目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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奥付

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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-

91

 昼になるまでそわそわしながら、僕は母さんと一緒にリビングの片づけをした。

 母さんは、「このままでもいいよう」と拗ねていたけど、こんなに緑一色のリビングは落ち着かないと僕が主張し正当な理論を展開したところ、ぶうぶう言いながらもしぶしぶ片づけることに同意した母さんは「素敵なインテリアだと思うけどなあ」とずっと呟いていた。

 小さな鉢は、適当に場所を見つけて部屋に飾ることにして、部屋のスペースの八割を独占する巨大なガジュマルだけ排除した。「ああ、アンディ」と誰だかわからない名前を呼びながらリビングから運び出す僕のうしろでおおげさなシーンを演じている母さんは、百年修業しても宝塚の舞台には立てないだろう。

 ガジュマルが倒れてきて僕を練りものにしようとしたり、慌てた母さんが駆け寄ろうとしてサボテンの鉢を蹴飛ばして割ってしまったりと、些細なトラブルもあったけど、昼前にはなんとかある程度片づいた。壁に貼られていた迷彩模様もすっかりはがして、もとの白くさっぱりした空間だ。各所に置かれた植木鉢の緑が、控え目なアクセントになって一層美しい部屋となった。白と緑って友好色なんだな。

 ちょっと運動したおかげで、身体の調子もすごくいい。朝食はまだ消化されていないだろうけど、収まるところに収まって、僕の邪魔をしなくなった。とっても気分がいい。これまでで最高の誕生日の午前中だ。

 ふいに有里の手紙を思い出した。「五月二日を待て」と書かれた手紙はやっぱり誕生日を意味していたんだろうか。レオンハルトに行ったら巧と有里に会える。いやよく考えたら有里がいるかどうかはわからないんだけど。でもきっといるだろう。気分は天にも昇る絶好調だ。


92

 出かける直前に母さんが、「おなか減らしてきてね。おいしいケーキとごちそう用意してるから!」と言った。やっぱり今年もケーキはあるのか。

 正確な時間の指示がなかったから、お昼という時間帯を僕の感覚で捉え、十二時すぎに家を出た。ところでお昼って何時だろう。何時から何時までが昼なのか、明確な定義はあるんだろうか。

 五分ほどでレオンハルトに着いた。いつもと何も変わらない。僕の誕生日だからって、レオンハルトが突然コンビニになったり豪邸になったり株式会社になったりはしない。そりゃそうだ。僕は誕生日熱があるかもしれない。

 いつも通り勝手に中に入る。インターホンは押さないのがレオンハルト生の常だ。セキュリティが甘いことこの上ないけど、これまでなんの問題もなかったらしい。

 玄関には誰もいなかった。教室のドアの向こうにも人の気配はしない。靴を脱ぎ、談話室のほうへと僕は進んでいってドアの前に立った。中から話し声が聞こえてちょっと安心する。

 僕は思いきってドアを開けた。

「おっ、来たな」巧が僕の姿を認めて言った。

「こんにちは」冷静を装って僕は挨拶した。

 談話室には巧と有里、それに老先生がいた。いつもの談話室の風景だ。なんら変化はない。まあそこまでは期待していなかったけど、もし飾りつけなんかがあったらうれしいな、くらいには気にしていた。

「誕生日だそうだな、めでたいことだ」老先生が優しく言った。

「ありがとうございます先生」

「いや急に悪かったな」巧が照れくさそうに頭を掻く。「六年にもなって誕生日会ってのもどうかと思ったけどよ、お前のために何かしてやりたくてな。言い出したのは俺なんだ。ささやかな誕生日プレゼントな」

「ほんとに? 正直うれしいよ。僕もパーティとかにぎやかなのは苦手だし、おおげさにされても恥ずかしいから。当日に集まってくれただけで充分なんだ。それにこういうのはじめてだし」

「そうなのか? そりゃよかった。どの程度の規模でいこうか企画段階で迷ったんだけど、ささやかに有意義なくらいがお前にとって一番じゃないか、って有里がな」

 僕は有里に視線を送る。「ありがとう」と言いそうになって、僕は口をつぐんだ。

 なんとなくわかったけど、有里は不機嫌だ。

「あ、あの、ありがとう」

「いいのよ」発した一言にはなんの感情もこもっていなかった。怒ってるんだろうか。

 でもどうして?

「えーと、今日なんも予定はなかったのか? ほら、お前の母親のとかさ」巧が空気を読んで話題を提供してくれた。こういう気配りは見習わなければいけない。

「いや悲しいことに何もないよ」僕はシニカルなニュアンスを込めて言った。「それに母さんのイベントは昨日だったし。もう感想文にしたら原稿用紙十枚分くらいの内容だったよ」

「そりゃなかなかのレポートだな。愉快なもんだったのか?」

「今までで最高傑作だったよ」

「まあ座ろうぜ。話でもしよう」

 僕たち四人はテーブル囲んでおしゃべりした。もちろんテーブルにはたくさんのお菓子と飲み物とグラスが乗っている。お菓子をつまみながら、僕が昨日の母さんのひとり劇について語ると、巧も老先生も笑いながら感想を言ってくれた。おおむね僕が思ったことと一致していた。

老先生は「それは百年ほど前の英国の絵本を参考にした物語のようだな。君の母君はなかなか勉強熱心なことだ」と言った。そういえば、図書館で絵本みたいなものを借りて穴が空くんじゃないかってほど読んでたっけ。つまり絵本のパロディだったわけだ。母さんが考えたストーリーにしては、よくできてると思った。

 有里は、話は聞いているみたいだったけど何も発言はしなかった。こっそりと視線を追っていたんだけど、有里はテーブルの上あたりの空気をじっと見つめているか、しゃべっている人間に一瞥くれるかだけで、終始ぼんやりしていた。ちなみに僕のほうは一度も向いてくれなかった。

「でさ、なんでサボテンにリリィなんて名前つけたんだ?」軽快な調子で巧がきいてきた。「そもそもサボテンの魅力が俺にはよくわかんねえよ」

「サボテンはかわいいわよ」

 急に発言した有里に驚いて、僕を含め全員が彼女を見た。視線の矢が自分の顔に集中していることを気にする様子もなく、有里は平然とお菓子を食べた。

「なんだお前、しゃべれるのかよ。黙ってるから魔女に声でも奪われちまったのかと思ったぜ」巧がほっとしたように笑いながら言った。

「そんなわけないでしょ。テレビの観すぎじゃないの、この変態」有里は巧に向かって悪態をつく。

「これこれ。私もサボテンにはどこか趣があってよいと思うよ。種類によってかたちが多様であるし、何よりあのトゲがよいな」老先生が和してくれた。僕はほっとする。

「先生まで何を言うんです」巧が小さな反抗心を示す。「トゲのどこに魅力があるんですか。なんのためについてるのかわからないし、そんなに本数が必要なのかも謎だし、何より、どうしてとがっていないとダメなんです」

「ひとつずつ回答していこう」老先生は湯飲みのお茶を一口飲んだ。この湯飲みは老先生しか使ってはいけないことになっている。同様に、若先生専用のマグカップもある。

「まずトゲの魅力だが、私はトゲそのものに魅力は感じない。重要なのは、トゲの生え方だ。あの規則的な配列に美を感じないか? その理由を突き止めたいとは思わないか? 自然の中に潜む規則性の発見は、人間の感性をこの上なく刺激する。数学は人間がつくり出した学問だが、こういった自然配列にも応用が可能だ。何もサボテンのトゲにかぎった話ではない。探してみれば、自然にできあがった規則性というものは、思いのほかたくさん見つかるのだよ。この思考こそ、人間のみに許された最上の遊戯だ」

 巧はむうという顔をつくった。僕はすでに老先生の話に聞き入っている。

「次にサボテンにトゲがついている理由だが、私もよくは知らない。ただ子供のように直感的に考えると、外敵から己の身を守るためというのがもっとも納得のいく解説だろう。これについては巧君も本当は理解しているのだね?」

 巧が首肯する様子は、じつに素直な六年生の男の子の理想像にみえた。

「またあれほどの本数の必要性だが、多数のトゲで身を覆うほうが、自己防衛機能として優れているからだと推察できる。軍隊などと同じで、ひどく戦闘に秀でたひとりの人間よりも多数の兵隊で防御するほうが、結果がよいということだ」

 カンフー映画なんかでは、ひとりの達人がたくさんの雑魚キャラを次々なぎ倒していくシーンが多い。でも実際なら、うしろから武器でひと突きされただけで達人は帰らぬ人となるだろう。これがリアリティだ。

「最後にとがったものがついている理由だ。何よりということは、巧君はこの点が一番不可解であるというわけだね? つまり、己の身体を守るために剣山を身につけて敵を傷つけなければいけないのか、ということに疑問を抱いているのだな。たしかにそうだ。我々ならそんな必要はない。何も己を守るための手段が外敵への暴力だけではないからだ。我々は言葉を持つからな。しかし、それは人間の高度な知性が生み出す余剰の上に成り立っている。すなわち、知能を持たない植物は自己防衛として外敵を傷つける以外に余地がなかったというわけだ。しかし、我々は違う。この点を強調して回答の締めくくりとしよう」


93

 老先生はスピーチを終えると、「一服してくる」と言って談話室から出ていった。僕たちはそれぞれにぼんやりとした面持ちで、スピーチの余韻に浸っていた。

「老先生はああ言ってたけど」僕は沈黙を破った。「巧そうなの?」

「指摘されてはじめて自分で気づいたよ」巧はいすの背もたれに体重を預け、ぎしぎしと音を鳴らした。「俺は暴力が嫌いみたいだな」

「弱虫」有里が呟いた。巧に言ったと思うんだけど、僕はちょっとかちんときて有里を睨んだ。

「何よ」僕の視線に気づいて有里が睨みかえしてくる。「文句あるの?」

「どうして暴力が嫌いだと弱虫なの?」僕はきつい口調だったかもしれない。そんな自分の声を聞いたことがないからだ。

「傷つける勇気がないからよ。男なら男らしく男気溢れてなきゃ」

「その理屈変だよ」

「なんでよ」

「理屈になってないから」

「まあまあお前ら」巧が僕たちの口論に割って入り、両手で抑えるしぐさをした。「言い争いはやめとけよ。せっかく正宗の特別な日に、そんなことでもめなくてもいいだろ」

「巧はなんとも思わないの?」巧にまで険のある言い方をしてしまった自分がいやだった。

「いや思うぜ。ただな、人がどう思おうと、その人の自由だ。口に出したら責任が発生するけど、べつに俺は傷ついたわけでもない。ただ意見を持っただけだ。でも言い返したらケンカになるから、そんな無益な衝突は避けようと思って何も言わないだけさ」

「私が言っても、巧はそう言うんだ」有里の声のトーンが少し下がった。まるで悲しいみたいな、そんな感じ。

「俺が決めた考え方だ。お前も充分理解してるだろ」

 有里はいきなり立ち上がって談話室から出ていった。