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 お前が達成しようとすること、得ようとするものは、実はお前が自分自身を恨(うら)むことさえなければ、すでに手に入れているのである。今述べた、「自分自身を恨むことがなければ」とは、過去のことはすべて捨て置き、未来のことはすべて神にゆだね、ただ現在のことのみを心にいだき、敬虔(けいけん)に正義に向かって真っすぐに進み行うということである。

 敬虔とは、お前に天から与えられるものをすべて愛することである。なぜなら、それらは自然の本性がお前のためにもたらし、出会わせたものだからだ。また、正義とは自由な精神で真実を語り、法に則ってそれぞれのものにふさわしい行動をとるということである。人の悪も自分の判断も人の噂も、この行動の妨げになるならそのままにさせておいてはいけない。特にお前の肉体的な欲求がそれを妨げようとするならそれを許してはならない。
 いつかは訪れるであろう死を恐れず、むしろ未だ自然の本性に適った生き方をしていないことこそを恐れるのだ。そして日々の出来事を予想外に驚いたり、いたずらに他に頼るような態度もやめるようにすれば、この祖国にとって、宇宙にとってもふさわしい人間となることができるのだ。

 神は自分より流出して人間に入り込んだ、理性というものをそれを覆(おお)うものからむき出しにして見る。そのようにお前も自分の理性をすべて裸にして見る習慣をつければ、お前の心を乱すものから解放されるはずだ。そもそも、自分を覆う肉体などに目を奪われることなく、理性そのものだけを見ている者は、衣装・住居・名声などの類に目を奪われることなどないのである。

 お前を構成しているのは、肉体・呼吸・理性の三つである。前者の二つはお前が世話をする限りにおいてお前自身のものである。しかし、理性は、本質的に真にお前自身である。もしこの理性から他人の言行やお前の過去の言行を引き離し、未来のお前の心を乱すであろうものからも引き離し、肉体やそれに関わるものまた、外からやって来てお前をきりきり舞いさせるもの、そのようなものから引き離すとしよう。それによりお前の理性は、運命のしがらみから救い出され、けがれなき姿となって自由・自主・独立し正義にかない天から与えられるものを悦んで受けるようになるであろう。さらに妄想(もうそう)からのがれ、未来や過去からも解き放たれ、現在のみを生きるように修練するとしよう。その時こそ、お前は死ぬまで心乱されることなく愛情にあふれ、温和な心で変わることなく生きることができるのである。

 人は自分を最も愛するくせに、他人のくだす判断を自分の考えより重視するのはおかしいと思う。人間は自分について考えてはならないとか、心に思ってはいいが口に出してはならないと言われたら一日も我慢できないであろう。われわれは、自分自身の考えよりも他人が自分をどう思っているかを恐れ、気にしがちなのである。

 神々は、有能な最も深く敬虔に神と契約をかわすような、自分をたて祀(まつ)ってくれる人間を一度死ねばもう二度と生まれることはないとして消滅させてしまうのであろうか。万事を人間のために整えてきた神がそのような見落としをしているのであろうか。もしそれが神の見落としではなく、そうすることが正しいとするなら、それが自然の本性にかなったことであるゆえにそれでよいのである。しかし、仮に見落としたというのなら、いまお前が抗議するようなことは、神がこの世を整える時にもした者がいたであろう。そのような状況の中で神は見落としなどするはずがないのではないか。

 とても成功しないと思われるようなことでも諦(あきら)めるな。日常では左手をあまり使わないから右手ほど役立たないと思うかも知れないが、たとえば茶碗を持つことなど左手の方が慣れていることも多くある。要は、訓練して自分のものとしているかどうかである。死が間近に迫ってきたとき、人間はいかなる状態にあるべきかを考えよ。また、人生は短いことを、一方では無限に広がる過去と未来を、またこの世に存在するもののはかなさを考えよ。

 物事の本質は、それを覆(おお)うものをはぎ取ったうえで見ることだ。諸々の行為の目的とは何か。快楽・苦痛・死・名声とはいったい何か。自分を忙しくさせているものは何か。決して人は他人から妨害されることはないがそれはなぜか。すべては自分の考え方が生み出しているのだということを悟れ。原理原則を使用する時は、剣を持つ剣士ではなく、自分のこぶしで戦う拳闘家であれ。剣士は剣を失えば殺されるが、拳闘家は手を失うことなどないゆえに、こぶしを握ればなすべきことはすべて完了するのである。事物を見る時、素材と原因・目的とを分けて分析し、その本質を見抜け。

 神が人間にたいして褒めるようなことのみをして、神が人間に与えることはすべて悦んで受け入れるのだ。自然に生ずること、また必然的なことについて、神も人間をも非難することは許されない。なぜなら、神は一切、誤りを犯さないからであり、また、人間も知りながら誤りを犯すことなどないからである。何事であれ、人生において起こることに驚くことは笑止千万(しょうしせんばん)なことである。この世の出来事は、必然か神の配慮か、さもなければ無分別の混乱かのどれかである。もし、必然ならそれに反抗しても何の意味もないし、神の配慮ならその配慮を受けるに値する人間となればよい。またもし、無分別の混乱なら、その中においてもお前が自分の理性を保ち秩序だって生きているということを誇りに思え。肉体はその無分別に流されるならそれにまかせ、理性だけを良い状態に保て。

 提灯(ちょうちん)の火は燃え尽きるまであたりを照らす。まさか、お前がこの世から消え去る前に真理や正義や慎みの徳がお前から消えてしまうことなどないだろうな。誰かが過ちを犯したと思うなら、まず、どうしてお前はそれが過ちだと考えるのか自問せよ。そして事実、それが過ちなら、彼は自分自身を傷つけるがごとく断罪しているのだと、自らに言い聞かせよ。彼は、自分で自分自身の顔を引き裂いているのだと。つまらぬ人間が過ちを犯すことを快く思わないということは、イチジクが実ること、赤ん坊が泣くこと、自然の営みを快く思わないのと同じことだ。もしそれがお前の性情(せいじょう)だというのなら、お前の行動を慎ましくすることだ。

 適切でないことはするな。真実でなければ口に出すな。すべてお前しだいだ。お前に数々の想いを抱かせるもの、それ自身は何であるかをつねに観察せよ。

 この世の万物は、なにで出来ていて、その存在原因と存在目的は何であるか。また、同時にいつまでそれが存在しつづけるのか、そのようなことを見極めなければならない。

 お前は情熱とかで自分を操り動かしているものよりもより優れたより霊妙なものがあり、それが何であるかを知っているな。まさか恐怖や猜疑や欲望などではないな。まず、行動をする時には、第一に、でたらめに行うのではなく、絶えずその目的を意識すること。第二にその目的とは公共のためになることだけでなければならないということを認識せよ。

 遠からずお前はこの世からいなくなる。その他のものも、この世にあるすべてのものもいつかはこの世から消え失せていく。新たなものを生み出すために、変化し、転換し、滅亡するのである。

 すべては、主観的なのであって、お前の考え方一つでどうにでもなるものだということを心に銘記せよ。あるものを欲してやまない時には、そのものを心から取り除けばよい。そのようにすれば、自分の心をいつも平静に保つことができるはずだ。ある行為をしかる時にやめれば、その行為は悪い影響を与えないし、その行為者も悪影響をこうむることはない。人生におけるすべてのことも同じで、やめるべき時やめれば、どこにも悪影響など生じさせない。その限界とは何か。それは、自然の本性が決めるのであって、われわれはただそれに従っていればよいのである。そして、その限界とは自然の本性がこの宇宙を絶えず新しい状態に保つために定めていることだということは忘れるな。

 全体に益あるものは美しくかつ的を得たものである。人間の終焉もそれが人間が意図したものでなく、社会悪をもたらすものでなければ、醜いものでも悪いものでもない。それが全体に益をもたらし、全体の中で行われるなら、それはむしろ善いものである。神の息吹(いぶき)を受けたものであるのだ。

 まず第一に、でたらめな、正義の道から外れた行いをするな。自分に原因のない出来事は偶然に生じたことかあるいは天の神が起こしたことなのだ。だからその出来事をお前は非難することなどできないのだ。第二に、すべてのものは、誕生により組成され、死により分解される。それはどのような意味をもつのか考えよ。なぜつくられたのか、また分解の結果どうなったのかを絶えず考察せよ。第三に、もしお前が空から自分を含む万物の生活を見たとしよう。いかに多く些細(ささい)なものがうごめいているかを知り、またすべてが束の間のものであり、そこにはびこっているものは空しい虚栄であると感ずるであろう。これら三つのことをしっかりと頭に留め置け。

 お前の考えていること、思いを投げ捨てろ。お前はそれによって救われるのだ。だれもそれをさまたげはしない。すべてのものは、自然の本性によって生じたものだ。それらが過ち犯しても、お前に何ら関係のないことだ。すべては、過去にも現在にも同様に起こってきたし、未来にも起こることだ。自分に起こることで、我慢(がまん)ならない気持ちになったら、以上のことを想いだせ。さらに、お前というものは人類全体と深い関わりを持っているのだ。お前の理性は神を根源とし、そこから流出したものだ。お前の私有物などではない。またすべては人が心に描いたものであり、生きているのは、ただ現在においてだけだということを忘れるな。

 かつてあれほど怒り敵意をもった者や名声や敵意を受ける頂点に立った者が今どこにいるというのか。彼らすべては、煙となり消えてしまったと語り継がれているではないか。いや、語られすらもしないではないか。あるいは、人よりすこしでも抜きんでようとして競り合い反目してきた人間たちのなんと安っぽいことか。天から与えられた環境の中で正しく思慮深く生きることだ。小手先のことにこだわらず、自然に徹して素朴に行動せよ。傲慢(ごうまん)などつゆ知らないと言いたげな仮面をかぶった傲慢な人間こそ厄介ものである。

 神はどこに存在するというのか、その存在を証明できるのかと言う者に対して私は次のように言う。第一に、神々はすでにわれわれの前に姿を現していると。第二に、われわれは自分の魂というものを見たことがない。しかし、それにもかかわらず、その魂というものを尊重している。神々に対しても同様である。神々の力のあらわれというものを私は実際に体験している。そのたびごとに、私は神々の存在を確信し、神々に対して畏敬の念を持つべきだと。

 人生にとって必要なことは、個々のものの成り立ち、そしそれが何であり、その存在原因が何であるかを、すべて知ることである。そして、それぞれの局面で、正しい行為、善き行いを続けることである。それだけである。

 光は、山や壁、どんな障害物によって分けられてもその根源は一つである。われわれも無数の個別な特性をもったものに分けられてはいるが、光と同様にその根源たる理性的魂は一つである。分けられているように見えても魂の根源はただ一つなのである。

 お前はいったい何を欲しているのか。生き長らえることか。感覚を持つことか。欲求か、成長することか。口をつぐむことか。言葉を発することか。しかし、それらが二次的なことであるのなら、それらをあとに回して、理性と神に従うという究極的なものに向かえ。死がそのことを奪い去るとでも言うのか。それなら今のべた究極的なものと死とは矛盾する、併存しないものになるのではないか。

 果てしない無限の時間の中で、どれだけの部分が各人に与えられているというのか。みな、速やかに永遠の中に消えていくのではないか。また、お前に対してすべてのもののうちのどれほどのものが、この大地全体に対してどれだけの場所が与えられているというのか。芥子粒(けしつぶ)ほどもないではないか。このことを肝に銘じ、おごることなく謙虚に自然に従って生き、自然がもたらすままにそれを受けることである。

 正しい行動をする限りは、時間の長短、人生の量などは問題ではない。ゆえに死も恐れるにあたらないものだ。お前は宇宙という大きな国家の市民である。それが5年間であろうと3年間であろうと何の変わりもない。お前をこの世に送り出したものが、またお前をこの人生の舞台から退けるのであれば、何を恐れる必要などあるのであろうか。人生において、五幕を演じようと三幕だけであろうと劇全体を成り立たせているゆえ何の変わりもない。かつて結合の原因をつくったものが、分解を指図しそれを完了させるのである。神がすべてを決めるのでお前に何の責任もない。心穏やかに去っていけ。

 

 


この本の内容は以上です。


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