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九つの命――みんな一緒に

九つの命――みんな一緒に

 三年後――。

 わっせ、わっせ。
 猫のアユは、忙しくて仕方ありません。猫は、しょっちゅう居眠りをしていていいなあ――。そんな猫のイメージとは、大違いの生活を送っています。

 アユの飼い主の岡村さん夫妻、九十歳を過ぎた高齢者の松永ふささん、農業をしている小野田怜治さん、小学校に上がるのを楽しみにしている清水ゆかりちゃん、ゆかりちゃんのペット兼(けん)話友達のオカメインコのマーちゃん、学校に行こうとしない山下悠太くん、松永ふささん宅の近くをなわばりにしている雄の野良猫ブー。
 この八つの命と、アユ自身の命を見守る。自分の命をかけて、その八つの命を救わなければならない時もあるかもしれない――。それが猫の神様とアユとの約束です。その証人となったのは、アユの命を助けてくれた年老いた猫でした。

 アユには猫の神様から授かった不思議な力があります。瞬間移動と、遠くを見ることができる千里眼です。でも、その二つの力は、それぞれ一日に二回しか使えません。そのうえ、使った後には体がぐったりして、しばらく動けないことすらあります。

 

       *

 

 ある日の午後。
 アユは、公園で悠太くんのお話を聞いていました。
「他人の前世について、あなたは誰々だったなんて言っているやつらがいるだろ。あれってインチキだ。人間が人間に生まれ変わる確率なんて、千兆分の一以下ぐらいしかない。人は、神様に選ばれてなんかいない。神様は、生き物の命で分け隔(へだ)ては、いっさいしないんだ」
 悠太くんは同じような話を繰り返します。
 似た話ばかりを聞かされれば、たいてい誰もが退屈をして、もう相手にしなくなります。アユも退屈です。でも、アユは悠太くんの話の聞き手となって、じっとその話に耳を傾けます。あくびをこらえるコツも覚えました。
「――きのうの夜、テレビの番組で前世占いとかやっていたやつ。あいつは自分の前世が、江戸時代に生きていた偉い侍(さむらい)だとか言ってるけど、本当は明治時代に生きていたゾウリムシだったんだ。その前は室町時代のイボイノシシで、その前は――」
 そのとき、アユの頭の中に光が走りました。良くないしるしです。松永ふささんが、自宅の台所で仰向(あおむ)けに転ぶ姿が目に浮かびました。

 ちゃあー!

 その鳴き声とともに、アユは瞬間移動をしました。
「まただ――。あのネコ、また消えちゃった」と、つぶやいた悠太くんはブランコを降りて、話し相手のいなくなった公園を後にしました。

 松永ふささんは転倒したものの、後頭部の下にアユが滑(すべ)りこんだために、腰を骨折するだけで済みました。それでも、九十歳を超えるお年寄りにとっては、大けがであることには変わりません。お医者さんは、仰向けに倒れて後頭部を打たなかったのは奇跡だと言いました。

 一方のアユは、数日間、前足だけで這(は)いずり回っていました。痛い、痛いと心の中で言いながら。

 

       *

 

 アユが心配でならないのは、松永ふささんだけではありません。病弱なうえに、奥さんに先立たれて一人暮らしをしている小野田さんがいます。小野田さんには息子が一人いますが、結婚していて遠くの大きな都市で働いていているために、めったに帰省しません。
 小野田さんは、田んぼの世話はお金を払って他人に任せ、自分は少しだけ野菜を栽培して生活しています。ぜん息という持病があるために、体調が不安定なのです。奥さんを亡くして以来、元気がなくなり、歩き方や動作が鈍くなったと、まわりの人たちは言い、それとなく気を配っています。
 畑仕事中の転倒。ぜん息の発作で、たびたび喉を詰まらせる。ぜん息の薬の副作用でぼーっとしていて、軽トラックで事故を起こしそうになる。台所の火の始末を忘れる。野菜の出荷をしていて、刃物で手や腕を切りそうになる。こんな具合ですから、小野田さんからは目が離せないのです。

 松永ふささんは、長期の入院をしなければならなくなりました。そのため、アユは時々そっと病院に忍び込んで、お見舞いをするだけになりました。雨が降って小野田さんが畑に出ていない日や、小野田さんが寝込んでいる日が、アユにとってはほっとできる時なのです。
 アユの千里眼と、「ちゃあー!」という掛け声での瞬間移動は、主に松永ふささんと小野田さんのために使われている。そう言っても、いいでしょう。

 

       *

 

 小学校入学を間近に控えた清水ゆかりちゃんは、車椅子と歩行器の使い方が、だいぶうまくなってきました。でも、うまくなった時にこそ、危険がともないます。頑張りすぎて、つい無理をしてしまうのです。
 ゆかりちゃんの家の近くには坂道がたくさんあります。段差もあります。ある時、車椅子で坂を下りようとして、事故にあいそうになったことがありました。車椅子のブレーキが故障したのです。
 アユが、ゆかりちゃんのペットでお友達の、オカメインコのマーちゃんと世間話をしていた最中でした。マーちゃんも、少しだけ千里眼ができます。
「あっ、ゆかりちゃんの様子が変だ。アユちゃん、わたしの代わりに見て来てくれる?」
 マーちゃんが心配そうな顔でアユに言いました。

 ちゃあー!

 事情をすばやくキャッチしたアユは瞬間移動をして、坂を上(のぼ)ってくる軽自動車に追突しようとしている車椅子に体当たりをしました。ゆかりちゃんの乗った車椅子は、路肩にぶつかってひっくり返りました。でも、ゆかりちゃんは、ぜんぜん泣きませんでした。
「ごめんなさい。ごめんなさい。悪かったのは、わたし。アユちゃん、マーちゃん、どうもありがとう、そして、ごめんなさい」
 ゆかりちゃんは、ひたすら謝るばかりです。
 腰を強く打ったアユは息をするのも苦しいほど痛かったけれど、「よかったね。事故にならなくて」と、声を振り絞(しぼ)ってささやきました。


     *

 

 雄の野良猫ブーは、いつしかアユが男の子だということに気がつきました。でも、アユを見ると、ぼへぇーとした表情になり、やたら恥ずかしくなるのです。なぜなのかは、自分でも分からないみたいです。
 ブーは、体も大きく力も強いのですが、犬にはかないません。
 ある日、自分のテリトリーを越えて、アユの住む岡村夫妻の家の近くにまで来たことがありました。急に、アユの顔を見たくなったのです。
 岡村さん宅の隣の隣の家には、高い塀(へい)をめぐらした大きな庭があり、そこに三頭のポインター犬が放し飼いにされています。ポインターは、大きくて鼻のきく猟犬です。鼻が悪くて匂いを嗅ぐのが苦手なブーは、うっかりその庭に入りこんでしまいました。
 アユのことを考えていたために、ぼへぇーとした状態で油断をしていたブーは、三頭の猟犬にすぐに見つかってしましました。ブーは高い塀によじ上(のぼ)ろうと必死で逃げましたが、途中で自分が塀とは逆の方へと走っているのに気がつきました。

 しまった!

 ブーは、その家の納屋(なや)に追い込まれてしまいました。納屋には、出入口は一つしかありません。牙(きば)をむいたポインターたちが、今にも納屋に入ろうとしています。

 ちゃあー!

 納屋に奥で身を縮(ちぢ)めていたブーは、恐ろしさのあまり目をつむりました。

 きゃいんきゃいん、くしゅんくしゅん……。

 何だろう。どうしたのだろう。ポインターたちの悲鳴が聞こえてきます。ブーは、そっと目を開けました。
 納屋の出入り口の外で、三頭のポインターたちが、鼻を地面に押し付けたり、ひっくり返っています。ブーはあわてて納屋の出入り口から抜け出し、一目散(いちもくさん)に逃げ出しました。この家の庭を囲む高い塀の上に駆け上がったブーは、ふうふう息をしながら振り返りました。
 ブーは驚きました。さっきまでいた納屋の屋根にアユがぐったりと横たわっているのです。一方、三頭のポインターたちは、納屋の前でまだ大騒ぎをしています。そのかたわらに、蓋(ふた)が取れたコショウの瓶(びん)が転がっています。どうやら、犬たちは納屋の上から落ちて来たコショウをまともに浴びたようなのです。

 驚いたのは、ブーだけではありません。この家の隣の隣にある岡村さん宅では、台所で良恵さんがコショウの入った瓶を探していました。「どこに置き忘れたのかしら。コショウがない。それに、さっきまで、そこでおとなしくキャットフードを食べていたアユがいないし――」

 きゃいんきゃいん、くしゅんくしゅん、ぶほっぶほっ……。

 ポインターの大騒ぎはおさまりません。鼻がきくだけに、コショウが鼻にずきりと来るのです。鼻の奥が痒(かゆ)いどころか痛くて仕方ない様子で、さかんに地面に鼻をこすり付けています。
 瞬間移動をしたばかりで疲れきったアユは、納屋の屋根の上で体を休めていました。よかった。間に合った――。アユはほっとしています。そのとき、庭を隔ててアユとブーの目が合いました。

 それ以来、ブーはアユに対して、ぼへぇーをやめ、アユを尊敬するようになりました。アユの子分になると勝手に宣言したのです。丁重(ていちょう)に断るアユに向かって、「では、アユ様のボディーガードになります」と、ブーはこれまた勝手に宣言しました。

 

     *

 

 ある夜――。
 アユは夢を見ました。
「アユ、聞こえるか」と、あの年老いた猫のかすれた声がしました。
「おじいさん」
 アユは久しぶりに聞く声の主を探しましたが、姿は見えません。
「アユよ、おまえが、毎日、一生懸命にやってくれていて、わしも鼻が高い。神様の前で、おまえを推薦(すいせん)した甲斐(かい)がある」
 それを聞いて、アユはうれしくなりました。
 年老いた猫は意外な話をし始めました。アユを含む九つの命には、ある共通点があるというのです。
 興味津々(きょうみしんしん)のアユは黙って耳を傾けました。声は、ときおり、むんぐむんぐと口ごもって聞き取りにくくなります。話しにくい内容を口にしているからだけでなく、歯がところどころ欠けているからです。なにしろ、その年老いた猫は、人間の年齢でいうと百二十歳で、神様に召(め)されたのでした。
「難しい話をするが、質問はしないで聞いてくれ。むんぐむんぐ」と断り、ごほっと咳(せき)払いを一つしたのちに、再び声が聞こえてきました。
「いいかい。本当は猫の神様も、犬の神様も、人間の神様も、草木の神様も区別はないんだ。神様は無数にいる。神様は、無数のものにとっての神様なのだ。神様は、無数の命の一つひとつにとっての神様だということらしい。だから、神様は一人だとも言えるし、無数だとも言える。むんぐむんぐ――」

 ここで、年老いた猫の声は少し聞き取りにくくなりました。でも、すぐに長い話が続きました。

「最近、天にいる無数の命たちのうちの一つから、こんな話を聞いた。天にいる命たちは待機(たいき)中なんだそうだ。わしも自分がもう猫ではないことは薄々感じていたんだが、どうやら命は形を変えるらしい。そして、いつかここから下りる時が来るという。それがいつになるかは、神様にも分からない。むんぐむんぐ、ごほっ――」


 少し沈黙が続きました。アユは耳をそばだてて、声の聞こえてくる空を見上げました。空には数えきれないほどの星が輝いています。アユには、その星たちが、年老いた猫の言った無数の神様のように思えました。
「――ええっと。何を話していたのだっけ……。そうそう、待機中の命たちの話だ。で、その命たちだが、天に昇ってから五十年目、百年目、何百年目なんてざらだという。千年も待っている命もあるという噂(うわさ)だ。ここはいいところだから不自由はない。退屈すれば眠ればいい。ちょっと居眠りをするだけでも、十年や二十年はあっという間に過ぎてしまうそうだ。わしは、おまえに話さなければならないことがあるから、まだ寝入ったことはないが、そろそろ一眠りしようかと思っている」

 そこから、アユを含めた九つの命の話になりました。年老いた猫の声によると、九つの命は同時に、この世からあの世へと飛び立つ運命にあるというのです。それは、神様にもどうしようもない、宇宙の決まりなのだというのです。
「覚えているかい。おまえは、川を流れる段ボール箱に入っていた九つの命のうちの一つだった。ほかの八つの命は、あの日、天に昇ったんだ。あの子たちはなあ、死なずに済んだんだが――」
 ここで、年老いた猫は声をつまらせました。
「――生き続けるか死ぬかは、ちょっとしたはずみで決まるらしい。おまえは生まれたばかりだったから知るわけはないが、あの日、命を救われた八つの命がほかにもあったのだ」
 そのことは、アユには何となく分かりましたが、黙って声に聞き入りました。
「分かったみたいだな。そうだよ。やっぱり、頭がいい子だなあ。わしが見込んで、神様からの使命を託(たく)しただけのことはある。それに、思ったとおりの正直な子でよかった。おまえは、年を取ったわしの代わりに、神様との約束をちゃんと果たしてくれた」
「おじいさん、ごめんなさい。ぼくには、さっきおじいさんのおっしゃった、神様や天にいる命たちのお話がよく分かりませんでした」
「いや、別に分かる必要はない。おまえに悪いところはない。誰であれ、何であれ、生きているものたちに悪いところはない。それが宇宙なんだそうだ。わしも、よくは知らない。神様から教えていただいたお話や、天で聞いた噂話を、こうして伝えているだけだ。ただし、これからする話だけは覚えておいてほしい。約束してくれるか」
「はい、約束します」と、アユは返事をしました。
「あの日、この町で、おまえを含む九つの命が救われた。命拾(いのちびろ)いをしたと感じた者もいれば、自分の命が救われたことにぜんぜん気づかなかった者もいるそうだ。それも、良い悪いの問題ではない」
「ごめんなさい。ぼくにはたった今おじいさんがおっしゃったことの意味が分かりません」
「良い悪いの問題ではないってことかい?」
「はい」
「そのことは分からなくてもいいから、これから言うことをよく聞いてほしい。九つの命のうち、一つは鳥、二つは猫、六つは人間だった。この世に命がある時は限られている。神様にも分からない規則のようなものがあって、それが、あの日にこの町で救われた九つの命が天に昇る日を決めたらしい。期限付きというやつさ。それだけのことだ。むんぐむんぐ」
 そう言い残して声は消え、アユはいつもの眠りに落ちました。

 

     *

 

 夢の翌日、アユたちの住む町の周辺を、記録的な降水量の集中豪雨(ごうう)が襲いました。草木、動物、昆虫、微生物……。たくさんの命の期限が切れました。その中には、次の九つの命も含まれていました。

 岡村次郎、七十五歳。岡村良恵、七十一歳。松永ふさ、九十五歳。小野田怜治、五十七歳。清水ゆかり、八歳。マーちゃん、四年八か月。山下悠太、十五歳。ブー、七年二か月。アユ、二年十一か月。

 

     *

 

 ふわりんこ、ふわりんこ。

 九つの命が身を寄せ合い薄いピンクのかたまりとなって、空へと昇っていきます。

 ひょっこら、ひょっこら。

 雲の階段を次々と飛び越しながら、スキップを踏むように、天へと向かっていきます。
 九つのうちの一つが、横を見ると、やはり淡(あわ)いピンクの気体に包まれたいろいろな形のものが、かたまって浮かんでいるのが雲の間に見えました。その向こうにも、また、その向こうにも――。

 ふわりんこ、ふわりんこ。ひょっこら、ひょっこら。ふわりんこ、ふわりんこ。ひょっこら、ひょっこら。

 
(おわり)