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輝きの日

 妹の世話――それだけがカルロスに与えられた責任でした。学校へは行かなくてもいい。妹のマルシアを見守り、一緒におやつを食べ、食事をし、両親の帰りを待つ。カルロスには、その生活に大きな不満はありません。
 マルシアはテレビが大好きです。テレビに熱中している間は、カルロスは心配する必要がありません。妹は寝転がったり、上体を起こした格好でクッションを抱きながら、テレビに見入っています。カルロスは、妹の背中に時々目をやるだけで済みます。妹が外に出なければ、それでいいのです。
 家にはテレビが二台あります。大きいほうは、マルシアが普通の放送を見ています。小さいほうは、DVDレコーダーに接続してあります。カルロスはマルシアと背中を向き合って、小さいほうの画面を眺めています。マルシアの立ち上がる気配がするたびに、カルロスは振り返り、妹の様子に気を配ります。
「お兄ちゃん、ちょっと見て――。あの遊園地、この町の近くにあるところだよね。また、連れて行ってもらえるかな」
 マルシアが母国の言葉で言いました。カルロスが振り向くと、大きな画面にアミューズメントパークの映像が映し出されています。ローカル番組のようです。確かに、数カ月前に両親と一緒に遊びに行った場所に見えます。ジェットコースターに見覚えがあります。マルシアとお母さんはジェットコースターが大好きですが、カルロスとお父さんは苦手です。
 そのジェットコースターを背景にして、マイクを手にした二人の女性が何やらしゃべっています。カルロスにはその言葉が分かりません。この国の言葉を話したり、読み書きすることができないのです。カルロスもマルシアも小学生ですが、お金や言葉の問題があって、この町の小学校に籍はあっても通えないのです。
「本当だ。温泉のある遊園地だ。でも、当分は連れて行ってもらえないだろうな」
「そうだよね。不景気だもんね。世界大不況だもんね――」とマルシアは言いました。その後は、母国の言葉からこの国の言葉に切り換えて、テレビに映っている二人の女性に何やら話し掛けています。マルシアは、そんなふうにテレビの前で、早口でひとり言を口にします。この国の言葉なので、カルロスには妹が何を言っているのかさっぱり分かりません。
 マルシアの声がうるさいと思いながらも、カルロスは小さいテレビのほうに向き直り、母国で作られた映画へと視線をもどしました。映画は、母国にある大きな都市に住む貧しい一家の物語です。これまで何度も繰り返して見たものですが、カルロスは見飽(みあ)きません。
 ちょうどカルロスが好きなシーンが映っています。一家のお父さんが自分の弟と一緒にお酒を飲みながら、外国に出稼(でかせ)ぎに行く相談をしています。二人とも楽しそうに夢を語っています。カルロスは、この映画の科白(せりふ)を全部暗記しています。
「まず新しいテレビを買うだろう、そして次は車だ。車は中古でいい」
「ぼくは車のほうが先だ。新品のほうがいいな。それからギターを買うんだ――」
 この場面では、カルロスは映画の登場人物と同時に科白をささやきます。カルロスもギターが欲しいのです。

 

       *

 

 正午の少し前に、フジタさんが訪ねて来ました。
「間に合ってよかった。あなたたち、お昼はまだでしょ。お母さんは、きょうは何を置いていったの?」とフジタさんが、カルロスたちの母国の言葉で言いました。
「ご飯と、きのうの夕飯の残りのシチュー」と、マルシアが答えます。
「そう。じゃあ、シチューを先に食べなさい。これは冷蔵庫に入れておけば大丈夫だから、明日のお昼にでも召し上がれ」
 フジタさんは、大きな紙袋から密閉式のプラスチック容器を取り出し、カルロスに手渡しました。フジタさんが手に持っている紙袋の底に、同じ容器が三個見えます。フジタさんは、カルロスたちのように、家にいる外国籍の子どもたちのいる家庭を回っています。
 週に何度か訪ねて来て、昼食を配ったり様子を見てくれます。服を持って来てくれることもあります。カルロスが聞いた話では、ボランティアのグループを作っていて、そのリーダーをしているとのことです。
「ありがとうございます」
 カルロスは容器を手にしたまま、頭を下げて礼を言いました。容器から漏(も)れる匂いから、中身は野菜と牛肉を煮たものだと分かります。カルロスもマルシアも大好きな料理です。
「フジタさん、ありがとう。お母さんが許してくれたら、明日じゃなくて夕飯に食べてもいい?」
「もちろん、どうぞご自由に」
 その後、フジタさんとマルシアは、この国の言葉で話し始めました。カルロスは容器を持ってキッチンに入りました。いい匂いを嗅いだせいか、冷蔵庫を開けたとたんに、お腹が鳴りました。玄関のドアが閉まる音がしました。カルロスは耳を澄ませます。ドアの錠がかかり、ドアチェーンがガチャガチャいう音がするのを聞き届けました。
 マルシアがキッチンに現れ、カルロスに向かって何か言いました。マルシアはカルロスに、うっかりとこの国の言葉で話し掛けることが時々あります。カルロスは、両手を開いて肩の上まで上げ、「分かんないよ」という意味の仕草をしました。

 

     *

 

 立体駐車場に面したコンビニの前に近づいて行くにつれて、マルシアの足どりが重くなるのをカルロスは感じました。妹には、自分たちがコンビニの中には入らないことが分かっています。妹はゆっくりと足を運んでいます。コンビニに興味を持っているのが伝わってきます。マルシアの足が止まりました。
 カルロスも中に入ってみたいのですが、陳列されたいろいろな商品が欲しくなり、みじめな思いをするだけだというのが分かっています。店の人たちも、親と一緒ではなくカルロスたちだけが店内に入るといい顔をしません。店を被(おお)うガラスに映っている自分たち二人の姿を、カルロスはしばらく見ていました。
「マルシア――」と、背後から声がしました。カルロスも知っている、近所に住む女性です。妹の名前だけは聞きとれましたが、あとは何をしゃべっているのか、カルロスには分かりません。マルシアはその女性を見るなり腰の辺りに抱きつき、二人は会話を始めました。
 マルシアは人見知りをしません。男性女性、大人子どもの区別なく、近所の誰とも口を利きます。猫や犬にも声を掛けます。初対面の人とも平気で話します。
「マルシアは誰とでも話す子だから、ちゃんと気をつけて見てあげてね」と、カルロスは両親からしょっちゅう言われています。
 妹には話している相手をなごませる力が備わっているようだ――。そうカルロスは思うことがあります。この国の言葉に不自由している様子は全く見られません。カルロスには、それが不思議で仕方ありません。うらやましく思うこともあります。
「コンビニは高いから、向こうのスーパーでおやつを買ってくれるって」
 近所の女性と話していたマルシアが言いました。こうした状況に慣れっこになっているカルロスは、その女性に軽く頭を下げて、おしゃべりを続けている二人の後をついて行きます。


       *

 

 ある日――。
 工場で働くお父さんが大けがをしました。お母さんが別の工場で働いているので、カルロスとマルシアが病院で付き添うことになりました。二人は年の割には体が大きいほうです。カルロスは小学校高学年、マルシアは小学校三、四年生の児童に見えます。特にマルシアはこの国の言葉がよく話せるために、一家の通訳兼保護者のような役目をすることがあります。
 いくら言葉をうまく話せても、この国の複雑な文字だけは、マルシアには歯が立ちません。話によると、文字の種類がいくつかあるだけでなく、そのうちの一種類には何千もの数があるというのです。マルシアはこの国の文字が分からなくても、話すだけなら難しい言葉も知っているようです。母国の言葉でも、妹のほうがたくさんの単語を知っています。
 お父さんが入院することになったときには、書類を前にしてペンを持つ病院の職員や医師や看護師の横にマルシアがついていました。そして、お父さんやカルロスの代わりに次々と質問に答え、手続きを進める手伝いをこなしました。

 お父さんは五人部屋に入りました。マルシアはこまめに部屋の男性たちのベッドを回ります。中には無愛想な人もいますが、気にせずに話し掛けたり、ちょっとした手伝いをします。やがて、ほかの病室や院内のいろいろな場所にも顔を出すようになりました。
「マルシアちゃんが来て、この部屋に花が咲いた――」
「院内全体がぱっと明るくなった気がする――」
「この患者さん、マルシアちゃんが一緒にいれば、ちゃんとご飯を食べてくれるのよ――」
 そんな言葉が患者やその付き添いの人たちからも、そして病院で働く人たちからも聞かれるようになりました。カルロスは、他人にそんな気持ちをいだかせる妹を誇らしく思いました。


 大きな怪我をしたお父さんは内臓にも病気があると診断され、長期の入院が必要だとお医者さんから告げられました。
 お父さんは高熱にうなされるようになりました。薬の入った点滴を受けて症状がいくぶんか治まると、ベッド脇の椅子に腰掛けたカルロスに向かって、母国の言葉で自分の子ども時代の話をしてくれます。声は弱々しいです。カルロスはお父さんの聞き役になろうと、一生懸命に耳を傾けます。
 お父さんの話はよく飛びます。最初のうちは、子どもだったころのいろいろな思い出がほとんどでした。川での釣り、木登り、農場での手伝い、いたずらをして叱(しか)られたこと、家で飼われていた家畜の出産、初めて海を見た時の驚き――カルロスにとっては、初めて聞く珍しい話ばかりでした。
 そのうち、お父さんのお祖父ちゃん、つまりカルロスにとっては曾(ひい)じいさんに当たる人が、よく語ってくれたという話をするようになりました。

――生きていると、苦しいことや、悲しいことがたくさんある。痛い目や、つらい目にも何度かあう。しかし、それが生きているという証(あか)しなのだから、受け入れるほかない。毎日、働けるだけで、人は感謝しなければならない。働ける土地があり、土地にまく種があり、土地に雨が降り、種から芽が出る。それだけでも、奇跡なのだ。畑に水を運び、手入れをし、その日のご褒美(ほうび)として食べ物を口にし、飲み物で渇きを癒(い)やす。それだけでも、奇跡なのだ。奇跡はすべての物に宿っている。生きた物にも、生きているようには見えない物にも。

――時には歌をうたって天と地をたたえ、生き物やいろいろな物たちの声に耳を澄まし、作物が育つことを祈る。そうすれば、やがて実りの時期がやってくる。もちろん、嵐もあれば、天から氷のかけらが降ることもある。日照りの日ばかりが続くこともある。育てている作物が、病で枯れることもある。すべては、天と地が何かを知らせるためにしていることだ。だから、人はその何かを知る努力をしなければならない。だが、その何かは、結局は分からない。知る努力をすることだけが大切なのかもしれない。

――神父様は天と地が知らせているその何かが分かると言うが、わたしには、その何かは分からない。わたしは、神父様よりもガテ様のほうが偉いと思う。ガテ様は分からないことは分からないとおっしゃる。分かる必要もないとおっしゃる。わたしには、ガテ様のほうが正直に思える。

 そんなふうに、お父さんは、お父さんのお祖父ちゃんの言葉を伝えます。いつの間にか、カルロスは、お父さんがその「お祖父ちゃん」になって、自分に語り掛けているような気持ちがしてきました。
 ガテ様って何だろう。神父様に分かって、ガテ様には分からないことって、何なのだろう。分からなくてもいいのは、なぜなのだろう――。カルロスは何度か、お父さんに尋ねようとしましたが、お父さんの病状が良くないことを思うと、声が出ません。お父さんの声は、日増しに弱々しく小さくなってきています。
 点滴を受けて少し元気が出ると、お父さんは、カルロスに母国の言葉でお父さんのお祖父ちゃんの話を繰り返します。
「ガテ様って何なの?」
 お父さんが元気そうな時に、カルロスは聞いてみました。
「わたしのじいちゃんの話だと、ガテ様は、よそ者の神父様や、神父様の言う神様よりも、ずっと前からうちの土地にいるそうだ。いつもわたしたちを守り、そして叱ってくださる」
「じゃあ、この国にはいないの?」
「いや。遠くから見ていてくださる。最近は、この近くにも来ていらっしゃる気がしてならない」
「お父さんの話、分かんない」と、カルロスは正直に言いました。

 

     *

 

 マルシアは、お父さんの話には関心を示しません。看護師や医師や病院で働いている人たち、そして患者さんたちのアイドルのような存在になっています。その様子を見ていて、きっと妹には人びとを癒やすという使命があるのだ。そのように、カルロスは思うようになりました。
 今では、お父さんの話は十分くらいで終わります。後はこんこんと眠るだけになりました。五人部屋にいるほかの患者たちは、言葉の通じない人ばかりです。備え付けのテレビも、言葉が分からないのでおもしろくありません。

「これ、プレゼント。分かる? プ・レ・ゼ・ン・ト――」
 ある日、カルロスは、同じ病室にいる退院間近の若い男の人から小型のラジオをもらいました。
 この地方には、カルロスの一家と同じ国の人たちがたくさん働いています。ラジオのつまみをある目盛りに合わせると、カルロスが小さかったころに聞いた懐かしい歌や、母国の言葉の情報番組や、ニュースが聞けます。カルロスが大好きな、ギターを使った母国の曲も流れます。カルロスにとっては、ラジオを聞くことだけが楽しみになりました。
 病院にいる限り、マルシアの世話をする必要もありません。みんなが妹を見守ってくれています。カルロスは、お父さんがポータブルトイレを使う時や、決められた時間に体温を測ったりするのを手伝います。院内のコインランドリーへ行き、洗濯や乾燥もします。
 入院してから二カ月ほどたった日。お父さんが、いつもとは違った話をしました。このころには、お父さんの病状はかなり悪化していました。お母さんも仕事を休んで、そばに付き添っています。お父さんは、すっかり痩せこけてしまいました。内臓の病気が悪いほうに向かっているらしいことを、カルロスはお母さんから聞かされました。

 

       *

 

 その日――。
 お父さんが急に生き生きとした声を出して、これまで聞いたことのない話をし始めました。お父さんのベッドを囲うカーテンをすべて閉め切り、カルロスとお母さんはじっと耳を傾けています。
「朝、目を覚ますと、周りのものすべてが黄金(こがね)色(いろ)に光り輝く日が来るんだ。まばゆさに目を細めるほどの、光が全身を包む――」
 ここで、お父さんはいきなり、しゃがれ声になりました。
「わしら人間は、その日のために楽しい思いもし、時にはつらさや悲しみに耐えながら生きるんだ。神父様は、わしらがいつか天に昇り、そこで光に包まれると言うが、あれは嘘だ。ガテ様は、わしらは生きているうちに一度だけ、何もかもが光り輝く日を迎えるとおっしゃっている。その後は、誰にも分からない。ガテ様はそうおっしゃる。誰にも分からない」
 お父さんは、父さんのお祖父ちゃんの声で話している――。カルロスは思いました。
 見ると、お父さんがほほ笑んでいます。カルロスとお母さんは、顔を見合わせました。入院して以来、お父さんがこんなにうれしそうな笑顔を見せたのは、初めてのことです。
 四方を白いカーテンで被った薄暗い中で、何か光るようなものを目にしたカルロスは、お父さんの顔に目を近づけました。しわの寄った老人のような顔。その目だけが、きらきら黄金色に輝いています。
 カルロスは、再びお母さんと目を合わせました。お母さんが硬い表情で大きくうなずきました。お母さんの目から涙がこぼれました。カルロスは、不思議に悲しいとは思いませんでした。お母さんには、あの黄金色の光は見えていない。きっと、あの光はお父さんからぼくへの贈(おく)り物だ――。カルロスは、なぜかは分からないまま、そう確信しました。
 お母さんが立ち上がり、ナースコールボタンを押すのを、カルロスは静かに見守っていました。

(了)





トイレ同盟

 始業式兼対面式の翌日、中嶋慶太(なかじまけいた)は早めに学校に着いた。校内は、しーんとしている。朝の練習のために登校したらしい、運動部かブラスバンドに属していると思われる生徒たちの姿が時々目に付くくらいだ。
 勝手が分からない一年生に見られないように平静を装い、慶太は足早に校舎内を歩き回った。建物の各階を手際よくチェックしなければならない。「2年B組」、「美術室」などと記されたプレートや、ドアの窓ガラスにペンキで書かれた表示を横目で見ながら、ひたすらトイレだけを探す。
 見つかると、男子トイレの出入り口の前で足を止める。あたりを見回して、すばやく戸を開ける。小便器、そして仕切りで囲まれた大便所の数と、手洗い用の台の位置を確認する。
 小学校のトイレに比べて汚く、雰囲気が暗い。建物自体が古いせいかもしれない、と慶太は思う。
 小学校では、音楽室と家庭科室が並ぶ階の端にあったトイレが一番利用しやすかった。めったに児童が入らないからだ。特別な授業のためだけに使われる部屋の近くのトイレ――それが狙(ねら)い目だ。
 教員用トイレもいい。便器のある仕切りの中に入ってさえしまえば、緊急用として役立つ。だが、女子トイレは、たとえ緊急時でもパスだ。何事にも、絶対にやってはいけないことがある――。そう考えた慶太は、ある出来事を思い出した。

 

 小学校五年生だった年の冬――。
 慶太は絶対にやってはいけないことの一つをしてしまった。昼間でも気温が例年より低かった日の翌朝に、臨時の全校集会が開かれた。
「きのう、体育館の物置でおしっこをした人がいます――」
 体育館で全児童を前にして、女性の校長が言った。
 館内でざわめきが起こった。「えーっつ」、「うそー」、「マジ?」、「いやだー」、「おまえじゃないのか?」――そんな言葉が周りでささやかれるのを、慶太は黙って聞いていた。
「そのために、みんなの使っているマットが一枚台無しになりました。とても残念です。でも、先生たちみんなで話し合いをした結果、その人を許すことにしました。マットのことは、なかったことにします。なぜだが、分かりますか?」
 校長は続けてそう言い、首を右から左へ、次に左から右へとゆっくり回して、児童全体に視線を投げた。そして、再び正面を向いた。
「わたしたちがその人を許すのは、正直な人だからです。きっと、やむを得ない何かの理由があったのでしょう。いたずらではないことは確かなようです。マットに、鉛筆で『ごめんなさい』と書かれていたからです」
 再び、体育館の中がざわめいた。慶太は顔が赤くならないように、深呼吸を繰り返した。その日も肌寒く、吸い込む空気が冷たかった。耳が火照るのだけは防げなかった。
「その人に言いたいことがあります。あなたは正直な人です。でも、あなたのしたことは、よくないことです。分かっていますね。分かっているから、『ごめんなさい』と書いてくれたのですね。わたしたちは、正直なあなたに勇気も持ってほしいと思います。お手紙でも、電話でも、いいです。理由を聞かせてください。どうして、あのようなことをしたのですか。そのことを、わたしたちに知らせてくれる勇気を持ってほしいのです」

 全校集会の前日。
 音楽の授業が終わったあと、慶太はせっぱ詰まった状態に追い込まれた。音楽室に近いトイレは、クラスメートの「溜まり場」になっていた。そのトイレを使うのをあきらめて、体育館に付属したトイレに向かった。すると、そこは体育の授業を終えた六年生の「休憩所」になっていた。
 漏れそうだ。どうしよう。とっさに目に入った一人だけになれる個室は、体育館の用具室だった。慶太はつま先立ちになって、そっと――それでいて素早く用具室に忍び込んだ。
 どこでしよう? 壁、床、跳び箱、マット、大小のボールの入った大きな籠……。迷っているうちに始業のチャイムが鳴り始めた。なぜマットを選んだのか、自分でも分からない。用を足すなり、慶太は教室まで走って戻った。
 算数の授業が終わるとすぐに、青鉛筆一本をポケットに入れて、体育館の用具室まで駆けて行った。ばれていないだろうか。不安でならなかった。胸がどきどきした。
「ごめんなさい」と何度かなぞって太く書くだけで、精一杯だった。もっと書きたいことがあったが、書けなかった。説明したとしても、分かってもらえない気がした。

 ごめんなさい。
 でも、本当に仕方がなかったんです。ぼくにとっては、生きるか死ぬかの問題なんです。不登校なんて、したくないんです。学校が好きなんです。学校に通いたいんです。だから、許してください――。
 そんな言葉を口に出さず、心の中で何度も繰り返した。全校集会のあった日から数日間、夢の中で口走っていた夜もあった。匿名での手紙を書こうとするたびに、テレビの刑事ドラマのように、指紋を調べたり筆跡鑑定をされるような気がした。
 どうしよう? 
 いろいろな刑事ドラマのシーンが頭に浮かんだ。
 そうだ!
 迷ったあげく、「ごめんなさい。トイレにほかの人がいると、おしっこができないんです。マットのお金は、大きくなったら必ず弁償します」と、手袋をした左手で手紙を書いて投函(とうかん)した。

 

「ずいぶん、早いね」
 背後から声を掛けられて、慶太は全身の血液が急停止したようなショックを覚えた。
「新入生だよな」
 振り向くと、入学式と昨日の始業式で見た覚えのある男性教師の顔が見下ろしている。痩せているが、背が高い人だった。一八〇センチ以上あるのではないか、と慶太は自分の身長から想像する。一年生のクラスを受け持つ一人だったような記憶がある。
「おはようございます」
 慶太は頭を下げ、きちんと挨拶が出来た自分に驚いていた。ぎゃあ、とか叫ばなくてよかったと思う。
「朝練の様子を見せてもらおうと思って、早く来ちゃいました」と言いながら、自分でもよくこれだけ落ち着いて嘘がつけるものだと感心する。一瞬凍りついたようだった全身の血液が、今度は熱くなって駆けめぐるような気がしてきた。耳が火照る。
「新入生の部活参加は、まだ禁止だぞ」と教師は言い、「おまえ、ハンドボールをやらないか? 勧誘も禁止なんだけどな」と、くしゃくしゃの笑顔を作って付け加えた。

 

       *

 

「ふーん」
 その日の放課後の帰り道――。早朝での教師とやり取りを、臨場感たっぷりに再現したつもりなのに、川村翔(かわむらしょう)の反応はいまいちだった。慶太は、遅れ気味についてくる翔と歩調を合わせるのに苦労した。二人をほかの生徒たちが追い抜いていく。
 翔が元気のない理由は分かっている。慶太は校内にある全トイレの状況について、昼休みに詳しく翔に話しておいた。だが、生徒たちがいない早朝の様子と、それ以後とでは状態が大きく異なる。授業の時間割は毎日が同じではないから、曜日によっても状況は変わる。
「で、どうだった?」と、慶太は小声で尋ねた。
「駄目みたい」
「決めつけるなって、小学校でも何とかやってきたじゃん。大丈夫だってば。いろいろ手はある。なせば成る。精神一到何事か成らざらん。類は友を呼ぶ。大山(たいざん)鳴動(めいどう)して鼠(ねずみ)一匹。チュー」
「ふう」
 塾の春期講習で覚えたばかりの慣用句を連発して、慶太は懸命に励まそうとしたが、翔はため息を漏らしただけだった。慶太は心配になった。小学校六年の時には同じクラスだったために、連携して何かと小細工ができたが、中学では二人はクラスが別になってしまった。
 慶太は足が速いが、翔は遅い。とっさの場合に機転が利き、楽観的な慶太に比べて、翔は何かにつけ消極的に考え、あきらめやすい。そんな対照的な二人が同盟を結んでいる。最初は二人して、「二人同盟」と名付けていた。
 トイレ以外のことでも、二人は仲がよかった。慶太が青山(あおやま)奈(な)菜(な)と「付き合う」とまではいかない間柄になって以来、「二人同盟」から「トイレ同盟」へと慶太が勝手に名前を変えた――。

「ぼく、不登校になるかもしれない」
 翔がぼそっとつぶやいた。
「おまえ、結論を出すのが早すぎるんだよ。何か問題があったら、一緒に考えようって誓(ちか)い合っただろう? トイレ同盟、忘れんなよ」
 数週間前だったら、こんな場合には翔の肩に手を回したのに、慶太は伸ばしかけた手を引っ込めた。母親の助言で大きめの学生服を着ていて、これまでとは違った人間になった気がするせいか、中学生になったという自覚があるためか、照れくさい気がする。翔をどう慰めていいかが分からない。

 

       *

 

 学校でも、デパートや公園のトイレでも、他人が隣の小便器に立っていたり、後ろで待っていると、小便ができない。そんなふうになったのは、小学校四年生くらいになってからではないか――。慶太は振り返る。正確には、いつからなのか。何かきっかけがあったのか。病気なのか。いろいろ考えてみたが、分からない。
 トイレに他人がいると、自分がかなり緊張するのを感じる。そのために、小便が出ない。焦(あせ)る。すると余計に緊張する。だから出ない。焦る。出ない――。そこまでは自覚している。なぜなのか。どうすれば、こんな状況から脱出できるのか。それについては、さっぱり見当がつかない。恥ずかしくて誰にも相談できない。

 小学生だった時には、授業の間の十分から二十分の休み時間に、トイレ内が自分を除いて無人になることはまれだった。慶太は小便がしたくなると、自分のクラスや学年が利用するトイレを避けて、わざわざ遠くのトイレにまで走って行ったり、次の授業の開始を知らせるチャイム寸前まで、トイレの近くを何げない顔をしながらぶらぶらする。漏れそうになるのを必死で我慢して、トイレに誰もいなくなるのを待つ。そんな工夫をしていた。
 大便用の仕切りに入るのには、相当な勇気が必要だった。見つかると、しつこくからかう児童が何人もいる。仕切りの上から掃除道具やバケツの水を投げ込まれることもある。下手をするとイジメの対象になる。実際、それが原因で不登校や「保健室登校組」になった児童もいた。
 チャイムの鳴る時間が近づき、自分が大便所に入るのを目撃していないという十分な確信がある時にだけ、駆け込んで閉じこもる。これしかなかった。
 授業に遅れるのが当たり前になった。足が速いのが、せめてもの救いだった。それでも、クラスメートからは不審の目で見られるし、先生からもしょっちゅう注意された。おしっこを漏らしたり、学校に行けなくなるよりはましだ。そう自分に言い聞かせて、小学校での日々を何とか切り抜けてきた。毎日が戦争だった。

 

       *

 

「きょう、休んだだろう」
 始業式から四日目の晩、慶太は翔の家に電話をした。
「おい、黙っていちゃ分かんないよ。おまえ、どうする気だ」
 そう尋ねても、翔は返事をしない。かすかに鼻をすするような音が聞こえた。泣いているにちがいない。
「苦しいのは分かる。でも、逃げてるなんて、悔(くや)しいじゃないか。一緒に考えようよ。おれたち、トイレ同盟は不滅だぜ――」
 元気づけるつもりで言ってみたが、翔には冗談めいた言い方が全く通じないことは、これまでの経験で承知している。

 

 慶太は思い出す。
 小学校時代に、自分と同じくトイレに行くのに苦労している者が何人かいた。他人がそばにいると、小便がなかなか出ないらしい児童。体質で頻繁(ひんぱん)に下痢をする児童。身体に障害がある児童。
 小便が出にくい場合には、程度の問題もあるし、その児童自身の性格や周りの児童との人間関係などで深刻さが左右される。悩みをかかえた児童は一人ひとりが何とかやりくりしている、という印象を慶太は受けた。だが、面と向かい、腹を割って、その問題について話し合える相手はいなかった。
 不登校や保健室登校の状態になっている児童の中に、自分と同じような悩みを持つ者がいるような気もした。慶太自身が、そうなりかけたからだった。
 どうしてなんだろう。そばに他人がいると、おしっこが出ない。出にくい。自分は重症だという思いがあった。やっぱり病気なんだろうか――。

 翔がトイレに行くことで苦労をしているのを慶太が知ったのは、小学五年生になってクラス替えがあり、同じクラスになってからだ。始業寸前に二人でトイレにいることが何回か重なって、ぴんと来た。ちょっとうれしかった。後で聞いたことだが、翔もぴんと来たと言った。
 慶太は、大便用の仕切りの中で小便をするほうが落ち着く。小便器は、ほとんど利用しない。男子トイレが、女子トイレみたいに全部個室だったら――と何度思ったかしれない。不思議なことに、翔は小便器しか使わない。慶太は仕切りの内、翔は小便器という具合に、テリトリーが決まったような形になった。
 小学五年の初夏、「二人同盟」を結んで間もなく、慶太の提案でトイレ練習をしたことがあった。早朝や放課後に、人気(ひとけ)のないトイレで小便器に並んでおしっこをする。普段はなるべく水分を取らないようにしている二人が、その日は水筒を持参して、練習の少し前からがぶがぶお茶を飲んでおく。
 同盟関係にあると言っても、しょせん二人は他人同士。緊張するのは変わらない。だから、隣り合って、小便器に並んで、おしっこをする練習をした。
 慶太は目をつぶって精神統一をはかる。出ますように出ますようにとか、気にしない気にしないと、心の中でおまじないをつぶやく。一方、翔は顔を反対側に向けて、おしっこが出るのを無言でじっと待っている。慶太のほうが、時間がかかる。
「おれ、やっぱり個室にする」と言って、仕切り内に入ったことが何度もある。小便器になじめない。小学校六年生のとき、二人で外を歩いていて、たまたま公園のトイレが目についた。練習をしようと慶太が誘うと、翔がうろたえた様子を示したのには驚いた。
「嫌だ、絶対に嫌だ」
 普段には見せることのない、翔の断固とした拒絶の表情を目にし、慶太はあっけにとられていた。
 デパートのトイレに入ろうと誘った時にも、翔は拒否した。慶太は翔のおびえた顔つきに、ただならないものを感じた。よく見ると、翔の体がかすかに震えている。公衆トイレは苦手らしい。前に何か嫌な経験をしたとか、怖い目にでもあったのか――。慶太は、触れてはいけないものに触れた気がした。
 やがて、慶太は「二人同盟」から「トイレ同盟」へと名前を勝手に変えたが、二人の間でもその新しい名称はめったに口にされなくなった。ただ、同盟関係は続いていた。

 

「――わざと遅刻するとか、保健室に行くとか、頭やお腹が痛いからと嘘をついて早退するとか、いろいろやってきたじゃないか」
 慶太は電話の送話口に向かって言ってはみたが、依然として翔の声は聞こえてこない。
「今まで通りにやっていけば、いいんだよ。でも、全然学校に行かないのは駄目だ。前に、何度も話し合ったじゃん。だから、明日は絶対に来るんだぞ。待ってるからな」
 一方的に言い、慶太は受話器を置いた。
 受話器を見つめながら、青山奈菜に電話しようという思いが頭をもたげた。中学に進学して奈菜と同じクラスになったことが、慶太には信じられなかった。うれしくて、たまらない。
 慶太と奈菜は、母親同士の仲がいい。奈菜の母親は、慶太が電話をしても愛想よく奈菜に回してくれる。とはいえ、いざとなると躊躇(ちゅうちょ)する。
 明後日の土曜日に、奈菜と一緒に映画を見に行きたい――。慶太は思う。このあいだの春休みの一日みたいに、映画の後で肩を並べて、いろいろなことをしゃべりながら、シネコンとくっついたショッピングセンターの中を歩き回りたい。わざと馬鹿なことを言って、奈菜を笑わせたい。笑うときの奈菜のかわいい顔を、また見たい。
 慶太は電話機から離れられずにいた。居間のカーペットの上に腰を下ろし、体育座りをする。
 その日の昼休みに、学校で奈菜たちが話していたことを思い出した。クラスでは、まだ同じ小学校の出身者同士が固まる。慶太は東小出身の男子生徒の固まりの端にいながら、近くにいる奈菜たちの会話に何となく耳を傾けていた。
「だってあの子たち、前からトイレ友達じゃん――」
 そんな言葉の切れ端を耳にした記憶が、不意によみがえった。「トイレ友達」という言い方は、小学生のころから聞き慣れている。男子がよく口にする「連れション」というのとは、違った響きがある。翔に電話した後のせいか、その言葉が気になる。
「トイレ友達かあ」
 慶太はつぶやき、おしっこ問題で悩んだり苦しんでいる様子の見られない、女の子たちをうらやましく思った。

 
(了)





あとがき

 この作品集に収められた小説には、人間や人間以外の生き物が登場します。「生き物」って、いい言葉だと思いませんか? 「生きる」という言葉は、「息」と関係があるそうです。
 息は空気ですね。空気があるから、地球という星には「生き物」がいるのでしょう。その大切な空気が、だんだん暖かく、そして熱くなってきている。そんな話を聞いたことがありませんか? そうです。地球温暖化が進んでいるらしいのです。
 生き物には命が宿っています。
 命って何なのでしょう? ひとりでは生きられないもの――わたしは、そう思っています。

 四編の作品に出てくる人や生き物たちは、みんなひとりでは生きられないものばかりです。助け合う。協力し合う。ゆずり合う。手をつなぎ合う――。そうやって、みんなは生きているのです。
 自分はひとりじゃない。ほかの人や生き物たちも、ひとりで生きているのではない。みんなが命というもので、つながって生きている――。この作品集を読んだ人たちが、そのことにあらためて気づいてくれれば、とてもうれしいです。

 





奥付



ひとりじゃない


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著者 : 星野廉
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