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第一章

オーミチャー「少年探偵団2」

著者:滝川寛之

 

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 わたしの名前は大道やよい。芸名は守屋茜というわ。

 ねえ、わたしのはなしをきいてちょうだい。

 わたしね、子供を作らないって言ったじゃない? それなのだけれど、これには相当な覚悟が必要だったわ。ええ、そうよ。あかねは覚悟を決めてたの。でもそれってすこしおかしいのじゃないかしら? 女が子供を欲しがらないなんて、なんて大罪を平気そうな顔して言えたものね。なんて、そうは思わないでちょうだい。

 茜はね、本当のわたしではないの。そう、つまりいえば偽物でしかないのよ。それがどういうことなのか、あなたには話しておかなければならないわね。だって、あなたは生涯大切な人なんですもの。当然よ。だからきいて。これから話す茜のことを。わたしの全てを知ってちょうだい。

 

 甲高い園児たちの声が響き渡るこの養護施設は、彼女にとって故郷みたなものだった。

 大道やよいは昭和生まれであり、これが生涯変わることはないだろうと考えていた。思いもしなかったのだ。意識すらしていなかったし、無関心だった。

 

 これがとは、やよいの心霊能力のことをさす。

 

 彼女は幼少のころよりここで世話になっていたものだから、記憶をどうさかのぼっても、あるのは養護施設の思い出だけ。

 やよいには一歳離れた目に入れてもかわいい弟がいて、名前は琢己(たくみ)といった。なものだから、彼のあだ名は(漢字が似ていることから)自然とトンミーと呼ばれ、やよいは、オーミチャーと言われていた。

 オーミチャーは酷いあばた顔だった。それについて、おそらく両親の梅毒(想像の世界だが。両親は他界している)か不衛生ゆえのダイオキシンが関係しているものと、後になってみて彼女は思った。

 幼いころからやよいは顔を馬鹿にされて生きてきた。そのストレスとあきらめみたいなものが、なおさら彼女の表情を酷いありさまにしていた。トンミーの方はイケメンでよい表情をしていたものだから、やはり親違いなのかしら? などと勘ぐったりもした。しかしながら、それを彼女は彼に言えるはずもなく、悩み事がまたひとつ余計に多かった。

 やよいは人魚姫のように良い体つきをしていて、艶があった。おしりもえくぼみたいにへこんでおらず、極めて完璧な桃尻。それだけが彼女のチャームポイントのようなもの。やよいの性格はおっとりとしていておとなしく、決して明るく振舞う人間ではなかったものだから、良く先生にもっと明るくなって悩みを吹き飛ばさないと駄目だよ!とげきを受ける始末だった。

 

 施設は女子にとって相当地獄というわけではなかった。男子児童よりは恵まれていたのだ。それについて、女は大人になってから苦労する生き物だから、今は命一杯甘えなさい。と、またしても先生に発せられたほどだった。

 オーミチャーは学校でもいじめの対象である。まいにち苦しくて苦しくて仕方がなかった。つらかった。逃げ出したい気持ちは誰よりも大きかったし、ときどき不登校を重ねたこともあった。それが災いして成績はあまりパッとしなかったものだから、施設の先生は夕方、勉強を熱心に教えてくれた。

 

「せんせい、わたし、オーミチャーっていわれるの、好きじゃないんです」

 

 そんなことを相談したことがある。先生は困った顔をした。

 困惑した先生をよそに、やよいは勉強に再度集中した。返事はききたくなかった。どうせつらくなるだけでしょう? せんせい。もういいの。わたし、オーミチャーという十字架を背負って生きていきます。いつしかそう思う事もあった。だけども、とても悔しかったし、それと真逆に死にたいとも考えた。本で自殺方法を調べたりもした。もちろん、そんなものは施設の図書館にはなかった。学校の図書館にもない。あるのはテレビのドラマでよく見るシーンの首つり自殺だけだ。

 

 オーミチャーはいつもどこでも頭を下にして歩いていたものだから、必然的に猫背である。それがまた奇妙で毛嫌いされた。容姿はどうしようもなかったのだ。やよいは心だけはどうか挫けぬようにと、小学生のころから聖書を熟読していた。そして考える力というものを養っていった。悟りみたいなものが支配した時は、なにものにも勝る思いで心が晴れ晴れとした。しなかった。

 聖書を読めば読むほどに、あらゆる矛盾点を余計難解にした。訳が分からなかった。牧師の言う「右の頬を殴られたら左の頬を出せ」という教えは、とてもじゃないがマゾヒストそのもののように感じたし、正直、狂っているとさえ思った。

 一方、トンミーの方はというと、彼もまた施設の先生に可愛がられていた。明るい性格をしていて、その上、正義感というものが備わっていたものだから、女子にも男子にも人気だった。

 どうしてわたしは見た目に恵まれなかったのかしら? そうすれば、性格だって皮肉れてはいなかったはずなのに。もう、どうして! 

 オーミチャーは、一人、悔しくて泣いたときもあった。二段ベットの中で。タオルケットを頭までかぶりながら。しくしくしくしく泣いた。女々しく泣いた。

 わたしは男ではないものね。とうぜんよ、マリヤ様。でも、けれど、人並みの幸せっていうものはほしかったわ。

 

 いじめは一年の頃から酷かった。あれもこれも同級生に投げつけられ、お前の居場所は鳥小屋だの、豚小屋だの、特殊学級などと罵声を浴びせられた。辛抱ならなかった。そのころからだった、オーミチャーがどもり気味になったのは。精神崩壊しそうになっていた。半分落ちていた。

 やむなく特殊学級に移動させられると、元学級の先生はほっとしたような表情を浮かべていたのを目撃したものだから、オーミチャーは、どほしでー!(どうして?!と泣き叫ぶ始末。

 本当にかわいそうな女子児童だ。施設の先生たちは彼女の心境を慰めた。どうか穏やかになれ。そう祈って。教会の牧師もやさしかったし、オーミチャーにとって、施設が落ち着く居場所みたいなものだった。それを誰が笑うと言うのか? とてもとても悲しいことだ。

 嗚呼、主、イエスキリストさま。わたしは大罪を犯したのでしょうか? 前世は極悪非道の女だったのでしょうか? わたしには訳が分かりません。まったく信じられないのです。

 

 やよいはいま、シャワーを浴びている。ぼつぼつとしたアバタ顔が指先へ感触を伝えてとてもつらくなった。シャンプーをつけて頭を磨く、頭皮までもがぼこぼこのぼこぼこだった。

 

 いやっ――! 

 

 オーミチャーは、一瞬、目を見開いた。泡が入る。とてもしみて痛かった。おもわず出しっぱなしにしていたシャワーで洗い流す。

 嗚呼……。なんてことなのかしら。いったい、なんてことなの! どうして、どうして、わたしはこんなにも醜いの? どうして! 

 訳が分からなくなる。脳天に怒りが突き刺さったような症状に陥った。

 みんなくそったれなのよ! いいわ、わたしにだって考えがある。こんなわたしにだって考える力はあるの! 今に見てなさい! わたしはシンデレラ姫。とてもとても醜いシンデレラ嬢なのよ。いつかね、きっと、素敵な王子様が現れて、そしてね、そして、わたしをきれいにしてくれるのだわ。でもまって。ちがう。それはわたしから会いに行かなければならないこと。わたしが進まなければだめなの。いいわ、こうしましょう。わたしは目標を持つべきなの。とてもとても高い目標を。でもそれって、なに? なにができるの? いったいこんなわたしに何が出来るっていうのよ! やっぱり世の中は不公平なのだわ。どうせわたしはこのまま朽ち果てるの。死んでしまうのよ。だから? だからあきらめなさいっていうの? そんなのいや! ぜったいにいやっ! わたしは、わたし……

 

 風呂を出る。相変わらず綺麗な曲線美を描いた身体は、バスタオルを吸いこむようにして滴の一つ一つを弾き飛ばした。

 わたしにはこの体しか残ってない。もう顔のことで考えるのはやめましょう。そうだわ、それじゃ何も始まらないもの。わたしは示しを付けるのよ。世の女性諸君に、わたしと同じ運命のもと生きている彼女らのためにも、生きるの。生きてみせるわ。

 衣類を着る。浴室を後にして共同部屋へと向かった。フロアは女子と男子に分かれている。まず、レイプ事件が起こることはなかったが、女子たちはいつもびくびくしていた。

 やよいは二段ベッドへ横になった。敷布団は薄くて硬。枕を高めにして読みかけの小説を手に取る。家なき子だった。この単行本は誕生日プレゼントで先生から贈ってもらった大切な代物だ。もう何回も読了していた。

 わたし、将来、小説家というのもいいかもしれない。だってそうでしょ? 誰にも会わずに家に引きこもって仕事が出来るのですもの。なんて幸せなのかしら。でもそうね、執事はほしいわ。温かいレモンティーを持ってきてくれるお手伝いさん。秘書ともいうわね。嗚呼、夢って誰にでもあるのね。夢だけは無料ですもの。なんてすばらしいのでしょう! やよいは少しだけ心が躍った。ウキウキとした。

 

 学校のいじめは本当にひどかった。だけれど、わたしは生きていくことを決めた女。児童なのよ。だって、同級生よりも、誰よりも精神年齢は年上ですもの。今に見ていればいいわ。どうせ追い越すのよ。いつかはあなたたちを見下すの。見下ろして笑うのよ。そして餌を与えるの。ほうれって。わたしの言うことを聞かないと、ご褒美は与えないの。代わりに鞭でお仕置きしてやるんだから。世の下僕どもよ、今のうちに見下してなさい。笑ってなさい。わたしは負けないわ。

 

 くじけそうになる時もある。死にたくなることは何回でもあったし、殺したくなることだってあった。でも我慢した。必死でこらえた。精神状態は異常をきたしていようとも、やよいは耐えてみせた。口ごもりになろうとも喋った。思いをぶつけた。意見を述べた。

 わたしはあなた方と同じ人間なの。言いたいことはたくさんある。

 

 特殊学級は口の悪い生徒ばかりがいる。発達障害と一口に言っても、その類(無感情)の障がい者もいるからだ。仕方がなかった。オーミチャーはそれらの中で勉強を共にするのがつらかったけれど、なにせ一般と特殊をさまよう精神状態なのだから、一般学級へと戻ったところではじかれるだけだと思い、我慢するしかなかった。

 

 ――どちらにせよ、わたしは罵声を浴びながら生きていくしかないのね。

 

 辛い、辛かった。

 障がい者にすら馬鹿にされるわたしってなんなのかしら? 考えたことがある。行き着く答えは人間以下だった。

 わたしは、わたしは、日本語をしゃべる豚なの? うまくしゃべれない豚以下なの? くるしい。とってもくるしいわ。どうしてでしょう? わたしはどうせミンチ肉になってハンバーグの具材になるのだわ。そしてバーガー屋さんで販売されるの。一番安いピクルス抜きのハンバーグよ。ひどいでしょ? 所詮こんなものだわ。わたしは高級バーガーにすらなれないの。ひどいひどいアバタ顔。まるで病気にかかったみたいに酷い顔だわ。言葉も濁ってて、きたないったらありゃしないのだものね。仕方がないわ。こうなったら麻婆豆腐の具材よ。もしくはジャージャー麺。それでも贅沢ですって? じゃあなに? 饅頭? それでもだめなの? 何よ、言いなさいよ。はっきり言えばいいじゃない。わたしのたどり着く場所は豚小屋のえさ箱だって。それとも鳥小屋? 鳥獣の糞に紛れるの? 馬鹿にしてなさい。そうやって馬鹿にしているがいいわ!

 

 特殊学級にはトランポリンがあった。そいつで憂さ晴らしするのが日課みたいなものだ。飛んで跳ねて一緒に飛ぶ奴を蹴り飛ばしてげらげらと笑う。もう、どうでもよかった。

 人生なんて考えるだけで疲れるだけなのだから。わたしは遊んで大人になるわ。そうきめたのよ。神様。いいでしょう?

 

 やよいはまともな話し相手がほしいと思うときがある。この学級で、だ。

 しかしそれもかなわぬ夢なのだものね。それが逃れた者の宿命、天罰のようなものなのだわ。わたしは逃れたのよ。れっきとした逃亡者。一般階級から逃れた旅人と言えばかっこ付くかしら? いいえ、そんな生易しい言葉ではないわ。わたしは負け犬なのよ。

「おい、やよい!」

 クラスメイトが発した。

「なに?」

「おまえのおっぱいどうなってんだ? みせてみろよ。ぎゃははは!」

 あきれ返るしかない言葉だったが、やよいもそろそろ頭が麻痺しかけていた。

 わたしももう狂ってしまいそう。こんな人間ばかりで。でも、同じ可哀そうな人だものね。おっぱいくらい見せてよくてよ。

 そして服を脱ぎ去る。乳首は桃色に勃起していた。皆が一斉に見やる。まだまだ小学生な彼女の胸などふっくらともしていない。男子児童と同じようなものだった。だがしかし、乳首の形が異なることに気が付いた男子は、おもわずおちんちんを勃起して見せるのだった。

 ほうれ、俺のも立った! 立った! 

 やだっ! へんたい! 

 だけども気になる。やよいもまじまじと恥ずかしいところを見る始末で、どうにもこうにも後戻りできなかった。

 全部脱いじゃえ! 

 一人の男子が言うと、皆で全裸になりトランポリンを踊った。その中にやよいも含まれていたのだった。

 嗚呼、こんなわたしでも見てくれる人はいるのよ。そう、欲する者はいる。世の中も捨てたものではないわ。

 そんなことをのちのち気にし始めるころには、取り返しがつかないことになっているわけだが。

 

 やよいは今夜、初めて金縛りのような症状に見舞われた。

 

 あぅぅ、くぅぅ。

 

 よだれがただれるほどに苦しかった。息が出来なかった。それでも懸命に息を吸おうと頑張る。駄目だった。体中が痙攣している。震えだけで、あとはピクリとも動けない。完全な、完璧な、金縛りだ。

 

 ほうしてぇ(どうして)? ほうして(どうして)こえがでないの――? 

 

 心境の中ながら、なぜか口ごもっていた。それが何か不自然に感じたし、おかしいとも思った。嗚呼、だれか、だれか、たすけて――! 声のでない者に、だれも助けへ来ることはない。二段ベッド下の児童すら、すやすやと寝ていた。まさに窮地だった。

 

 人の姿が突然と胸上に浮かび上がる。

 

 もはや物体だった。れっきとした現実空間の物である。いや、者であった。

 手を伸ばしてきた。首元に腕が回る。すると、途端にきつくきつく締め付けてくるではないか。嗚呼、嗚呼、ころされる……。ころされる……。やよいは必死で抵抗しようとした。初めから息はできないことを忘れているほどに、彼女は完全とパニック状態へ化していた。

 

 いや、いやよ! だれか、だれでもいい。たすけて! たすけてぇ――

 

 たまらず絶頂となり、突然この場面で意識を失った。

 

 ――とんとんとん、とんとんとん。誰かが肩を叩く。やよいは目を覚ました。うぅん……。ねえ、大丈夫? 彼女を起こしたのは共同部屋のひとりだった。ああ、夢だったんだ……。よかった……。ハッとなり、やよいは手鏡を確認する。やっぱり――。顔も現実のままだった。

「これはね、心霊現象なのよ――!」

 その子は言った。

「そうかなぁ?」

「そうよ! そうに決まってるもの!」

 わたし、これからどうなっちゃうんだろう? ふと、思いを巡らせた。

 やだっ! どうしよう。わたし、見てはいけないものをみてしまったのだわ。ひどい! そんな、そんなにわたしの顔が醜いからってなによ。幽霊さん、あなたはわたしのお友達でも何でもないわ。もうこないで! 出てこないでちょうだい。迷惑よ! わたしは迷惑しているの。だってそうでしょう? あなたは人間ではないのだもの。わたし? わたしは人間ですもの。こんな顔しているけれど、わたしは立派に生きているの。なによ! そうやって馬鹿にしていればいいわ。わたしを馬鹿にするために現れたのでしょう? じゃあ、どうして? どうしてなの? あなたの望みは何? わたしがほしいと言うわけではないでしょう? 命? もしかして、いのちがほしいの? わたしを殺してあなたが生き返るとでも言うの? そんなのゆるされない。だってひどい話じゃないかしら? わたしはわたしであなたはあなたなんですもの。そんな取って代われるものでもなくてよ。それでもほしいの? いいわ。それならわたしの顔だけあげる。それでよくて? なんですって! いやなの? そんな化け物のあなたですらわたしの顔が醜いと思っていたのね! ひどい! もうしりません。あなたはあなたでやってちょうだい。わたしはしりませんから。もう金輪際、わたしはあなたの姿を見ないの。全然、意識しないわ。あなたの方がひどいありさまだからよ。わたしよりもあなたの顔がひどいの。お分かりかしら? さあ、かえって! かえってちょうだい。あの世にでもどこにでも行くがいいわ。

「やよい、これからどうするの?」

「決まってるじゃない。塩よ。御守りよ」

「そんなの利くかなぁ?」

「だいじょうぶよ。きっと……。そうに決まってるわ」

「やよいってつよいのね」

 これまでどれだけもまれたと思って?そう発しかけて止まった。言うべきではない。そう思った。みんなもわたしの辛さを知りなさい! そういうことは話したくなかった。自分自身でカタを付ける。それでいいと思っていた。しかしそれは間違いだったと後悔した時ほど悔しくて涙は止まらなかった。それは毎回のことだ。毎度のことであった。

 いちかけるさんかけるきゅうわるななたすさんわる……。こたえですって? その答えはミックスジュースよ。あなたの頭の中も、わたしの顔みたいにミックスジュースになるの。どう? とってもすてきじゃないかしら? これでいいのよ。それでいいのですものね。なにをはむかうおつもりかしら? わたしはシンデレラなの! シンデレラにはむかう下僕ほどみじめなものはないわ。いい? あなたはアバタ姫なの。麻婆豆腐のお城にお住まいかしら? あなたの好みは中華でよくって? そうよ、中華も素敵なの。とってもおいしくて、ほっぺたが落ちちゃうくらいに目玉がとろけるのよ。どう? おきにいりでしょう? ほら、そうやって冷たい目でわたしを見るのね。いいわ、一生そうしてなさい。わたしはもう知りません。あなたは幻のアバタ城で豆腐と仲良くおやりなさいよ。釘も刺さらないような豆腐でよろしくて? あなたの麻婆は豆腐が全て砕けて滅茶苦茶なのよ。そう、わたしの顔のように。え? それじゃあ、わたしも同じじゃない! いやよ、そんなのぜったいにいや――

「どうしたの? やよい? だいじょうぶ?」

「あ、ああ……。大丈夫よ。ごめんなさい、ひとりごとなの」

「それならいいけれど」

「ねえ? わたしって醜いよね?」

「そんなことないわよ! あまりかんがえないで」

「わかってる。わかってるけれど、幽霊はもっとひどい顔だったの」

「どんな? そうだ、絵にかいてみて!」

 やよいは絵を描いて説明した。ええっとぉ、めはとびだしててぇ、それからくちはさけててぇ、それからしたがながいの。はなはつぶされたようにしてへこんでいたわ。ええ! 酷すぎる顔じゃない! 兵隊さんかな? この施設戦争と関係しているのでしょう? やだっ! 怖い!

「そういえば、爆弾で死んだ兵隊みたいだった……。どう?」

「どうって、みたんでしょ? なに、そのひとまかせなの。あはは!」

「うふふ

「もう! やよいって面白いんだから。そこら辺もみんな見てほしいよねぇ!」

「そうね、でもかまわないわ」

「つよーい!」

 えへへ。うふふ。やがて二人は再び寝る。そして朝になった。考えているよりも、幽霊は再び現れることを昨夜しなかったものだから、やよいは安心して熟睡できた。そうよ、物は考えようだわ。何とも思わなければ見えることもないはずよ。そうよ、そうに決まっている。しかし、次の夜だった。

 幽霊は出た。しかも寝ているときではない。立派に起きて居る時の話だ。共同部屋には大きな窓があって、そこは格子でしっかりと侵入者を阻止していた。しかしだ。それはいた。まぎれもなく、だ。やよいは二段ベッドで読書を楽しんでいた。ルームメイトは共同居間へテレビを観に行っており、部屋にはいなかった。なんとなしに用を足したくなった彼女は共同トイレへと出た。そして戻ってくる。寝室ドアを開いて入ったそのときだ。立ったままの状態で金縛りにあった。

 いま、やよいは窓の方を向いている。もちろん動けない。三秒ほど時間にすきまが開いた後だった。見知らぬ一人の美少女が格子むこうに突然と浮かび上がった。だれ?心の中で叫ぶ。声は出なかった。わたし? わたしの名前は守屋茜。

 え――? やよいは声が届いたことに対して驚いた。心の交信は続く。

「わたしは茜。あなたは、やよい。でもね……

「で、でも……?」

「あなたはこれから守屋茜になるの。わたしになるのよ……

「ど、どうして……?」

「だって、そうでしょう? わたしはあなたを食べるのだから……

「た、たべる……?」

「そう、あなたの心を食べるの。すてきでしょう……?」

 どうして? たべるですって? このわたしを食べて何が美味しいっていうの? 色々な感情が交錯する。訳が分からなかった。なにをこの女は言っているのだ。そう失笑したいほどだった。

 かわいそうに、わたしなんかの心を食べつくしても、あなたも皮肉れた心の主になって、そしてね、あばた顔になるのよ。そんな楽しくないことをわざわざするですって? 馬鹿にするのもいい加減にして! どうしてわたしは幽霊にまで馬鹿にされなきゃいけないの? こんなことってあるかしら? 

 あ、あ、あ……。と、あごが外れた状態でよだれを垂らしながらやよいはつぶやいた。もちろん、あ、あ、あ、以外に声は出ていない。もはや万事は休していた。

「あなたには地獄の快楽をおしえてあげてよ。嗚呼……!」

 突然喘ぐ少女。なんなのかさっぱりのやよい。これが地獄の三丁目なら、この先にある五丁目はなんなのだろう? そんなことは考えもよらない。只、思う事は恐ろしい化け物がいるということだけ。やよいはこれから起こる世界を観るのが怖かった。このわたしの目で、この耳で、この鼻で、現実をかみしめる。それはまるで幻が存在しなかったかのように酷く透明だ。透明が酷いなんてあるのかしら? しかしそれはあった。信じられない。信じるしかなかった。わたしを、未来を。過去にとらわれて生きるのはこれが最後かもしれない。それはちがう。なにが本当で嘘なのか、わたしには見抜けないの! 嗚呼、頭がおかしくなりそうだわ……。おかしくなっているじゃない。

 霊体はするすると体をすり寄らせてきた。ふたりの体がぴたりと重なり合う。そのときだった。ストロボのような光が心臓の真ん中からはじかれた。とてもまぶしい、失神しそうなほどに明るすぎるフラッシュだ。しまいにやよいは意識を失った。もうだめ。死んじゃうんだ、わたし……。わたし……。わたし……。思わず目を見開く。完了したわ。もう一つの心がやよいに言った。まだ完全浸食されていないらしい。だが分かった。これから徐々に染まっていくと言う事を。守屋茜になるのだわ。わたし……。そうつぶやいて。

 

 守屋茜の人生なんか知ったことではなかった。

 わたしはこうして登校している。特殊学級へ。でもちがう。この前とは違うの。今日からわたしは一般学部。普通学級というやつよ。なんてドキドキするのかしら。

 やよいは一人ほくそえんだ。どうしてかしら? まるで昨日までとは違う光景に何やらたくましさを自身で感じ取った。どういう事なのか全てははっきりとしている。あの事件。そう、あの心霊現象の夜からやよいは変わったのだ。

 今現在、彼女の心は二つあってひとつではない。それはつまり、どうなる? そんなことは考えもしなかった。とにかくいえることは、守屋茜という女は負けん気の美女だと言う事。それは理解できた。でもどうして美女なんかがわたしに? 矛盾点はそこだ。答えが探せない。解決策はなかった。

 ふん、どうせわたしが成仏させろとでも言うのでしょう? 神様。それはご都合主義というやつだわ。迷惑よ。どうせなら、わたしだったら利用してよくてよ。あなたを、守屋茜という女を。

 内心のほくそ笑んだのはそれだった。

 理由はそれ。なに? いけないとでも言うの? あなたはわたしのことを利用しているくせに、わたしだけ駄目だなんてルール違反もいいところだわ。さあ、どうしましょうか。とりあえず、あなたの心境でも聞いてよくってよ。さあ、話しなさい。わたしの奥に隠れてじっとしている地縛霊さん。そうよ、あなたは天使でも何でもないわ。只の地縛霊なの。よく思うなんて考えてた? ふざけないでちょうだい。

 わたしは守屋茜。わたしがあなたを選んだのは、そう、あなたが可哀そうで仕方がないから。それをもっと悲惨にしてあげるの。どう、すてきでしょう? それでね、きいて。オーミチャーさん。いえ、あなたにさん付など必要ないものね。おい、やよい。きさまはオーミチャー。それはもう変えられない。できることなら救いたかった。でもね、それはあなたを余計に苦しめるだけ。きいて、オーミチャー。あなたは死ぬのよ。酷い恰好で。醜い顔から泡と鮮血を吹きだして。そう、それでいいではないのかしら? あなたはわたしではないと言ったわね? けれど、あなたは紛れもなく茜なのよ。茜はわたし。そしてオーミチャー。あなたよ。それが変えられるとでも言うのかしら? 

 いいえ、お黙りなさい。

 黙るのはあなたの方なのよ。早いところ挫けなさいな。そして死ぬのよ。死んで死んで死んでやってちょうだい。それがあなたのためですものね。それが世のためなのですもの。嗚呼、すばらしいわ。大変素敵な狂想曲よ。あなたはペテン師? それとも正義のヒロイン? いいえ、まったく異なる生き物。化け物なのよ、あなたは。あばた顔で何を勘違いしているのかしら。みっともないったらありゃしないわ。オーミチャー。あなたね、いいかげんにしてちょうだい。もうあなたは助からないの。救いの手を伸ばす? そんなつもりであなたに呪い移ったわけでもないし迷惑千万よ。わたしは守屋茜。美しい女が醜いアヒルの子をどう料理してよくって? 答えはね、簡単なのよ。そう、あなたは死ねばよいだけなのだから。でもね、それだけでは面白くもなんともないものね。そう、もっともっと劇的に死んでやりなさい。花を咲かすの。酷い花を。ちょっとまって。あなたの場合、花でも何でもないわね。糞よ。くそったれの馬糞うに。とげをはやしたサボテンうんこ。そう、それがあなたの新しい名前。いいでしょう? とっても素敵ではないのかしら? オーミチャー。あなただけは幸せにはなれないのよ。あきらめてね。

 

 通学路はどぶ川を沿うようにしてある道を歩いてゆく。学校の校門は裏口からだった。正門よりも一回り小さかった。夜は侵入者を避けるようにしてパイプの門は閉ざされる。それに連なっている金網のてっぺんには、らせん状の鉄条網が施されていた。校舎は三階建てで白いペンキ色である。この校舎ができる前はプレハブの学校だった。それ以前は木校舎だ。やよいが保育園の頃、木校舎を眺めたことがあった。とても古い代物で、お化け屋敷みたいな感じだった。そこには逆立ち幽霊やら塗り壁という化け物やら居ると言う噂があった。とてもとても恐ろしい校舎だ。今となってはその名残もなく、立派な建物になったものだ。大人はそう話していた。オーミチャーは三年三組だった。

「おい、化け物。お化けの登校時間は夜だぞ――!」

 そんな罵声も慣れっこになっていた。

「うるさいわね! ちんちんちょん切ってやるわよ――!」

 やよいは負けなかった。屈しなかった。つよくなったな。自分でもそう思う。これはきっと守屋茜が何か関係しているのかもしれないわね。だけども、そうではないでしょう? わたしは二面相。彼女の時はわたしの思考は止まっているのだもの。いえ、ちがう。意識はあるわ。彼女が何を話しているのかが分かるのですものね。とうぜんよ。

 下校時、やよいは海を観に一人で寄った。学校の隣は広い砂浜だ。傍には自治体のおおきな運動場もある。社会人野球部が今日も練習を盛んにしているのが見えた。あの人たちはね、野球をやってお金をもらっているのよ。そうそう、立派なプロなの。いつしか施設の先生に教えられたことがある。そう、すごい。無感情にそう答えた。それよりもわたしは自分の顔のことで頭がいっぱいなの。せんせい、ごめんなさい!

「これからが勝負ね」

 茜がつぶやく。とっさにやよいは返した。――なにが? 二人はこうして独り言を喋っているように黒い砂浜の上で会話を交わした。服はワンピースである。オーミチャーにはとても不似合な格好だった。酷い顔だ。

「これはね、あなたとわたしの勝負でもあるのよ」

「どういうこと?」

「あなたの感情が勝るか、わたしの呪いが勝つか。二つに一つしか答えはないの」

「そう……

 やよいは何だか脱力に満ちた感情に陥る。それはいつまで続くの? 訊きたかった。聞かなかった。そうね、そうしていつまでも呪ってるがいいわ。わたしはね、既にもう疲れているの。生きるのがしんどい時だってあるわ。それなのになによ。わたしかあなた? そんなのどうだってよいじゃない。

「厄はもう少しよ」

「やくって?」

「厄よ。呪いのほう」

「ああ、厄ね……。それで、どうなるのかしら?」

「終わってから気が付くわ」

「そう……

「なによさっきからそうそうって。まるで他人ごとではないかしら?」

 どうだっていいじゃない。言いかけてやめた。やよいはもう嫌なのだ。考えるのが。悩むのが。でも、それでも他人ごとではない。これはれっきとした自分自身なのだから仕方がなかった。そうは思わなかった。守屋茜って言ったわよね? わたしはあなたのことをどう呼べばいいのかしら? でもせっかくだからあだ名にしましょう。あなたもわたしのことをオーミチャーと呼んだのだものね。当然の報いだわ。

 

 小学生の時はとにかく勝負の毎日だった。食うか食われるか? それだけを到底多様なものだったものだから、やよいはほとほと疲れ切っていた。そして中学だ。彼女は気持ちも一新して学問に没頭したかった。できなかった。

 まいどのことながら口の暴力が果てしない。嗚呼、わたしは一生罵倒されて生きてゆくのね。心が何度も折れそうになる。しかしながらもう一つの彼女である茜はとにかく強気だった。オーミチャーに変わって罵声を返すわ、罵倒し返すわで、とうとうやよいと会話する生徒はいなくなってしまった。それはそれでさびしいことだった。ねえ、文句言っていいのよ。わたしの顔、ひどいでしょう? いいなさいよ。ほら、いってよ! 心の中で何処となく叫ぶ。しかし声にして出せない。内心ほっとしていた。友達おろか、空気の存在のように無視されることも悪くはないわねと考えたからだ。これで授業に集中できる。よかったわ、わたし。

 それでも茜はやよいの敵を演じてみせる。毎晩毎晩、自分で自分の首を絞めつけた。手をまわして、つよくつよく締め上げたのだ。これに何の意味があるのだろうか? やよいにはわからなかった。だってそうでしょう? あなたは苦しんで死になさいと言ったのに、これではまるでハーレムじゃないの。わたしはとっくの昔に楽して死ぬ方法を探しているのだから。ちゃんちゃらおかしいわ。

 

 年下の園児らがオーミチャーと揶揄したある日のことだった。

 ガジュマル広場は園児らがビー玉大会をする場所だ。木陰が涼しかったし風も良かった。悪いと言えば罵声だけ。オーミチャーオーミチャーうるさいわね。わかってるわよ! どうせわたしは怪物ですもの。ふん、そうやってあなたがたは年下のくせに指差して笑ってればいいわ。シンデレラはわたし。結局、最後に勝つのはわたしなのだから。

 

「やよいくん――

 

 オーミチャーは独り言から我に返った。目の前には園長先生がいた。彼女は下を向いており気づいていなかったものだからよほど慌てふためいた。え、えんちょうせんせい。そう返すのが精いっぱいだった。しかし、じっさいに届いた言葉はこれだ。

「へ、へんちょうへんへい……

 ごもりはまだ治っていなかった。いや、むしろひどくなる一方だった。

「どうしたのかね、元気がなさそうだが?」

「園長せんせい。わたし、つらいのです。とても……

「容姿のことかね?」

 園長先生もそう思っているのね。幻滅したわ。やよいは思った。

「大丈夫です。容姿は幾らでもかんたんに変えられるものだから、けっして純粋な心を失ってはいけませんよ。それを信じなさい。だいじょうぶ。あなたはそんなにひどい人間ではない。人間とは、皆、平等に死を迎えます。どう生きたか? きみは心を清く全うすることこそが全てのように思う。がんばりなさい」

 容姿簡単に変えられるですって? 何を馬鹿なことを言っているのかしらこの人。本当にそれでも園長先生なの? 良くかんがえてみれば、今の話だってまるでわたしを馬鹿にしているじゃないのかしら? 

 やよいは泣いた。何だか悔しくて悲しくて泣いたのだ。もう誰の言うことも信じられないくらい罵声に聞こえたものだから仕方がなかった。

 かなしい、本当に悲しいです。園長先生。どうしてわかってくれないのかしら? わたしの確信的な心の悩みを。嗚呼、悔しすぎます。くやしくてかなしいのです、園長先生。

 そのときだった。茜が出てきた。

 彼女は思い切りよく園長のほおをひっぱ叩いた。

 馬鹿な大人ね! ふん。と。

 なにをするのだね! やよい君。

 あなた方にはわからないわ。ぜったいに。だってそうでしょう? 五体満足の人間だなんて結局馬鹿の産物なのですものね。やよい、走りましょう それ! 

 やよいの体を持つ茜は走った。何処までも駆け出す。

 あはは! どう? すっきりするでしょう。こうやって走ればいいのよ。悩みなんてものはちっぽけ。本当に小さいのよ。あなたは何に困って? 

 やよいは考えた。茜はどうかしてる。つい今日まで敵だったかと思えば、今みたいに味方に付くときさえある。

 いったいなんなの? あなたという女は疲れる。本当に疲れるわ。もうしりません! あなたはあなたでやりたいようにしなさいな。わたしはわたしの時間の時に悲しめばよいの。そして泣くの。しくしくと。もしかしてそれが狙いなの? それすらさせまいとしていることなの? つまりは征服したいと言う事かしら?

 茜はいう。そうよ と。やよいはそれを聞いて絶句した。

 あなたね、いいかげんにして! 

 自分で自分の顔を引っ叩く。己が痛いだけだった。

 もう、どうしてこんな天邪鬼の霊が憑りつくのかしら? わたしって本当についていない子。疫病神だわ。

 

 やがて日が暮れそうになる。やよいは来た道を急ぎ足で戻った。施設の門限は夕方六時である。恐らく今時間は夕方五時前ころね。彼女はふとそう思った。赤紫の夕焼けは夜空を連れてくるように暗くなっていった。車道はヘッドライトの付いている乗用車がガラガラ音を鳴らして行き去ってゆく。役場の方から時報が響き渡る。この街は住宅が多くて、おおよそ雑音がある方なのだが、その音はこだまして届いていた。

 施設に着く。夕飯の御膳たての支度を当番の児童たちがしていた。白い食卓テーブルはとても大きくて横に長かった。皆、一同に食する。祈りをささげてから。それは今夜も同じだった。夜になる。

 シャワーを浴びてから勉強机へ向かう。宿題が多かった。髪はドライヤーで乾かしていた。いつもルームメイトと交換で使っている化粧台で、だった。いまのところ茜は出現しない。やれやれと思ったしほっとした頃合である。わたしにみせてみて 宿題を手伝うかのような言いぐさで茜は出てきた。はて、彼女の偏差値はどれくらいなのかしら? そんなことを思ったりもした。おもわなかった。

 なんとなしに今日の茜は味方であった。毎日こうであったらよかったのに。やよいはつぶやく。茜は聞いていた。なんですって? いえ、なんでもないの。宿題、いそいで。

急ぐいそがないもあなたの脳みそなのよ。限界があるわ。そうれもそうね。わたし、特殊学級に居たから遅れてるのよ。わかって。しかたないわね。

 ルームメイトには施設内の恋人がいた。いつも夜の八時になると別の荘から抜け出して会いに来るのだ。今夜もそうだった。やよいは気を利かせて部屋を出る。それからいつもドア越しに盗みぎぎしていた。うらやましい、うらやましい。と。共同部屋の人間は一年に一回、部屋替えを強いられており、今回の場合、オーミチャーのルームメイトはさやかという美女だった。その子は施設内でも評判の子で、性格もやさしくとてもよかった。

「なあ、さやか」

「なあに?」

「おまえ、オーミチャーのことどう思ってる?」

「やよいちゃんの事? いいルームメイトだと思ってるけど?」

「ほんとうか?」

「うん。でも……

「でも、なんだ?」

「気味が悪いわ。わたし、こわいの……

 盗み聞きしているやよいは苦しくなった。やっぱり、あなたもそうなのね……。と。やよいには友達がいない。しかしながら、さやかだけは特別だと思っていたし、信じていた。だけども裏切られた。

 この悔しさを茜は分かるかしら? 

 ええ、よく解るわ。

 同情してくれなくとも結構よ。

 別に同情はしていないし。これがね、運命なのよ。あなたは一人で生きてゆくしかないの。たとえ施設でもね。おわかりかしら? 

 ええ、よくわかったわ。でもね、きいて。わたしには弟がいるの。腐れ縁の兄弟よ。だから一人にはどうしてもなれないの。お気づきかしら? 

 あら、それはよかったわね。せいぜい兄弟同士で近親相姦でもすればいいわ。

 ふざけないで――

 就寝時の事。消灯時間が過ぎていて、部屋は窓から入る月明かり以外に真っ暗だった。やよいがつぶやく。ねえ、さやか。おきてる? と。ん? なあに? 返事がきた。

「あなた、わたしのどこが怖いの? やっぱり、顔?」

「やだ! 聞いていたの? ちがうわよ。あまり気にしないで。誰だってルームメイトはこわいものだから」

「そう……。ねえ?」

「なあに?」

「わたしって、からだきれい?」

「そうよ。やよいは体つきが凄くいいもの。もっと楽観的になったほうがいいよ。顔のことは仕方ないじゃない。気にしたって終わることではないのだから」

「そうね」

「もうねましょう。やよいちゃん、おやすみ」

「おやすみ」

 心の中に茜が出てきた。

 ふん、彼女は余裕ね。

 また出てきたのね。こんどはなに? 

 あの子は美形だから余裕ってこと。あなたみたいに皮肉れていなくて結構だわ。

 どういうこと? 

 オーミチャー、あなたは舐められてるのよ。

 舐められてる? いったいだれに? 

 彼女に決まってるじゃない。

 ――? 

 だから、本音はあなたを見下していると言う事よ。馬鹿にされているのだわ。悔しくない? 

 やよいは考えた。今更そんなこと言われても仕方ないじゃない。どうせ全員に馬鹿にされているのだから。茜は何を思いあがっているのかしら? 

 首を絞めるのよ――

 首? 

 そう、彼女の首を思い切りよく絞めるの。すてきでしょう? 

 素敵でも何でもないわ。やっぱりあなた頭おかしいのではないの? 

 おだまりぃぃぃ! いいわ、オーミチャー。あなたがしないのならば、わたしがしてあげてよ。

 ちょっと、なにをするつもり? 

 名案があるのよ、だまってて! 

 だまっていられるはずもないでしょう? 

 良いからわたしに任せて。おだまりぃぃぃ! 

 きえぇぇぇ! 

 茜は奇声を発すると瞬く間にさやかのベッドへ移った。そして寝ていた彼女にまたがり、つよくつよく首を絞めつけるのであった。や、やめてっ! あ、あ、あ……。さやかは声をそう上げた。誰にも聞こえない。部屋のドアは閉め切っている。先生室までは少し遠かった。次第に泡を吹き始めた。もうやめて! やよいは叫ぶ。なにをいまさら。オーミチャー、これもすべてあなたの責任なのよ。わたしの責任ではないわ。罪は全部あなたが問われるの。そして少女園行きよ。少女園ってしってるかしら? 少年院のことよ。そこであなたは同性に集団レイプを被るの。ハアハアハア……、なんてすてきなのかしら。はひゃひゃひゃ。

 

 ――もうやめてっ!

 

 その声は辺り中に響いた。先生が駆けつける。こらぁ! やよい、なにをとんでもないことをしている! 止められたオーミチャーは真っ白な世界へと吹っ飛んだようにしてもぬけの殻になっていた。

 

 翌日からやよいは一人部屋である二階の寝室で生活することになった。担当の先生が時間越しに様子を伺いに来る予定になっていて、おおよそ一人部屋であっても悪いことなど、できはしなかった。わたしはとんでもないことをしたのだわ。毎日毎日自責し叱咤する。嗚呼、もうわたしは人間界とは無縁でありたいの。中学を卒業したら自由びとになるわ。そうもいかなかった。トンミーの存在である。

 両親のいない二人にとって、オーミチャーはトンミーのおかあさん代わりだった。

 とてもなつっこくて愛らしい子。わたし、この子を置いて社会へ飛び出せない! 嫌よ、そんなのぜったいにいやっ――! トンミー、あなたはわたしと同じ部屋で寝るの。そう、ここで。この広い独房はあなたとわたしの家庭なのよ。だってわたしたちは家族でしょう。ちがうの? それとも一緒に居る事なんかいや? いいわ、明日先生へ言づけてあなたをこの部屋に呼んであげる。さあ、久しぶりに兄弟仲良く一つ屋根の下眠りましょう。

 

 後日、トンミーは別の荘からオーミチャーの部屋へと移動になった。彼はとても喜んでいたし、わたしもよかったと思ったわ。でもね、ちがうの。わたし、それ以上は望んでなかった。だってそうでしょう? 茜の言うとおり近親相姦するだなんて誰に言えるかしら? やよいはひとり被害妄想的想像をふくらました。当然ながらそんな出来事など起こるはずもない。やよいはあばた顔で声もどもっていて酷い。さすがのトンミーも恐れたほどだった。彼女は彼にも嫌われていたのだ。

 

 トンミーはオーミチャーの部屋へ移動になることを拒んだ。ぜったいにいやだ。と。

 でも、おねえちゃん。誤解しないで。俺たち男と女だろ? おれだってフルちんで寝たりだとかしたいのさ。お姉ちゃんだって素っ裸で寝たい時あるだろ? なんせ、この施設は冷房が付いていないんだから。暑い暑い。

 

 茜はほくそ笑んでいた。ほうら、あなたって本当に誰もいないのね。かわいそうに。でもほら、ちゃんとひとりいるじゃない? わたしという存在が。わたしとあなたは一心同体ではないけれど、お互いに共通点もあってよ。それは何かわかる? お互いに孤独だってこと。そして死んでいると言う事。なに? あなたは生きているですって? 生きたまま死んだようなものじゃない。なにをいまさら。 

 やよいは苦しかった。嗚呼、でもそのとおりよね。わたしはひとりぼっち。誰の助けもこないのよ。そうやって茜と一緒に果てるのだわ。

 さあ、もだきなさい。喘ぐの。素っ裸になって、ベッドの上でひくつくのよ。できるでしょう? 今すぐにオナニーをすべきなの。それがあなたへの慰めでもあるから。

 でも……。誰を想像して? どの勃起したおちんちんを想像すればいいの? 特殊学級の子? 一般の子? 先生? 園長先生?

 そんなことどうだっていいのではないかしら? あなたはすべてのペニスを想像していればいいのよ。それが例え犬でも猫でもカッパでも。うふふ どう、すてきでしょう?

 おかしな人ね。わたしは今、心から落ち込んでいるの! なによ、そんな自分勝手なこと言わないで。わたしは慰めがほしいの。ちょっとまって。おちんちんがわたしにとって慰めだと言うの? そんなはしたない。わたしは淫乱なお姫様ではなくてよ。

 お姫様ですって? よくいうわね。この淫乱雌豚のくせして! あなたはアバタの麻婆豆腐なのよ? 顔からして変ではないのかしら? あなたこそおかしいのよ。狂ってる。狂気の沙汰。そう、あなた自身が狂気なのよ。さあ、踊りなさい!

 踊りなさいって、わたしがオナニーで踊れるわけがないじゃない。なにを訳の分からないことを言っているのかしら? それじゃあ、あなたにはできるっていうの? 狂ったオナニーが。できるの? 踊れるの? 素っ裸で。もちろん、わたしの体を使ってみてもよくてよ。

 ほうら、本音が見えてきたじゃないのかしら? あなたはオナニーが今すぐにでもしたいのよ。それがね、女の本音というやつなのだわ。苦しい時ほど欲する淫乱痴女よ。あなたは立派なアバタの踊子なのよ。さあ、踊りましょう

 

 やよいはオナニーをした。素っ裸で、淫乱に。濃厚に。いろんな形のペニスを想像して、した。なんだか涙が出てくる。それは嬉し涙なのか、悔し涙なのか、悲しみの涙なのか、おおよそ見当がつかなかった。考えなかった。ただ、無心としていても涙があふれるのだ。もちろん無心ではない。こうしてオナニーをしていると言う事は一心にペニスが挿入されることをイメージしていると言う事。それは分かる。だがしかし、それは無心の先にあるオアシスなのだ。淡い想像なのだ。ひたむきな空想なのだ。妄想なのだ。

 逝った。どうやら茜の方も感じていたらしい。淫乱に。激しく。

 

 次の日からやよいは学校で大人びた態度を見せつけた。もともとそういう性格なのだが、それ以上に大人びたのだ。なんだか彼女をいじめていた生徒の数も減っていく。最終的にはいなくなった。それでよかった。そうではなかった。

 オーミチャーは空気の存在になった。それはそれで辛いことだった。なにを言っても視線を向けても無視されるのだ。それに対して腹が立ったが、まあそれも仕方のないことね。と、半場、諦めた状況だった。学校の鐘がなる。帰り支度をした。

 一人というものにはなれているし、特段、帰り道がさびしく感じることもなかったのだが、今日は何だか悲しく感じていた。ほんとうに生涯一人ぼっちなのかしら? と。トンミーは腐れ縁の兄弟とはいえ、彼にまで嫌われる始末。嗚呼、本当に高校へ進学する意味はあるのかしら? ふと考える。まるで意味がなかった。だけども、オーミチャーは行くことにした。進学することにしたのだ

 三年に上がるころには進学先は決まっていて、彼女は工業高校のシステム科へと進む。専攻は国語と英語にした。小説家はこれだと思ったからだ。翻訳家も悪くはないと考えていた。

 やよいのあばた顔は年を追うごとに、ほりが深くなって酷いありさまになっていった。そんなこと気にしていられないもの。彼女は強がったが、茜は酷く失笑するのだった。

 まあ、なんてひどい顔なんでしょう。

 うるさい。いえ、黙っていられるはずもないもの。だってあなたはわたしでもあるのだから。

 わたし茜はオーミチャーではなくてよ。それだけははっきりしておいた方がいいかしら? 

 なにをいまさら……

 だってそうでしょう? 茜は美顔のお嬢様なのよ。それがあなたに取りつくっていうのだからチャンチャラおかしな話よね。でもね、わたしはそれが楽しみでもあったのよ。なぜだかわかる? 同じ境遇でない人間の観察。そういってしまえばそこまでかしら? 

 何をぐだぐだ言っているの? そんなにいやならわたしから出て行ってよ! あなたにはほとほと迷惑しているの。お願いだから出て行って。

 だめよ、そんなこと神さまが許すはずもないもの。あなたはわたしであってわたしはわたしなの まあ、なんてトロピカルなのかしら。素敵な話だわ。

 なにがトロピカルよ! あなた本当はふざけているの? これは真剣な問題なのよ。出て行って! 

 まって。話には続きがあるの あした少年探偵団がこの部屋へ訪れるわ。それで、あなたはね、素っ裸でお迎えするのだわ。皆に見てもらいなさい。あなたの顔にはもったいないとてもきれいな体を。一糸まとうことなく見せびらかすのよ。嗚呼! すてき 

 

 後日、本当に少年探偵団が怖いもの見たさにだろうか? 部屋へ探検しに訪れた。やよいは言われたとおり素っ裸である。内心、彼女はマゾヒストなのかもしれなかった。それに対して意識したのはこれが初めてのことだった。

「みんな、ここは台所だ。もっと奥に入ろう」

 かすかな小声とともに少年探偵団が侵入してくる。やよいは訊いた。

「だれ?」

「ひ、ひぇ! で、でたぁ――

「なぁにをしているのぅ?」

「ひ、ひぇ――

 たじろぐ少年探偵団のリーダー厚君へオーミチャーは近づくと、途端に乳房を彼の口元へ押し付けた。

 さあ、吸いなさい! 

 あひぃ! 

 厚君は言われるがままに桃色の乳首を吸う。とてもきれいな胸元だった。

 はうん! やだ、この子上手い。

 茜が出てくる。そうね、彼は初めてではないかも。わたしだってこんなの初めてだもの。とっても気持ちよいわ。

 はあん! 逝く! 逝っちゃう! おっぱいだけで逝っちゃうの! 

 ハアハアハアとへ垂れこむ。それを見計らって彼は侵入した裏口から逃げて行った。

 どうして? どうしてこんなにも上手だったの? 

 不思議なこともあるものね。彼はきっとお母さんと近親相姦したことがあるのよ。そうよ、そうに決まってる。

 ちがうわ、厚君はお母さんを手に入れたのよ。玲先生という女性を。

 玲先生? あのホームの? 

 そうよ。

 

 やよいはシャワーを浴びた。二階の部屋には風呂場とトイレもあったものだから、いちいち一階へ降りる必要もなかった。

 ふう、今日はよかったわ。わたし……

 そうね、とってもよかったわ。また来ないかしら? 

 それは無理よ。だってあんなに怖がってたじゃない。

 それもそうね……

 ねえ? 

 なに? 

 あなた、当直の先生に興味ある? 

 夜勤の先生の事? 

 そうよ。

 やよいは考えてもみなかった。当直の先生。はたして先生は彼女を抱くことがあるのだろうか? 想像できない。思わずやよいは遠目にオレンジ色したカーテンを見やった。隙間から漏れた日が差しこんでいる。彼女は昼夜問わずカーテンを閉めっぱなしにしていたものだから、おおよそ室内温度は快適なほどだった。いや、この部屋にはエアコンもある。やはり最上階だ。熱がこもりやすくて、なければやりきれないほどだった。

 とりあえず昼食をとる。素っ裸のまま、台所へ。ちいさな冷蔵庫からスイカを取り出した。学校帰りにバス停付近の八百屋で安値にて売っていたものを頂戴していた代物だ。やよいが哀れに思えたのか、どうなのかははっきりとしないのだが、半玉で五百円でいいよと店主は笑顔を作っていた。

 べつに一階へ降りればやよいの分も昼食はあったけれど、顔面凶器のようにいつも児童らに引かれている彼女は、ともに食事をとるのが嫌でたまらなかった。やはり中学を卒業して卒園すればよかったかしら? ときどき思う。だけれど、そうもいかない。あと二年間、あと二年間の辛抱よ。彼女はことしで高校二年生に上がっていた。

 

 非常に化け物のような顔をしたオーミチャーは、学校で白いマスクをしていた。それでも完全隠せるものではない。まるで梅毒患者のような彼女は影で性病を疑われたほどだったが、誰がこの女を抱くやつがいる? ジョークも飛びすぎだろ! と、失笑される始末だったもだから悔しくてたまらなかった。そんなとき茜はいう。繰り返し繰り返し当直の先生を犯せばいいのに!と。

 

 犯す? 犯されるではなくて? わたしが犯すの――

 

 しかしながら、れっきとした性的暴行は先生の方からだった。つぎの深夜、当直は二階へあがってくる。合鍵で鍵を開けた。きぃ……。きしむ音がする。それに気が付いたやよいは、だれ? と訊く。先生は何も語らずにこちらへ歩み寄った。それから素っ裸の彼女へ黒いごみ袋をかぶせる。頭部だけにだ。顔を拝みながらセックスをしたくはなかったのだろう。それについてやよいはあとから気が付いた。声を出すなよ、ころすぞ。ほら、ここだ。ここへ横になれ。ベッドへ誘導し押し倒す。ハアハアハア……。完全には濡れていない擦れで切れた膣がとても痛かった。

「おまえはな、からだけはまともなんだ。いや、それ以上かもしれない。だからな、俺へ毎日奉仕するのさ。ゴミ袋をかぶってな! 酷い顔しやがって。ほうれ、もっと突いてやる! 声は出すなよ。おまえの声は豚以下だからな! ひゃっはっはっは!」

 狂ってる。この人完全に頭がおかしいわ。そう思いながらも、やよいではなく茜の方は完全官能的になっている様子だと言う事が脳裏で判断できたものだから、彼女の精神は非常に混乱を極めた。

 だめぇ! わたしは感じてないの。お願い、やめてぇ――! 

 叫んでやりたい。だが、怖かった。恐ろしかった。声を出せば殺すと発しているこの男はやよいの首を軽く両手で締め付けていたからだ。朝になった。

 オーミチャーはだくだくに胸へ掛けられたザーメンを洗い流すべく、二階の浴室で身体を磨いた。

 もうわたし、こんなのいや……。初めての経験がレイプだなんて、それもゴミ袋を被せられて……。わたしを完全否定しながら犯すなんて、大人はほんとうに酷すぎるわ。わたし、そんな社会へ将来旅立つの? いやよ、それなら死んだ方がましだわ。

 手首をマイナスカミソリで切りつける。ブワッと濃い血液が噴き出した。ええ、これが最期よ。最期なの……。さよなら。さよならわたし……

 そしてやよいは浴室で死んだ。

 


第二章

 

 

 オーミチャーは暗闇に居た。黒の世界に存在したのだ。それがどういうことなのか、彼女にはわからなかった。

 ここはどこ? わたしはだれ? 

 膝小僧から下は滑ったような水だと分かる。そいつの匂いと言えば、まるで褐色した濃血を思わせた。おそらくこの世界へ閉じ込められた屍たちの腐った血液のたまり場なのだろうとは思いもよらない。臭い、とにかく臭いのだ。

 当然ながらそれに目をやることはできなかった。光が一掬いもなくてまったく見えないからだ。両手でさぐってみる。ぬるぬるとした手触りに、ようやくこれが血なのだと言う事に気が付いた。

 何も映らない辺りを見渡してみる。その直前だった。

 全身を手探りしたオーミチャーは自身が素っ裸だということに唖然とした。そして思い出した。自身が誰なのか、どうしてここに居るのかさえも、分かった。

 そう、わたしはやよい。浴室でリストカットしたわたしなのよ。じゃあ、これってわたしの鮮血なのかしら? 

 屈んで滑りをもう一度触れる。まちがいなかった。

 でも、どうして臭いの? あれから時間がひどく経ったと言う事かしら? ねえ? 茜。そういうことなの? 

 返事が来ない。代わりとして遠く響いてきた茜の声が聞こえた。

 わたしとあなたは、とうとう完全入れ替わるのよ。

 え? どういうこと? 

 あなたはね、あなたは死んだの。ここで。浴室の中で。

 ここは浴室の中なの? え? どういうこと? どういうことなの? 

 混乱する。茜の姿はいまだ見えない。そのときだった。

 脳天に思い切りよく茜の姿が浮かび上がった。そう、さいしょに部屋の窓から観たあの時の姿のままで。やよいは記憶をさかのぼる。間違いなく彼女だった。

「やよい。いえ、オーミチャー。あなたはね死んだのよ。何度も言わせないで」

「わたしは死んだ? それはほんとうなの?」

「これはあなたが選んだ運命。自ら望んだこと。なにをいまさら生き返りたいのかしら? それって、わがままではないのかしら」

「でも……。わたし、本当は死ねないの。だってそうでしょう?」

「トンミーの事?」

「ええ、そうよ。それに、わたしが死んでしまえば、あなたにだって少なからず影響するじゃない。わたしの体があってこそなんですもの。それとも、ちがうの?」

「あなたは何もわかっていない。チャンチャラ可笑しくてよ。いい? これはあなたの精神が死んだと言う事。身体でも何でもない。あなたはもうここから抜け出れないわ。残念ね? でもそうでしょう? あなたは罪を犯したのですもの。大罪を犯してしまったのだわ」

「大罪?」

「そうよ。自ら命を絶とうとした行為こそ、神に背いた大罪なのよ」

「でも、わたしは結局のところ死なないのでしょう?」

「そう、わたしのものになって今後も生き抜くのよ。それとも嫌なのかしら?」

 わたしは生きたい。やっぱり生きなきゃならないの――

 ここで辺りに目をやる。当然、何も見えない。だがしかし、そのかわりとして何やら生暖かい風がこちらへ吹いているような気がした。

 これは……? はて、何処から吹いているのだろう? そこにはきっかけになる物か何かがあるのかしら? 

 考える。答えは見つからない。

 やよいは急激な睡魔に襲われた。

 にげて。にげるのよ。

 いったいなにから? 

 現実からよ。わたしは未来を自分でかえることができる。そのきっかけをつかむの。

 そうかしら? あなたはもう死んだの。一生懸命になることなんかないじゃない。

 でもきいて、わたしは生きることに決めた。確かに自身で命を絶とうとしたわ。でもね、ちがうの。わたしは生きるつもりだったのよ。あの後に続きがこうしてあるように、わたしの運命にも終わりはまだ早いような気がするわ。だからね、生きるのよ。

 そう、それならよくてよ。戻りましょう。現実の未来へ。あの後が見たい? 

 ええ。

 それなら目を閉じて感じればいいわ。あの浴槽の出来事を。

 それだけでいいの? 

 そうよ。答えはシンプル。常にね。

 やよいは眠った。そして螺旋状に渦を巻いた光の配列を目撃する。

 わあ、とてもきれい……。これは蛍かしら? 蛍の群れなの? 

 いいえ、これはあなたの、あなた自身の生命なのよ。

 生命? 

 そう、わかるかしら? 

 突然、フラッシュのような、光が焚かれた明るすぎる空間を観る。なんだったの? 今の? そう考える間もなくて、彼女は病室のベッドで目を覚ます。

 こ、ここは……。現実の世界。

 そう、第二章の始まりよ。あなたが選んだ、その先がここなの。さあ、楽しみましょう。醜い世界を。酷い目に遭いながら。うふふ

 

「先生、患者が目を覚ましました――!」

 

 駆けつけの担当医が瞳孔をペンライトで確認する。もう大丈夫ですよ。目を覚まして本当に良かった。ショック状態で意識不明だったのですよ。先生はそう言った。やよいは白い天井を観た。嗚呼、わたし、生き返ったんだ……。よかった……

 

「やよいちゃん――!」

 

 彼女は一瞬、凍りつく。その声は――! そう、その男は紛れもなく自身を犯した当直の先生だった。なんて図々しい人なの? あなたが、あなたがわたしを追い詰めたのじゃない! まるで第三者気分ね。あきれた人、飽きれた人。そして、恐ろしい人。

 

「それでは先生。わたしとやよいちゃんの二人きりにしてもらえますか?」

 

 当直の先生は言う。まって! この人とわたしの二人だけにしないで! 殺されちゃう。どうしよう、殺されちゃうわ。もう戻りたくはないの、あの空間へは行きたくない。だってそうでしょう? 完全と暗闇だったんですもの。あんなところに一生閉じ込められるなんて御免よ! わたし、わたし逃げなきゃ。ここから今すぐに逃走しなきゃ。でも、どうやって? 

 茜が出てくる。それならトイレへ行くっていえばいいじゃない。簡単な話でしょ? うふふ

 そ、そうね。トイレから逃げればいいのだわ。わたし立たなきゃ。今すぐに点滴を外さなきゃ。ゆらゆらと上半身をベッドから上げる。トイレへ行かせてください。発すると、点滴を付けたまま(移動式の点滴台車)で、ふらりふらりと病室から歩んだ。

 トイレへ着く。誰もいない。点滴を外すには絶好だった。外す。意識はまだ朦朧としていてしっかりしない。さて、どうしたものか。本当に逃げ切れるかしら? 

 ドアの外には看護師が待っている。これをどうにかふり払わなければならない。茜が言う。外の空気をひとりで吸いに行くと言えばよいのでは? うふふ そ、そうね。そういえば大丈夫かも。しかし、それは簡単なことではなかった。

「やよいさん? 点滴はどうしたのですか?」

「じゃ、邪魔なのではずしちゃいました。あの、散歩へ行きたいのですけど……

 駄目じゃないですか――! 看護師が点滴を付け直す。それからこう言った。

「点滴を付けたままなら散歩も構いません。但し、二階にある広いテラスのみで、です」

 外出は禁止なのですか? 

 はい、そうです。それと、テラスの入り口辺りでわたしが待っていますので、何かあれば戻ってきてください。

 は、はい……

 万事は休した、とおもった。こうなったら一刻も早く退院したのち、施設から逃げるしかない――。そう考えたとたん、やよいはこの場でやる気が失せてしまった。

「やっぱり病室へ戻って寝ます」

 そうですか、よかった――。看護師は面倒な患者だと思っているに違いない。そう思う。戻った先には当直の先生が椅子に腰かけて待っているに違いなかった。やよいはつぶやく。わたしといえばね、あの人こそがうっとおしいの。しぶしぶ病室へ戻り当直の先生が傍らで見守る中、ベッドへ横になる。後はわたしにお任せください。当直の先生は真摯にそう発した。それでは。とだけ告げると看護師は居なくなった。

「よお、オーミチャー」

 先ほどとは人が変わったようにして当直の先生は発する。それについてぎょっとしたやよいは、全身をこわばらせた。

 こわい、こわいの。ねえ、だれか。誰か助けて……

 助けなど来るはずがないだろう? お前はもう俺から逃げられないんだよ。ほうれ! ゴミ袋をかぶれや、この醜いブタ野郎。

 はぅっ! そんなこといけない! 嗚呼! でも感じちゃうのぅ――! 

 わたしはマゾヒストのオーミチャー。そして淫乱な茜でもあるのよ。それは避けて通れないわね。しかたがない。それならば楽しみましょう このセックス劇場を。ゴミ袋ジャンクハンバーグを。

 

 いやよ、そんなのぜったいに嫌――

 

 やよいは逃げた。思わずベッドから飛び出すようにして駆け出しで逃げたのだ。でも、一体、どこへ逃げればいいと言うの? わたしには施設しか帰るところがないの。おねがい茜。お願いだから少し知恵を頂戴。嗚呼、わたし……。わたし……

 

 ちかくの交番へ急いで! 茜の声が聞こえてきた。

 

 こ、交番? 

 そうよ、交番よ。あとは流れに任せればよいわ。わたしからは以上。

 ちょっとまって! そのあとは? そのあとはどうなっちゃうの? 

 だから言っているでしょう? 流れに任せればよいの。未来は神のみぞ知る、でしょ。

 そ、そうね。交番へ行けばよいのね? 交番、交番……。ああ! あそこにあったわね。あそこへいきましょう。いそがなきゃ、いそがなきゃ……

 追手は来ない。それからやよいの告発により、後日、当直の先生は逮捕された。

 

 やよいはもはや施設などにとどまりたくはなかったものだから、事務所の人間へ施設を出たいと直々に申し出た。返ってきた答えは好きにしなさい。だった。

 卒園の前、就職先を紹介された日の事、やよいは園長室へと呼び出された。なにやら園長先生から話があるらしい。そんなもの糞くらえよ。そうは思うものの、断る理由も探せなくて、彼女はしぶしぶ園長へと会いに行った。上等のドアをノックする。やよいです。入りなさい。失礼します。

「やあ、やよいちゃん。ここへ座りなさい」

 園長は応接セットを指さしてから自身のデスクを立った。上等のソファーは本革製で、ずっしりと貫禄のある焦げ茶色に艶があった。対面式で二人は腰かけると、やよいの方から、「あの、ごようけんは?」とだけ尋ねてみた。

「うむ、じつはいうとね。君の弟さんなのだが……

「おとうとが、なにか?」

「彼も将来は東京へ旅立つことになっているものだから、君の世話が必要になってくるだろう。そのときの話なのだがね」

「東京? なぜ決まっているのですか?」

「いや、東京とはいろいろと繋がっているのだよ。宗教関係でね」

「そうですか……。それで? どうしてわたしが面倒をみると?」

「それはないだろう。いいかね? 君たちは兄弟なんだ。大人になってからも協力し合わなきゃいけない。特に君の方からね。君はお姉ちゃんだろう? もう少ししっかりしたらどうかね」

「ごめんなさい。そう言うわけじゃないんです。ただ、どうしてわたしたちの未来がそう決まっているかのように話すのかが不思議で仕方なかったものだから……

「そうだね、彼の方は決定したわけでない。しかしだね――

「もういいです。わかりました。わたしたちは施設に捨てられて東京へほっぽり出される運命。そういうことでしょう? わかってます」

「聞こえのわるいことをいう子だね。君はが気に入らないのかね?」

「もう好感は持っていません。あのときから……

「あのとき?」

「いいんです。それでは失礼します――

 やよいは腹立たしかった。腹が立って腹が立って仕方がないのだ。いったい、この怒りをどこへ叩きつければいいの? 自問する。答えは見えてこなかった。彼女の就職先は謎だらけで信用もへったくれもない。只、東京へ行けばホテルのプールでブルーハワイ。夜は豪華なディナーに著名人が集うパーティーへの参加。夢のような出来事が待っている。そう乗せられて、いいかい? 素敵なドレスが着れるのだよ? こんな良い話はないだろう? と一方的に説得するだけ。馬鹿げている。うっとおしいとさえ思った。だが選択の余地はなかった。高校中退とはいえ中卒と同じ立場なのだから。沖縄に残っても酷い毎日しか用意されていない。じっさいに泊まる宿すらない。東京へ行けば寮生活だ。悔しい、とっても悔しいの。茜へ呟く。彼女は何も言ってこなかった。あの時から脳裏へ出現してこないのだ。それが不思議だとも思ったし、そう考える事こそおかしいわね。と、頭をよぎった。

 わたしはいいの。別にどうってことなんかない。今までが酷い人生だったんですもの。今更怖い物なんてないわ。でもね、弟は違うの。容姿にも恵まれて……。彼も東京へと見殺しにされると言う事がどうしても許せないのよ。この施設は一体何なの? 只の一時預かり所みたいなものね。なんてひどい話なんでしょう。改善すべきよ。これではいつまでたっても不幸人は不幸のままではないの。敷かれたレールがあまりにも酷すぎる。そんなのってあるかしら? 誰のせい? そうよ、親のせいよ。それでも世間は自身の問題だと言うのかしら? 自己解決しろとでもいうのかしら? 嗚呼、腹立たしい。腹立たしい。

 

 やよいは弟のトンミーへ会いに行った。荘は異なるが、大して離れているわけではない。事務所からだとさらに近かった。

 ねえ? 進学するの? 

 ああ、訓練校へ行こうと思ってるんだ。

 訓練校? 

 自動車の、競争率激しいらしいんだけど何とか頑張ってみるよ。

 そう……

 どうした? 

 いえ、ちょっとね……

 どうした! 言えよ。兄弟だろ。

 じゃあ言うわね。あまり言いにくいのだけれど、この施設はあまり良くないの。進学はできないかもしれないわ。でもね、きいて。あなたならきっと合格するはずよ。そのときはね、施設を出るの。一人暮らしすればいいわ。お姉ちゃんが仕送りしてあげるから、バイトとかも頑張って生活費稼いでちょうだい。だから、おねがい……、施設にとどまるのだけはよくないのよ。未来がね、未来がおかしな方向へ行っちゃうから。

 どうした? よくわからないけど。

 いい? きいて。敷かれたレールを脱しなきゃいつまでも不幸のままなのよ。だからどうしても施設から出ることを考えてほしいの。今は無理かもしれない。あなたは中学生ですものね。けれど進学したらきっと、きっとよ、あなたは一人暮らしすべきなのよ。わかった? 

 うん……、よくわからないけど、お姉ちゃんが助けてくれるなら一人暮らししてみるよ。わかった。

 そう、それでいいの。

 それで? お姉ちゃんはいつ東京へ行くんだ? 

 明後日よ。

 あさって? 早いな……

 いいえ、遅すぎるくらいよ。わたしはね、今日にでも旅立ちたい気分だから。見送りはいいわ。いつも通りに学校へ行って。お姉ちゃん見送りなくても大丈夫だから。それとね、施設で会うのは今日でさいごよ。だから頑張ってとしか言えないけれど、お姉ちゃんからの連絡、ちゃんと待っててね。

 着いたら連絡するんだろ? 

 落ち着いてからにするわ。それでいい? 

 ああ、分かった。

 そして二人は解散した。

 

 東京旅立ちの日が訪れた。やよいは施設からバスで那覇空港へと着く。これから飛行機に乗って三時間余りのフライトである。お土産は用意しない。金銭的にも余裕がないし就職先が気に入っているわけでもなかったから。

 仕事内容はまだ明かされていない。不安をよそにスチュワーデスがマイクとビデオで救命胴衣の説明をしていた。機内食はほどほど美味かった。そのときに見せたマスクの内側を誰かに見られて絶句されまいか心配だったけれど、誰一人として他人様に興味はない様子だったものだから一安心だった。羽田空港に着く。

 

 生まれて初めてモノレールというものに乗った。職場の案内役と一緒に、だ。寮までの道を教えてくれる。非常に頼りがいがあった。頼もしかった。しかしながら、なにやら一般人とは異なる風貌をしていたものだから、この人もしかしたらチンピラかもしれないわね。などと勘ぐっていた。口数の少ない人で、こちらです。こちらです。以外は会話をしてくれなかった。そう、それでいいのよ。わたしなんて他人様とあまり話したくないのだもの。丁度良かったわ。あれもこれも訊いてくるのではないかと、最初は不安だった。それも肩透かしに終わって安どしていたのだ。寮に着いた。

 

 フロントから奥はロビーになっていて、かなり広い建物だった。まるでちょっとしたホテルを改装して寮にしたような、そんな感じだった。ソファーには下着姿の女性らがげらげらと会話を楽しんでいた。足を上げたりだとか股を開いたりだとか、そんな恰好で談笑しているものだから、やよいは何やら嫌な予感がした。まさか――? そう、そのまさかだったのである。

 

「あら、まあ。新入りかしら?」

 

 下着姿で股を開いた女がひとりそう発すると、立ち上がってやよいへ歩み寄った。タバコの火をつけている。そいつを大きく吹かしてオーミチャーの酷い顔へとこぼした。彼女はたまらず咳き込んだ。瞳も痛くて涙が出る。なんなの? このひと、おかしい。やよいはそう思ったが、雰囲気にのまれて黙っていた。とにかく恐怖以外の何でもない。この女からは殺気じみた気配が感じられたからだ。

「んで? なまえは? 自己紹介しなさいよ。新入りちゃんよぅ」

「あまりいじめないでやって下せえ。商品にならなくなる」

 案内の係がようやくまともな言葉を発したかと思えばこれだ。やよいの恐怖はとうとう頂点へと達し、両手が小刻みに震えた。それに気づいた女はいう。

「あら、まあ。びびってるじゃないの。かわいいこねぇ」

「それじゃあ、あっしはここで。あとはよろしくおねがいしやす」

 男はそう告げると消えて行った。

 やよいは早いところこの場から逃れたかったのだが、部屋を案内されておらず、どうしていいのかわからなくなっていた。逃げようかしら? そう脳裏をよぎる。だめだ、逃げられない。万事は休した。

「あんたの部屋へ案内してやるよ。ついてきな」

「は、はい……

 くすくすと他の連中が笑っていた。恐らく彼女らも同じような洗礼を浴びたに違いない。そして黙々と仕事をこなしてきたのだろうか? まったく先が見えない。ここの仕事は、なに――? 

「ここがあんたの部屋だよ。綺麗に使いな」

「ありがとうございます」

「あたいが昨日掃除にしたんだ。部屋ん中きれいだろ?」

「はい。あの……、ここの仕事はなんですか?」

「ちっ! てめえ、物訊くときくらいマスクとったらどうなんだい?」

「すみません! い、いまとります……

 やよいは顔を隠している白いマスクを外した。女がぎょっとする。そうではなかった。こなれた感じがする。このひと、全然驚いていない……。どうして――? 

「ふん! 風呂場と食堂を案内してやるよ。付いてきな」

「はい……

 なにかがおかしい。それはいったい――? オーミチャーは頭が混乱する。こんな気持ちは初めてだ。安堵感というか、安心感というか、なんだか初対面でこの親分みたいな女の人に好感を覚えている。どうして? こんなに怖い人なのに。不思議だと思った。女は通路を歩きながら話した。

「ここの仕事はな、ソープランド嬢ていうんだ。裸で男相手するんだよ。泡嬢しってるか? 石鹸とシャンプー使って男の体の上を滑るのさ。支配しているのはうちらのほう。客をひいひい言わしてやるのさ。あははは!」

「ソープランド嬢? わたし、なんにも聞いてません! そんなことするだなんて……。本当にやるんですか? その、裸で接客を……

「やらなきゃだめだろう? あんた売られたんだから。何処から来たんだい?」

 売られた? どういうこと? 施設はお金でわたしを売ったと言う事? そうなの? 訳が分からない。ねえ、茜。おしえて。そういうことなの? 

 

 そうよ――

 

 茜の声が懐かしいと思った。暫く出てきていないものだから、声が脳裏に響くとなんだか安心感すら覚えてしまう。わたしは一人ではないんだ。こうして茜が居るじゃない。でもちがう。彼女は敵よ。いいえ、味方でもあるわ。

 きいてちょうだい、オーミチャー。あなたはね、食べられてしまうのだわ。そう、ぐちゃぐちゃの麻婆豆腐にされて。あばた顔のあなたですものね。お似合いよ。それでね、もっとよく聞いてちょうだい。あなたはもうこの世界から逃れられない。裏の世界からね。これが本当の世の中なのよ。分かっているかしら? あなたは逃げることで足を踏み入れたの。観てはいけない世界を。もう逃れることは許されない。もし逃れたとして、そのときは死を覚悟すべきだわ。なんて素敵なんでしょう 思いっきりよく苦しみなさい

 逃げたですって? それは心外だわ。逃げろと言ったのはあなたのほうじゃない! 何をいまさら。それにあの時逃れなかったとしても同じ麻婆豆腐じゃない! ふざけないで! わたしだって人間ですもの。犯されるのは御免よ。それよりもここは何だか居場所みたいなものを直感的に感じてるし、もしかしたら道が開けるかもしれない。だからね、だからわたしは耐えてみせる。なんだって襲い掛かるがいいわ。今に見てなさい!

 そうよ、その調子 負けを認めた時があなたの最期ですものね。せいぜい強がりを言っていると良いわ。もっと発しなさい。ほうらっ!

 なんですって! あなたこそ感じちゃうくせに! 麻婆豆腐にされて性的興奮を得たいのはあなたではないかしら? そうなの? はっきり言いなさいよ! わたしの体を借りて性的欲求を満たしたいっていえばいいのよ。ほうら! いってみて。

 言うわけないじゃないの。あなたは立場が分かっていないみたいね。あなたは下僕でわたしは神なのよ。聞きなさい、オーミチャー。あなたはただの麻婆豆腐でしかないの。普通は性的に感じるだけでもありがたいと思うのではないかしら?

 

「何をごちゃごちゃ独り言つぶやいてんだい? 出身はどこだってきいてんだろ!」

 

 やよいは我に返った。

 す、すみません! あ、あの、沖縄から来ました……

 ふん! 沖縄かい? 遠いところ、ご苦労なっこったな。で? なまえは? あだ名はなんて呼ばれてた? 

 は、はい、オーミチャーです……

 オーミチャー? 

 はい。

 あっはっはっ! オーミチャーか。けったいな名だなぁ。あたいは明美。みんなにはリーダーって呼ばれてる。

 は、はい! 

 返事はもっとはっきり言いな! 

 はいっ! リーダー! 

 よし、それでいいんだよ。こい、仲間紹介してやる。

 

 自己紹介された名前など憶えてはいない。はっきりとしたのは、売られたことと、これから裸で接客するということだけ。それ以外は記憶が吹っ飛んでしまっていた。仕方のないことだ。リーダーは同情した。しなかった。いいか? これからはな、孤独との戦い。本当の闇と戦うんだ。分からなくてもいずれ気づく。結局、金なのさ。この世はな、金でどうだってできるんだよ。だから、ひたすら稼ぐことだけ考えな。悲しさの涙なんか捨てちまえってもんよ。大金拵えてとっとと辞めちまえばいいだけのはなしなのさ! いずれ見返しな。金がありゃよ、見下すことだって後からできるんだ。きっと、いい眺めだぜ。だけどな、オーミチャー。死ぬことだけは考えるな。おめえにだって希望はあるんだからよ。

 

 それから一週間、やよいは徹底指導を受けた。二週間後からは本番だ。できるか? と言われてもやるしかなかった。進む道しか残されていなかった。用意されていなかった。

 がむしゃらに働いた。客のペニスを裸体を膀胱を舌でなめまわした。咥えまくった。

 仕事を終えるころには膣がひりひりとして痛かった。

 やがて皮が厚くなるとすっかり感じなくなっていた。挿入されても気持ちよくないのだ。

 こわいのは性病だ。とにかくコンドームを徹底した。

 ピルも飲む。妊娠などできない。したくはない。

 客はやよいの顔面など気にしていない様子なのがよかった。皆、身体さえよければ構わないのである。当初はマスクをかぶるか? などと男の指導員へいわれたのだが、それでは客も喜ばないだろうと別の男に却下された。ひどいあばた顔のアクメ顔も受けがよかったのだ。非常に乱れている世界である。裏の世界というものが、やよいにとってこんなにも居心地がいいとはまさか思いもよらなかったことだから、彼女はどんどん淫らになってゆく自身に対して真の快楽を感じていたし、悦びだった。

 声もひどいガラガラ声だ。それでも客はもっと叫び狂えとアナルセックスをした。変形プレイをした。変態性交を楽しんだ。狂えば狂うほどに壊れてゆく理性というやつは、まるでガラス細工のようにもろかった。

 

 仲間内とも仲良くやれた。何度かメンズバーへ連れて行ってもらい、大散財する彼女らを傍で見て怖いとも思った。だけども楽しい。なんなのだろうか? この裏の世界は表にはない輝きがあるのである。ドブネズミしかいないこの世界。ひどく悪臭を放つこの世界。それが逆に気持ちよかった。清々した。

 

 オーミチャー、あなたってたのしいの? 満足なのかしら? 茜が言う。

 ふん! わたしはね、大人になっただけよ。あなたこそもうじき大人になったらどうかしら? 

 言わせておけば吠えるじゃない? いい? オーミチャー。あなたがいるここは天国でもなんでもないわ。地獄の三丁目にすぎないのよ。あなたはね、これから徐々に苦しんでいくのだわ。男がほしいですって? そんなわがままが通るわけないじゃないの。いい? オーミチャー。あなたの恋人はソープランドへ訪れる客のみ。あなた目当てで来る男だけなの。それがどういうことが知ってるかしら? こたえはね、皆、低辺ということ。最悪な人間しかいないのよ。それで悦びを感じるだなんて、あなたも相当、最悪なのよ。いいかしら? あなたはわたしがいて初めてお姫様なの。美女である茜がね。おわかりかしら? 

 ふん! 今に見てなさい。オーミチャーオーミチャー言うけれど、あなただって何かあだ名があったはずよ。聞いてなかったわね? 教えなさいよ! ほうらっ! 

 生意気言う子ね。いいかしら? 茜というわたしは神なのよ。あなたは馬糞ウニ。ウニのウン子なのよ。あっはっはっ! うん子ちゃん あなたって本当に言葉がくさいわ。完全に臭ってるじゃない。いいかしら? おだまりなさいな。あなたは黙々と作業をこなしていれば結構なのよ。ソープランド嬢をね。せいぜい楽しみなさい。

 ちょっとまって! 消えないで。茜、わたしは……、わたしには未来がないの? あるでしょ? この先があるって言いなさいよ! 

 あら? そんなに知りたいのかしら? 

 ええ、おしえて。

 それじゃあ少しだけ話すわね。しっかりおききなさい。あなたはね、死ぬの。死んでしまうのよ。

 死ぬ? 死ぬって、いつかは人間死んでしまうじゃないのかしら? そんなの答えになっていないじゃないの! いい加減ふざけるのはやめて。わたしは真剣に聞いているのだから。それで、死ぬって、いつ? 

 茜は消えていた。

 もう! どうして肝心な時にいなくなっちゃうの? あなたって本当にひどい人。最低な女だわ。

 

 そういえば、ここ(東京)へ来てから、まだ一度もトンミーに電話をかけていない。落ち着いたら、落ち着いたら、と考えているうちに、一年、二年、とすぎてゆく。時間は実にあっという間だった。

 今年の四月は春の訪れが遅くて非常に凍えたものだが、それでも桜の花は満開となる。急激に暖かくなってゆくこの気候は、とにかく風邪を誘発した。それにスギ花粉。たまらずマスクをつけたのだが、目がかゆくて仕方がない。病院でもらった薬はたいして効能を発揮しなかった。

 やよいは考えていた。今日こそは電話を掛けよう、と。

 そういえば訓練校へ進学すると話していたっけ。どうだろう? 受験は合格したのかなぁ? 

 三千円のテレフォンカードをタバコ屋で購入すると、彼女は公衆電話ボックスへ急いだ。

 施設の電話が鳴る。それが受話器越しで聞こえた。トゥルルル……

 事務らしき職員が電話を取った。トンミーを呼び出してもらうはずだった。だが、それができない。話によると、中学卒業後に東京へと旅立ったということだった。

 なんですって? 東京へ? 

 やよいは顔面蒼白した表情で愕然とした。彼もまた売られたのだ。

 嗚呼、なんてことなの? あれほどレールから脱しなきゃだめよって話したのに……

 

 もうどうして――

 

 どうしてなの? ねえ、神様。そんなことってないのではないかしら? あんまりだわ。わたしたち兄弟はね、小さいころから苦労して生きてきたの。両親もいない。施設でずっと世話になってきたの。その代償なのかしら? 人身売買だなんてあんまりよ。どうしてそんなにいじめるの? ねえ、どうして? 茜が出てくる。

 あらあら、こんなに泣いちゃって。これはもう笑うしかないのではないかしら? みっともなく泣いてなさいな。それで何が変わるわけでもないのに。オーミチャー、あなたって本当に醜い女ね。まるで雌豚そのものだわ。あなたなんかチャーシューにでもされてラーメン行きなのよ。弱肉強食って言葉があるじゃない? そう、その言葉通りに、オーミチャー、あなたはね、食われて消化されてウンコになる始末なのよ。そして畑の肥やしにでもよくて? 立派なバナナが育つでしょうね。あははは! バナナよ、バナナ。あなたの大好物ではなくて? やよいが反撃する。

 なんですって? 言わせておけば。こんなにも叩きつける言葉の暴力ってあるかしら? 茜、あなたって本当に屑ね! 人間以下だわ。そんなあなたこそ糞まみれになって田んぼの肥やしになるがいいわよ。あははは! あなたはなんにもわかってない。田んぼの肥やしってことはカラスのエサくらいにしかならなくてよ。ひどいもんだわ。みじめなものね? 茜。

 なんですって?

 なによ?

 ほうら、いつの間にか涙が止まってるじゃない。そうよ、怒りで涙をおとめなさいな。それがあなたのすべきことなのよ。泣いたって始まらない。怒って怒って怒涛のごとく世界を逆転させてやればよくてよ! 

 茜? そうだったの? これはわたしを慰めるために発した腐れ文句だったのね? あなたって意外と人情があるじゃない。

 そんなことなくてよ。わたしはね、ただ黙っていられなかっただけ。けっしてあなたの味方ではないわ。

 そうよね、そうでなければ呪い移ったりなんかしないもの。でもね、わたしは感じるの。あなたは味方でもあるんじゃないかって。

 うぬぼれるのもいい加減にしなさいな。

 そんなことないじゃない。いいえ、あなたほんとうはいい人なのよ。

 やよいは寮へ戻ると、寝室で横になった。

 今日はとりあえず弟の住所を知ることができたわ。電話はつながらないって嘘よ。本当は寮か何かにピンク電話くらいあってもいいはずよ。それとも組関係かしら? まさかやくざ組織と――? 

 考えれば考えるほどにいやな予感がする。

 わたしだって言ってしまえば組関係だものね。トンミーだっておかしな話ではないわ。まったく、施設ってどんな闇組織とつながりがあるっていうのかしら? キリスト教の施設がやくざ組織とつるんでるだなんて、本当に世の中めちゃくちゃだわ。いいわ、こうしましょう。わたしが日曜日の夜、彼の住所へ行く。日曜日の仕事は忙しいから休めないわね。この日だけ昼勤でお願いしましょう。新宿の西麻布ね。いかにも怪しいわ。まさか右翼組織でなければ不幸中の幸いだけれど、どうかしら? 本当に心配だわ。杯を交わしてなければすぐに連れ出さなきゃ。

 

 次の日曜、渋谷から新宿駅へと搭乗電車が流れる。東京マップを持参したやよいに迷いはなかった。道案内など必要ない。番地まで載った地図だからだ。主に業務用として使われている代物だった。

 西麻布……。うわさには聞いている。この土地はコリアンズマフィアのテリトリーだということを。なので韓国教会が多い。裏で麻薬組織とつながっているといわれていた。

 トンミーはもしかしたらコリアンズマフィアに在籍しているのかも。でも、どうしてそんな厄介な組織へ売られたのかしら? これじゃわたしが手を出せないじゃない。とても連れ出すことなんかできないわ。それなら二人ともあの世行きだものね。困ったわ……

 

 目的地の目印となる小さな公園へ着いた。少しだけ用を足したかったので公衆トイレへと急ぐ。二人組のイラン人に出くわした。何やら怪しい趣だ。

 こんなところで何をしているのかしら? 麻薬の密売? 商品手渡し所なの? 

 トイレなんか来るんじゃなかった。少しだけ後悔する。ベンチには浮浪者たちがたむろしていたものだから、幼児を連れた母親などの姿は一切ない。

 治安が悪そうね。物騒だわ。

 早めに用を足してトイレを後にする。イラン人たちは絡んでこない。

 よかったわ……。さあ、弟へ会いに行きましょう。

 

『稲垣会:同友館。西麻布寮』

 

 場所は間違いなかった。でもまって、稲垣会ですって? やっぱりコリアンズマフィアがらみだったのね。どうしよう、連れ出せるかしら? 

 寮の入り口である観音開きのガラス扉を引いて中に入る。途端、桃のような甘い香りが鼻へ届いた。覚せい剤だわ――! 

 やよいは知っている。自分のところ(彼女の寮)数名がポン中ものだから、この香りはよく理解していた。守衛も何もいないのに、よくまあこんなに堂々と吸えたものね。そんなことは考えなかった。トンミーの身が危険にさらされている。まさか、もしかして、弟もジャンキーに染まってしまっているのかしら? 不安は募るばかりだった。

 部屋番号は知らない。さて、これからどうすればよいのか。オーミチャーは途方に暮れて通路に立ち尽くした。その時だった。

「よお、彼女。誰の女だい? 俺と一発キメねえか――?」

 振り返ると、上目使いの男が立っていた。

 いやっ! 乱暴にしないで! 思った。怖い、怖いわ……。でも、訊かなきゃ。トンミーはどこの部屋ですかって。聞くのよ、このおかしな人から。訊くの、勇気を出して。わたし……

「あ、あの、ここに弟がいると聞いてきたのですが……?」

「弟? 名前なんだい? 新入りなら一人しかいねえけど、トンミーのことか?」

 男はオーミチャーの若さから、弟が新入りだと勘ぐったみたいだった。

「はい、その子です!」

「ちっ! まってろ。今呼んでくらあ。しゃぶしゃぶキメてなきゃいいけどな……

「しゃぶしゃぶ?」

「知らねえのかよ? あんた素人さん? 恰好から見て裏っぽいけどな」

 お水の格好をしていたやよいはそう思われて仕方がない。実際、裏の人間だ。だからどうした? 彼女はそれでも人間である。立派な東京人だった。

 男は奥のほうへと消えた。少ししてからだ。スキンヘッドらしき人物が遠くから現れた。オーミチャーの目に狂いはない。トンミーだ。

「琢己――!」

「その声は……、おねえちゃん?」

「そうよ、お姉ちゃん。あなたどうしたの? どうしてここにいるの?」

「ちょっとまてよ。お姉ちゃんこそ、どうしてここに?」

「施設に連絡して聞いたの。もう! 電話で相談もなしに東京へ来ただなんて……

「おねえちゃん、水商売してんのかよ?」

「そんなことはどうでもいいの。いますぐ荷物まとめてきなさい。出るわよ」

「ちょいまち! それはまずい。命が足らない」

「杯交わしたの? だめじゃない!」

「仕方なかったんだよ。行くとこもなかったし」

「訓練校行くって言ってたじゃない!」

「面倒になったんだ。おねえちゃんみたいに早く自由になりたかった」

 やよいはその気持ちがよくわかる。もはや琢己へ何一つ責めだてることなどできやしなかった。一呼吸置く。それからそう……とだけつぶやいた。

「おねえちゃん、連絡先は?」

「わたしの? それなら名刺を渡しておくわ」

 琢己が見る。

 店、横浜なんだな……。寮とかの電話は? 

 まって、今書いてあげる。

 ボールペンをバッグから取り出してから名刺へ番号を付け足した。

 これがわたしの寮のピンク電話よ。掛けるときは、わたしを呼び出して。オーミチャーで通じるわ。

 ああ、わかった。

「とりあえず、何かご飯食べに行きましょう。外に出れる?」

「勘弁してくれ。今日は無理なんだ」

「どうして?」

「そういうことは前もって連絡入れとかないとならねえんだ」

 そのならねえんだ。ということばに、嗚呼、この世界へ入ってしまったのね。と、悲しく感じた。

 分かったわ……。今日はもう帰るね。わたしについてほかに何か聞きたいこととかある? 仕事の話はなしよ。ろくでもないことしてるから。

 そんなのわかってるよ。店の名前知ってるんだ。新宿と池袋にもその店舗あるんだよ。

 そう……

 寮を後にする。新宿駅へ。いろいろ買い物もしてみた。新宿のお土産といえばなんだろう? 少し考える。寮の女たちへの土産だ。なにがいい? 結果、買わないことにした。いろいろある。どれが好きでどれが嫌いか? それは酒が入っているかないかの違いだけ。くだらない。おもう。シャブ漬けの彼女へは何がいいかしら? シンナー? 大麻タバコ? ヘロイン? それともコカインかしら? くだらなすぎた。

 銀杏の木を過ぎゆき寮へと着く。今夜はもうとっくに寝ていたかったのに。後悔だけが押し寄せた。その後悔とはなんのこと? トンミーのこと? お土産のこと? 右翼組織のこと? わからない。もうめちゃくちゃにはちきれそうだった。精神が持ちそうにない。

 思わず冷蔵庫から缶ビールを抜き出してから飲んだ。喉越しが最高だ。瓶ならもっとよかったのに。とりあえず後悔とは、このことにしておこう。そうだ、それがいいわね。

 シャワー室へ行く。汗を流した。お湯はぬるめの四十度。バスはあるが使われていない。とても汚れていたものだから使う気になれなかった。

 夕ご飯はどうしようかしら? 何も食べてなかったわね。

 寝ましょう。明日がまた来るから。

 

 お客様いらっしゃいませ。おしゃぶりをしてよろしいですか――? 

 

 嗚呼、狂ってる。狂った毎日だ。いつまで自分はこんなところにいるのかしら? ふと頭をよぎる。どうだっていいじゃない。そういえば、茜が出てこなかった。出てきてもおかしくはなかったのに。

 どういうことなの? 

 しらないわよ。どうでもいいことは、こんなことにも言えることね。

 あら? 駄洒落だったかしら? ウフフ 

 わたしも面白い女ね。

 夢を見る。どんな夢だろうか? 自分でもわからなかった。

 この夢はなんですか? 訳が分からない夢。めちゃくちゃな夢。断片的過ぎた夢。

 寝る。寝る。

 

 朝になった。きがつけば素っ裸になって眠っていた。夜中に脱いだのだろう。記憶にない。夢遊病かしら? 確かに酒は飲んだけれど、これくらいで酔うほど弱いわけじゃない。

 からっきしバージンではないのよ。

 わたしはプロ。プロの脱精屋なんだから。

 酒なんかあれじゃないのかしら? ただのジュースよ。

 そう、ジュースみたいなもの。

 もう慣れたしもっと強いお酒だって飲めるようになった。

 メンズクラブで? 

 そうよ。メンズクラブはいいわ。わたしみたいなあばた顔でも受け入れてくれるのだものね。それと客。そうソープランドの客のことよ。彼らも顔は関係なく抱きついてくる。わたしは体つきに関しては完璧だものね。当然かもしれないわ。でもね、わからないの。

 なにが? 

 わたしは何なんだろうということ。それだけが謎なの。

 そう、それならドラッグでもやってなさいな。

 そんな意地悪言わないで。

 やよいは気が付いた。いつのまにか茜と会話を交わしているということに。

 あかね? 茜なの? 

 あら? 今頃お気づきかしら? なんて朝なのかしらねぇ? あなたの愚痴を聞く側になるだなんて、呪った者の立場としては台無しもいいとこだわ。

 何をいまさら……

 今日から夜勤に戻る。昨日だけ特別だった。もうしばらくは日勤をさせてもらえないだろう。亭主持ちの女どもに譲る気持ちが必要ですものね。

 ところで、今日の朝食は? 

 あら、やだ。何にも用意していなかった。

 寮の朝食を取ればいいのではないかしら? あら、そうだった。あなたは節約と言ってそれを断っているのだっけ? 二百八十円も払えないだなんてなんてけち臭いのかしら? それに自炊したほうがお金を使うというものよ。

 外着着替えてからコンビニエンスストアーへ。野菜ジュースだけを購入して店を出た。商売柄、ダイエットには常々気を使わなければならない。

 だってわたしの体は商売道具ですものね。とうぜんだわ。

 

 朝の十時は表の街道も車の影がまばらだ。渋滞のピークはとうに過ぎている。歩道は犬の散歩をするもの、ウォーキングをするものとで殺風景というわけではない。前を向いて歩かなければ肩にぶつかる恐れがあった。

 十分ほどで寮につく。本当は自転車を使いたいのだが、以前、警官に止められて盗難届等の確認がてら職務質問されたことがあったものだから嫌気がさしていた。じっさいに寮の駐輪場には盗難車がいくつも止められていた。盗難された腹いせに盗難仕返すのだ。それが東京のやり方だった。流儀というやつだ。

 

 ホールで談笑する仲間たちがちやほや見えた。寮の人間はほとんど夜勤専属である。それらを通り越して部屋入る。そのときだった。茜が脳裏へ出てきた。お化けみたいな女。思った。でも、実際幽霊ですものね。おかしいわ、幽霊なのに形が見えないだなんて。それもそうよ、呪い移っているんですもの。馬鹿な幽霊さん。このわたしに呪い移るなんて今頃後悔しても遅いんだから。

 オーミチャー、そろそろ抜け出してみない? 

 え? なにをいっているの? わたしは売られたのよ。

 もういいでしょう? じゅうぶん働いたわ。そうでしょ? 

 ええ、確かにいっぱい抱かれてきたし……。でも、ここには居場所を感じているの。なんだか落ち着くのよ。

 東京へ来てよかったと思ってるの? 

 結論としてはそうよ。

 そう、それなら勝手にするがいいわ。あなたはね、これから恐ろしいことになるのよ。覚悟しなさい。

 覚悟も何も最初来た時から覚悟は決めているし、あなたの予言も当らなくなってきているのではないのかしら? 

 なんですって? わたしを馬鹿にするのは百年早くってよ!

「何さっきからぼそぼそ独り言ってるんだい!」

 リーダーの声が部屋中に響く。やよいは我に返った。

「リ、リーダー! いつの間にお入りになったのですか?」

「いつのまにおはいりになったのですか? じゃねえよ! お嬢様かよ! あたいはね、あんたのそういうところが大嫌いなんだよ!」

「ご、ごめんなさい! すみませんでした!」

「ふん!」

「あの……、御用は?」

「まぁた! ちっ! まあいいけどよ。いい加減なじめよ。あんたは人身売買された身なんだってことを、低辺族なんだってことを!」

「すみません!」

「それで? 出ていくのか?」

「聞いてたんですか!」

「いやでも聞こえたんだよ!」

「ごめんささい!」

「んで? あんたの借金は後いくらだい?」

「借金?」

「うちが買った代金だよ! あんた、番頭に何も相談してないのか? あきれたやつだなぁ。そんなことも知らないやつが出ていくなんて、命がいくつあっても足らねえんじゃねえか? おう!」

「そ、そんなこといわれても……

 きな! 

 あ、あの、どこに? 

 番頭へ電話かけるんだよ! あたいが直で聞いてみるから、となりで立ってな! 

 は、はい……

 二人は部屋を出てピンク電話へ向かった。

 もしもし? あたいだけど、訊きたいことがあるんだ。うんうん、うん。それで、オーミチャーの残金いくらだい? え? 知らないって? お上方に聞いてみるって今すぐ確認できるのかよ? うんうん、うん。

 やよいへ顔を合わせる。待ってな、今調べてもらってる。

 はあ、ありがとう……ございます。

 なんだよ? うれしくないのかよ? 

 い、いえ。

 まってろ。ああ、あたいだけど……

「あんたの残金分かったよ」

「いくらですか?」

「のこり一本だってさ」

「一千万――?」

「ばかいうな! 一億だよ! 一億!」

 一億――? 気絶しそうだった。一体、売られた金額はいくらだろう? 訳が分からなくなる。同時に悔しさがこみ上げてきた。わたしは物でも奴隷でもないの! 今すぐにここから出して! 初めてこみ上げる感情だ。

「あと十年は抜けられねえな。一生働くか? はっはっはっ!」

 やよいは思わずビンタを張った。

 いてえな! 何すんだよ! 殴り返される。一方的だった。顔中あざだらけであちこち腫れ上がった。もともとあばた顔だ。業務に支障はない。こういう顔もマゾヒステックで客に受ける。特に常連へはたまらないものだった。次の日のことだ。

「リーダー、昨日はすみませんでした」

「みんな一度はあたいにケンカ売ってくんだよ。気にしてられんぞ」

「はあ……?」

「あんたも一生懸命だってことさ」

「はい……

 性格が悪そうで心の広い人だなと思った。そうでなければこんなところでリーダーも勤まらないだろう。タフで柔軟性がなければ。どうしてここにいるのですか? 聞きたいほどだ。もちろん訊けない。人には他人が触れていけない記録がある。それをつつくわけにはいかなかった。少なくとも、それがここのおきてみたいなものだった。ある日のことだ。弟から電話がかかってきた。

「おねえちゃん? おれ、琢己」

「もしもし? なに?」

 弟は電話では話せないから会ってほしいとのことだった。もちろん承知した。

 やよいはうれしかった。やっとわたしへ頼ってくるようになったわね。と。しかし、話を聞いてみてそれは違ったと後悔するのだった。

 シャブを高値で売りつけたい。客がほしいんだ。協力してくれないか? 

 頭が動転しそうな話だ。

 要はこれだ。やよいの客にシャブを売りつけてほしいとのことだった。そんなことは簡単ではある。できることはできた。しかしそうでもない。話の続きによると琢己はこれから個人で売人をするということで張り切っている。足を洗うわけではなかった。ただ単に万が一の際、尻尾を切り落としやすいように放し飼いされた。というだけの話だ。琢己は勘違いしている。大きな過ちだった。

 やよいは迷った。そして絶対に救い出さなければならないと強く思った。

 琢己、あなたはしていないでしょうね? 

 おれ? してねえよ。

 ほんとう? 

 ほんとうだって! 売人はやっちゃいけねえしきたりなんだよ。組に入ったときからそうだぜ。寮でシャブやってんのは、皆、表でりゃかたぎの仕事している連中よ。型枠解体から土木まで色々さ。

 そう……

 それよりねえちゃん。ひきうけてくれるよな? 

 考えさせて。

 考えさせてって、いつまでに答え出る? 頼むよ、急ぎなんだ。

 ええ、わかってる。明日また電話ちょうだい。それまでには決めておくわ。

 わかった。

 オーミチャーは考えた。どうすれば弟を救い出せるのか? 答えはひとつしかない。彼をお金持ちにしてやること。そうすれば代わりの人間を雇える。

 尻尾きりがさらに下の尻尾を切る支度をするの。名案だわ。

 茜が出てくる。

 あなたにしては考えたものね。無い知恵働かせたものだわ。だって、トンミーは二度とかたぎには戻れないんだものね。幸せにする方法は限られてる。せめて刑務所行きを免れるすべを持つべきよね。

 ええ。

 協力してあげるんだ? 

 ええ。

 あなた、なんだってするのね。

 ええ、弟のためだもの。

 仕方のない女。あなたまで捕まるのよ。それでもいいっていうの? 

 ええ、仕方ないじゃない。

 それもそうね。ねえ、オーミチャー。

 なに? 

 あなた、お人よしさんね。

 そうでもないわ。

 逃げ出せばよいのに。

 逃げ出す? 何処にも行くところなんてないのに? 

 あるじゃない。大都会が。東京が。

 東京? この東京なんて狭いわ。海外へ逃げなければどうにもならないことなのよ。わたしはかたぎではないの。裏社会は広そうで狭すぎる。すぐに見つかっちゃうわ。

 それもそうね。

 

 楊枝スプーン一杯は一回分の量。市場相場は三千円。これをやよいは二万円で客にさばいた。

 ねえ、おねがい。貴方のおちんちんから潮を吹かしてみたいの。

 そう誘惑して売った。彼女は薬を使わなくとも潮を吹いたので使用しない。そして言う。

 わたしが潮を吹いたのだからあなたも。いいでしょう? 

 そう発せられると客はたまらない。即決で二万円を支払ってくれた。

 やよいが客を相手にするのは一日せいぜい八人だ。薬で計十六万の売り上げがある。二十日出勤で三百二十万円。それをぜんぶ弟へ渡した。

 一年ほどして彼へ言う。そろそろ従業員でも雇いなさいよ、と。要するに運び屋だ。弟は言うことを聞いてくれた。人を雇う。これで切る用意のある尻尾が出来た。万が一にも黒幕である弟の逮捕は免れるだろう。一安心だった。そうでもなかった。

 むしろ毎日毎日が不安でならない。弟が直に渡してくれた方が安心感というものはあった。たまらず弟を呼び付ける。もう人を雇わないで、と。ごめんね。お姉ちゃんが言ったことなのに。でもね、それはあなたのためを思って発言したことなのよ。けど今度はわたしが耐えられなくなっちゃった。貴方が直に渡してくれた方が安心できるの。我慢できないお姉ちゃんを許してね。

 おねえちゃん、なに言ってんだい。捕まるわけないだろ? この世界は口が堅いんだぜ。運び屋が捕まっちまおうが俺には関係ないわけよ。けどまあ、お姉ちゃんがそう言うなら、お姉ちゃんにだけは俺が直に運んでやるよ。安心しな。下手はこかねえから。お姉ちゃんもたのむぜ。口かたくしてくれよ。それと、客を選んでくれてもいいぜ。あまり無理しないでくれよな。

 ええ、わかってる。

 琢己もまるっきり変わってしまったな……。むかしはあんなにいい子だったのにね。もったいないわ。なんて東京は酷い土地なんでしょう。弟がどんどん腐っていくのを見ているのは辛い。けれども仕方のないことね。わたしだってほら、まるっきり別人じゃない。

 

 覚せい剤は徐々に倍々ゲームとなっていった。シャブをパイプから吸う客などもはやいない。皆、味を占めて注射針で体内へダイレクトに白い粉を注ぎ込んだ。しゃぶしゃぶの始まりだ。

 こうなったら止められない。次に来る客、次に来る客共々一回分では済まなかった。二回分を一回で済ませる人もいれば、三回分を注射するものも出てきた。そこが倍々ゲームなのである。

 いつの間にか売り上げもとんとん拍子だ。気が付けばオーミチャーの売り上げだけで月収一千万はくだらないものとなっていた。琢己は他にも同じ手で売りさばいている。彼の月商は相当なものになっていた。

 

 いつしかトンミーは群馬に家を建ててそこを拠点とした。おねえちゃん、群馬県はいいぞ。一緒に来ないか? 誘われたことがある。いいえ、けっこうよ。自身の借金のことを隠して断るやよいは、段々、自身が馬鹿らしくなってきていたけれども耐えた。

 

 お姉ちゃん、取っておきなよ。

 トンミーが五千万円をやよいの口座へ振り込んだことがある。

 ばかね、そんな堂々と大金を回してたら足がつくわよ。きをつけて。ほんとうなら手取りでいただきたかったけれど、仕方ないわ。返すって言っても受け取らないのでしょう? 

 ああ、そうさ。それじゃ俺の気が済まねえってもんよ。ところでお姉ちゃん。身代金はあと幾らだい? 一千万円? 一億? どっちだよ? もういいだろうよ。話してくれよ。全部俺が払って自由にしてやるよ。お姉ちゃん、もうソープで働かなくて済むんだぜ。いいだろう? 

 分かったような口をきくわね。わたしは常連もついているし、借金返しても手放さないでしょうね。難しいわよ。あなたが考える以上にこの世界は厄介なの。わたしのことはいいから、早く足を洗いなさい。

 そんなこと言ったってよ、こっちはこれが源泉なんだ。簡単にはやめられねえよ。それに俺だってかたぎじゃねえんだ。お姉ちゃんと一緒で客がいる。大本は手放さねえさ。そうだろ? 

 そうね……

 わたしたち兄弟はもう抜けられないのね。なんだか悲しくなっちゃうじゃない? でも、何事も生きてこそよ。そうよ、もっと前向きにならなきゃ。

 茜が出てくる。

 あぁら? 生きていても、ろくなことにならなくてよ。あなたの運命はもっと苦しみもがく領域にこそあるべきなのだから。それこそがあなたの存在なのよ。お忘れかしら? 

 なにをお忘れかしら?よ。ふざけないで。

 ふざけてなんかいなくってよ。あなたはこれからさらに酷いことになる。惨くて醜くて腐って死ぬのよ。まるで落ちたリンゴのようにね。あら? りんごじゃ美しすぎるかしら? あなたはポットン便所のうんこなのよ。うんこ。うんこは何物にもなれずに只の肥料として世に貢献するのよ。そう、あなたの最終目的はそれでいいじゃない。

 肥料ですって? それならまだまともな死に方じゃない。せいせいするわ。

 あら? お忘れかしら? ひどい悪臭を放っているあなたは皆から嫌がられて亡くなるのよ? それでもせいせいして? 

 そうよ。初めからわかっていることだから今更、驚きもしないし何てことないもの。わたしはね、琢己が無事であればそれでいいの。わたしなんかどうでもいいのよ。でなけりゃこんな仕事、手伝うわけないでしょう? 

 

 琢己は一攫千金長者になった。いまでは殿様だ。無論、只の操り人形ではあるわけだが、それでも彼自身、嬉しい様子だった。最高な気分でしょうね。それもそうよ。結局、お金の世界なんですもの。なんて酷い人生なのかしら?


第三章

 

 

 オーミチャーがオーミチャーでなくなる日が訪れるとは誰も予想だにしなかっただろう。やよいは相変わらずソープランドで働いている。借金のこともあるけれど、なによりも居場所に思えて居心地が良かったものだから苦にはならなかった。そんなある日のことである。

「お姉ちゃん、整形しなよ――

 え――? そんなことを発する弟が真っ白に見えた。二人は群馬の川べりにて情景を楽しみながら会話をしていた。今日は非番だった。トンミーの社員がやよいを東京群馬高級車で送迎していた。

「金の心配はいらねえよ。全部、俺が手配してやるさ」

 で、でも……。おもった。そんな反則行為は好きでない。たとえ整形によりモテたところで偽りの顔はいつかぼろが出るのではないかしら? 

 おねえちゃん、それは違うよ。整形について誤解があるようだぜ。いいかい? 綺麗になればそれだけたくさんの幸せが訪れるんだ。今まで体験したことのなかった全部が手に入る。失うことなんかないよ。大丈夫さ。

 そ、そう? 

 そうだって!

「一週間考えさせて。来週また会えるかしら?」

 トンミーは合点してくれた。

 ふう、わたしもとうとう人生の分岐点とやらが訪れたのかしら? しみじみ考える。

 茜が出てきた。

 そうね、そうかも知れないわね。でもね、オーミチャー。美人の世界はとっても過酷なのよ? あなたはこれで幸せになれると考えているかもしれないけれど、それはとんだ誤算よ。いいかしら? 良く覚えておきなさいな。

 

 整形手術当日。やよいは朝から手術台に居た。これまでに何度か主治医と対面している。色々打ち合わせをしていた。

 モニターで術後の顔面イメージを見せてもらった。中村アンにそっくりな自分の顔におもわず驚愕したものだった。

 ほんとうにこの顔になれるのですか? 

 はい、なれます。あなたはもともと骨格がいい。皮膚の表面だけを施術するだけでも相当な変わり様となりますよ。安心してください。施術は成功します。

 

 麻酔はモルヒネ。完全なる脳神経マヒ状態だった。その中で夢を見る事は困難だ。只、真っ黒な時間が過ぎてゆく。経過していくことすら分からない。起きてみると病室のベッドだ。頭部へグルグル巻きに包帯が巻かれていた。嗚呼、おわったのね……

 

 トンミーの姿はなかった。誰一人としていない。動脈を図る機器だけがピコンピコンと波を打っているのが見えた。

 看護婦が気付く。おはようございます。目を覚ましたのですね。

 嗚呼……。こ、ここは一体? 

 病院の一般病室ですよ。さきほど集中室から移動したばかりなんです。脳を覚醒してから移したんです。意識が回復してそろそろと言う段階でこちらへ来たんですよ。

 嗚呼……。しゅ、手術は成功したのですか? 

 もちろん成功です。

 よかった……

 やよいは思わず涙があふれてきた。いけない、我慢しなきゃ……

 た、琢己は? 弟はいないのですか? 

 付添いの方なら仕事が忙しいからと席を立たれました。

 そう……

 ひとこと発しておきたかった。ありがとう、と。

 彼も社長だものね。堅気ではないけれど、それでも主なのよ。仕方のないことだわ。

 

 麻酔が完全切れた時、やよいは病室の窓から外界を眺めた。

 雑踏のようにして無機質に並ぶビルディング群。こんな光景は田舎では見られない。だからといって素敵とは言い難かった。むしろ吐き気を催すほどだ。黒いタイヤから悶々と溢れ来るシティーダスト。そのほこりは太陽の日差しさえもダイレクトに地へ伝えなかった。熱波はむなしいほど強烈で、観ているだけでゆらゆらと排気楼を伺わす。こんなスクラップの墓場みたいな、むしろ産業廃棄物処理施設のような立ち込める悪臭は、この土地の人間を窮屈に弱らせる。嗚呼、オアシスよ。誰もが叫んでいることだろう。しかし届かなかった。

 

 わたし、真剣になってみて借金を返していこうかしら? ふと考える。けれど、何処へ行く当てもないものだからやっぱりここが居場所なんだわ。とあきらめが思考の先に待ち構えている。それはいつものことよね。だってわたしは最終処分場の女なんだもの。

 

 退院の日が訪れた。やよいはあえて鏡を見ていない。新しく変貌した自分を眺めるのが怖かったからだ。それについて誰もがみんなそうですよ。珍しくはないです。院長は言っていた。退院後も、しばらく化のう止めの薬を飲まなければなりません。万が一、痛みが出たらすぐに来てください。保障は五年間です。はい、わかりました。ありがとうございます。

 

 昨日があって今日がある。それと同じで明日もあるのさ。いつしかトンミーが言っていた言葉を思い出す。こうして考えてみると、少年のような弟は素敵にさえ思えた。けれども黒に染まっちゃったのよね。ため息をこぼす始末。ふう、やらなければならないことは山のように高い。果たして登り切れるか? 下山する力は残されているか? 分からない。知るわけがなかった。そんなことを考えた時、ふと思い出す言葉だ。昨日があって今日がある。それと同じで明日もあるのさ。

 

 やよいは美容整形外科から電車で帰宅した。そんな中で、交わす人々がぎょっとした表情を浮かべてまじまじと見つめてきた。

 え? なに? 手術は成功したのではないの? どうして? どうして前にも増してそんな恐ろしそうにわたしを眺めるの? もしかして失敗? うそよ! 成功するって言ってたじゃない! え? それは嘘だったの? みんなしてわたしをだましたってこと? だから弟は逃げるようにして病院から去ったのかしら? え? え? え――? 

 思考が交錯する。なんだかたまらない気持になった。その場から駆け出すようにしてオーミチャーは逃げる。

 はあはあはあ……。どこ? 何処へ逃げればよいの? そうよ! 駅構内のトイレへ行きましょう! 鏡、鏡、鏡を見なくちゃ――! 

 駅内の公衆トイレへ着いた。鏡を伺う。自身の顔面を確認する。酷いありさまだった。前よりも醜い顔をしていた。整形手術は大失敗に終わった。そうではなかった。

 なんということだろう。手術は大成功を収めているではないか。まさに芸能人のモデルのような顔つき。美貌中の美貌だ。

 ああ! それじゃあ、さっきまでの視線はそうではなくて魅かれたと言う事なのね? なんてことなの! こんな幸せなことがあってよいのかしら? かみさま! マリヤ様! ありがとう。ありがとうございます! そして琢己。本当にありがとう。本当にありがとう……

 やよいは感極まって号泣した。

 

 寮へ帰ったときには夕方だった。そろそろ出勤の時間帯である。皆、個室で支度しているのだろう。ロビーにだれもいやしなかった。逆に、それが良かったと安堵した。

 出勤の時間が来た。ランドの部屋へ待機する前に一旦集合するため、どうしても顔を合わせる。

 オーミチャー! どうしたの? その顔! 

 皆おどろいていた。腰を抜かすものもいたほどに、わあっと、その場が盛り上がった。

 じつは……、整形したんです。

 ええ! したの? 

 はい。

 きれい! 

 皆して一斉に拍手喝采となる。

 ありがとうございます。

 オーミチャー! おめでとう! よかったわね! 

 はい! 

 まるで第二の人生が始まったような気持だった。それに襲い掛かる現実とは、紛れもなくこれからの勤務だ。

 わたしはソープランドの女。それだけは変えられないもの。

 結局のところ、整形は何のためだったのだろうか? やよい自身もわからなくなる。けれど、大通りをマスクなしで歩けること。繁華街を堂々と練り歩けること。こうした喜びは果てしなく大きかった。

 

 みなさん、これからはわたしのことをやよいって呼んでくれますか?

 

 曲線を描く肉体美にきれいなフェイス。正にやよいの客は大喜びである。毎日来る客も増えたし、一日二回サービスする客も出たほどだった。

 彼女とて生身の人間だ。徐々に膣が持たなくなってくる。ヒリヒリとして痛むのだ。終いには性病になりやしないか心配だった。なってしまった。

 店の人に闇医者を紹介してもらうと、先生は若い男だと知った。大学院生だと言う。要するに実験台だ。アルバイトでしているのだろうか? 最初はそう思ったのだが、そうでもなくて、本当にただ場慣れしたいと言う気持ちから。だと言う事を知り、感心したものであった。闇医者にはチームがあって、手術などの大掛かりなものは医師免許はく奪された元医者などが担当しているらしかった。手術室用のマンションまで用意していると言うから本格的であった。

 

 やよいの性病の場合、注射のみで片付いたからよかったと思った。しかしながら暫く休みが欲しかった。膣がまだ癒えてないのだ。番頭は、こればかりは仕方ないと休みを与えてくれた。長期休暇の始まりである。

 休みの間、何しようかしら? 当初はそんなワクワク感もあったのだけれど、慣れてくると早く仕事に戻りたくなる始末でどうにもこうにも二進も三進もいかなかった。それにシャブ中の常連客のこともある。やっぱり明日には出勤しましょう。そう心に言い聞かせた。運び屋は相変わらずトンミーだ。今回の休みでは会うことが無かった。

 珍しいものよね。こんなにも弟のことを心配しているのに、時々会いたくなくなっちゃうのだもの。人間て不思議だわ。慣れはこわいものね。いつかそうして絶縁へと向かうのではないかしら? いえ、それはないわね。だって、わたしと弟は兄弟以上につながっているんですもの。捕まるときは一緒よ。

 その夜のことだった。

「おい、やよいちゃん。おめえ店経営してみないか?」

 黒服の男がそう言った。その人のことは知らない。全く面識がなかった。ソープの客ではない。事務方の連中だ。いわゆる若頭などと言えば話が早いだろうか? 幹部連中の一人だ。オーミチャーの部屋へ訪問しにきていた。容姿を確認するためだろうということは分かりきっている。この女はできる。そう思ったに違いなかった。

「店とは……?」

「いや、答えは後でいいんだけどよ。メンズクラブって知ってんだろ? お前ら連中なら好きな場所だぜ? どうだ? ホストなら大好きだろ?」

「はい、しってますけど……。あの、もしかしてメンズクラブを任せるということですか? わたし、無理だと思います。学もないのに無茶です」

「いいや、ホスト連中は目を越えてるからよ。あんたなら容姿がきれいだしだれも逆らわねえと思うんだ。どうだ? いっちょ、女王蜂になってみねえか? 気分は晴れ晴れだぜ?」

 ホストクラブの女将……。嗚呼、ナイスガイな男たちに囲まれて毎日を過ごすだなんて、そんな極楽を素直に楽しむことができるかしら? そして思う。茜の気持ちはどうなの? と。

 あら? わたしの気持ちが知りたいですって? かんかんになって怒っているに決まってる。それもわからないの? 

 ああ、やっぱり焼きもちを焼いているのね? そんなに整形したわたしのことが嫌いなの? 

 もともとから嫌いなのよ。なにをいまさら! 

 でもね、きいて。茜、あなたはわたしを助けてくれた。だからいつかはあなたへ恩返ししなくちゃならないの。それも含めてわたしは将来幸せになるべきかもしれない。あなたとわたしは一心同体ですものね。けれどもあなたはわたしが不幸になると予言していて、わたしだって嫌だけれどそうなる気がしている。だからなに? そう思うときもあるけれど、でも、わたしは生きているんですもの。幸せを求めるのは普通のことではないかしら? 

 あなたね! なにをぶつぶつと説教たれてるつもりかしら? 良いかしら? あなたは幸せにはなれないの。それはわたしが邪魔するということではなくて、最初から決まった運命そのものなのよ。お分かりかしら? 

 ええ、わかってる。わかってるけれど、少しくらい期待したっていいじゃない? それすら駄目なら、今後、希望も何一つ持たないわ。

 

 やよいはホストクラブの女将になった。慣れない仕事にどぎまぎしたけれど、最初の三か月は付き人が居たので何とかなった。研修みたいなものだった。付き人は女性でキャバレークラブの女将さんだった。なるほど、慣れてる。そう思ったし尊敬もした。

 ほんとうにわたしにできるのかしら? そう思う暇もないくらいにオープン当初から女性客でごった返した。ホスト連中の客がそのまま引っ越してきたかの様子だった。疲れた。酷い疲れ方だった。

 

 三か月が過ぎたころ、付き人は自身の店へと戻る。胴元はやよいの店と当然ながら繋がっていたものだから、何かあればすぐ助けに来ると言ってくれた。それが嬉しくて何だか涙が出たほどだった。だけれど甘えるわけにはいかないものね。なるたけわたしの力で何とかしましょう。嗚呼、とうとうわたしも一人前になった気がするわ。うふふ

 

 従業員からはオーナーと呼ばれている。表向きは、れっきとした経営者だ。そうでなければならなかった。銀座でマネーロンダリングなどもってのほかだ。客が来なくなる。そのマネーロンダリングとは闇組織のことを遠回しに呼んだ名称だった。つまり胴元はやくざという意味である。付き人もその影を隠して店のお手伝いをしていた。今のところ気づいているものはいない。そうでもなかった。ホスト連中なら情報が早い。何処からともなくその噂を聞きつける。しかしながら自身のつとめる店の陰口をたたく者などいやしなかった。逆に知っていたからこそ言えないというのもある。つまりは怖いのだ。

 オーミチャー、覚悟しなさいな。これからよ、これから。あなたはこれから不幸のどん底へ落ちてゆくの。

 茜? 何を言っているのか分からないわ。だってわたしは幸せの縁に立っているんですもの。もう怖いものなんてない。トラウマなんてないの。隠していることと言えば整形の事くらい。それとソープ嬢だったこと。でも、そんなのどうだってよいじゃない。要はわたしの心の持ちよう次第なのだから。

 言うわね? いいかしら、オーミチャー。あなたはもう逃げられないのよ。トンミーからも闇組織からも。それがどういうことなのか一度じっくりお考えなさいな。

 あら、親切にありがとう。茜、あなたはやきもち焼き屋さんなのね。そうでしょう? 

 

 日を追うごとにやよいの感覚は麻痺してゆく。

 あたかも最初から美人だったかのような振る舞いへと変わっていった。

 それが第一に楽しくて仕方がない。人生にやる気を感じた瞬間だった。

 これではまるでロシアのオホーツクからハワイアンになった気持ちの様ね。でも、それに関していいことであって悪くはないことよ。だってそうでしょう? わたしはものすごく幸せなんですもの。

 茜が出てくる。

 あら? おじょうさん。あなたはまだ分かっていないのね。あなたはシンデレラ。時計の針が深夜の十二時になる前にお家へおかえりなさい。あなたをぼろ雑巾のように扱う宿へと戻るのよ。結局あなたはぼろ雑巾。おんぼろで汚くて臭すぎてどうしようもないわね。いいかしら? あなたの末路はこの場所ではないということを悟っておくことね。せいぜい楽しむがいいわ。至福を感じた分、落ちた時のダメージは相当なものよ。そのとき、あなたの精神は持ちこたえきれるかしら? 今から心配ね。

 オーミチャーが返す。

 なんですって? もう一度言ったって聞く耳なんか持たなくてよ。それならあなたも一緒に地獄行きかしら? いいかしら? 茜。あなたはわたしと一心同体なのよ。いえ、今は二心同体かもしれない。でもね、わかってちょうだい。わたしが幸せになることに関して果たしてあなたが邪魔する必要などあるのかしら? 

 聞きなさい、オーミチャー。わたしがあなたの邪魔をしているなんてとんでもない。わたしは呪い移っているけれど、まだまだ力を発揮していないし、第一、不幸へと転げ落ちるのは運命だってことをよく解りもせずに、どうしてそんなことが言えるのかしら? 良いかしら? オーミチャー。あなたの運命は決まっているの。末路はこんなところではないってことを良く肝に銘じておくことね。

 あら? ありがとう、茜。それならわたしは今を存分に楽しむわ。だってそうでしょう? 不幸が末路なら誰だってそうするはずよ。運命が見えているだなんて、これも不思議なもので気が楽でよかったわ。

 ふん、強がり言ってなさいな。

 

 やよいは決して店の男連中に惚れなかった。固く言い聞かせていたといっていい。用心していた。それも裏社会で学んだこと。

 同業者に正義なんてないのよ。黒く染まったやつらは皆、悪党。とっても良い顔つきをしているけれど、表へ出れば化けの皮がはがれるキツネとタヌキ。キツツキのわたしは奴等とは違う。だってわたしは空を飛べるんですものね。え? ちがうですって? どういうことなの? それはどういうことなのよ。

 わたしも愚かな女。鳥になんかなれない獣の雌。メスは尻を上げてペニスを突いてもらうだけなの。只それだけの存在でしかない。

 どうしてわかったような口をきくの? あなたにわたしの何がわかるっていうのよ! 

 いいかげんにおしなさいな。

 ふざけないで! 嗚呼――

 

 やよいは夢から覚めた。時刻は昼間の三時。これから出勤して店の準備やらがある。本当ならば朝の九時には起きて美容関連の店へ行かなくてはならない。美しい女を演じるために。それが夜の女たちなのだから。それについてやよいはまだ慣れてなかった。それもそうだろう。ついこの前までは麻婆豆腐のアバタ顔だったんですもの。

 

 店へ一番に入るのは決まってやよいだ。それ以外は許さなかった。テナントの外でタバコをふかしながら待つホスト達、数名。その中にやよいへ行為を抱いている美男子が居た。しかしながらやよいのガードは固かった。

 絶対に惚れたりなんかしなくてよ。あなたへは特別冷たくするんだから! 早くほかの店へお行きなさいな。

 やよいオーナーは夜行蝶。アゲハのように舞い、カワセミのように七色だった。

 

 オーナー、今度の休み、飲みに行きませんか――? 

 そんな誘いはひっきりなしだった。誰だって女性オーナーというものには魅力を感じるもの。ましてや独身で美人だ。店の従業員が放っておくはずがなかった。しかしやよいは決して乗らなかった。

 だってそうでしょう? わたしは今、恋に落ちているんですもの。

 その男は果たして誰なのか? 彼らには一切わからない。それもそうだろう。意中の男は店の人間ではないのだから。

 

 やよいは最近、夜明け方の吉野家へ通っていた。目的は紅鮭定食である。そうではなかった。バイトで働いている大学生に夢中だった。

 表情は疲れ顔であか抜けていないし、それほどかっこいいというわけではない普通の男だったのだが、ホストらによって目を越えていたやよいにとって逆に好感を持てたのだ。

 通っているうちに気が付いたことと言えば、彼は週休二日あるということと、時間シフトを組んでいるということ。なので必ずこの時間に居るというわけではないのだが、毎日会えない分、恋心はさらに高鳴るばかりでどうしようもなかった。

 

「いらっしゃいませ――!」

 

 ふと入り口付近へ目をやる。いつもいじめている店の美男子君だった。

 あれ? オーナーじゃないですか? どうしてここに? へぇ、オーナーも吉牛たべるんですね。吉牛は俺も大好きですよ。紅鮭定食ですか? ならおれも紅鮭定食にしよう。いつもは特盛とおしんこ注文するんですけどね。なんせ、一日一食しか食べないから腹減っちゃって。胃のほとんどはシャンパンでできているようなものですよ。

 やよいにとってそんなジョークはどうだってよかった。

 この男、わたしの恋を邪魔しないでしょうね? 

 心配になる。

「でも、六本木の吉野家は業界人ばかりですから気にしにしなくて大丈夫ですよ」

「ねえ、わたしがひとりでここに通っているってことは誰にも内緒よ。でないとゆっくり食べれなくなるから。ほら、男の常連客に誘われたりしちゃうし……

「分かってますよ。お互い様です」

「そう、それならいいのだけれど」

 それから二人は会話を交わさなかった。お互いに喋るのが仕事だ。疲れていると言えばそこまでだった。

 やよいは先に食事を済ませると五百円玉をカウンターの上へおいておつりは取っておいて。と残し店を出た。

 朝焼け時の東京。夜風はまだ残されている。カツカツとハイヒールの音を鳴らしながら駅前へ。そこからタクシーへ乗り込む。あえて吉野家で電話を掛けなかったのは健康のことを考えてのことだった。なるたけ歩きたかった。只、それだけの理由である。

 

 飲み屋で働くようになってから睡眠の質が悪くなった。今では朝二時間と昼間の三時間だけがセイラの就寝タイム。マンションで寝ることもあれば、ホテルで横になることもあった。その日の予定次第である。

 

 弟はどうしてるかしら? ふと思う。

 最近会ってなかったわね。お互い忙しいんだもの、仕方がないことだわ。それよりも、早く堅気になってくれないかしら? それは無理な話よね。もうどっぷりと浸かっちゃってるんですもの。薬の売人からは足を洗えないはずよ。なんでこんなことになっちゃったのかしらね。

 元をたどれば憎き施設の連中。さらに奥へと入り込めば両親の不幸だわ。

 嗚呼、人生って、運命って、皮肉なものよね。どうしてわたしたちは幸せへたどり着けないのか? それとも人並み以上にお金を手に入れているということは幸せということなの? それは違うわ。だってそうでしょう? こんな幸せなんて不幸なだけよ。

 

 以前の店の客から伝言が入った。ソープの店長からの連絡だ。南青山でよろしく、と。そう伝えてほしいとのことだった。

 客の連絡先を受け取る。普及したばかりの携帯電話番号だ。

 わたしもそろそろ必要かしら? 

 やよいはまだ時代に取り残されたままである。携帯電話を保有していなかった。弟も足がつくからと保有していない。盗聴でもされていたらことだものな。そんな話をしていた。彼は黒電話しか信用していないのである。

 おそらくきょうの誘いは決め薬のことででしょうね。厄介だわ。

 やよいはそう思いながらも琢己へ電話した。直ぐに出た。事務所から出る寸前だったと弟は話していた。

 よかった、間に合うわね。ねえ、きょうポンが一つ欲しいのだけれど……。ええ、前の店の客よ。必要なの。来てくれるかしら? ええ……。ちょっとまって、六本木に来れる? ええ、その喫茶店で落ち合いましょう。それじゃあ。電話を切った。

 

 正午になった。琢己との待ち合わせ場所である純喫茶へタクシーで向かう。

 色々話したいことは山ほどある。それを頭で整理しながら流れる街路樹を車窓からうかがっていた。

 着く。どうやら弟は先に来ていたみたいだ。よお、と入り口で声をかけてきた。まあ、中ではなそう。ねえちゃん、なに頼む? それと同じ奴にしてくれ。

 

 ――ねえちゃん、いつまでやるつもりだい? 

 

 席に座ってからの第一声はそれだった。

 なにを? 

 だから、客引きだよ。俺はもういいって言ってんだから、やめときなよ。

 そうもいかないわよ。だって(ポン)中にしたのは、わたしなんだもの。最後まで責任取らなきゃ捕まった時に名前出るでしょ? もう抜けられないのよ。

 いや、それなら大丈夫だ。うちんとこの尻尾(売人)へ紹介してくれよ。渋谷の駅前に居る。

 どうやって? その人(売人)の携帯番号なんか教えきれないでしょう? それはあなたにとってご法度なんじゃなかったの? 

 きいとくれ。今日、男に会うんだろ? これからか? その男に言うんだ。渋谷の駅前に赤い帽子かぶった男が立ってるってな。今後はそいつから受け取ってくれと話せばいいんだよ。簡単だろ? 

 わたしの身体も求めてきたら? 

 それはないぜ。女ならソープの快楽にかなわねえ。奴等は味しめてる。ホストクラブの姉ちゃんより店の女さ。大丈夫だ。

 それならいいけれど……

 心配なら俺が会ってやるぜ? 

 それも足がつくでしょ? 

 そうだな。

 分かったわ。あなたの言うとおりにしてみるわね。

 喫茶店から解散した。南青山へ向かう。

 

 客とはうまいこと話を誘導できた。弟の言うとおり、目的はやよいの身体ではなくシャブのほうだった。それが廃人というやつだ。ミイラになればなるほどそれに適したプロフェッショナルを求める。そう言うことだった。快楽のプロフェッショナルは間違いなくソープ嬢だ。男はその居場所から抜けたやよいにもう興味などなくなったとでも言いたげにそそくさと渋谷へ向けて消えて行った。あまりのあっけなさに拍子が抜けたほどだった。住まいへ戻る。いや、店へ出勤した。

 

 店へ来たのが早すぎるほどだったためにホスト連中はたむろしていなかった。

 いま店のカウンターで一人だ。

 テキーラサンライズ用にある100%オレンジジュースを飲んでいる。

 店の電話が鳴った。やよいは取らない。営業用なら控室にあるもう一本の電話へかかってくる。

 今度は控室の電話が鳴った。あわてて裏へ回って受け取る。弟だった。

 どうだい? ねえちゃん。

 ああ、あなたね。大丈夫だったわ。

 そうかい、そいつはよかった。

 ええ、本当にそう。

 ところでねえちゃん。恋はしてんのか? 

 そんなのする暇がないほど忙しいの。

 そうかい、繁盛しているみたいだな。

 ええ。

 今度キャバクラの女連れて遊びにくらあ。

 それは結構よ。来ないで。

 どうして? 

 こんなみっともない仕事を見せたくないからよ。

 みっともない? 

 ええ、そうよ。

 幾ら俺たちが裏の人間だといっても、客から正々堂々、金貰っている以上はそんなことないぜ。気にすることはないさ。

 そう、そうよね……。ねえ? わたしたち、報われる日は来るのかな? 

 どうした突然! ねえちゃん、本当に気にしすぎだぜ! もっと明るくしな。そう言うのは従業員にまで伝染するんだぜ。

 分かった……。気を付ける。

 それでいいんだよ、じゃあ切るぜ。

 ええ。

 電話が切れた。

 

 営業準備時間が来る。やよいは控室で衣装に着替えた。

 これからホスト連中が続々と来るだろう。その前に済ましておきたかった。

 いつもの時間。いつもの仕事の始まりだ。

 

 早朝五時にようやく仕事が終わった。今日は長く感じた。

 不安だった。

 なにが? 

 あの客が来ないか心配だったのだ。

 あの客とは渋谷へ消えた男のことを言う。

 仕事帰り、吉牛へ行こうか迷った。が、今日は疲れている。コンビニエンスストアーでシーフードヌードルを一つだけ購入すると帰宅した。

 着替えてさっさとお湯を注ぐ。待ち時間は三分だ。

 ヌードルを温めているうちに冷蔵庫を開く。魚肉ソーセージがあったので取り出した。

 そこで思い出す。最近してなかったわね、と。

 考えてみればソープ以来していない。

 やよいは何だか恥ずかしくオナニーをしたくなった。

 

 嗚呼、たまらなく欲しいの……

 

 我慢できない。

 思わず魚肉ソーセージの封をといてから、それをシーフードヌードルへ突っ込んだ。

 するとどうだろうか? ソーセージは化学反応を起こして太く逞しく温かくなった。

 さあ、オナニーの始まりだ。

 

 嗚呼――! 

 

 彼女は魚肉をフェラチした後、一噛みして残りをぜんぶバギナへ突っ込んだ。

 ハアハアハア……。足りないのぉ! もっと欲しくてたまらないのぅ――!、

 人差し指でクリトリスをいじる。愛液と共にソーセージが放出された。

 繰り返し同じことをする。

 太い――! 嗚呼、逝くぅ――! 

 潮を吹くと同時に肛門に力が入る。

 お尻にも入れてぇ――! お尻も犯して――! 

 淫乱女、その一言に尽きた。

 もう快楽の味を覚えてしまっている体は素直に反応する。

 ソープへ戻りたい。ソープへ戻りたい。ソープへ戻りたいのぅ――! また逝く! 逝っちゃう――! 嗚呼――! 

 今夜のそれは激しいものだった。痴女的オナニーだ。

 美味しかった。たまらなく美味しかったのだ。

 それに何の矛盾も存在しない。やよいはセックスマシーン。もうこの世界から抜けることなど不可能だ。

 喘いで喘いで喘ぎまくる。それがたまらなく素敵に感じたソープ嬢時代。懐かしい記憶。そして恥ずるべき記録だ。

 

 なんてことなの? わたしは、わたしは……

 

 結局、やよいは店の人間とした。セックスをしたのだ。これに何のお咎めもなかった。心というものも存在しない。只のお遊びでしたことだった。もちろん、こんなことは生まれて初めての経験だったものだから、行為の後、自分は本当に変わったのだわね、と感慨深くもなったりした。

 昔は酷いあばた顔で、少年探偵団のリーダーを逆強姦して、それから先生に犯されて、ソープでSMをして、マットプレイをして……。そんなはしたなくてみっともない女が男を選んで、それで尚且つ遊びでセックスができるようになるだなんて、本当にこの世は分からない事だらけだわ。

 それでね、聞いてちょうだい。

 これこそまさにわたしがわたしでなかった時代なのよ。

 いつしか誰かにその話をした。無論、相手には何が何だか訳がわからなかっただろう。それ位にやよいの人生は滅茶苦茶だった。それは他の園児も同じようなもので、精神疾患へ追いやられるのも無理はない話だった。ほとんどの子は精神が極限までやられてしまうのだ。それがこの世の果ての子供たちの運命だった。

 

「これ、わたしの番号です――

 

 やよいが携帯電話を保有した時に初めて番号を教えた相手が吉牛のアルバイト生だった。そう、あの大学生である。

 男は相当喜んだ。そうでもなかった。

 ええっとぉ、こう言うのは困るんですよ。僕お金持ち併せてませんし、暇がないものですから。悪いんですけどもお返しします。

 お金の心配なら要らなくてよ。わたしがおごってあげるから、だから受け取ってこんど電話かけてちょうだい。わたしのほうから会いに来ます。

 ええ! 良いんですか? 困ったなぁ……。分かりました。こんど電話かけますね。

 ありがとう、そうしてくれると助かるわ。

 ――危なかった。もう少しでこの店の笑いものになるところだったわ。そして二度と来れなかったでしょうね。

 

 マンションへ帰る。玄関口を入って鍵を掛けたところで、突然、茜が出てきた。

 あらあら、お疲れ様もいい所ね、お嬢様 

 あら? 誰かと思ったら茜ね? 最近出てこないから、霊が呪い移ってることも忘れていたわ。どうしたの? 言いたいことはそれだけじゃないでしょう? 

 分かってるじゃない。あなたね、最近、調子に乗りすぎよ。なにをモテる女を演じているのかしら? そろそろ疲れたのではなくて? あなたにはあなたの身の丈ってものがあるでしょう? もうお忘れかしら? この仮面女。

 仮面女とは失礼しちゃうわ。わたしだってピュアな女なのよ。もう少し言い方があるでしょう? 

 何を言っているのかしら? オーミチャー、あなたね。あなたはアバタ顔の麻婆豆腐で生まれてきたの。その事実は変えられなくてよ。もしかしたら結婚できるとでも思って? とんだ笑い話だわ。きいてオーミチャー。あなたは何かもっと大事なことがあるのではないのかしら? 恋愛なんてしている暇があると思って? 

 もっと大事な事? それはつまり弟のことかしら? 

 そうよ。あなたがこうしている間にも彼はどんどん深みに嵌ってる。あなただけが幸せになれると思って? 彼が豚箱行きならあなたは中華鍋の中なのよ――

 

 大学生と生まれて初めての交際関係。それは失敗だらけでもあったし、恥ずかしかった。

 さあ、何をしましょうか? わたしが勘定を支払うのだからしっかりリードしなきゃ。

 しかしリードの仕方が分からない。夜の女であるにもかかわらず分からないのだ。困った。そうでもなかった。彼の名前は浩二(こうじ)。浩二はしっかりとした大学生だ。そして押しが強かった。ぐいぐいと引っ張ってくれる男。頼もしかった。嬉しかった。尊敬した。崇拝した。愛おしく感じた。

 

 桜坂の劇場は人だかり。ふたりは手をぎゅっとつないで離れまいとした。東京大砂漠。遭難すれば命はなかった。

 初々しかった。そしてセックスは激しかった。辱めを受けるセックスだなんて初めてかもしれない。そうでもない。ソープ時代にとことん客から調教されていたのだから主導権はやよいにある。彼女はそれを譲った。彼へ委ねたのだ。

 浩二は陰険な変態だった。表向きは好青年を演じているが、ひとたび脱げばサドスティックにやよいを懲らしめ続けた。野外調教もしかり。彼女は流れるがまま流された。それが女としての喜びだったのだ。

 嗚呼。わたし、どうにかなっちゃいそう。

 どうにもなるわけがない。彼は上手くコントロールしている。正に飴と鞭だ。それのエンドレス。

 やよいは夢中になった。いつか彼と一緒に住みたい。そう思う事もしばしある。だが彼はそれを拒んだ。所詮、夜女と昼男の関係。そんな簡単なことで修正されることではない。やよいは玄人。裏社会の人間でもある。釣りあうわけがなかった。

 いつか彼とさよならしなければならない。そう考えるようになったとき、ふと、大粒の涙が押し寄せてきた。突然泣く彼女に彼は優しかった。どうして泣くのだい?

 

「姉ちゃん、辛いならやめときなよ――

 

 弟へ恋愛相談した時の話だ。言い分はごもっともだった。それだけに辛いものがある。だけども別れることができなかった。

 だって、そうでしょう? わたしは今すごく楽しいの。まるで夢心地のように素晴らしい世界なのよ。もしかしては本当かも知れない。たとえ夢の中であっても結婚することはできるはずよ。そうでしょう? マリヤ様。

 

 もはやホスト連中らの誘いなど眼中になかった。ヘネシーを浴びるより恋に酔っていたのだ。

 浩二の身体はよかった。良い匂いがするしペニスの形も好みだ。彼は性病ではない。それはたくましい代物だった。

 ザーメンは毎回美味しく飲んだ。まるでミルクセーキのような味がした。

 彼の脇からかほる汗のにおいはフェロモンを発しているようで、それを嗅ぐたびに理性が狂わされた。何回も何十回でもセックスが出来た。

 彼は決して中に出してはくれないけれど、代わりの口の中は幸せの宝箱のようなものだった。

 わたしはこうして生きているのね。彼と居ると生きている実感が湧くの。わたしって幸せ者なのね。そういえば弟は結婚している。愛人までいる始末で手におえない。またしばらく会うことはないわね。今度会うときは弟へおごってあげなくちゃ。何がいい? 

 

「姉ちゃん、ほどほどにしときなよ――

 

 分かっているわ。分かっているけれどわたし自身が言うことを聞かないの。気持ちよくてウキウキしちゃう。楽しいわ。こんなことってあるのね。わたしはもうだめかと思っていたわ。わたしには幸せなんかこないと思ってた。けれどもこうして幸せは巡ってきた。ねえ、琢己。お嫁さんを大事にしなさいな。あなただって彼女から幸福を見たのでしょう? きっとそのはず。わたしね、分かったの。報いは必ずあるって。諦めた先にあったから一瞬だけドキリとしたけれど、でも受け入れるのは簡単だったわ。不幸ばかりだと幸せに拒絶反応するっていうじゃない。それも分かっている。戸惑うのよね。仕方のないことだわ。それは新しい世界なんですものね。

 

「なあ、姉ちゃん。俺よ、新しい事業をやろうと思ってんだ――

 

 え? それはつまり、足を洗うってこと? 

 いや、そうじゃねえ。逆に手を広げるってのもあるんだぜ。

 どういうこと? 

 俺んとこにはバケツへ手突っ込んでる業界人が多いってことさ。

 芸能関係? 

 そうだよ。それと音楽関係だ。山ほどいるぜ。テレビの裏には客が腐るほどいるのさ。

 そう……

 それでよ、姉ちゃん。ひとつ提案があるんだ。

 提案? 

 そうだよ、悪い話じゃねえ。

 なに? あなたまさか――? 

 そのまさかだよ。どうだい? お姉ちゃん。俺のプロダクションからひとつ芸能界デビューしてみねえか? 

 馬鹿言わないで。わたしはそんな世界ごめんよ。こなれているわけでもないのに素人がいきなり売れっ子になんてなれるわけがないじゃない。そんなに簡単な世界ではないはずよ。

 そりゃあそうだけどよ、でも、プロデューサーにコネがあるって言ったら? 

 プロデューサー? 

 そうだよ。テレビはそいつらが仕切っているんだ。その鶴がひと声あげれば人事異動も簡単に叶うってな。

 もういい。これ以上腐った話、しないでちょうだい。それで? あなたの狙いはなんなの? 手を広げることだけが目的なの? 

 お姉ちゃん待ってくれ。勘違いしたかもしれないけど、話しはそこじゃねえよ。実はいうとな、お姉ちゃんがさっき言ったけどよ、俺もじきじき潮時感じてるんだ。シャブの仕事をよ。びくびくすんのに疲れちまった。けどよ、そう簡単には行かねえ。親元がよ、離さねえんだ。こればっかりはどうにもなんねえ。それでよ、無い知恵絞って考えた。代わりを探せばいいんじゃねえかって。つまり俺の片棒担ぐやつよ。しかし見つからねえ。どいつもこいつも信用成らねえ奴ばかりでよ。だからよ、思ったんだ。シャブと同じだけ稼げる業種へ様変わりして上納すりゃ文句の一つも言わないんじゃねえかってな。まあ、だいぶ前から複数のコネクション探してた。そりゃあ、接待で一億くらい使ったぜ。

 

「何故、わたしなの――?」

 

 姉ちゃんも野暮なこと訊くなぁ。そりゃあ、ごもっともだけどよ。俺らの場合は少し体質が違うのさ。まずは信用のなるやつからプロにしていくことに何の躊躇がいるんだい? 逆に教えてくれよ。身内に容姿の綺麗な女がいるのに、真っ先に手出さねえってのはどう考えてもないだろ? つまりはそう言うことさ。何にも難しい問題じゃねえ。分かりきった答えだ。なあ、姉ちゃん! この通りお願いだ! 引き受けてくれねえか?

 

「少し時間をちょうだい」

 

 やよいは即決しなかった。それも当然だろう。琢己もそうだと思っていたはずだ。

 今日のところはこれまでで、しつこくなかった。彼は退出した。マンションのドアが閉まる。彼女は寝室のベッドで仰向けになった。

 ぶつぶつ独り言をつぶやきながら考えてみる。彼はどう思うだろうか? だとか、わたしにこなせるかしら? など、とにかく不安材料が多い。

 それにしても琢己ったらわたしがソープ嬢だったってこと忘れてしまっているのかしら? 顔は既に割れているようなもの。テレビで客が見れば俺が店で抱いた女だって言いふらすでしょうね。それも計算のうちかしら? 炎上商法? 馬鹿らしい。

 

「やっぱりやめておきましょう……

 

 決めた答えはそれだった。

 

 後日、琢己に来てもらう。マンションの合鍵は渡していた。仕事から帰ってくれば恐らく上り込んでいるでしょう。それとも昼頃かしら――? 

 琢己は部屋にいなかった。

 そう、これでも気を使ってくれてはいるみたいね。助かるわ――

 仕事帰りだと酔ってるものだから口車に乗せられそうで怖かった。

 素っ裸で就寝する。

 何かの物音で目が覚めた。めざまし時計へ目をやると時刻は十三時ころだった。

 お腹が減っていることにも気が付く。

 物音は琢己でしょうね。そう思ったし怖くはなかった。

 よお、姉ちゃん。

 桃の缶詰を食べながら寝室へあがりこむ琢己。

 ひとつわたしにちょうだい。

 ああ、いいけど。

 いいけどじゃないでしょう? わたしのものなのよ。うふふ 朝から笑わして。もう! うふふ 

 姉ちゃん、服つけなよ。目のやり場に困るからよ。

 ああ、ごめん!

「姉ちゃん、決断してくれたかい?」

 ええ、まあ……。弟に申し訳ない。やよいは思った。琢己も察しが良かった。

 ああ、そうかい。まあ、そうだろうなとは思ってたぜ。仕方ないこともある。けど、気が変わったら連絡してくれ。

 待って! やっぱり、もう少し時間をくれないかしら? 

 明日になったら気が変わってるかもしれない。非常に判断しにくい問題だ。裏の世界から抜けられるチャンスでもある。これを逃すと後先もうないだろう。分かっていた。けども、寝る前とはずいぶん気持ちが変わっていることに気が付いたやよいは、茜とも相談してみたいと思った。こんな時に彼女が現れないだなんてなんか変。そう感じた。

 

 弟が帰った後、直ぐに茜が出てきた。

 お呼びかしら? まあ、でも、あなたには地獄がお似合いなのよ。オオミチャー、そうでしょう? 

 それじゃあ訊くけど、わたしにとって地獄は芸能界なの? 現状維持なの? それを教えてちょうだいな。

 あらあら、そんなことも分からなくて? オーミチャー、いいかしら? あなたはどちら共に朽ち果ててしまうのよ。それならほんの一瞬でも楽しめる場所を選ぶべき。つまりは芸能界が良いってことなのではないかしら? 

 教えてくれてありがとう。それもそうよね。でも、リスクが怖いの。わたしのことで弟の商売が駄目になってしまわないかだとか。ほら、これまでに一億も使っているのでしょう? それが無駄になってしまうのよ。わたしにそんな価値があるかしら? って思うの。もっと他に良い人をスカウトすれば……

 ふん、それもそうよね。あなたは結局偽りの姿ですもの。元々は酷いアバタ嬢ですものね。腐った麻婆豆腐でしかない貴女に賭けようってのは、弟さんもとんだ誤算だわ。大失態よ。

 何もそこまで言うこともないでしょう? わたしだって女なのよ? 茜、あなたってもしかしたら良い女性かと思っていたけれど、酷い人。酷い女。そうなのでしょう? 

 ふん、そんなことは前から分かっていたことではないかしら? あなたも弟さんみたいに御人好しみたいね? 

 どういうこと? 

 いいかしら? 弟さん、琢己さんだっけ? 琢己さんはね、自分だけではなくて兄弟であるあなたのことも救おうとしているの。とんだお涙物語よ。泣けてきちゃうわ。それなのにどぶに捨てようとするアバタ嬢……。わたしはそれが情けなく思うのよ。オーミチャー、いいかしら? あなたは彼へ従うべきなのよ。こっくりと頭をお下げなさいな。

 

 やよいは決断した。芸能の世界へ入ってみようと思った。それにしてもやはり茜は口が悪くてとても怖い霊を演じているけれど、やっぱり違うのだと思ったし、頼もしく感じた。そのときだ。そうだ! 芸名は守屋茜にしよう。そう考えた。

 

「それじゃ姉ちゃん、こいつにサインしてくれ」

 

 あら? 兄弟なのにそんな事(契約)するのね? 中々しっかりしているじゃない。

 お姉ちゃん、俺たちももう大人なんだ。勿論、姉ちゃんとは形上のことだけどよ。後から入ってくるもんに示しがつかねえしな。売り上げは折半だぜ。内緒にしてくれよな。ところで芸名はなんにする? 決めといてくれたか? 

 守屋茜よ。

 守屋茜? 

 そうよ。

 これまたありきたりだな。他に良いのなかったのか? なんなら俺が考えとくけど。

 いいの。守屋茜で。そうしてちょうだい。

 しょうがねえなぁ、わかった。そうしよう。姉ちゃん、初仕事は宣材からだ。今日はゆっくり休んで明日良い顔見せてくれ。プロフィールの写真撮るからよ。

 格好は? 

 衣装なんかはこっちで手配しとく。

 

 今日から昼人間になる。それはとても不思議な気がしたし、なんといっても浩二と同じになるということが嬉しかった。彼と遊ぶのに眠くなったりだとか眠くさせたりだとかが無くなる。気持ちは有頂天だ。給与は目減りするはずだけど預金なら沢山ある。

 大学生にふさわしいよう普通の格好をして普通の食事をして普通のお酒を飲みましょう ランクダウンする事がこんなに嬉しいだなんてわたしも変な女だわ でも、それでいいの だってそうでしょう? これはまさに表の世界なんですもの 

 三日後のことだ。

 

「姉ちゃん、話なんだけどよ……

 

 嫌な予感がした。

 突然、怖い顔してなに? 

 だからよ、良い辛いんだけど……。男はいるのか? 

 え? 

 彼氏だよ。姉ちゃんも分かっているだろ? 

 何のこと? 

 これからはよ、メディアに気を付けなきゃなんねえ。異性のうわさが流れると面倒になっちまうんだ。知ってるだろ? それでテレビから干された芸能人をたくさん知ってるはずだぜ? 

 だから別れろっていうの? そんなのあんまりじゃない! それならこんな仕事やめとくわ! 

 まあまあ、姉ちゃん。聞いとくれよ。何もそこまで言ってねえじゃねえか。そう言うことは密かにやってほしいんだよ。交際ってやつはよ。ばれなきゃ別に構わねえんだから。

 

 デビューは深夜番組のゲストからだった。『夜の女社長』というコーナーでの出演だ。これはいいアイディアね。やよいはそう思ったし、やりやすかった。夜の女を隠すのではなくて、初めから公にしておけば怖いものだしだ。琢己の手腕は確かなものだわ。弟もやるわね。収録前、そう思ったものだ。

 

「一ヵ月も店空けていたと思ったら引退だと? ふざけんじゃねえぞ、こら――!」

 

 やはり胴元はそう来たかと思った。恐ろしい一日だった。やよいがメディアに露出するとなると店の宣伝にもつながる。第一、「夜の女社長」で売り込んでいる建前上、辞める理由を探せなかった。

 結局、わたしは裏から抜けられないのね……。嗚呼、浩二。ごめんなさい。わたしは昼の女になれると勘違いしていた。でもしょせん無理なのよ。不可能なの。だから、いつか貴方とさよならしなきゃいけなくなる時が来るかもしれない。いえ、ぜったいに訪れるのよ。仕方のないこともあるの。でもね、分かって。今すぐでもないもの。もう少しだけわたしの傍に居ててくれるかしら? ねえ、浩二。あなたはとても素敵な人。わたしなんか後々迷惑になるだけよ。裏社会が睨みつけてるわ。あなたまで巻き込みたくはないの。だって、そうでしょう? 弟と同じくらいに大切に思っているんですもの。当然だわ。でもね、あなたがわたしのことを一生忘れないように一杯思い出を作ってあげる。身体に、ペニスに、脳裏に。いけないアゲハチョウ。わたしは夜の女。厄介な人に出会ったって後悔してる? それもそうよね。わたしね、もとは酷いあばた顔なの。麻婆豆腐と言われていたわ。いいえ、いまだにそう呼ばれているの。茜って知らないわよね? わたしと同姓同名の女がいるのよ。わたしって芸名のほうだけどね。うふふ 今夜はそんなことどうだっていいじゃない。ほうれ 思いっきりバキュームフェラチオしてあげるわ

 

 メディア出演の依頼はどんどん増えていく。テレビにラジオに衛星放送。コメディー番組にワイドショー番組。人生相談のラジオ番組。需要はたくさんあった。

 大人の裏社会という番組では顔出しNGだ。暴力団組織にまで言及しなかったが、ぎりぎりのラインで番組を沸かせた。性の番組では視聴者をフル勃起させたほどだった。とにかく面白くて楽しい。正直、こんなんでいいのかしら?だとか芸能界もちょろいものね♪”などと高笑いもした。あまりに収入が多いものだから、税金対策で自身のホストクラブ客へドンペリをプレゼントしたりした。そのウケが良くて夜の商売も繁盛してしまう。正に好循環だった。天国を感じたし女王様気取りでも許される。誰からも好かれたし、何十名もの著名人男性も寄ってきた。正直、誘いを断るのがもったいないほどだ。やよいは避けた。駄目だった。誘惑には負けた。魅力に取りつかれた。数名の著名人と寝る。秘密的に高級ホテルの密室で、した。彼氏にはばれなかった。ばれるはずもなかった。

 彼は違う世界の男。一般人が足を踏み入れない領域でわたしは浮気をしているの これって最高のパラダイスではないのかしら? 

 勢いは来ている。調子に乗らない方がどうかしていた。

 やよいとて一つの人間。歯車が狂った人間なんですもの。憑りついている茜も幸せでしょう? さあ、一緒にザナドゥの世界を楽しみましょう

 

「姉ちゃん、どうだい? 今夜、飯でも食いに行かねえか?」

 

 芸能事務所社長である弟の誘いは断れない。そんなことを言っても誰も信じなかった。やよいは男の誘いを断らない尻軽女。まるでキャッツアイ。と異名を取られているほど社交的な女性になっていた。立派な社交界の女である。社交界ではセックスはお遊びなのだ。マスカレードナイト(仮面舞踏会)をやったこともあるし、セイユーセイミーの曲だって知っている。だからこそのセックスはお遊びなのである。弟の琢己と寝たことはない。勿論だ。遺伝子が拒絶反応を起こす。その男とセックスをしてはいけません。と神がお告げになられるのだ。

 

「姉ちゃんもすっかり社交界の女になっちまったな」

 

 鍋をつつきながら生ビールを飲む。ここは居酒屋だ。休みの日くらいぐでっとしたかった。ドレスコードは御免だ。琢己はそれを知った上でこの店を選択したに違いなかった。思いやりのある弟ね。素晴らしいわ。ほくそえむ。やよいも生ビールを飲み干してお代わり注文した。三杯目からは日本酒だ。冷酒でいただく。鍋の具を小皿に取り、ひと口ふたくち食べながら飲む。グラスのお猪口でぐいっとだ。時折、具へマスタードを付けて食べる。おでんのようで美味しかった。塩だしのちゃんこ鍋だった。薄味で、疲れた胃袋にやさしい。

「ところで彼氏はどうしてる? 別れたのか?」

 言いたくないことを訊くわね。そう思う。

 べ、つ、に。

 なんだよ? 教えなよ。俺たち、そう言う仲だろ? 社長としても気になるんだ。話しとくれよ。

 まだ別れていませんよぅだ! うふふ 

 うんじゃ、別れちゃいないが、会ってもいないということか? 忙しい姉ちゃんのことだ。そうなんだろ? 

 そうよ、せいかぁい 

 酔っぱらっている――。自分でもそう思った。どうやら日本酒が利いてきたらしい。それにしても酒が弱くなった。疲れているのね、わたし。

「彼とは釣り合わないのかも……。わたしが」

「おい、姉ちゃんがかよ! まったく、酔ったみてえだな。らしくないぜ」

「本気で言っているのよ。わたしはしょせんアゲハチョウ」

「堅気のカエルとは合わねえわな。食われちまう」

 ぷ、はっはっ! お互いに笑い転げた。

 もう、彼はカエルじゃなくて人間なの。標本にされるって言ってほしかったなぁ 

 標本かよ! 悪くねえな。ぷ、はっはっ――! 

 楽しい夜だ。愉快そのものである。やはり兄弟ってよいものね。思うと可笑しさが収まった。

 ねえ、今日、わたしのうちに泊まっていく? 

 なんだよ? 突然。セックスはしてやらんぞ。

 うふふ そんなんじゃないわよ。わたしは只、兄弟で仲良く添い寝したいだけ いいでしょう? 

 まあ、それも含めて今日の話は悪くねえわな。

 またアゲハチョウのこと? 

 そうだよ、他に何がある? ぷ、はっはっ! 

 またしても二人して笑い転げた。

 

 後日、彼氏宛に手紙を書いた。別れのあいさつだった。会って話すと別れられなくなっちゃうものね。それだけわたしはあなたのこと愛していました。決して長文ではなかったが、伝えたいことはすべて書いたつもりだった。電話はかかってこない。着信拒否に設定したからだ。元々から公衆電話の番号は受けない。東京の別れはそっけないものね。これが田舎だったらどうだったでしょうね? 考えただけでもゾクッとする。ストーカー被害どころか殺人事件にまで発展していたかもしれない。それ位に地方の恋愛というものは尾を引くものだ。

 わたしって惨めよね。そう思う。

 だってそうでしょう? 人生の初めから最後まで普通じゃなくて、それが染み付いてしまっていて、恋愛さえ純情で居られないだなんて。どんどんどんどんおかしくなっていっているわけじゃないの。初めからおかしかったのよ。それがわたしの運命でもあるように。狂っているのよ。狂わされたの。母が異形の精子を受け止めた瞬間から、もしくは、母の性病が胎児に異変を生じさせたときから。これじゃまるっきり瞬間から闇社会ではないのかしら? 表社会の人間が鼻をつまんで見向きもしないそんな世界があるのよ。でも別れた彼は知らないでしょう? 彼だって群衆の中のチンパンジー。どうせ熟した黄色いバナナしか好物ではないわ。わたしなんかチョコレートバナナよ。そう、本物の茶色いバナナ。糞バナナなの。腐ったバナナなのよ。彼にはわたしが理解できないでしょうね。それもそうよ、わたしだって彼が理解できていないのだから。一般人ってどんな世界なのだろうって夢を見たことはあるわ。現実に体験しているとも感じていた。そう、この東京へ来た時に、別れた彼と出会った時に。無理だったのよ。所詮、夢幻でしかなかった。油と水が混合しないように。不可能だったのよ。中性子? この世界にはないわ。あるとすればお茶の間のテレビだけ。ラジオだけ。でも、それも二次元であって幻のようなものでしょう? 違うかしら?

 

 苦しくて悔しくて、酒を浴びた。毎晩も続く。尋常じゃないほどの量だった。早く彼のことを思い出にしたいと願うほど、彼の太いペニスの香りを忘れようとするほどに、酒と男と涙と奇声の毎日だった。

 ヘネシーは大好きなの。ナポレオンの銘柄でXOが好みだわ。それにね、美味しいじゃない? 所詮、高級酒しか似合わないのよ。地酒? 日本酒も悪くないわ。大吟醸のほうだけどね。きいてきいて! わたしね、じつはいうとお酒の味わからないの。なのにヘネシーだとか笑っちゃうわよね。そうではないのよ。雰囲気がそれに染まっちゃってるってことなのだから。わたしの背景のように感じちゃうの。不思議でしょう? でもね、たしかに整形した時から世界は変わったわ。昔ならどぶろく酒よ。もしくは爆弾。しってる? メチルアルコールのお酒。ジェット燃料に使われているのよ。それを飲むと失明しちゃうの。大変でしょう? それでわたしのあばた顔が見えなくなっちゃって、麻婆豆腐のぐつぐつした喘ぎ声で男たちはエクスタシーを感じるのよ。うふふ 少し酔っ払っちゃったかしら?

「姉ちゃん、いい加減にしときなよ」

「なによぅ? お酒返して!」

 駄目だ。いいかい? 姉ちゃん。酒は飲んでも飲まれるなってよ、良く言うだろ? 今日はもう終いにしときなよ。

 嫌よ! わたしの体はわたしが良く知ってるの! どんなに飲もうがわたしの勝手でしょう? 飲ませて! 

 だ、め、だ。グラスは渡さねえぜ。さあ、姉ちゃん。言う事聞いて眠りな。

 だって飲まなきゃ眠れないんだもぉん 

 仕方のねえ姉ちゃんだなぁ。だったらもう少しだけだぜ。ボトル少し残してあとは捨てるから、これだけ飲んだらもう寝るんだ。いいかい? 姉ちゃん。

 ふん! 分かったわよぅ! 

 約束だぜ? 

 分かったったらぁ!

 琢己は帰った。途端にさびしく感じる。やよいは泣きたくなった。泣いた。

 どうせ結局は孤独になるんじゃない! どうして? どうしてこうなっちゃうの? 茜が出てくる。

 このままいったら弟にもそっぽ向かれるかもね。そしてあなたは無人島生活よ。あっはっはっ! ざまあないわよね。脚光を浴びた先でこんなん成るなんて あなたも可哀そうな女ね 

 御だまりぃ! 茜? いいかしら? わたしはあなたがいい人だと誤解してた。自分にうぬぼれていたのかもしれない。でもね、あなたのこと信じ始めていた。もしかしたらマリヤ様なのかもって。でも違うのね。結局あなたは悪魔なのよ。どうしてそんなに酷いことが平気で言えるのかしら? いいかしら? 茜。もう終いよ。だから早くわたしの身体から出て行ってちょうだいな。

 

 やよいがポンに手を出すのは時間の問題だった。あとは売人を探すだけ。もちろん、弟のルートからは入手できないだろう。それは分かっている。だからこそ難しくさせている。東京は弟のアジトみたいなものだ。縄張りである。関東地方を占めているといっても過言ではない。

 手に入れるには名古屋まで足を運ばなければ。もしくは向こうさんの売人を出張させるか二つに一つよ。つまりはコネクションが必要ね。

 

「姉ちゃん、薬やってんのか?」

 

 どうしてわかったの? 思った。

 瞳孔確認すりゃ一発でわかるんだよ! 姉ちゃん、思いっきり開いてるぜ。外出する時はサングラス掛けな。職務質問で捕まっちまう。それで? やっちまったんだよな? あぶりか? 注射か? どっちだっていい。今なら助かるぜ。やり始めは中毒にならねえんだ。セックスはまだだろ? それもやっちまったのか? それじゃ終いだぜ。絶頂極めたらおしまいよ。抜けられねえ。女はそれが怖いんだ。ポン中のほとんどは女のほう。男が駄目にする。姉ちゃん、何でおれに相談しなかったんだ? そんなに苦しかったのか? 引退すりゃよかったじゃねえか。そこまで俺の商売に付き合わなくてよかったんだ。俺も姉ちゃんがポンやるとまでは思っちゃいなかった。甘かったよ。本当に甘ちゃんだ。後悔はしてねえのか? どうなんだよ?

「わたしから離れて……。もう会うのはやめましょう」

 わたしはいけないアゲハチョウ。ようやく朽ち果てる時が来たのよ。茜、嬉しいでしょう? 早く出てきなさいな。失笑したい? 思い切りよく笑うがいいわ。もはや悔しくも何とも感じないもの。わたしはアバタ姫。シンデレラにはなれなかったのよ。麻婆豆腐は鷹の爪っていうじゃない? 違うかしら? それともラー油? コチジャン? 料理については全くの素人じゃない。それと同じで男にも素人なのよね。わたしったら誤解しぱなっし。男、分かったつもりで全然わからないんですもの。ペニスをもてあそぶのは男を知っているのとは少し違うでしょう? 性的なものと思想的なものと。わたしの理想はなんだっけ? そうそう、真面目な男よ。嗚呼、余計な事を思い出しちゃった。別れた彼氏のこと考えちゃうじゃない。女ってあっさりしているというでしょう? 男はドロドロしてるって。よく言うじゃない? その逆もしかりなのよ。それを体験している。ねえ、茜。聞いてる? 早く出てきなさいな。言いたいことは分かっているけれども、それでもさびしいじゃない。わたしの話し相手になってちょうだいな。ねえ、茜。茜が出てくる。

 あなたも可哀そうな女ね。まあ、そんな事は分かっていたことだけど。それにしても覚せい剤やるだなんて信じられない。わたしはそこまでいくとは考えていなかったわ。それでね、わたしは迷惑しているのよ。オーミチャー、あなたがポンをやって酔うと言う事はわたしも酔うということ。ホヤキ代で全財産失いたいのかしら? でも、それも素晴らしい話だわ。あなたの言うとおり、わたしはあなたの身体から抜けたいけれど。それは無理みたいなの。呪縛したが最後。抜けられないのよ。そこまで都合がよくないみたいなの。これって仕方のないことかしら? オーミチャー、せいぜい苦しみなさいな。快楽を得てちょうだいな。


最終章

 

 

 シャブの世界は幻のようで現実だった。密室の中はザナドゥ。思い切りよく汗をほとばしり、良い按配で潮を吹いた。無我夢中でもがき喘ぐさまは地上へ揚げられた人魚姫。鰓呼吸ができなくて苦しんでいるような光景だ。

 

 ほやき代ならあるんですよ。いくらででも出しますとも。ですから、もっと純正のポンをちょうだいな。

 

 三日三晩寝て居ない状態が続く中でカップラーメンをすする。だけども全然美味しく感じない。薬によって空腹から免れているからに違いなかったが、そんな事などどうでもよかった。食べたくはないものを食べる。

 良いかしら? 売人の話(言いつけ)通りにするのよ。

 ええ、一応、わたしは芸能界の人間でもあるのだものね。容姿は大事だわ。

 なんだ、分かっているじゃない。

 

 ねえ? 頭おかしくなるくらいにきもちが良いの。これって天国かしら? 地獄の三丁目なのかしら? 

 

 アクメ顔になりながら泡を吹く。鼻の穴からも耳の穴からも潮を吹いているような錯覚にさえなっていた。もはやどうしようもない。狂った腰は幾度となく痙攣を発作する。

 これじゃまるでだるま地獄ではないの。そうか、わかったわ。これはやっぱり地獄だったのね? 気持ちの良い生き地獄。小学生のころに両脇をこちょこちょされたときのような感じと似ているわ。

 そうね、そうかもしれない。なんということなのでしょう。わたしはこれが欲しかったの。太くてたくましいペニス君とアメリカンドック。嗚呼、たまらないわ。さっそくマスタードとケチャップを波のように付けてほおばってしまわなきゃ。誰にも取られないように。

 

 先に食べるのはわたしよ。わたしが一番なんだから。

 

 乱舞そのものの交尾。空中に舞った接吻。地上へ叩きつける汚物処理。気持ちよいならなんでもした。狂った。乱れたセックス劇場はそこにあった。

 一体誰がとめる? 止められるものはいない。キメセク(覚醒剤でキメてセックスをすること)を覚えてしまった身体はもはやチンパンジー以下だ。物事の判断などつくはずもない。未来の事すら考えられなかった。目標は只一つの白い粉(覚せい剤)だ。

 

 やよいは夢を見ていた。とてもとても快楽に満ちた世界。ザナドゥ(桃源郷)を。紛れもなく見た。体感した。潮を吹きまくる。よだれを吐きまくる。最後は泡を吹いて失神だ。そんな世界を見ていた。

 太いペニスなら何でもよかった。白人から黒人。日本人から外国人。異種混合は素敵だと思った。いろんな精子を飲む。白に黄色に緑色。飲んだ。飲みまくった。

 

 男のひとのタンパク質はおいしいの 

 

 そう発して微笑んだことがある。にやりと笑った。

 

 次はどちらさんがわたしの相手をしてくれるのかしら? ほうれ! おっぱいをお飲みなさいな。白い乳液の味はどうかしら?

 

 やよいは妊娠している。構わなかった。

 どうせポンで死んでしまう赤ちゃんなのだから放っておけばいいのよ。それよりも大きくなった乳房はたまらないでしょう? さあ、飲んで わたしもあなたのが飲みたい さあ、おったてなさいな。精子を尿ごとわたしの顔面へお出しなさいな。全部飲んであげるんだから。

 

 狂った女だ。誰もが言う。

 

 ふん、何にもわからないくせに。よく言うわね? わたしの味方はこの白い粉だけ あなた方は道具でしかなくてよ。

 

 やよいはもはやジャンキーというに等しかった。いや、ジャンキーである。薬を打ち続けないと正常を保てな。ポンとは一心同体のようなものだった。そう言えば最近、芸能の仕事がめっきり減った。影でうわさになっているらしい。表向きはきれいなお仕事だ。薬中はお払い箱なのである。ホストクラブの商売も出向いていない。一日中部屋の中に閉じこもってセックス三味となっていた。

 

 ポン中は攻撃的だと言うが、やよいのセックスの趣味も様変わりしており、痛みの成す快楽でないと物足りない。次第にエスカレートしていってはSMプレイを愛好するようになった。激しいプレイとピアスの穴あけプレイ。乳首にもクリトリスにも穴をあけた。それでも物足りない。唇から鼻からまぶたにもピアスを何重ぶら下げていた。入れ墨も彫る。背中には立派なハンニャが角を出して睨みつけていた。

 

 貯金の全てはポンへ行った。たまにお遊びでソープで働いてみたりする。快楽のバイトがしたくなるのだ。何本でもペニスを入れたかった。給与はシャブである。狂ってしまった人生だ。最初からおかしかった運命だ。そう思っていたし構わなかった。そのとき思考があったのかないのかは別として、たとえ正常でもソープ嬢へと戻っていただろう。芸能界の娘だ。客は飛び上がって大金をはたいてくれる。しかも家畜のように蹴っても突いても悲鳴を上げて喜ぶのだからしょうがない。

 

 段々、幻覚を見るようになる。幻聴も酷くなっていた。ウジ虫が骨の髄を掻きむしっているのが感じ取れてかゆく感じた。ぼりぼりと皮膚をむしり取る。爪をとがらせて肉をえぐるのだ。当然跡は残る。しかし快楽なのだ。かゆさから解放された快感なのだ。この時には正常なまなざしではなかった。常に上目で頭がおかしくなっていることを容易に区別できた。

 

 ああ、に濁点を打ったような喘ぎ声。終いには猿ぐつわまでさせられてよだれを垂らす始末。いや、穴の開いたボールを口にはめ込まなくとも常によだれを垂らしていた。末期の麻薬中毒者である。精神病院の入院病棟特別室に多いあれだ。檻の中に全裸で閉じ込められるそれと似ている。クレイジーなのだ。発狂したサル以下なのだ。頭がおかしい。基地外である。もはやその状態と化していた。

 

 抜けられない麻薬の快楽。天国の次は地獄が待っている。そして朽ち果てるのだ。死んでしまうのだ。哀れな様態を露わにして。

 やよいは精神病院へ強制入院させられた。弟の計らいだった。

 警察に逮捕されるよりはましだろ? どのみち独房行きだったんだからよ。でもあれだぜ? ねえちゃん、もう元には戻らねえ。脳みそを治すのは無理なんだ。今の医療では不可能なんだよ。チンパンジーは人間になれねえだろ? それと同じようなもんだ。だから言ったんだよ。シャブきめてセックスすんなってよ。全く可哀そうな話だぜ。こうなったのも表の男に惚れたからだ。闇の世界に居ときゃよかったんだ。それについて俺も反省しなきゃなんねえ。ねえちゃん、達者でな。もう見舞いには来ないぜ。

 

 もはや日本語ではない奇声を発して鉄格子をがんがん鳴らしている。やよいは尿も糞も地べたのコンクリートに吐き出していた。職員が檻の外からホースで流す。排水溝はそのために大きく口を開けていた。風呂も水ホースだ。石鹸やシャンプーなどはない。たわしすら与えられなかった。全裸で崩れた乳房をぶらんぶらんと婆みたいに揺らしてみっともない。職員は酷い臭いにたまらずマスクをしている。騒ぐたびにスタンガンの電気地獄が待っている。イタイイタイお仕置きだ。もはや人間扱いなどしていない。家畜だ。家畜以下だった。

 

 独房の夜は寒い。特にコンクリートの地べたが凍てつく。しかも、この檻の中では幻覚の世界が現実として存在した。排水溝からあふれてくるゴキブリの群れ。口の中からはい出るウジ虫ども。筋肉の筋を這いずる寄生虫たち。天井からはタランチュラがいくつも降ってきた。幻聴も響くようにして届く。あーあ、もう殺すしかないな。だとか、貴様の弟も同じ目に合わせてやる。など。しまいには琢己の悲鳴まで聞こえてくるではないか。

 

お姉ちゃん! 助けてくれぇー!

 

 いっひっひ! いっひっひっ!

 

 定期的に覚せい剤を薄くした注射を打たれる。少しずつ覚せい剤の効能を遠ざけていく治療法である。担当医は警察へ届け出ていない。ここは裏世界の人間行きつけの精神病院だ。手筈は整っていた。医療費は高額だが秘密は守れる。

 モルヒネを打たれるのは決まって食事の時間帯だ。寝て居るところで栄養剤の点滴をする。固形物はいっさい喉を通していない。体は痩せこけており寒さに弱かった。せめて点滴を打つときくらいは毛布を被せられた。

 

 目覚めは毎回セックス最中だった。職員に犯されぱなっしである。暴れたところで独房へと戻されるわけだ。皆さん性病予防の注射は受けている。コンドームも着けていた。

「今日も芸能人の守屋茜とやってやったぜ」

「腐った林檎でもよ、興奮しちまうよな」

「だぜ? 料理の仕様によっちゃ美味いことは美味い」

 哀れなものである。堕ちてしまった女だった。最低最悪以下があるという物的証拠みたいなものだ。生きる屍とでも言えばよいのだろうか? やよいの精神は離脱したままで元に戻らない。一体いつごろ正気へと戻るのだろうか? 病院の連中など良くならなくてもいいと考えているに違いない。これではまるで最終処分場のカラスにやられる豚の丸焼き状態だ。死んだ後も経済的需要があるわけだ。

 

 やよいは夢を見ていた。時折、意識が別の世界へ飛ぶことがあった。勿論、もうすでに飛んでいるようなものなのだが、それとは異なる幻ではない本当の夢だ。それは三次元を超過して四次元だった。真っ暗闇のような、それでいて宇宙の美しさが残されているような神秘的空間。星々は見えない。だけども身体は照らされていて明るかった。エコー気味に声が聞こえる。オーミチャー、オーミチャー。

「茜? 茜なの?」

 返事は来ない。思う。じゃあ誰だったの? 

 やよいはこの世界が怖くなった。

 もしかしたらここから帰れないのではないだろうか? いえ、まって。それは良いことのひとつのようでもあるじゃない? でもちがうの。ここはきっと天国ではない。それなら、ここはどこなの? 

 分からない。答えは出なかった。

 ええっとぉ……。わたしいつからこんなところに居たのかしら? 

 記憶をさかのぼってみる。入院前の出来事しか覚えていない。狂っていた毎日。酒に溺れた日々。覚せい剤。そう言えば弟は来たのだっけ? それすら記憶になかった。

 段々凍えるような寒さを感じる。やよいは素っ裸だ。

 ……、茜……。あなたも寒いのでしょう? 姿をお見せなさいな。裸で温めあいましょう。だって他に温まる方法がないじゃない。

 オーミチャー、オーミチャー。声が届く。

 だから言ってるじゃない。早く姿を見せて! 終いには怒るわよ? ほら、出てきて。オーミチャー。あなたは誤解している。あなたはわたしであってわたしはわたしなのだから。茜? もしかして、まだ体の中に居るの? ここは安全よ。もう出てきてもいいころだわ。ほら、出ておいで。

 オーミチャー、あなた少しうぬぼれているのではないかしら? 主導権を握ったつもりでいるのね? とんだおバカさんよ。オーミチャー、いいかしら? 最初から最後まで主役はこのわたし。そう、守屋茜なんですもの。あなたはよくもまあ道連れにしてくれたものだわ。人間のくせに、生身の人間のくせに! 

 茜、何を言っているの? わたしたちは同体じゃない! それはあなたが仕向けたことなのよ。わたしのせいにしないで! 

 突然、生暖かい風が吹いた。流れ来る方向を見る。もちろん何もない真っ黒な世界だ。しかし違った。遠い彼方から太陽が登ってくるのだ。夜は終わった。ちょろちょろと緑の香りが鼻へ届く。やよいは振り返ってみた。裸の茜がザナドゥの泉で泳いでいる。

 

 そんなまさか――! 

 

 とても信じられない。夜が終わった上に泉まで湧いてくるとは。素っ裸の茜は言った。さあ、あなたも一緒に泳ぎなさいな

 

 泳ぎつかれた後のドリンクはトロピカルカクテル。それと一緒に出たスモークサーモンは絶品だった。

 お姫様、そろそろ食事の用意が整っていますが、どうなされますか? 

 付き人の男が言う。男根は太く逞しかった。

 そうね? それじゃあ、あなたを食べましょう。

 女二人に男一人のスリープレイセックスは初めてではない。これまでにそうした乱交はいくつもやってきた。真新しいことと言えば彼の男根から噴き出すザーメンがピンク色だということだけ。その色には覚せい剤の成分が混じっているかのように酷く脳を刺激してやまなかった。

 

 嗚呼……。わたしたち、もう抜けられないのね。残念だわ。

 

 感じる。全てを破壊して。乱れる。脳天を突き破って。痴女的性快楽は麻薬によってはじまり麻薬によって増大した。

 スイカを棒でかち割ったような頭になる。脳みそはぐしゃぐしゃの麻婆豆腐だ。

 そういえばわたし、麻婆豆腐の顔をしていたのだっけ? あへへ うひゃひゃ あへあへ 

 狂った裸体など糞でしかない。豚のミンチ肉よりもひどい様だ。食えた代物ではない。それを美味しそうに食べつくす付き人はもはや下僕でしかなかった。

 いっひっひっ 貴女はクレイジーミートソースでわたしはクレイジータコライス それでいて貴男はクレイジーコリードッグなのよ これって最高のメニューなのではないかしら? うふふ 

 夢からさめたくはない。

 だってそうでしょう? 素敵な素敵なザナドゥ。これのどこがいけないっていうの? でも、これってクレイジーエッグマフィンみたいなもので、わたしたちは永遠ではないのよ。朝が来て昼が来る。お昼のあとは夜が来て、翌朝になる。だから早く目を覚まさなきゃ。でも、どうして? どうやって?

 

 とんとんとん。とんとんとん。

 

 みぞおちの中枢神経を叩かれる。

 

 とんとんとん。とんとんとん。

 

 正体はシャブだった。覚せい剤の注射をされたのだ。

 いやぁぁぁ! 

 欲しくなくとも仕方がないのさ。ほうれ 大好きな看護師のペニスをしゃぶれや! こらぁ! とっととザーメンを飲み干せ! 

 いけない。これは現実なの? まだ夢の中? 

 果たしてどっちだろうか? たちまちめまいがする。

 そうか、それじゃあ夢ってことなのね? 

 どうしてさ? 

 だって覚せい剤を打てばめまいはしないもの。当然の答えだわ。じゃあ、ここは地獄ということ? 地獄の三丁目なの?

 

「担当、患者が目を覚ましました」

「よし、独房へ連れて行け」

「はい――

 

 朦朧とした意識は現実に蘇る。そうだった。ここは地獄だったのだわ……。飛んでいた精神がはっきりと区別する。それだけが救いだった。わずかな望みだった。

 独房は相変わらず冷たくて寒い。そしてなんといっても臭うのだ。コンクリート床が尿と糞で酷い色をにじませている。

 窓はない。その代わりとして換気口があった。それだけでは臭いを退治できない。幻聴と幻覚は相変わらず。たとえ精神が戻っても回避できそうになかった。

 だって禁断症状がひどくなったらシャブを薄めた薬か電気地獄だもの。恐ろしいわ。本当に恐ろしい。茜、出てきてちょうだいな。お話ししましょう。

 オーミチャー、よくもまあ夢を台無しにしてくれたものね。許さなくてよ。

 え? 茜、どういうこと? 

 オーミチャー、あなたとわたしはザナドゥに居たはず。何故に意識を回復させるのかしら? 貴女なんかあの時に息を引き取ればよかったのよ。ご臨終というやつだわ。

 茜、けったいな事言うわね。わたしが死んだらあなたはどうなると思って? それを考えているのかしら? 

 オーミチャー、あなたは本当にうるさく返してくるわ。いいかしら? わたしはもう死んでいる側なのよ。あの世へ行けない可哀そうな霊なの。あなたが死ぬことで成仏されるわ。

 茜、あなたは元々わたしに恨みなんてないじゃない。なのに地縛霊だなんて少しおかしいと思わない? 

 オーミチャー、黙ってなさいな。

 いいえ、黙らない。だってそうでしょう? あなたの本当の望みが知りたいの。ほんとうにわたしが死ぬことであなたは浮かばれるの? 違うでしょう? 

 オーミチャー、地縛霊というやつはね、無差別なものなのよ。そんなことも知らなかったのかしら? オカルト界では有名な話なのにあなたったら勉強不足も良い所ね。

 なんですって? 

 常識はずれってことよ! 

 言ったわね――

 

「そうれ、電気地獄だ。ギャーギャーうるさいっての!」

 

 看守がスタンガンで電気地獄をする。やよいはたまらず瞬時に気絶した。覚せい剤を薄めた薬を一本打たれる。眠りの中で気分が良くなる瞬間だ。目を覚ます。あへへ よだれを垂らしながらにやけてみせる。精神はぶっ飛んでいた。

 

 精神病院から支援施設へ移動になったのは、それから二年後のことだった。今では覚せい剤の注射ではなくて重い鬱用の錠剤で精神を保てるようになっている。モルヒネも打たれていない。一般の睡眠薬数種で十分眠れた。今度はアッパー系的な精神状態ではなくてダウン系的な精神状態になっている。非常に大人しくなったということでは前進しているのだが、依然として薬漬けだということに変わりはなかった。

 

「夢はありますか――?」

 

 支援施設の担当医が訊く。

 ……、ですか? 

 はい、そうです。目標でもいいですよ。聞かせてください。

 わたし……、わたし……

 はい。なんでしょう? 

 わたし、芸能界復帰を果たしたいです。

 それはいい。しかし、もう少し目標を下げてみませんか? 芸能界復帰では目標が高すぎて挫折する危険性があります。ですからもう少し手前あたりの夢を聞かせてください。

 手前の夢……? 

 そうです。社会復帰すること……、とか? 

 そうですね、それに向かって頑張りましょう。

 

 リハビリは手芸工作の日課で行った。楽しい、うれしい、を意識してください。そう言われた。確かに重いうつ状態である。しかも睡眠薬が強くて思考回路が停止したような状態だ。喜楽になれない。感情がないのと同じだ。いや、確かにある。哀ならあるのだ。怒は薬によって抑制されているようで上手いこと高ぶらなかった。わたしはもう死んでいるのね。思うと自殺したくなる。毎度頭をよぎる。死にたい……

 

 支援施設の広い庭でタバコを吹かす患者たち。その集いからさけるようにして、一人、離れの芝生上へ横たわってみる。

 考えてみれば酷い人生だった。目を瞑りたくなる事ばかり。怒りがわいてこない今の状態では哀しみがとてもつらく感じられた。

 もう死んでしまってもよいと思っている。それでいいと考えている。だけども死ねないのはなぜだろう? 

 詩のようなものを思い付いた。今度、紙に書いてみよう。忘れないうちにメモしましょう。そう思うけども、自傷行為防止のために鉛筆など尖ったものは禁止されている。だとしたらどうしてライターはいいのかしら? あの人たちは何処から火を頂戴しているの? 不思議なものだ。

 

 幻聴と幻覚は相変わらずひどい。ドアのない壁の向こうから声が届いてくるし、白い幽霊を何回も見た。確かに精神病院の頃と比べてみると大したことではないのだが、それでも異常はきたしているレベルである。覚醒剤と同じ成分の強力な抗鬱剤が影響しているのだろう。減薬したいけれど、それほど治ったわけではない。発狂はしなくなったけれども、極度の精神分裂はしなくなったけれども、やはりおかしいのである。脳のネジが足らない。ボンボン時計は壊れてしまっていた。

 

 ねえ、聞いて茜。わたしね、社会復帰する前に明日生きることを考えなきゃならないのね。それってとても哀しいことだわ。だってそうでしょう? まるで寿命が縮まったようなきがして寂しくなるじゃない。

 オーミチャー、あなたは何を言っているの? 今更、生きたいだなんて思う方が悪党よ。悪魔なの。あなたの頑張り次第では今すぐにだって死ねるはずだわ。さあ、お死になさいな。

 茜、あなた相変わらず口が汚いわね。そうやってわたしを励ましているつもりなの? 奮い立たせようとしているの? その言葉、今のわたしにはとてもつらいのよ。分かっているでしょう? 怒ってほしいの? 怒る気力なんてないから残念ね。

 あら? オーミチャー、あなた完全に死んでしまったようなのね? そういうのを生きる屍と呼ぶのよ。もともと麻婆豆腐のあなたにはお似合いではないのかしら? 

 

 そう言えば、琢己は元気にしているだろうか? 精神病院へ入院させたのはきっと弟なのじゃないの? 思いが交錯する。

 他に身寄りが居ないものね。当然といえば当然だわ。それとも他の人間がそうさせたの? ちがう。支援施設にしても裏社会の人間でなければ知らないはずですものね。

 弟に会いたいと思う。叶わぬことなのだろうか? 見舞いには来ていない。

 覚せい剤なんかで馬鹿しちゃったわね。わたしの人生も終わりだわ。何が芸能界復帰よ。わたしったらとんだ甘えん坊ね。もう復帰なんかできるわけないじゃない。芸能界はシャブに厳しいのよ。スポンサーあっての商売だから。わたしなんかお払い箱ね。もうじき話のネタにすらなっていないのではないのかしら? 忘れられた女、守屋茜は死んだの。これからどう生きていけばよくて? 大道やよいとして生きること。オーミチャーとして生きることしか残されていないのよ。それはどういう事かしら? ソープ嬢に戻るということ? それは悪くないわね。だってあそこの世界は楽しかったし生きがいを感じた。居場所は此処だって思ったもの。考えてみれば整形したのがいけなかったのだわ。わたしはどうかしてた。偽ったところで何にもならないどころか不幸が押し寄せてくるだなんてあの時は思いもしなかったこと。でも、幸せを感じたものだわ。新しい自分と出会って嬉しかったことは正直な話。一度でもいいから男にちやほやされたかった。男から誘うセックスがしたかったのよ。

 

 今夜の夕食はハンバーグ定食。学校給食のように運ばれてきた大きなコンテナにトナーごと入っている。それを取り出し共用の丸いテーブルで食するのだ。温かさは少しだけ感じるのだが、とにかくぬるいのが特徴的で、料理が本当に美味くなければ食えたものではない。そこら辺の心配はなかった。いつもおいしい食事を用意してくれる。一食あたり二百五十円だが、障害者手帳で国負担だった。それらの手続きは施設の事務方がしてくれていた。

 

 夜は消灯時間までテレビをぼうっと眺めて過ごす。思考回路を刺激するドキュメンタリーかワイドショーがいい。時刻的にそれらはやっていないものだから、NHKのニュースを皆してみていた。決して口には出さないが、コメディーは観ない。自分が笑いものにされているようで嫌になるからだ。馬鹿げている笑い声は施設の人間にとって毒そのものでしかない。禁句なのだ。

 

 トンミーが見舞いに来たのはだいぶ後。それから二年後のことだった。見舞いと言っても迎えみたいなものだった。

 姉ちゃん、今日出してやる。まってな――

 朝一で訪れた琢己はそう告げると午後まで戻ってこなかった。午前中で医師が診断書を作成し、退所手続きまで済んだ。午後一になってから琢己が戻ってくる。

 さあ、出よう――

 そう微笑んで。

 

 退所後にすぐ向かったのは美容院だった。髪を整え綺麗な化粧をしてもらう。外着の洋服は弟が用意してくれていた。ドレスコードのある有名なステーキ屋へと移動する。高級ワインで乾杯した。肉もアメリカ牛の赤身だが上等で柔らかく美味しかった。

 姉ちゃん、償わせてくれ。これからもっといい思いさせてやるからよ。けど、薬は駄目だぜ。そいつだけはもうご法度だ。俺もその商売は引退する。だから約束だぜ?

「それで、これからわたしに何をしろっていうの?」

「何にもしなくていいんだよ。安心しな。全部、俺が面倒見てやるからよ」

「それじゃあ、これから群馬県?」

「女将と別居しちまった。今は白金台のマンションに一人暮らしだ」

「そう……

「なあ、ところでよ。姉ちゃんに芸能界復帰はもう無理だぜ。考えるだけ時間の無駄だ」

 琢己がアイコスを点けた。加熱式煙草というやつだ。東京は禁煙ブームでもっぱら喫煙者に厳しいだのどうだの話していた事を思い出す。社会は一変したのね。まるで浦島太郎のような気持ちだわ。

「何か趣味探しなよ。ボールペン字だとか書道だとかそう言った奴をよ」

 何もしなくていいといったくせに二言目には趣味をしろだのうるさい坊やだわ。わたしの弟でなければひっぱたたいている所よ。わたしを馬鹿にして。わたしはまだやれると思っているの。社会復帰しようと考えているのよ。そんなことはなしても無駄ね。わたしだって無謀なことはやめて、白金台のマンション? そこで隠居してればよいのだわ。ヘネシーでも飲んで。でも今はサントリーの知多あたりがわたしには上等かも。

 

 白金台のマンションは5LDK。一部屋使ってくれと言っていた。残り四室ある。持て余しているといえばそこまでだ。そうでもなかった。衣裳部屋に倉庫。寝室に書斎。ひとつ余っていたのは本当にラッキーだったのかもしれない。それにしても少し広めの部屋だ。掃除はされている。クリーニング屋に頼んだのだろう。カーテンではなくブラインド。ベッドの代わりに本革のソファーが置かれていた。ソファーは腰を痛める。あまり寝て居られない。幸いにも床はカーペットだ。最初に準備が必要なのは寝具ね。

「姉ちゃん、ちょっくら仕事に行ってくらあ。今夜は残業だぜ」

「気を付けて」

「何に?」

 なんとなく。そう言いかけてやめた。何も心配する必要はない。それとも、わたしったら何か引っかかる事でもあるというのかしら? 馬鹿げている。少し自分がおかしかった。うふふ と微笑む。それは奇妙に映ったかもしれない。病み上がりで嫌な病名も付いている。やよいはあっち系の人間であったことは確かであり、今現在も完治したわけではなかった。琢己が気を悪くするのも無理はない。

「姉ちゃん、怖いこと言うなよ。こっちだって心配になってくるぜ」

「悪かったわ。そんなんじゃないの。気にしないで」

「明日の早朝には帰る。朝食は吉牛の弁当でいいか? 姉ちゃん好きだろ?」

「ありがとう。それでいいわ」

 行ってくる。弟は部屋を後にした。

 さあ、気晴らしに一杯しましょうか? 知多はあるかしらね? ここは高級酒しかないの? 

 棚を眺める。シングルモルトウィスキーの山崎があることを知る。

 これでいいわ。これくらいでちょうどいいのかも。

 冷蔵庫のフリーザーから製氷を二つ抜き出してグラスにほおる。山崎はロックがいい。味が確かなのだ。ひと口ふたくち舐めると世界が一変する。樽の匂いは琥珀色で透き通っていた。

 テレビをつける。バラエティーはいまだに苦手だ。ドキュメンタリーの衛星放送に切り替えると、グラスをテーブルへ置いた。

 

 気が付くと唇からよだれを垂らしていた。どうやら寝てしまっていたようだ。時計の針は夜中の一時ころをさしている。琢己はまだ帰ってきてなかった。

 シャワーでも浴びましょう。

 やよいはそのままリビングで全裸になり浴室へ向かった。浴槽にはジャグジーが付いている。

 しめたものだわ。今夜はゆっくりつかりましょう。高級な風呂場は久しぶりね。

 

 結局、朝になっても弟は帰ってこなかった。吉牛の約束をしていたのに。そう思う。期待していた。楽しみだった。それ以上に琢己が無事に帰ってきたことを喜びたかった。

 ふと思い出したように自分の携帯電話をバッグから取り出す。スマホの使い方など、時代に取り残されていたやよいに分かるはずもなかった。電源を点けることもできずにしまう。

 やれやれ、ここには固定電話ってものがないの?

 

 あれから一日たった。さすがに心配でしょうがない。だけども弟の電話番号はとっくの昔に忘れてしまっており、どうにもならなかった。

 仕方なく、悪いと思ったけれども書斎を物色することにした。名刺くらいはあるだろう。そう思っての行動だった。

 書斎に入る。するとどうだろう? 綺麗に整えられたデスクの上に一通の手紙が置かれていた。

 はて、なんだろうか? 

 そんなことは思いもしなかった。目的はあくまでも名刺である。 

 

 結局、目的は果たせなかった。名刺がないのである。

 さて、困った。

 ふう……。と息を吐いてからデスクの手紙を目視する。

 お姉ちゃんへ。宛先にそう書かれてあることに驚きを隠せなかった。

 手紙を確認する。

 

『前略。俺の大事な姉ちゃんへ。

 姉ちゃん、今頃、俺の名刺でも探してるんじゃねえのか?

 そう思って名刺は予備を含めて全部持ってったよ。この手紙に気付いてほしいからな――

 

 弟の遺体はいまだ上がっていない。手続き上は行方不明者のままだ。

 手紙によると、シャブの売人関係のトラブルで命を狙われているとのことだった。売人をやめれば足がつかないように尻尾きりで皆そうなる運命だと書かれていた。なのに弟はやよいのために売人をやめると約束した。それにはよっぽどの覚悟があってこそのものだったろう。

 やよいは泣いた。悔しくて悲しくて泣いた。

 琢己はもう帰ってこない。そう察した瞬間から命が亡くなったような気がした。

 姉ちゃん、いいかい? この手紙を読んだらすぐに逃げるんだ。金なら貸金庫に現金で用意してある――

 最後の最後まで世話をかせてしまった。申し訳なく思う。

 

 やよいは逃げたらおしまいだと思った。だから逃げることをしなかった。逆に堂々と振舞おう。そんな気持ちだった。自分の命など惜しくはない。殺されるなら喜んでそうしてほしかったし、元々から死んでいたような人生だ。未練などなかった。

 だけどもこうして生きている。友人紹介の流れで結婚までしてしまって。

 子供は産まないと決めている。大道家はオーミチャーで最後にしておきたかった。旦那にはすべて話している。彼は受け入れてくれた。

 

「わたしね、もう一度生まれたいの。違う人間で異なる運命を生きたいのよ」

 

 それが最近の口癖のようになっていた。

 守屋茜は完全魂が一体化していて二度と脳裏に現れることが無い。

 彼女の話していた地獄の地獄はどうやら回避できたのかしら? 

 ふと思い出す。

 でもね、今が辛いことも確かにあるのよ。生きる辛さもあるの。わたしの場合、それが特別大きく存在するでしょう? だからこそ全うするのよ。それじゃあ君はイエスキリストなのかいって訊くのでしょう? いいえ、違います。わたしは只のアバタ姫。麻婆豆腐でしかないのよ。作り物の顔なんか飽きてしまっているわ。だってそうでしょう? この世の中に偽りはいらないのよ。偽るだけ苦しくなる物なの。わたしはね、後悔しているのよ。何もかもに。

 

 カフェのテラスに風が舞い込んできた。真夏の西風だ。東京に居れば大陸風で生温かかったろうに、今は旅行で小笠原に居る。

 琢己もつれてきたかったわ。それから茜も。いいえ、茜はもう一心同体なんだものね。一緒にいるも同然だわ。

 

「ねえ。今夜、抱いてね」

 

 うふふ と、やよいはひとつ微笑んでから、木材でできた丸テーブル上にある花柄ラインが入った白いティーカップの抹茶ラテを、一気に飲み干した。

 

おわり

 

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