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九つの命――アユ

九つの命――アユ

 ずすーん、ぼほーん。
 川を段ボールの箱が流れて行きます。水びたしになった紙の箱が、だんだん沈んでいきます。
 ぼん。
 これは、段ボール箱が水面から突き出た大きな石に当たった音です。その大きな音を聞いたのは、一匹の子猫でした。
 お腹がすいた。喉がかわいた。どこかに飛んで行くような気持ちがする――。
 子猫は、気が遠くなり始めました。お母さん猫のお乳を飲んでから、もう三時間以上もたっているのです。
 段ボールは、堰(せき)に差し掛かろうとしています。そのまま進めば、滝の底に投げ込まれたように、ずぶ濡れの紙の箱は、ごぼーんと何メートルも下の水面に落っこちてしまうでしょう。箱の中には、九匹の子猫が座布団にくるまれています。二匹のお母さん猫が、それぞれ五匹と四匹の赤ちゃんを産んだのです。

 そのお母さん猫の飼い主の家には、全部で三匹の猫がいます。
「もう、猫はいらないよ」
「キャットフード代だけでも、馬鹿にならない」
「かわいそうだけど、前にやったように裏の川に流そう」
 飼い主の家では、そんなやりとりがあったのです。九匹のうち、今も意識があるのは一匹しかいません。でも、その最後の一匹も、お腹がすきすぎて、暗い眠りの中にさそわれそうになりかけています。

 堰の下では、釣りをしているおじいさんがいました。岡村次郎(おかむらじろう)という名前で、二週間前に七十二歳になったばかりの人です。
「釣れんなあ。どうしてだろう」
 次郎さんは、ひとりごとを言いました。鮎(あゆ)を釣るつもりで張り切っていたのですが、ほかの魚は釣れても、鮎だけが糸の先の餌(えさ)に食いついてくれないのです。
 ごどん。
 大きな音がしました。段ボールが堰の上のコンクリートにぶつかったのです。水を含んで重くなった段ボールが、ひっくり返りました。九匹の子猫のうち、箱の上のほうにいた三匹が飛び出しました。そのうちの、一匹が宙を飛びました。
 ぽぽーん。ほわーん。ぽたりんこん。
「なんだ、こりゃあ。いったい、何が入ったんだ」
 次郎さんは、腰に付けた魚籠(びく)にいきなり何かが飛び込んできたので、びっくりしました。

 以前に、猫を飼っていたことのある次郎さんは、子を産んだばかりの猫のいる知り合いの家へと、軽トラックを走らせました。そのお母さん猫は、とても気立てがやさしいのです。
 タオルにくるんだ弱々しい子猫をはげますために、調子はずれの声で一生懸命に子守唄を歌っています。
「ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや――」
「七つの子」というカラスの歌を猫に当てはめて歌おうとしているのですが、焦(あせ)ってしまって出だししか歌えないのです。仕方がないので、次郎さんは出だしのところだけを歌い続けます。
「ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや、なぜなくの。ねーこーや……」
 
 軽トラックの助手席で籠(かご)に入れられタオルに包まれた一匹の子猫は、車の揺れをぼんやりと感じながら夢を見ました。
 子猫は菜(な)の花が咲き乱れる野原にいます。ぶるぶる震えていると、灰色をした年老いた猫が現れました。
「おまえの命を救ったのは、わしだ。おまえが、いちばん正直そうに見えたからだ。たぶん、このままでは、おまえもおまえのきょうだいたちのように、あの世に行くことになる――」
 そう言って、年老いた猫はいきなり、「あっくっしょん、ひくひく」とくしゃみをして、右の前足で鼻をこすりました。そして、再び話し始めました。
「わしは、もう年を取りすぎていて、おまえにこれ以上、手を貸すことはできない。あとは、次郎さんが、おまえを新しいお母さんのいるところへ、早く連れていってくれるかどうかにかかっている。ただ、次の約束をすれば、きっとおまえの命は助かるだろう」
 おじいさん猫は、続けて次のような話をしました。
「おまえを含めて全部で九つの命を、おまえに預(あず)ける。ただ、預けるのはわしではなく、猫の神様だ。その九つの命を守るために、一生懸命に生きる気持ちさえあれば、必ず新しいお母さんのところへ行き着くことができる。そのつもりがなければ、途中で、きょうだいたちと同じ運命をたどるだろう」
 ここで年老いた猫は、子猫の目をじっと見つめました。
「おまえは、生きたいかい?」と、年老いたが尋ねました。
「はい、生きたいです。せいいっぱい生きたいです」と、おじいさん猫の目を見て答えました。

 

       *

 

 子猫は、新しいお母さんのいる家に引き取られました。乳離れをしたら、岡村さん夫妻の家で育てられる。そういう約束で里子に出されたのです。


       *

 

「ああ、よかった」
 家に帰るなり、次郎さんに妻の良恵(よしえ)さんが言いました。
「国道でクレーン車がひっくり返って、大事故になっているみたいよ。今、ラジオで速報が入ったの」
「そうか。だからサイレンの音がしたのか。帰り道は国道を通らなかった。何だか嫌な予感がしてね。虫の知らせっていうのかなあ――。それはそうと、きょうは子猫が釣れたぞ」
 次郎さんは、子猫が「釣れた」時のもようを語りました。
「まあ、猫ちゃんが、うちに来るんですか。それは楽しみですね」
 話を聞き終えた良恵さんが、台所にもどりかけました。
「おや、足を引いているけど、どうかしたのか」
「階段を下りるときに、ついうっかり」
「気をつけろよ。うちの階段は、急で危ないからな。眼鏡の度が合わなくなってきたんじゃないかい。近いうちに視力検査を受けにいこう」

 

       *

 

 夕食のテーブルに着いた次郎さんの顔色が変わりました。おかずが鮎の塩焼きだったのです。
「どうして、鮎なんだ」
「鮎釣りなんて、素人のあなたには無理ですよ。お魚を持って帰らないことは、初めから分かっていました」
 良恵さんは笑いながら言いました。次郎さんは一瞬悔(くや)しそうな表情をしましたが、すぐにいつものやさしげな顔にもどりました。
「その代わり、かわいい子猫を釣ったぞ。どうだ、たいしたもんだろう」
 次郎さんは、にこにこしながら得意そうに言いました。

 

       *

 

 里子に出されているあいだに乳離れした子猫が、岡村夫妻の家にやってきました。
 男の子です。子猫はアユと名付けられました。次郎さんが鮎の代わりに「釣った」からです。子猫は、自分の名前がすぐに気に入りました。

 岡村家での最初の日、アユは再び菜の花の咲く野原の夢を見ました。
「よく頑張ったな」
 あの年老いた猫の姿は見えず、声だけがします。
「どこにいるの、おじいさん」
「わしは、今、おまえのきょうだいたちと同じところにいる。静かで、きれいなところだよ。おまえも、来たいと思うかもしれないが、おまえには使命がある。約束は覚えているかい?」
「はい。でも、はっきりとは覚えていません」
「そうだろうな。あの時は生まれたばかりだったし、体がずいぶん弱っていたから――」
 アユは、自分を含めた九つの命が自分に託(たく)されていることを、もう一度聞かされました。おじいさん猫の声は、アユに猫の神様から与えられた使命について詳しく説明しました。
 岡村さん夫妻、松永(まつなが)ふささん九十二歳、小野田怜治(おのだれいじ)さん五十四歳、清水(しみず)ゆかりちゃん五歳、ゆかりちゃんが飼っているオカメインコのマーちゃん、山下悠太(やましたゆうた)くん十三歳、松永ふささん宅の周辺に住む雄の野良猫。
 この八つの命と、アユ自身の命を見守る。場合によっては自分の命をかけて、ほかの八つの命を救う。そんな約束を、神様の代理だという年老いた猫とのあいだで確かめ合ったのです。

 

       *

 

 忙しい毎日が始まりました。アユは、のんびりと朝寝や昼寝をするわけにはいきません。なにしろ、八つの命を見守らなければならないのですから。
 アユには魔法が授(さず)けられていて、一瞬のうちに居場所を移動したり、遠くの出来事を知ることができます。ただし、その二つの魔法はそれぞれ一日に二回しか使えません。しかも、魔法を使ったあとには、体がひどく疲れるのです。
 でも、約束は約束。八つの命を守るのがアユのお仕事なのです。

 

 松永ふささんは、アユを自分が昔飼っていた雌猫だと思い込んでいます。アユは雌猫の振りをして、松永さん宅を一日に何度か訪れ、松永さんの相手をします。

 

 一人暮らしの小野田怜治さんは、農業をいとなんでいます。体が丈夫ではないため、小野田さんが農作業をしていて危険な目にあいそうになるたびに、アユは魔法を使って助けなければなりません。

 

 清水ゆかりちゃんは生まれつき両足に障害があり、車椅子と歩行器を使って、毎日歩く練習をしています。小学校に上がるのを楽しみにしていて、苦しくても頑張っているのです。
 ゆかりちゃんとアユが初めて会ったとき、ゆかりちゃんは大騒ぎをしました。
「だいじょうぶだよ。ぼく、マーちゃんには何にもしないよ」
 アユの声を心で聞いたゆかりちゃんは、目を丸くしました。
「信じてもいいみたいだよ」と、オカメインコのマーちゃんが言います。
 ゆかりちゃんとマーちゃんは、心が通じていて会話ができます。そこにアユという新しい仲間が加わったのです。

 

 山下悠太くんは中学一年生なのですが、小学校五年生の九月からほとんど学校には通っていません。毎日、学校で授業をしている時間帯に外を歩きまわり、下校時間が過ぎると家に帰ってテレビを見るか、ゲームをしています。休日で外に児童や生徒がいるときにも、家にいてゲームをしたりテレビを見ています。
 悠太くんとアユは、公園で出会いました。実はアユがこっそりと悠太くんの後をつけて行き、悠太くんがひとりでブランコに乗っているところに近づいたのです。
「おい、ネコ。こっちに来い」
 アユは甘えた声を出して、相手の出方を見ました。悠太くんは、手に持っていたコンビニのビニール袋から、メロンパンを取り出し、一切れちぎってアユに投げつけました。パンは好きではありませんでしたが、アユは全部食べました。
「珍しいなあ。おまえの前世は人間だぞ。人間っていうのは、地球でいちばん偉そうな顔をしていて、前世が人間だったり来世も人間になるなんて信じているやつが多い。けど、そんなのは嘘だ。輪廻(りんね)に生き物の差別はない。だから、ほかの生き物に比べれば、ほんの少ししかいない人間に生まれ変わる生き物は、めったにいないってわけだ」
 悠太くんは、メロンパンの残りをちぎって口に放り込み、話を続けます。
「ちなみに、おれの前世はチャバネゴキブリ。あそこにいる女の人は、トノサマバッタだった。あの人の抱いている赤ちゃんは、シロサイだった。おれには、そういうことが全部分かるんだ。本当だぜ。信じるか?」
 アユは、再び甘えた声で返事をしました。その日、瞬間移動を二回、千里眼(せんりがん)も二回使い終えたあとです。くたびれているアユは眠くて仕方ありませんでしたが、目をしっかり開いて悠太くんの話を聞いていました。
 ふだんの悠太くんは、両親と姉を含め、誰とも口をききませんが、気を許した相手には、実によくしゃべる子なのです。アユは、悠太くんにとっての数少ない、話の聞き手になりました。

 

 松永ふささんの家の近くをテリトリーにしている野良猫の中に、ブーという雄猫がいます。ブーは正式な名前ではなく、鼻が極端に低いために、まわりの人間が与えたあだ名です。男の子のアユは松永さんの前では、松永さんが昔飼っていた雌猫を装(よそお)っています。ブーは、アユをひと目見て好きになりました。
 トカゲや野鳥をつかまえて、アユにプレゼントします。また、アユの目につくように、先回りして何げない振りをしながら、アユの前を通り過ぎたりします。
 そうやって、なんとかアユに好かれようとするのですが、アユは気が進みません。照れくささもあって、時々ブーはアユをわざとおどしたり意地悪をしますが、いざとなるとアユの魅力に負けて、ぼへぇーとした顔つきになり、すごすごと引き下がります。意外に照れ屋なのです。

 

       *

 

 以上がアユの生活ぶりです。
 年老いた猫を仲立ちにして、猫の神様とかわした約束を守るために、アユは忙しい毎日を送っているのです。


(つづく)