実に戻ってきて勇気を取り戻した僕は、その階段を一段ずつ上がっていった。

 屋上から見える景色は美しかった。周辺の町並みが一望できて、南にはこの街の名所である京都タワーがすごく小さくだけど、たしかに見えた。北には街を囲む山々の緑が美しく、空は澄み渡る青さで雲ひとつない快晴だ。夜ならさぞきれいに見えるだろう。

 僕は屋上を歩いた。ちょうど自分の教室の真上くらいのところまで来たとき、大きな給水タンクの陰に女の子の姿を見つけた。いすに座って本を読んでいる。いすの足の横にペットボトルがあり、黒い液体が半分ほど入っている。

 僕の気配に気づいたのか、女の子は本から顔を上げて僕を見た。その顔は間違いなく僕のクラスの号令係、巧の幼馴染である有里だった。

「何してるの?」僕は声をしぼり出してきいてみた。なんとなく返ってくる言葉がわかっていたけど、なんでもいいから声をかけたかった。

「見たらわかるでしょう。あんたこそ何してるの」その声は号令のときと同じで小さくか細く、消え入りそうだった。

「いや僕はなんとなく足が向いたから」

「ここは生徒立入禁止よ」有里は視線を僕から本に落とした。

「君はいいの?」

「だから生徒は立入禁止だって言ってるでしょう。私もそうよ」

「じゃあどうしてここにいるの?」

「あんたには関係ないことよ」有里は顔を上げようとしない。

「そうだね」僕は納得した。たしかに僕にはなんの関係もないことだ。

 有里は顔を上げず視線だけ僕に向けた。僕は彼女を見つめたままだった。



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