目次
ユークリッド-Eukleides-
1
2
3
4
5
ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
6
7
8
9
10
ピタゴラス-Pythagoras-
11
12
13
14
15
ルネ・デカルト-René Descartes-
16
17
18
19
20
アルキメデス-Archimedes-
21
22
23
24
25
レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
26
27
28
29
30
ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
31
32
33
34
35
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
36
37
38
39
40
アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
41
42
43
44
45
ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
46
47
48
49
50
ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
51
52
53
54
55
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
56
57
58
59
60
ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
61
62
63
64
65
ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
66
67
68
69
70
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
71
72
73
74
75
ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
76
77
78
アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
79
80
81
82
83
84
85
86
ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
87
88
89
90
オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
91
92
93
ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
94
95
96
レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
97
98
99
100
101
102
103
最終定理-the Last Theorem-
104
105
106
107
108
109
110
奥付
奥付

閉じる


ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-

6

 最初の登校日から数日が経過して、以前僕は転校生のままだ。つまり、クラスの一員になれていない。まわりはすでにそれぞれにグループを形成してその仲間内で楽しそうに学校生活を送っている。僕のところに何人か話しかけにきてくれた子もいたけど、大抵みんなどこかよそよそしい。あとでわかったんだけど、何かの罰ゲームで僕に話しかけさせられていたらしい。よくあるあれだ、気持ち悪いやつに話しかける罰ゲーム。僕は今、その気持ち悪いやつみたいだ。

 じつは、僕はべつに傷ついていない。本当だ。だって明らかに変なやつにしか映らないんだから、あの自己紹介。みんなが罰ゲームとかいう行動をとるのも納得だ。でも、あれが本当の僕だ。もう自分は偽らないことにしたから。

 僕のクラスは全部で三十八人だ(もちろん僕を数えて)。僕は名簿で半分よりちょっと前くらい。「き」だからそんなところが普通だと思う。教室は人数のわりにはちょっと狭い。それに全体的にぼろぼろだ。黒板のまわりの木の囲いはいっぱい欠けて傷だらけだし、うしろの壁一面のクリップボードにはまだクラスの思い出も何もないのにわけのわからない紙とか新聞が貼り付けられている。明らかに以前のクラスの残りかすだ。三月の最後に掃除しなかったんだろうか。カーテンにはしみがいっぱいだし、窓ガラスだけはきれいだけど、窓枠は掃除されていないのがまるわかりだ。

 ひどいのは机だ。毎年冬に母さんの実家から送られてくるみかん箱のほうが清潔で机として優れている気がする。足がところどころ曲がっていてがたがたするし、彫刻刀で彫ったのか、知らない人の名前がずいぶん攻撃的な書体で書かれていたりする。こういうことするのは外見上悪ぶっている子とはかぎらない。じつは見えないところで小さないたずらをいくつも重ねている子なんてたくさんいる。僕はそういう子のほうが嫌いだ。もう彼らにはまったく正義が感じられない。大人が手を焼いているのはもしかしたらこっちの子供のほうかもしれない。

 僕の席は廊下と反対の窓際最後尾のひとつ前だ。あまりいい席とは言えない。黒板が遠くて見にくいし、下を向いているだけでマンガを読んでいると思われて先生が意味もなく威嚇するような視線を向けてくるし。僕は授業中にマンガなんか読まない。そこまで授業時間を持て余していない。そうでもない子がたくさんいるけど、僕は違う。

 この席のいいところもある。ふたつあって、ひとつは窓から見下ろす光景が悪くないことだ。三階から見下ろすと、中庭が一望できる。そこは「レインボーロード」って名前がついていて、カラフルなコンクリートブロックが敷き詰められている。たぶんみんな最初にこの中庭の名前を聞いたときには疑問に思っただろう。だって七色もコンクリートがないんだから。たぶんセンスのない先生が名づけ親なんだろうけど、誰がどう見ても虹の印象のかけらもない。その辺の舗装された歩道とかわらない。だから誰も中庭をレインボーロードって呼ばないらしい。みんな「中庭」って呼ぶそうだ。でも僕はレインボーじゃないのにレインボーロードと呼ぼうとする遊び心に打たれたから、あえてレインボーロードと呼ぶことにした。

 いいところのもうひとつは中庭のことを教えてくれた子が僕のうしろに座っていることだ。この子だけ僕に対して普通に接してくれる。それというのも、転校初日にこの子は学校に来てなかったからだ。新学期早々体調を崩して、家で休養していたらしい。まあ家以外のどこで休むんだって思うけど、僕はこの子が話したとおりに言っているだけだ。そう、この子どこかかわっている。話し方がどうにも説明くさいというか、一から十まで話さないと気がすまないみたいだ。そのためか話が長くて、僕はもう少し要点を絞って話したらどうかなって思うから、僕がアドバイスしようとすると彼はこう言った。

「あ、お前話が長いと思ったろ。俺もわかってるよ。じき慣れるさ」

 僕はこの子とならいい友達になれるかもしれないと少しだけ思った。


7

 うしろの子とはじめて会ったときはこんな感じだった。

朝、僕は自分の席に座って窓から中庭をぼんやり眺めていた。今日もうしろの子は休みなのかな、と思って机に目をやると、カバンが横にかけられていた。六年生はランドセルを使わない。いや、使ってもいいんだけど、それはたぶん大人になるにつれて使用する財布のかたちがどんどんかわっていくのと同じだと思う。カバンがあるってことは、うしろの子は学校に来ていることになる。カバンの特徴から推察するに男の子だろう。女の子のカバンにしては味気ないというか、質素すぎると思う。まるで百円ショップに売ってあるようなカバンだ。僕は中庭に視線を戻してまたぼんやり眺めることにした。しばらくすると、チャイムが鳴った。八時半になったから朝礼の時間だ。教室内はがたがたと自分の席につく子でいっぱいになった。もう先生が来るのに、うしろの子はまだ席についていない。というか教室にもいなさそうだ。いったいどこにいるんだろう。

 とうとう先生が教室に入ってきた。教室で空いている席は僕のうしろだけだ。ほかの席には前を向いてきっちり姿勢を正した生徒しかいない。僕もみんなを見習って、背筋を伸ばして両手を軽くにぎって膝の上に置いた。先生が教壇に立ってクラスを睥睨した。その視線はおぼろげというか、やる気がないというか、たくさん穴が空いているような視線だった。言いかえると、普通の先生が生徒に向ける視線ほど正しくない感じだ。僕は相変わらずこの先生のキャラクターをつかめずにいた。

 先生はひとりの生徒に目を向けた。女の子だ。たぶんこの子が号令係なんだろうと僕は予想した。

「起立!」思ったとおり、女の子は号令をかけた。登校初日に聞いたのと同じアニメ声だ。扉一枚挟むより、障害物なしで聞くほうが生の声に感じられて、なんだかおかしかった。アニメ声っていうのに生声なんてすごく矛盾している気がする。こういう矛盾って、すごく好きだ。問題を抱えているんだけど、それがどうでもいいことでほとんど気にならないレベルなのに、それがあるおかげで全体にアクセントがついて特別なものになるっていうか。こういう発見があった日は、もう僕はそれだけで満足してしまう。

みんなががたがたと立ち上がる。僕も腰を上げた。見渡すと、けっこうみんな身長が高い。僕もそんなに低いほうではないんだけど、このクラスで背の順に並んだら、僕は前のほうになりそうだ。

「礼!」女の子が続く号令をかけた。みんながぺこりと先生のほうに頭を下げた。僕も下げた。やっぱり「おはようございます!!」はない。本当にかわっていると思う。傍目から見たらちょっと怖いかもしれない。小学生らしくないところが見る人に恐怖感を与えるように思える。むかしの戦時中の雰囲気と似ているかもしれない。僕の想像だけど。

 みんなが顔を上げるのとほぼ同時に女の子が「着席」と言った。がたがたといすが音を立てる。僕も席につく。先生が口を開いた。

「おはようございます、みなさん。今日は――」

 ガダタタ。

教室の後ろのドアがゆっくり、でも音を立てて開いたものだから、教室内のみんな、先生も含めてそちらを向いた。

「どうもー」

男の子が入ってきた。入場の挨拶として、「どうもー」っていうのは間違っていないけど、適切でもないと思う。なんだか上座から出てくる安い漫才師みたいだ。

 男の子は手に何か持っていた。社会の教科書よりも大きくて、マンガ週刊誌よりも小さな本だ。けっこう分厚い。開いているページに視線を落としたまま、教室に入っても一向に顔をあげようとしない態度に、僕はちょっと笑った。

 男の子はクラス全員の視線が自分に注目していることを気にかける様子もなく、まっすぐに僕のうしろの席に歩いてきて腰を下ろした。開いていたページにしおりを挟んで、机の上に置くと、すっと顔を上げて僕の顔を見据えた。ちょうど僕もうしろを振り返っていたから、まともに目が合った。

 近くで見ると、彼の顔立ちは整っていて小学生らしさが感じられなかった。目元がすっきりしていて鼻の線はすらりときれいだ。あごのラインはシャープだし、整った口まわりにはひげの剃りあとみたいな黒い点々が確認できた。髪も小学生のやわらかいふわふわしたそれではなく、がっちりと主張するナチュラルスタイルだ。ブレザーを着てワイシャツにネクタイを締めたら中学三年生くらいに見えなくもないんじゃないかな。それくらいあかぬけた容姿を持った子だった。

 じっと見つめる僕に彼は怪訝な顔をした。見たことない子が自分をじろじろ見つめていたら、そうなるだろう。自分が転校生であることを伝えようと思い口を開こうとした時、教壇のほうからバン!と大きな音がしたからびっくりした。僕はあわてて前を見た。

どうやら先生が持っていた出席簿のファイルで黒板を叩いたようだ。ずいぶん大きな音がするんだな、ファイルが折れたりしないのかな、と考えを巡らせていたが、先生の顔はちょっとひきつっていてまっすぐに僕のうしろの席を睨んでいた。どうやら怒っているみたいだ。それはそうだろう。うしろの子の態度は、時間を守るとか集団行動の大切さを馬鹿にしたようなものなのだから。

「巧、遅いんだよ」先生は下の名前で入ってきた子を呼んだ。「たくみ」なんて名字はないだろうし。

 巧と呼ばれた子が立ち上がった。「すみません。本を読んでいたら遅れました」ごめんなさいではなく、すみませんときた。やっぱり小学生らしくない。まあでも六年生だし、そういう子もたしかにいる。

「それは言い訳ね。だいたい遅れてきたのに、そのどうもーってのはなんなの? きちんと謝るべきだと思わない?」先生はさらに追及した。じつにねちっこい先生だ、と僕は思った。

 彼は先生の言葉を受け、表情を崩すでもなくじっと先生を見つめていた。その目には言外に何かを訴えているように見える。よく僕らがとる大人に対する対抗手段だ。大人は僕らの視線の意味を読みとれたためしがない。

 さあ、先生は彼の視線を読みとれたかな? 僕は先生の表情をチェックしてみた。

 おお。

僕は思わず、ちょっとのけぞった。

 先生の目がすごくこわかったからだ。

 先生の目は僕らみたいに何かを訴えているわけじゃなかった。なんとなく威嚇と軽蔑と憎悪の平均をとった感じだ。とにかく先生が生徒に向ける視線じゃない。あれは猟奇殺人者の目だ。実際に猟奇殺人者の目を見たことはないから想像だけど。

 僕は彼を気の毒に思った。こんな目を向けられたら普通の子は縮みあがってしまう。僕ならすぐに教科書で顔を隠すだろう。そのまま立ち上がって教室を飛び出して職員室に駆け込んで「先生から暴力を受けました」って大声で叫ぶんだ。もちろん冗談だけど。

 僕は振り向いて彼の顔を見た。表情を変えないまま先生を見ている。ちょっとだけ新しい感情が加えられていた。たぶん憐れみだろう。つまり睨みあっている両方がお互いに相手に非を求めている。たしかに傍からみても両方に非があると思う。でも先生はそんなこわい目をしなければ、きちんと叱ることができたと思うんだけど、なぜ自分が悪く見られるような態度をとるんだろう。変な先生だ。

 しばらく睨みあいが続いて、先生のほうから目をそらした。あきらめたのかな。

 彼は表情を変えずにすとんと腰を下ろした。僕が見つめているのに気づいて、にやりとした。ちょっとコミュニケーションがとれた気がした。

 僕は前に向きなおって先生の様子を観察した。意味ありげに出席簿を机でとんとんと叩く。でも意味はないだろう。

「じゃあ、朝の会をはじめます」先生の声はとても冷たかった。


8

「ミズカツは教員の中でも飛びきり変わりものなんだぜ」巧はパックの牛乳をすすりながら言った。「生徒やほかの教員の間でも有名だ」

「そうなの?」僕は自分の牛乳は給食の時間に全部飲み終わっていた。「なんとなくわかるけど」

「だろ? 最初からそうだった。俺は五年のときからあいつのクラスでさ、はじめはずいぶん戸惑ったぜ。どうにもあのキャラクターがつかめなくてな。俺も我が強いほうだから、衝突することもしょっちゅうでな、そのたびにあの目をしやがるんだ」

 僕は先生の目を思い出してみた。想像するだけで身体が震えあがるような気がした。なんであんな目ができるんだろう。なんで先生が務まるんだろう。

「あの目はこわいよね。僕もびっくりして思わずのけぞっちゃった」

「ああ、威圧感があるよな」巧は同意した。

「ところでさ」僕は気になったことをたずねてみた。「どうしてミズカツっていうの?」

巧はパックを置いて、一息ついてから話し始めた。

「あいつは去年赴任してきたやつでな、新しい教員ってのは始業式に全校生徒の前で挨拶するだろ? そのときに自分で言いやがったんだよ、自分をミズカツって呼ぶようにな。名字が桂だからミズカツ。あと生徒を下の名前で呼ぶんだ、それも初日から。距離感ってもんがわかんねえやつなんだよ」そう言っておおげさに両手を広げた。アメリカンなリアクションだ。「自分が生徒からどう見えてるのか気づいてねえんだな、あれは」

「先生のこと嫌いなの?」

「いや」意外な返答だった。

「まあ変わってるし、教員としての生徒への接し方は最低の部類だと思うけど、あいつは俺が知ってる中で最高クラスの頭のよさを持った大人だ」巧は背もたれに体重を預けて天井を見上げなら言った。これはほめてるのかな。

「俺はな、頭のいいやつしか認めないんだ。大人も子供もな」言いながら僕にちらっと目を向ける。「同級生なんか馬鹿ばっかりだし、大人でも充分なやつは少ないな。まあそれだけ俺が設けたハードルが高いんだけど」

「どうして頭のいい人しか認めないの?」

「ネガティブな理由とポジティブな理由がある」言いながら牛乳パックを両手でくしゃっと押しつぶした。一滴も牛乳は飛びださなかった。

「へえ、きいてもいい?」

「まずネガティブなのはな、馬鹿と一緒にいると疲れるからだ。これはちょっと頭の切れるやつなら誰でも一度は思うんじゃないか?」もたれながら言う巧の表情は「人を馬鹿にする人」というタイトルで写真展に出したら審査員特別賞がもらえそうなほどリアルで様になっていた。

「もうひとつは?」

「ポジティブなのはな、頭のいいやつと一緒にいると学ぶことが多いからだ。つまり俺にいい影響を与えてくれるから、そばに置いておけるということだな」

 僕は巧の言葉を受けて頭を働かせた。巧の主張を整理するとつまり、人間は「頭のいい人」が上位種で、それよりもわずかに下だともう「馬鹿」というくくりに入れられてしまうわけだ。この場合、なんのパラメータをもって上下を決定しているのかわからないけど、たぶん普段の言動や思想なんかだと思う。また「頭のいい人」の逆に「馬鹿」という言葉を使っているけど、それが正しいかはわからない。「頭の悪い人」ではいけない理由があるんだろうか。あるいは「馬鹿」という言葉の響きに即した逆の言葉はないのかな。そういえば「馬鹿」の逆ってなんだろう。「天才」は違う気がする。感覚的にそう思うだけだけど、どうにも種類が全然べつものっていうか、「天才」が上回りすぎてる感じだ。

 それにもうひとつわかることは、巧が自分をどの立ち位置に定めているかだ。聞く分には、どうも自分を最上位にもってきているみたいだ。実際に彼の話し方や雰囲気から判断するに、僕は巧が六年生にしてはかなり頭のいい子だと思える。ただ大人の頭脳を上回るほどに優秀かどうかは今のところ判断がつかない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。僕はもっと巧について知り、彼がどれほどのスペックを持つ子なのか見極めたいと思った。

 表面上は「ふうん」と生返事をしながらぼんやり見つめる僕の考えを先読みしたかのように巧が言った。「お前、俺に興味があるみたいだな。やるじゃねえか」

僕は彼の言葉にびっくりして、思わず短いしゃっくりみたいな声を上げてしまった。お前の反応わかってたぜ、とでも言いたげで満足そうな表情だ。

「正宗っていったな。しばらく俺とつるもうぜ」


9

 巧のおかげで、僕は少しだけ学校での生活に希望を持てるようになった。べつにもともと希望を感じていなかったわけじゃないし、絶望の底に落ちこんでいたわけでもない。ただ、巧は僕の希望をより明確なかたちで表す手助けをしてくれた。話し相手になってくれたし、学校のことやこの土地のこともいろいろ教えてくれた。あんな小学生見たことない。まるで大人みたいだ。僕が知っていた頭のいい人って絶対大人だったんだけど、巧は僕の人生ではじめて出会った頭のいい子供だ。

 巧と話すようになってから、クラス内での僕の評価は確実に向上していった。もう罰ゲームの対象にされることもなくなったし、転校生という属性を脱ぎ捨てることにも成功した。

巧はクラスで信頼が厚いみたいだ。いや人気がある、あるいはカリスマっていうのかな。彼のいう頭のいい子はいないみたいだけど、みんなへの接し方がとても上手で丁寧で、クラスは彼をリーダー格に見ている。憧れている子も多いみたいで、傍から見ていてもわかるくらい、女の子から注目を集めている。なんたって容姿がいい。六年生っていう女性のたまごみたいな年頃の女の子が放っておくわけないだろう。

でも巧はそういう目で見られることを全然気にかけてないみたいだ。もうまったく無関心って感じだ。頼られたりしたら応えるみたいだけど、自分から進んで人の上に立つってことをしない。興味を示さない。どうしてなのか、わからなくもない。自分よりも同格かそれ以上でないとまともに相手をしない。自分より下は無価値と考えているから、自分が立っているのが一番下、地に足をつけている状態で、自分より下の人間は地中に埋まっているわけだ。たしかに、わざわざ掘り出す作業なんて無意味だろう。過去の遺物の発掘がじつは無意味だというのと同じだ。

巧と一緒にいると、自然と女の子の視線が集まってくる。結果、彼女たちの視界にはいやでも僕が入る。ちょっといい気分だ。少なくともいやな気はしない。僕はそういった方面の経験はまったくない。初恋ってのもまだだ。まわりはそのほかにもいろいろ済ませた子も多かったけど、僕はその方面では話にあまり入れなかった。六年生ってもうそこまで進んでいるんだって大人は知らないだろう。

クラスの女の子のほとんどが巧に視線をよこす中、ひとりまったく気にかけない態度をとり続ける女の子がいる。「私あなたなんかに興味ないわよ」というより、「みんな熱心ねえやれやれ」という心情のまま傍観している感じだ。これが毎朝号令をかける女の子だと認識できるまでしばらくかかった。僕は彼女のことが気になったから巧にきいてみた。

「ああ、有里か」巧が女の子を下の名前で呼んだことに、僕は少なからず衝撃を受けた。「お前有里が好きなのか?」

「いや違うけど。名前も知らなかったし。有里さんっていうんだ」女の子の下の名前を口にするだけでどきっとする。なんか情けないなあ。「朝の号令係やってるよね」

「ああ、ミズカツの命令でな、いやいややらされてんだ。なんでもあいつの声が小さくて聞こえないから毎日号令をかけて大きな声が出せるように練習しろってことらしいんだが」

「今のところ効果ないみたいだね」僕は正直に言った。

「あれでも五年のはじめからやってんだぜ。でも最初と何も変わっちゃいないな」巧はなぜか優しい表情をつくった。「あいつは結構頑固なところがあるからな、自分の気に入らない教員の期待に応えるなんてことしたくないんだろうな」

「巧は有里さんのことむかしから知ってるの?」

「小学校からだけどな、六年間クラスが一緒なんだ。珍しいこともあるもんだよな。顔を合わせる機会が多いと、いやでも距離が縮まるんだよ」

 へえ、巧にも時間をかけることで友達になれる子がいるのか。てっきりすべての人間関係を頭のよさに依拠した選別方法で築いているものだと思っていたけど。

「まあそういうやつもいるよ、俺にもな」巧は頭を掻きながらふふっと笑った。照れているように見えるけど。「それにあいつにはじめて会ったとき、俺六歳だぜ。さすがに今の考えを当時から持ってたりしねえよ。そんな六歳、気持ち悪いだろ」

「たしかに。そんな一年生いやだね」想像するだに気持ち悪い。絶対に同級生の友達なんかできないだろう。

「そういうわけでさ、あいつは俺の古い友達なんだ。だからほかの女子と態度が違って見えるんだろうな。一緒に成長してきて俺もあいつも変わってきた。俺はこんなだし、あいつはあいつなりによちよちしたうるさい幼児から目立たないけど優秀な女子になった。そうだぜ、あいつも頭がいい。俺が認めるほどにな」

 僕の見た感じ頭がいいとは思えなかったから、巧の言葉に驚いた。まあ話したことないから彼女がどういう考えをもっているとか、どんな態度をとるとか、どんな話し方をするとか知らないけど、外からの印象では目立たないおとなしい女の子にしか見えない。それもとびっきりの。もう本当に目立たないものだから、ステルス装置でも備わっているんじゃないかと思うほどだ。

「ふたりとも頭がいいのは偶然なのかな」僕はふと思ったことを口にした。明と暗みたいに一見まったく印象の異なるふたりだけど、どこか似通った人間性みたいなものを持っている気がする。「なんとなく似てるよね」

「お前なかなかの慧眼だな」巧は僕の肩をぽんぽん叩いた。ケイガンってなんだろう。

「ありがとう。ほめてるの?」

「ああ、やっぱり俺の直感は正しいな。お前は頭がいいよ」

 巧の言葉が素直にうれしかった。じつは今まで自分からは言わなかったけど、僕は自分がまわりと比較すると頭がいいと思っていた。こんなこと口にすると間接的にまわりは馬鹿だと言っているようにとられるから――ああ、馬鹿って言葉はたしかに頭がいいことの逆として使うみたいだね。自然に思いついたからたぶん正しいだろう。

「俺たちは二年生の頃からある学習塾に通っていてな。今も続けてるんだけど、そこでの学習が今の俺たちのベースを築いたんだと分析してる。『レオンハルト』って塾だ」

 僕はもちろん聞いたことがなかった。全国展開している学習塾でなくて、個人経営の小さなものらしい。数学好きな元小学校教師が独立して趣味ではじめた塾らしく、教えている教科は算数のみ、生徒は小学生しかとらないそうだ。

「塾名の『レオンハルト』ってのは、むかしのお偉い数学者レオンハルト・オイラーからとったそうだ。オイラーなんて小学生が知ってるわけないよな。普通のやつはオイラーとオイラって一人称をかけて茶化すだろうけど、その塾に来てるやつはそういった馬鹿な考えとは程遠いのばっかりだ」

 僕はオイラーとオイラをかけることにどんな面白さがあるのか疑問に思ったけど、小学生なら言いそうだ。特に低学年なんかが。

「有里とうちの親はむかしからの知り合いらしくてさ、なんでもうちの母親の初恋の人が有里の父親なんだと。この話を小さい頃からうんざりするほど聞かされたよ。延々と有里の父親の魅力について語るんだぜ。でも俺の見立てじゃ、父親はいうほどでもないな」

 僕は彼女のお父さんを見たことないけど、巧からしたら大抵の男は今ひとつに映るんじゃないかと思う。だって毎日鏡に向かいあう機会があるわけだから、それはもう普通の男なんてかすんで見えるに違いない。自分のレベルを正しく認識しているならだけど。

「そういうわけで、有里と俺は家族ぐるみのつき合いなんだ。うちの母親が見つけてきた塾に有里を誘うのも自然な流れだな。で、ふたり一緒に入塾したわけだ」

「試験はあったの?」

「なかった。面接はあったけどな。これがまたけったいな面接でさ、親は同伴で受けられないんだぜ。普通、二年生っていったらまだ何ひとつ自分でできない年齢だろ。でもそこではあえて子供だけで受け答えやらせるんだ。塾長と一対一で向き合ってさ」

 珍しい塾もあったものだ、と僕は思った。

「どんな質問をされたの?」

「それがな、延々と計算式の答えを言い続けるって変なもんでさ。質問っていうより問題だな。五たす八は?とか六たす四は?とかを十五分間も。あれはうっとおしかった」

 なんのテストだろう。僕は塾長の質問の意味を考えてみたけど、明確な意図があるとは思えない。なんだかいやがらせみたいだ。

「塾長は何を見てたんだろう?」巧なら気づいたかもしれないと思ったけど、彼は首を振った。

「さあな。有里も同じ形態の面接だったって言ってたけど、意味わかんないとさ。でもふたりとも受かったんだ。面接終了時間になった途端に、じゃあ次回からおいでってさ。何を見てたのかわからないけど、ふたりに共通したことは、十五分間一度も間違えずに答え続けたってことだから、そこから推察するに、計算能力を見てたんじゃないかと俺は思う」

 僕もそれくらいしか思い当たらない。でももしそうだとしたら、なんか幼稚な面接だと思う。意義が薄いっていうか、意図が薄弱っていうか。いずれにしても面接方法としては低級な気がした。

 でも巧はその塾のおかげで今の自分を体得できたと言っている。だから塾のコンテンツはそれなりに有意義なものなんだろう。先生が優秀なのかプログラムが優秀なのか、もしくは両方だ。

「でも受かってよかったね。その塾のおかげで賢くなれたんでしょ?」

「いや、今思うと塾って入れ物自体はきっかけにすぎなかったんだと思う。もともと俺自身がそういう優れた人間だったんだ。良質な環境で育ったから今の俺があるわけで、塾での教えが俺を根本から変えたのとは少し違うな」巧はなんでもないように言ってのけた。

 普通の子がこんなことを言えば、調子に乗っているとか勘違い野郎だとかいう烙印が押されるだろうけど、彼にはそれを言うだけの素質があるだろう。またその分析もあながち間違いであるように聞こえなかった。僕はその塾に興味を持った。『レオンハルト』か。帰ったら調べてみよう。


10

 その日のうちに、家のパソコンで『レオンハルト』について調べてみた。検索サイトで「レオンハルト 塾」と入力してみると、数千のヒットがあり、そのトップに『レオンハルト』のホームページがあった。僕はクリックしてジャンプした。トップページはじつにシンプルなデザインで、一番上に「算数塾レオンハルト」の文字があり、下のほうには授業の狙いと入塾案内、それに塾長挨拶とサイトマップがあるだけだった。あまりコンピュータに詳しい人がつくったサイトに見えず、ネット上で拾った知識を使ってつぎはぎのようにつくり上げたものという印象を受けた。とりあえず、僕は授業の狙いを見てみることにした。そこには一行だけの短い文章があるだけで、ほかに主張しているものは何もなかった。

「算数を用いてお子様に本当の知性を授けます」

 僕は『本当の知性』という言葉にひっかかった。どういう意味だろう? じゃあ偽物の知性なんてあるんだろうか。

「正宗くん何見てるの」母さんがうしろからパソコンのディスプレイを覗きこんできた。僕の家は四階建てのマンションの三階に位置する2LDKだ。パソコンはリビングに置かれている。

「今日ね、巧とここについて話してたんだ。通ってる算数の塾」僕はトップに戻り、塾名が見えるようにスクロールした。

「ふうん、たーくん塾に行ってるんだ」母さんは巧のことをたーくんと呼ぶ。最初に巧のことを話したときに、即座に命名された。「賢いのに塾なんて行く必要あるのかなあ」

 このあたりが母さんの独自性というか変わっているところだ。塾に通っているから賢い、という考え方が普通で一般的だと思うんだけど、母さんはまるで巧がもとから賢い上に、さらに塾に通っているという見方をする。この場合、それで正解なのだから勘が鋭いというか頭がいいというか。

「なんかね、ここに通ってから自分の才能に気づいたみたいなことを言ってたよ」僕は母さんの見解が適切であることをそれとなく伝えた。

「へえ、たいした塾なんだね。ええ、なになに塾の狙い?」母さんは僕のうしろに立ってマウスを操作する。やっぱり最初に塾の狙いをチェックした。「どういう意味だろうね、この『本当の知性』って」

「うん、僕もそれが気になったんだ。嘘の知性なんかあるのかなあって」

 母さんはうーん、と腕をくんで考え込む様子をつくる。普通はこういった動作をするとき、人は考えずに目で観察できるものから答えを導き出す習性があるように僕は思う。人はうーん、と考えこんでから「あ、これってそういう意味じゃない?」みたいに見つけたものと考えていたことを結びつけることが多い。考えるんじゃなくて何かヒントを探している感じ。そのほうが次のステップに進みやすいという経験的成長から来る行動結果だと思う。だから、頭の中だけで考える人は、よほど賢くないと、次のステップに進む手がかりを見つけられない。

「ちょっと入塾の案内見てみようよ」いつの間にか母さんも乗り気になっている。いつもそうなんだけど、僕がパソコンで遊んでいたり調べていたりすると、うしろから近づいてきて一緒に遊んだり調べたりする。

 見てみようと言いながらマウスを動かすのは自分でやるから、僕はいすに座ってディスプレイを見ているだけだ。一緒にやり始めると、すぐに自分が主体的になって行動するところは僕も見習わなければいけない。僕はすぐ相手に権利を譲ってしまう傾向にある。それくらいの自己分析ならできる。

 ディスプレイには入塾の案内が表示された。記載されている情報はどれもありきたりなもので、学年ごとのカリキュラムや月ごとの授業料などである。一番下に入塾に際し「個人面接あり」と書いてある。一見特に変わった点は見受けられない。

「塾の狙いの謎を解き明かす鍵はないみたいだね」母さんはマウスを手放して言った。

「うん。ほかに見るところもなさそうだし」僕はマウスを操作してインターネットのウインドウを閉じた。「明日巧に聞いてみるよ」

「そうね」母さんはキッチンに戻っていった。

 僕は立ち上がり母さんのあとに続く。冷蔵庫から牛乳のパックを取り出してグラスに注ぐ。飲みながら僕は考える。

 本当の知性ってなんだろう?

 そこが一番気になる。それも算数を使って子供に教えるなんて。全然想像がつかない。

 でも算数という教科が知性を育てるってことには納得だ。小学校の教科の中でもっとも説得力のある教科だと僕は分析している。苦手な子が多いらしいけど、なぜだか僕にはわからない。一番とっつきやすいと思うんだけど。母さんが言ってたけど、算数、もっと高度になると数学と名前を変えるこの教科ができない人を文系と呼ぶらしい。できる人は理系だ。これには僕は納得がいかない。文系という言葉にまず意義を見出せない。算数ができないからって国語(もし算数の逆が国語だったらと仮定するなら)が得意とはかぎらないはずだ。算数ができないスポーツ選手は文系なのかな? 音楽家は? 芸術家はどうだろう? また、理系という言葉も不可解だ。数を得意とするのに理という文字を採用している点が飲み込めない。これでは理科が得意ということにならないのかな?

 算数で教わることはどれも僕を高い位置へ導いてくれる気がする。僕が一番気合いを入れてがんばる教科だ。先生が授業で言うことを頭の中でくり返して、新たな知識を頭に刻み込む。蓄積した知識をつなぎ合わせて新しいことがわからないか考える。もし思いついたら、それを教科書で調べてみると、大抵次に習うところにつながっている。こうして次々自分で新しいところまで進んでいく。自分で考えながら進んでいける教科って算数だけだ。どうしてみんな好きにならないんだろう。

 レオンハルトではどんな算数を教えているんだろう。塾なんだから学校の授業よりも範囲は進んでいると思うけど、どこまで先を行っているのかな。六年生の内容なんかとっくに終わっていて、中学生からはじまる数学に入っているかも。なんだか興味がわいてきた。

 空になったグラスをシンクで洗い、かごに戻す。うちではシンクに洗いものを放置することが禁じられている。一度面倒だから放っておいたことがあったんだけど、母さんがそれを見つけて今までにない怒り方を見せたことがある。何もそこまで怒らなくてもっていうくらい怒っていた。まるで子供みたいに。

「正宗くん、どうして洗わないの? ねえどうしてどうしてどうして?」

 半泣きでそう叫び続けるものだから僕はちょっとびっくりしたし、何がそこまで悲しいのか傷つくのか全然わからなかった。自分がそんなに悪いことをしていると自覚ができなかったし、たいしたことだと思わなかった。でも母さんには大問題だったみたいで、落ち着いてからどうしてそんなに怒ったのかきいてみた。

「正宗くんが不良になっちゃったのかと思って。いつもはきちんと洗うのに、反抗的に置いてあるんだもん」母さんは拗ねたように口をすぼめながら言った。こういうときの母さんはひどく幼く見える。見えるだけでなく実際に精神年齢が小学生まで退化しているのかもしれない。言わないけど。

「ごめん。べつに不良になったわけじゃないよ。なんとなく、その、ごめん」

「ああ、正宗くん!」そう言って母さんはかがんで僕を抱きしめた。僕はこのとき三年生だった。

 そんなことを思い出しながら僕は母さんの教育法に今更ながら疑問を抱いた。ルールを破った子供に対して叱るんじゃなくて、自分が子供に変身して駄々をこね、僕が自分でしっかり者になるよう促す戦略だと気づいたのは最近だ。なんとなく捨て身の戦法みたいな。もし僕が母さんの幼さに嫌気をさしていたらどうするつもりだったんだろうと思う。たまたまいいほうに転がったからいいものを、責任感に欠けるんじゃないかな。親の威厳をもう少し大切にしてほしい。

「正宗くん、ぼーってしてるよ。君のまわりでぼーぼーいってるよ」

母さんがテーブルに夕食を並べながら言った。今日のメニューは明太子のスパゲティみたいだ。ちなみに昨日は明太子のチャーハンだった。母さんは病的ともいえる明太子好きだ。

「それ意味がわからないよ」

僕は母さんと自分のぶんのグラスをテーブルに置き、牛乳のパックを冷蔵庫から取り出した。僕の家には水道水を除くと牛乳しか飲み物がない。

「私には君のまわりの擬音が視覚化して見えるんだよ」

「じゃあ僕のまわりにぼーって言葉が浮かんで見えたの?」

「そうだよ。今は見えないけど」

「母さんの想像力には平伏する思いだよ」

「ヘーフク? 小学生らしくないなあ。本当に?とか、いかにも信じてみます、みたいなリアクションが欲しいのに」

「その言葉で嘘ってことが今わかったよ」

「あ、今のは誘導尋問です」

「違うと思うけど。でもぼーってしてたのはたしかだから、母さんの見る目もたいしたものだね」

「えへん。私は偉いのです」母さんはフォークを並べてふんぞり返った。