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ねえ、傘、貸して

ねえ、傘、貸して

【※物語が始まる前に、みなさんにお願いがあります。このお話を読み終えたときに、タイトルの「ねえ、傘、貸して」を声を出して口にしてみてください。どうしてなのかは、お話の終わりに書きます。】

 

 あいちゃんは、八歳で小学校の二年生。長女で、その下に、まいちゃん五歳、みいちゃん四歳の二人の妹がいます。
 あいちゃんのお父さんは、大工さんをしています。からだがとても大きくて、授業参観日に教室のうしろで、クラスメートのお母さんやお父さんたちと並ぶと、目立ちます。
「あい、まい、みい、まいん」
 お父さんは、夕ご飯のあとで、よくそんなふうに大声で歌うように叫びます。お酒に酔っているのです。
「よーし、もう一人、妹が来るようにすっからな」
 酔ったお父さんが、三人の娘に言います。すると、お母さんが、「もう、いいですよ」と、必ず言い返します。そんなときの、お父さんとお母さんは、うれしそうです。だから、あいちゃん、まいちゃん、みいちゃんも、ほほ笑み、家の中が明るくなります。
「あい、まい、みい、まいん」
 いつの間にか、お母さんを除くみんなで、節をつけて叫ぶようになりました。お母さんは、照れくさそうにして、にこにこしているだけです。

「まいんちゃんが、今度来る妹なの?」
 あるとき、あいちゃんは、お父さんにたずねました。
「そうだなあ。そのつもりなんだけど、弟かもしれないよ。それでも、まいんは、まいんだ」
「どうして?」
 あいちゃんが、そう聞いても、お父さんはにこにこしているだけです。お父さんの言うことは、あいちゃんには、わかるようで、わからないことが多いです。

 

       *

 

 あいちゃんのクラスに、愛(めぐむ)さんという男の子がいます。学校では、先生たちは児童たちを、男女の区別なく、さん付けにしています。愛さんは、よくからかわれます。名前が「あい」と読めるからです。あいちゃんには、自分の名前と同じ読み方ができる漢字の名前の男の子がいて、その子が「めぐむ」さんなのが、不思議でたまりません。
 どうして?

 愛さんには、お父さんがいません。亡くなったわけではないそうです。今は家にいないお父さんが、愛さんに愛という名前をつけてくれた。そんな話を、あいちゃんのお母さんと、愛さんのお母さんが話しているのを、あいちゃんは聞いたことがあります。お母さんたちは、仲がいいのです。
 愛さんのお父さんは、学校の先生らしいです。今は、あいちゃんと愛さんが住んでいる町にはいません。遠くに住んでいるようです。一か月に二度だけ、愛さんは、お父さんと会います。お父さんが、愛さんの家まで車でむかえに来てくれて、ドライブに連れて行ってくれるのです。
 その話を聞いたとき、あいちゃんは、うらやましいのと、悲しいのと、一緒になったような気持ちがしました。あいちゃんは、毎日お父さんと会えます。愛さんは、一か月に二度しか、お父さんに会えません。
 どうして?

 愛さんは、どんな気持ちでお父さんと会う日を待っているのだろう。あいちゃんは、よくそんなことを考えます。愛さんのことが気になるのです。でも、学校では、あいちゃんは愛さんのそばに行くことはありません。名前のことで、からかうクラスメートたちがいるからです。
 いやだな――。

 

 あいちゃんと愛さんは、小学校に入学したときから、同じクラスです。初めて、クラスのみんなと顔を合わせた日のことを、あいちゃんはよく覚えています。
 先生が、男子女子に関係なく、あいうえお順で、名字(みょうじ)と名前を合わせて、さん付けにして呼んでいきました。名字と名前を呼ばれて、「はい」と元気に返事をして起立します。そして、「はじめまして」とおじぎをしながら言ったあと、時計の針と同じ向きにまわりながら、教室の中を見わたすのです。みんなに名前と顔を覚えてもらうためです。
 そのときです。先生が言いました。
「恵(めぐみ)あいさんと、相田愛(あいだめぐむ)さんって、何となく似ていない?」
 二人の名前は、先生の持っている名簿では離れています。愛さんの名前は、最初に呼ばれました。あいちゃんの名前が呼ばれたのは、だいぶたってからです。それなのに、「何となく似ている」と先生が言ったことが、あいちゃんには不思議でたまりませんでした。
 どうして?

 それからです。あいちゃんと愛さんが、みんなにからかわれるようになったのは――。
 元気のいいあいちゃんは、みんなの人気者になりました。元気のない愛さんは、みんなからからかわれるようになりました。名前のことだけでなく、勉強のことや、運動のことや、いろんなことで、みんながからかうのです。あいちゃんには、それも不思議です。
 どうして?

 

       *

 

 愛さんは、一年生の時の夏休みが終わってから、学校をよく休むようになりました。先生が愛さんの家までむかえに行っても、学校に来なかったり、来ても保健室にいたりします。
 どうして?

 今、二年生のあいちゃんは、たくさんの漢字が読めるようになりました。学校の授業で習うというより、マンガを読んだり、ゲームをしていているうちに、自然に頭に入るのです。一つの漢字にいろいろな読み方があることも知りました。
 クラスメートの中には、とても画数の多い、ややこしい漢字の名字や名前の人もいます。大人が正しく読めない漢字の名前の人も、何人かいます。
 あいちゃんは、ひらがなだけの自分の名前が気に入っています。漢字の名前の人をうらやましいと思うこともありますが、ひらがなはやさしい感じがして好きです。漢字も、おもしろくて好きです。

 

 二年生になった始業式の日のことを、あいちゃんはよく思い出します。
「あいだめぐむさん」
 教室で朝礼のあとに、先生が名前を呼びましたが、返事はありませんでした。黒板には、席順を描いた画用紙が張られています。相田愛さんの席はあいちゃんの隣のはずなのに、相田愛さんはいません。
 どうして?

 そんなことを思い浮かべながら、愛さんが座っているはずの隣の席を見ていると、胸が熱くなってきました。
 どうして?

 二年生になって一か月がたとうとしているのに、愛さんは、ぜんぜん学校に来ません。保健室にいるという話も聞きません。引っ越したという話も聞きません。
 ある日、昼休みが終わって、午後の授業が始まろうとしているとき、あいちゃんは、誰もいない隣の席にふと目をやりました。机に落書きがしてありました。△と│を組み合わせた傘の絵が、描かれているのです。
 │をはさんで、右に「あい」、左に「愛」と書いてあります。細い鉛筆で描いてあるので、消そうと思えば消せるのですが、あいちゃんは、そのままにしておきました。
 どうしてなんだろう?

 落書きは、そのままにしてあります。
 あいちゃんは、授業中に退屈になると、その傘の絵に目をやります。愛さんが毎日家にいるという噂を思い出します。外にはぜんぜん出ないらしいのです。ゲームでもしてるのかな。そんなことを考えながら、「愛」という漢字を見つめます。毎日のお掃除のたびに、机の上をふくせいか、絵も文字もだんだん薄くなってきています。

 

       *

 

 ゴールデンウィークになりました。
 連休のあいだに、愛さんの家に行こう。愛さんに会いに行こう。ゴールデンウィークが終わったら、毎朝、愛さんをむかえに行って、一緒に学校に行くのだ。隣の席に愛さんにいてほしい――。あいちゃんは、そう思いました。
 でも、どうして、愛さんにいてほしいんだろう?


 五月三日。
 朝ご飯のあとに歯をみがきながら、あいちゃんは思いました。勇気を出して、きょうの午前中に、愛さんの家に行ってみよう。そう決心すると、体がほてってきました。
「お母さん、行って来まーす。まいんちゃん、行って来まーす」
 お母さんのお腹の中にいる、妹か弟かまだわからない赤ちゃんにも、あいさつをしました。
 空はくもっています。あいちゃんは、知らず知らずに駆け足になっていました。
 汗が額から頬に流れてきます。途中で、はっと気がつきました。愛さんに会って、何を話したらいいのか、ぜんぜん考えていないのです。お土産も、持ってきていません。
 愛さんのうちのドアが開いたら、何て言ったらいいんだろう。出てきたのが愛さんのお母さんなら、「愛さん、いますか」かな。愛さんが出てきたら……。
 どうしよう?

 とつぜん、ぱらぱらと大粒の雨が降ってきました。あいちゃんは、スピードをあげます。道路がぬれて、だんだん黒くなってきます。
 そのうち、なぜ自分が走っているのか、どこへむかっているのかが、わからなくなってきました。走りながら、声に出して言いました。
 どうして?


(おわり)

【※みなさん、お話の終わりに「ねえ、傘、貸して」と元気な声で言ってくれましたか? このタイトルが、あいちゃんが愛さんの家を訪ねたときに、あいちゃんが口にする言葉になるからです。二人は、教室の机に描かれた落書きのように、雨と傘のおかげで仲良しになれそうです。】