歴史は作られている
「歴史は作られる」とは誰の言葉でしたか(知ってる人いたらご一報ください)。歴史は一部の知識層によって作られるもの、というのは良く言う話です。高名な学者の文献が残っていたとしても、保存状態が非常に良い遺跡が発掘されたとしても、歴史学者や考古学者がそこから憶測し類推し歴史という物語は組み立てられていくものです。
Googleは今最も注目を浴びていて、かつ、最も成功しているWeb 2.0系の企業ではないでしょうか。その凄さは恐ろしい勢いで世の中にある情報をアーカイブ(書庫)化し、構造化し、記録しているということです。GoogleにはPageRankという仕組みがあり、より有用な情報というのを機械的に選別し、検索エンジンにしているのです。1年前の記事になりますが、『ウェブ進化論』の著者、梅田望夫氏が自身のブログでGoogleのミッションについて書いています。
My Life Between Silicon Valley and Japan – ネットの開放性は危険で悪なのか巨大な混沌こそがフロンティア
「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部われわれが作ろう」。これは、世界中が注目するシリコンバレーのベンチャー企業グーグルの開発陣が持つミッション(使命)である。グーグルは「不特定多数無限大の人々によって作られ、日々増殖する地球上のすべての情報を、瞬時に整理し尽くす」ことを目指し、玉石混交のネット上から「石」をふるい分けて「玉」を見いだす技術に磨きをかける。
僕はこういう世界政府構想よりむしろ、Googleの登場によって、これからの「歴史」が今までの「歴史」と全く違うものになるのではないかということを危惧します。個人がそれぞれの視点を以って克明に時代を代表する事件から、淡い恋の気分までをインターネットに掲載しています。それらがGoogleによって整理され構造化され記録されていく。そうすると今までにはなかった「不特定多数無限大の人々」の集合知が唯一無二の歴史家と成り得るように思うのです。
アジア外交では「歴史に対する共通認識」が欠けていると言われています。小泉首相が訪問したイスラエル、パレスチナの問題でも禍根となっているのは「歴史」だと思います。こうした歴史が世界中で共通認識となることは紛争問題や宗教問題に目を向けると非常に重要なことだと思います。
「Google History」なのか、「Google Timeline」なのか、個人の情報を時系列で記録するのはDandelifeなどのサービスが既に海外で始まっていますが、インターネットの強みといわれる「速報性」だけでなく、パブリックな情報を時系列で記録して整理する、即ちリアルタイム歴史構築的なことが行われるとすれば、今まで付き合ってきた「歴史」とこれから付き合っていく「歴史」は大分様変わりするように思います。
個人的に歴史学者や考古学者という仕事はとても夢のある仕事だと思います。浦沢直樹氏の『マスターキートン』や、司馬遼太郎氏の『この国のかたち』などに影響を受けている僕は、きっと泥臭い部分もたくさんあるのでしょうが、一種の憧れの念を持って見ています。そういう意味では、歴史学者や考古学者からGoogleが、未知へのロマンを取り上げてしまうのではないか、という不安もあります。
「歴史は作られる」とは良く言ったものですが、もしかしたらもう既に「歴史は作られている」、という時代なのではないでしょうか。
プロセスをなぞるということ
最近、自分のブログのColumnを書かずに、すっかりET Luv.Lab.にお熱なのですが、まあなんて僕はこれまで自分にばかり興味の目を向けていたんだバカバカなどと思っています。取材に行くのも、撮影するのも、テープ起こしするのも、原稿チェックを待つのも、言わば初めての体験で、総じてインタビューって面白いなあとつくづく思っています。本当に楽しい。
インタビュー、とは言っても、日頃から懇意にしている方達に話を伺いに行ってるので、大した下準備もしていません。アポ取ってからボーッと、どんな話が聞けるかなあと一週間くらい妄想して、大体4つトピックを決めてノートに箇条書きにしています。で、思いついたことは一応ささっとメモっておいて、でも取材ではノートは開きません。頭の中に、何となくストーリーを作っておいて、でもその通り聞いても全然面白くないので、即興で質問しつつ、大くはただただうなずきつつ、でも終わってみると不思議と最初に描いていた青写真と大きな流れはずれていないから不思議。まあでもET Luv.Lab.のインタビューの骨格って、その方と付き合ってきて僕が見ているその方の魅力の骨格なので、あんまりずれが無いのかも知れないですね。僕を面白がらせようとして話てくれる話は、僕が面白いと思っているその人の魅力にきっと近しいので。
それと、プロセスが見えてくるというのはとても楽しい。ただ話を聞いていると理解というのはざっくりとした全像になると思うのですが、文字に起こそうとしてみると、色々自分でも考えることができるんですね。テープ起こしをする時は、iPhoneのSpeakEasyというソフトで録音したファイルをWiFi経由でPCに取り込んで、iTunesで再生と停止を繰り返したながら2時間くらい戦うのですが、一節ごとに一時停止して、文字に起こして、前後の繋がりを考えて言い回しを調整して、なんてやっていると、一節ごとの先方の思索の変化に思いを巡らせることになるんです。
一節ごとに僕は先方の思いを想像し、思索を分析し、自分の経験と照らし合わせ、それを以て自分の責任において、先方の言葉を認める。そのショートスパンの繰り返し作業が、僕自身に取っての学習という意味性において、大変密度の高い思考の反復になっている。今日び、インタビューというとポッドキャスト、場合によってはUstreamもあるわけですが、敢えて、と言うか、経験も浅いからという理由でテキストベースのインタビューサイトという形態を取ることにして本当に良かったと今思います。
学習という意味では写経や写本と似ているのかも知れません。ただ僕もそこにインタビュワーとして主体的に関わっている。だから、より一節一節に思い入れを持って向き合える、場合に拠っては丁寧にコンテンツと向き合える、ということなのかも知れません。過剰な加工や編集はしない方針ですが、それでも帳尻合わせをしなければいけなくなる。そういう塩梅の調整作業というのは、実はすごく楽しいです。
そんな話を家人と夕食中にしておりましたら、初等教育の話になりました。テストの点や合格した中学という成果も評価されますけど、10年、20年経って思い起こされるのは、そういう成果ではなくてプロセスだねと。世の中、プロセスが評価されることはなかなか難しいけど、ことに自分の人生を振り返ってみれば、教育なんかはプロセスにこそ価値があるねと。
それで気付いたのは、プロセスって当事者しか体験できないコンテンツとして楽しめない、という意味においては非常に贅沢なコンテンツなんですよね。学生時代に作った企業サイト、それを思い浮かべる前に、僕は先輩の家で制作のために泊り込み合宿を張ったことを思い出します。アーロンチェアに座らせてもらったこと、2時間でデザイン案出せと言われて出せなかったこと、徹夜後の朝、お母様にいただいた野菜とラムを挟んだサンドウィッチが飛び切り美味しかったこと、そんなことを思い出すと、今でも不思議と勇気が湧いてくる。モノを作る仕事をしているわけで、成果を出すのは大事なことですが、ことに自分の人生という意味性において考えると、僕の今を強烈に支えているのはプロセスの記憶なのだと思うわけです。
まあ、インタビューですから、一次的な体験ではないわけですが、二次的であったとしても当事者から口伝えで、その人が経てきたエキサイティングな思索と行動のプロセスを聞かせてもらうっていうのは、やはり贅沢には違いがなく、ET Luv.Lab.をご愛読していただいている方には大変申し訳ないのですが、僕が一番面白いんですよ、この企画。
そんなわけで、明日も取材です。楽しみ。本業もしっかりやっていますゆえ、ご心配なく。
聴く人
書くことについてはこれまでも当ブログでたびたび言及してきました。書くことは大事で大好きなのですが、書いているだけの人と思われるのも問題です。コミュニケーションの基本は面等向かって話すことである以上、喋ることと、聴くことも大事なわけで。でまあお恥ずかしい話なのですが、僕結構喋るの苦手でして。
1対1でとか、酒飲んで、とかだと大丈夫なのですが、人前でとか、初対面の人と、とかだと三十路にしてまだ若干の苦手意識があります。特にとうとうと人前で自分が講演している姿など想像だにできません。以前にトークセッションをUstreamで聴いていた後輩も、「あのトピックなら一家言二家言あるはずなのに、全然喋って無かったじゃないですか!」と叱られまして。
思い起こせば小学校の運動会で壇上に上がって喋る時にも、頭真っ白になってとりあえず「元気ハツラツ」と口走り失笑を買ってましたし、学生時代、初めてのプレゼンの時も、何度予行演習しても噛むので、まあ時効だと思いますが、先輩にウォッカのショット一杯煽れと渡され、それでも緊張して喋れず、開始3分で先輩が喋ることになってしまった、という苦い経験があります。今でも会議室で一人で20~30分喋り続けるようなプレゼンはままあるのですが、なかなか慣れないですね。
それでもまあコミュニケーションの仕事をやっているわけで、じゃあどうやって仕事を成立させているのかと言うと、僕基本的には聴く人間なんですね。聴くって別に誰でもできるでしょうとも思うわけですが、まあ最小限の発言で最大限の発言を引き出すみたいなことには、多分僕は能力的なものが少なからずあると思うんですよね。
就職活動のことを思い出すと、まあよく人の話を聴いてたなと思います。自分が喋った話より、グループ面接とかで他の人が喋った話や、面接官の話の設定の仕方とかをよく覚えているんですよね。基本的に就職活動って別に何か新しいことを話さなきゃいけないわけではなくて、自分のことをひたすら語ればいいわけですよ。それはすごい簡単。ただ肝心なのは、前後の文脈を踏まえているかということだと思うのですよね。面接官の話の振り方はどうだったかとか、それを受けて隣の人がどう話したかとか、そういうことをきちんと理解して適切に適正に自分の話をする。そういうのは実は喋る力より聴く力によるところが大きい。
だから天童荒太氏の『悼む人』に近いかも知れませんね、ある意味。
仕事の打ち合わせに行くと、クライアントの半分か3分の1くらいしか僕は喋っていません。基本的にクライアントから聴き出す仕事なんです。勿論、僕が提起したり提案したり押さないといけないこととかもありますけど、それをクライアントがどう思うかという話を聴き出しながら整理して行くことの方が大事。逆に言うと、喋りやすいように交通整理しながら聴く必要があります。それは最小限の発言で最大限の発言を引き出すということで。
ET Luv.Lab.はいつも録音をテープ起こししているのですが、もう笑っちゃうくらい僕喋ってないです。「あー」とか「なるほど」とか「へー」とか。たまあに、「こういうことですかね」、とか、「こんなこともありますね」、みたいな話もしますが、それも多分140文字以内の発言がほとんど。ただ、そうやって、喋りやすい流れを作っていくっていうのは、話を引き出して行くためには大事だと思うんです。別に先導するわけじゃないし、導きたい結論があるわけでもないのだけれど、ただすごく近い次の展開とそれに必要な橋渡しっていうのは経験で見えてくるものがあるんですね。
それはもう何か技術とか能力とかいうのもおこがましいのですが、ただ分類的に自分は「聴く人」なのだあと。喋るの好きですし、実際、よく喋りますけど、より良い面白い話を聴き出すために喋っているんであって。僕のできる話なんて大抵身の上話ですから。
まとめるとおまえ省エネだろ、ということにもなりかねませんが、まあ、そういう役回りですね色々と。
メディアの再定義 – スモールメディアの隆盛とマスメディアの凋落について考える
最近、恐ろしいことに気付きまして、少なくとも僕が普段鑑賞するコンテンツ、全て自室のPCの前で消費できるようになってしまったんですね。テレビ、ラジオ、映画、音楽、ニュース。ネットにはご存知の通りありとあらゆるコンテンツがありますし、最後の砦は紙の本、なのですが、Kindle、そして日本発売間近のiPadでもご存知の通り、今年は電子書籍元年とも言われているわけで。
家族でテレビを観ながら団欒なんて偶像は遥か昔に崩壊してますし、ラジオは先日radiko.jpが始まりましたし、TwitterやらUstreamやらYouTubeやらなんやら。最近改めて僕のお気に入りはPodCastでして、コンテンツを「ながら視聴」しながら仕事なんてこともしてますし、たまあにNHKオンデマンドで古い番組観ながらEvernoteに鑑賞ノートつけたり、とか。もうね、ぐちゃぐちゃなんですよ、つまるところ。とてもじゃないけど、シーンとかシチュエーションとかでコンテンツ鑑賞が切り分け得る状態じゃない、からマーケティングの世界も随分大変ですよね。いいもの作るしかない、っていう原点回帰になればいいのだけど。
そういう意味ではメディアをコンテンツを届ける方法の違いによって理解することにあまり意味を見出せなくなったというか。自分をとりまく環境があまりに多面的になって来たというか。
メディア・コングロマリットとか言いますと、すごく大きいものを想像します。News Corporationを初めとした。でもそういうものって結局図体がでかくなるわけで、今の時代観に合致しているかというとちょっと疑問。確かに大きな予算を大きなスケールで動かせるという利点はあるかも知れないですけど、贅肉を一杯はらむわけで、そういう巨像が今の細分化して複雑化して分散化した個々人のニーズに対応していけるのかというと疑問があります。
そういう意味で、僕が最近面白いなあと思っているのが、スモールメディアです。スモールメディアと言って例に挙げると叱られちゃうのかも知れませんが、スモールパッケージメディアと言いますか。小さい規模のメディアがコンテンツを多様な形で配信していて、それはテレビ局買って、ラジオ局買って、映画会社買って、雑誌会社買って、みたいなメディアコングロマリットよりも、むしろエッセンシャルでピュアでパワフルな活躍をされてるんじゃないかと思うのですよね。
具体的には日本ですと、greenz.jpとAppetizer Japan。この2つは見てて個人的に面白いです。greenz.jpはエコとかサステイナビリティ、Appetizer Japanはスマートフォンがテーマとなっているようですが、話題はそこにとどまらず、Webサイトは元より、Twitter、YouTube、Ustreamなどのネットにある様々なツール、更にはワークショップやトークショーやパーティと言ったリアルのイベント、企業との直接的な連携などによって、観ている側からも非常にダイナミズムを感じます。それをブランドと言ってしまうと、話が簡単になり過ぎてしまうのだけど、もう少し言うと「メディアのハブとしてのブランド価値を最大限に活用している」というか。
もっと単純化してしまえば「楽しそうな人達が楽しげに楽しんでいるのを誰でも楽しめる」ということなのかも知れません。楽しいって、勿論、面白おかしいということではなくて、エキサイティングだってことですよね。古くはドリフやPopeyeやオールナイトニッポンが時代の空気を作ってきたわけですが、スモールパッケージのメディアが、メディアが持つユーザへのリーチの限界に縛られず、色々なところに顔を出し始めた、そんな感じでしょうか。そういうことにインターネットやモバイルの出現は当然寄与していると思いますし、時代のトピックに敏感に反応している、というところも先を走れることに寄与しているのかも知れませんが、何より個人的にはスモールパッケージであるが故のエッセンシャルでピュアでパワフルなメディアとしての魅力、というのに惹かれています。
他にも彼岸寺などもお薦めです。エコとかスマートフォンとか仏教とか括られると、ともすればこれまでの業界紙的なものと考えられがちですが、そもそも業界をターゲットにしたものではなくて、色々な趣味嗜好がフックに含まれているので、むしろメディアとしての面白さ、コンテンツの面白さ、の方が専門性とのマッチングより先に来ます。
とは言え、今日も『美の壺』NHKで観る予定ですし、映画館で観る映画に勝るものはないですし、オペラは生じゃなきゃ成立しないとこないだ改めて思いましたし、酔った帰りに駅前で歌う青年を見るのは微笑ましいですし、radikoでラジオが大分僕の生活に身近になりましたし、任天堂は3Dゲーム出すらしいですし、iPhoneはHD対応するみたいですし、とか。良くも悪くもこういうことってそろそろどこが偉くてどこが貧粗でということではなくて、個人にとっては並列で、実はコンテンツの届けられ方って最早あまり問題ではなくて、一メディア、一コンテンツのエッセンスがどれだけ魅力的かというところに辿り着いてきてしまったんではないかと思うのです。
そう考えるとNHKがこのご時世に坂本龍馬やってるのとか面白いのですけど、本当に戦国時代か幕末維新かわかりませんが、今年は改めてスモールメディア元年でもあって欲しいなあと思うのですよね。なまじマスメディアの凋落が毎日のように話題に上がるこんな時代にこそ、スモールメディアにこそ、これからのメディアの姿がかかっているとも思える。
個人が発信するネットの情報には信頼性がないから、ネットというメディアには信用性がないみたいなことをテレビ局の人がテレビ番組で言ってたりもしますが、そもそもネット自体はメディアじゃないんですよね、少なくとも。そこにいる個人、もしくは個人の集団が発言しているわけで。そんな中でネットも十全に活用できる、スモールメディアがもっと活躍の場を広げてきたら、メディアということを取り囲むあれこれも、もう少し面白くなってくるんじゃないかと感じています。
電子書籍のソーシャル性を今のソーシャルメディアをメタファーに考える
iPad、続々と日本に上陸しているようで、Ustreamでも色々なイベントが見れますね。今日も覗いたイベントで、スペシャルゲストの西郷輝彦氏が「ページをめくる時に裏の活字が透けて見えるんですよ」と電子書籍体験を興奮気味に語っておられて、それは是非ディテールを確かめたいなあという気持ちになりました(買うかどうかはまた別だが)。やっぱり本読みとしては気になるんですよね、電子書籍。
で、電子書籍、どうなるんだろうと色々楽しみなんですが、ふと、基本的にソーシャルなインタラクションはTwitterをメタファーにすれば、ある程度予測できるのはなかろうかと思ったりしました。Twitterのコミュニケーションと言うと、基本のTweetと@とDMと#がメインになってくるかと思います。
@
特に誰かのためにお勧めしたい素敵な言葉を共有できたら楽しいですよね。
DM
言葉のギフトってロマンチック。
#
同じ本を楽しんでいる人の間でのコミュニケーションは是非とも実現させてもらいたい。
更に対象はTumblrのクリッピング対象で考えるといいかも知れない。
Link
このページはよいですよ、という目印ですね。
Quote
読書しながら線を引くような感覚で使えそうですね。
Photo
面白いエディトリアルデザインはキャプチャできたら面白そう。
Video、Audio、Chatとかは難しいですかね。でも、VideoやAudioやChatの形で本にノートをつけられるEvernote的な考え方は面白いかも知れません。以前、ソーシャルであることは、あらゆるところで編集が行われること、というようなことを書いたと思うのですが、まさに編集という形で出版物というコンテクストを活用したコミュニケーションが行われ出したらそれは非常に楽しそうだし、全く新しい読書体験になりそうだという気がします。
勿論、権利の問題とか色々難しいことはあるのでしょうが、そういうことをかっ飛ばして考えると、電子書籍元年というのは非常にエキサイティングだと思います。勿論、iPadの魅力は電子書籍だけではないのだろうし、iPadでピアノ演奏するのなどを見て、可能性を色々感じるわけですが、でもやっぱり電子書籍はiPadがもたらすキラーコンテンツの一つなんでしょうし、本が電子化される、だけじゃないその先の読書体験に期待をしてしまいます。
それは何かこう基本的には著者という一人の成果物であった書籍というものが、大きく天に放り投げられるような気がしていて。

加藤 康祐