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 理性を持つ人間は、自らの魂で自己がいかにあるべきかを見て、自己が過っていればそれを正して、自己というものをつくりあげ、そしてその成果を自らが刈り取るのである。理性を持たない植物などは、自分で自己をつくりあげることもないし、その成果は他のものにより刈り取られるのである。理性を持つ者は、その生涯の最後がいつであろうと、その目的に向かって進みかつその目的に到達するものである。その意味では、例えば演劇は途中で邪魔が入ると、そこでそれは不完全なものとなってしまうが、人間の人生はそれとは違う。どんな障害に遭遇しようとも、己に課された仕事を充実して行いかつ自足することができていれば、それで完成なのである。さらにその理性は、宇宙全体を考察することができ、永遠の時のかなたまで広がり、万物の周期的再生を把握することができるのである。ゆえに、自分より以前以後の者も、自分が見た以上のものを見ることはないのである。少なくとも40才を超えた者は、知性を持っている限り、当然のこととして今まで起こったことも、今から起こることもすべて見ていることになるのだ。また、理性的な魂に固有なものとは、身近な人々と真実を愛すること、恥じる心を持つこと、そして自己を尊重することである。この意味において、理性と正義や法は同じものなのである。

 音楽や舞踏を個々の音や姿勢に分解して、各々を聞いたり個別の場面のみを見ても決して良いものとは思わないであろう。このことは人生についても言えるのだ。部分的なものに走るのではなく全体をとらえよ。

 死を迎えてもその覚悟ができている魂とはなんとすばらしいものか。それはむき出しの反抗精神に駆られたものではなく、論理立った、威厳のある、落ち着いたものでなければならない。また、他人を説得できるようなものでなければならず、芝居じみた大げさなものであってはならない。私は公共のために生きてきたか。そうであるなら、もう十分報われているはずだ。この真理を肝に銘じて、一瞬たりともなまけることなどないようにしなければならない。立派な人間であるためには、宇宙の原理と人間の原理を知っていなければならない。

 たとえ人生における悲劇といえども、それはなるべくしてそのようになったものである。それを苦々しく思うべきではない。私の運命がどんなものであろうとそれは理由があってのことである。また、事物そのものに怒りをぶつけてもしょうがないのである。また喜劇といえるものもあるであろう。その意図とはなんであるのか。人生とはいったいいかなる目標をもって企画されるのであろうか。お前の今の生活条件は、哲学を学ぶうえにおいて非常にすぐれた状態にあることを考えてみたことがあるか。

 木の枝が隣あう枝から切り離されるということは、その木全体から切り離されることを意味する。同様に、人間がある一人の人間から引き離されるということは、社会全体から逸脱(いつだつ)することを意味する。枝は人間が勝手に切り取るが、人間にあっては、身近な者を憎み、彼に背を向けることにより、自らがその者から自分を遠ざけるのである。そしてそれが社会全体から自分を切り離すことにつながるのである。当然、人間には再び隣のものと共にあるようになり、社会に回復できる機会は与えられるが、そのような離反と回復を繰り返していると、回復がだんだんと困難となってくる。もともと共に誕生し同じ生命力のなかで育ってきたものが、一旦切り取られれば、たとえ接ぎ木されようとも、完全に元の状態には戻れないのである。もちろん、他者と同じ考え方を持てといっているのではない。根幹は一つであるべきだと言っているのである。

 お前が正しいことを行っているなら、誰かがそれを妨害しようとしても、それは不可能である。むしろ、その妨害行為を理由に、彼らに対する寛容な心と温かい心を失うことがないように気を付けよ。いや、進んで次の二つのことに気を付けよ。一つは、自分は誠実な判断をし、誠実に行動をしているかということ、二つ目は、自分を妨害しようとする者や自分に対して悪い感情を抱いている者に柔和な心でいるかどうかということである。すなわち、妨害者に対して怒るということは、自分が正しいとして行っている行為を自ら放棄することであり、その恐怖にとらわれてしっぽをまいて逃げるのと変わらないのだ。つまりお前の弱さの表れなのである。
 妨害者は自分の同胞に背きその絆(きずな)を自ら断ち切ったという意味で、また妨害されることを恐れてその行為を放棄する者も、共に自分の持ち場を捨てた逃亡兵と同じなのである。自然はいかなるものでも、人間の技術に劣るようなものではない。現に人間の技術は、多くの自然のものを模倣して生まれているではないか。それなら、それらのもろもろの自然的なものを包括した大自然と呼ばれるようなものが、人間が生み出したどんな技術や技巧にも劣ることなどあるはずがない。

 あるものを追い求めること、またあるものを避けることによって、お前の心が惑わされるなら、まずお前からそれらについての判断は差し控えよ。そうすればその対象も不動のままであるすだ。魂は、何かに対して突出したり、委縮(いしゅく)したりすることもなく、拡散したり崩壊したりすることもなく、光に照らされ万物の真理とおのれの真理を知る限り完全な形でそれを保持するものなのである。

 人が私を軽蔑しようと、それは彼の思いであり、私には何の関係もない。私の心すべきことは、他人が私が軽蔑に値するような行動をすることを見つけようとしても、見つけることができないようにすることである。私を嫌う人がいても、それはその人の思いである。ともかく、私は人々に好意と親切心を持って行動するのである。そして、私を嫌う人に対して、その過ちを指摘するにしても、決して非難がましい態度を取らず、また我慢しているんだといわんばかりの態度に出ることもなく、誠心誠意男らしい善意にあふれた心で事を為すことである。そういう人間にならなければならないのだ。

 人間は、物事に対しても心楽しめず、苦しみの状況にあることを聞えよがしに神の目にさらすべきではないのだ。お前が本性にかなった行動をし、公共のために為すべきことをしているなら、その状況が悪いことまた、さらに悪くなることなどないからだ。

 人は、内心軽蔑し合いながらも外面では相手に従うような態度をとり、内心では優劣を競いながらも、表向きは互いに譲り合うものである。「ぼくは、単純素朴な態度で君と付き合うことにした」などと言う必要などなにもない。それは態度に自然と表れるものである。そもそも、善良なる人間は彼がそばに近づいただけでそのことが分かる。善良な心持った人間はすべてにそれが表面に表れているものである。恋するものの瞳の中にその想いがおのずと表れ、恋人がそれを理解するのと同じことである。

 善でも悪でもないものには無関心であれ。そうすれば、お前はこの人生を立派に生き貫くことができるはずだ。これらの善でも悪でもないものは、われわれの心に何らある意見を植え付けることもなく、われわれに迫ってくることもなくじっとしているものである。むしろ、われわれがそれらを追いかけ心のなかに留め置こうと、それに対する判断を生み出そうとするのだ。もともと、書かずにすむことであったのだし、仮に書いたとしてもすぐ消せるものだったのだ。それを依怙地(いこじ)になって心に描きつづけたのである。このことに注意するのは人生というわずかの時間の間だけのことだ。そのことで不機嫌になることなどないはずだ。自然に従い、それが本性にかなうことなら、悦んで進めばよい。たやすいことであるはずだ。もし、自然の本性に反していると考えるなら、お前の本性に即しているものが何であるかを探し求めよ。そして自分がかなうと考える道を進めばよいだけのことである。

 もののすべてが、どこからきて、何から成り、何に変わり、そしていかなるものに生まれ変わるか考察せよ。自分の身に被ることは何であれ悪いことなど何一つないはずである。

 第一に、私と人々の関係はどうなのか。われわれは、お互いのために生まれてきたのである。違った論点から言えば、私は人々を監督するために、いわゆる羊の群れを導く犬のような役割のために生まれてきたのである。この世には無数の原子が存在し、それらを支配する自然の本性がある。同様に、多くのより劣ったものと優れたものが存在し、前者は後者のためにあり、後者はお互いのためにある。

 第二に、人々はどのような思いを持ち、何に駆られて、何に強制されて、どんな自負心を持って行動しているのかを考察せよ。

 第三に、人々が正しい行為をしているならそれでよいではないか。正しくない行為をしているのであれば、彼らはたぶん無知であるがゆえにそうしているのである。ゆえに彼らはそれを指摘されると憤慨(ふんがい)するものであることを心に留め置け。

 第四に、お前自身も彼らと同様に多くの過ちをおかすものである。過ちと呼べるほどのものをしないまでも、それを生み出す奴隷根性、名誉欲などの性情は未だ持っているに違いない。

 第五に、人々が実際過ちを今犯しているかどうかが分かっているわけではない。他人の行為についてしっかりと把握するためには多くのことを学びとらなければならないのである。

 第六に、ひどく悩んだり、我慢ならぬと思ったりする時は、人生とは束の間で、遠からずすべてのものは葬り去られると想え。

 第七に、お前を苦しめるのは、彼らの行為にあるではない。それに対していだくお前の意見にあるのだ。それならお前の意見を捨て、彼らの行為が悪いとするお前の判断を捨て去れ。そうすればお前の怒りは消え去るのだ。それならどのようにしたらそれを捨て去ることができるのか。彼らの行為は決して恥ずるべきものではないと考えることだ。なぜなら、恥ずべきものがすべて悪であるなら、お前自身もしょっちゅうその過ちを犯しており、強盗と変わらないといえるからだ。

 第八に、それらの行為に対して抱く怒りのほうが、その行為がもたらす悪い影響よりもはるかに多くの悪影響をお前に与えるのだ。

 第九に、親切心は、それが真のものであればすばらしいものだ。おまえに良からぬことを企てるものには、わが子に対するように、そうすることは、私ではなくあなた自身のためにならないと述べよ。そのことによって害をうけるのは私ではなくあなた自身だと諭すなら、彼は、私に対して害を及ぼすようなことが続けてできるであろうか。そしてそのようなことは、自然に暮らすどんな動物もするようなことではないと指摘することである。ただそれは、皮肉まじりに、非難がましくすべきではなく、他者からの賞賛のためにすべきでもない。周りのものから離れ、ただ本人だけに向かってなすことである。以上の九項目を肝に銘じて、生きているうちにそれをなすことを始めよ。

 人々に怒りをいだくことも、媚(こ)びへつらうこともやめよ。それらは公共を無視し、災いに導くものである。怒りに駆られるときは怒ることが男らしいのではなく、穏やかで紳士的であるのが人間的であり、男らしいのだ。強さ勇敢さは、そのような者の中にあるのだ。

 悲しみが無力なものであり傷つき屈服するものであるように、怒るということも傷つき、屈服してしまうということなのである。もし第十にあげるとしたら、つまらぬ者が過ちを犯すであろうことを予期しなかったことはお前の落ち度だということだ。彼らが、自分以外の他人に対して過ちを犯すのは黙認しておきながら、彼らが自分に対して過ちを犯さないように求めることは、愚かな身勝手なことではないか。

 人の思いの偏りには4つのものがある。一つは、これは必然的なものであると考えてしまうこと。二つ目は、これはけっして社会を破壊するものではないと勝手に判断してしまうこと。そして、三つ目はこのことは私の心の底から発したものではないと言い訳すること。あと一つは、肉体の欲求に敗北してしまということである。

 お前は、自分の体内に存在するもの中で、火のように上昇すべきものでもその場にとどめたり、土のように落下すべきものを押しとどめたりしているのではないか。すべては万有の秩序に従っているのであり、解放と離脱の合図がなされないかぎり、その決められた一定の場所にそれらはとどめられなければならないのだ。何もお前に対して、自然の本性が逆らってそのことを無理やり課しているのではない。それこそが自然の本性に適っているからなのである。それにもかかわらず、お前はその本性と正反対の道に進もうとしているのではないか。不正・放縦・悲嘆・恐怖に向かう動きこそがそれなのである。

 何かの出来事に腹を立てるということは、お前の心の本来のあり方に反するということではないか。変わることのない人生の目標を立て、それを生涯貫け。人々にとって自分の人生の目標は何かと聞いた時、その答えは千差万別であろう。ただ、国家公共に関して自分はいかにあればよいかと聞いた時の答えは、一致するのではないか。国家公共に対するお前の目標をはっきり定めねばならない。そしてその目標に個人的な欲求をすべて向かわせるなら、その人間の行為は変わることのない、不動な人間となることができるのである。

 大衆の考えは、扇動(せんどう)されるとある意味恐いものともなる。人は、客人に対しては、自分を差し置いても歓待すべきである。一方、歓待を受けながらも、みじめなお返ししかできないようなことにはなるべきでない。徳を行い、徳に生きた、過去の偉人をいつも思い浮かべよ。天を見よ。そこには永遠に同一不変の仕事をなし続ける数々の存在がある。

 人に教え導かれる前に、さも知っているかのように人を教え導くな。冬にイチジクを求めること、子どもを産めない年齢になって子どもを求めることもばかげたことである。幼子(おさなご)を愛撫(あいぶ)しながら、お前は明日になったら死ぬかもしれないなというのは、縁起でもないことだろうか。それなら稲の穂が刈り取られるという言葉も縁起でもないことになる。熟していないブドウ、熟したブドウ、干しブドウ、それらは変化である。無への変化ではなく、違う存在への変化である。他人の自主的な決断を強奪しうる人間など現れっこない。

 人は自分の欲求に対して監視しなければならない。 欲求のもととなるものは公共の精神でなければならない。

 

 


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 お前が達成しようとすること、得ようとするものは、実はお前が自分自身を恨(うら)むことさえなければ、すでに手に入れているのである。今述べた、「自分自身を恨むことがなければ」とは、過去のことはすべて捨て置き、未来のことはすべて神にゆだね、ただ現在のことのみを心にいだき、敬虔(けいけん)に正義に向かって真っすぐに進み行うということである。

 敬虔とは、お前に天から与えられるものをすべて愛することである。なぜなら、それらは自然の本性がお前のためにもたらし、出会わせたものだからだ。また、正義とは自由な精神で真実を語り、法に則ってそれぞれのものにふさわしい行動をとるということである。人の悪も自分の判断も人の噂も、この行動の妨げになるならそのままにさせておいてはいけない。特にお前の肉体的な欲求がそれを妨げようとするならそれを許してはならない。
 いつかは訪れるであろう死を恐れず、むしろ未だ自然の本性に適った生き方をしていないことこそを恐れるのだ。そして日々の出来事を予想外に驚いたり、いたずらに他に頼るような態度もやめるようにすれば、この祖国にとって、宇宙にとってもふさわしい人間となることができるのだ。

 神は自分より流出して人間に入り込んだ、理性というものをそれを覆(おお)うものからむき出しにして見る。そのようにお前も自分の理性をすべて裸にして見る習慣をつければ、お前の心を乱すものから解放されるはずだ。そもそも、自分を覆う肉体などに目を奪われることなく、理性そのものだけを見ている者は、衣装・住居・名声などの類に目を奪われることなどないのである。

 お前を構成しているのは、肉体・呼吸・理性の三つである。前者の二つはお前が世話をする限りにおいてお前自身のものである。しかし、理性は、本質的に真にお前自身である。もしこの理性から他人の言行やお前の過去の言行を引き離し、未来のお前の心を乱すであろうものからも引き離し、肉体やそれに関わるものまた、外からやって来てお前をきりきり舞いさせるもの、そのようなものから引き離すとしよう。それによりお前の理性は、運命のしがらみから救い出され、けがれなき姿となって自由・自主・独立し正義にかない天から与えられるものを悦んで受けるようになるであろう。さらに妄想(もうそう)からのがれ、未来や過去からも解き放たれ、現在のみを生きるように修練するとしよう。その時こそ、お前は死ぬまで心乱されることなく愛情にあふれ、温和な心で変わることなく生きることができるのである。

 人は自分を最も愛するくせに、他人のくだす判断を自分の考えより重視するのはおかしいと思う。人間は自分について考えてはならないとか、心に思ってはいいが口に出してはならないと言われたら一日も我慢できないであろう。われわれは、自分自身の考えよりも他人が自分をどう思っているかを恐れ、気にしがちなのである。

 神々は、有能な最も深く敬虔に神と契約をかわすような、自分をたて祀(まつ)ってくれる人間を一度死ねばもう二度と生まれることはないとして消滅させてしまうのであろうか。万事を人間のために整えてきた神がそのような見落としをしているのであろうか。もしそれが神の見落としではなく、そうすることが正しいとするなら、それが自然の本性にかなったことであるゆえにそれでよいのである。しかし、仮に見落としたというのなら、いまお前が抗議するようなことは、神がこの世を整える時にもした者がいたであろう。そのような状況の中で神は見落としなどするはずがないのではないか。

 とても成功しないと思われるようなことでも諦(あきら)めるな。日常では左手をあまり使わないから右手ほど役立たないと思うかも知れないが、たとえば茶碗を持つことなど左手の方が慣れていることも多くある。要は、訓練して自分のものとしているかどうかである。死が間近に迫ってきたとき、人間はいかなる状態にあるべきかを考えよ。また、人生は短いことを、一方では無限に広がる過去と未来を、またこの世に存在するもののはかなさを考えよ。

 物事の本質は、それを覆(おお)うものをはぎ取ったうえで見ることだ。諸々の行為の目的とは何か。快楽・苦痛・死・名声とはいったい何か。自分を忙しくさせているものは何か。決して人は他人から妨害されることはないがそれはなぜか。すべては自分の考え方が生み出しているのだということを悟れ。原理原則を使用する時は、剣を持つ剣士ではなく、自分のこぶしで戦う拳闘家であれ。剣士は剣を失えば殺されるが、拳闘家は手を失うことなどないゆえに、こぶしを握ればなすべきことはすべて完了するのである。事物を見る時、素材と原因・目的とを分けて分析し、その本質を見抜け。

 神が人間にたいして褒めるようなことのみをして、神が人間に与えることはすべて悦んで受け入れるのだ。自然に生ずること、また必然的なことについて、神も人間をも非難することは許されない。なぜなら、神は一切、誤りを犯さないからであり、また、人間も知りながら誤りを犯すことなどないからである。何事であれ、人生において起こることに驚くことは笑止千万(しょうしせんばん)なことである。この世の出来事は、必然か神の配慮か、さもなければ無分別の混乱かのどれかである。もし、必然ならそれに反抗しても何の意味もないし、神の配慮ならその配慮を受けるに値する人間となればよい。またもし、無分別の混乱なら、その中においてもお前が自分の理性を保ち秩序だって生きているということを誇りに思え。肉体はその無分別に流されるならそれにまかせ、理性だけを良い状態に保て。

 提灯(ちょうちん)の火は燃え尽きるまであたりを照らす。まさか、お前がこの世から消え去る前に真理や正義や慎みの徳がお前から消えてしまうことなどないだろうな。誰かが過ちを犯したと思うなら、まず、どうしてお前はそれが過ちだと考えるのか自問せよ。そして事実、それが過ちなら、彼は自分自身を傷つけるがごとく断罪しているのだと、自らに言い聞かせよ。彼は、自分で自分自身の顔を引き裂いているのだと。つまらぬ人間が過ちを犯すことを快く思わないということは、イチジクが実ること、赤ん坊が泣くこと、自然の営みを快く思わないのと同じことだ。もしそれがお前の性情(せいじょう)だというのなら、お前の行動を慎ましくすることだ。

 適切でないことはするな。真実でなければ口に出すな。すべてお前しだいだ。お前に数々の想いを抱かせるもの、それ自身は何であるかをつねに観察せよ。

 この世の万物は、なにで出来ていて、その存在原因と存在目的は何であるか。また、同時にいつまでそれが存在しつづけるのか、そのようなことを見極めなければならない。

 お前は情熱とかで自分を操り動かしているものよりもより優れたより霊妙なものがあり、それが何であるかを知っているな。まさか恐怖や猜疑や欲望などではないな。まず、行動をする時には、第一に、でたらめに行うのではなく、絶えずその目的を意識すること。第二にその目的とは公共のためになることだけでなければならないということを認識せよ。

 遠からずお前はこの世からいなくなる。その他のものも、この世にあるすべてのものもいつかはこの世から消え失せていく。新たなものを生み出すために、変化し、転換し、滅亡するのである。

 すべては、主観的なのであって、お前の考え方一つでどうにでもなるものだということを心に銘記せよ。あるものを欲してやまない時には、そのものを心から取り除けばよい。そのようにすれば、自分の心をいつも平静に保つことができるはずだ。ある行為をしかる時にやめれば、その行為は悪い影響を与えないし、その行為者も悪影響をこうむることはない。人生におけるすべてのことも同じで、やめるべき時やめれば、どこにも悪影響など生じさせない。その限界とは何か。それは、自然の本性が決めるのであって、われわれはただそれに従っていればよいのである。そして、その限界とは自然の本性がこの宇宙を絶えず新しい状態に保つために定めていることだということは忘れるな。

 全体に益あるものは美しくかつ的を得たものである。人間の終焉もそれが人間が意図したものでなく、社会悪をもたらすものでなければ、醜いものでも悪いものでもない。それが全体に益をもたらし、全体の中で行われるなら、それはむしろ善いものである。神の息吹(いぶき)を受けたものであるのだ。

 まず第一に、でたらめな、正義の道から外れた行いをするな。自分に原因のない出来事は偶然に生じたことかあるいは天の神が起こしたことなのだ。だからその出来事をお前は非難することなどできないのだ。第二に、すべてのものは、誕生により組成され、死により分解される。それはどのような意味をもつのか考えよ。なぜつくられたのか、また分解の結果どうなったのかを絶えず考察せよ。第三に、もしお前が空から自分を含む万物の生活を見たとしよう。いかに多く些細(ささい)なものがうごめいているかを知り、またすべてが束の間のものであり、そこにはびこっているものは空しい虚栄であると感ずるであろう。これら三つのことをしっかりと頭に留め置け。

 お前の考えていること、思いを投げ捨てろ。お前はそれによって救われるのだ。だれもそれをさまたげはしない。すべてのものは、自然の本性によって生じたものだ。それらが過ち犯しても、お前に何ら関係のないことだ。すべては、過去にも現在にも同様に起こってきたし、未来にも起こることだ。自分に起こることで、我慢(がまん)ならない気持ちになったら、以上のことを想いだせ。さらに、お前というものは人類全体と深い関わりを持っているのだ。お前の理性は神を根源とし、そこから流出したものだ。お前の私有物などではない。またすべては人が心に描いたものであり、生きているのは、ただ現在においてだけだということを忘れるな。

 かつてあれほど怒り敵意をもった者や名声や敵意を受ける頂点に立った者が今どこにいるというのか。彼らすべては、煙となり消えてしまったと語り継がれているではないか。いや、語られすらもしないではないか。あるいは、人よりすこしでも抜きんでようとして競り合い反目してきた人間たちのなんと安っぽいことか。天から与えられた環境の中で正しく思慮深く生きることだ。小手先のことにこだわらず、自然に徹して素朴に行動せよ。傲慢(ごうまん)などつゆ知らないと言いたげな仮面をかぶった傲慢な人間こそ厄介ものである。

 神はどこに存在するというのか、その存在を証明できるのかと言う者に対して私は次のように言う。第一に、神々はすでにわれわれの前に姿を現していると。第二に、われわれは自分の魂というものを見たことがない。しかし、それにもかかわらず、その魂というものを尊重している。神々に対しても同様である。神々の力のあらわれというものを私は実際に体験している。そのたびごとに、私は神々の存在を確信し、神々に対して畏敬の念を持つべきだと。

 人生にとって必要なことは、個々のものの成り立ち、そしそれが何であり、その存在原因が何であるかを、すべて知ることである。そして、それぞれの局面で、正しい行為、善き行いを続けることである。それだけである。

 光は、山や壁、どんな障害物によって分けられてもその根源は一つである。われわれも無数の個別な特性をもったものに分けられてはいるが、光と同様にその根源たる理性的魂は一つである。分けられているように見えても魂の根源はただ一つなのである。

 お前はいったい何を欲しているのか。生き長らえることか。感覚を持つことか。欲求か、成長することか。口をつぐむことか。言葉を発することか。しかし、それらが二次的なことであるのなら、それらをあとに回して、理性と神に従うという究極的なものに向かえ。死がそのことを奪い去るとでも言うのか。それなら今のべた究極的なものと死とは矛盾する、併存しないものになるのではないか。

 果てしない無限の時間の中で、どれだけの部分が各人に与えられているというのか。みな、速やかに永遠の中に消えていくのではないか。また、お前に対してすべてのもののうちのどれほどのものが、この大地全体に対してどれだけの場所が与えられているというのか。芥子粒(けしつぶ)ほどもないではないか。このことを肝に銘じ、おごることなく謙虚に自然に従って生き、自然がもたらすままにそれを受けることである。

 正しい行動をする限りは、時間の長短、人生の量などは問題ではない。ゆえに死も恐れるにあたらないものだ。お前は宇宙という大きな国家の市民である。それが5年間であろうと3年間であろうと何の変わりもない。お前をこの世に送り出したものが、またお前をこの人生の舞台から退けるのであれば、何を恐れる必要などあるのであろうか。人生において、五幕を演じようと三幕だけであろうと劇全体を成り立たせているゆえ何の変わりもない。かつて結合の原因をつくったものが、分解を指図しそれを完了させるのである。神がすべてを決めるのでお前に何の責任もない。心穏やかに去っていけ。

 

 


この本の内容は以上です。


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