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その男、奇っ怪なり

 宮さん宮さんお馬の前に

 ヒラヒラするのは何じやいな

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 あれは朝敵征伐せよとの

 錦の御旗じや知らないか

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 

 一天萬乗の帝王に

 手向ひすろ奴を

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 覗ひ外さず、

 どんどん撃ち出す薩長土

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 

 伏見、鳥羽、淀

 橋本、葛葉の戰は

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 薩土長肥の 薩土長肥の

 合ふたる手際ぢやないかいな

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 

 音に聞えし關東武士

 どつちへ逃げたと問ふたれば

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 城も氣慨も

 捨てて吾妻へ逃げたげな

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 

 國を迫ふのも人を殺すも

 誰も本意ぢやないけれど

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 薩長土の先手に

 手向ひする故に

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 

 雨の降るよな

 鐵砲の玉の來る中に

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 命惜まず魁するのも

 皆お主の爲め故ぢや

 トコトンヤレ、トンヤレナ

 

 慶応四年に作成された日本初の軍歌『宮さん宮さん』であり、新政府軍の気勢を歌ったものである。戊辰戦争を意味したこの歌を、道すがらに兵士達が口にしたと言われている。

 まさに、この歌が表す通り。己の信念の為、志の為、魂の為に戦い、國の為、帝の為にと多くの命が散った激動の時代であった。

 

 

*****

 

 

 一八六七年、慶応三年。季節は春も終わりを迎えようとしていた頃の、弘前(今の青森)での出来事である。

 慌ただしくも荷車ががらがらと不規則な音を立て、集落から少し外れた診療所に到着した。荷車を引きずってきた男が一人、放たれたままの診療所の入口で大きな声を上げた。

「高島(たかしま)先生は、おらんかのう」

 男の着ける頬被りの下から、酷く汚れた顔が覗いていた。最低限の衣服を身に纏ってはいるが、それはぼろ布よろしく。褌まで泥に塗れたその姿から、到底医者に通える程の余裕はないと見える。

 奥から、林檎の頬をした少女の凛(りん)が顔を出した。

「権平太(ごんべえた)さん、こんにちは」

 この権平太と呼ばれる男とは対照的に、小奇麗な着物を纏った診療所の女中だ。

「高島先生は、お留守かのう」

 権平太が凛に尋ねると、遅れて屋敷の中からすらりとした娘の高島雫(たかしましずく)が現れた。

「どうされました?」

 軽く頭を下げる権平太に、診療所の主人であり女医の雫は、落ち着いて問うた。

「おらの畑で、人が倒れておったんです」

 言いながら、権平太は荷車の筵を捲った。

「最初は、盗人だと」

 

 ――その男、奇っ怪なり。

 

 手入れなくだらしのない総髪は見慣れない元結で無造作に結われており、着物の襟元や袖元からは薄汚れたひらひらした肌着が覗いていた。

 雫が顔に掛かる男の髪をそっと避けてやると、耳元に小さな石が見えた。

「耶蘇」

 権平太の呟きに雫は答えず、彼にこの奇妙な男を診療所の中に運ぶよう告げた。男の持ち物は、この時代には相応しくない南蛮を思わせる革の鞄一つであった。

 この時代、慶応三年の日本は、十月に行われる大政奉還に向け、激動の荒波に揉まれていた。

 止まらない時代の流れを何とか制しようとする幕府と、新たな時代をと気勢を上げる志士達とが激しくぶつかり合っていたのだ。

 大政奉還。二百七十年続いた徳川の世に幕を下ろすのと同時に、天を覆っていた龍が地を這う獅子に地上へと引きずり下ろされる事を意味していた。それは人々の心に不安を産み落としたのだった。鬱憤が、ええじゃないかと民衆騒動を起こさせた程だ。

 歴史に名を残した多くの人物が消え、生まれた年でもある。一月には夏目漱石、九月に正岡子規が生まれた。そして、四月に高杉晋作、十月に坂本竜馬、中岡慎太郎が逝去した。

 瞬きする余裕も無い程、時代は濁流のように流れていた。誰にも制することなど、出来るはずもなかった。

 雫は権平太に、この奇妙な男について他言しないように強く口止めした。

 つい最近の話である。長崎で耶蘇教徒が八十五人も捕縛されたと耳にしていたから、この男も命辛々逃げてきたのではないかと察したのだった。

 男を匿うことに対して、権平太も凜も一度は反対したのだが、雫は頑として聞き入れようとはしなかった。

「この方が、仮に耶蘇であったとしても。今は、病人に変わりがないのです。病人、怪我人を、私は見捨てることが出来ません」

 それは、雫という女医の生き方でもあった。

 雫の診療所から徒歩四半刻程の場所に、権平太の住まう集落があった。その集落はかつて村であり、診療所も村の中に存在していた。

 雫が、幼少の頃である。村に、奇病が流行った。それは、虎狼狸(=虎列刺)によく似てはいるが、虎狼狸(コロリ)では無かった。

 財のあるものは村から離れていった。貧しい者と病人だけが残り、村はあっという間に藩からも見放された集落と化した。

 医者であった雫の父は、自ら集落に残り、残った者達の治療にとあたっていた。

 だが、不幸にも雫の母はこの奇病に当てられ、早々に逝去してしまった。

 雫は、やむなく隣り村の父の友人である医者に預けられたのだった。

 幼い雫を残したまま、父も奇病のため病臥した。父が亡くなった時は、既に雫の中には強い覚悟が生まれていた。

 元服を終えた雫は、医者として父の志を継ぐと、周りの反対を押し切って父の残した診療所に帰還した。

「雫様、大丈夫でしょうか?」

 耶蘇を庇ったとあれば、いくら見放されていると云えど、この診療所も只では済まないであろう。凜が心配げに問うた。

「元気になったら、直ぐに逃がしてやりましょう。人の命を奪うことは、本来は誰にも許されない筈です。看護は私がしますから、凜は心配しないで」

 少女は、黙って頷くしかなかった。

 男は、酷く衰弱しており、脱水症状も酷かった。粥を食べさせ、白湯を飲ませ、ゆっくりと休ませてやった。

 三日程して、ようやく男の意識がはっきりとした。男が最初に言葉を発したのは、雫が粥を食べさせようとした時だった。

「すまない。わしは一体」

 そう言葉にするのが精一杯だったようで、雫は丁寧に説明してやった。

「畑で生き倒れていた所を、権平太さんがこの診療所に運んできてくれたんですよ」

 男は、大きく息を吐いた。安堵であろうか。

「貴方は、耶蘇……なんですか?」

 雫の問いに、男は答えた。

「耶蘇では無いよ。只の、西洋かぶれだ」

 男は小さく笑っていた。雫も胸を撫で下ろした。強がっても、不安を抱えていた事に変わりはなかったから。

 男は粥を食べ終わると、落ち着いたのか再び言葉を発した。

「お主、名前は?」

「高島雫です」

 男は、そうかと呟き、眠ってしまった。

 その晩の事だった。就寝前に男の様子を診ようと雫が部屋を訪ねると、部屋の障子と、その向かいの雨戸が開いていた。

 凜が閉め忘れたものだと思い、雫が近付くと、雨戸の隙間に人影があった。

「もし?」

 雫が声を掛けると、縁側に腰掛けていた男が振り向いた。

「雫さんと言ったな。こんな夜更けにどうされた?」

 男が飄々と問い返すので、雫は呆れて言った。

「貴方こそ。また、身体を悪くしますよ」

「今夜は、月が綺麗じゃの」

 見上げてみれば、満月であった。

「月というものは、何処で見ても変わらん。変わらんというものは、安心も出来るし、時に不安も感じるものじゃ」

 男が何を言っているのか、雫にはさっぱり解らなかった。

「――オーイ! ホーイ! 月の兎とホラサッサ」

 気分が良いのか、男が突然歌いだした。

「何という歌ですか?」

「知らん。今、わしが作った」

「…………」

 唖然とする雫を横目に、男は笑っていた。

 寝よう、寝よう、と這うようにして部屋へ戻る男の姿に、雫ははっとした。

「貴方の名前、まだ聞いていませんでした」

「雅巳。神代雅巳(こうじろまさみ)」

 雅巳は、再び妙な歌を口ずさみながら布団の中に戻っていった。

 

 勇み足の中でも、突如強い風が吹き抜けた時、人は思わず歩みを止める事がある。立ち止まった時、一体何を思うのだろうか。

 

 翌朝、雫が目覚めると外から雅巳と凜の声がした。慌てて障子を開けると、寝間着姿の凜と雅巳が廊下で何かを言い争っているようだった。

「何事です?」

 雫は二人に問うた。

「おお。雫さん。昨晩は良く眠れましたか? なあに、心配する事はない」

 またしても、雅巳は飄々と答えた。

「雫様! この方には、早々に帰って貰いましょう。耶蘇は、御免です」

 凜が、悲鳴を上げた。

「わしは、耶蘇ではない」

「いいえ! その身なり、持ち物。耶蘇以外に有り得ません!」

 雅巳は自分の姿を見直し、しょんぼりと呟いた。

「只の西洋かぶれだというに」

 話に置いてきぼりの雫が、我慢を切らした。

「凜! いい加減になさい。雅巳さん、貴方は一体何者なのです?」

 珍しく怒声に近い声を張り上げた雫に、凜は泣きそうな表情でその場にへたり込んだ。それを見た雅巳もその場に座り、軽く咳払いをした。

「わしは、只の浪士じゃ。盛岡(今の岩手)に向かう途中、あまりに空腹での。行き倒れた所を、雫さんに助けられた。とまあ、こんなところじゃ」

「この辺りは奇病続きで、藩からも見放されてしまいましたから。旅のお方には、さぞ厳しかったでしょうに」

「ああ、ある物と言えば少々古くなった供えの饅頭くらいじゃった」

 笑いながら楽しそうに話す雅巳に、雫は昨晩同様唖然とした。

「食べたのですか?」

 頷く雅巳に、雫は呆れ果てた。

「あの日は、酷い腹痛に薬草を探そうと努力しておった」

「うつけ者だ」

 嫌味を込めて、呟く凜。

「凜と言ったな。そうは言うが、人は飢えると見境がなくなるものだ。それは、今度でよくわかった」

 凜は何も言わず、ただ雅巳に軽蔑の視線を送り続けていた。

「雅巳さん。それで、凜と何を言い争っていたのですか?」

 雫だけは、冷静だった。それは、女医としての道を真面目一筋に歩んできた気性がそうさせたのかも知れない。

「言い争っていたなんて、とんでもない。わしは、一宿一飯の恩義として、家の手伝いでも、と」

「そんな元気があるなら、出てってくださいってお願いしたんです!」

 再び、凜と雅巳の言い争いが始まる。始まる前に、雫が入った。

「凜は少し黙って。雅巳さんは、盛岡に急がなくてもよいのですか?」

「弘前(ここ)まで来たら、急ぐ必要もない。何より本当に酷い腹痛だったから、二、三日で構わん。もう少しだけ、置いてつかあさい。何でもするから」

 雫は、少しばかり困って見せた。

「面白いお侍さんですね。私は、これでも医者です。無理に出てけとは言えませんよ」

 雫は思った。この雅巳と言う男、よく見れば侍と称するには優男過ぎる、と。盛岡に向かうも、歩みを止めるも、何か他にもっと理由があるような気がした。勿論、危険も考えた。だが、眉を八の字にしてまで懇願されては……医者として、突き放す事が出来なかったのだ。

「雫様は人が良すぎます」

 自分でも、解っていると言いたかった。

 家事を手伝うと張り切る雅巳を雫は彼の寝ていた部屋に押し込め、自らの部屋に戻って身支度を済ませた。凜が朝餉の準備を終えた頃には、雅巳も中途半端だった身支度を整え居間に現れた。

「雫さん、かたじけない。綺麗になっとる」

「洗濯したのは、凜ですよ」

「おお。よう働く娘だ。良い嫁になれる」

 凜は赤い頬を更に染めながらも、つんとした顔で雅巳の前にお膳を置いた。

「肌着は、有りませんでしたか?」

 彼が診療所に運ばれてきた時に着ていた、見慣れないひらひらした肌着を着用していなかった事に雫は気付いた。

 雅巳は、味噌汁を飲みながら素っ気なく答えた。

「凜に、また耶蘇だと言われるからな」

 朝餉をさっさと食べ終え、雅巳は早々部屋に戻ってしまった。

「あら? 雅巳さんは?」

 自分のお膳を手にした凜が居間に戻り、小首を傾げた。

「凜。頂きましょう」

 ようやく朝餉に手を付けた雫であった。

 夜は多少冷えるが、昼間は暖かい。今は雨も少ないが、梅雨は間近だ。江戸では、既に梅雨かもしれない。今は落ち着きをみせる奇病の流行も、毎年の事ながら梅雨になればまた流行る。

 安政五年五月の事だ。米利堅軍艦ミシシッピ号により長崎から持ち込まれた虎狼狸は、江戸での死者をたった二ヶ月足らずで三万から四万人も出したという。元々は、印度の風土病である。これも、異人のせいだと刀を取った者も少なくはなかっただろう。

 父や母を殺した奇病が、虎狼狸であったなら、雫の無念も怒りとして異人へと向けられていたかもしれない。だが、奇病が虎狼狸でない以上、雫は仇を取る代わりとして、奇病と闘うしか選択がなかったのである。故に、奇病の撲滅だけに人生を捧げた雫にとって、雅巳(余所者)の存在は想定外の出来事であった。

 雅巳の態度が気になった雫は、朝餉の後、彼の部屋を訪ねた。

「雅巳さん」

 声を掛けて障子を開けると、彼は畳の上で丸くなっていた。まるで、猫みたいだと彼女は思う。

「凜は、まだ幼いの。悪く思わないでやってください」

 丸くなった背中越し、雅巳は言った。

「気にするな。悪いのは、わしじゃ。世話になっとる身故、大人しくしているよ」

 ああ、ふてくされたのか。と思うと、雫の腹から急に笑いが込み上げてきた。お腹を押さえて必死に堪えていると、彼女の様子に気付いた雅巳が眉間に皺を寄せながら振り向いた。

「何が、おかしい?」

「否。おかしな、お侍さん」

 雫は、笑いを堪えながら逃げるように部屋を出ていった。

 部屋でぼんやりする雅巳の耳に、来院する患者の声や走り回る凛の足音が聞こえた。患者は主に集落の人間達のようで、畑がどうだとか牛の調子がどうだとか、海の様子がどうだとかそんな会話が聞こえてくるのだ。

 普通なら医者に通う余裕など無い者達である。

 雅巳が不思議に思い、部屋の障子を少しだけ開けて診療室の方向を覗き込むと、ぼろを纏った女と子がいそいそと部屋を出て行くところだった。

 凛と目が合った。雅巳は、凛に向かって手招きした。

「なんですか?」

 わざとらしく、少女はつんとした。

「そう、つんけんするな。めんこい顔が台無しじゃ」

 凜は、赤い頬をまた赤く染めた。

「忙しいところ、すまんの。この辺りの集落の人等は裕福じゃの」

 凜は、そんな事かと胸を反らした。

「いいえ、とてもとても貧しい方々です。ここの集落は、少し前はもっと大きな村だったんです。けれど、奇病のせいで財のある人々は逃げ去り、結果藩からも捨てられました。雫様は、奇病で苦しむ人々の世話と、貧しくて集落に残るしか無かった人々の為、毎日苦労していらっしゃるんです」

 そこまで話した凜を雫が呼んだ。まだ聞きたい事が山程あった雅巳だが、立ち上がった少女を止めるような事はしなかった。そして、一人になった部屋で呟く。

「立派なおなごがおるもんじゃ」

 と。

 雅巳は、暫く考えると意を決したかのように立ち上がった。

 診療室に向かう途中、男女判別が付かない幼児が雅巳に向かって深々とお辞儀した。彼は、反射的にお辞儀を返した。幼児はにっこり笑い、すれ違うように走り去っていった。

「あの子、一昨日の晩、下痢で苦しんでいたんです。良くなったみたいで、お礼にって」

 幼児の後ろを歩いてきた雫が、雅巳に掌に乗せた小さな貝を見せた。それだけで食べられる程の量では無かったが、その小さな手で一生懸命捕ったんであろう。まだ濡れた砂が付いていた。

「奇病じゃなくて良かったわ。雅巳さん、お茶でもどうですか?」

「ああ」

「凜。一息つきましょう。三人分お願いね」

 凜の甲高い声が廊下に響いた。

 少量の漬け物を乗せた小皿と、お茶の入った湯呑みが凜によって配られた。

「このお漬け物、お瀧(たき)婆がくださったの。とても美味しいから食べてみてください」

「雫様。お漬け物は、これで最後です」

「まあ残念」

 雅巳が漬け物を口に運ぶのを見届けながら、雫と凜が楽しそうに話す。確かに美味。

「酒が呑みたくなるな」

「うちには、ありません」

「そいつは、残念じゃ」

 雅巳は、茶を啜った。

「雫さんは、集落の人等の世話をしとると聞いたんじゃが、収入はどうしとるんじゃ? 貰える金も少なかろうに」

 少し心配そうに見える雅巳に、雫は笑いながら茶を啜った。

「お代は、戴いておりません。何日かに一度、隣り村の診療所に奉公に行くのです。凜もおりますから、少しは収入がないと辛いので。他に、先程の子のように、集落の方が食べる物を分けてくださいます」

「左様か」

 集落唯一の医者と言えども、決して裕福な暮らしをしている訳ではなかった。雅巳は、罰が悪そうに頭を掻いた。

「雅巳さん、気にしないでくださいね。私は医者。雅巳さんは患者」

 彼は、再び頭を掻いた。

 雅巳が行き倒れたのは、腐った饅頭の拾い喰いによる食中毒が主な原因ではあったが、他に飢えと長旅からの疲れもあった。金は少し持ってはいたが、食糧不足のため食べ物が手に入らなかったのだ。

 ようやく辿り着いた権平太の畑も、大した作物が実っていなかった。食中毒による衰弱と飢えと疲れで、彼はついに力尽きた。

 集落に住む人々は、少しの畑と漁で食を繋いでいた。漁といっても人手不足で大量に捕れはしないし、畑も潮の関係で作物の実りもいまいちである。元々は漁師村である。だが、見捨てられ食糧の確保に難しくなった為に、苦し紛れに人々は畑にも手を出さざる負えなかった。殆どは、陸を離れる事が出来ない老人か女、子供が畑仕事に精を出している。

「この辺りは、飢饉でもあったんかの? 弘前に着いてから、食糧が手に入らんようになった」

「随分と昔の話ですけどね。今は、マシになったと思います。奇病もその頃から流行り出して。けど、それ以前にこの集落は藩からも見放されていますし、他に村も少ないですから」

「雫さんの奉公先は、ここからどのくらい先なんじゃ?」

「ここから半刻程歩いた先です」

「離れとるのう」

「ええ、ですがその村も裕福ではありませんよ。食べる物に関しては、もしかしたら藩から見放されたこの集落の方が贅沢かもしれません」

 雅巳は、再び漬け物を口に含んだ。塩味がよく効いている。

「雅巳さんは、何処から来たのですか?」

 雅巳は、少し考えた顔をした。

「長崎から、逃げてきたんだわ!」

 凜が声を上げた。

「じゃから、耶蘇ではない」

「では、長崎には行った事がないんですか?」

「否。あるよ」

「へえ! かすていら、しょくらあとも食べた事があるんですか?」

「まあ」

「へえ! へえ! どんな、味なんですか?」

「甘いな」

「甘いって、お饅頭より」

「そうじゃの。黄色くて甘い」

 好奇心旺盛な凜は、身を乗り出しすぎて、雅巳の前に手を付いていた。その姿を、はしたないと雫が叱った。だが、また直ぐに少女は四つん這いの体勢に戻るのだった。

「そうじゃな。凜には、ビードロがいいかもしれん」

「ビードロ?」

「葱坊主のような格好をしとるが、世にも綺麗な葱坊主でな。吹くと、ぽっぺん、ぽっぺんと鳴りよる。他には、綺麗な着物……ドレスと言うのだが、ドレスを着た異人がいっぱいおるぞ。ドレスは、雫さんが似合いそうだ」

 黙って聞いていた雫が、驚いて目を開いた。

「ドレス、ですか?」

「そうじゃ。わしの肌着も肌着ではなく、ブラウスという異人の着物じゃ」

「ねえ! あたしは? あたしにも、似合うかな?」

「そうじゃな。凜には、難儀じゃの。あれは、乳がこうボンと大きくないと……」

 言いかけた雅巳の顔に、凜は平手打ちを入れると、泣きながら部屋を出ていった。

「雅巳さん!」

 咎めるように、雫が名を上げた。雅巳は、赤くなった頬を押さえながら弁解を口にした。

「つい、本音が」

 雫は呆れた顔で湯呑みと小皿を片付け始めた。

「雅巳さんは、部屋で謹慎しててください」

「はい」

 

 少し欠けても、名が変わるだけで月は月だ。満月を名残す月は、今夜も眩しいまでに銀の光を放っていた。夏の香りを乗せた、少し冷たい風が横切っていく。葉の擦れる音が、心地良く感じた。

 風呂を焚いていた際も、夕餉の時も、凜が一言も口を利かなかった事を、雅巳は気にしていた。話しかけても返事の一つも無かったのだ。そればかりか、雫ですらそれを当然の事の様に黙認していたのだから、流石の彼も反省していた。

 雅巳は、何かないかと唯一の所持品であった鞄をひっくり返してみる。と、その中に都合良く小さなビードロが一つあるではないか。

 はて? と考え、長崎を離れる際、馴染みだった妓(おんな)から貰った事を思い出した。私を忘れないで欲しいという、妓からの切なる想いであった訳だが、そんな乙女心も露知らず。雅巳はビードロを手に取ると、膝をぽんと叩いて立ち上がった。

「凜、起きとるか?」

 凜の部屋の前で、雅巳は呼びかけた。

「入るぞ」

 凜からの返事は無いので、雅巳は構わず障子を開けた。

 凜は、入り口に向かって布団の上で正座をしていた。

「昼間の事は、悪かったの」

 雅巳は相変わらずへらへらしながら言うと、凜の前でどかっと胡座を掻いた。

「凜。これが、ビードロじゃ」

 雅巳がビードロを吹くと、ぽっぺん、ぽっぺんと音がした。つんとしていた少女の相好が緩み、再び四つん這いのような体勢になって、ビードロを見つめた。

「どうじゃ。綺麗じゃろ?」

「綺麗だ」

 感心したような声を出す、凜。

「やる。昼間の詫びじゃ」

 凜にビードロを渡すと、雅巳は立ち上がった。少女の吹くビードロの音、ぽっぺん、ぽっぺんが、静かな部屋に響いた。

「あ、そうじゃ。凜はの、将来は雫さんに並ぶべっぴんになるから、気に病む事はないぞ」

 雅巳はそう残し、部屋に戻った。彼なりの陳謝であった。


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