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著者紹介

鳥取ループ
鳥取県鳥取市出身。
2005年10月の鳥取県人権救済条例の制定を期に、独自の視点と手法で同和行政の奥深くを追求する。
公式ブログ http://tottoriloop.miya.be/

三品《みしな》純《じゅん》
フリーライター。法政大学法学部法律学科卒。
月刊誌、週刊誌などで外国人参政権、人権擁護法案、公務員問題などをテーマに執筆。「平和・人権・環境」に潜む利権構造、暴力性、偽善性を取材する。
公式ブログ http://soukeidehanaika.blog2.fc2.com/

迷走・社民党に明日はなし!?

「♪東にセクハラあれば行って弁護をしてやり ♪南に基地があれば行ってなくすといい」
 TVアニメ、『ちびまる子ちゃん』のEDソング『おどるポンポコリン』の替え歌が会場に響き渡る。今年6月9日、都内で開催されたイベント「福島みずほとともに描くあした」のことである。時は、参院選直前、自身も改選を控える社民党・福島みずほ党首の支援者の集いでもあるこのイベントには、ゲストにグラビアタレントのインリン・オブ・ジョイトイも参加。ネット上では、しばし反日タレントと揶揄される人物である。
 当時、インリンは、身重の体ながら福島氏らと反戦や人権問題、沖縄の普天間基地問題などについて熱心に語っていた。一方、当の福島氏は、普天間基地の移設問題をめぐって政府案に反対したことから、内閣府消費者・少子化担当特命大臣を罷免。これで社民党は、今年5月30日に、連立政権から離脱したことも記憶に新しいだろう。直前に罷免・離脱劇があっただけに自身を讃える替え歌に慰められたか終始、ご満悦といったご様子だった。だが、7月11日の参院選では、改選議席を3から2に減らして躍進はならず。また同月25日には、盟友とも言える辻元《つじもと》清美《きよみ》衆議院議員が離脱。社民党内の不協和音が明らかになったわけだ。
 ただ社民党にとってこうした不協和音は、連立政権発足当時から起こっていたことだった。実は、民主党、国民新党による三党連立政権が発足した直後、社民党内からは運営について疑問視する声があったという。「自社さ政権の時のような与党政策調整会議があるのか?」「社民党は国家戦略室や行政刷新会議とどう関わるのか? しかも国家戦略室の実態や役割が見えない」こうした意見が議員、支援団体から相次いだという。すると
「重野《しげの》安正《やすまさ》幹事長のもとに民主党陣営から国家戦略室に関する資料が届けられたのですが、これがほぼ白紙の状態でした。だから重野幹事長が“社民党をなめているのか”と激怒したんです。本当に国家戦略室は具体的な組織図や方針がなかったから仕方がありませんでした。ただそれほど社民党幹部は連立政権内部での扱いにピリピリしていたのです」(社民党関係者)
 それも自社さ政権という社民党にとっては“トラウマ”のような過去があるからだろうか。それでも「現連立政権よりも自社さ政権の方がマシ」とまで言い切る関係者もいる。
「自社さ政権のときさえ、与党政策調整会議があって自民2人、社民2人、さきがけ1人の割合で担当者を出して政党間の協議ができた。部会もない今、連立政権にいる意味が全くない」(同前)
 しかも支持者らからの批判も辛らつだ。昨年11月、都内で開催された社民党の議員、支持者が集う会合の席上、このような声が挙がったという。参加者によると「社民党都連は誰も国政に議員を送り込めていない!」「また自社さ政権と同じ過ちを繰り返すのか?」「細川連立政権の反省ができていない」と批判が続いたそうだ。
 さらにここ数年、党内では、迷走が続いたという。ある元社民党議員がこう明かす。
「三井・三池炭鉱争議の時に社会党内で議論が真っ二つに割れました。まず解雇された労働者の生活保障や就職問題を取り組もうという意見に対して“それをやったら不当解雇を認めることになる”という意見。これをめぐって長々と議論をしていたのです。ところが派遣労働者の雇用切りが起こった時に就労支援に乗り出そうとしたら“派遣切りを認めることになる”と三井・三池の時と同様の議論が起こったのです。いまだに古い社会党の体質を持ち続ける議員や党関係者は少なくありません」
 平和・人権・反戦など美しい理念が並ぶ同党だがその実、カビの生えたような“昭和の社会党”の遺伝子は脈々と引き継がれているのだ。辻元議員が離党したのも、こうした体質にほとほと嫌気が差していたのだろうか。連立離脱後は、ほとんど存在感を示せないままの福島氏と社民党。今やその存在は“絶滅危惧種”政党といってもいいだろう。(三)

北の後継者、金《キム》正恩《ジョンウン》は在日二世で問われる正統性

 北朝鮮は、朝鮮労働党の創建65周年の記念日となる10月10日、平壌市内の金日成広場で軍事パレードを開催。観覧席には、金正日総書記、そして次期後継者と見られる金正恩中央軍事委員会副委員長も姿を見せた。これが事実上の金正恩氏の“お披露目”と見られ、後継者であることを内外に示したものとみられる。だがこのまま平穏無事に後継の道を歩めるのだろうか。
 北の後継者の道。実は、我々が想像する以上に厳しいようだ。もともと父、正日氏自体が旧ソ連の軍事キャンプで生まれた出生を隠し、白頭山で生まれたと神話化。こうした演出を持って着々と後継者の道を歩むわけだが、「反対派の粛清、自身の喧伝などを続け約20年かかってなんとか継承にこぎつけた」(脱北者証言)という。こうした父の苦労を考えると正恩氏の場合は、なんとも拙速で“ポッと出”の感がある。さらに正恩氏は、もう一つの爆弾を抱えている。それは、母、高《コ》英姫《ヨンヒ》が在日朝鮮人であったことだ。高英姫は、大阪の鶴橋の朝鮮人街生まれ。小学生の頃、家族と一緒に北朝鮮にわたり万寿台芸術団に入団。そこで金正日氏と出会い夫人となり金《キム》正哲《ジョンチョル》・金正恩を産んだ。
 このため正恩氏を後継に推すグループは、プロパガンダに躍起だ。北朝鮮の内部事情に詳しい「開かれた北韓《ほっかん》」が入手した北の内部文書からもその必死さがうかがえる。
「後継者になるには、理論面で大家、天才でなければならない。(金正恩氏は)主体思想も軍事思想も極め、古代から現代までの政治、哲学、文化など多くの知識を得ている」
 ここまでは、まだご愛敬のレベル。
「百発百中の射撃の天才である。100m先の的を1秒間に3発の射撃ですべて命中させた。また200発の弾をすべて的に命中させた」
 というからまるでゴルゴ13並みである。
 また米「自由アジア放送」(RFA)や韓国・聯合ニュースによれば軍事パレードがあった10日、北は「不世出の指導者を迎えた私たちの民族の幸運」と名づけられた正恩の宣伝を放送したという。内容と言えば「2年間の留学生活で4ヶ国語をマスターした」「今では7ヶ国語を話せる」といったもの。即席で作られた神話にしてもかなり幼稚なエピソードだけにこれで後継者の正統性が示せるのかは、未知数。しかも出自は“在日”。金正恩の世襲は、実に多くの火種を抱えているのである。(三)

松本龍

 今年9月17日の菅改造内閣で環境大臣に就任した松本《まつもと》龍《りゅう》衆院議員。今さら説明するまでもないだろうが、解放運動の父と呼ばれた元参議員、部落解放同盟初代執行委員長の松本《まつもと》治一郎《じいちろう》氏の孫に当たる人物だ。大臣にまで登りつめた龍氏には、亡き祖父も草葉の陰で喜んでいるかもしれない。もっとも環境大臣というポスト自体、名誉職の色合いが濃いこともあり人事上の調整という側面もあるだろう。しかも過去、松本大臣が「環境政策」「エコロジー」などのメッセージを発したのは、ほとんど聞かない。ただ環境という言葉は「エコロジー」の意味だけではなく、行政用語では、例えば自治体のゴミ収集を担当する「環境課」または「環境整備課」にも使われる。そして関西地方を中心にこの「環境」を冠した部署で、部落解放同盟関係者が不祥事を起こしてきた背景もある。そういう意味では、松本龍氏と環境大臣というポスト、皮肉ではあるがあながちミスマッチでもないだろう。
 また龍氏の手腕、人柄、政治家としての目的ももう一つ不透明だ。同じ部落解放同盟出身の議員ならば松岡《まつおか》徹《とおる》元参議院議員の方が明快だった。国内人権機関の創設、人権救済法、外国人参政権、これらを推進する議員会館の院内集会や学習会、シンポジウムで松岡氏は、何度も出席し講演にも立っている。だが龍氏がこうした催しで登壇することは滅多にない。また過去、国会での議事録を見ても別段、これらの人権施策を強く訴えた痕跡はなかった。失礼ながら政治家としてあまり見るべきものはない。むしろ龍氏で注目されるのは、その莫大な資産だろう。毎年、資産公開では、常に上位に位置する。2008年の所得ランキングでは、8億4千万円でトップだった。それに対して全く見えてこない人間像。一体、松本龍とは、どんな人物で何を目指しているのか。またあの膨大な資産は、どう築かれてきたのか? 彼のルーツである福岡市を訪ねてみた。

松本組 吉塚駅前にある松本組の本社ビル。建設会社というよりは、町の工務店といった印象だ

松本家屋 松本組隣にある松本家所有の家屋。豪邸ではなくどこにでもある民家だった。

治一郎と龍 巨大すぎる祖父と平凡すぎる孫

 これまで著者は、関西地方を中心に同和行政、部落解放同盟の内情を取材してきた。その中で、元同盟員、現役の同盟員問わず現在の運動体の方針に不満を持っている人は、決して少なくなかった。取材の中で彼らは、汚職、公共事業の不正などを厳しく批判した。ただそんな彼らにもある共通点がある。それは、現在の運動体には批判的であっても松本治一郎に対しては、今でも熱烈な敬意を抱いていたことだ。
「今、全国で起こっている同和の不正は、松本治一郎先生の精神を引き継いでいない連中がやっていることだ」
 アンチ解放同盟であってもこう訴える人もいた。それほどまでに治一郎という人物は、今でも神格化され、同盟員たちのカリスマとして今も君臨しているのだ。
 そして彼のルーツである福岡市東区|馬出《まいだし》付近を訪れば、「松本家」の存在があまりに大きいことが分かる。JR鹿児島本線|吉塚《よしづか》駅、この地は松本家、そして解放運動の聖地とも言えようか。
 吉塚駅の西口を降りる。するとすぐに松本組の社屋がある。龍氏の弟の優三《ゆうぞう》氏が社長を務める建設会社だ。会社の前にはバス停がある。隣には、松本家の所有の民家もあって松本龍のポスターも貼っていた。この土地の事情通がこんな話をしてくれた。
「戦後、治一郎さんは、九州共和国構想をぶちまげて日本からの独立を訴えましたよ。馬出の自宅でその決起集会をやろうとしたらあんまりにも人が集まったもんだから、会場を寺にして支持者を集めたといいます」
 寺とは馬出2丁目の大光寺《だいこうじ》だ。隣には隣保館(現在は馬出人権まちづくり館)もある。大光寺には、顕彰塔のような墓が並んで建っていて藤岡正右衛門君之墓、松本源太郎君之墓とある。松本治一郎の生涯を綴った『水平記』(髙山文彦)の冒頭は、この墓の紹介から始まっている。松本は、徳川《とくがわ》家達《いえさと》暗殺未遂事件で逮捕され1924年に獄死、また藤岡は、福岡聯隊爆破陰謀事件で逮捕され1926年に獄死した。
『水平記』をはじめ解放同盟系の出版物には松本源太郎に関する記述は、多い。だが藤岡のものはやや少な目な印象だ。ひょっとしたら正右衛門の子、祥三が解放運動を疑問に思い全解連(共産党系)に参加し、中央委員長を務めたことも関係しているのか勘ぐってしまう。
 大光寺と松本家は、関係が深い。治一郎は、独身で通したため子がいなかった。そこで秘書だった英一《えいいち》氏を養子にする。その英一氏の妻は、大光寺の娘だ。つまり松本龍は、治一郎の直系の孫ではない。龍氏の少年時代を知る元解放同盟員は、こう話す。
「同盟員の子は、子供の頃からガラが悪いのがおったけど、龍ちゃんは、違ったね。腰が低くてとにかく礼儀正しい子やったのは、よく覚えているよ。前髪をきれいにそろえて後ろもキレイに刈り上げて清潔そうな子だったかな。たまに蝶ネクタイをつけて正装してジイサン(治一郎氏)と出かけていた。一度、どこかの若者が“龍ちゃんはええな。毎日が七五三みたいやろ”と陰口をいうもんだから“バカもん! なんちゅうことを言うか”と怒鳴ったもんです」
 こうした地元の関係者たちの話を聞くにつれ龍と治一郎、あまりにもかけ離れた人物像が浮き彫りになっていく。
「人柄は、すごく良かったかな。ジイちゃんの威を借りて威張るわけでもなかったしね。ただ決して、勉強ができるような子ではなかった。どっちかというと世間知らずのボンボンという感じだったかな。だから中央大学の法学部に受かったときも“オヤジさん(英一氏)の力で入れてもらったのか”と地元では、ウワサしよった」(馬出住民)
「治一郎さんの若い頃っていうのが、目がカッと見開いて精悍な顔つきでしかもガタイもいいでしょ。だからとにかく迫力のある人だった。晩年なんかは、杖ついて歩いていたけど、会合の前なんかカツカツと杖の音が聞こえてくると、いつもは威勢のいい若い連中がそれだけでビビってましたよ。龍さんにああいう迫力はないよな」(前出の元解放同盟員)
 治一郎氏の迫力と威厳は、よほどのものだったのだろう。こんなエピソードを聞いた。
 ある時、県連の大会で治一郎氏が演説に立った。会場は、同盟員で溢れ返って超満員。みなが治一郎氏の登壇を今かと待っている。そこに治一郎氏が登場。割れんばかりの拍手だ。すると壇上の議長席には2人の男女がいた。その一人の女性が帽子を深くかぶっていたという。その時だった、会場から
「きさーん(貴様)松本先生の前では帽子をとらんか。女の分際で無礼だろうが」と罵声が飛んだ。この話をしてくれた地元議員は、こう話す。
「治一郎さんはもはや天皇やったね。周囲の人間も戦前の憲兵みたいなもんだった」
 共産党系の同盟員を中心にこうした風潮を嫌い解放運動から離れたという者も少なかったという。
「もともと解放運動と階級闘争という言葉に惹かれて集まってきた若者もおりました。だから戦後、天皇への拝謁を拒否した“カニの横ばい事件”でも多くの人が絶賛したものですよ。だけど結局は“治一郎氏自身が天皇だ”と失望した人も多かったようです」
 戦後の壮絶な解放運動と治一郎氏のカリスマぶりが垣間見える。だが龍氏にもその父、英一氏にもこれほどの熱気はない。治一郎氏があまりに尊大すぎるのか、やはり父、英一氏も龍氏も明らかにスケールの点で見劣りする。
 そもそも龍氏がどの程度、解放運動に関心があるのか分からない。地元事情通はこう話す。
「数年前までは、福岡県連(解放同盟)の委員長をしていたけど、特に目立った活動もしていなかったし、数年前に委員長を辞めた。運動体の色を出したくなかったかもね。それにあの人(龍氏)は、あまり運動に協力的ではなかったんですよ」
 それにはこんなワケもあるようだ。
「そりゃ仕方ありませんね。例えば同じ民主党でも松岡(徹・民主党元参議院議員)を見てみなさいよ。いかにもいかついあの風体は、それだけで迫力があるでしょ。私は、大阪の天王寺で貧乏と差別にあって育ち、みたいな話をしたらそれだけで同盟員たちはわあーーと湧き立つでしょ。それにメディアだって取り上げやすいでしょ。龍さんの場合は、ボンボンすぎるから差別や貧困を語られても、なんというか“切実感”ちゅうもんがないんですわ」(前出事情通)
 また現在は、運動体から距離を置く同盟員がこんな話をしてくれた。
「龍氏が公の場で治一郎氏を語ることはほとんどないです。以前、講演会だったかな機関紙だったか忘れたけど、龍さんが得意気に話す昔話があるんですよ。彼が10歳くらいの話らしいけど、治一郎さんの兄の治七さんが龍さんにクズ鉄を集めて小遣い稼ぎをしてみろと言ったそうです。龍が数年かけてクズ鉄を集めてもほんの4~5円にしかならなかった。要するに治七は、金を儲けることやクズ鉄拾いの厳しさを教えたかったんでしょう。それで龍は、“この当時、私は100円の小遣いをもらっていたからこの数円を重く感じた”っていうんだけど、この話を聞いた肉屋のオヤジなんかは“ワシその時代にコロッケ一つ3円で売っておったわ。コロッケで100円稼ぐのは大変やぞ”とボヤいていましたね。だから龍の話を聞いても同盟員は“ありがたみ”を感じよらんのです。だから治一郎さんの記念集会でも龍は、パンフレットの奥付に資料提供者として名前が出るだけ。人前であんまり解放運動やジイさんの話をすることはありませんね」
 龍氏が10歳の頃だからだいたい昭和35年前後の話だろうか。しばし運動体の活動家たちが饒舌になる“貧乏話”も龍氏には、無縁の世界。荊冠旗を掲げながら、声を荒げる武闘派でもなければ、理論家でもなし。
「龍氏は本当にただのボンボン。といってもオヤジ(英一氏)もたいていのボンクラやったよ。英一さんの時代に本当におかしな連中が松本家に寄りついてきましたよ。治一郎先生の頃だったら大喝して追い返されるような程度の人間とも英一氏は、付き合っていたな。また龍さんも運動体や労組だけじゃなくて一般の有権者にいい顔をしたいからあまり解放運動の話はせんのですよ。治一郎先生も嘆いているかもしれんなあ」(前出同盟員)
 とこんな声もあったほどだ。

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