目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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4

 小学校はクラスが学年ごとに固められて校舎に配置されるのが決まりなんだとわかった。僕のところではそうだったし、この学校でもそうだ。しかも校門の近くに低学年のクラス、遠いほど高学年のクラスが設置される傾向にあるみたいだ。たぶん体力の関係だと思う。避難訓練のとき、グラウンドから遠いところに一年生のクラスがあったら移動がたいへんだ。グラウンドってたいてい校門を入ってすぐそこにあるから。

 だから職員室を出て僕が転入するクラスまでたどり着くのにけっこう歩いた。といっても二分くらいだけど。校門から一番遠い校舎の最上階の三階で、階段横にあるトイレのとなりの教室だった。あんまりいい環境じゃないな。小学校のトイレって毎日掃除するんだけど、掃除するのは所詮僕ら子供だし、僕らって汚すのは得意だけど、きれいにするのは苦手なんだ。よく考えたらトイレ掃除の仕方って教えられたことないな。小学校で覚えることにはこういうこともあるのか。気づかなかった。

 教室の前についたときにはすでに廊下に誰もいなくて、みんな教室で雑談しているみたいだった。教室の話し声は廊下にいてもけっこう聞こえるものだ。これは廊下に誰もいなかったらの話だけど。もしいたらみんながどたばた走る音で話し声なんか聞こえるはずないから。母さんに聞いたことがあるけど、むかしは「廊下は走るな!」なんて張り紙が張ってあったんだとか。もし走っているところを先生に見つかると、体罰を受けるとか。すごい時代だなと感心したのを覚えている。低学年はどうか知らないけど、僕くらいになると廊下を走ってはいけないことくらい理解している。それでも走るのに理由なんかない。もう僕らの中には「守るべきルール」と「守らないといけないルール」っていう棲み分けができている。たとえば「車が明らかにいない赤信号でも渡っちゃいけない」は「守るべきルール」で、「母さんとか先生に『お前』とか言っちゃいけない」は「守らないといけないルール」だ。でもたまにこの「いけない」ほうのルールも守れない子供がいる。だいたいそういう子って不良っぽくて、たぶん大人に隠れてタバコとかに手を出しているんだ。そういう子には関わりたくない。僕は小心ものなんだ。

 僕は教室から少し離れたところで先生が教室のドアを開くのを見ていた。教室から聞こえていた話し声が徐々に収まっていく。どうやらそこそこいいクラスのまあまあいい先生に当たったみたいだ。こういうところを僕らは見ている。大人は知っているんだろうか。

 教室の話し声が完全に止んだ。たぶん先生は教壇に立って教室を見渡しながら朝の生徒の様子をチェックしているんだろう。しばらくして「起立!」の号令が聞こえた。がたがたといすがたくさん動く音が鳴って、廊下まで床が振動するのがわかった。続いて「礼!」の号令。さっきの「起立!」よりも声が大きかった。それからみんなで「おはようございます!!」の大合唱が――

聞こえなかった。

普通朝の挨拶ってみんなで先生に向かって声を揃えて「おはようございます!!」って言うものじゃないのかな? 僕のいた学校ではそうだったし、たぶんどこでもそうだと思う。それは低学年とか高学年とか関係なくて、礼儀というか一種の儀式みたいなもので、みんなで揃って挨拶することで学校での一日がはじまる気がしてくる。むかしからずっとそうしてきたんだろうし、それでいいと思うのに。

でもここでは朝の挨拶が聞こえなかった。こういうとき、僕はすぐにその理由を知りたくなる。普通から少しはずれたものってすごく気になってしまう。別にそれを普通のラインに合わせて矯正したいんじゃなくて、どうして踏み外れているのか知りたいだけだ。それさえわかれば僕は満足だ。

僕なりに考えられる原因を挙げてみる。これって僕のくせみたいなものかな。もしこういうのを共有できる友達がいれば、その子は僕の中で親友に位置づけされるだろう。残念だけど、今までそういう友達はいなかった。だから僕はずっとひとりでくり返しくり返し考え続けてきた。でもそれを寂しいと思ったことはない。

今回のケースだと、考えられる原因はふたつだ。ひとつは先生が生徒にそう指示しているケースだ。なぜそんな指示を与えているかという点はその先生について知らないとわからないし、知っても突きとめられないかもしれない。でもそういう先生もいることがある可能性は十分考えられる。もうひとつは生徒が全員で朝の挨拶を拒否しているケースだ。こっちのほうが現実的な気がする。挨拶ストライキっていうのかな。要するに生徒が先生にあるいは学校に対して不満を抱いていて、それを集団の力で訴えようってわけ。訴えてどうなるものでもないと思うし、みんなで相談して決行しているわけでもないんだろう。子供のこういう結束ってなんでかわからないけど、自然とまとまって固く結ばれる。もしはみだしたりしたらたいへんだ。僕らは知っている世界がすごく狭いから、ひとりになってしまったら、自分が世界でひとりぼっちになったような気さえする。親がいるから完全にひとりになることはないけど、でも親と学校の同級生ってやっぱり立ち位置が違うというか、どちらが欠けたからって片方で補えるものではない。僕くらいになると、もう、知っているんだ。

挨拶なしのまま、「着席」の声が聞こえて、またいすががたがた音を立てて床がゆれた。号令の声は全部女の子の声だった。このクラスの号令係は女の子だとわかった。それにしてもずいぶん変わった声だ。アニメ声っていうのかな。なんか妙に高音でつくりものみたいだけど聞いていていやな感じは全然しない。僕も嫌いじゃない。

続いて先生の話し声が聞こえてきた。全国の先生がほぼ同時刻に同じことを話しているだろう。こんなに多くの大人が同じ時刻に同じ内容を話すなんて、学校の先生の朝礼くらいじゃないかと思う。でもたぶん、大人の世界にはもっと僕の知らない不思議な儀式みたいなものがあるんだろう。そういうのを見つけるのって楽しいんだけど、大人は気にならないのかな。

朝礼の決まり文句のあと、「転校生」って単語が聞こえてきた。そろそろ僕の番が近いみたいだ。僕の中で緊張感が高まるにつれて、教室のざわつきが大きくなってきた。やっぱり転校生って聞くと興奮するみたいだ。いくつになっても新しい風って興味深いものなんだな。

僕は廊下の中央で目を閉じた。考えておいた自己紹介文を頭の中にもう一度呼び出してみる。さっきと微妙に詳細が変わっている文が再生できたけど、言いたいことは一貫して共通している。

僕が目を開けると同時に、先生が教室のドアから半身を出して僕を手招きした。

いよいよだ。緊張感がぐいっと高まり、容器からあふれてこぼれ落ちていくのがわかった。

先生のほうに歩を進め、僕は背中を押されて教室のドアをくぐった。クラスのみんなが僕を見ているのがわかった。僕は教壇の中央に立ってみんなのほうに目を向けた。

みんなが僕を見ていた。

先生が僕のとなりに立って、僕の名前を言いながら黒板に大きな文字で書いた。

何人かが僕の顔と黒板の文字を交互に見比べていた。何人かが僕の名前をつぶやいていた。何人かが僕に笑顔を向け、何人かが僕を笑っていた。残りは僕をじっと見つめていた。

僕はあえてみんなの様子を観察していた。こうすると意外と落ち着ける。むかし、英会話教室に通っていたときに、みんなの前で絵本を読まないといけない課題があって、人前に立っても緊張しないコツとしてそこの先生が教えてくれた手法だ。それ以来、僕は意識して人の様子を観察するようになった。

僕はみんなを観察するうちに、次第に自然に笑顔になった。先生と教壇に立って意味なく笑っている転校生ってはたから見たら変に思えるかもしれないな、と考えたところで、僕は足元に視線を落とした。そして表情をつくりなおして、話し始めた。

「おはようございます。僕は菊池正宗です。僕は本当のことが好きです。本当かどうかわからないことがあったら僕に教えてください。一緒に考えましょう」

 さっきまで態度がばらばらだったみんなが、今度はきっちり揃って僕を見ていた。みんなすごく変なものでも見たような顔つきで。


5

 自己紹介は僕なりに一生懸命考えた。もっと普通の当たり障りのないこと、たとえば「僕は菊池正宗です。これから一年間よろしくお願いします」とかも言えたんだけど、言いたくなかった。もちろん僕だって自分が言ったことが普通じゃないってことくらいわかってる。だからみんなが僕を変な目で見るのも納得できる。

 前の学校では僕は自分を抑えていた。できるだけ本当の自分を友達との交流に持ち出さずに、普通に見えるように接してきた。じつをいうと、もっと自分をみんなにアピールしたいと思っていた。でもそんなことするとまわりから浮いてしまって、受け入れられないことが明らかだったからしなかった。そのせいで、僕の心には、本当の自分を前に押し出せないことに対する自責の念みたいなものが棲みつくようになって、その消化不良のせいでいつも苦しい思いをしていた。僕はそれがいやだった。

 だから新しい学校では自分を偽るのをやめることにした。思うことを素直に表現して、それを受け止めてもらうことに決めた。そのために僕も努力するつもりだ。何も僕は考えることすべてが奇妙で偏っているわけじゃない。ちゃんと相手のことを考えて、尊敬する。その上で僕のことも受け止めてほしいだけだ。

 僕が意味した本当のことっていうのは、広く捉われるだろうから理解が難しいかもしれない。でもほかに上手い表現がわからないからそう言った。

たとえば、テレビショッピングで健康食品を宣伝しているとしよう。販売員の男の人と助手の女の人が、おおげさな口調でしゃべったり驚いたりしながら、まるで寸劇みたいなCMをやっている。僕はいつもなんとなくそういう番組CMに耳を傾けてしまうんだけど、一度も、その効果の裏づけについてきちんと理解したことがない。これは僕が悪いんじゃなくて、そういう内容が伝えられていないからだ。言ってくれたらわかるのに、なぜか教えてくれない。「だから、どういうふうに身体にいいの? 本当のことを言ってよ」といつも不満を感じている。

違うたとえだと、携帯電話とかの仕組みについてだ。これは不思議でしようがない。みんな気にならないんだろうか。どうやって声を飛ばしてどうやって受信しているのか、その仕組みについて知りたいと思わないんだろうか。ほかにもテレビのリモコンとか電線とかパソコンとか。

物事の仕組みとか性質とかいう本当のことがわからないなんて日常は、僕はいやだ。


6

 最初の登校日から数日が経過して、以前僕は転校生のままだ。つまり、クラスの一員になれていない。まわりはすでにそれぞれにグループを形成してその仲間内で楽しそうに学校生活を送っている。僕のところに何人か話しかけにきてくれた子もいたけど、大抵みんなどこかよそよそしい。あとでわかったんだけど、何かの罰ゲームで僕に話しかけさせられていたらしい。よくあるあれだ、気持ち悪いやつに話しかける罰ゲーム。僕は今、その気持ち悪いやつみたいだ。

 じつは、僕はべつに傷ついていない。本当だ。だって明らかに変なやつにしか映らないんだから、あの自己紹介。みんなが罰ゲームとかいう行動をとるのも納得だ。でも、あれが本当の僕だ。もう自分は偽らないことにしたから。

 僕のクラスは全部で三十八人だ(もちろん僕を数えて)。僕は名簿で半分よりちょっと前くらい。「き」だからそんなところが普通だと思う。教室は人数のわりにはちょっと狭い。それに全体的にぼろぼろだ。黒板のまわりの木の囲いはいっぱい欠けて傷だらけだし、うしろの壁一面のクリップボードにはまだクラスの思い出も何もないのにわけのわからない紙とか新聞が貼り付けられている。明らかに以前のクラスの残りかすだ。三月の最後に掃除しなかったんだろうか。カーテンにはしみがいっぱいだし、窓ガラスだけはきれいだけど、窓枠は掃除されていないのがまるわかりだ。

 ひどいのは机だ。毎年冬に母さんの実家から送られてくるみかん箱のほうが清潔で机として優れている気がする。足がところどころ曲がっていてがたがたするし、彫刻刀で彫ったのか、知らない人の名前がずいぶん攻撃的な書体で書かれていたりする。こういうことするのは外見上悪ぶっている子とはかぎらない。じつは見えないところで小さないたずらをいくつも重ねている子なんてたくさんいる。僕はそういう子のほうが嫌いだ。もう彼らにはまったく正義が感じられない。大人が手を焼いているのはもしかしたらこっちの子供のほうかもしれない。

 僕の席は廊下と反対の窓際最後尾のひとつ前だ。あまりいい席とは言えない。黒板が遠くて見にくいし、下を向いているだけでマンガを読んでいると思われて先生が意味もなく威嚇するような視線を向けてくるし。僕は授業中にマンガなんか読まない。そこまで授業時間を持て余していない。そうでもない子がたくさんいるけど、僕は違う。

 この席のいいところもある。ふたつあって、ひとつは窓から見下ろす光景が悪くないことだ。三階から見下ろすと、中庭が一望できる。そこは「レインボーロード」って名前がついていて、カラフルなコンクリートブロックが敷き詰められている。たぶんみんな最初にこの中庭の名前を聞いたときには疑問に思っただろう。だって七色もコンクリートがないんだから。たぶんセンスのない先生が名づけ親なんだろうけど、誰がどう見ても虹の印象のかけらもない。その辺の舗装された歩道とかわらない。だから誰も中庭をレインボーロードって呼ばないらしい。みんな「中庭」って呼ぶそうだ。でも僕はレインボーじゃないのにレインボーロードと呼ぼうとする遊び心に打たれたから、あえてレインボーロードと呼ぶことにした。

 いいところのもうひとつは中庭のことを教えてくれた子が僕のうしろに座っていることだ。この子だけ僕に対して普通に接してくれる。それというのも、転校初日にこの子は学校に来てなかったからだ。新学期早々体調を崩して、家で休養していたらしい。まあ家以外のどこで休むんだって思うけど、僕はこの子が話したとおりに言っているだけだ。そう、この子どこかかわっている。話し方がどうにも説明くさいというか、一から十まで話さないと気がすまないみたいだ。そのためか話が長くて、僕はもう少し要点を絞って話したらどうかなって思うから、僕がアドバイスしようとすると彼はこう言った。

「あ、お前話が長いと思ったろ。俺もわかってるよ。じき慣れるさ」

 僕はこの子とならいい友達になれるかもしれないと少しだけ思った。


7

 うしろの子とはじめて会ったときはこんな感じだった。

朝、僕は自分の席に座って窓から中庭をぼんやり眺めていた。今日もうしろの子は休みなのかな、と思って机に目をやると、カバンが横にかけられていた。六年生はランドセルを使わない。いや、使ってもいいんだけど、それはたぶん大人になるにつれて使用する財布のかたちがどんどんかわっていくのと同じだと思う。カバンがあるってことは、うしろの子は学校に来ていることになる。カバンの特徴から推察するに男の子だろう。女の子のカバンにしては味気ないというか、質素すぎると思う。まるで百円ショップに売ってあるようなカバンだ。僕は中庭に視線を戻してまたぼんやり眺めることにした。しばらくすると、チャイムが鳴った。八時半になったから朝礼の時間だ。教室内はがたがたと自分の席につく子でいっぱいになった。もう先生が来るのに、うしろの子はまだ席についていない。というか教室にもいなさそうだ。いったいどこにいるんだろう。

 とうとう先生が教室に入ってきた。教室で空いている席は僕のうしろだけだ。ほかの席には前を向いてきっちり姿勢を正した生徒しかいない。僕もみんなを見習って、背筋を伸ばして両手を軽くにぎって膝の上に置いた。先生が教壇に立ってクラスを睥睨した。その視線はおぼろげというか、やる気がないというか、たくさん穴が空いているような視線だった。言いかえると、普通の先生が生徒に向ける視線ほど正しくない感じだ。僕は相変わらずこの先生のキャラクターをつかめずにいた。

 先生はひとりの生徒に目を向けた。女の子だ。たぶんこの子が号令係なんだろうと僕は予想した。

「起立!」思ったとおり、女の子は号令をかけた。登校初日に聞いたのと同じアニメ声だ。扉一枚挟むより、障害物なしで聞くほうが生の声に感じられて、なんだかおかしかった。アニメ声っていうのに生声なんてすごく矛盾している気がする。こういう矛盾って、すごく好きだ。問題を抱えているんだけど、それがどうでもいいことでほとんど気にならないレベルなのに、それがあるおかげで全体にアクセントがついて特別なものになるっていうか。こういう発見があった日は、もう僕はそれだけで満足してしまう。

みんなががたがたと立ち上がる。僕も腰を上げた。見渡すと、けっこうみんな身長が高い。僕もそんなに低いほうではないんだけど、このクラスで背の順に並んだら、僕は前のほうになりそうだ。

「礼!」女の子が続く号令をかけた。みんながぺこりと先生のほうに頭を下げた。僕も下げた。やっぱり「おはようございます!!」はない。本当にかわっていると思う。傍目から見たらちょっと怖いかもしれない。小学生らしくないところが見る人に恐怖感を与えるように思える。むかしの戦時中の雰囲気と似ているかもしれない。僕の想像だけど。

 みんなが顔を上げるのとほぼ同時に女の子が「着席」と言った。がたがたといすが音を立てる。僕も席につく。先生が口を開いた。

「おはようございます、みなさん。今日は――」

 ガダタタ。

教室の後ろのドアがゆっくり、でも音を立てて開いたものだから、教室内のみんな、先生も含めてそちらを向いた。

「どうもー」

男の子が入ってきた。入場の挨拶として、「どうもー」っていうのは間違っていないけど、適切でもないと思う。なんだか上座から出てくる安い漫才師みたいだ。

 男の子は手に何か持っていた。社会の教科書よりも大きくて、マンガ週刊誌よりも小さな本だ。けっこう分厚い。開いているページに視線を落としたまま、教室に入っても一向に顔をあげようとしない態度に、僕はちょっと笑った。

 男の子はクラス全員の視線が自分に注目していることを気にかける様子もなく、まっすぐに僕のうしろの席に歩いてきて腰を下ろした。開いていたページにしおりを挟んで、机の上に置くと、すっと顔を上げて僕の顔を見据えた。ちょうど僕もうしろを振り返っていたから、まともに目が合った。

 近くで見ると、彼の顔立ちは整っていて小学生らしさが感じられなかった。目元がすっきりしていて鼻の線はすらりときれいだ。あごのラインはシャープだし、整った口まわりにはひげの剃りあとみたいな黒い点々が確認できた。髪も小学生のやわらかいふわふわしたそれではなく、がっちりと主張するナチュラルスタイルだ。ブレザーを着てワイシャツにネクタイを締めたら中学三年生くらいに見えなくもないんじゃないかな。それくらいあかぬけた容姿を持った子だった。

 じっと見つめる僕に彼は怪訝な顔をした。見たことない子が自分をじろじろ見つめていたら、そうなるだろう。自分が転校生であることを伝えようと思い口を開こうとした時、教壇のほうからバン!と大きな音がしたからびっくりした。僕はあわてて前を見た。

どうやら先生が持っていた出席簿のファイルで黒板を叩いたようだ。ずいぶん大きな音がするんだな、ファイルが折れたりしないのかな、と考えを巡らせていたが、先生の顔はちょっとひきつっていてまっすぐに僕のうしろの席を睨んでいた。どうやら怒っているみたいだ。それはそうだろう。うしろの子の態度は、時間を守るとか集団行動の大切さを馬鹿にしたようなものなのだから。

「巧、遅いんだよ」先生は下の名前で入ってきた子を呼んだ。「たくみ」なんて名字はないだろうし。

 巧と呼ばれた子が立ち上がった。「すみません。本を読んでいたら遅れました」ごめんなさいではなく、すみませんときた。やっぱり小学生らしくない。まあでも六年生だし、そういう子もたしかにいる。

「それは言い訳ね。だいたい遅れてきたのに、そのどうもーってのはなんなの? きちんと謝るべきだと思わない?」先生はさらに追及した。じつにねちっこい先生だ、と僕は思った。

 彼は先生の言葉を受け、表情を崩すでもなくじっと先生を見つめていた。その目には言外に何かを訴えているように見える。よく僕らがとる大人に対する対抗手段だ。大人は僕らの視線の意味を読みとれたためしがない。

 さあ、先生は彼の視線を読みとれたかな? 僕は先生の表情をチェックしてみた。

 おお。

僕は思わず、ちょっとのけぞった。

 先生の目がすごくこわかったからだ。

 先生の目は僕らみたいに何かを訴えているわけじゃなかった。なんとなく威嚇と軽蔑と憎悪の平均をとった感じだ。とにかく先生が生徒に向ける視線じゃない。あれは猟奇殺人者の目だ。実際に猟奇殺人者の目を見たことはないから想像だけど。

 僕は彼を気の毒に思った。こんな目を向けられたら普通の子は縮みあがってしまう。僕ならすぐに教科書で顔を隠すだろう。そのまま立ち上がって教室を飛び出して職員室に駆け込んで「先生から暴力を受けました」って大声で叫ぶんだ。もちろん冗談だけど。

 僕は振り向いて彼の顔を見た。表情を変えないまま先生を見ている。ちょっとだけ新しい感情が加えられていた。たぶん憐れみだろう。つまり睨みあっている両方がお互いに相手に非を求めている。たしかに傍からみても両方に非があると思う。でも先生はそんなこわい目をしなければ、きちんと叱ることができたと思うんだけど、なぜ自分が悪く見られるような態度をとるんだろう。変な先生だ。

 しばらく睨みあいが続いて、先生のほうから目をそらした。あきらめたのかな。

 彼は表情を変えずにすとんと腰を下ろした。僕が見つめているのに気づいて、にやりとした。ちょっとコミュニケーションがとれた気がした。

 僕は前に向きなおって先生の様子を観察した。意味ありげに出席簿を机でとんとんと叩く。でも意味はないだろう。

「じゃあ、朝の会をはじめます」先生の声はとても冷たかった。


8

「ミズカツは教員の中でも飛びきり変わりものなんだぜ」巧はパックの牛乳をすすりながら言った。「生徒やほかの教員の間でも有名だ」

「そうなの?」僕は自分の牛乳は給食の時間に全部飲み終わっていた。「なんとなくわかるけど」

「だろ? 最初からそうだった。俺は五年のときからあいつのクラスでさ、はじめはずいぶん戸惑ったぜ。どうにもあのキャラクターがつかめなくてな。俺も我が強いほうだから、衝突することもしょっちゅうでな、そのたびにあの目をしやがるんだ」

 僕は先生の目を思い出してみた。想像するだけで身体が震えあがるような気がした。なんであんな目ができるんだろう。なんで先生が務まるんだろう。

「あの目はこわいよね。僕もびっくりして思わずのけぞっちゃった」

「ああ、威圧感があるよな」巧は同意した。

「ところでさ」僕は気になったことをたずねてみた。「どうしてミズカツっていうの?」

巧はパックを置いて、一息ついてから話し始めた。

「あいつは去年赴任してきたやつでな、新しい教員ってのは始業式に全校生徒の前で挨拶するだろ? そのときに自分で言いやがったんだよ、自分をミズカツって呼ぶようにな。名字が桂だからミズカツ。あと生徒を下の名前で呼ぶんだ、それも初日から。距離感ってもんがわかんねえやつなんだよ」そう言っておおげさに両手を広げた。アメリカンなリアクションだ。「自分が生徒からどう見えてるのか気づいてねえんだな、あれは」

「先生のこと嫌いなの?」

「いや」意外な返答だった。

「まあ変わってるし、教員としての生徒への接し方は最低の部類だと思うけど、あいつは俺が知ってる中で最高クラスの頭のよさを持った大人だ」巧は背もたれに体重を預けて天井を見上げなら言った。これはほめてるのかな。

「俺はな、頭のいいやつしか認めないんだ。大人も子供もな」言いながら僕にちらっと目を向ける。「同級生なんか馬鹿ばっかりだし、大人でも充分なやつは少ないな。まあそれだけ俺が設けたハードルが高いんだけど」

「どうして頭のいい人しか認めないの?」

「ネガティブな理由とポジティブな理由がある」言いながら牛乳パックを両手でくしゃっと押しつぶした。一滴も牛乳は飛びださなかった。

「へえ、きいてもいい?」

「まずネガティブなのはな、馬鹿と一緒にいると疲れるからだ。これはちょっと頭の切れるやつなら誰でも一度は思うんじゃないか?」もたれながら言う巧の表情は「人を馬鹿にする人」というタイトルで写真展に出したら審査員特別賞がもらえそうなほどリアルで様になっていた。

「もうひとつは?」

「ポジティブなのはな、頭のいいやつと一緒にいると学ぶことが多いからだ。つまり俺にいい影響を与えてくれるから、そばに置いておけるということだな」

 僕は巧の言葉を受けて頭を働かせた。巧の主張を整理するとつまり、人間は「頭のいい人」が上位種で、それよりもわずかに下だともう「馬鹿」というくくりに入れられてしまうわけだ。この場合、なんのパラメータをもって上下を決定しているのかわからないけど、たぶん普段の言動や思想なんかだと思う。また「頭のいい人」の逆に「馬鹿」という言葉を使っているけど、それが正しいかはわからない。「頭の悪い人」ではいけない理由があるんだろうか。あるいは「馬鹿」という言葉の響きに即した逆の言葉はないのかな。そういえば「馬鹿」の逆ってなんだろう。「天才」は違う気がする。感覚的にそう思うだけだけど、どうにも種類が全然べつものっていうか、「天才」が上回りすぎてる感じだ。

 それにもうひとつわかることは、巧が自分をどの立ち位置に定めているかだ。聞く分には、どうも自分を最上位にもってきているみたいだ。実際に彼の話し方や雰囲気から判断するに、僕は巧が六年生にしてはかなり頭のいい子だと思える。ただ大人の頭脳を上回るほどに優秀かどうかは今のところ判断がつかない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。僕はもっと巧について知り、彼がどれほどのスペックを持つ子なのか見極めたいと思った。

 表面上は「ふうん」と生返事をしながらぼんやり見つめる僕の考えを先読みしたかのように巧が言った。「お前、俺に興味があるみたいだな。やるじゃねえか」

僕は彼の言葉にびっくりして、思わず短いしゃっくりみたいな声を上げてしまった。お前の反応わかってたぜ、とでも言いたげで満足そうな表情だ。

「正宗っていったな。しばらく俺とつるもうぜ」



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