目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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奥付

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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-

87

 とりあえず僕は拍手を送った。迫真の演技とよくできた設定に感銘したからだ。

「どうだった?」

「すごかったよ。特にカンガルーが敵に捕らわれた女の子を助け出すシーンは手に汗握ったよ」

「もう、そんなシーンなかったでしょ! 真面目に聞いてるの!」

「ごめん冗談だよ」僕は両手を上げて降伏のポーズをとった。「本当に、面白かった」

「ほんとに?」

「今回のイベントは今までの誕生日で一番じゃないかな」

「そう? やった!」ぴょんぴょんはねて喜ぶ母さんだ。今まで一番ってセリフは毎年言っているんだけど、気づいてないみたいだ。

「じゃあこれ」そう言って母さんは僕に紙切れを手渡した。

「あ、これ」見覚えのある紙切れは、その存在をすっかり忘れ去られて僕のポケットにずっと入れっぱなしにされていたものだ。

「この場で破いてください」

「そんなことしていいの? なんだか罰あたりじゃない?」

「これが私流のお祓いなの」

 まあそういうならあえて反対することもない。そもそも僕はそれほど信心深くない。

 凶と書かれたおみくじを、僕はびりびりに破いた。

「はーい、これでお祓い終了! 完璧よ!」

 そんなお祓いあるだろうか。劇中にお祓いの要素なんてなかったと思うけど。

「でね、これがプレゼントだよ」母さんは大きなガジュマルのうしろから包みを取り出して僕に手渡した。

「明日くれればいいのに」

「劇が終わってすぐあげたいの!」母さんの興奮顔の頬に赤みがさしている。

「ありがとう」

 包みを開けて中身を取り出す。春物のカーディガンが入っていた。安物じゃないと僕にもわかるくらいロイヤルなやつだ。

「高かったんじゃない?」広げてまじまじと見ながら母さんに言った。

「それ、お話の毛糸玉からつくったんだよ」むふふと笑う母さんだ。

「じゃあトラとオオカミとハトと人間からできてるの?」

「すごいでしょ?」

「母さんの会話センスは本当にすごいと思うよ」

「着てみせてよ」

 はおって袖に腕を通す。するりと手が吸い込まれるようだ。長さも丈もぴったり。本当に自分でつくったのかもしれない。あるいはオーダーメイドか。

「素敵! ぴったりね、正宗くんの魅力五割増しって感じ?」

「カーディガンで五割も増したら、全身コーディネートしたらすごいことになりそうだね」

「とにかく超かっこいいよぉ」近づいてきて僕の身体をなでまわしたり、べたべたしたり、キスしそうになったりする母さんからちょっと離れて、ベランダの窓に自分を映してみた。

「見た目も悪くないね。学校に着ていってもそんなに変じゃないかも」

「もちろんよ。変だなんて言うやつがいたら、ぐしゃぐしゃに転がして毛糸玉にしてやるんだから」

 転がしただけで人が毛糸玉になったら、体育で器械体操はできないだろう。マットの上に毛糸玉が量産されてしまうに違いない。

「大事にするよ」

 まったく手の込んだイベントだ。プレゼントの受け渡しだけでここまで凝る人は京都に何人くらいいるだろう。母さんのほかにあとふたりくらいじゃないかな。


88

 夕食にピザの残りを食べた。知らないかもしれないけど、冷めてレンジでチンしたピザほどまずいものはない。冷たいままのほうがまだ食べられたものだ。

 早くもデフォルトになってしまったリビングフォレストのソファに座って、ひざの上にサボテンを乗せてくつろいだ。母さんにこのサボテンをキープしてもいいかときくと、「私の愛に満ち満ちたプレゼントよりもそんなとげとげで攻撃してくる草っころがいいんだ」と嫌味を呟かれ、機嫌をとるのに無駄な苦労をした。それでも僕はサボテンがほしかったから仕方がない。

 僕はサボテンに「リリィ」と名前をつけた。和訳すると百合だ。べつに何か狙ったわけじゃなくて、単にリリィって名前が好きなんだ。将来子供を持ったとき、女の子だったら名前を「りり」にしようと思うくらいに。漢字は考えてないけど、適当に当てるつもりだ。

 リリィの定位置をパソコン机の上に定めた。水をやるときは気をつけなければいけない。ビニルテープにマジックで名前を書いて、鉢の側面に貼ってやった。かわいらしい。

 パソコンの電源を入れてリリィをなでる。僕のうしろで母さんが巨大なガジュマルを動かそうと格闘しながら、妬みのこもった視線を僕の背中に突き刺してくる。そのせいか、背中がかゆい。

「何してるの」険のある言い方をする母さんだ。サボテンに嫉妬するなんて情けない。

「いやね、今日買った本が面白かったから、詳しく調べてみようと思って」

「ええっ、正宗くん本買ったの?」ガジュマルを放り出して僕に近寄ってくる。「なんの?」

「ええとね」僕は立ち上がってカバンから本を取り出し、母さんに見せた。「これ」

「へえかわいいね、数学の本かぁ。ちょっと見せて」

 本を渡していすに座る。インターネットにつないで書名を検索してみた。何十万件というヒット数だ。インターネットって何を検索してもすごい件数が出てくるな。いったいすべてのコンテンツ数はどれくらいなんだろう。数学では問題ないけど算数では扱えない数かもしれない。

 一番はじめのページにつなぐ。書名がどんと現れ、読者へのメッセージが書かれている。どうやら著者のページみたいだ。

「ねえ母さん」僕は母さんにきいてみた。「萌えってどういう意味?」

「女の子の名前でしょ? 辞書で調べてみたら?」意外なことに、母さんは熱心に本を睨んでいる。

 さっそく調べてみた。萌える。意味は、芽が出る。利息がつく。

「芽が出るか、利息がつくだってさ」

「そんな意味なんだ。日常会話で使わないわね。なんでそんなの気になるの?」

「いや、ここに書いてあるからさ」

「どれどれ」本をいったん閉じて、母さんはディスプレイを覗き込む。

「最強の萌え? どういう意味よ?」

「それがわからないから調べたんだけど、どっちにしても意味の通る文章にならないね。最強の利息っていうのはちょっとこわい感じがするけど」

「最強だから、借りたらそのときから即利息がつくんでしょうね。あるいはお金じゃなくて臓器とかで支払うのかも。その場合、最恐の利息ね」

「どっちにしてもいまいちだね。やっぱり何かべつの意味があるんだよ」

「そういうときはネットね。検索したらわかるんじゃない? 正しい意味が」

 それもそうだ。母さんのこういうところには素直に感心させられる。

 萌えで検索してみる。一番上に出てきたネット百科事典につなぐ。萌えとは、

「オタク文化におけるスラング?」意味がわからず読みあげてしまった。

「何オタク文化って。いつの時代?」僕と同じ疑問を母さんも抱いたようだ。

「アニメとかへの感情の表れだって。ええと、要するに好きって意味じゃない?」

「じゃあ好きって言えばいいじゃない」

「そうだよね」

 もとの意味がまったく含まれていない。どこから持ってきたんだろう、萌えって言葉を。

「スラングってなんだろう」

「ほらリンクしてるよ。見てみようよ」知らないことに母さんはのりのりだ。

「スラングは、ああ、俗語だって」

「つまり、萌えってのは一部の人たちの中で通用する言葉なのね。じゃあ覚えなくてもいいわね」

「そうだね。その本が最強の萌えだ、ってことは、その筋の人たちがもっとも好むってことかな」

「理系の人たちにとって、ってことね」

「そうだね」

「正宗くんさ」

「何?」

「萌えた?」

「え?」

「この本」

「うーんそうだね、好きだよ」

「これで正宗くんも立派な理系少年ね」

「そうなのかな」

「そうでいいの!」そう言ってなぜか母さんは僕を抱きしめた。こっそり耳元で呟いた言葉は、どういうつもりなのかよくわからなかった。

「血は争えないものねえ」


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 目が覚めると誕生日だった。

 そう、今日は僕の誕生日。一年の中でも特別な意味を持つ日だ。ただその日に生まれたってだけで、こんなにもてはやされるなんて、不思議だと思う。誕生っていうことに、それほどの価値があることを表しているんだろう。

 ゴールデンウィーク中だから当然学校は休み。下手に意識して学校に行かなくてすむ分、恵まれていると考えることもできる。誕生日に学校に行くと、妙に意識してしまって、絶対居心地が悪いと思うんだ。お祝いの言葉をもらったり、「あ、今日誕生日なの? 知らなかったよ」なんて言われて傷ついたりする必要がないから。

 とは言っても、朝することは何も変わらない。いつも通り顔を洗って髪を整え、朝食の用意を――

「おはよう、正宗くん!」キッチンには豪華な朝食と一緒にご機嫌な母さんが用意されていた。リビングはやっぱり森のままだった。

「おはよう。早起きだね」僕の口から出た声は寝ぼけたままだった。

「そりゃ、お誕生日様が起きたときにぐうすか寝てたとあっては、母親失格ってなもんですよ」

「そうなんだ。ところでその朝ごはんすごいね。つくったの?」

「そうそう。風呂敷をめくるとこれ全部用意されてたの」

「へえ」わざと冷たい声で言った。

「もう、ごめん! つくったの!」

「それはありがとう。とりあえず顔洗ってくるよ」

「お早くねぇ。冷めちゃうから」

 言われた通り、さっさと顔を洗い、髪を整えリビングに戻る。テーブルについて改めて見てみると、朝食にしてはけっこうな量だ。

「こんなに食べきれないよ」

「大丈夫、残ったら私が全部平らげるから。ふっふーん、正宗くんの誕生日って私も楽しいんだよね。豪華なごはんつくって、たくさん食べられるんだからさ」

 じゃあいつもは手を抜いているのか、とつっこみたくなったけど、よく考えるまでもなく手を抜いていることは明らかだ。明太子の料理なんてどれも手軽で簡単につくれる。

「いただきます」

「はあい、召し上がれぇ」なんとなく命令されているみたいな口調だった。


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 無理はしてないんだけど、意外にすいすいと箸が進んだものだから、食べ終わっても僕は苦しくていすを立つこともできなかった。

「ねえ、悪いけど何か飲み物を」ふうふう言いながら僕は頼んだ。「動けないんだ」

「けっこう食べたねえ正宗くん。そんなに私の料理がおいしかった?」牛乳を注ぎながらうれしそうに母さんは言う。

「よくわからないけど、勝手にお箸が次々と掴んじゃうんだよ。それは僕がおいしいと感じてるからかな」

「自分の気持ちでしょ? 自分でわからないの? お箸のせいにしちゃダメ」

「でも本当にお箸が勝手に動いてるような気がしたんだよ」

「もう素直じゃないわね。おいしかったです、って一言いえばいいのよ!」

「おいしかったです」

「よろしい! さてお誕生日様。今日のご予定は?」

「え?」

 そうか。母さんのイベントは昨日で終わってしまったから、今日は何もすることがない。巧と有里からも何も言われてないし。

 そう、ふたりから何も連絡はなかった。学校があろうとなかろうと、同じことだ。

「何もないよ」僕は答えた。

「そうかな? 本当にそうかな?」

 じりじりと僕に顔を寄せて、母さんは変な顔をする。怒っているような喜んでいるような、なんとも読みづらい表情だ。

「どうしたの?」少しだけ期待を込めて僕はきいた。

「昨日ね、電話があったの。たーくんから」母さんは僕のとなりに座って、ふと緩んだ表情をつくった。「はじめてお話したけど、なんかもう、とってもしつけがいき届いてるって感じね。あの話し方」

「なんて言ってた?」ちょっと身体を乗り出す。心の中にふわふわしたうれしい気持ちが湧き起こっているのがわかった。

「あらうれしそう。今日のお昼に、塾に来るように伝えてくださいって。私さえよければ、だってさ。正宗くん普段私のことなんて言ってるの?」

「いや、ありのまま起こったことなんかを話してるんだけど」

「なんかたーくん、私に変な印象持ってるんじゃない?」

「変って、どういうふうに?」

「わかんないけど、なんか、すごい私に気を遣うような言い方だったの。そのへんはあんまり隠す様子もなかったから、正直な子だなあと思った」

「巧はそういうやつなんだ」

「ふうん。そういうやつね」母さんは僕の手を取ってまっすぐ僕を見た。

「行ってらっしゃい、お友達のところへ」

 僕は手を握られたまま、上手い言葉が見つからず、感情を持て余して黙り込んでしまった。やっとの思いでひねり出した言葉は、涙ぐんでかすれていた。

「ありがとう」