目次
ユークリッド-Eukleides-
1
2
3
4
5
ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
6
7
8
9
10
ピタゴラス-Pythagoras-
11
12
13
14
15
ルネ・デカルト-René Descartes-
16
17
18
19
20
アルキメデス-Archimedes-
21
22
23
24
25
レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
26
27
28
29
30
ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
31
32
33
34
35
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
36
37
38
39
40
アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
41
42
43
44
45
ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
46
47
48
49
50
ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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53
54
55
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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57
58
59
60
ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
61
62
63
64
65
ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
66
67
68
69
70
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
71
72
73
74
75
ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
76
77
78
アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
79
80
81
82
83
84
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86
ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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88
89
90
オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
91
92
93
ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
94
95
96
レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
97
98
99
100
101
102
103
最終定理-the Last Theorem-
104
105
106
107
108
109
110
奥付
奥付

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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-

56

 目を開けると、さっきと同じ空が浮かんでいるのが見えた。もう僕の心の中は、もはや空一色じゃない。幸せな夢で満たされているから。だから、目の前の空は、さっきと違ってとても現実的に見えた。僕は単に寝転がって空を見上げているだけだった。

 身体を起こして首を左右に傾けると骨がぼきぼきと不安な音を立てた。でもこれが気持ちいい。そこでようやく、となりに誰かが座っているのに気がついた。

「寝ながらにやにやしないでよ。気持ち悪いから」

 有里は僕のとなりに座って、僕のお茶を飲み、僕の焼き餅を食べていた。

「それ僕のだけど」

「大丈夫よ。一個残してあるから」そう言って有里は袋から最後の焼き餅を取り出して、僕に手渡した。僕は一口かじった。あんことお餅だけのシンプルな味で、おいしかった。

「おいしいね。ヨモギとか桜のやつはどうだった?」

「どっちもおいしいけど、あんたが今食べたのが一番ね。飾らないほうがいい」

「ふうん。ありがとね」

「あんた馬鹿なの? 私に自分のもの食べられちゃったのに。もっと怒ったら?」

「でも一番いいのを残しておいてくれたんでしょ。それに対して、ありがとって」

 有里はため息をついて片手で目を覆い隠して、そのままごろんとうしろに倒れ込んだ。「あんた絶対、変」口もとは、笑顔だった。

 僕は自分のお茶を一口含んで、焼き餅を全部口に入れた。よく噛んでからまたお茶を含んで飲み干す。ふうと息をついた。

「僕は普通だよ。有里のほうが変だ」

 僕は有里を見た。変だと言われてどんな反応をするか興味があったからだ。

 有里はTシャツの上に半袖のパーカーをはおってデニムのミニスカートを履いていた。スカートからすらりと伸びる脚は、つるんとした肌でコーティングされていて美しい。頭の中にもやっとした雲みたいな感情が芽生えたけど、何も主張はしなかった。

 有里は黙ったままだ。怒っているんだろうか。でもたぶん違うという直感が僕にはあった。

「よくここに来るの?」僕は有里にきいた。

 有里は目を覆っていた手を頭の下に持っていって枕にした。公開された両目は僕を見ていない。

「まあ晴れてて読む本がなければね」

「そう。読書って楽しい?」

「どうかな。でも現実よりはいくらか楽しい」

「まあそれが本が売れる条件みたいなものだからね」

「必要条件っていうの、そういうの」

「へえ、そうなの」

「なんで笑ってたの?」

「何が?」

「さっき。寝ながらにやにやしてた。気持ち悪いから通りすぎようと思ったけど、これ持ってたから」有里は袋を片手で持ち上げた。

「幸せな夢を見たんだ。だから笑ってたんだと思う」

「どんな夢?」有里は身体を起こしてこちらを向いた。興味があるみたいだ。

「僕の誕生日にみんなが僕の家で祝福してくれる夢」

「みんなって誰?」

「母さんと巧と、有里と」

「みんなってそれだけ? 少なくない?」

「今の僕にはそれで充分なんだ」

「そう」

 有里は立ち上がってお尻をぱっぱと払った。もう興味をなくしたようだった。

「帰るの?」僕は聞いた。

「まあね。ごちそうさま」

 嫌味の言葉が思い浮かんだけど、口にしなかった。僕は黙って有里が去っていくのを眺めながら、お茶を一口含んでまた寝転ぶ。しばらく帰る気にはなれなかった。


57

 家に戻ると、母さんが出たときとまったく同じ状態でソファに座っていた。まるでこの部屋だけ時間が止まっていたようで、既視感の度合いが強烈だった。

「ただいま」僕の声はリビングの空気に吸収されて消えてしまったようで、母さんはこちらを振り向かない。

「母さん?」もう一度声をかける。今度は母さんに対象を絞る。

 返答はない。テレビはクッキング番組を映していて、夏野菜のスパゲッティを紹介していた。まだ夏野菜の季節じゃないと思うけど。よほどネタがないんだろう。

 僕はリビングに行ってソファの前に回り込む。母さんを観察する。やっぱり出たときと何も変わっていない。ひとつだけ違うけど。

 すーすーと寝息を立ててむにゃむにゃしながら目を閉じていることだ。

 人間は成長するにつれて睡眠時間が減少すると聞いたことがある。

赤ちゃんの頃は、寝るのが仕事だ、と言わんばかりに睡眠をとっている。少しずつ大きくなって、幼児になり、小学生になり、今の僕だけど、睡眠時間は平均して八時間くらいだ。これは僕のケースで、最近の小学生は睡眠時間がどんどん減少してきているらしい。小学生のくせに朝の二時まで起きているやつもいるらしい。理由は知らないけど、たぶん大人の真似事だろう。

それから大人に近づいていくにつれて、どんどん寝る時間がなくなっていく。中高生なら部活や勉強、大学生なら研究や社会に出る準備によって時間は殺されていく。大人になると、仕事がこれまでより一層強力な時間の殺し屋となる。大人はたいへんだ。

日々仕事で睡眠時間を削ってまでお金を稼ぎ、子供がいる人たちは彼らの世話をし、学費を貯蓄する。こんなにすごいことってほかにない。その原動力となるエネルギーってなんだろう。なぜ大人はみんな、そのエネルギー源を持っていて、しかもなぜ枯渇しないんだろう。

子供は子供でたいへんだ、なんて言うやつがいるけど、大人と比較するとそんなのたいしたことないに違いない。それがわかってないからこそ、子供なんだろう。

そんなことを考えながら母さんの寝顔を見つめていると、妙な気分になってきた。なんだかとても感謝に満ちた気持ちが湧いてきて、何か親孝行をしなければ、という強い衝動に駆られた。

とりあえず、寝室からタオルケットを持ってきて、母さんにかけてあげた。べつに部屋は寒くないんだけど、こうすることが優しさだという直感から来る行動だ。

次にキッチンに行って、夕食の用意をする。いつも母さんが準備するところを見ているので、何も困ることはなかった。母さんは明太子を使った簡単なものしか夕食につくらない。

昨日は明太子のチャーハンだったから、かぶらないようにしないといけない。冷蔵庫の野菜室を開けてみる。レタスと新玉ねぎとにんじんがあった。どうやらこれでサラダをつくるつもりだったようだ。それなら僕にもできるだろう。

メインは何にしようか。明太子をつかったメイン料理。こういうとき、テレビのクッキング番組で明太子のメニューを扱ってくれていたら、僕はテレビのファンになるかもしれないのに。まったく気が利かない。

結局、一番簡単なスパゲッティにした。テレビで上手なスパゲッティのゆで方が紹介されていたのでありがたい。さっそく実践してみることにしよう。

まずは、サラダからだ。母さんがつくるのをそのままそっくり真似をする。

最初に玉ねぎとにんじんを細長く切って、冷水につけておく。包丁を扱うのは、五年生のときに学校の行事で行ったキャンプでカレーをつくったとき以来だ。キャンプといえばカレーという、短絡的な結論を天動説みたいに信じている教師たちには呆れるけど、僕もカレーは嫌いじゃない。言い訳じゃないけど、久しぶりなものだから、にんじんの細さはばらばらだし、玉ねぎは薄かったり分厚かったりした。次にレタスを手でちぎってこちらも冷水につける。なぜ手でちぎるのか疑問に思ってむかし母さんにきいたことがあるのを思い出した。母さんの答えに、僕はちょっと感動したのを覚えている。

「手でちぎるのはね、愛なの。包丁で切ったらかたちがきれいになって見た目はきれいかもしれないけど、愛想がないっていうかね、とにかくダメなの。手でちぎるとね、かたちがいびつで、でこぼこしてるけど、そこには人の手作業の証があって、食べる人に気持ちが伝わるのよ。だからお寿司屋さんって手で握るのよ」

今考えると、なんだか無理があるし、こじつけの気配がふわりと漂うけど、小学校低学年への説明としては素敵だと思う。だから当時の僕は感動してしまったんだろう。お寿司屋さんの件は、単に機械とかで代用できないからだろうと思うけど、なかなかうまいこじつけだ。

パスタが用意できる直前まで、野菜は冷水につけておく。次はパスタをゆでる作業に取りかかる。

さっきテレビで紹介していた方法を実践してみよう。といってもそんなに特別な処理はいらない。僕でもわかる程度のことだ。

鍋にお湯を沸かす。そして、パスタを入れる前に塩を入れる。これだけだ。

塩がどういった役割を担うのかはわからない。どんな反応が起こるのかも知らない。ただ、こうすると、出来上がったパスタが柔らかくなっておいしいそうだ。

僕は料理のこういうぼんやりしたところがあまり好きじゃない。たとえばこの場合だと、塩の必要性をきちんと理解しないまま結果だけを重視して使用するところだ。鍋の中で塩がどんな働きをするのか。それによって何が起こって結果的にパスタが柔らかくなるのか。あと野菜を水にさらすのもそうだ。しゃきっとさせるためだそうだけど、どうしてしゃきっとするのか、その物理現象の仕組みが知りたい。こういうことが気になる小学生は僕ひとりじゃないと信じたい。

ぐつぐつ煮えるお湯の中で、ゆらゆらと踊るパスタを見つめる。本当にパスタが柔らかくなるのかどうかを観察する。なんとなくわかっていたけど、観察するだけではわからなかった。

一本取り出して食べてみる。ゆであがっているかをチェックするためだ。

塩のせいでしょっぱい。ちょっと固めだけどゆであがっている。火を消してそのまま放っておく。まだ上げないから、少し固めくらいがちょうどいい。

素早く次の作業に移る。野菜を冷水からあげて、水気をよく切る。特にレタスはキッチンタオルを使って丁寧に水気を取り除く。こうしないと、べちゃべちゃのサラダになってしまう。

大皿にレタスを敷いて、その上ににんじんと新玉ねぎを盛りつける。あとはドレッシングをかけるだけだ。

急いで冷蔵庫から明太子と生クリームと牛乳とマヨネーズを取り出す。大きなボウルにそれぞれ適量取り出して、スプーンで混ぜ合わせていく。程よく混ざったところで、黒コショウをぱらぱらと振りかける。しっかり混ぜ合わせ、お湯からあげたパスタを全部投入する。フォークとスプーンでくるくると回転させながらソースとパスタを絡ませる。明太子がパスタの熱で白っぽく変色していく。熱が通っている証拠だ。

平皿二枚に均等に盛りつける。パセリをちょんと添えて完成だ。

ふう。できた。

テーブルをセットして、見栄えを計算する。パスタをお皿の中で動かして、一番きれいに見えるよう調節する。完璧だ。

僕は一仕事終えた充実感を抱えてリビングで寝ている母さんの前に立つ。タオルケットを引っ張ると、母さんはしっかりと掴んで抵抗する。その手をデコピンして放させた。

握っていたものを失った不安からか、「うーん」と高音でうなる母さんの肩をゆすって話しかける。

「起きて。もう夕方だよ」

 座ったまま、もぞもぞとするものだから、まるで目をつむっているだけでじつは起きているように見えるけど、母さんはしっかり寝ていた。こういう人なんだ。

「ごはん出来たよ」

「ごはん?」母さんは反応してゆっくり目を開いた。マンガみたいだけど、母さんはごはんに反応して眠りから目覚める人なんだ。

「んん、もう夕方? ごはんの支度しなきゃ……あれ、正宗くん」ぼんやりした寝起きの声。「ん? 今ごはんって」

「うん。ただいま。僕がつくったよ」

「ほんとに? えー見たい見たい」

 食べたいじゃなくて見たいという感想がよくわからなかったけど、僕はテーブルを指さした。母さんは身体をねじってテーブルを見やる。

「わあ、すごいすごい!」母さんはぐいんと立ち上がってテーブルに駆け寄っていった。僕もあとについていく。

 母さんは大皿に盛られたレタスの小さな片をつまんで口に運ぶ。しゃきしゃきとレタスを砕く音が僕の耳に届いた。

「やるねえ、しゃきっとしてる。ちゃんと水につけたのね」

「いつも準備するのを見てたからね。何も困ることはなかったよ」

「私の正宗くん、料理まで出来ちゃうのね。さっすが!」僕の頬を片手でくすぐりながらうれしそうな顔をする。「それに、私のことちゃんと見てるのね」

 なぜか腰をくねくねさせながら妙に色っぽく言う母さんのニュアンスには、不穏で不埒な雰囲気が漂っていたけど、観察していたことはうそじゃないから、下手に認めることも否定することもできなかった。

「じゃあ食べようか」僕は話題を変える。母さんは特に気にする様子もなくいすに座った。ちょっと安心。

「ドレッシングは?」フォークとスプーンを両手に持って机をとんとん叩きながら要求されて、僕は家族の食事の用意をする主婦の憂鬱が少し理解できた。

「マヨとイタリアンのでいいよね」

「うん。あと味塩とって」

「はいはい」

 好意には全力で甘えるのが、母さんが母さんたる所以だ。僕はそれでかまわない。

「いただきまーす」ふたりで合掌して夕食を掘りはじめる。

「むっ正宗くん、おいしいよこれ!」スパゲッティをちゅるちゅるとすすりながら母さんは笑顔になる。「私の味そっくり! やっぱり親子って似るのよね!」

「それはよかった」僕も自分の作品を味わってみたけど、なんの違和感もなかった。つまり、いつもの夕食と同じ味だ。僕はひっそりと喜びを感じた。


58

 食事を終えて、空いたお皿を重ねてシンクに置く。食器かごに水を貯めて、スポンジに洗剤をつける。お皿を食器かごに入れて汚れを落とす。この作業のレベルは、もはや主婦の域だ、と僕は勝手に思っている。

「この調子で正宗くんにはどんどん私のいいところを吸収していってほしいと思います」

「じゃあ運転技術はほかの誰かを参考にするよ」洗いものを終えて、僕は冷蔵庫から牛乳を取り出す。グラスに注いで一口飲んだ。

「嫌味が上手いのは誰に似たのかしらね。私じゃないでしょ」

「たぶん違うね。それに嫌味のつもりはないんだけど」

「正宗くんね、そういうのむやみやたらに言い散らかしたらダメよ。言葉で傷つく人って本当にいるんだから」

「そうなの? 単なる噂だと思ってたよ」

「正宗くんだって何かひどいこと言われたらいやでしょ、馬鹿とか」

「僕は馬鹿じゃないから、相手の非を訂正すると思うな。あ、でもさっき馬鹿って言われたよ。でも訂正もしなかったし、傷つきもしなかった」

「誰に言われたの?」

「有里に。神社でたまたま遭ったんだ」

「ほう、興味深い」突然妙な言いまわしをするものだから、僕はちょっと面くらった。

「どうしたの?」

「その小娘が正宗くんを馬鹿呼ばわりしたわけね。どうしてそいつはそんなこと言ったのかしら」

「うーんとね」

僕は、神社の芝生で寝転んで眠ったところから、有里と並んでおしゃべりしたところまでを母さんに話した。夢を見たこととその内容については触れなかった。話してしまうと、実現する可能性が失われてしまうような気がしたからだ。

「と、まあこんなところかな。たぶん僕が怒らなかったのを馬鹿って言ったんだと思う」

 じっと僕を睨みながら聞いていた母さんは、いすに背を限界まで預けて大きくのけ反った。ぼきぼきと骨の鳴る音が聞こえた。異常に大きかったから、一瞬いすを壊したのかと勘違いしてしまった。自分でもびっくりしたようで、「おお」と言いながらあわてて背もたれから離れた。

「なるほど。その場合の馬鹿には特に深い意味はないわね。しゃくだけど、許してやるわ」

「よかった」

「それよりも」母さんはぐいっと顔を突き出して僕を見る。動きが素早いからいちいちびっくりする。「気になることがあるんだけど」

「どうしたの?」

「なぜ小娘が偶然にも正宗くんに出会ったのか」

「今日の話?」

「そうよ。はじめの出会い、つまり転校先にたまたま小娘がいたってのは、説明のつかない、回避のできない、どうしようもない偶然だからいいんだけど、今日のことは、偶然と呼ぶには弱いの。ちゃんと説明がつくからね」

「どんな説明?」

「ひとつだけあるの。正宗くんと小娘が神社で顔を合わせたのは、偶然じゃなくて、必然だったのよ。つまり、小娘は正宗くんをつけていて、神社で正宗くんが休憩していたところへ何食わぬ顔して現れたってわけよ」

 たしかにとなりに座っていた有里は、何食わぬ顔をして僕の焼き餅を食べていた。その点は正しいかもしれない。でも僕をつけていたという点には納得がいかない。

「もし本当だとしたら、どうして有里は僕をつけたりするんだろう」

「はあ?」そう言った母さんの顔は今までに見たことのないものだった。口の片方を針で引っ張られたようにつり上げ、僕を見据える両目は全力で人をへこませるだけの力が込められていて、よく見ると嘲笑気味の笑みも含まれているようだ。「正宗くん馬鹿なの?」

「いや、馬鹿じゃないよ」僕は否定した。馬鹿と言われても何も感じない。ただ相手が間違っているから訂正してあげたいと思うだけだ。有里のときはすっと言葉が出てこなかったんだけど、母さんにはすらりと言えてしまう。

「いや、わかってないとしたら、本当に馬鹿よ。小娘のことは腹立つけど、その点に関しては憐憫の情を抱いてやってもいいわね」

「客観的に観察するとね、説明できるよ」僕は牛乳を飲んだ。「有里が僕に好意を持っているということだね。距離を縮めて親しくなるために、僕のあとをつけて接触を図ったわけだね」

「なんだ、わかってるんじゃない。でもそれを主観的に見れないのはどうして?」

「それは、自分でもよくわからないんだけど、できないというよりしたくないんだ」

「正宗くんの中の何かがそうさせてるわけね。その正体は自分でわかってるの?」

「その、不合理性を許せないんだと思う」

「でも人を好きになるっていうのは、もれなくそういうものよ。理屈じゃないの。正宗くんの中で恋愛の解釈を改めないとダメよ」

「いやその理屈はわかるんだ。わかるっていうのは理解できるってことだよ。ただ、飲み込んで消化することに抵抗があるんだ」

「正宗くんもまだまだね。準備ができてないのよ」

「そうなのかな」

「そうよ。経験者の私が言うんだから間違いないわよ」

「母さんもこの不合理性を乗り越えてきたの?」

「恋する乙女はね、そうした苦難を乗り越えて乗り越えて、大人になるの」

 微妙に母さんと僕の間で認識に誤差があるように思えたけど、言葉に還元して説明するのが難しかったから、そのことは言及しなかった。

 母さんの主張は、ままならない恋心を持て余している自分を乗り越えて大人になる、というもので、ようするに経験の蓄積が問題の解決につながるんだ。

 でも僕が思うこの不合理性とは違う。有里が僕を好きだとは思わないし、僕も有里が好きなわけじゃない。有里の行動に、好意という気持ちがもっとも説明がつくからといって、そうだと決めつけてしまうのは早計だと思う。母さんの言う通り、偶然じゃないだろう。でも好意じゃなくてほかの何か。あいにく、日本語にはこの気持ちを表す言葉はないみたいだ。あるいは単に僕が知らないだけかもしれない。

「もしね、頭の中がもやもやしてすっきりしないならね」あごを片手でさすりながら母さんは言う。ひげはないと思うけど。「小娘と話してみることね」

「うん、そうなんだけど、べつに何もきくことがないんだ」

「小娘のことで何か気になることがあるんじゃないの?」

「僕は有里のことが好きだよ。巧と同じようにね。つまり、そういうことだと僕は考えてる」

「ほんとに?」

「新しい情報が入ってこないかぎり、気持ちは変わらないと思う」

「じゃあ話してみたら何か変わるかもね」

「母さんは僕に変わってほしいの?」

「小娘のことは嫌いだけど、これは私じゃどうしようもないことだから。私じゃなくて、ほかの誰かよその女の子と一緒にね。ああむかつくわね」

「むかつくのはどうかと思うけど、母さんの言いたいことはわかったよ。僕に恋愛してこいって言ってるんだね。そして成長しろって」

「なんだ、やっぱり馬鹿じゃないのね。さすが私の正宗くん!」

 それほど感心することだろうか。話の流れから自明なことなのに。そう思ったけど、何も言わないことにした。


59

 月曜になり、僕の誕生日まで一週間を切った。

 なんだか学校が久しぶりに感じる。土日の出来事が普通よりも濃いものだったからだろうか。

 校門に着くまで、僕は神社で見た夢について考えていた。思い出しただけでうれしくなってくる。現実になってくれたら、こんなにうれしいことはない。僕が今一番望むことはこれだな。誕生日プレゼントに、夢の実現を、僕は望む。

 教室に入って中を見渡す。巧も有里もすでに登校していて、それぞれ自分たちの席についていた。僕はまっすぐ自分の席に向かった。

「よう」巧が僕に気づいて声をかけてきた。

「おはよう」答えて席につく。カバンを置いて、巧のほうを振り返った。

「あのさ、有里と若先生のことで話があるんだ」

「うん?」

「あとでゆっくり話すよ。あと、今日若先生にもらったライター持ってきてる?」

「ああ、カバンにずっと入れてるからな」

「よかった。あとで使わせてほしいんだ」

「いいぜ。有里の件だな」

「うん。それもあるけど」

「若先生も絡んでるのか?」

「そうなんだ。ちょっといろいろ危険だから、慎重に事を進めないと」僕は少し真剣な顔で言った。

「あんまり有里に毒されるなよ。守らなけりゃいけない一線ってのがちゃんとあるんだぜ。まあお前ならわかってるだろうけど」

「もちろん、重々承知だよ」

「今日の昼休みは、教室で牛乳飲みながらゆっくりってわけにはいかなさそうだな」

「うん。だから昼食と一緒に飲んじゃって」

「わかった」

 ミズカツ先生が入ってきたところでちょうど話が終わり、僕は前を向いた。


60

「はーい、席について。てゆーか、早く座れー」

 なんだ、あの話し方。

 ミズカツ先生が普通じゃない。いつもの張り詰めた雰囲気がまるで感じられない。緊張の糸がぷつんと切れて結び直すことも諦めたような清々しい印象だ。

「朝の会はじめるわよー。まあ、あんまりネタないけどね」

 あからさまに変なミズカツ先生の態度にみんなもざわついている。どよどよという擬音語が教室を漂っている。

「もうすぐゴールデンウィークですねえ。こんな連休は夏休みまでないから、ゆっくり休養をとってね。受験する人はそれなりにがんばって」

 ゆるゆるだ。ミズカツ先生の言葉だけじゃなくて、本人がかなりゆるんでいる。土日に何かあったのかな。それにしても受験生に対して「それなりに」はないだろう。

「学校から離れてしばらくリフレッシュしてちょうだい。でもフレッシュしすぎて悪に手を染めたらダメよ。タバコとかお酒とかね」

 僕は動揺を隠さないよう、あえてミズカツ先生をじっと見つめた。身体が自然とこわばって引き締まる。できるだけ視線に意味と存在を持たせずに気配を消して。

「私のクラスにそんな極悪人はいないと思うけど、一応釘を刺しておかないとね。私があとで、だから言ったでしょ!って言えないから」

 正直に話しすぎだろう。自分の都合をそんなにもあからさまに打ち明けられると、反抗心で本当にやってしまう子が出てくるかもしれないじゃないか。

「海外とかに遠出する人は飛行機事故に気をつけてね。今の世の中、何があるかわからないから。あと私におみやげ買ってきてね」

 もはや朝の会で話すべきことから逸脱している。だいたい飛行機事故をどうやって気をつけたらいいんだ? 僕らが気をつけたら回避できるとでも言うんだろうか。それに旅行に行って担任におみやげを買ってくる小学生はめったにいない。たぶん全国に三人くらいだろう。その三人は担任と親族関係であるに違いない。

「とにかく、来るゴールデンウィークを楽しくすごしてねってこと。でも今から浮かれて今週の学校生活を疎かにしてはダメよ。いいわね?」

 どうやらみんなの「はーい」という返答がほしいらしい。でも誰も素直に答えなかった。もう少し自分の変化が与える影響を考えてほしい。

「まあいいわ。あ、そういえば挨拶するの忘れてた」ミズカツ先生は、いやーうっかりでしたよ、と世間話でもするみたいに気さくに言った。僕もまったく気づかなかった。気づく余裕がなかった。

 有里に目を向けると、頬杖しながら呆れたようにミズカツ先生を見ていた。おそらくすべてに呆れているんだろう。

「号令係の人、今からやって」ミズカツ先生も有里のほうを見た。

「先生」有里が手をあげて発言した。珍しい。今日は晴れだけど、午後から槍でも降るんじゃないか。

「なあに?」

「何かいいことでもあったんですか」

 有里に言われて、ミズカツ先生は顔をこれでもかとゆがめて、人間にはこれ以上は無理だろうと思われるほどの笑顔をつくった。

「わかるー?」

「その異常なテンションを目前にすれば、サルでもわかるんじゃないですかね」有里が言うと、教室内にくすくす笑いが起こった。僕もちょっと笑ってしまった。

「異常だなんて、私は普段通りよ」

 さっきより一層教室内が騒がしくなる。「えー」「うそつけよー」「キモい」などの言葉が遠慮がちに飛び交う。有里が突破口となって、みんなに発言する勇気が湧いたんだ。

「まあまあ。本当の私はこんなもんよ。たしかに今までこの学校に来てからはちょっとふさぎ込みがちというか、暗い印象があったかもしれないけどね。それは嘘偽りの姿で、これが本当の私。ナチュラルビューティよ」

 いやビューティは関係ない。なんだか母さんと同じ空気を感じるけど、一緒にしたくない、と僕の一部が主張した。

どうやら自分でも意識があったらしい。僕のミズカツ先生の印象は、はじめて職員室で会ったとき最大瞬間風速を記録して、以降テレビゲーム大好きの小学生の視力並みに転げ落ちていった。何度じつは無免許教師じゃないんじゃないかと疑ったかわからない。

 それが最近になって、印象が変わりはじめてきている。すぐに塗り替えられるほど、信用はしてないけど、まったくの邪悪教師ではない、ということは最近わかった。有里の窓ガラス事件のときのスピーチがきっかけだ。

 それにしても、何があったんだろう。去年赴任してきたらしいから、一年近くも何に悩んでいたんだろう。有里の質問から何かヒントが得られるかも、と思い僕は注目した。

「私ね、私生活で最近いいことがあったの。それまではつらくてつらくて、そりゃいくら好きな仕事でもふさぎこむわよ、ってなもんで、みんなに厳しくあたってたかもしれないけど、もう大丈夫よ。今までごめんね。いえ、ごめんなさい」そう言って教壇でみんなに向かい、ミズカツ先生は深々と頭を下げた。

 急に謙虚になられると、正直むずかゆい。みんなもそわそわしている様子だった。真摯な謝罪をどのように消化していいものやら、わからないんだ。

 またむずかゆい一方で、そうもあからさまに私生活が仕事に影響するのもどうかと思う。これまで自分のイライラを僕たちに投げつけてきたというわけだ。それを今ごめんなさいの一言で許してもらおうなんていうのは、少し虫がよすぎるようにも思えるけど。

 有里がまた手をあげた。

「そのいいことをここで発表してくれたら、私を含め、みんな先生を許しましょう」

 ほとんど強迫に近い。有里は何か個人的な恨みでもあるんだろうか。自分の声の大きさにいちゃもんをつけられて、半強制的に号令係にされたことを根に持っているとか。

「それは面白いね」「ちょっと聞きたいかも」「どうせくだらねえことだろ」とみんなも賛成の声を上げはじめる。これではミズカツ先生も断るわけにはいかないだろう。どんな状況でも、多数者が優位に立つのは、この世の法則みたいなもんだ。選挙なんかでも多数決が採用されてるし。

「それはまた刺激的な提案ですね。そんなに私のエピソードが聞きたいの?」

 巧がうしろで「あいつはミズカツを辱めたいだけだろうな」とささやいた。僕もちょっとそう思う。

「聞きたいでーす」みんなが声を揃えて返事をする。これがはじめてじゃないかな、ミズカツ先生の問いかけにみんなが答えたのって。

「仕方ないわね。じゃあ軽く触りだけね」にやにや顔を隠すように、ミズカツ先生は僕らに背を向けて黒板に何か描きはじめた。誰かの似顔絵らしい。白チョークの細い線が深緑色の黒板に踊るように広がっていく。そういえば、どう見ても緑色なのに黒板とはこれいかに、と小学校に入学したとき感じたのを思い出した。なぜ真っ黒じゃダメなんだろう。

 多少気がそれた間に、ミズカツ先生は黒板に似顔絵を描き終えていた。なんだか少女マンガチックだ。無駄な線が少なくて、目が大きく輝きがある。髪の毛が顔を覆うように丸く包んでいるから子供に見える。性別はよくわからない。絵自体は上手いけど、情報を正確に伝える機能は優れていない。いったい誰だろう?

「これは私の旦那様です。そう、このたび私ミズカツ先生こと桂恵美は、結婚することになりました! はい、拍手しろ!」ミズカツ先生はそう言って自分で教卓をばんばんたたきはじめた。突然の衝撃発表の上、手をたたく音があんまりうるさいから、みんなは乗り遅れてしまって、「おめでとうございます」の言葉も呑み込んで旦那さんの絵とミズカツ先生を交互に見比べている。

「みんな拍手してよ! 私を祝福してよ!」必死な声で抗議するミズカツ先生。

「いやめでたいですね」「おめでとうございます」「旦那さんかっこいいですね」「あれ学生じゃないの?」「どこでたぶらかしたんだろう」「ミズカツには男を引きつけるパーツがついてないのにな」「あわれな青年。熊の罠に全裸で飛び込むようなもんだぜ」「あれ私のお兄ちゃんに似てる」「じゃあお前ミズカツと法的に姉妹になるんだぜ」「でもお兄ちゃん今高二だよ」「完全犯罪だな」

 祝福の言葉とけなす言葉が入り乱れてかき混ぜられ、教室内は混沌の渦中にある。僕は窓際うしろから二番目に座っているから、渦に巻き込まれる被害は少なくて済んだ。

「結婚だって」僕は巧へと振り返った。

「そうらしいな」巧の表情がよく読めない。「それにしてもあの絵はひどい」

「どんな旦那さんなのか、あれじゃわからないね」

「さすがに学生じゃないだろうけど。でもミズカツにかどわかされるなんて馬鹿なやつだ」

 かどわかされるってどういう意味だろう。角を湧かされるのかな? でもこれじゃ意味が通らない。

「はーい、みんな落ち着いて」混乱の教室にミズカツ先生の声が響いた。「お祝いの言葉をくれた人、ありがとうね。旦那をけなしたり私の絵画スキルを疑った人、図工の成績どすんと下げちゃうから」

 ミズカツ先生のユーモアは独特だ。もしかしたら本当かもしれないという不安と、まさかね、という楽観がくんずほぐれつで頭の中でじたじたしながら、次第にその滑稽さがあらわになってくる。僕は笑ってしまった。

「とにかく」ミズカツ先生は仕切り直す。「私は結婚します。それが最近あったいいことよ。納得した?」

 僕は納得した。でも有里はどうだろう。

 有里はもう何も発言しなかった。僕の席から見える有里の後頭部は、静寂のオーラを発していて、まるで風林火山の林を体現しているみたいに見えた。

「みんな納得してくれたみたいだし、これで話は終わりね。新しい私と一緒にこれから楽しく学校生活を送っていきましょう!」