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 お前の魂は、いつ、肉体よりは澄んだ清いものになるのだろうか。友情と親愛にあふれた心情を楽しむことがあるのであろうか。充実し、他を必要としないものとなり、快楽のために何ものかを熱望することもなく、むやみに何かを欲求することもなくなるのであろうか。享楽のためにより長い時間を欲することもなく、快適な居場所も気の合う人々をも欲しないようになるのであろうか。お前の魂は今、現在の状態に満足し、現在あるすべてのものに悦びを感じているのか。

 すべては、神々より与えられたものである。それはすべて良いもので、将来も良いものであり続けるであろう。自然の摂理は、万物を生み出し、それが役割を終えれば分解し、そしてそれを材料にまた新たなものを生み出す。神々がわれわれに与えるものはすべて、この世において意義あるものであり、今後もそのようにあり続けるものだ。

 お前は神も同胞も非難することなく、また糾弾されることのない人間となれるのか。お前は、自然が与えたお前の本性をしっかりと観察し、その求めるものが何であるかを見極めよ。そして、それがなんらかの事情で良くない状況に陥らされない限り、その本性にしたがって行動せよ。そしてその行動とは、公共的性格をもった行動でなければならないが、その行動によりお前の本性が悪いものにならないかぎりそれを全面的に受け入れることだ。それらのことだけを心して日々行動せよ。

 この世に生起するものは、お前にとって耐えることができるものか、耐えることができないものかのどちらかである。耐えることができるものであるなら不機嫌になることなく耐えればよい。もし仮に、耐えることができないものであっても決して不機嫌にはなるな。なぜならその耐えがたきものも、お前を消耗しつくしたうえで、それ自身もやがては消滅してしまうのであるからだ。ただ、ここで考えてみよ。耐えることができるものは、お前が耐えることができるとして自ら引き受けているものなのだ。またそれを有益なものと考え、そうすることがお前に課せられた義務だと考えているからだ。

 人が過ちを犯したら、好意をもって穏やかに教え諭(さと)し、その見落としている点を指摘せよ。それがお前にできないというなら、お前自身を責めよ。そうでなければ、誰も責めるべきではない。

 お前に起こることは、お前の誕生するはるか以前からお前のために整えられてきたことだ。また、いろいろな原因の積み重ねがお前の誕生からお前に起こる出来事を無限の過去から紡(つむ)いできたのだ。

 この世が単なる原子の群れであるか、あるいは秩序あるものかに関わらず、ともかく、お前は自然の原理に統率された宇宙の一部であることは確かだ。また、他の多くのその一部をなすものたちと密接な関係にあることを認めなければならない。それなら、その全体から与えられたものに不機嫌になることなどないはずだ。なぜなら、全体に有益なものが、部分に有害であることなどあるはずがないからだ。さらに言えば、この宇宙を統率する意思は、外部の力に強いられて、己に有害なものなど生み出すことは、絶対にないからである。

 お前は今、目の前に起こることに何の不満もいだくことはないはずだ。だから自分とそのもとを同じくするものが密接な関係にあるがゆえに、公共のことを無視することは決してせず、公共の利益のために尽力すべきであるのだ。この原則により行動がなされるならば、万事がうまくいくのは間違いないことだ。一人の市民として他の市民を利することを実践し、国家から与えられるものは悦んで受け入れるという人間であれば、物事がうまくいくというのと同じことである。

 自然の本性により宇宙の中に生成され、今存在するものは、必然的に消滅させられる運命にある。ただ、消滅とはなくなることではなく、違うものに変化するという意味である。しかし、この避けがたい仕組みは悪いものであろうか。もし、これが悪いものであるというなら、宇宙とは決して良くできているものだとは言えないことになる。いったい宇宙は、自分が生み出したものに害を与え、そして生み出されたものはその害に抵抗しながらもさからえず悪の道に進ませられるようなことになっているのであろうか。それとも、宇宙はそのようにすべてのものを悪に導いていることに気づかないのであろうか。とてもそのようには考えられない。また、すべてのものは変化するものだという一方で、もし、お前がこの世に生まれ出たものにそれは生まれ出るべきものではなかったなどと言い不機嫌な気持ちを持つのはおかしいではないか。また、個々のものが分解していくのを見て同じような態度をとることも明らかにおかしいことである。なぜなら、分解とは、すべてのものが作り上げられた前の元の状態に戻ることであるか、永遠に繰り返される転換の一つであり更新であり、一旦宇宙の理性の中に取り込まれるだけのことだからなのだ。また、われわれ自身は、すべて外界から取り入れたものを変えることによって、自分自身をつくりあげているのである。変化によって成り立っているということは、変わることのない真実ではないか。

 善良・誠実・思慮(しりょ)・協調などの名称を与えられたら、それらを失わないように心してこれらを保持することに努めよ。例えば、「思慮」とは軽率な思考に陥らず、精神を集中させて物事を判断することである。ただ、人々からそのように呼ばれ、思われることに執着してはならない。もしそれを成し遂げられるならば、さらにお前は進歩できるのだ。なぜかといえば、今までの生活のように日々の活動に引き裂かれ、生に執着するところから一歩歩み出るからである。今までのお前はまるで闘牛場に投げ出され噛(か)み裂かれた闘士なのであった。そして血まみれになりながらもまた翌日にはそこに投げ出される、そのような人間だったのだ。
 だから、先にあげた善良などような名称のところに留まっていよ。もしそこに留まる力を持てないなら、この世の生から去るしかない。そのような覚悟を持て。このことを忘れないためには、まず神々のことを考えよ。神々にへつらえと言っているのではない。神々が欲することは、お前をふくめすべての生成物がその本分を果たした生き方をすることだからなのである。

   茶番劇・戦争・奴隷根性などが、自然の摂理とは何かを追い求めていこうとするお前の聖なる想いを消し去ってしまうことを忘れるな。それならお前はいかにすればよいのか。現にお前にふりかかることに対して立派に対処すること、学問にいそしみ、そこから得られる知識に自信を持ち、それをみせびらかすこともなく、また妙に隠すこともなく行動することだ。それでは、その知識とは何か。それは、事物の本質とは何であるか。それはいつまで存在するのか。その存在目的は何なのか。それは何からできているのか。その持ち主は誰なのか。それを与え奪うことができるのは誰なのかというような知識なのである。蜘蛛(くも)は蠅(はえ)をとることを誇りとし、あるものは野兎(のひつじ)をまた魚をまたイノシシをとることを誇りとする。しかし、考えてみれば彼らはみな強盗なのである。

 万物がどのようにして相互に変化するか、注意深く観察せよ。これ以上に自分の精神を磨くことのできることはない。それは肉体という束縛から離れることにもつながっていく。まもなく、自分はすべてのものを残してこの世から去っていかなければならない。自分の行いについては正義にすべてを委ね、それ以外のことは宇宙全体に自分を委ねるのだ。自分に対して人が何を言い、自分を非難するどのような行為に出るかなどは何の気にもするな。自分の行為を正義にのっとってなし、天から与えられたものを愛するなら、それだけで十分である。あくせくすることはやめて、真っ直ぐな道を歩み、真っ直ぐに進む神のあとに従えばよいのである。自分が何をなすべきかがわかったら、脇目もふらずその道を進め。もし分からないなら、最上の相談相手に尋ねよ。だが、そこに外部からの障害が立ちはだかったら、手元にある手段や方法を活かし、事情を冷静に判断して、正しいと自分が思うものに即してあきらめることなく行動せよ。理性に従うものは、悠々(ゆうゆう)として明朗で節度を失わないものなのである。

 眠りより覚めたら、すぐ自分に尋ねよ。自分が正しいと思う行為をして、それを非難されても平気でおられるか。また、おごった態度で他人に接し、ほめたかと思えばけなすような人間になってはいないかと。そのような人間は、いつどこにいても変わらない態度しかとれないのだ。さらに、そういう連中はいかなることをして、いかなることを避け、どのようなものを追い求め、盗み、奪っているかを考えて見よ。ただ、しっかりと考える必要がある。それらの行為は、自分の中にある信義、誠実などと思い込んでいる部分によってなされがちだということである。このことをいつも思い、自分を反省することを忘れてはいないか。教養あり慎みあるものは、自然に向かって謙虚に頭をたれて「あなたが欲するものを与え、あなたが欲するものを取り上げてください」と言うであろう。

 お前に残されている時間はわずかである。山の中で静かに生活するように生きよ。宇宙という広大なものからすれば、山中も都市も何の変わりはないはずだ。人々に対して誠実な人間であれ。もし人々にとってお前が我慢ならぬものであるなら、彼らにお前の首をはねさせよ。そのまま生きるよりははるかにましである。

  良い人間とはどんな人間かを討論するときではない。良い人間になる時だ。永遠の時、存在の全体というものを想い描くと同時に、お前は全体の一部分にすぎないものであること、ほんの一瞬の存在にすぎないことを知れ。存在するすべてのものは、今も変化や霧散の経過をたどっていること、また死すべき性をもっていることを想え。

 周囲に君臨し威猛々しく振る舞い、怒りにまかせ人を叱責非難する人間が、ほんのわずか前にはどれほど多くの人々の足元に隷属していたことか。またその人間がそのあとにも元の状態にもどってしまうことであろう。

 本性がもたらすものは、いつでその時に有益なものであるのだ。大地が雨を求めるように、宇宙は雨を降らせることを求める。つまり、宇宙は生起する定めのあるものを生み出すことを欲しているのだ。私も宇宙とともに万物を生み出されることを恋望んでいますと述べる。お前はここに今生活している。あるいは、ここから出てよそに行く。あるいは、務めを果たしこの世を去ろうとしている。それでよいのだ。元気を出し心ほがらからかであれ。

 お前の精神を支配するものは、いかなる意味をもつか。また何の目的で働いているか、絶えず考えよ。公共性から離れてはいないよな。肉体の欲求にからみつかれ、きりきり舞いさせられているのではあるまいな。

 主から逃げてはならい。主とは法である。法を犯す者は逃亡した奴隷である。悲しんだり、怒ったり、恐れたりする人間は、過去・現在・未来のこの世の摂理を受け入れない者である。万物の摂理から逃亡した奴隷である。男は子種を母胎に入れたら離れていくが、あとは別の原動力がそれを引き受け胎児へと育てていく。巧妙な生成過程だ。人はのどを通して食物をのみくだすが、あとは別の原動力がそれを引き受け、生命のエネルギーを生み出す。これらは人目につかずひそやかに行われているが、はっきりとその事実を見きわめることである。

 今日生ずるものが、以前にも生じ、未来にも生ずることを想え。それはすべてのものに言えることである。そのように、どの国のどの宮殿もすべて同じ性質のものであり、異なるのはただ登場人物だけなのだ。

何事であれ、悲しんだり不機嫌になる者は、地面をけり悲鳴をあげる犠牲の子豚と同じようなものだ。われわれはいろいろなことに巻き込まれているが、生起することに納得のうえで従うことができるのは理性のある人間だけだ。その他のものはただ否応なく従っているだけだ。

   人の過ちを腹立たしく思うときは、自分について考えてみよ。お前は、金・快楽・名誉を良いものだとみなす過ちを犯していないかと。このことに注意を向けるなら彼の過ちは強いられての結果であることが分かる。そうすれば、怒りは消える。もしできるなら、彼からその強制しているものを取り除いてやれ。

今まで、多くの皇帝がこの世に現れた。彼らは今どこにいるのか。どこにもいない。どこにいるのかを誰も知らない。人間など煙であり、無に等しいものだ。また、ひとたび変化したものは、永遠に存在しないことを想い描け。それなのに、お前はなぜ心を張りつめ、神経をとがらせるのか。なにゆえ心を乱し、その永からぬ命を生き終えることに満足しないのか。人生とは理性の実習の場なのだ。
 強健な胃が摂取した食物をすべて血と肉に変えるように、また燃え盛る火が投げ込まれたものをすべて炎と光に変えてしまうように、お前は人生を刻苦精励(こっくせいれい)して生き、そして心静かに死というその時を待てばいいのである。お前は素朴純一な人間ではない、また善良な人間でないと後ろ指を指されるようなことがないよう心せよ。そのように語る人間はうそつきだと言われないようにしなければならない。すべてはお前の心がけしだいだ。お前が善良で素朴純一であることを妨げる誰かが存在するとでもいうのか。善良でない人間となるなら、これ以上生きながらえることなどしないと決意すべきだ。

 お前は、天から与えられた材料をもとに、人間の本性に従って、日々の言動や活動を行うことである。そしてそのことを楽しみとせよ。理性をもたない水や火はどこにあってもその固有の働きを続けるということはできない。しかし、理性を持つ者は、それに立ち向かう障害物を自ら排除して、進むことが許されている。この突破する力を見失うな。それ以上のものを求めるな。障害となりうるものがあるとすれば、それは自分の肉体的なものにあるか自分がいだく想念にあるかである。
 人間以外のものは、立ちはだかる障害によってそのものは悪となるが、人間はその災いに対して正しく対処することにより自分をより優れたものにすることができるのだ。国家に害を与えない市民にお前は、害を及ぼすことがあってはならない。また、法を損ねない国家に対して害を加えてはならないのである。つまり、法を損ねることのない市民や国家に害を加えてはならないのである。

 みるからに信頼できる口調で大声で呼びかけ、派手なほめ言葉で人を持ち上げる者、あるいは反対に呪いの言葉を吐きかける者、さらには影に隠れてこっそり非難し嘲笑する者、またわれらが死後の名声を語り継ぎ行く連中、すべてのものが風に吹かれて地上に舞い落ちる木の葉と何ら変わらない。そしてその木には、また新たな葉がつくのである。すべてが束の間のことである。ところが、お前は永遠に生きるがごとくに行動し、あるいはそれらについて考えることさえ避けているが、いつかはその目も閉じる時が来るのだ。そしてお前を葬った者もやがては別の者によって葬られるのである。

 健康な目はすべてのものを見るのであって、緑のものだけを見たいと言ってもそれは許されない。それは病んでいる目だ。聴覚であろうと臭覚であろうと、それらはすべてのものを悦んで受け入れなければならない。健康な精神もまた、生起するすべてのものを悦んで受け入れるものでなければならない。「自分のなすことは何でも人がほめてくれますように」「子どもが助かりますように」と願うことは、緑だけを見ようとする目、柔らかいものだけ求める歯、つまり都合のいいものだけ受け入れるということと何ら変わることはないのである。

 自分が死んでいくとき、この悲しい出来事を喜ぶ連中などいないということは幸福なことではあるが、そのような幸せな人間などいないというのが現実であろう。どんな立派な先生であったとしても、その死の前で「これでやっと、この先生から解放されて一息つける。決してわれわれに辛くあたる人ではなかったが、無言のうちに叱責の目を向けていたと感じていた」と独り言を言うような人間がいないと言えるであろうか。ましてや、先の先生のように、立派でもないわれわれから解放されたいと望む人間はどれほど多くいるであろうものか。
 死ぬ時、このことを想い抱くべきである。自分があれほど一所懸命に闘い、祈り、配慮してやった人々がむしろこの私の死を求め、そこから生ずるある種の清新な解放感にひたっているという状況の中で自分は死を迎えるのである。そのような状況の中で死を迎えるがゆえに、お前は満足してこの世を去るべきではないか。いったい、この世に少しでも長く時を過ごすことに執着する必要があるのか。だからといって彼らに対する親切心を鈍らせて去っていくのであってはならない。友愛に満ち、親切な優しい心をもって去っていけ。ただ、仲間からまるで引き裂かれるようにではなく、朗らかにごく自然に彼らから去っていけ。自然はお前を死によって人々から解放させるのである。死はぎこちなく無理なものであってはならない。なぜなら、死もまた自然に従って生ずることの一つだからである。

 行為のすべてにその目的は何かと探究せよ。それは外部に求めても無駄だ。その答えはお前の内部にある。それをいつも心に銘記せよ。

 


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 理性を持つ人間は、自らの魂で自己がいかにあるべきかを見て、自己が過っていればそれを正して、自己というものをつくりあげ、そしてその成果を自らが刈り取るのである。理性を持たない植物などは、自分で自己をつくりあげることもないし、その成果は他のものにより刈り取られるのである。理性を持つ者は、その生涯の最後がいつであろうと、その目的に向かって進みかつその目的に到達するものである。その意味では、例えば演劇は途中で邪魔が入ると、そこでそれは不完全なものとなってしまうが、人間の人生はそれとは違う。どんな障害に遭遇しようとも、己に課された仕事を充実して行いかつ自足することができていれば、それで完成なのである。さらにその理性は、宇宙全体を考察することができ、永遠の時のかなたまで広がり、万物の周期的再生を把握することができるのである。ゆえに、自分より以前以後の者も、自分が見た以上のものを見ることはないのである。少なくとも40才を超えた者は、知性を持っている限り、当然のこととして今まで起こったことも、今から起こることもすべて見ていることになるのだ。また、理性的な魂に固有なものとは、身近な人々と真実を愛すること、恥じる心を持つこと、そして自己を尊重することである。この意味において、理性と正義や法は同じものなのである。

 音楽や舞踏を個々の音や姿勢に分解して、各々を聞いたり個別の場面のみを見ても決して良いものとは思わないであろう。このことは人生についても言えるのだ。部分的なものに走るのではなく全体をとらえよ。

 死を迎えてもその覚悟ができている魂とはなんとすばらしいものか。それはむき出しの反抗精神に駆られたものではなく、論理立った、威厳のある、落ち着いたものでなければならない。また、他人を説得できるようなものでなければならず、芝居じみた大げさなものであってはならない。私は公共のために生きてきたか。そうであるなら、もう十分報われているはずだ。この真理を肝に銘じて、一瞬たりともなまけることなどないようにしなければならない。立派な人間であるためには、宇宙の原理と人間の原理を知っていなければならない。

 たとえ人生における悲劇といえども、それはなるべくしてそのようになったものである。それを苦々しく思うべきではない。私の運命がどんなものであろうとそれは理由があってのことである。また、事物そのものに怒りをぶつけてもしょうがないのである。また喜劇といえるものもあるであろう。その意図とはなんであるのか。人生とはいったいいかなる目標をもって企画されるのであろうか。お前の今の生活条件は、哲学を学ぶうえにおいて非常にすぐれた状態にあることを考えてみたことがあるか。

 木の枝が隣あう枝から切り離されるということは、その木全体から切り離されることを意味する。同様に、人間がある一人の人間から引き離されるということは、社会全体から逸脱(いつだつ)することを意味する。枝は人間が勝手に切り取るが、人間にあっては、身近な者を憎み、彼に背を向けることにより、自らがその者から自分を遠ざけるのである。そしてそれが社会全体から自分を切り離すことにつながるのである。当然、人間には再び隣のものと共にあるようになり、社会に回復できる機会は与えられるが、そのような離反と回復を繰り返していると、回復がだんだんと困難となってくる。もともと共に誕生し同じ生命力のなかで育ってきたものが、一旦切り取られれば、たとえ接ぎ木されようとも、完全に元の状態には戻れないのである。もちろん、他者と同じ考え方を持てといっているのではない。根幹は一つであるべきだと言っているのである。

 お前が正しいことを行っているなら、誰かがそれを妨害しようとしても、それは不可能である。むしろ、その妨害行為を理由に、彼らに対する寛容な心と温かい心を失うことがないように気を付けよ。いや、進んで次の二つのことに気を付けよ。一つは、自分は誠実な判断をし、誠実に行動をしているかということ、二つ目は、自分を妨害しようとする者や自分に対して悪い感情を抱いている者に柔和な心でいるかどうかということである。すなわち、妨害者に対して怒るということは、自分が正しいとして行っている行為を自ら放棄することであり、その恐怖にとらわれてしっぽをまいて逃げるのと変わらないのだ。つまりお前の弱さの表れなのである。
 妨害者は自分の同胞に背きその絆(きずな)を自ら断ち切ったという意味で、また妨害されることを恐れてその行為を放棄する者も、共に自分の持ち場を捨てた逃亡兵と同じなのである。自然はいかなるものでも、人間の技術に劣るようなものではない。現に人間の技術は、多くの自然のものを模倣して生まれているではないか。それなら、それらのもろもろの自然的なものを包括した大自然と呼ばれるようなものが、人間が生み出したどんな技術や技巧にも劣ることなどあるはずがない。

 あるものを追い求めること、またあるものを避けることによって、お前の心が惑わされるなら、まずお前からそれらについての判断は差し控えよ。そうすればその対象も不動のままであるすだ。魂は、何かに対して突出したり、委縮(いしゅく)したりすることもなく、拡散したり崩壊したりすることもなく、光に照らされ万物の真理とおのれの真理を知る限り完全な形でそれを保持するものなのである。

 人が私を軽蔑しようと、それは彼の思いであり、私には何の関係もない。私の心すべきことは、他人が私が軽蔑に値するような行動をすることを見つけようとしても、見つけることができないようにすることである。私を嫌う人がいても、それはその人の思いである。ともかく、私は人々に好意と親切心を持って行動するのである。そして、私を嫌う人に対して、その過ちを指摘するにしても、決して非難がましい態度を取らず、また我慢しているんだといわんばかりの態度に出ることもなく、誠心誠意男らしい善意にあふれた心で事を為すことである。そういう人間にならなければならないのだ。

 人間は、物事に対しても心楽しめず、苦しみの状況にあることを聞えよがしに神の目にさらすべきではないのだ。お前が本性にかなった行動をし、公共のために為すべきことをしているなら、その状況が悪いことまた、さらに悪くなることなどないからだ。

 人は、内心軽蔑し合いながらも外面では相手に従うような態度をとり、内心では優劣を競いながらも、表向きは互いに譲り合うものである。「ぼくは、単純素朴な態度で君と付き合うことにした」などと言う必要などなにもない。それは態度に自然と表れるものである。そもそも、善良なる人間は彼がそばに近づいただけでそのことが分かる。善良な心持った人間はすべてにそれが表面に表れているものである。恋するものの瞳の中にその想いがおのずと表れ、恋人がそれを理解するのと同じことである。

 善でも悪でもないものには無関心であれ。そうすれば、お前はこの人生を立派に生き貫くことができるはずだ。これらの善でも悪でもないものは、われわれの心に何らある意見を植え付けることもなく、われわれに迫ってくることもなくじっとしているものである。むしろ、われわれがそれらを追いかけ心のなかに留め置こうと、それに対する判断を生み出そうとするのだ。もともと、書かずにすむことであったのだし、仮に書いたとしてもすぐ消せるものだったのだ。それを依怙地(いこじ)になって心に描きつづけたのである。このことに注意するのは人生というわずかの時間の間だけのことだ。そのことで不機嫌になることなどないはずだ。自然に従い、それが本性にかなうことなら、悦んで進めばよい。たやすいことであるはずだ。もし、自然の本性に反していると考えるなら、お前の本性に即しているものが何であるかを探し求めよ。そして自分がかなうと考える道を進めばよいだけのことである。

 もののすべてが、どこからきて、何から成り、何に変わり、そしていかなるものに生まれ変わるか考察せよ。自分の身に被ることは何であれ悪いことなど何一つないはずである。

 第一に、私と人々の関係はどうなのか。われわれは、お互いのために生まれてきたのである。違った論点から言えば、私は人々を監督するために、いわゆる羊の群れを導く犬のような役割のために生まれてきたのである。この世には無数の原子が存在し、それらを支配する自然の本性がある。同様に、多くのより劣ったものと優れたものが存在し、前者は後者のためにあり、後者はお互いのためにある。

 第二に、人々はどのような思いを持ち、何に駆られて、何に強制されて、どんな自負心を持って行動しているのかを考察せよ。

 第三に、人々が正しい行為をしているならそれでよいではないか。正しくない行為をしているのであれば、彼らはたぶん無知であるがゆえにそうしているのである。ゆえに彼らはそれを指摘されると憤慨(ふんがい)するものであることを心に留め置け。

 第四に、お前自身も彼らと同様に多くの過ちをおかすものである。過ちと呼べるほどのものをしないまでも、それを生み出す奴隷根性、名誉欲などの性情は未だ持っているに違いない。

 第五に、人々が実際過ちを今犯しているかどうかが分かっているわけではない。他人の行為についてしっかりと把握するためには多くのことを学びとらなければならないのである。

 第六に、ひどく悩んだり、我慢ならぬと思ったりする時は、人生とは束の間で、遠からずすべてのものは葬り去られると想え。

 第七に、お前を苦しめるのは、彼らの行為にあるではない。それに対していだくお前の意見にあるのだ。それならお前の意見を捨て、彼らの行為が悪いとするお前の判断を捨て去れ。そうすればお前の怒りは消え去るのだ。それならどのようにしたらそれを捨て去ることができるのか。彼らの行為は決して恥ずるべきものではないと考えることだ。なぜなら、恥ずべきものがすべて悪であるなら、お前自身もしょっちゅうその過ちを犯しており、強盗と変わらないといえるからだ。

 第八に、それらの行為に対して抱く怒りのほうが、その行為がもたらす悪い影響よりもはるかに多くの悪影響をお前に与えるのだ。

 第九に、親切心は、それが真のものであればすばらしいものだ。おまえに良からぬことを企てるものには、わが子に対するように、そうすることは、私ではなくあなた自身のためにならないと述べよ。そのことによって害をうけるのは私ではなくあなた自身だと諭すなら、彼は、私に対して害を及ぼすようなことが続けてできるであろうか。そしてそのようなことは、自然に暮らすどんな動物もするようなことではないと指摘することである。ただそれは、皮肉まじりに、非難がましくすべきではなく、他者からの賞賛のためにすべきでもない。周りのものから離れ、ただ本人だけに向かってなすことである。以上の九項目を肝に銘じて、生きているうちにそれをなすことを始めよ。

 人々に怒りをいだくことも、媚(こ)びへつらうこともやめよ。それらは公共を無視し、災いに導くものである。怒りに駆られるときは怒ることが男らしいのではなく、穏やかで紳士的であるのが人間的であり、男らしいのだ。強さ勇敢さは、そのような者の中にあるのだ。

 悲しみが無力なものであり傷つき屈服するものであるように、怒るということも傷つき、屈服してしまうということなのである。もし第十にあげるとしたら、つまらぬ者が過ちを犯すであろうことを予期しなかったことはお前の落ち度だということだ。彼らが、自分以外の他人に対して過ちを犯すのは黙認しておきながら、彼らが自分に対して過ちを犯さないように求めることは、愚かな身勝手なことではないか。

 人の思いの偏りには4つのものがある。一つは、これは必然的なものであると考えてしまうこと。二つ目は、これはけっして社会を破壊するものではないと勝手に判断してしまうこと。そして、三つ目はこのことは私の心の底から発したものではないと言い訳すること。あと一つは、肉体の欲求に敗北してしまということである。

 お前は、自分の体内に存在するもの中で、火のように上昇すべきものでもその場にとどめたり、土のように落下すべきものを押しとどめたりしているのではないか。すべては万有の秩序に従っているのであり、解放と離脱の合図がなされないかぎり、その決められた一定の場所にそれらはとどめられなければならないのだ。何もお前に対して、自然の本性が逆らってそのことを無理やり課しているのではない。それこそが自然の本性に適っているからなのである。それにもかかわらず、お前はその本性と正反対の道に進もうとしているのではないか。不正・放縦・悲嘆・恐怖に向かう動きこそがそれなのである。

 何かの出来事に腹を立てるということは、お前の心の本来のあり方に反するということではないか。変わることのない人生の目標を立て、それを生涯貫け。人々にとって自分の人生の目標は何かと聞いた時、その答えは千差万別であろう。ただ、国家公共に関して自分はいかにあればよいかと聞いた時の答えは、一致するのではないか。国家公共に対するお前の目標をはっきり定めねばならない。そしてその目標に個人的な欲求をすべて向かわせるなら、その人間の行為は変わることのない、不動な人間となることができるのである。

 大衆の考えは、扇動(せんどう)されるとある意味恐いものともなる。人は、客人に対しては、自分を差し置いても歓待すべきである。一方、歓待を受けながらも、みじめなお返ししかできないようなことにはなるべきでない。徳を行い、徳に生きた、過去の偉人をいつも思い浮かべよ。天を見よ。そこには永遠に同一不変の仕事をなし続ける数々の存在がある。

 人に教え導かれる前に、さも知っているかのように人を教え導くな。冬にイチジクを求めること、子どもを産めない年齢になって子どもを求めることもばかげたことである。幼子(おさなご)を愛撫(あいぶ)しながら、お前は明日になったら死ぬかもしれないなというのは、縁起でもないことだろうか。それなら稲の穂が刈り取られるという言葉も縁起でもないことになる。熟していないブドウ、熟したブドウ、干しブドウ、それらは変化である。無への変化ではなく、違う存在への変化である。他人の自主的な決断を強奪しうる人間など現れっこない。

 人は自分の欲求に対して監視しなければならない。 欲求のもととなるものは公共の精神でなければならない。

 

 


 (12)

 お前が達成しようとすること、得ようとするものは、実はお前が自分自身を恨(うら)むことさえなければ、すでに手に入れているのである。今述べた、「自分自身を恨むことがなければ」とは、過去のことはすべて捨て置き、未来のことはすべて神にゆだね、ただ現在のことのみを心にいだき、敬虔(けいけん)に正義に向かって真っすぐに進み行うということである。

 敬虔とは、お前に天から与えられるものをすべて愛することである。なぜなら、それらは自然の本性がお前のためにもたらし、出会わせたものだからだ。また、正義とは自由な精神で真実を語り、法に則ってそれぞれのものにふさわしい行動をとるということである。人の悪も自分の判断も人の噂も、この行動の妨げになるならそのままにさせておいてはいけない。特にお前の肉体的な欲求がそれを妨げようとするならそれを許してはならない。
 いつかは訪れるであろう死を恐れず、むしろ未だ自然の本性に適った生き方をしていないことこそを恐れるのだ。そして日々の出来事を予想外に驚いたり、いたずらに他に頼るような態度もやめるようにすれば、この祖国にとって、宇宙にとってもふさわしい人間となることができるのだ。

 神は自分より流出して人間に入り込んだ、理性というものをそれを覆(おお)うものからむき出しにして見る。そのようにお前も自分の理性をすべて裸にして見る習慣をつければ、お前の心を乱すものから解放されるはずだ。そもそも、自分を覆う肉体などに目を奪われることなく、理性そのものだけを見ている者は、衣装・住居・名声などの類に目を奪われることなどないのである。

 お前を構成しているのは、肉体・呼吸・理性の三つである。前者の二つはお前が世話をする限りにおいてお前自身のものである。しかし、理性は、本質的に真にお前自身である。もしこの理性から他人の言行やお前の過去の言行を引き離し、未来のお前の心を乱すであろうものからも引き離し、肉体やそれに関わるものまた、外からやって来てお前をきりきり舞いさせるもの、そのようなものから引き離すとしよう。それによりお前の理性は、運命のしがらみから救い出され、けがれなき姿となって自由・自主・独立し正義にかない天から与えられるものを悦んで受けるようになるであろう。さらに妄想(もうそう)からのがれ、未来や過去からも解き放たれ、現在のみを生きるように修練するとしよう。その時こそ、お前は死ぬまで心乱されることなく愛情にあふれ、温和な心で変わることなく生きることができるのである。

 人は自分を最も愛するくせに、他人のくだす判断を自分の考えより重視するのはおかしいと思う。人間は自分について考えてはならないとか、心に思ってはいいが口に出してはならないと言われたら一日も我慢できないであろう。われわれは、自分自身の考えよりも他人が自分をどう思っているかを恐れ、気にしがちなのである。

 神々は、有能な最も深く敬虔に神と契約をかわすような、自分をたて祀(まつ)ってくれる人間を一度死ねばもう二度と生まれることはないとして消滅させてしまうのであろうか。万事を人間のために整えてきた神がそのような見落としをしているのであろうか。もしそれが神の見落としではなく、そうすることが正しいとするなら、それが自然の本性にかなったことであるゆえにそれでよいのである。しかし、仮に見落としたというのなら、いまお前が抗議するようなことは、神がこの世を整える時にもした者がいたであろう。そのような状況の中で神は見落としなどするはずがないのではないか。

 とても成功しないと思われるようなことでも諦(あきら)めるな。日常では左手をあまり使わないから右手ほど役立たないと思うかも知れないが、たとえば茶碗を持つことなど左手の方が慣れていることも多くある。要は、訓練して自分のものとしているかどうかである。死が間近に迫ってきたとき、人間はいかなる状態にあるべきかを考えよ。また、人生は短いことを、一方では無限に広がる過去と未来を、またこの世に存在するもののはかなさを考えよ。

 物事の本質は、それを覆(おお)うものをはぎ取ったうえで見ることだ。諸々の行為の目的とは何か。快楽・苦痛・死・名声とはいったい何か。自分を忙しくさせているものは何か。決して人は他人から妨害されることはないがそれはなぜか。すべては自分の考え方が生み出しているのだということを悟れ。原理原則を使用する時は、剣を持つ剣士ではなく、自分のこぶしで戦う拳闘家であれ。剣士は剣を失えば殺されるが、拳闘家は手を失うことなどないゆえに、こぶしを握ればなすべきことはすべて完了するのである。事物を見る時、素材と原因・目的とを分けて分析し、その本質を見抜け。

 神が人間にたいして褒めるようなことのみをして、神が人間に与えることはすべて悦んで受け入れるのだ。自然に生ずること、また必然的なことについて、神も人間をも非難することは許されない。なぜなら、神は一切、誤りを犯さないからであり、また、人間も知りながら誤りを犯すことなどないからである。何事であれ、人生において起こることに驚くことは笑止千万(しょうしせんばん)なことである。この世の出来事は、必然か神の配慮か、さもなければ無分別の混乱かのどれかである。もし、必然ならそれに反抗しても何の意味もないし、神の配慮ならその配慮を受けるに値する人間となればよい。またもし、無分別の混乱なら、その中においてもお前が自分の理性を保ち秩序だって生きているということを誇りに思え。肉体はその無分別に流されるならそれにまかせ、理性だけを良い状態に保て。

 提灯(ちょうちん)の火は燃え尽きるまであたりを照らす。まさか、お前がこの世から消え去る前に真理や正義や慎みの徳がお前から消えてしまうことなどないだろうな。誰かが過ちを犯したと思うなら、まず、どうしてお前はそれが過ちだと考えるのか自問せよ。そして事実、それが過ちなら、彼は自分自身を傷つけるがごとく断罪しているのだと、自らに言い聞かせよ。彼は、自分で自分自身の顔を引き裂いているのだと。つまらぬ人間が過ちを犯すことを快く思わないということは、イチジクが実ること、赤ん坊が泣くこと、自然の営みを快く思わないのと同じことだ。もしそれがお前の性情(せいじょう)だというのなら、お前の行動を慎ましくすることだ。

 適切でないことはするな。真実でなければ口に出すな。すべてお前しだいだ。お前に数々の想いを抱かせるもの、それ自身は何であるかをつねに観察せよ。

 この世の万物は、なにで出来ていて、その存在原因と存在目的は何であるか。また、同時にいつまでそれが存在しつづけるのか、そのようなことを見極めなければならない。

 お前は情熱とかで自分を操り動かしているものよりもより優れたより霊妙なものがあり、それが何であるかを知っているな。まさか恐怖や猜疑や欲望などではないな。まず、行動をする時には、第一に、でたらめに行うのではなく、絶えずその目的を意識すること。第二にその目的とは公共のためになることだけでなければならないということを認識せよ。

 遠からずお前はこの世からいなくなる。その他のものも、この世にあるすべてのものもいつかはこの世から消え失せていく。新たなものを生み出すために、変化し、転換し、滅亡するのである。

 すべては、主観的なのであって、お前の考え方一つでどうにでもなるものだということを心に銘記せよ。あるものを欲してやまない時には、そのものを心から取り除けばよい。そのようにすれば、自分の心をいつも平静に保つことができるはずだ。ある行為をしかる時にやめれば、その行為は悪い影響を与えないし、その行為者も悪影響をこうむることはない。人生におけるすべてのことも同じで、やめるべき時やめれば、どこにも悪影響など生じさせない。その限界とは何か。それは、自然の本性が決めるのであって、われわれはただそれに従っていればよいのである。そして、その限界とは自然の本性がこの宇宙を絶えず新しい状態に保つために定めていることだということは忘れるな。

 全体に益あるものは美しくかつ的を得たものである。人間の終焉もそれが人間が意図したものでなく、社会悪をもたらすものでなければ、醜いものでも悪いものでもない。それが全体に益をもたらし、全体の中で行われるなら、それはむしろ善いものである。神の息吹(いぶき)を受けたものであるのだ。

 まず第一に、でたらめな、正義の道から外れた行いをするな。自分に原因のない出来事は偶然に生じたことかあるいは天の神が起こしたことなのだ。だからその出来事をお前は非難することなどできないのだ。第二に、すべてのものは、誕生により組成され、死により分解される。それはどのような意味をもつのか考えよ。なぜつくられたのか、また分解の結果どうなったのかを絶えず考察せよ。第三に、もしお前が空から自分を含む万物の生活を見たとしよう。いかに多く些細(ささい)なものがうごめいているかを知り、またすべてが束の間のものであり、そこにはびこっているものは空しい虚栄であると感ずるであろう。これら三つのことをしっかりと頭に留め置け。

 お前の考えていること、思いを投げ捨てろ。お前はそれによって救われるのだ。だれもそれをさまたげはしない。すべてのものは、自然の本性によって生じたものだ。それらが過ち犯しても、お前に何ら関係のないことだ。すべては、過去にも現在にも同様に起こってきたし、未来にも起こることだ。自分に起こることで、我慢(がまん)ならない気持ちになったら、以上のことを想いだせ。さらに、お前というものは人類全体と深い関わりを持っているのだ。お前の理性は神を根源とし、そこから流出したものだ。お前の私有物などではない。またすべては人が心に描いたものであり、生きているのは、ただ現在においてだけだということを忘れるな。

 かつてあれほど怒り敵意をもった者や名声や敵意を受ける頂点に立った者が今どこにいるというのか。彼らすべては、煙となり消えてしまったと語り継がれているではないか。いや、語られすらもしないではないか。あるいは、人よりすこしでも抜きんでようとして競り合い反目してきた人間たちのなんと安っぽいことか。天から与えられた環境の中で正しく思慮深く生きることだ。小手先のことにこだわらず、自然に徹して素朴に行動せよ。傲慢(ごうまん)などつゆ知らないと言いたげな仮面をかぶった傲慢な人間こそ厄介ものである。

 神はどこに存在するというのか、その存在を証明できるのかと言う者に対して私は次のように言う。第一に、神々はすでにわれわれの前に姿を現していると。第二に、われわれは自分の魂というものを見たことがない。しかし、それにもかかわらず、その魂というものを尊重している。神々に対しても同様である。神々の力のあらわれというものを私は実際に体験している。そのたびごとに、私は神々の存在を確信し、神々に対して畏敬の念を持つべきだと。

 人生にとって必要なことは、個々のものの成り立ち、そしそれが何であり、その存在原因が何であるかを、すべて知ることである。そして、それぞれの局面で、正しい行為、善き行いを続けることである。それだけである。

 光は、山や壁、どんな障害物によって分けられてもその根源は一つである。われわれも無数の個別な特性をもったものに分けられてはいるが、光と同様にその根源たる理性的魂は一つである。分けられているように見えても魂の根源はただ一つなのである。

 お前はいったい何を欲しているのか。生き長らえることか。感覚を持つことか。欲求か、成長することか。口をつぐむことか。言葉を発することか。しかし、それらが二次的なことであるのなら、それらをあとに回して、理性と神に従うという究極的なものに向かえ。死がそのことを奪い去るとでも言うのか。それなら今のべた究極的なものと死とは矛盾する、併存しないものになるのではないか。

 果てしない無限の時間の中で、どれだけの部分が各人に与えられているというのか。みな、速やかに永遠の中に消えていくのではないか。また、お前に対してすべてのもののうちのどれほどのものが、この大地全体に対してどれだけの場所が与えられているというのか。芥子粒(けしつぶ)ほどもないではないか。このことを肝に銘じ、おごることなく謙虚に自然に従って生き、自然がもたらすままにそれを受けることである。

 正しい行動をする限りは、時間の長短、人生の量などは問題ではない。ゆえに死も恐れるにあたらないものだ。お前は宇宙という大きな国家の市民である。それが5年間であろうと3年間であろうと何の変わりもない。お前をこの世に送り出したものが、またお前をこの人生の舞台から退けるのであれば、何を恐れる必要などあるのであろうか。人生において、五幕を演じようと三幕だけであろうと劇全体を成り立たせているゆえ何の変わりもない。かつて結合の原因をつくったものが、分解を指図しそれを完了させるのである。神がすべてを決めるのでお前に何の責任もない。心穏やかに去っていけ。

 

 


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