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輝きの日

輝きの日

 妹の世話――それだけがカルロスに与えられた責任でした。学校へは行かなくてもいい。妹のマルシアを見守り、一緒におやつを食べ、食事をし、両親の帰りを待つ。カルロスには、その生活に大きな不満はありません。
 マルシアはテレビが大好きです。テレビに熱中している間は、カルロスは心配する必要がありません。妹は寝転がったり、上体を起こした格好でクッションを抱きながら、テレビに見入っています。カルロスは、妹の背中に時々目をやるだけで済みます。妹が外に出なければ、それでいいのです。
 家にはテレビが二台あります。大きいほうは、マルシアが普通の放送を見ています。小さいほうは、DVDレコーダーに接続してあります。カルロスはマルシアと背中を向き合って、小さいほうの画面を眺めています。マルシアの立ち上がる気配がするたびに、カルロスは振り返り、妹の様子に気を配ります。
「お兄ちゃん、ちょっと見て――。あの遊園地、この町の近くにあるところだよね。また、連れて行ってもらえるかな」
 マルシアが母国の言葉で言いました。カルロスが振り向くと、大きな画面にアミューズメントパークの映像が映し出されています。ローカル番組のようです。確かに、数カ月前に両親と一緒に遊びに行った場所に見えます。ジェットコースターに見覚えがあります。マルシアとお母さんはジェットコースターが大好きですが、カルロスとお父さんは苦手です。
 そのジェットコースターを背景にして、マイクを手にした二人の女性が何やらしゃべっています。カルロスにはその言葉が分かりません。この国の言葉を話したり、読み書きすることができないのです。カルロスもマルシアも小学生ですが、お金や言葉の問題があって、この町の小学校に籍はあっても通えないのです。
「本当だ。温泉のある遊園地だ。でも、当分は連れて行ってもらえないだろうな」
「そうだよね。不景気だもんね。世界大不況だもんね――」とマルシアは言いました。その後は、母国の言葉からこの国の言葉に切り換えて、テレビに映っている二人の女性に何やら話し掛けています。マルシアは、そんなふうにテレビの前で、早口でひとり言を口にします。この国の言葉なので、カルロスには妹が何を言っているのかさっぱり分かりません。
 マルシアの声がうるさいと思いながらも、カルロスは小さいテレビのほうに向き直り、母国で作られた映画へと視線をもどしました。映画は、母国にある大きな都市に住む貧しい一家の物語です。これまで何度も繰り返して見たものですが、カルロスは見飽(みあ)きません。
 ちょうどカルロスが好きなシーンが映っています。一家のお父さんが自分の弟と一緒にお酒を飲みながら、外国に出稼(でかせ)ぎに行く相談をしています。二人とも楽しそうに夢を語っています。カルロスは、この映画の科白(せりふ)を全部暗記しています。
「まず新しいテレビを買うだろう、そして次は車だ。車は中古でいい」
「ぼくは車のほうが先だ。新品のほうがいいな。それからギターを買うんだ――」
 この場面では、カルロスは映画の登場人物と同時に科白をささやきます。カルロスもギターが欲しいのです。

 

       *

 

 正午の少し前に、フジタさんが訪ねて来ました。
「間に合ってよかった。あなたたち、お昼はまだでしょ。お母さんは、きょうは何を置いていったの?」とフジタさんが、カルロスたちの母国の言葉で言いました。
「ご飯と、きのうの夕飯の残りのシチュー」と、マルシアが答えます。
「そう。じゃあ、シチューを先に食べなさい。これは冷蔵庫に入れておけば大丈夫だから、明日のお昼にでも召し上がれ」
 フジタさんは、大きな紙袋から密閉式のプラスチック容器を取り出し、カルロスに手渡しました。フジタさんが手に持っている紙袋の底に、同じ容器が三個見えます。フジタさんは、カルロスたちのように、家にいる外国籍の子どもたちのいる家庭を回っています。
 週に何度か訪ねて来て、昼食を配ったり様子を見てくれます。服を持って来てくれることもあります。カルロスが聞いた話では、ボランティアのグループを作っていて、そのリーダーをしているとのことです。
「ありがとうございます」
 カルロスは容器を手にしたまま、頭を下げて礼を言いました。容器から漏(も)れる匂いから、中身は野菜と牛肉を煮たものだと分かります。カルロスもマルシアも大好きな料理です。
「フジタさん、ありがとう。お母さんが許してくれたら、明日じゃなくて夕飯に食べてもいい?」
「もちろん、どうぞご自由に」
 その後、フジタさんとマルシアは、この国の言葉で話し始めました。カルロスは容器を持ってキッチンに入りました。いい匂いを嗅いだせいか、冷蔵庫を開けたとたんに、お腹が鳴りました。玄関のドアが閉まる音がしました。カルロスは耳を澄ませます。ドアの錠がかかり、ドアチェーンがガチャガチャいう音がするのを聞き届けました。
 マルシアがキッチンに現れ、カルロスに向かって何か言いました。マルシアはカルロスに、うっかりとこの国の言葉で話し掛けることが時々あります。カルロスは、両手を開いて肩の上まで上げ、「分かんないよ」という意味の仕草をしました。

 

     *

 

 立体駐車場に面したコンビニの前に近づいて行くにつれて、マルシアの足どりが重くなるのをカルロスは感じました。妹には、自分たちがコンビニの中には入らないことが分かっています。妹はゆっくりと足を運んでいます。コンビニに興味を持っているのが伝わってきます。マルシアの足が止まりました。
 カルロスも中に入ってみたいのですが、陳列されたいろいろな商品が欲しくなり、みじめな思いをするだけだというのが分かっています。店の人たちも、親と一緒ではなくカルロスたちだけが店内に入るといい顔をしません。店を被(おお)うガラスに映っている自分たち二人の姿を、カルロスはしばらく見ていました。
「マルシア――」と、背後から声がしました。カルロスも知っている、近所に住む女性です。妹の名前だけは聞きとれましたが、あとは何をしゃべっているのか、カルロスには分かりません。マルシアはその女性を見るなり腰の辺りに抱きつき、二人は会話を始めました。
 マルシアは人見知りをしません。男性女性、大人子どもの区別なく、近所の誰とも口を利きます。猫や犬にも声を掛けます。初対面の人とも平気で話します。
「マルシアは誰とでも話す子だから、ちゃんと気をつけて見てあげてね」と、カルロスは両親からしょっちゅう言われています。
 妹には話している相手をなごませる力が備わっているようだ――。そうカルロスは思うことがあります。この国の言葉に不自由している様子は全く見られません。カルロスには、それが不思議で仕方ありません。うらやましく思うこともあります。
「コンビニは高いから、向こうのスーパーでおやつを買ってくれるって」
 近所の女性と話していたマルシアが言いました。こうした状況に慣れっこになっているカルロスは、その女性に軽く頭を下げて、おしゃべりを続けている二人の後をついて行きます。


       *

 

 ある日――。
 工場で働くお父さんが大けがをしました。お母さんが別の工場で働いているので、カルロスとマルシアが病院で付き添うことになりました。二人は年の割には体が大きいほうです。カルロスは小学校高学年、マルシアは小学校三、四年生の児童に見えます。特にマルシアはこの国の言葉がよく話せるために、一家の通訳兼保護者のような役目をすることがあります。
 いくら言葉をうまく話せても、この国の複雑な文字だけは、マルシアには歯が立ちません。話によると、文字の種類がいくつかあるだけでなく、そのうちの一種類には何千もの数があるというのです。マルシアはこの国の文字が分からなくても、話すだけなら難しい言葉も知っているようです。母国の言葉でも、妹のほうがたくさんの単語を知っています。
 お父さんが入院することになったときには、書類を前にしてペンを持つ病院の職員や医師や看護師の横にマルシアがついていました。そして、お父さんやカルロスの代わりに次々と質問に答え、手続きを進める手伝いをこなしました。

 お父さんは五人部屋に入りました。マルシアはこまめに部屋の男性たちのベッドを回ります。中には無愛想な人もいますが、気にせずに話し掛けたり、ちょっとした手伝いをします。やがて、ほかの病室や院内のいろいろな場所にも顔を出すようになりました。
「マルシアちゃんが来て、この部屋に花が咲いた――」
「院内全体がぱっと明るくなった気がする――」
「この患者さん、マルシアちゃんが一緒にいれば、ちゃんとご飯を食べてくれるのよ――」
 そんな言葉が患者やその付き添いの人たちからも、そして病院で働く人たちからも聞かれるようになりました。カルロスは、他人にそんな気持ちをいだかせる妹を誇らしく思いました。


 大きな怪我をしたお父さんは内臓にも病気があると診断され、長期の入院が必要だとお医者さんから告げられました。
 お父さんは高熱にうなされるようになりました。薬の入った点滴を受けて症状がいくぶんか治まると、ベッド脇の椅子に腰掛けたカルロスに向かって、母国の言葉で自分の子ども時代の話をしてくれます。声は弱々しいです。カルロスはお父さんの聞き役になろうと、一生懸命に耳を傾けます。
 お父さんの話はよく飛びます。最初のうちは、子どもだったころのいろいろな思い出がほとんどでした。川での釣り、木登り、農場での手伝い、いたずらをして叱(しか)られたこと、家で飼われていた家畜の出産、初めて海を見た時の驚き――カルロスにとっては、初めて聞く珍しい話ばかりでした。
 そのうち、お父さんのお祖父ちゃん、つまりカルロスにとっては曾(ひい)じいさんに当たる人が、よく語ってくれたという話をするようになりました。

――生きていると、苦しいことや、悲しいことがたくさんある。痛い目や、つらい目にも何度かあう。しかし、それが生きているという証(あか)しなのだから、受け入れるほかない。毎日、働けるだけで、人は感謝しなければならない。働ける土地があり、土地にまく種があり、土地に雨が降り、種から芽が出る。それだけでも、奇跡なのだ。畑に水を運び、手入れをし、その日のご褒美(ほうび)として食べ物を口にし、飲み物で渇きを癒(い)やす。それだけでも、奇跡なのだ。奇跡はすべての物に宿っている。生きた物にも、生きているようには見えない物にも。

――時には歌をうたって天と地をたたえ、生き物やいろいろな物たちの声に耳を澄まし、作物が育つことを祈る。そうすれば、やがて実りの時期がやってくる。もちろん、嵐もあれば、天から氷のかけらが降ることもある。日照りの日ばかりが続くこともある。育てている作物が、病で枯れることもある。すべては、天と地が何かを知らせるためにしていることだ。だから、人はその何かを知る努力をしなければならない。だが、その何かは、結局は分からない。知る努力をすることだけが大切なのかもしれない。

――神父様は天と地が知らせているその何かが分かると言うが、わたしには、その何かは分からない。わたしは、神父様よりもガテ様のほうが偉いと思う。ガテ様は分からないことは分からないとおっしゃる。分かる必要もないとおっしゃる。わたしには、ガテ様のほうが正直に思える。

 そんなふうに、お父さんは、お父さんのお祖父ちゃんの言葉を伝えます。いつの間にか、カルロスは、お父さんがその「お祖父ちゃん」になって、自分に語り掛けているような気持ちがしてきました。
 ガテ様って何だろう。神父様に分かって、ガテ様には分からないことって、何なのだろう。分からなくてもいいのは、なぜなのだろう――。カルロスは何度か、お父さんに尋ねようとしましたが、お父さんの病状が良くないことを思うと、声が出ません。お父さんの声は、日増しに弱々しく小さくなってきています。
 点滴を受けて少し元気が出ると、お父さんは、カルロスに母国の言葉でお父さんのお祖父ちゃんの話を繰り返します。
「ガテ様って何なの?」
 お父さんが元気そうな時に、カルロスは聞いてみました。
「わたしのじいちゃんの話だと、ガテ様は、よそ者の神父様や、神父様の言う神様よりも、ずっと前からうちの土地にいるそうだ。いつもわたしたちを守り、そして叱ってくださる」
「じゃあ、この国にはいないの?」
「いや。遠くから見ていてくださる。最近は、この近くにも来ていらっしゃる気がしてならない」
「お父さんの話、分かんない」と、カルロスは正直に言いました。

 

     *

 

 マルシアは、お父さんの話には関心を示しません。看護師や医師や病院で働いている人たち、そして患者さんたちのアイドルのような存在になっています。その様子を見ていて、きっと妹には人びとを癒やすという使命があるのだ。そのように、カルロスは思うようになりました。
 今では、お父さんの話は十分くらいで終わります。後はこんこんと眠るだけになりました。五人部屋にいるほかの患者たちは、言葉の通じない人ばかりです。備え付けのテレビも、言葉が分からないのでおもしろくありません。

「これ、プレゼント。分かる? プ・レ・ゼ・ン・ト――」
 ある日、カルロスは、同じ病室にいる退院間近の若い男の人から小型のラジオをもらいました。
 この地方には、カルロスの一家と同じ国の人たちがたくさん働いています。ラジオのつまみをある目盛りに合わせると、カルロスが小さかったころに聞いた懐かしい歌や、母国の言葉の情報番組や、ニュースが聞けます。カルロスが大好きな、ギターを使った母国の曲も流れます。カルロスにとっては、ラジオを聞くことだけが楽しみになりました。
 病院にいる限り、マルシアの世話をする必要もありません。みんなが妹を見守ってくれています。カルロスは、お父さんがポータブルトイレを使う時や、決められた時間に体温を測ったりするのを手伝います。院内のコインランドリーへ行き、洗濯や乾燥もします。
 入院してから二カ月ほどたった日。お父さんが、いつもとは違った話をしました。このころには、お父さんの病状はかなり悪化していました。お母さんも仕事を休んで、そばに付き添っています。お父さんは、すっかり痩せこけてしまいました。内臓の病気が悪いほうに向かっているらしいことを、カルロスはお母さんから聞かされました。

 

       *

 

 その日――。
 お父さんが急に生き生きとした声を出して、これまで聞いたことのない話をし始めました。お父さんのベッドを囲うカーテンをすべて閉め切り、カルロスとお母さんはじっと耳を傾けています。
「朝、目を覚ますと、周りのものすべてが黄金(こがね)色(いろ)に光り輝く日が来るんだ。まばゆさに目を細めるほどの、光が全身を包む――」
 ここで、お父さんはいきなり、しゃがれ声になりました。
「わしら人間は、その日のために楽しい思いもし、時にはつらさや悲しみに耐えながら生きるんだ。神父様は、わしらがいつか天に昇り、そこで光に包まれると言うが、あれは嘘だ。ガテ様は、わしらは生きているうちに一度だけ、何もかもが光り輝く日を迎えるとおっしゃっている。その後は、誰にも分からない。ガテ様はそうおっしゃる。誰にも分からない」
 お父さんは、父さんのお祖父ちゃんの声で話している――。カルロスは思いました。
 見ると、お父さんがほほ笑んでいます。カルロスとお母さんは、顔を見合わせました。入院して以来、お父さんがこんなにうれしそうな笑顔を見せたのは、初めてのことです。
 四方を白いカーテンで被った薄暗い中で、何か光るようなものを目にしたカルロスは、お父さんの顔に目を近づけました。しわの寄った老人のような顔。その目だけが、きらきら黄金色に輝いています。
 カルロスは、再びお母さんと目を合わせました。お母さんが硬い表情で大きくうなずきました。お母さんの目から涙がこぼれました。カルロスは、不思議に悲しいとは思いませんでした。お母さんには、あの黄金色の光は見えていない。きっと、あの光はお父さんからぼくへの贈(おく)り物だ――。カルロスは、なぜかは分からないまま、そう確信しました。
 お母さんが立ち上がり、ナースコールボタンを押すのを、カルロスは静かに見守っていました。

(了)