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もくじ

・九つの命――アユ

       ――みんな一緒に

・ねえ、傘、貸して

・輝きの日

・トイレ同盟

 

あとがき







 


各作品のあらすじと読みどころ

*「九つの命」――「アユ」
【あらすじ】

 段ボールに入れられて川に流された生まれたての九匹の子猫たち。一匹だけが生き残り、年老いた猫を仲立ちに、神様と約束をする。その約束は、使命でもあった。

【読みどころ(抜粋)】

 そう言って、年老いた猫はいきなり、「あっくっしょん、ひくひく」とくしゃみをして、右の前足で鼻をこすりました。そして、再び話し始めました。
「わしは、もう年を取りすぎていて、おまえにこれ以上、手を貸すことはできない。あとは、次郎さんが、おまえを新しいお母さんのいるところへ、早く連れていってくれるかどうかにかかっている。ただ、次の約束をすれば、きっとおまえの命は助かるだろう」
 おじいさん猫は、続けて次のような話をしました。
「おまえを含めて全部で九つの命を、おまえに預(あず)ける。ただ、預けるのはわしではなく、猫の神様だ。その九つの命を守るために、一生懸命に生きる気持ちさえあれば、必ず新しいお母さんのところへ行き着くことができる。そのつもりがなければ、途中で、きょうだいたちと同じ運命をたどるだろう」
 ここで年老いた猫は、子猫の目をじっと見つめました。
「おまえは、生きたいかい?」と、年老いたが尋ねました。
「はい、生きたいです。せいいっぱい生きたいです」と、おじいさん猫の目を見て答えました。

 

 

*「九つの命」――「みんな一緒に」
【あらすじ】

 九匹の子猫の中で一匹だけ生き残ったアユが、神様から与えられた使命を果たそうと奔走する。その使命には、ある条件があった。誰もがいつか経験しなければならない宿命を受け入れる命たちの物語。

【読みどころ(抜粋)】

 年老いた猫は意外な話をし始めました。アユを含む九つの命には、ある共通点があるというのです。

 興味津々のアユは黙って耳を傾けました。声は、ときおり、むんぐむんぐと口ごもって聞き取りにくくなります。話しにくい内容を口にしているからだけでなく、歯がところどころ欠けているからです。なにしろ、その年老いた猫は、人間の年齢でいうと百二十歳で、神様に召(め)されたのでした。
「難しい話をするが、質問はしないで聞いてくれ。むんぐむんぐ」と断り、ごほっと咳払いを一つした後に、再び声が聞こえてきました。
「いいかい。本当は猫の神様も、犬の神様も、人間の神様も、草木の神様も区別はないんだ。神様は無数にいる。神様は、無数のものにとっての神様なのだ。神様は、無数の命の一つひとつにとっての神様だということらしい。だから、神様は一人だとも言えるし、無数だとも言える。むんぐむんぐ――」

 ここで、年老いた猫の声は少し聞き取りにくくなりました。でも、すぐに長い話が続きました。

「最近、天にいる無数の命たちのうちの一つから、こんな話を聞いた。天にいる命たちは待機中なんだそうだ。わしも自分がもう猫ではないことは薄々感じていたんだが、どうやら命は形を変えるらしい。そして、いつかここから下りる時が来るという。それがいつになるかは、神様にもわからない。むんぐむんぐ、ごほっ――」

 少し沈黙が続きました。アユは耳をそばだて、声の聞こえてくる空を見上げました。空には数えきれないほどの星が輝いています。アユには、その星たちが、年老いた猫の言った無数の神様のように思えました。

 

 

*「ねえ、傘、貸して」
【あらすじ】
 小学校二年生のあいちゃんが、同じクラスの愛(めぐむ)という名の男の子が学校に来なくなったのを心配する。あいちゃんが愛の家を訪ねようと決心した日、道で雨にあう。どうして?

【読みどころ(抜粋)】

 あいちゃんと愛さんは、小学校に入学したときから、同じクラスです。初めて、クラスのみんなと顔を合わせた日のことを、あいちゃんはよく覚えています。
 先生が、男子女子に関係なく、あいうえお順で、苗字と名前を合わせて、さん付けにして呼んでいきました。苗字と名前を呼ばれて、「はい」と元気に返事をして、起立します。そして、「はじめまして」とおじぎをしながら言ったあと、時計の針と同じ向きにまわりながら、教室の中を見わたすのです。みんなに名前と顔を覚えてもらうためです。そのときです。先生が言いました。
「恵(めぐみ)あいさんと、相田愛(あいだめぐむ)さんって、何となく似ていない?」
 二人の名前は、先生の持っている名簿では離れています。愛さんの名前は、最初に呼ばれました。あいちゃんの名前が呼ばれたのは、だいぶたってからです。それなのに、「何となく似ている」と先生が言ったことが、あいちゃんには不思議でたまりませんでした。
 どうして?

 


*「輝きの日」
【あらすじ】

 在日の日系外国人の一家をめぐる物語。日本語が得意で社交的な妹と、日本語ができない内向的な兄。経済的な事情で二人とも小学校に通っていない。兄は、入院した父親の口から、曾じいさんの語ったという生と死にまつわる話を聞く。死が間近に迫った父親は、死への恐れではなく、生き続けるための力を、ある「印(しるし)」によって息子に贈る。

【読みどころ(抜粋)】

 お父さんの話はよく飛びます。最初のうちは、子どもだったころのいろいろな思い出がほとんどでした。川での釣り、木登り、農場での手伝い、いたずらをして叱(しか)られたこと、家で飼われていた家畜の出産、初めて海を見た時の驚き――カルロスにとっては、初めて聞く珍しい話ばかりでした。
 そのうち、お父さんのお祖父ちゃん、つまりカルロスにとっては曾(ひい)じいさんに当たる人が、よく語ってくれたという話をするようになりました。

――生きていると、苦しいことや、悲しいことがたくさんある。痛い目や、つらい目にも何度かあう。しかし、それが生きているという証(あか)しなのだから、受け入れるほかない。毎日、働けるだけで、人は感謝しなければならない。働ける土地があり、土地にまく種があり、土地に雨が降り、種から芽が出る。それだけでも、奇跡なのだ。畑に水を運び、手入れをし、その日のご褒美(ほうび)として食べ物を口にし、飲み物で渇きを癒(い)やす。それだけでも、奇跡なのだ。奇跡はすべての物に宿っている。生きた物にも、生きているようには見えない物にも。

――時には歌をうたって天と地をたたえ、生き物やいろいろな物たちの声に耳を澄まし、作物が育つことを祈る。そうすれば、やがて実りの時期がやってくる。もちろん、嵐もあれば、天から氷のかけらが降ることもある。日照りの日ばかりが続くこともある。育てている作物が、病で枯れることもある。すべては、天と地が何かを知らせるためにしていることだ。だから、人はその何かを知る努力をしなければならない。だが、その何かは、結局は分からない。知る努力をすることだけが大切なのかもしれない。

――神父様は天と地が知らせているその何かが分かると言うが、わたしには、その何かは分からない。わたしは、神父様よりもガテ様のほうが偉いと思う。ガテ様は分からないことは分からないとおっしゃる。分かる必要もないとおっしゃる。わたしには、ガテ様のほうが正直に思える。

 そんなふうに、お父さんは、お父さんのお祖父ちゃんの言葉を伝えます。いつの間にか、カルロスは、お父さんがその「お祖父ちゃん」になって、自分に語り掛けているような気持ちがしてきました。

 

 

*「トイレ同盟」
【あらすじ】

 他人がそばにいると緊張しておしっこができない二人の少年。中学に進学した今、新しい環境の中でどうやってトイレ問題を解決するかが緊急の課題だ。あきらめかけた友達を励ます少年のちょっとナーバスな気持ちと、付き合いかけた女の子への淡い恋心を描く。

【読みどころ(抜粋)】

 始業式兼対面式の翌日、中嶋慶太(なかじまけいた)は早めに学校に着いた。校内は、しーんとしている。朝の練習のために登校したらしい、運動部かブラスバンドに属していると思われる生徒たちの姿が時折目に付くくらいだ。

 勝手が分からない一年生に見られないように平静を装い、慶太は足早に校舎内を歩き回った。建物の各階を手際よくチェックしなければならない。「2年B組」、「美術室」などと記されたプレートや、ドアの窓ガラスにペンキで書かれた表示を横目で見ながら、ひたすらトイレだけを探す。

 見つかると、男子トイレの出入り口の前で足を止める。あたりを見回して、すばやく戸を開ける。小便器、そして仕切りで囲まれた大便所の数と、手洗い用の台の位置を確認する。

 小学校のトイレに比べて汚く、雰囲気が暗い。建物自体が古いせいかもしれない、と慶太は思う。
 小学校では、音楽室と家庭科室が並ぶ階の端にあったトイレが一番利用しやすかった。めったに児童が入らないからだ。特別な授業のためだけに使われる部屋の近くのトイレ――それが狙い目だ。

 教員用トイレもいい。便器のある仕切りの中に入ってさえしまえば、緊急用として役立つ。だが、女子トイレは、たとえ緊急時でもパスだ。何事にも、絶対にやってはいけないことがある――。そう考えた慶太は、ある出来事を思い出した。

 





九つの命――アユ

 ずすーん、ぼほーん。
 川を段ボールの箱が流れて行きます。水びたしになった紙の箱が、だんだん沈んでいきます。
 ぼん。
 これは、段ボール箱が水面から突き出た大きな石に当たった音です。その大きな音を聞いたのは、一匹の子猫でした。
 お腹がすいた。喉がかわいた。どこかに飛んで行くような気持ちがする――。
 子猫は、気が遠くなり始めました。お母さん猫のお乳を飲んでから、もう三時間以上もたっているのです。
 段ボールは、堰(せき)に差し掛かろうとしています。そのまま進めば、滝の底に投げ込まれたように、ずぶ濡れの紙の箱は、ごぼーんと何メートルも下の水面に落っこちてしまうでしょう。箱の中には、九匹の子猫が座布団にくるまれています。二匹のお母さん猫が、それぞれ五匹と四匹の赤ちゃんを産んだのです。

 そのお母さん猫の飼い主の家には、全部で三匹の猫がいます。
「もう、猫はいらないよ」
「キャットフード代だけでも、馬鹿にならない」
「かわいそうだけど、前にやったように裏の川に流そう」
 飼い主の家では、そんなやりとりがあったのです。九匹のうち、今も意識があるのは一匹しかいません。でも、その最後の一匹も、お腹がすきすぎて、暗い眠りの中にさそわれそうになりかけています。

 堰の下では、釣りをしているおじいさんがいました。岡村次郎(おかむらじろう)という名前で、二週間前に七十二歳になったばかりの人です。
「釣れんなあ。どうしてだろう」
 次郎さんは、ひとりごとを言いました。鮎(あゆ)を釣るつもりで張り切っていたのですが、ほかの魚は釣れても、鮎だけが糸の先の餌(えさ)に食いついてくれないのです。
 ごどん。
 大きな音がしました。段ボールが堰の上のコンクリートにぶつかったのです。水を含んで重くなった段ボールが、ひっくり返りました。九匹の子猫のうち、箱の上のほうにいた三匹が飛び出しました。そのうちの、一匹が宙を飛びました。
 ぽぽーん。ほわーん。ぽたりんこん。
「なんだ、こりゃあ。いったい、何が入ったんだ」
 次郎さんは、腰に付けた魚籠(びく)にいきなり何かが飛び込んできたので、びっくりしました。

 以前に、猫を飼っていたことのある次郎さんは、子を産んだばかりの猫のいる知り合いの家へと、軽トラックを走らせました。そのお母さん猫は、とても気立てがやさしいのです。
 タオルにくるんだ弱々しい子猫をはげますために、調子はずれの声で一生懸命に子守唄を歌っています。
「ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや――」
「七つの子」というカラスの歌を猫に当てはめて歌おうとしているのですが、焦(あせ)ってしまって出だししか歌えないのです。仕方がないので、次郎さんは出だしのところだけを歌い続けます。
「ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや……」
 
 軽トラックの助手席で籠(かご)に入れられタオルに包まれた一匹の子猫は、車の揺れをぼんやりと感じながら夢を見ました。
 子猫は菜(な)の花が咲き乱れる野原にいます。ぶるぶる震えていると、灰色をした年老いた猫が現れました。
「おまえの命を救ったのは、わしだ。おまえが、いちばん正直そうに見えたからだ。たぶん、このままでは、おまえもおまえのきょうだいたちのように、あの世に行くことになる――」
 そう言って、年老いた猫はいきなり、「あっくっしょん、ひくひく」とくしゃみをして、右の前足で鼻をこすりました。そして、再び話し始めました。
「わしは、もう年を取りすぎていて、おまえにこれ以上、手を貸すことはできない。あとは、次郎さんが、おまえを新しいお母さんのいるところへ、早く連れていってくれるかどうかにかかっている。ただ、次の約束をすれば、きっとおまえの命は助かるだろう」
 おじいさん猫は、続けて次のような話をしました。
「おまえを含めて全部で九つの命を、おまえに預(あず)ける。ただ、預けるのはわしではなく、猫の神様だ。その九つの命を守るために、一生懸命に生きる気持ちさえあれば、必ず新しいお母さんのところへ行き着くことができる。そのつもりがなければ、途中で、きょうだいたちと同じ運命をたどるだろう」
 ここで年老いた猫は、子猫の目をじっと見つめました。
「おまえは、生きたいかい?」と、年老いたが尋ねました。
「はい、生きたいです。せいいっぱい生きたいです」と、おじいさん猫の目を見て答えました。

 

       *

 

 子猫は、新しいお母さんのいる家に引き取られました。乳離れをしたら、岡村さん夫妻の家で育てられる。そういう約束で里子に出されたのです。


       *

 

「ああ、よかった」
 家に帰るなり、次郎さんに妻の良恵(よしえ)さんが言いました。
「国道でクレーン車がひっくり返って、大事故になっているみたいよ。今、ラジオで速報が入ったの」
「そうか。だからサイレンの音がしたのか。帰り道は国道を通らなかった。何だか嫌な予感がしてね。虫の知らせっていうのかなあ――。それはそうと、きょうは子猫が釣れたぞ」
 次郎さんは、子猫が「釣れた」時のもようを語りました。
「まあ、猫ちゃんが、うちに来るんですか。それは楽しみですね」
 話を聞き終えた良恵さんが、台所にもどりかけました。
「おや、足を引いているけど、どうかしたのか」
「階段を下りるときに、ついうっかり」
「気をつけろよ。うちの階段は、急で危ないからな。眼鏡の度が合わなくなってきたんじゃないかい。近いうちに視力検査を受けにいこう」

 

       *

 

 夕食のテーブルに着いた次郎さんの顔色が変わりました。おかずが鮎の塩焼きだったのです。
「どうして、鮎なんだ」
「鮎釣りなんて、素人のあなたには無理ですよ。お魚を持って帰らないことは、初めから分かっていました」
 良恵さんは笑いながら言いました。次郎さんは一瞬悔(くや)しそうな表情をしましたが、すぐにいつものやさしげな顔にもどりました。
「その代わり、かわいい子猫を釣ったぞ。どうだ、たいしたもんだろう」
 次郎さんは、にこにこしながら得意そうに言いました。

 

       *

 

 里子に出されているあいだに乳離れした子猫が、岡村夫妻の家にやってきました。
 男の子です。子猫はアユと名付けられました。次郎さんが鮎の代わりに「釣った」からです。子猫は、自分の名前がすぐに気に入りました。

 岡村家での最初の日、アユは再び菜の花の咲く野原の夢を見ました。
「よく頑張ったな」
 あの年老いた猫の姿は見えず、声だけがします。
「どこにいるの、おじいさん」
「わしは、今、おまえのきょうだいたちと同じところにいる。静かで、きれいなところだよ。おまえも、来たいと思うかもしれないが、おまえには使命がある。約束は覚えているかい?」
「はい。でも、はっきりとは覚えていません」
「そうだろうな。あの時は生まれたばかりだったし、体がずいぶん弱っていたから――」
 アユは、自分を含めた九つの命が自分に託(たく)されていることを、もう一度聞かされました。おじいさん猫の声は、アユに猫の神様から与えられた使命について詳しく説明しました。
 岡村さん夫妻、松永(まつなが)ふささん九十二歳、小野田怜治(おのだれいじ)さん五十四歳、清水(しみず)ゆかりちゃん五歳、ゆかりちゃんが飼っているオカメインコのマーちゃん、山下悠太(やましたゆうた)くん十三歳、松永ふささん宅の周辺に住む雄の野良猫。
 この八つの命と、アユ自身の命を見守る。場合によっては自分の命をかけて、ほかの八つの命を救う。そんな約束を、神様の代理だという年老いた猫とのあいだで確かめ合ったのです。

 

       *

 

 忙しい毎日が始まりました。アユは、のんびりと朝寝や昼寝をするわけにはいきません。なにしろ、八つの命を見守らなければならないのですから。
 アユには魔法が授(さず)けられていて、一瞬のうちに居場所を移動したり、遠くの出来事を知ることができます。ただし、その二つの魔法はそれぞれ一日に二回しか使えません。しかも、魔法を使ったあとには、体がひどく疲れるのです。
 でも、約束は約束。八つの命を守るのがアユのお仕事なのです。

 

 松永ふささんは、アユを自分が昔飼っていた雌猫だと思い込んでいます。アユは雌猫の振りをして、松永さん宅を一日に何度か訪れ、松永さんの相手をします。

 

 一人暮らしの小野田怜治さんは、農業をいとなんでいます。体が丈夫ではないため、小野田さんが農作業をしていて危険な目にあいそうになるたびに、アユは魔法を使って助けなければなりません。

 

 清水ゆかりちゃんは生まれつき両足に障害があり、車椅子と歩行器を使って、毎日歩く練習をしています。小学校に上がるのを楽しみにしていて、苦しくても頑張っているのです。
 ゆかりちゃんとアユが初めて会ったとき、ゆかりちゃんは大騒ぎをしました。
「だいじょうぶだよ。ぼく、マーちゃんには何にもしないよ」
 アユの声を心で聞いたゆかりちゃんは、目を丸くしました。
「信じてもいいみたいだよ」と、オカメインコのマーちゃんが言います。
 ゆかりちゃんとマーちゃんは、心が通じていて会話ができます。そこにアユという新しい仲間が加わったのです。

 

 山下悠太くんは中学一年生なのですが、小学校五年生の九月からほとんど学校には通っていません。毎日、学校で授業をしている時間帯に外を歩きまわり、下校時間が過ぎると家に帰ってテレビを見るか、ゲームをしています。休日で外に児童や生徒がいるときにも、家にいてゲームをしたりテレビを見ています。
 悠太くんとアユは、公園で出会いました。実はアユがこっそりと悠太くんの後をつけて行き、悠太くんがひとりでブランコに乗っているところに近づいたのです。
「おい、ネコ。こっちに来い」
 アユは甘えた声を出して、相手の出方を見ました。悠太くんは、手に持っていたコンビニのビニール袋から、メロンパンを取り出し、一切れちぎってアユに投げつけました。パンは好きではありませんでしたが、アユは全部食べました。
「珍しいなあ。おまえの前世は人間だぞ。人間っていうのは、地球でいちばん偉そうな顔をしていて、前世が人間だったり来世も人間になるなんて信じているやつが多い。けど、そんなのは嘘だ。輪廻(りんね)に生き物の差別はない。だから、ほかの生き物に比べれば、ほんの少ししかいない人間に生まれ変わる生き物は、めったにいないってわけだ」
 悠太くんは、メロンパンの残りをちぎって口に放り込み、話を続けます。
「ちなみに、おれの前世はチャバネゴキブリ。あそこにいる女の人は、トノサマバッタだった。あの人の抱いている赤ちゃんは、シロサイだった。おれには、そういうことが全部分かるんだ。本当だぜ。信じるか?」
 アユは、再び甘えた声で返事をしました。その日、瞬間移動を二回、千里眼(せんりがん)も二回使い終えたあとです。くたびれているアユは眠くて仕方ありませんでしたが、目をしっかり開いて悠太くんの話を聞いていました。
 ふだんの悠太くんは、両親と姉を含め、誰とも口をききませんが、気を許した相手には、実によくしゃべる子なのです。アユは、悠太くんにとっての数少ない、話の聞き手になりました。

 

 松永ふささんの家の近くをテリトリーにしている野良猫の中に、ブーという雄猫がいます。ブーは正式な名前ではなく、鼻が極端に低いために、まわりの人間が与えたあだ名です。男の子のアユは松永さんの前では、松永さんが昔飼っていた雌猫を装(よそお)っています。ブーは、アユをひと目見て好きになりました。
 トカゲや野鳥をつかまえて、アユにプレゼントします。また、アユの目につくように、先回りして何げない振りをしながら、アユの前を通り過ぎたりします。
 そうやって、なんとかアユに好かれようとするのですが、アユは気が進みません。照れくささもあって、時々ブーはアユをわざとおどしたり意地悪をしますが、いざとなるとアユの魅力に負けて、ぼへぇーとした顔つきになり、すごすごと引き下がります。意外に照れ屋なのです。

 

       *

 

 以上がアユの生活ぶりです。
 年老いた猫を仲立ちにして、猫の神様とかわした約束を守るために、アユは忙しい毎日を送っているのです。


(つづく)



 


九つの命――みんな一緒に

 三年後――。

 わっせ、わっせ。
 猫のアユは、忙しくて仕方ありません。猫は、しょっちゅう居眠りをしていていいなあ――。そんな猫のイメージとは、大違いの生活を送っています。

 アユの飼い主の岡村さん夫妻、九十歳を過ぎた高齢者の松永ふささん、農業をしている小野田怜治さん、小学校に上がるのを楽しみにしている清水ゆかりちゃん、ゆかりちゃんのペット兼(けん)話友達のオカメインコのマーちゃん、学校に行こうとしない山下悠太くん、松永ふささん宅の近くをなわばりにしている雄の野良猫ブー。
 この八つの命と、アユ自身の命を見守る。自分の命をかけて、その八つの命を救わなければならない時もあるかもしれない――。それが猫の神様とアユとの約束です。その証人となったのは、アユの命を助けてくれた年老いた猫でした。

 アユには猫の神様から授かった不思議な力があります。瞬間移動と、遠くを見ることができる千里眼です。でも、その二つの力は、それぞれ一日に二回しか使えません。そのうえ、使った後には体がぐったりして、しばらく動けないことすらあります。

 

       *

 

 ある日の午後。
 アユは、公園で悠太くんのお話を聞いていました。
「他人の前世について、あなたは誰々だったなんて言っているやつらがいるだろ。あれってインチキだ。人間が人間に生まれ変わる確率なんて、千兆分の一以下ぐらいしかない。人は、神様に選ばれてなんかいない。神様は、生き物の命で分け隔(へだ)ては、いっさいしないんだ」
 悠太くんは同じような話を繰り返します。
 似た話ばかりを聞かされれば、たいてい誰もが退屈をして、もう相手にしなくなります。アユも退屈です。でも、アユは悠太くんの話の聞き手となって、じっとその話に耳を傾けます。あくびをこらえるコツも覚えました。
「――きのうの夜、テレビの番組で前世占いとかやっていたやつ。あいつは自分の前世が、江戸時代に生きていた偉い侍(さむらい)だとか言ってるけど、本当は明治時代に生きていたゾウリムシだったんだ。その前は室町時代のイボイノシシで、その前は――」
 そのとき、アユの頭の中に光が走りました。良くないしるしです。松永ふささんが、自宅の台所で仰向(あおむ)けに転ぶ姿が目に浮かびました。

 ちゃあー!

 その鳴き声とともに、アユは瞬間移動をしました。
「まただ――。あのネコ、また消えちゃった」と、つぶやいた悠太くんはブランコを降りて、話し相手のいなくなった公園を後にしました。

 松永ふささんは転倒したものの、後頭部の下にアユが滑(すべ)りこんだために、腰を骨折するだけで済みました。それでも、九十歳を超えるお年寄りにとっては、大けがであることには変わりません。お医者さんは、仰向けに倒れて後頭部を打たなかったのは奇跡だと言いました。

 一方のアユは、数日間、前足だけで這(は)いずり回っていました。痛い、痛いと心の中で言いながら。

 

       *

 

 アユが心配でならないのは、松永ふささんだけではありません。病弱なうえに、奥さんに先立たれて一人暮らしをしている小野田さんがいます。小野田さんには息子が一人いますが、結婚していて遠くの大きな都市で働いていているために、めったに帰省しません。
 小野田さんは、田んぼの世話はお金を払って他人に任せ、自分は少しだけ野菜を栽培して生活しています。ぜん息という持病があるために、体調が不安定なのです。奥さんを亡くして以来、元気がなくなり、歩き方や動作が鈍くなったと、まわりの人たちは言い、それとなく気を配っています。
 畑仕事中の転倒。ぜん息の発作で、たびたび喉を詰まらせる。ぜん息の薬の副作用でぼーっとしていて、軽トラックで事故を起こしそうになる。台所の火の始末を忘れる。野菜の出荷をしていて、刃物で手や腕を切りそうになる。こんな具合ですから、小野田さんからは目が離せないのです。

 松永ふささんは、長期の入院をしなければならなくなりました。そのため、アユは時々そっと病院に忍び込んで、お見舞いをするだけになりました。雨が降って小野田さんが畑に出ていない日や、小野田さんが寝込んでいる日が、アユにとってはほっとできる時なのです。
 アユの千里眼と、「ちゃあー!」という掛け声での瞬間移動は、主に松永ふささんと小野田さんのために使われている。そう言っても、いいでしょう。

 

       *

 

 小学校入学を間近に控えた清水ゆかりちゃんは、車椅子と歩行器の使い方が、だいぶうまくなってきました。でも、うまくなった時にこそ、危険がともないます。頑張りすぎて、つい無理をしてしまうのです。
 ゆかりちゃんの家の近くには坂道がたくさんあります。段差もあります。ある時、車椅子で坂を下りようとして、事故にあいそうになったことがありました。車椅子のブレーキが故障したのです。
 アユが、ゆかりちゃんのペットでお友達の、オカメインコのマーちゃんと世間話をしていた最中でした。マーちゃんも、少しだけ千里眼ができます。
「あっ、ゆかりちゃんの様子が変だ。アユちゃん、わたしの代わりに見て来てくれる?」
 マーちゃんが心配そうな顔でアユに言いました。

 ちゃあー!

 事情をすばやくキャッチしたアユは瞬間移動をして、坂を上(のぼ)ってくる軽自動車に追突しようとしている車椅子に体当たりをしました。ゆかりちゃんの乗った車椅子は、路肩にぶつかってひっくり返りました。でも、ゆかりちゃんは、ぜんぜん泣きませんでした。
「ごめんなさい。ごめんなさい。悪かったのは、わたし。アユちゃん、マーちゃん、どうもありがとう、そして、ごめんなさい」
 ゆかりちゃんは、ひたすら謝るばかりです。
 腰を強く打ったアユは息をするのも苦しいほど痛かったけれど、「よかったね。事故にならなくて」と、声を振り絞(しぼ)ってささやきました。


     *

 

 雄の野良猫ブーは、いつしかアユが男の子だということに気がつきました。でも、アユを見ると、ぼへぇーとした表情になり、やたら恥ずかしくなるのです。なぜなのかは、自分でも分からないみたいです。
 ブーは、体も大きく力も強いのですが、犬にはかないません。
 ある日、自分のテリトリーを越えて、アユの住む岡村夫妻の家の近くにまで来たことがありました。急に、アユの顔を見たくなったのです。
 岡村さん宅の隣の隣の家には、高い塀(へい)をめぐらした大きな庭があり、そこに三頭のポインター犬が放し飼いにされています。ポインターは、大きくて鼻のきく猟犬です。鼻が悪くて匂いを嗅ぐのが苦手なブーは、うっかりその庭に入りこんでしまいました。
 アユのことを考えていたために、ぼへぇーとした状態で油断をしていたブーは、三頭の猟犬にすぐに見つかってしましました。ブーは高い塀によじ上(のぼ)ろうと必死で逃げましたが、途中で自分が塀とは逆の方へと走っているのに気がつきました。

 しまった!

 ブーは、その家の納屋(なや)に追い込まれてしまいました。納屋には、出入口は一つしかありません。牙(きば)をむいたポインターたちが、今にも納屋に入ろうとしています。

 ちゃあー!

 納屋に奥で身を縮(ちぢ)めていたブーは、恐ろしさのあまり目をつむりました。

 きゃいんきゃいん、くしゅんくしゅん……。

 何だろう。どうしたのだろう。ポインターたちの悲鳴が聞こえてきます。ブーは、そっと目を開けました。
 納屋の出入り口の外で、三頭のポインターたちが、鼻を地面に押し付けたり、ひっくり返っています。ブーはあわてて納屋の出入り口から抜け出し、一目散(いちもくさん)に逃げ出しました。この家の庭を囲む高い塀の上に駆け上がったブーは、ふうふう息をしながら振り返りました。
 ブーは驚きました。さっきまでいた納屋の屋根にアユがぐったりと横たわっているのです。一方、三頭のポインターたちは、納屋の前でまだ大騒ぎをしています。そのかたわらに、蓋(ふた)が取れたコショウの瓶(びん)が転がっています。どうやら、犬たちは納屋の上から落ちて来たコショウをまともに浴びたようなのです。

 驚いたのは、ブーだけではありません。この家の隣の隣にある岡村さん宅では、台所で良恵さんがコショウの入った瓶を探していました。「どこに置き忘れたのかしら。コショウがない。それに、さっきまで、そこでおとなしくキャットフードを食べていたアユがいないし――」

 きゃいんきゃいん、くしゅんくしゅん、ぶほっぶほっ……。

 ポインターの大騒ぎはおさまりません。鼻がきくだけに、コショウが鼻にずきりと来るのです。鼻の奥が痒(かゆ)いどころか痛くて仕方ない様子で、さかんに地面に鼻をこすり付けています。
 瞬間移動をしたばかりで疲れきったアユは、納屋の屋根の上で体を休めていました。よかった。間に合った――。アユはほっとしています。そのとき、庭を隔ててアユとブーの目が合いました。

 それ以来、ブーはアユに対して、ぼへぇーをやめ、アユを尊敬するようになりました。アユの子分になると勝手に宣言したのです。丁重(ていちょう)に断るアユに向かって、「では、アユ様のボディーガードになります」と、ブーはこれまた勝手に宣言しました。

 

     *

 

 ある夜――。
 アユは夢を見ました。
「アユ、聞こえるか」と、あの年老いた猫のかすれた声がしました。
「おじいさん」
 アユは久しぶりに聞く声の主を探しましたが、姿は見えません。
「アユよ、おまえが、毎日、一生懸命にやってくれていて、わしも鼻が高い。神様の前で、おまえを推薦(すいせん)した甲斐(かい)がある」
 それを聞いて、アユはうれしくなりました。
 年老いた猫は意外な話をし始めました。アユを含む九つの命には、ある共通点があるというのです。
 興味津々(きょうみしんしん)のアユは黙って耳を傾けました。声は、ときおり、むんぐむんぐと口ごもって聞き取りにくくなります。話しにくい内容を口にしているからだけでなく、歯がところどころ欠けているからです。なにしろ、その年老いた猫は、人間の年齢でいうと百二十歳で、神様に召(め)されたのでした。
「難しい話をするが、質問はしないで聞いてくれ。むんぐむんぐ」と断り、ごほっと咳(せき)払いを一つしたのちに、再び声が聞こえてきました。
「いいかい。本当は猫の神様も、犬の神様も、人間の神様も、草木の神様も区別はないんだ。神様は無数にいる。神様は、無数のものにとっての神様なのだ。神様は、無数の命の一つひとつにとっての神様だということらしい。だから、神様は一人だとも言えるし、無数だとも言える。むんぐむんぐ――」

 ここで、年老いた猫の声は少し聞き取りにくくなりました。でも、すぐに長い話が続きました。

「最近、天にいる無数の命たちのうちの一つから、こんな話を聞いた。天にいる命たちは待機(たいき)中なんだそうだ。わしも自分がもう猫ではないことは薄々感じていたんだが、どうやら命は形を変えるらしい。そして、いつかここから下りる時が来るという。それがいつになるかは、神様にも分からない。むんぐむんぐ、ごほっ――」


 少し沈黙が続きました。アユは耳をそばだてて、声の聞こえてくる空を見上げました。空には数えきれないほどの星が輝いています。アユには、その星たちが、年老いた猫の言った無数の神様のように思えました。
「――ええっと。何を話していたのだっけ……。そうそう、待機中の命たちの話だ。で、その命たちだが、天に昇ってから五十年目、百年目、何百年目なんてざらだという。千年も待っている命もあるという噂(うわさ)だ。ここはいいところだから不自由はない。退屈すれば眠ればいい。ちょっと居眠りをするだけでも、十年や二十年はあっという間に過ぎてしまうそうだ。わしは、おまえに話さなければならないことがあるから、まだ寝入ったことはないが、そろそろ一眠りしようかと思っている」

 そこから、アユを含めた九つの命の話になりました。年老いた猫の声によると、九つの命は同時に、この世からあの世へと飛び立つ運命にあるというのです。それは、神様にもどうしようもない、宇宙の決まりなのだというのです。
「覚えているかい。おまえは、川を流れる段ボール箱に入っていた九つの命のうちの一つだった。ほかの八つの命は、あの日、天に昇ったんだ。あの子たちはなあ、死なずに済んだんだが――」
 ここで、年老いた猫は声をつまらせました。
「――生き続けるか死ぬかは、ちょっとしたはずみで決まるらしい。おまえは生まれたばかりだったから知るわけはないが、あの日、命を救われた八つの命がほかにもあったのだ」
 そのことは、アユには何となく分かりましたが、黙って声に聞き入りました。
「分かったみたいだな。そうだよ。やっぱり、頭がいい子だなあ。わしが見込んで、神様からの使命を託(たく)しただけのことはある。それに、思ったとおりの正直な子でよかった。おまえは、年を取ったわしの代わりに、神様との約束をちゃんと果たしてくれた」
「おじいさん、ごめんなさい。ぼくには、さっきおじいさんのおっしゃった、神様や天にいる命たちのお話がよく分かりませんでした」
「いや、別に分かる必要はない。おまえに悪いところはない。誰であれ、何であれ、生きているものたちに悪いところはない。それが宇宙なんだそうだ。わしも、よくは知らない。神様から教えていただいたお話や、天で聞いた噂話を、こうして伝えているだけだ。ただし、これからする話だけは覚えておいてほしい。約束してくれるか」
「はい、約束します」と、アユは返事をしました。
「あの日、この町で、おまえを含む九つの命が救われた。命拾(いのちびろ)いをしたと感じた者もいれば、自分の命が救われたことにぜんぜん気づかなかった者もいるそうだ。それも、良い悪いの問題ではない」
「ごめんなさい。ぼくにはたった今おじいさんがおっしゃったことの意味が分かりません」
「良い悪いの問題ではないってことかい?」
「はい」
「そのことは分からなくてもいいから、これから言うことをよく聞いてほしい。九つの命のうち、一つは鳥、二つは猫、六つは人間だった。この世に命がある時は限られている。神様にも分からない規則のようなものがあって、それが、あの日にこの町で救われた九つの命が天に昇る日を決めたらしい。期限付きというやつさ。それだけのことだ。むんぐむんぐ」
 そう言い残して声は消え、アユはいつもの眠りに落ちました。

 

     *

 

 夢の翌日、アユたちの住む町の周辺を、記録的な降水量の集中豪雨(ごうう)が襲いました。草木、動物、昆虫、微生物……。たくさんの命の期限が切れました。その中には、次の九つの命も含まれていました。

 岡村次郎、七十五歳。岡村良恵、七十一歳。松永ふさ、九十五歳。小野田怜治、五十七歳。清水ゆかり、八歳。マーちゃん、四年八か月。山下悠太、十五歳。ブー、七年二か月。アユ、二年十一か月。

 

     *

 

 ふわりんこ、ふわりんこ。

 九つの命が身を寄せ合い薄いピンクのかたまりとなって、空へと昇っていきます。

 ひょっこら、ひょっこら。

 雲の階段を次々と飛び越しながら、スキップを踏むように、天へと向かっていきます。
 九つのうちの一つが、横を見ると、やはり淡(あわ)いピンクの気体に包まれたいろいろな形のものが、かたまって浮かんでいるのが雲の間に見えました。その向こうにも、また、その向こうにも――。

 ふわりんこ、ふわりんこ。ひょっこら、ひょっこら。ふわりんこ、ふわりんこ。ひょっこら、ひょっこら。

 
(おわり)





ねえ、傘、貸して

【※物語が始まる前に、みなさんにお願いがあります。このお話を読み終えたときに、タイトルの「ねえ、傘、貸して」を声を出して口にしてみてください。どうしてなのかは、お話の終わりに書きます。】

 

 あいちゃんは、八歳で小学校の二年生。長女で、その下に、まいちゃん五歳、みいちゃん四歳の二人の妹がいます。
 あいちゃんのお父さんは、大工さんをしています。からだがとても大きくて、授業参観日に教室のうしろで、クラスメートのお母さんやお父さんたちと並ぶと、目立ちます。
「あい、まい、みい、まいん」
 お父さんは、夕ご飯のあとで、よくそんなふうに大声で歌うように叫びます。お酒に酔っているのです。
「よーし、もう一人、妹が来るようにすっからな」
 酔ったお父さんが、三人の娘に言います。すると、お母さんが、「もう、いいですよ」と、必ず言い返します。そんなときの、お父さんとお母さんは、うれしそうです。だから、あいちゃん、まいちゃん、みいちゃんも、ほほ笑み、家の中が明るくなります。
「あい、まい、みい、まいん」
 いつの間にか、お母さんを除くみんなで、節をつけて叫ぶようになりました。お母さんは、照れくさそうにして、にこにこしているだけです。

「まいんちゃんが、今度来る妹なの?」
 あるとき、あいちゃんは、お父さんにたずねました。
「そうだなあ。そのつもりなんだけど、弟かもしれないよ。それでも、まいんは、まいんだ」
「どうして?」
 あいちゃんが、そう聞いても、お父さんはにこにこしているだけです。お父さんの言うことは、あいちゃんには、わかるようで、わからないことが多いです。

 

       *

 

 あいちゃんのクラスに、愛(めぐむ)さんという男の子がいます。学校では、先生たちは児童たちを、男女の区別なく、さん付けにしています。愛さんは、よくからかわれます。名前が「あい」と読めるからです。あいちゃんには、自分の名前と同じ読み方ができる漢字の名前の男の子がいて、その子が「めぐむ」さんなのが、不思議でたまりません。
 どうして?

 愛さんには、お父さんがいません。亡くなったわけではないそうです。今は家にいないお父さんが、愛さんに愛という名前をつけてくれた。そんな話を、あいちゃんのお母さんと、愛さんのお母さんが話しているのを、あいちゃんは聞いたことがあります。お母さんたちは、仲がいいのです。
 愛さんのお父さんは、学校の先生らしいです。今は、あいちゃんと愛さんが住んでいる町にはいません。遠くに住んでいるようです。一か月に二度だけ、愛さんは、お父さんと会います。お父さんが、愛さんの家まで車でむかえに来てくれて、ドライブに連れて行ってくれるのです。
 その話を聞いたとき、あいちゃんは、うらやましいのと、悲しいのと、一緒になったような気持ちがしました。あいちゃんは、毎日お父さんと会えます。愛さんは、一か月に二度しか、お父さんに会えません。
 どうして?

 愛さんは、どんな気持ちでお父さんと会う日を待っているのだろう。あいちゃんは、よくそんなことを考えます。愛さんのことが気になるのです。でも、学校では、あいちゃんは愛さんのそばに行くことはありません。名前のことで、からかうクラスメートたちがいるからです。
 いやだな――。

 

 あいちゃんと愛さんは、小学校に入学したときから、同じクラスです。初めて、クラスのみんなと顔を合わせた日のことを、あいちゃんはよく覚えています。
 先生が、男子女子に関係なく、あいうえお順で、名字(みょうじ)と名前を合わせて、さん付けにして呼んでいきました。名字と名前を呼ばれて、「はい」と元気に返事をして起立します。そして、「はじめまして」とおじぎをしながら言ったあと、時計の針と同じ向きにまわりながら、教室の中を見わたすのです。みんなに名前と顔を覚えてもらうためです。
 そのときです。先生が言いました。
「恵(めぐみ)あいさんと、相田愛(あいだめぐむ)さんって、何となく似ていない?」
 二人の名前は、先生の持っている名簿では離れています。愛さんの名前は、最初に呼ばれました。あいちゃんの名前が呼ばれたのは、だいぶたってからです。それなのに、「何となく似ている」と先生が言ったことが、あいちゃんには不思議でたまりませんでした。
 どうして?

 それからです。あいちゃんと愛さんが、みんなにからかわれるようになったのは――。
 元気のいいあいちゃんは、みんなの人気者になりました。元気のない愛さんは、みんなからからかわれるようになりました。名前のことだけでなく、勉強のことや、運動のことや、いろんなことで、みんながからかうのです。あいちゃんには、それも不思議です。
 どうして?

 

       *

 

 愛さんは、一年生の時の夏休みが終わってから、学校をよく休むようになりました。先生が愛さんの家までむかえに行っても、学校に来なかったり、来ても保健室にいたりします。
 どうして?

 今、二年生のあいちゃんは、たくさんの漢字が読めるようになりました。学校の授業で習うというより、マンガを読んだり、ゲームをしていているうちに、自然に頭に入るのです。一つの漢字にいろいろな読み方があることも知りました。
 クラスメートの中には、とても画数の多い、ややこしい漢字の名字や名前の人もいます。大人が正しく読めない漢字の名前の人も、何人かいます。
 あいちゃんは、ひらがなだけの自分の名前が気に入っています。漢字の名前の人をうらやましいと思うこともありますが、ひらがなはやさしい感じがして好きです。漢字も、おもしろくて好きです。

 

 二年生になった始業式の日のことを、あいちゃんはよく思い出します。
「あいだめぐむさん」
 教室で朝礼のあとに、先生が名前を呼びましたが、返事はありませんでした。黒板には、席順を描いた画用紙が張られています。相田愛さんの席はあいちゃんの隣のはずなのに、相田愛さんはいません。
 どうして?

 そんなことを思い浮かべながら、愛さんが座っているはずの隣の席を見ていると、胸が熱くなってきました。
 どうして?

 二年生になって一か月がたとうとしているのに、愛さんは、ぜんぜん学校に来ません。保健室にいるという話も聞きません。引っ越したという話も聞きません。
 ある日、昼休みが終わって、午後の授業が始まろうとしているとき、あいちゃんは、誰もいない隣の席にふと目をやりました。机に落書きがしてありました。△と│を組み合わせた傘の絵が、描かれているのです。
 │をはさんで、右に「あい」、左に「愛」と書いてあります。細い鉛筆で描いてあるので、消そうと思えば消せるのですが、あいちゃんは、そのままにしておきました。
 どうしてなんだろう?

 落書きは、そのままにしてあります。
 あいちゃんは、授業中に退屈になると、その傘の絵に目をやります。愛さんが毎日家にいるという噂を思い出します。外にはぜんぜん出ないらしいのです。ゲームでもしてるのかな。そんなことを考えながら、「愛」という漢字を見つめます。毎日のお掃除のたびに、机の上をふくせいか、絵も文字もだんだん薄くなってきています。

 

       *

 

 ゴールデンウィークになりました。
 連休のあいだに、愛さんの家に行こう。愛さんに会いに行こう。ゴールデンウィークが終わったら、毎朝、愛さんをむかえに行って、一緒に学校に行くのだ。隣の席に愛さんにいてほしい――。あいちゃんは、そう思いました。
 でも、どうして、愛さんにいてほしいんだろう?


 五月三日。
 朝ご飯のあとに歯をみがきながら、あいちゃんは思いました。勇気を出して、きょうの午前中に、愛さんの家に行ってみよう。そう決心すると、体がほてってきました。
「お母さん、行って来まーす。まいんちゃん、行って来まーす」
 お母さんのお腹の中にいる、妹か弟かまだわからない赤ちゃんにも、あいさつをしました。
 空はくもっています。あいちゃんは、知らず知らずに駆け足になっていました。
 汗が額から頬に流れてきます。途中で、はっと気がつきました。愛さんに会って、何を話したらいいのか、ぜんぜん考えていないのです。お土産も、持ってきていません。
 愛さんのうちのドアが開いたら、何て言ったらいいんだろう。出てきたのが愛さんのお母さんなら、「愛さん、いますか」かな。愛さんが出てきたら……。
 どうしよう?

 とつぜん、ぱらぱらと大粒の雨が降ってきました。あいちゃんは、スピードをあげます。道路がぬれて、だんだん黒くなってきます。
 そのうち、なぜ自分が走っているのか、どこへむかっているのかが、わからなくなってきました。走りながら、声に出して言いました。
 どうして?


(おわり)

【※みなさん、お話の終わりに「ねえ、傘、貸して」と元気な声で言ってくれましたか? このタイトルが、あいちゃんが愛さんの家を訪ねたときに、あいちゃんが口にする言葉になるからです。二人は、教室の机に描かれた落書きのように、雨と傘のおかげで仲良しになれそうです。】

 






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