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まえがき

  

 現在、あふれかえるほどの本が出版されています。ドキュメンタリー・小説・随筆・伝記などジャンルはさまざまです。また、日本人が出版したもの、外国人がその母国語で出版したもの、また、つい最近刊行されたもの、書かれて1千年以上が経過するものなどいろいろです。 

ところで、芥川賞・直木賞などを受賞した作品には、何百万部も売れ、ベストセラーにもなるものもあります。現代の日本のこれらの作品を読み感動することはすばらしいことだと思います。一方、長い時代をとおして人々に読まれ続けてきた「世界の名著」と呼ばれるものを手に取り読むこともまた大事なことだと思います。「世界の名著」といえば、学生時代に世界史や倫理の授業で著者と作品名を覚えたことを思いだす人もいらっしゃることでしょう。例えば、ダンテの『神曲』、ボッカチオの『デカメロン』やギリシャ思想のところでは、プラトンの『ソクラテスの弁明』や『饗宴』などがそうです。しかし、これらの本を実際に読んだことのある人はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。今でも著者とタイトルは覚えているが、その内容は全然分からないという人がほとんどではないでしょうか。無理もないことだと思います。仮に書店の訳本コーナーでそれを見つけて、ページをめくってみても、その内容が分かりにくく面白く読み進んでいけないからです。翻訳者が原文に忠実に翻訳しようとして、訳本の内容をかえって複雑にしてしまったり、専門的訳語を使うことにこだわったりするために、一般の読者が読むにはあまりにも難解な訳本に仕上がってしまっているからです。語学に習熟して原文を直接読める人は、原文では理解できるのに訳本となるとかえって分かりづらくなるという話を聞いたことがあります。 

 そこで私は、著者の本の内容をできる限り変えずかつ大胆に、われわれが通常耳にする日本語を使い、簡単に読める内容に改めました。完訳本を読んだと同じぐらいの理解と満足感を短時間で得られるように努めました。通勤・通学の電車の中でも気楽に読め、頭に入るものをめざして書きあげました。まずは、読むことによって、過去の偉大な思想家の著書に直接ふれてそのすばらしさを味わっていただきたいと思います。-誰でも読めるシリーズ-として順次刊行していきますので、どうぞ手に取ってお楽しみいただければ幸いです。  

 

 

 


 (1)

 私は、次のことをいろいろな人々から教えられた。

(祖父から)

穏やかでやさしい人柄と、何事にも怒らない落ち着いた心を持つこと。

(実父から)

節度ある態度と勇気ある心を持つこと。

(母から)

神を敬い、人にはものを惜しまず、悪い行いをしないばかりでなく邪悪な思いを抱かない心を持つこと。簡素な暮らしをして、質素な生活態度を守ること。

(曽祖父から)

公の学校に通わず、優秀な家庭教師の教育を受けることができたことを感謝するとともに、教育には金を惜しんではならないということ。

(偉大な先生から)

競走馬のレースに熱狂せず、労苦に耐えて、乏しい生活でも満足する心を持つこと。人にはお節介をせず、自分のことは自分でして人の手を煩わせず、人の悪口には耳をかさないこと。

(絵の先生から)

くだらないことに関わらないこと。不思議なことは口にせず、魔術やまじないを信じないこと。飼育している動物に気をうばわれないこと。人の指摘は素直に受け、哲学に親しむこと。法律を学ぶこと。幼くして書物を書くということ。毛布一枚と寝る所さえあれば十分だとすること。

(ストア派のある先生から)

良い人間となること、自分をみがくことの大切さ、上手な弁論に熱狂せず、理論のみの学説に走らず、道徳談義にふけらず、自分は努力家であるとか善い行いをする人間だとかを自慢せず、修辞学などしゃれた言葉に手を染めず、立派な衣服を着ることにこだわりを持たず、手紙は素直に飾らない言葉で書くこと。乱暴で無礼なけしからない振る舞いをしてきた者が自身の過ちを認め正そうとした時、すぐさま受け入れること。おおざっぱな理解の仕方に満足せずしっかりとその内容をつかむこと、口のうまい人にはすぐ同意しないこと。

(ストア派の哲学者から)

何事も偶然にゆだねることなく自分の意志で決断すること。理性的でない行動はしないこと。たとえどんな災難の中でも自分を見失わず、常日頃と変わらない態度でいること。また、同じ人間がある時は激しく、ある時には穏やかであることを知ること。人に何かを説明する時には、決して苛立(いらだ)たないこと。自分の豊かな経験と知識を惜しむことなく人に伝えることが当然だと考えている人がいるということ。好意のしるしを受け取るとき、相手に対して媚(こ)びることもなく、それかといって不作法に無視することもないこと。

(別のストア派の哲学者から)

親切な心。年長者を敬う家庭。「自然に従って生きる」というあり方。気取らないこと。友人の希望にそうように配慮する心。学がなく、非科学的なことを言う人々に対しても我慢(がまん)する心。別に人に対しておべっかを使うわけではないが、他人から尊敬の念を受ける人がいること。怒りなどの激しい感情を表に出さず、欲望に心が乱されることもなくいつも平静で、慈愛(じあい)に満ちていること。饒舌(じょうぜつ)に走らないこと。博学であるがそれを見せびらかせないこと。

(文献学者から)

他人のあげあしをとらないこと。乱暴で文法上不正確な誤ったことを言った者がいても、非難してそのことを責めることなどせず、彼が言えなかったことを一緒になって考えたり、またある時は暗示したりすることによって、うまくそれを話の中に持ち込んでやること。

(修辞学者から)

残虐(ざんぎゃく)な君主の心をむしばんでいくものは、人を疑う心、ずるがしこさ、本心ではないうわべだけをつくろった行動などであるということ。貴族とよばれる人々の多くが、温かい愛する心を持っていないこと。

(プラトン派の哲学者から)

「私は忙しい」という言葉をできる限り使わないこと。また、今やらなければならない用事があるという理由で、社会生活の中で自分が果たさなければならない義務を怠るようなことがないこと。

(別のストア派の学者から)

友人が無理難題を押し付けてきても、決して無視せず、常に仲の良い状態を保つよう努力すること。師に対しては尊敬の心を持つこと、また子どもに対しては、慈しみ愛する心をいだくこと。

(ペリパトス派の哲学者から)

家族を愛し、真理を愛し、正義を愛すること。政治的権利の平等と言論の自由を保障した民主的な政治体制をとっている国が存在すること。国王が支配しながらも、国民の自由を第一に尊重する国があること。哲学に対する変わることのない尊敬の念を持つこと。人に親切にすること、物惜しみせず施す心を持つこと。自分は友人から愛されていると信じ、そして愛されることを期待し続けること。自分が何を欲し、何を欲しないかを他人が推測するまでもなく、明確にしておくこと。

(別のストア派の哲学者から)

己(おのれ)に克(か)ちその場で生じた衝動に振り回されて行動しないこと。病気の時にも快活な心を失わないこと。温かくバランス感覚のある人柄であること。自分に与えられた仕事を不平も言わず行うこと。人の言葉を聞けば、それが心の底から発せられたものだと信じることができ、人の行いを見ればそれが悪意から生じたものでないことを信じられること。物事に驚かず、軽率な行動をとることもなく、物事にしり込みすることもなく、困惑することもなく、気落ちすることもないこと。愛想笑いをしたかと思えば、怒りをあらわにするようなことをしないこと。人をそねみ疑うことなどがないこと。慈善を行い、広い心を持ち、誠実であること。実直で正義からはずれた行動などをしないこと。人が私から見下されたと思うこともなく、人から自分が見下されることもないこと。明るく好ましいと思われる人間であること。

(養父から)

温厚であること。しっかり考えて決めたことは、簡単に変えてしまうことなどないこと。名誉にとらわれず、働くことを好み、困難にあってもくじけない心を持つこと。社会に役立つ提案をする人に対し耳を傾けること。人に対しては、その人に相応の対応をすること。力を入れる時と抜くときの加減を身につけること。少年への愛を慎むこと。他人の気持ちを思いはかれること。友人に伴に食事や旅をすることを強要しないこと。また、友人が私から離れた後、また近づいてきたとしても変わることなく彼に接すること。話し合いの場で出される意見に簡単に同調せず、詳細に検討を重ねる粘り強さを持つこと。友人に対しては飽きるような感情を持つこともなく、のぼせあがることもないこと。明朗な心を持ち、やたら何かを欲しがるようなことがないこと。先のことにも思いめぐらし、どんな小さな事にも準備を怠らないこと。他人の自分に対する賞賛やこびへつらいを拒否すること。たえず、政治に関心をもち、国家の財政を的確に管理し、かつそのために生じると思われる人々の非難攻撃には耐えること。迷信に惑わされることなく神を正しく信仰し、事実でないことを広めて人を扇動(せんどう)することがなく、民衆に対しこびへつらい機嫌とりをすることもなく、いつも正しく着実であり、洗練された感性をもち、新しいものばかりを欲しがることもなく、めぐまれた生活環境の中で暮らせることに得意げになることがないこと。言い訳をせず、手元にあるものを自然に使い、なければないで良いとしてあえて求めようとはしないこと。人から話が上手だとかおしゃべりだとか言われず、大人として認められ、他人ばかりでなく自分の行動も管理できる人間だと思われること。哲学者を尊敬しながらもそうでない人に対して否定的な態度を取らず、しかも彼らに引きずられることがないこと。適度な人付き合いができること。生きることに過度に執着することがなく、それだからといって無頓着(むとんちゃく)でもなく、必要最小限度の医療にたより、自分の健康に適切に配慮していくこと。ひいでた能力を持つ人に対して嫉妬心(しっとしん)をいだかず、それぞれの人が各々の得意な分野でその持てる力が発揮できるよう取りはからうこと。

すべて祖先の先例に則(のっと)りながらもそれをひけらかそうとしないこと。尻軽に動きふらつくことなく、じっくりと同じ場所、同じ事に腰をすえることができること。頭痛の発作のあとにもすぐに気力を取り戻し、いつも元気よく仕事に励むことのできる根性を持つこと。あくまで秘密は少なく、もしあるとしてもそれは公共のために必要なものであること。公共の催しを行ったり、公共の建築物をつくったり、あるいは国民への施しをする場合は、しっかり考えてその限度を踏み外さないこと。そしてそれは、必要であるから行うのであって、そこから生まれる名声には決して心奪われないこと。決めた時間以外に入浴することがなく、食い道楽でもなく、着る物にも過度にこだわらず、若き肉体の華やかさに心奪われることもないこと。冷酷でなく、乱暴でもなく、怒りやすいと言われることもないこと。十把(じっぱ)ひとからげにすることなく、物事を個別に考慮し、心乱されず平静で、首尾一貫した行動をすること。この世の誘惑に惑わされることなく節制をし、己を律し、不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を持つこと。

 

最後に、次のことは神々から与えられたこととして感謝する)

 

よい家族、よい親族、よい友人、よい師に恵まれたこと。また自分は偶然なきっかけで、彼らに過ちを犯さないとも限らないのに、誰に対しても過ちを犯すことがなかったこと。またその可能性を試すようなことを神がなされなかったこと。異常に早く純潔(じゅんけつ)を失うことがなく、長く童貞(どうてい)を守ったこと。自分を正しく導いてくれた父(国王)に仕えることができたこと。彼の教えで、贅沢品(ぜいたくひん)を必要とせず、簡素な生活をし、それにもかかわらず精神的に卑屈(ひくつ)になることもなく、皇帝として果たすべき役割を果たすことが大事だということを知ることができたこと。また、私を目覚めさせ、自己の魂を配慮できるように向かわせてくれたこと。さらに、尊敬できてかつ愛情をもって迎えてくれる兄弟を持つことができたこと。心身ともに健全な子どもを授かったこと。 修辞学、詩など学問において著しい進歩を遂げなかったこと。それだからこそ、それらに私はのめり込まず済んだのである。

わが師といえる人々に、適した時に彼らにふさわしい地位を授けることができたこと。「自然に従って生きる」ことの意味を心に明確に描くことができたこと。この世に存在するものは神によって配置されたものであるから、それらは「自然に従って生きる」ことに何の妨げにもならないことが分かったこと。もし、私がその境地にいたることができないなら、それは自分に罪があるということを認識できたこと。

自分が長い間、健康で暮らせたこと。恋に落ちても魂の健康を取り戻すことができたこと。後悔するようなことをしなかったこと。母は決して長寿ではなかったが、亡くなる前数年一緒に暮らせたこと。金銭に困っている人に援助をしようとした時、自分に金銭的に余裕があったこと。また、他人から経済的援助を受ける必要がなかったこと。子どもの教育のためのよき教師に出会えたこと。夢のお告げにより、吐血(とけつ)やめまいの時にも、よい治療法に出会えたこと。哲学を学ぼうとした時、詭弁(きべん)を使おうとする者や、机上論をふりかざす者に惑わされなかったこと。

 

 

 

 

 

 

 


 (2)

 私はたぶん今日も、お節介(せっかい)な人間や恩知らずの人、傲慢(ごうまん)な輩(やから)やうそつき、さらには人を非難したがる人間や非社交的な人間に出会うことであろう。なぜ、彼らはこのような悪い性質を持っているのか。おそらく彼らは、自分がそのような性格であることを悪いことだとは思っていないからであろう。
 しかし、私は彼らと付き合っても彼らから悪い影響を受けるようなことは決してない。なぜなら、私は善とは美しいものであり、悪とは醜いものであることをよく知っているからだ。また、彼らも私と同様に理性というものを持ち、神からひとかけらではあろうが、その神の性質を分け与えられてこの世に生まれてきた者であること、さらには彼らと私は、手と足や上のまぶたと下のまぶたの関係と同じように、協力し合うためにこの世に生まれ出てきたことを知っているからである。そのような人間たちが互いを悪い方向に導きあうことなどないのである。同様に、私は彼らに怒りをいだいたり、彼らを避けたりすることもない。人間同士が互いに怒りをいだいたり、相手に背を向けたりするということは、自然の本性に反することなので、あってはならないことなのである。 

 私という存在は、肉体と呼吸、そして私自身を支配・統率する精神の三つから成り立っている。肉体とは何であるか。それは単なる臓器の集まりに過ぎないものだ。それほど重視すべきものではない。それでは、呼吸とは何か。それは、そのつど異なるものを吸い込みそして吐き出す営みにすぎない。しかし、三つ目の私自身を支配・統率する精神とはそれらのものとは異なるのだ。お前は十分に分別の持てる年齢になっている。この精神というものを決して肉体や呼吸の支配下に置くようなことはするな。そして、公共のことを無視するような欲求に操(あやつ)られるな。現在の運命に不満をいだくことなく、同時に未来の運命に疑いの目を持つようなこともないようにせよ。

  この世は、神々の完全なる摂理(せつり)に満ちている。運命も自然の本性に従って進んでいる。この世に欠けているものなど何もない。すべては、この摂理より生まれ出たもので出来上がっている。この摂理や本性に従うものはすべて善である。すべての事物は変化するではないかとお前は言うかも知れないが、それも宇宙の摂理を保つために必要なことなのである。以上のことをお前は心して、このことをお前の信条とせよ。不平をこぼさず、真に優しい心を持ち、神々に感謝して生きよ。生きるうえでの知識を、やたらに書物をにのみ求め、そこから得ようとするような態度は止めよ。お前は自分のしなければならないことをせず、どれほどの月日を無駄に過ごしてきたかを考えたことがあるのか。神々からその都度、猶予(ゆうよ)をもらいながらもそれを活用できずに来たことを自覚しているのか。お前には、今すでに次のことが当然のこととして分かっていなければならないはずだ。それは、お前を生み出した宇宙はいかなるもので、その宇宙を支配しているのは何ものであるのか。またお前に与えられた時間には限りがあり、それを大事に使わねば、永遠に去り二度と戻ってこないということが。 

 どんな時にもお前は次のことをしっかりと頭に入れ、肝に命じよ。仕事は偽りのない態度で親愛の情をもって、自由な精神と正義にかなう方法ですること。そして、すべてのことを、慎重に、正しく、利己心からではなく、運命への不満などから離れて、それが一生の最後の行為であるかのように行うのだ。そうすれば、そこに安らぎが生まれる。お前が心し、なすべきことはそれほど多くはない。それだけで十分である。

自分の顔に自分で泥をぬるようなことはするな。自分を尊べ。お前のこの人生は一回限りのものである。もっと自分に対して畏敬(いけい)の念を持て。お前の幸福は他人が決めるものではなく、自分自身の心が決めるものだ。外からお前の身にふりかかることで、自身の心を乱して正しい道からはずれることがあってはならない。暇を見つけては善いことを習得し知識を増していくのだ。日々の生活の中でいたずらに右往左往(うおうさおう)することは止めよ。また、目の前の仕事をこなしていくことのみに心をくだいて疲れ果て、人生のその他の目標を見失うようなことは愚かなことだと自覚せよ。

 他人が今、何を考えているかを知ることができなくても何ら不都合はない。大事なのは、自分の心の動きにたえず注意を向けることだ。宇宙の原理と自分の本性とはどういう関係にあるのか。また宇宙の原理とはどのようなものであるのか。そして自分という存在はその宇宙の原理のいかなる部分を構成しているのか。これらのことをお前は、心の中で常に問い続けなければならない。また、お前がこの宇宙の根本原理に則った行動をする限りにおいて、その行動を妨げることのできる人間など決して現れないということを心の中に留め置かなければならない。

 欲情による過ちは、怒りによる過ちより罪が重い。なぜなら、怒りにより過ちを犯す者は内面的苦痛や良心の呵責(かしゃく)に悩まされながらも理性に背くのだが、欲情に駆(か)られて過ちを犯す者は、ただ単に快楽に負けるだけのことだからだ。怒りは例えばわが身に不正を受け、やむにやまれず発生に至るとも考えられるが、欲情とは単なるよこしまな感情が起こったに過ぎないとも言えるのではないか。ゆえに、欲情により過ちを犯す者は、自分の心を抑制できない女々(めめ)しい人間だと言え、人々の非難をより多く受けるべきだということは当然なことだと考える。

   いつこの世を去っても良いように為すべきことを行い、発言し、考えるのだ。もし神が存在するなら、この世から去ることは何も恐れる必要のないことだ。なぜなら、神がお前を悪いことに巻き込むことなどないからだ。また、もし神が存在しないか、仮に存在していたとしても人間のことなどに何の関心も持っていないのならば、そんな世の中に生きていてもお前には何の意味もないのではないか。しかし、現実に神は存在し、人間のことを気にかけ、人間が悪に陥らないように人間にあらゆる力を与えているはずである。その神がなぜ、この生きている人間を悪い方向に導いていくことがあるであろうか。神とも言える宇宙の摂理が諸悪を知らないはずはないし、知りつつ過ちを犯すということもありえないのだ。また、当然、神は善人にも悪人にもすべて平等に物事を生じさせるということもないのだ。だから、もし、善人にも悪人にも等しく生ずるものがあれば、たとえば死も生も、また名声も不評も、財貨も貧乏もそうだが、善いものでも悪いものでもないのである。

 無限とも言えるこの広大な宇宙からすればこの世に存在するすべての物、また永遠の時間からすれば、人間の感覚や記憶、人を気持ちよくさせる虚栄心(きょえいしん)や他人からの賞賛、あるいは逆に人を苦しめる恐怖などは、いかに安っぽくはかないものであることか分かるはずだ。死とは何なのか。恐ろしくて忌嫌(いみきら)うべきものなのか。いや、死とは自然な営みであり、自然を益するものであるのだ。もし、それを恐れるというなら、それは子どもじみた愚かな振る舞いと言えるのではないか。

 また、人間はいかにして、いかなる部分がいかなる状態にある時に神に相対することができるのかも考えてみよ。最も憐れな不幸とは、他人の心の内をあれこれ詮索(せんさく)するくせに、この世の真理を正しく認識していないとである。そのようにならないためには、自分の中にわき起こる情念やこの世の出来事に対して生ずる不平不満に心が汚されることなく、わが身を常に清らかにに保つことが必要である。

 また、神からもたらされるものには絶えず畏敬の念を持ち、他人からもたらされることには、この宇宙において人間同士は同胞であるがゆえに好ましいものであるものとして歓迎することだ。ただ、人間によって引き起こされることは、その人間の無知のゆえに、善もあれば悪もあることは承知しておくべきだ。

 たとえ3千年、いや3万年生きようとも、今のこの命以外のことをあれこれ考える必要はない。今のこの命以外のものは、初めから持っているものではないので、得ることもなければ、失うこともない。ただ、どんなに永らえてもいつかは、ただ一つのもとに帰っていくだけである。現在あるものは万人に対して等しくあるものであり、消滅するものは、われわれには無縁なものである。過去も未来も失うことなどありえない。なぜなら、現在持っていないものを、人は失うことなどできないからである。
 次の二つのことを肝に命じよ。一つは、万物は永遠の昔より同一不変で未来永劫回帰(えいごうかいき)するものである。だから、たかが人間の一生のうちに変わるところなどありえないということ。二つ目は、人は長生きしようが早く死のうが失うものには変わりはない。現に持っているものを失うだけで持っていない多くのものなど失いようがないということ、その二つである。

 すべてのことや物とは、つまるところ人の想いにすぎないのだ。そして、人間の想いである魂は、その人間本人を痛めつけることがあることを注視せよ。それでは、それはどんな時起こるのであろうか。第一に、その魂が宇宙の摂理に従わない時である。それは宇宙の原理原則から離れた時を意味する。第二に、他人に背を向けたり、刃向ったりする時である。第三には、快楽や労苦に自分が屈服する時である。第四には、偽善な行為を行ったり、嘘をついたりする時である。第五に、筋を通すことなく、でたらめに物事を行う時である。

 人間の一生など点に過ぎず、肉体は朽(く)ち安く、魂は狂乱の渦にすぎない。運命など誰にも分からず、名声も不確実なものである。肉体は流れる河であり、魂は夢であり煙である。人生とは一時の滞在に過ぎず、後世の評判など忘れ去られるものに過ぎない。それなら我々を護(まも)り導くものは何か。それは哲学のみである。それでは、その哲学とは何であるか。自分をおごらず、かといって卑下(ひげ)することもなく、快楽と労苦に打ち勝ち、欺瞞(ぎまん)と偽善ででたらめに行為することなく、他人に対し何かをしてくれるようにあるいはしないように求めることもしないことだ。

 また、自分とは天から生まれ、その一部分であるということを受け入れることである。そして死を心温かく迎えることだ。死はすべての生物の構成要素の変化にすぎない。すべての要素がその構成の仕方を変えるだけのことだ。なにゆえ、それを恐れる必要があるであろうか。死とは自然の本性に従ったものではないのか。自然の本性に悪というものは、絶対に存在しないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


(3)

 人間は人並み以上に長生きできればそれで幸せだというものではない。大事なことは、この世に存在するもの、また神々のこと、人間のことについて知りつくそうとする精神的エネルギーをいつまでも失うことなく生き続けているかということである。人はもうろくしても、呼吸する、食べるなどの欲求は消えることはない。しかし、自分がなすべき務めを自覚し、現象を明晰(めいせき)に分析し、心眼でもって物事を見るような能力は、失われやすいものである。それゆえに、そのような精神は、いつも心して働かせるようにしなければならないのである。

 自然はわれわれに優美さと魅力を与えてくれる。焼きたてのパンのひび割れているところにわれわれは食欲をそそられ、イチジクは熟したときに裂け、オリーブは腐る寸前が最も美しい。稲は実った時に低く頭を垂(た)れる。ライオンの眉間の盛り上がったところ、イノシシの口から流れる泡など、それだけを取り出せば、美しいとはいえないが、それらが自然の中で生ずる時には、それらを見た人々はそれに心を引かれるのである。宇宙に生じる諸々のものも、人が感受性や深い心を持ちそれをながめるなら、その心に楽しくうつるはずである。獣の大きく開いた口も美であり、老人の成熟も美であり、子どもも魅惑的なものである。ただこの心情は、自然の営みに親しんでいる人間にしか感じることができないものなのである。

 ある多く患者を治療した偉大な医者も病によって死んだ。人々の死を予言した占い師自身もその定めに従い死んでいった。偉大な戦績を残した指導者もついにはこの世を去った。宇宙天文の研究家も同じように自分の身体の不全により死んでいった。どんな偉大な人間もすべて最後には死んでいったのである。彼らは人生という船に乗船し、航行し、そして下船したのである。下船したのちに、新たな地に上陸するがよい。そこが現世とは違うところであっても、そこに神々がいないはずがない。もし、そこでの存在が無感覚の状態なら、もはや肉体の苦楽に悩まされることはなくなる。肉体とは精神と比べれば卑しく、劣ったものにすぎない。そこでは、もはや肉体に束縛されることもなくなり、理性・神霊のみに気を配ればよくなるのだ。

 お前は、残されたその生涯を公益に貢献しないことに費やすべきではない。つまり、誰々が何を何のためにしているとか、また何を言い何を思い何を企んでいるとかに気をとられ、それらを詮索(せんさく)することに時間を浪費するなということだ。

 また、心に沸き起こる分けのわからないこと、よこしまなよけいなことに心奪われてはならない。たとえば、今、突然人から「お前は何を考えて行動しているのか」と問われても、「こういうことです」と堂々と答えられるような考えでもって絶えず行動せよということだ。それなら、それは具体的にはいかにあれということか。まず、単純直接で好意にあふれ、快楽・享楽・勝利欲・嫉妬心(しっとしん)・猜疑心(さいぎしん)などから離れたものでなければならない。また、恥ずかしくて他人にはとても言えないような心の持ち方であってはならないということだ。これらの思いをいつも心に持ち行動する者は、心の内に湧き出る快楽にその心が汚されることもなく、労苦に苦しむこともなく、傲慢(ごうまん)さに損なわれることもなく、邪悪に影響されず、情念に打ち負かされることもない。さらに、心の中まで正義感がみなぎり、天のもたらすすべてのものを悦(よろこ)びでもって受け入れ、他人の言葉や思いに惑わされることもなく、公共のこと以外で心を惑わされることはなくなるのだ。
 そのうえ、その者は、自己の務めを果たすことのみに心をくだき、天より与えられたものをすべて良いものだとする信念を持っている。なぜなら、それらの運命もまた自分と一緒に天よりもたらされたものであることを知っているからだ。またそのような人間は、万人のことを考えて行動することは人間の本性にかなった良いことだと信じており、このようなあり方を理解しない、自分に満足しようとしない連中が自分に持つ評判など気にせず、ありのままに生きる人々の評判のみを気にかけるのである。

 公共のことを無視し、よく考えずに行動すること、自分の意思に反した行動をとること、これらは避けなければならないことである。自分の心を飾りたてるな。つまらない行いはするな。口数は少なくあれ。統率者としての地位を退くことも、死を迎えることも、その時が来たと判断したらいさぎよくあれ。さらに、明るく、他人に頼ることなく、自らの力で日々の暮らしをせよ。

 正義・真実に則り、慎み・勇気を持って行動するならそれで十分であり、あとは天命に従って生きればそれでよい。そして、自分の内にある感覚的誘惑に引きずられることなく、絶えず人々に配慮して生きる姿勢を持ち続けよ。特に、一旦正しい道から外れたことを行うと、もはや正道に戻ることが困難となるようなことがこの世には比較的多くあることを心せよ。例えば、他者からの賞賛・支配欲・富・快楽などは一時的には我々の心と調和するが、突如として我々を良くない方向に導くものだ。信義にそむくこと、心が濁っていること、人を憎み、そねみ疑う心を持ち、偽善に走り、そして人を呪うこと、そのようなことを自分の心にもたらすようなものを捨てよ。人間、それらを捨て去ることができれば、悲しみから離れ、ため息をもらすこともなく、孤独にさらされることも、喧噪(けんそう)に悩むこともなくなるのである。さらに、物事をやたら追いかけもせず、それかといってむやみに避けることもなく、また長く生きるか、早く死んでしまうかに頭を悩ますこともなく、その時が来たと思ったら潔く清らかに死を迎えることができるのである。

   自分の悪いところを絶えず正し、自分を磨(みが)き、清浄で無垢(むく)な人間であれ。そのような人間は、自分の人生を全うする前に、早死にしてしまうようなことなどないであろう。人生の役割を果たす前に、人生から降板することはない。そればかりか、そのような人間には、奴隷根性も虚飾(きょしょく)の心も宿らず、人と結びつきすぎたり、あるいは離れすぎることもない。さらに、他人に対し自分が身動きが取れないほどの責任を肩に背負うようなこともないし、その逆に、人から離れて身を隠すような生き方をする必要もなくなる。

 自分の意見を正しく述べることのできる能力を磨け。また、必要最小限のものだけを持ち、それ以上のものは捨てよ。人はすべて今という束(つか)の間を生きているにすぎないことを忘れるな。過去は終わったことだし、未来は不確定なのである。人生は短く、その占める場所も大地のほんのひとすみにすぎない。名声とて、それを語る人間さえも泡のごとく消えてしまうのである。お前だって過去の人間の名声など知る由もないであろう。

 自分の心にいろいろと思いを抱かせるものが何であるかを明確に認識することが大事である。また自分の人生にふりかかることをしっかり見極(きわ)め、吟味(ぎんみ)することが重要なことである。それらは、宇宙の中でどのような役割を果たし、他の物とはどのような関係で有効性を発揮するのか、また人間に対しては何を利するのかなどである。さらに、それらは何からできているのか、いつからいつまで存在するのか、何を必要としているのか、神から与えられたものなのか、偶然に生じたものなのか、仲間からもたらされたものなのかなども知りおかねばならない。それを知っているからこそ私はそれらを、その価値にふさわしいやり方で有効に使うことができるのだ。

 幸福な人生を送ろうとするなら、次のような態度で生活すればよい。正しい理法に従って真摯(しんし)にかつ力強く、人に対しては善意にあふれ、自分の務めを真面目に果たし、すべきでないことはせず、自分の心を清く保ち、いつ死んでもよいだけの覚悟で生きることである。また、どのようなことを行うにしても他者に何も期待せず、他者を避けることもなく、ただ真心をもってひたすら自分がなさなければならないことをただひたすらなすだけである。このような生き方をすれば、それを妨害するような人間など現れない。

 医者は、急患にそなえていつもメスなどの道具を手元に置いている。同様にお前は、神と人間とは結びついていることを絶えず認識し、すべてのことを念頭において、事を為さなければならない。生き方について知るために、著書に知識を求める必要はもはやない。ともかく、自分の人生の目的に向かって進むだけだ。いたずらに多くの望みをもつことを止め、自分が大事であると思うことのみを行え。

 いろいろなものを肉体の目ではなく、心(理性)の目で見て正しく判断せよ。肉体は感覚・知覚を形作っているものですべての動物に備わっているものである。それなら、心(理性)とは何であろうか、それは人間だけに備わっているものである。もし、欲求に操られるだけの生活しているのであれば、それは単なる動物にすぎないことを意味する。ただ、仮にそれらを統御(とうぎょ)できるとしても、神を信じず、単に義務として行っているだけの者は、外面をつくろっているだけに過ぎず、鍵をかけて家の中でひそかに悪事をはたらいていることと何ら変わりはないのである。
 それなら、理性を持った善人とはいかなるものか。それは天から生み出し与えられるものを愛し、それを悦んで受けとり、自分の心を汚すことなく、いろいろな想いに心を惑わされることもなく、柔和で、神に慎み従い、真実に背くことせず、正義にかなった行動をする人間である。ただお前は、たとえそれらのことが理解できない人間がいても、彼らに対して怒ることがあってはならない。たえず、身を清く保ち、もの静かで、くつろいだ気持ちを持ち、己の運命に従い、無理なく、向かうべき人生の目的の道からはずれることなく生きていくことが肝要(かんよう)なのである。

 


(4)

 天より与えられるものに、変幻自在に適応できるように柔軟な心を持て。自分の人生の目標にまい進し、同時にその途上で生じてくるものを、その目標達成のために活かしていけ。例えて言うなら、小さな火は、たとえ燃える材料となるものでも、それらが一度に多く投げ込まれれば消えてしまう。しかし、燃え盛る大きな火は、それらをすべて材料にして、ますます、その火の勢いを増していく。この大きな火のようにいろいろなものを吸収し材料として生きて行けということである。

 どんな行動もでたらめにしないで、その規律に従って行え。人間は憩(いこ)いの場所として田園や海浜や山地を求める。しかし、自己の内に憩える場所があることを忘れてはならない。自分の中に良い秩序を持てば、そこに安らぎの場所があるのだ。保たれた秩序ある心こそが快適な憩いの場所であるのだ。日々の生活に疲れれば、そこで憩い、そしてまた新たな生気でもって日々生活すればよい。

 何をお前は、そんなにいみ嫌うのか。他人の悪か。すべての人間はお互いのために生まれてきたのだ。忍耐とは正義の徳の一部なのだ。人は過ちを犯そうとして犯しているのではない。今までにどれだけ多くの人間が他人に敵意を持ち、憎み、争い死んでいったことかよく考えてみよ。お前のそのいみ嫌う気持ちを捨てよ。

 第一、この世に分かち与えられたものに対して何故嫌う感情を持つのか。それとも、この世に存在するものは単なる偶然による原子の集合体とでもいうのか。この宇宙はいわば国家と呼べるような、秩序ある組織体であることは承知のはずではないのか。それとも、お前の肉体が足枷(あしかせ)となって、精神が解き放たれず、そのような良からぬ考えに支配されているのか。あるいは、名声というものに心を乱されているのか。人の名声などすぐ忘れ去られる。後世の評判などむなしいものである。仮にお前の賛美者などという者が現れても、彼らは批判精神が欠如した者たちでかつ変わり身は早い者であることを忘れるな。たとえ、この狭い土地の片隅にお前を将来ほめる人間がいたとしても、どれだけの人数でかつ彼らがどれほどの人間だというのか。悩まず、憤らず、自由な市民、一個人として、死すべきものとしてすべてを見よ。

 そして、次の二つのことを心にとどめよ。一つは、お前の苦悩は外の事物がお前にもたらすのではなく、お前の内部の考えが生み出しているものだということ。二つ目は、お前の目の前にあるものなどやがて変化し存在しなくなるものであるということである。生きるということは主観による判断にすぎないのだ。

 理性が普遍的なものなら、法もまた普遍的なものである。法が普遍的なら国家も普遍的なものである。国家が普遍的ならわれわれが存在する宇宙も普遍的なものだ。その普遍的な宇宙にまさにわれわれは生活しているのである。そして畏(おそ)れ多くもこの宇宙からこれらの法や理性が生み出されたのである。それ以外にこれらを生み出したものなど存在するはずがない。

 死とは本質的に生と同質の神秘的なものである。生は同一不変の元素の結合であり、死とはその元素への分解である。死は何ら恥ずべき、卑下すべきものではない。なぜなら、死とは理性的動物の本性に必然的なものであり、自然の理法に反していないからである。死とはどんなものに対しても不可避なものである。この事実が受け入れられない者は、植物が花をつけ実を実らせることを欲しないものである。人生とは束の間であり、死後、人々の心の中に自分の名前がきざまれているのもわずかな期間であることを心にきざめ。

 自分中心の考え方を取り除けば、自分が害されたという思いは消え去るのだ。自分が害されたという思いを取り除けば、自分に対する害そのものも消えていくのだ。自分の人生を悪くしたり、損なったりするものはいなくなるのだ。また逆に自分にとって有益なものは、その役割を果たしてくれるはずだ。すべてこの世で生起することは、しかるべき意味があって生じるのだ。このことをしっかりと認識すれば、人生において見落とすことなどなくなる。たとえていうなら、なぜこの順序で生じたのか、何のために生じたのか、どのような力が働いて生じたのかを知ろうとして、それを理解することである。このことをいつも心にきざみこんで行動せよ。それが「善き人」となる一つの道である。傲慢な振る舞いでお前に害を与えるものがいたら、彼らがいだく考えや、彼らがお前にいだかせようとする考えを決して受け入れるな。絶えず、真理というものだけをとおしてすべてを見よ。

 天が人間のためを思って命ずることのみを実行せよ。また誤れるお前を正しく導いてくれる者がそばにいるならば、心改めてその者に従え。ただし、その改心は、それが正義にかない公共の利益になるとすべての者が認める時のみ行うのは当然のことである。つまり、そのように改めた方が見た目がよいとか評判がよいからなどという理由で行ってはならないということである。

 お前は、理性を持っているのか。持っているならなぜ、その理性を用いないのか。理性が本来の働きをしているなら、それ以上にお前は何を求めるというのか。お前は今、この世界にその一部分として存在している。そしてお前は、やがて、そのお前を生み出したものの中に再び帰っていくのだ。言い方を変えれば、お前を生み出した理性の中に再び受け入れられるのだ。すべてのものが、この世に産み落とされ、また元の所に帰っていく。遅いか早いかの違いはあっても、すべてのものに例外などない。お前は今、人々から猛獣だ、猿だと思われているだろうが、もし、お前が万物の原理に立ち戻り、理法に崇敬(すうけい)の念をいだくようになれば、お前をさげすんできた多くの者の目に、やがてお前は神ともうつるようになるであろう。

 自分は1万年も生きながらえることになっているとでもいうような生活態度を改めよ。死は間近に迫っているのではないか。善き者となることが可能なうちに善き者となれ。回りの者が何と言おうと、どんなことをしようと、何を考えようと、そのことを気にするな。お前は、自分がひたすら正しく善にかなうと信じた行動をすればよいのだ。そうすれば、生活にゆとりの時間が生まれる。人の心の中をあれこれ覗(のぞ)き見することを止めて、自分の目標に向かってわき目をふらず、まい進せよ。

 死後の自分の名声などにとらわれるな。お前はもちろんのこと、お前を知る者も次から次へと死んでいくのであり、その後継者もまた死んでいくのだ。記憶は一時的には受け継がれるであろうが、間もなくそのすべては忘れ去られるのだ。仮にその記憶が不滅だとしても、それがお前に何の意味を持つというのだ。それだからといって、故人の業績を意味のないものだと言うわけではない。今生きているお前が、賞賛を得るために何かをするということにどんな意味があるのかということを言いたいのである。ともかく、お前が人の評判のみを気にかけて行動しているので、このように諭(さと)したのだ。

 美とはそのもの自体が美を持ち、そのものだけで完結するものである。それが賞賛を受けようと受けまいとその美がよりよくなるわけでも、より悪くなるわけでもない。それは自然の事物についても、法や真理、道徳などすべてのことにもあてはまる。黄金も象牙(ぞうげ)も賞賛されようとされまいと美しいことに何ら変わりはないではないか。

 もし魂が永遠に存在し続けるなら、大気はどのようにして増え続ける魂にその場所を提供してきたのであろうか。また死体も永遠にそのままなら大地はそれらにどのようにして場所を提供してきたのであろうか。つまり、われらの屍(しかばね)は、分解し次のものの血と肉となり、その場所を次のものに引き渡してきたのである。魂も同じである。しばしの間大気中にとどまるではあろうが、やがては変化流散し、万物の根源にもどり、次の魂にその場所を提供してきたのである。いや人間だけではない。我々は、日々どれだけの数の獣を食べ、体内にて埋葬(まいそう)し、それを自分の血と肉に変えていることであろうか。しかし、そのことにより、それらのものにもまた新たな場所を提供しているのでもある。

 心を外に向けて煩うことはやめよ。何かをしようと思う意志が芽生えたら、まず心を内に向け、正義にかなった行動をしながら、自分の理性がいつも最善となるような状態に保て。宇宙に調和したものは、自分にも調和する。宇宙にとって好機なものは、自分にとっても早くも遅くもなくいつも好機である。自然が今必要だとしてもたらすものは、ことごとく自分にとっても実りの時である。すべてのものは、お前より出て、お前の内にあり、お前のもとに帰ってくると言えるのではないか。

 自分の理性が求めることをそのとおり行なえばよい。余計なことはしなくても、それだけで十分である。そうすれば、嘘やごまかしのない人間となれる。われわれの日々の生活には言わない方がいい、しない方がいいものが結構多くある。それらを捨て去るなら、生活にゆとりもでき、心乱されることも少なくなるものだ。いつも事を行うとき、これは必要不可欠なことか自分に問いかけよ。行いだけでなく想念もそうだ。これは必要な想念なのかいつも問え。必要でない想念を取り除くことによって、人はすべきでないこと、する必要のないことをしなくなるのである。

 自分に与えられたものに満足し、自分の行いを正しくし、心を優しく親切にするにはお前はどのようにあればよいか考え、そしてそれを試みてみよ。心を乱さず、単純素朴な心の持ち主となれ。誰かが過ちを犯しても、彼は自分自身に対してそれを犯したのであり、お前とは何の関わりもないものなのだ。たとえそのことにより、お前の身に何かが起こったとしても、すべてのことは、悠久(ゆうきゅう)の太古より宿命づけられたものであることを知れ。
 人生は短い。現在ここで、自分の人生の成果を摘(つ)み取れ。いつも正しく冷静であれ。いたずらな過度の緊張に陥ることなく、心のびのびと生きよ。この世は秩序つげられた世界か、あるいは無秩序の単なるものの集まりかのどちらかに過ぎないのだ。ただ、よく考えよ。お前だけに秩序というものが内在していて、おまえ以外の外の世界は無秩序の集合体に過ぎないということがあるとでも思うのか。

 腹黒い人柄、女々しい人柄、頑固な人柄、粗野で残忍なもの、怠惰なもの、暴君的なものなど、国家の法から逃れるものが亡命者であるように、宇宙に対して明確な認識を持たないもの、宇宙が生み出した事物をそれと認めないものは、宇宙に対しての異邦人、宇宙の吹き出物だ。心眼を閉じる者は盲目であり、自分の生活に必要なものを自分で獲得しようとしないものは乞食()である。

 この世に起こる出来事に不満を持ち、自然の本性から独立して生きようとするものは宇宙の吹き出物だ。なぜなら、その本性がお前を生み出したのだし、すべての事物・出来事を生じさせたのは宇宙の本性そのものだからだ。ある者は肌着も着けずに哲学を究(きわ)め、ある者は書物も持たずに哲学をなす。ある哲学者は「私はパンを持たないが、理性は持っている」と言ったという。さて私は、学習で得られるような知識は持たないが、理性は堅持している人間だ。

 お前が今まで学び手に入れた知識・技術は、わずかなものであるかもしれないが大事にし、信頼してそれに身をまかせよ。残りの人生を生きるにあたり、神に心からゆだねる心情をもち、人々に対しては決しておごらず、また奴隷的ないやしい態度もとるな。

 過去の偉大な皇帝に統治されていた国を思い浮かべて見よ。そこにも、今われわれがこの国で目にするすべてのものがあったであろう。人々の結婚、子育て、病気、死、戦争、そして田畑を耕す人、他人におもねる人、傲慢な振る舞いをする人間、偽善をおかすやから、陰謀をたくらむやから、さらに人の死を祈るような人間、天命に不平をこぼす奴、金をためこむ人、高い地位を望む人間。ただそのような国も今はなくなってしまっている。

 また、違う偉大な皇帝に治められた国を見てみよう。その国も同様なことにあふれていたが、そこもまた今は存在しない。今まで数えきれないほどの国の中で、多くの人々がこのような暮らしを送ってきたが、それらも、すべてなくなり、すべての人々は命を終え、諸元素に分解してしまったのである。しかし、どのような状況にあろうと、お前は一時の悦楽にふけり、自分のなすべきことを怠り、現状に不満を持ち、より多くのものを得ようとするようなことはあってはならない。また、それと同時に、お前が何らかの行動をする時には、それに適した度合というものがあり、それ以上のものを求めるようなことがあってはならない。ささいなことに関わずらって意気消沈をするな。

 昔よく使われていた言葉で、現在はほとんど使用されなくなった言葉は多くある。同様に、かつては多くの人々の記憶にあった人の名前で、今はほとんどの人が忘れてしまったというものも多々ある。どんなにすばらしいものもやがては色あせ忘れ去られるものである。永遠に名を残す人間などいない。それなら大事にすべきこととは何か。それは、ただひとえに正義を身につけた精神、公共に尽くす行い、嘘のない言葉、この世に起こることはすべて必然であることを知り、それは一つの偉大なる根源から生み出されたことだと認識し、それを喜んで引き受けるという心持、態度、行動、ただそれだけである。

 自分の運命をすべて神にゆだねよ。思い出される人間も、思い出す人間も、すべてはかげろうのようにはかないものなのである。万物は、変転し、また新たなものとして生起する。ただ、その繰り返しなのである。この世に生れ出るものはすべて将来に生まれ出るものの種でもある。大地にまかれ、母胎の中で育つものだけが将来につながるものではない。あっと言う間にお前はこの世を去っていくだろう。それにもかかわらす、お前の心は素直ではなく、平静心もなく、外から害を受けないかと疑心暗鬼(ぎしんあんぎ)し、すべての人に優しく接することができないでいる。賢明とは正しい行動をすることだということにすら気づかないでいる。賢い人間とは、何を避け、何を求めるのかを知っているのだ。お前の災いの原因は、他人にでもお前の外部に存在する事物の変化にあるのでもない。お前の災いは、お前の判断そのものの中に存在するのだ。だから、どんなことも独断的に判断してはならない。それさえ守れば、物事はうまくいくものだ。たとえ、肉体的にはどんなひどい目にあおうとも、心は平静に判断しなければならない。善人にも悪人にも同じように起こることは、善くも悪くもないとことであると思え。すなわち、自然の本性に従って生きるものにも、逆らって生きるものにも等しく生じることは、自然の本性に適ったものでも、それに反したものでもないということだ。

 この宇宙を一つの魂を持つ生き物、意志として考えよ。さらに、すべてのものがどのようにして宇宙に帰属し、また宇宙はどのようにしてすべてのものを生み出したか、また宇宙そのものがどのような構造をもったものなのかに絶えず思いをめぐらせろ。お前は、肉体の衣をまとった、ちっぽけな魂にすぎない。この世に生まれ、変転し流転するものに、善いものも悪いものもないのだ。

 永遠の時とは、いろいろなものが生まれそして目の前に現れては流れ去っていく川のようなものである。そこに生まれ流れるものは、たとえば、バラの花であり秋に実る果実でもあり日常よく知られたものである。さらには、病も死も中傷も裏切りも愚か者を悦ばせるものも、また彼らを悲しませるものも、すべてこの川を流れては去っていく。すべてのものは常に先に生まれたものと関連を持って生じている。万物は、無
意味に無秩序に生まれているのではなく、驚くほどの深い関係のもとに生じているのである。

 自分の進んでいる道がどこに通じているかを知れ。すべてを支配している理性の存在に目を開け。まるで眠っているとしか思えないようなしゃべり方をしたり、行動をしたりしてはならない。また、親から受け継いだものにもっぱら従うだけというような考えのない行動もするな。

 お前の命があと2日と宣告されたら、お前は、明日より明後日を大事にするのか。たとえまだ死ぬのは先だとしても明日以上に明日以降のことを大事だとは考えないだろう。どれほど多くの医者が病人を憂い治療をしたあげく自分も死んでいったことか。多くの人の死を預言した占星術師も、死について述べてきた哲学者も、多くの人間の首をはねてきた王も、人の命を思うままにしてきた暴君も、どれほどの者が今までに死んでいったことか。そしてまた、どれほど多くの国家が栄えては滅亡してきたことか。ある者を葬った者が、また別の者に葬られてきた。すべては束の間の存在であり、人間とはかげろうのようにはかないものだということ、今日栄えたものも明日は灰となるかも知れないことをしっかりと認識せよ。オリーブの実は、熟すれば、自分を育んでくれた大地にそしてその幹に感謝して大地に落ちるように、お前も心穏やかにその時を迎えよ。

 このようなことがあったから私は不幸であるのだとは考えるな。そのようなことがあったにもかかわらず、自分は現在、くじけることもなく、また未来のことを恐れることもなく、苦しむこともなく今ここにいるではないか。あのようなことは誰にも起こりうることなのだ。しかし、その中でくじけることもなくいることは誰にもできるわけではない。そのようなお前が不運であるとでもいうのか。人間の本性に関わるような失敗でもないものが、なにゆえ不運だと言えるのか。人間の本性のもつ意図に反しないものは失敗などではない。
 それでは、その人間の本性の持つ意図とは何であるか。それは、心正しく、慎み深く、賢明にかつ慎重に、嘘もつかず、節度をもって生活することである。その状況で生じたことが失敗などであるはずがない。つまり、そこで生じた失敗と思われるものは、不運なことではなく、むしろそれを耐えることができたことが幸運なのだ。死をおおげさに考えないために、ただ長く生きることのみに執着して日々過ごしている人々のことを思い起こしてみるのもいい。彼らにいったい何があるというのか。ただ、多くの人々の死を見送り、自分もやがて死んで見送られていっただけのことである。この世に生きる時間は短い。この世に生きることは果たして一大事なことなのか。長い悠久の過去の時間と未来の時間を考えれば3日しか生きられないものも、人の3倍も生きたものも何の変わりがあるというのか。

 絶えず近道を行け。それは自然にかなった道であるはずだ。それは、苦難、陰謀(いんぼう)や虚飾(きょしょく)などから解放された道であるはずだ。



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