目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre

41

 週末は家でのんびりしようと思っていたのに、母さんが我がままを言いだして聞かなかったため、結局外出を余儀なくされた。

 土曜日、僕は九時頃にのそのそとベッドから抜け出し、もたもたと朝の身じたくを終えた。キッチンで母さんの朝ごはんを用意してから牛乳を飲んでいると、母さんが部屋から出てきた。僕は思わず牛乳をぶっと噴き出した。

 なぜか異常にドレスアップしていた。年甲斐もなく真っ白なフリフリのドレスを着こんでいるものだから、玉手箱を開いたお姫様みたいな印象だった。それはいいすぎか。年増というほどでもないけど若くもない女性が気合を入れて着飾っているのは普通じゃないというのが、僕が思う一般的な見解だけど、「今日は結婚式なの」と言われたら普通の衣装に見えなくもない。もし母さんの役どころが花嫁だったら、の話だけど。ただ、今日は誰の結婚式でもないので、その点が不自然だ。

「どうしたの、その格好」

「えへへ、どう? 私もイケてるでしょ?」くるりと一回転してフリルのスカートを持ち上げながら、母さんは自分に酔っている。

「どこか行くの?」

「もう、正宗くん! 女の子が、どう?ってきいたら褒め称えるボキャブラリーのひとつでも身につけておかないとダメよ!」

「じゃあきれいだよ。どこか行くの?」

「じゃあって何よ! きれいで美しくて小六の子供なんか絶対いませんね、くらい言ってくれてもいいでしょ!」

「まず言葉が重複してるし、それじゃ僕が自分で自分の存在を否定してるみたいじゃない。それにボキャブラリーはひとつでいいんじゃないの?」

「もういいわよ! とにかくね、今日私はデートなの」

「それならもう少しシックでおとなしい服装のほうがよくない?」

「いいの! 相手が相手なんだから!」

「ふうん」僕は牛乳を飲みほしてグラスを洗った。テレビの電源を入れてバラエティなのかニュースなのかよくわからない番組にチャンネルを入れる。

 背後で床をどんどんする音が聞こえたので振り返ると、母さんが悲しそうな顔で地団太踏んでいた。「どうしたの?」と僕はきいた。

「なんで誰と行くのかきいてくれないの?」顔は悲しそうなのに足元は乱暴だから、感情が読みとれない。怒っているのかへこんでいるのか。

「いやあまり立ち入った質問もどうかと思って」

「私の人生に正宗くんはどんどん立ち入っていいの! 棲みついていいの! 親子なんだから!」

「わかったよ。誰と行くの?」

「正宗くんよ」

「そうなの? 聞いてなかったけど」

 突然母さんはシンクで蛇口をいっぱいにひねって、ザーっと水を流しながら「あー!」と叫んだ。蛇口の水は音消しかな。どうしたんだろう。気でもふれたんだろうか。

「正宗くん普通すぎ! もっと驚いて意外そうなリアクションが欲しいのに! それで急に言われても困るよ、勝手すぎるよ、あと僕と出かけるんならそんな服やめてよ、とかそういう文句を期待してたのに! 親子の衝突がほしいの!」

 なぜそんなものをほしがるのか理解できなかったけど、「その服は着替えてほしい」は、次の発言に用意していた言葉だった。

「そんな無意味な衝突したらすり減って傷ついちゃうよ。もっと穏やかに仲良くいこうよ。それに服のことなら言及するつもりだったよ。そんな服で朝ごはん食べて汚れたらたいへんだから着替えてって」

「あっそれもそうね。着替えてくる」母さんは自室に戻っていった。

 ともかく今日はゆっくりしていられないみたいだ。テレビでは、レポーターが京都の上賀茂神社でお菓子をおいしそうにほおばってコメントしていた。今度買いにいってみようと僕は思った。


42

 母さんの運転する車は危なっかしい。今まで事故を起こしたことはないけど、いつ事故が起こってもおかしくないほどに不安定な足運びだ。狭い道で対向車とすれ違うときはいつも「ひいっ」とひきつった声を上げるので、助手席に座る身としては、常に人生にやり残しがないように覚悟しながら乗車しなければいけない。

「で、どこに行くの?」僕は比較的母さんが落ち着いている頃合いを見計らって話しかけた。

「楽しいところ」まっすぐ前を向いたまま母さんは言った。服装は無難なものにかわっていた。暗色のカーディガンの下にはクリーム色のワンピースを着ている。家を出るときはパンプスを履いていたけど、今は車内に備えつけのスニーカーに履き替えている。

「天国じゃないといいけど」

「縁起でもないこと言わないで。今まで私が事故起こしたことなんてないでしょ」

「まあ今のところはね」

「今から行くところは楽しいんだから。久しぶりに私と一緒に出かけるんだから、少しはうれしそうにしてもいいでしょ。むかしは正宗くん連れていろんなところに行ったんだから」

「そんなに頻繁に出かけたっけ」

「行ったわよ。買い物にはもちろん連れていったし、ひまさえあれば公園とか河原とか森とかに遊びに行ったのよ。忘れちゃったの?」

「それいつの話?」

「正宗くんが手の平サイズに小さくて、まだ私のおなかにいたとき」

「もし僕が覚えていたら怪奇現象だね」

「だって生まれてからはこわくて車で出かけられなくなったんだもん」

「こわいって何が?」

 赤信号で止まり、母さんは心底安心したかのようにため息をつき、ギアをニュートラルに入れた。

「自動車事故の死亡率って助手席が一番高いっていうじゃない? そんなところに正宗くんを乗せるのがこわかったの。だから極力よほどの用事がないときは出かけるのを控えるようにしてたのよ」

「自分の運転スキルを正しく認識してるってことはいいことだよね」

 青信号にかわり、前の車が進みはじめた。母さんはなぜか急発進した。僕は一瞬肝を冷やしたけど、ここで余計なことを言って慌てさせるとかえって事態が悪化しかねないので黙っていた。

「正宗くんもね、大人になって免許をとればわかるわよ。運転がいかに神経をすり減らす厳しい修業なのかをね」

「そうかな」

「そうよ。私の子なんだから」

 そこは似たくないな、と思ったけど口にはしなかった。


43

 車は南に向かっている。次第にまわりがにぎやかな街並みになってきて、道路の幅が広くなった。でもそのぶん交通量が増加したから、母さんの緊張は維持されたままだ。ここまで南に来たことは市内に移ってからはじめてだったので、まわりの光景が僕には新鮮だった。北のほうに比べたらじつにやかましい印象で、道路にはあちこちにタクシーや市バスが走っていて、道路を挟む建物群には雑多な種類の店舗が立ち並んでいた。畑なんかどこを探しても見当たらない。農業に勤しむおじいさんのかわりに、スーツに身を包んで足早に歩くビジネスマンがたくさんいた。大学の街と言われるのもうなずけるように、大学生くらいの若者の割合が一番多いようで、みんなおしゃれというか、がんばっている印象を受けた。

車は丸太町通りを左に曲がって東に進んでいく。この通りは二車線しかないのに交通量が多い。母さんが時折「ひいぃ」「はひっ」と奇声を上げるので、ドライブ気分も台無しだ。この不安がエンターテイメントの要素を持ち合わせるという手法は、遊園地なんかでジェットコースターに利用されている。うっかりすると死ぬかもしれないゴンドラに乗って高速で走行するんだから、それは多分にこわいだろう。しかしその恐怖を一歩超えた先にある快楽に魅了されて何度も足を運ぶお客が遊園地を支えている。一方僕はジェットコースターよりも死亡する確率が高いのではと思われる自動車に乗せられ、恐怖ととなり合わせ、スピードが出ないので間違っても恐怖を超えて楽しくなったりしない。ひたすら恐怖ばかりだ。おそろしく損な乗り物に乗っていることに気づいて、僕はため息をついた。

鴨川に架かる丸太町橋からの眺めは、広々とした河流が見渡せてきれいだった。上流はあんなに川のあちこちに草が生い茂っているけど、こちらは水面を邪魔する水草も少なかった。川幅もこちらのほうがずっと広い。河川敷もきれいに整備されていてサイクリングやジョギングには最適だ。僕のいるところがいかに田舎なのか思い知らされた。

そのまま母さんの奇声を聞きながら進んでいくと、大きな鳥居のあるところに出た。こんなに大きな鳥居ははじめて見た。鳥居ってたしか神様の通る門だと聞いたことがある。この神社の神様ってこんなに大きいんだな。ところで、

「ここどこ?」

「え? えーと、あれよ」母さんはきょろきょろしながらとろとろ走行。何を探してるんだろう。「平安神宮よ。もう、駐車場どこよ!」

 信号のところにPの文字があったので教えてあげると、「あれね!」と言いながらかなり無茶な車線変更をした。うしろにいたタクシーが不満の声をあげたけど、母さんに悪気を抱いている様子はない。僕はタクシーに申し訳なく思った。


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 地下駐車場から上がってきても、鳥居の巨大さが目立った。僕たちは鳥居の足元に近づいていった。僕と母さんが手をつないでへばりついても半分も届かないほどに太い足だった。真下から見上げると、大きさに加えてその鮮やかな朱色が際立つように思えた。

「すごい大きいね」母さんも感心しているようだった。

「そうだね。倒れたりしないのかな」

「大丈夫よ、こんなに足太いじゃない」

「でもすごく高いよ。どれぐらいあるんだろう」

「私十人分くらいじゃない」

「じゃあビル四階くらいだね」

「よくこんなのつくったわね。むかしの人はすごいわね、道具もろくになかったのに」

「そんなにむかしからあるの?」

「いや知らないけどなんとなく」

「ところで今日はこれを見に来たの?」

「違うわよ。これだけが目的じゃないんだから」

 ということはこれもひとつの目的だったわけだ。たしかにけた外れに大きな鳥居というのは、見ていてどこか滑稽でおかしかったけど。

「さあ、行くわよ!」母さんは張り切って北にある神社の建物へと歩きはじめた。


45

 ここは平安神宮という神社らしい。京都の三大祭である時代祭が行われる場所として知られている。

応天門というこちらも馬鹿でかい門の前で、母さんはいそいそとハンドバッグからカメラを取り出し、人力車を引くお兄さんに写真を撮るよう頼んでいる間、僕は門の大きさにひたすら圧倒されていた。

むかしのものっていうのはどうしてこうも不必要に大きいんだろう。大きさが権力とかそういう力の象徴だったんだろうか。それならピラミッドが王様の墓だという主張もうなずける。宇宙から降ってきたなんて途方もない法螺話よりずっと説得力がある。ということはつまり、人間の都合で大きさが決められていたわけだ。神様はべつにこんな巨大な神殿なり社なりは必要としていなかったかもしれない。神の名を利用して権力を誇示するためにこんなものつくったりして、誰か神の天罰が下るかも、という予想はしなかったんだろうか。真剣に神様を崇拝していたなら、ぱっと思いつきそうなものだと思うけど。

「ほらほら正宗くん、写真撮るよ写真」母さんは僕のとなりにぴったり寄り添って腕を組んだ。並ぶと身長はだいたい同じくらいだ。今気づいた。

 母さんは撮ってもらった写真をチェックしている。映りが悪かったらもう一度なんて厚かましいことを言うつもりだろうか。できればやめてほしい。

 どうやら満足したみたいで、お礼を言って戻ってきた。僕はほっと胸をなでおろす。

「さあ、次はあれよ」指さす先には、竹から水がちょろちょろ流れる手洗い場があった。「神社に来たら手を洗わないと入っちゃいけないのよ」

 いけないことはないだろう、神様がわざわざ手を洗うはずがない、と思いながら、洗って損をするわけでもないので、僕はすでに柄杓を待つ列に並んでいる母さんのあとを追った。

 たしか手洗いには、作法というか順序があったはずだ。むかしどこかで誰かに教えてもらった気がするけど、うんと小さいころだったので思い出せない。

「これって作法があるんだよね?」僕は小声で母さんにたずねた。

「そうよ。ちゃんと守らないといけないのよ」

「僕知らないんだ。母さん先にやってみせてよ」

「ふっふーん、私にものを教わりたいってわけね。よかろう。しかと見届けよ!」

 なぜか急に変な話し方で横柄な態度をとる母さんは、自分の番が回ってきたので、柄杓を握った。ちょろちょろ流れる水を柄杓の先に貯めて、左手を洗う。次に持ち替えて右手を洗い、また水を貯め直す。そして柄杓の水を手の皿で受けて口をゆすぐ。最後に柄杓を立てて柄を洗い終了。母さんはこの一連の動作をさも手慣れているようにやってのけた。

「どう? 私を見なおした? 惚れなおした?」

 惚れなおしてないし、もともと惚れた覚えもないけど、感心したのはたしかだったので、僕は賛辞の言葉を口にしようとした。そのとき、となりで手を洗っていたおばあさんが「ふふ」と声を押し殺して笑った。母さんはそれが聞こえたのか、素早くおばあさんに向き直って「ちょっと、文句あんの?」と言った。ずいぶんケンカ腰だったし、母さんを笑ったかどうかわからないのにそのたずね方はどうかと、僕はまた肝を冷やした。こう連続で冷えてしまうとおなかを壊してしまいそうだ。

 おばあさんはゆっくりと母さんと対峙し、背は低いながらもむんと胸をはった。

「お嬢ちゃん、柄杓の水は汲み足してはならんのよ。一杯でやらにゃあ。知らんかえ?」

「え、ほんと?」きょとんとしながら、おばあさんを見つめる。そして「むう」とうなりながら睨みつけて「嘘よ! だましてるわね、この妖怪!」と叫んだ。

 おばあさんは妖怪呼ばわりされても、怒るともなくひゃっひゃと笑った。

「ぼーいふれんどの前でええかっこしたいのはわかるが、知識は正しく身につけんとな。恥かくだけじゃわい」

「なんですってぇ?」

 飛びかかりそうな勢いだったので、僕は母さんをうしろから羽交締めにして、おばあさんに謝りその場からすたすたと去った。あやうく恥の上塗りをするところだった母さんは、僕の腕の中でじたじた暴れながら「あのババア、鍋で煮こんでトイレに流してやる」などと暴言を次々と吐いていた。

 充分距離をとって、誰もこちらに注目しなくなり、母さんが大人しくなった頃に、僕は腕を解いた。「もう危ないなあ」と僕は母さんを責めた。

「だってあの山姥、人がいっぱいいるところで私のこと侮辱したのよ! それに正宗くんのことボーイフレンドとか言っちゃって!」

「それは母さんが大っぴらに腕組んだり、惚れた?なんて発言をするから」

「そんなの母と息子の愛ある交流の一部じゃない! 世界中で行われてるわよ、きっとそうよ!」

 それはないと思ったが、口にせず、興奮する母さんをなんとかなだめて僕はひとりで手を洗いに戻ることにした。母さんには離れたところで待っててもらった。

「さっきの順番で、水を足さなければいいんだな」

 僕は母さんが見せてくれた通りに手を洗い、水を汲み足さず一連の作業を終えて柄杓を置いた。一仕事やり終えた気分になって、ふうと一息吐いたところで、僕の横でさっきのおばあさんが笑っているのに気づいた。ひゃっひゃと笑うその顔はくしゃくしゃに丸めたわら半紙みたいで、たしかにこんな妖怪が事典に載っていても疑わないだろうと思った。

「あの、何か」僕はおそるおそるたずねた。

「お前さん、さっきの嬢ちゃんの彼氏かえ」

「いえ違います。あれは僕の母です」

「ひえっ!」おばあさんは過剰に驚いてみせた。「親子だったんけ、見えねえなこりゃ」

「さっきは母が失礼をしました。その、暴言を吐いて」

「ええがなええがな、ばばはああやって人をからかうのが好きだけえ」

 ずいぶん根性曲がりなおばあさんだ。お年寄りは長く生きてきたぶん、もっと他者への思いやりに満ちているものだと思っていたけど、必ずしもそうではないらしい。

「そうですか。ところで僕に何か用ですか」

 おばあさんは僕をじっと見つめる。少々居心地が悪い。

「お前さんくらいの孫がおってな、なんとなく似とるもんだから」

「でも僕はあなたの孫じゃありませんよ」

「わかっとるがえ。でもばばにはそんなもん、どっちゃでもええんじゃ」

 つまり本人でなくても孫もどきがそばにいるだけでうれしいということか。孫への愛情は本物のようだった。僕が信じていることのひとつに「愛を信じている人間は必ずしも悪ではない」というのがある。ちなみにこの場合の「愛」とは、広義だ。つまり男女間のみに存在する恋愛だけでなく、友達や家族、弱者などをひっくるめた意味として捉える。誰に教わったわけでもないけど、今まで生きてきた中で自然と僕の心の中で培われて構成された概念だった。

 よって僕にはおばあさんが完全な悪には見えなかった。要するに、印象は好意的にかわったということだ。

「お孫さんと僕と、どこが似てるの?」

「顔は似ても似つかん。孫のほうが盥一杯魅力的じゃわい」似ている点をきいたのにひどくけなされた気がして、さっきの印象をまた改めようかと思案した。「でも雰囲気が似とる。賢そうなところとかがな」

 賢そうとは、いったいどこで評価したんだろう。それよりも僕より盥一杯魅力があって賢い同い年となると思い当たる節があったので、まさかな、と偶然を疑いながらきいてみた。

「ひょっとしてお孫さんの名前って、巧っていうの?」

「いんや違う」

 それはそうだ。世間は広いんだから、うっかり巧のおばあさんにけなされることがあるはずがない。

 それでも少し肩すかしをくらって僕がぼーっとしていると、襟首を激しく引っ張られて僕は尻もちをついた。振り向いて見上げると、母さんが仁王立ちして僕に敵意の視線を落としていた。

「さっさと立って。行くわよ」

 自分でこかしておいてそれもないだろう、と思ったけど、僕はゆっくりと立ち上がりおばあさんに挨拶して、すでに応天門をくぐろうとしていた母さんのあとを追った。うしろでおばあさんが「ばばの孫は――」と言っていたけど、聞き取れなかった。