目次
ユークリッド-Eukleides-
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ピエール・ド・フェルマー-Pierre de Fermat-
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ピタゴラス-Pythagoras-
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ルネ・デカルト-René Descartes-
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アルキメデス-Archimedes-
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レオナルド=フィリオ=ボナッチ-Leonardo Fibonacci-
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ブレーズ・パスカル-Blaise Pascal-
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ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ-Gottfried Wilhelm Leibniz-
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アブラーム・ド・モアブル(Abraham de Moivre
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ヤコブ・ベルヌーイ-Jakob Bernoulli-
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ジャン・ル・ロン・ダランベール-Jean Le Rond d'Alembert-
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ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ-Joseph Louis Lagrange-
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ピエール=シモン・ラプラス-Pierre Simon Laplace-
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ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ-Jean Baptiste Joseph Fourier-
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ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス-Johann Carl Friedrich Gauss-
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ゲオルク・フリードリヒ・ベルンハルト・リーマン-Georg Friedrich Bernhard Riemann-
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アンドリュー・ワイルズ-Andrew John Wiles-
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ジュゼッペ・ペアノ-Giuseppe Peano-
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オーガスタス・ド・モルガン-Augustus de Morgan-
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ダフィット・ヒルベルト-David Hilbert-
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レオンハルト・オイラー-Leonhard Euler-
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最終定理-the Last Theorem-
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アルキメデス-Archimedes-

21

 授業の時間になったので、僕はレオンハルトをおいとますることにした。巧は「じゃあな。宿題やっとけよ」と言って教室に入っていった。有里は談話室に戻ってこなかった。たぶんコンビニから帰ってそのまま教室にこもっていたんだろう。あるいはずっと教室にいたかもしれない。

 僕は最後にスナック菓子をひとつつまみ、廊下に出た。ちょうどそのとき、誰かが玄関から入ってくるのが見えた。長身の男の人が靴を脱いで靴箱の一番上にしまってから、教室のドアに手をかけたところで、僕を見た。目が合ったとき、僕の中で何かが呼び醒まされた。この男の人を見たことがある気がした。いつだったかな。

 男の人はドアを開けずに僕のほうに歩いてきて僕を見下ろした。二十代だと思う。近くまで来られると、見上げないと顔が見えないくらい身長差があった。下から見上げたその顔は、間違いなく見覚えのある顔だった。あごまわりにぷつぷつと黒いひげの剃り残しがあり、頬が少しこけていた。顔立ちはなんとなく巧を大人にした感じだ。

「よう、お前こんなところで何してるんだ」男の人は僕に話しかけた。

「いやちょっと塾の見学に、あの、どこかで会いましたか」

 男の人はかがみこんで僕と視線の高さを合わせた。じっと見つめるその瞳にはどういう感情が宿っているのかわからなかった。

「お前覚えてないのか」

「はい。見たことある人だなとは思うんですけど、いつどこだったかわからないんです」

「そうか、そんなにショックが大きかったとはな。それに年月の経過もあるしな。まあ無理もない。気の毒だったと俺も思う」

「あの、何があったんですか」

「いや、俺たちは単にすれ違っただけだ。そのときちょっとしたイベントがあって、それが原因でお前は俺を認識できないんだろう。そのうちぱっと思い出すさ」

 男の人はぽんと僕の肩に手を置いて、談話室に入っていった。少し笑っていたようだけど、なんだかかわいそうなものを見るような憐憫の表情に見えた。


22

 家に帰り、今日あったことを母さんに報告した。

「正宗くん、塾行きたいの?」夕食を食べたあとで、母さんはめずらしくホットミルクをつくってくれた。「レオンハルトとかいったっけ」

「うん。ひどく変わった塾なんだけど、とても居心地がいいんだ」

「正宗くんにプラスになるものなんだったら、私はかまわないんだけど。自分ではどう思うの?」

「うーん、今のところ自分でもよくわからない、あそこでの学習が僕にどう好影響を与えるかはね。でも友達も行ってるし、よその子との交流にもなるし」

「友達?」母さんは目ざとい。いや鋭いのほうが正しいかな。「たーくん以外にも誰か行ってるの?」

「ええと、巧の幼馴染っていうのかな、有里って女の子も一緒なんだ。同じクラスなんだけど今までしゃべったこともなくて。だけどいざ関わってみるとね、なんだか妙な子でさ。普段はクールに澄ましている感じなのに、突然馬鹿でかいげっぷしたり、それを笑った巧と格闘したり」僕はホットミルクを口に含みながら、昼間のバトルを思い出して笑顔になった。「面白い子なんだ」

「へえ、そう」母さんの反応は薄かった。なぜかわからないけど、とても冷ややか目で僕を見ている。

「どうしたの?」

「え? ああ、いやべつにぃ?」あわててカップを傾けるものだから口のまわりからこぼしてしまい、「あちあち」と飛び上がる母さんを見て僕は怪訝な表情をつくった。

「様子が変だね。今の話で何かおかしなところがあった?」

「いえいえ、そんなことないでございますですはい」ばばばばとティシュを取り出してこぼしたミルクにかぶせながら、あわあわと母さんは言った。

「もうなんなの。あ、それでね、有里からこんなものをもらったんだ」僕はそう言ってカバンから有里にもらった紙を取り出して母さんに見せた。「巧が言うにはね、そこに有里からのメッセージが隠されているらしいんだけど、そのままじゃ読めないんだ。なんとかして謎解きしないといけないんだけど、それは宿題だって言われた」

 紙を受け取ると、母さんはまじまじと観察しながら、次第にぷるぷる震えだした。

「こんなミステリで私の正宗くんを籠絡しようなんざ、どこの小娘か知らんが……」

「母さん?」

「え? いやだよぉ正宗くん、ラブレターなんかもらっちゃって! このぉ、おませさん!」

「いやラブレターかどうかはわからないんだけど」

「おい、イケイケかい? このスケベ!」

異常なテンションの母さんを無視して、僕は頭を左右に振った。こきこきとからくり人形みたいな音がする。

有里の僕に対する態度を考慮すると、ラブレターであるとは考えにくい。むしろ最近巧をひとり占めしているとの誤解による決闘状かもしれない。昼間のバトルから有里の格闘センスおよび経験値を割り出すと、僕の五倍はあるだろう。勝敗は目に見えている。

 あるいは屋上に来るなという忠告文かもしれない。それならあの場で「もう二度とここに来るな」と言えばすむ話だけど、僕を過剰に攻撃してしまうとそのことが巧に漏れて都合の悪い状況が生まれるから、その回避策ともいえる。

 もうひとつ考えられるのは、昼間のげっぷを忘れろという脅迫文という可能性だ。「じつは有里って大声でげっぷするような女なんだよ」などという不快な噂が広まるのを、彼女は潔しとしないだろう。情報の発信源となる僕に先手を打ったというわけだ。巧も聞いててしかも馬鹿にしてたけど、彼はそんなことはしないとわかっているんだろう。

 いずれにせよハッピーな手紙じゃない。そしてもっとも不可解なのは、妙な謎かけが施されているということだ。明確な意図は不明だけど、僕の憶測では、有里はミステリが好きらしいから、その関連から来るリアルとバーチャルの混同だろう。本で読んだことが普段の自分の生活で実際に起こったら面白いものだし。それを僕に対して実践しているというわけだ。彼女はいわば本の書き手で、僕は読み手だ。彼女が提示する謎を解き明かし、真実に近づいていくというわけだ。そう考えると楽しくなってきた。

 目前の母さんはまだ紙を凝視している。睨みつけて心の目で文字が読めるようにならないかというのは僕もすでに試したから無理だろう。親子っていろんなところで似るもんだなあ。

「ねえもう無理だよ。いくら睨んでも文字は浮かんでこないし、そのままだと母さんの熱視線で火がついちゃうよ」僕は母さんの手から紙を奪い返した。

 しばらく「うううぅ」と頭を抱え込んでうなっていた母さんは、ふいにすっと顔を上げてまっすぐ僕を見た。

「正宗くん」

「何?」

「女の子とお付き合いするんだったらね、ちゃんと私にも紹介してよ。あと私のこともちゃんと紹介してね」

「気が早いよ」僕は呆れて、すでに冷めていたホットミルクを飲みほした。


23

 僕はベッドの中で目を閉じながらレオンハルトを出るときに会った男の人のことを考えていた。いったいどこで会ったんだろう。ショックで忘れてしまうようなイベントって言ってたけど、なんのことだろう。わかるのは、はじめて会ったのはこの土地じゃないってことだ。たぶん引っ越す前、市外にいた頃に関わったんだと思う。だってこちらに来てからのことは全部覚えている。まだ日も浅いし、浮き沈みはあるけどそれなりに有意義な学校生活を送っている。夕食のメニューだっていつ何を食べたか思い出せるくらいだ。まあこれは明太子料理のバリュエーションが少ないから覚えているだけだけど。向こうにいた頃にいったい何があったんだろう。特に事件らしい事件に巻き込まれて記憶喪失になってしまったみたいなドラマティックなことはなかったし、何かしらの事故による記憶障害を患った経験もない。あとは僕が思い出したくないことを自分で無意識に封じ込めてしまっているくらいか。単に思い出せないという可能性もあるけど、男の人との会話から考えて、やっぱり何かしら特別なイベントが発生していたようだから、僕がそれを覚えていないというのはすんなり納得できない。どんなイベントがあったのか……。

 いろいろ考えて頭を動かしているうちに、身体は静かに眠りにつき、次第に脳も活動を停止して枕の上で心地よい寝息を立てはじめた。


24

 晴れの日の学校での昼休み、僕と巧はいつも通り教室の窓際に陣取って給食の牛乳をちゅうちゅう飲んでいた。

「それで、宿題はできたのか?」巧は僕をからかうような口調で言った。

「ううん、母さんと一緒に考えてみたんだけど、ふたりともお手上げだったよ」

「お前アニメとか本とかマンガとか見ないのか? ああいったメディアは意外といろんな知識が身につくぜ。けっこう考えてつくられてるんだ」

「うーん、僕はもうどれも見ないなあ。ヒントがあれば考えるだけでいいから簡単なんだけど。パズルとかクイズは最初のピースがないと、僕はどこにも思考が向かないんだ」

「そういうやつは社会的有為とはいえないな。なおしたほうがいいぜ」

「なおるものなの?」

「ああ、訓練次第でどうにでもなる。もちろん子供だからだけどな。大人になっちまったら頭が固くなってもう柔軟体操もできないからな」

「そうなんだ、じゃあ柔軟な思考の訓練をしないとね。レオンハルトでそれも身につくと思う?」

「結論から言うとイエスだ。でも授業じゃなくて先生との会話でそういった方面の能力は養われる。あそこの先生はふたりともすごい人間だぜ」

 ふたりっていうのは、もしかして、あの男の人のことかな。

「老先生と若い先生だね」

「どちらかというと若先生のほうが優れてるな。老先生は俺らの教育のほかにも経営とかいろんなことを背負い込んでるから教育一筋ってわけにはいかないみたいだ。もちろんそれでもすごいんだけどな。若先生はフットワークが軽くて頭に余計な荷物を背負ってないからな。それに若いし思考が柔軟で、おまけに飛びきりの高次な知性を持ってる。俺が知ってる人間で一番頭がいいんだ」

 巧が一番と断定するほどの人だったとは驚いた。それに巧のレオンハルトへの入れ込みようも相当なものだとこの時点で気づいた。よっぽどあの塾が気に入っているんだろう。たしかに風変わりで魅力的なところだと僕も思う。

「そう言えばね、僕その若先生にむかし会ったことがあるみたいなんだ」

 巧は眉を寄せてしわをつくり、「んん?」といぶかしむ表情を見せた。

「みたいってのはどういうこった?」

「いやね、こないだ顔を合わせたときこの人どこかで見たことがあるなあと思ったら、向こうも僕に久しぶりだな、って声をかけてきたんだ」

「覚えてないのか?」

「うん。こっちじゃなくて前いたところで会ったと思うんだけど。それにね、あの人が言うには僕が覚えてないのも無理ないって」

「どういう意味だろうな」

「なんかそのときイベントが起こってそのショックで僕は覚えてないんだろうって言うんだ」

「へえ。そのイベントにも心当たりはないんだな」

「うん」

 僕たちはふたりして「うーん」としばらく考えてみたけど、なんらいい考察は得られなかった。

 若先生については考えても考えてもわからないので、僕の思考は自然と有里の謎かけへと移行していった。巧はマンガとかのメディアからヒントが得られるという。つまりそういったものでも取り上げられてネタにされる程度にチープな仕掛けであるということだ。なら特別な道具が必要ということもなく、身近なものを使ってなんらかの操作をすれば正解が得られるだろう。

「有里の謎かけだけど」僕は思考に没している巧に話しかけた。「簡単で単純なことで答えが得られるんだよね」

「ああ、そのとおりだ」巧は顔を上げてにやりと笑った。「お前ヒントは必ず見逃さないんだな。そういうところすごいと思うぜ」

 こういう単純なことに感心してくれる巧はとても優しい。

「ジャンルはな、理科だな」

「へえ。じゃあ薬品とか使う――」僕は言いかけて止まった。そうか、わかった。

「いや、火か水だね」

「簡単だろ?」

「本当に。帰ったら試してみるよ」

「いや、今やろう」巧はそう言って立ち上がった。「たぶんだけど、今のほうがいい」

「ええ、今やるの? でも火なんかどこで使えるの?」

「まあまあ、いいから行くぞ」

 巧が教室から出て行こうとするので、僕もあとについていった。


25

巧は校舎の裏側に向かった。僕の教室がある校舎は一番北側にあり、レインボーロードの反対側に位置する裏側は金網一枚挟んで道路に面していて、外からはまる見えだ。今の時間は道路の交通量は少なく、通行する人もほとんどいない。子供はみんな校庭かレインボーロードで遊ぶから誰もここには来ない。巧は目立たない程度にきょろきょろしたりうしろを振り返りながら進んでいった。たぶん人目を気にしているんだろう。

 できるだけ廊下の窓から見えないところでかがんで、巧はズボンのポケットから何か取り出した。どうしてライターを持っているのか、と僕は疑問に思った。

「これであぶってみろよ」巧は僕にライターを差し出した。

 ライターの火をつけて、そのうえで有里の紙をゆすってみる。しばらく試してみたけど、特に変化は見られなかった。

「違うみたいだね」僕は火を消して巧に返した。「じゃあ水だね」

「そうだな」巧はライターをポケットにしまった。

 それにしてもどうしてライターなんか持っているんだろう。まさかとは思ったけど、巧がそんなものに手を出すとは考えにくい。でもほかに用途が思いつかなかったから一層不思議だった。

 僕が変な目で見つめているのを受けて、巧は両肩をすくめるアメリカンなリアクションをした。

「まあ俺も興味がないわけじゃない。けどダメなものはダメだ。それにいずれわかることだから今試す必要もないだろう?」

「それはわかるけど、どうして持ってるのかがわからないんだ」

「これはな、若先生がくれたんだ。あの人は喫煙者だぜ。それを隠す様子もなくてな、俺たちの前でも普通に吸ってるんだ。いっそすがすがしいくらいにな。その姿がかっこよくてさ、俺がライターをくれって冗談で頼んだら、ほらよ、ってなんの未練もなさそうに俺に放ってよこしたんだ」

 巧の持っているライターはコンビニとかで売っている百円の安物とは違い、ちゃんとふたがついているし、カバーの金属光沢は高級品の様相を呈していた。

「高そうだよね」

「たぶんいいやつだろうな。そのときの若先生の惜しげのなさがかっこよくてさ、がらにもなく感動しちまったぜ。以来持ち歩いてるんだ」

「大事にしてるんだね」

 巧は照れたようにくすっと笑ってポケットをぽんぽん叩いた。「俺の宝だ」