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 善とは悪とは何か。それをお前は、しばしば見てきたはずである。今ここに生起するすべてのことは、お前が繰り返し、繰り返し見てきたものなのだということを絶えず念頭(ねんとう)に置け。頭上、足元、どこを見ても見えるものは、過去から変わらぬ同じものだけだ。その同じものによって歴史は満たされているのだ。現在のすべての都市や家それ自体は束の間のものではあるが、すべては過去から変わらぬものにより満たされているのである。一つとして新しいものなどないのだ。この世界の原則は今も変わらず存在する。その原則は消え去ることなどない。しかし、その原則にどのように関わり、それをどのように活かしていくかは全くお前の自由である。

 何事に対しても、私はある見解をもつことができる。もし、持てないようなことがあるとしても何らうろたえる必要などない。自分の精神の外にあるものなど、自分とは何の関係もないものだからだ。このことをしっかりと胸に受けとめれば、毅然(きぜん)とした態度でいられるはずだ。そのような目で眺めればすべてはまた違った新たなものとして見えてくるはずだ。

 水槽に泳ぐ魚たちは、そこに投げ込まれた一片の餌(えさ)に我先にと群がる。それと対して変わらないこの人間世界において、お前は決して優しさを失わず、尊大にふるまうことなどないようにせよ。人間の価値はその人が目指し、精進しようとする努力の目標によって決まるのだ。言葉が交わされる時はいつもその言葉が意味するものを考え、行動する時は絶えずその行為の目標が何であるかを意識せよ。

 私に与えられた力が十分なものなら、私はそれを使って私自身で公共のための仕事をする。しかし、その力が不十分なものだとしたら、今の仕事を他者にゆだねるか、または優秀な助手を雇い、その手助けを受けながら、自分のできる限りの努力をしてその仕事に励む。ともかく、自力にせよ、他人の力を借りるにせよ、私が行うことは、世の中に役立つことでなければならないのは確かだ。 かつて世の中で賛美の的であった多くの人がすでに忘れ去られ、また彼らを賛美した人々さえ、とうの昔にこの世を去っている。

 人から助けを受けることを恥じるな。どんな形であるにせよ、お前には課せられた任務を果たす必要があるからだ。たまたま、お前が力不足でそれができない時、他人の助けを借りればできるならその助けを頼りしないことが良い事なのか。未来のことに心を煩わせるな。その時には、今お前が処理できているように、同じくその力でそれらに対応できるに違いない。

 すべてのものは、神聖なかたちでつながっているのだ。何一つ孤立無縁なものはない。なぜなら、すべてのものは、この同じ一つの世界をつくりあげているものだからだ。この世界は一つであり、それは万物により構成され、神は唯一で、その中のすべてのものを貫き、素材も法も理性も真理もすべて一つなのである。

 あらゆるものは、それが生み出された根源の中に戻りそして消滅する。すべての原因や記憶も同様にその源である万有の理性の中に立ち戻り、消滅していく。われわれ理性あるものにとって、自然にかなうということと理性にかなうということは同じことである。自力で立つか、人の力で立たせてもらうかの違いだけである。手足がお前の一部であるように、お前も理性あるものの一つとして他と協調するようにつくられたものである。お前は、この宇宙の本性の手足そのものなのなのである。もし、自分は宇宙の本性の単なる付属物に過ぎないなどと思っているのなら、人に対し善行を行う時、真の喜びを感じることなどできない。単に義務として履行しているだけだ。しかし、その手足を担っていると思うなら、それを行うことに悦びを感じるはずだ。

 自分に外界からやってくるもので、自分のところにやってきてほしいというものがあれば、何でも拒んではならない。それらのもののうちで自分に対して良からぬものがあったとしたら、非難すればそれですむことだからだ。しかし、私は自分の身にやってきたことは、たとえどのようなものでも悪いものだとは考えない。なぜなら、未だ何一つとしてそれらのもののうちで私に害を与えたものなどないことを知っているからだ。そして私はそれらを悪いものだと考えないようにすることはいつだってできることなのだ。

 人が何をしようとまた何を言おうと、私は常に良き人間でなければならない。たとえば、エメラルドは、人が何をし、何を言おうと私は輝き続けると言うであろう。

 自分の理性が自分自身を苦しめることは決してない。たとえば、お前を恐怖におののかせて、何らかの欲望に駆り立てることなどない。もし仮に、他人がお前の理性に恐怖や苦痛を与えるようなことをするとしても、そのままにさせておけばよい。理性そのものは、対象を醒(さ)めた目で洞察し、事態に冷静に対処するものであるのだ。理性が、本来の道をはずれることなどないからである。ただ、肉体については、そのようにはいかないので、絶えずひどい目にあわないよう注意しなければならない。しかし、精神は違う。自分から意図的なものを持ち出さない限り、精神が惑乱することなどない。自分が自分に障害を与えないかぎり、何ら心配する必要はないのである。精神は外部からやってくるものからは全く自由なのである。

 お前は変化を恐れるのか。変化なくして何が生まれるというのか。この世に変化なくして成し遂げられるものなどあるのか。薪が燃えて変化しないとしたら風呂に入れるのか。食物が変化しなければ、われわれは栄養が摂れるのか。すべて変化が必要なのだ。当然、お前にも変化が必然なのだ。しごく、あたりまえのことではないか。
 万物は、われわれの身体の各部分と同じように、相互に関わり合いながら、作用しあい生成において宇宙全体と一体となっているのである。

 永遠の時は今までどれほど多くの人々や事物を飲み込んできたのだろうか。このことを肝に銘ぜよ。私の不安は、自分が人間としての本来するべきでない行動をしてしまうのではないかということである。また人間としての本質が今、すべきでないとされる行動をしているのではないかということである。身近な大事なことを人間は忘れがちなものであることを心せよ。

 過ちを犯す人間をも愛せるのは人間だけである。もし、愛せないとしたら次のことを思い起こせ。彼らは無知のゆえに過ちを犯すのであるということを。彼らももとはお前と類を同じくする者であることを。彼らも自分も遠からず死んでいく者であることを。彼らは、お前を悪に導いたのではないゆえにお前に何ら害などもたらしてはいないことを。

 自然の本性は馬をつくり、同じ材料で樹木をつくり、今度はそれを溶かして人間を作った。そのようにして、万物を生成してきたのである。そして、それらのすべてのものは、ほんのわずかの期間この世に存在したにすぎない。あるものが壊されるということは、新たなものがつくられるということで、何ら恐れることではない。怨恨(えんこん)や怒りなどでゆがんだ顔は自然に反していて実に醜(みにく)いものである。そして繰り返しそのような顔をしていれば、その人間の容貌(ようぼう)すべてが、二度と元に戻らないほど醜悪(しゅうあく)なものになってしまうのだ。まさしく、それは自然に反することであり、もし、過っているということに気づかなくなったら、その人間は生きる価値など失ってしまうことになるのだ。

 自然の本性は、宇宙の永遠の若さを保つため、お前の目にしているものを使っては絶えず新しいものに作り変えているのだ。他人がお前に対して過ちを犯した場合には、まず彼は何を善、何を悪と思って過ちを犯したのかを考えてみよ。この点を考えてみたら、相手に同情して、いぶかることも怒ることもないであろう。第一、お前も彼と同じような、本質的に変わらない善悪の観念を持っているのなら彼を許してやらなければならない。またもし、そのような善悪の観念をお前はもはや持っていないというなら、彼の誤りに温かく好意をもって接してやらなければならないのである。

 在りもしないものを在ったらよいのにと考えるのはやめよ。現在あるものの中の良いものがなかった場合のことを考えてみよ。そしたら、お前は血眼(ちまなこ)になってそれらのものを探し求めるのではないか。ただし、それらを最高のものとしてしまい、それを失ったら心乱してしまうことのないように心することは必要なことである。

  お前は自分のうちなる理性に従い、正しい行いをせよ。そして、そのことにより心が平安であるならそれで良しとせよ。外のものによって動かされるような、操り人形になるな。今この時に目を向け、自分や人々に対して起こる出来事をしっかりと認識せよ。自分の最後の時のことについて考えてみよ。ひとの犯した過ちなどは、生じた場所にそのままにしておけ。

 人の言葉をおろそかに聞かず、それにいつも意識を集中させよ。ある主体がある行為をする時、その主体と行為の両方の核心にまでお前の精神しっかりと向けよ。

 素朴純一であれ。恥じる心を持て。美徳とも悪徳とも言えないものに関心を向けるな。これらに注意して、ともかく自分を磨け。

 人類を愛し、神に従え。いろいろな色をしたもの、甘いもの苦いものなど雑多に存在しているように見えるが実はそこにあるのは元素だけなのだ。もし、この世に存在するものが原子だけであるなら、死とはその原子が散らばることであり、この世界に一体化した何かがあるなら、死とは変移であるのだ。

   苦痛は人をまいらせてダメにしてしまうものだから、苦痛が持続しているということは、実は、それに耐えているということ、耐える力を持っているということなのだ。人間の精神はそれらの苦痛からうまく退くことにより、自己の平静を実現し、自分の理性が傷つけられることをうまく防ぐのだ。それに対し、肉体に対する苦痛は、どんなものかを自分で把握することが必要である。

 名声について考えてみよ。人をほめそやす連中の精神の正体とはいかなるものであるかを見破れ。堆積物(たいせきぶつ)は積もるごとに以前に積まれたものを隠していく。人の世にあっても同じで、前のものは後のものによって隠されることの非情さを悟るのだ。

 国を治める者は、たとえ人に親切にしても悪く言われるものである。顔は、その人の心のありようによって形作られる。そしてその心とは自分自身で作り上げるのではないか。もしそうすることができないのならそれは恥ずかしいことである。

 事物に対して怒るべきではない。事物に対して怒ることに何の意味があるのか。お前は、神にそして他者に喜びを与える者であってほしい。

 実った稲穂を刈り取るようにお前の人生の実りを刈り取れ。もし、お前とお前の二人の息子が神々から見放されたとしても、それは理由のあることだ。善と正義はお前の味方であるはずだ。

 人と一緒になって嘆き悲しむようなことはするな。お前はある行動を行う時、真っ先に死や自分の身の危険を考えるようなことであってはならない。まず、自分は今正しいことをしているか、不正をしてはいないかだけを考えよ。また自分の行いは善人がすることか悪人がすることかをいつも考えよ。

 自分の意志であろうとあるいは他者の命令であろうと、自分が最善であると考えてそのことをなしているなら、たとえ危険があっても毅然としてそれに立ち向かうべきである。自分命が長らえるかどうかなどは問題外のことである。人間ただ長く、ともかく生きていればよいというものではない。いたずらに命に恋々とすべきではない。いつ死ぬかなどの運命は神に任せておけばいいのだ。ただひたすら、生きていくこれからの歳月を、どうしたらより善く立派に過ごすことができるかだけを考えよ。

 星々がどのように動いているか、この世の諸々の元素がどのように変化しているかを考察することで、地上の生の汚れを拭い去ることができる。地上にあるすべてのもの、すべての出来事を上空からながめるような見方をして、それらに対する考えを深めよ。それらは、家畜の群れ、農耕、結婚、離婚、出生、死亡、裁判、荒地、祭、広場など混沌(こんとん)とした相反するものの集合ではあるが、そこには見事な調和と秩序があるではないか。

 過去の王朝の頻繁(ひんぱん)なる盛衰の歴史を省み、またこれからの未来どれほどの国々が生まれては滅びることであろうかを考えてみよ。しかし、それでも諸物は今までと全く同質で変わらず、今後も今までの規則に従ってすべてのものは生まれ変化していくはずだ。決して今までの秩序を逸脱(いつだつ)することはありえない。そのことを想い描けば、40年という一生も1万年の生も変わりはない。長く生きれば、それだけより多くのものを見ることができるということにはならないのだ。大地から生まれたものは大地に、天空より生まれたものは天空に帰るのである。人々は死を逃れんとしてひたすら供物をささげたり、呪文を唱えたりするが、人間は、自分に下された運命にただ従うのみしかないのである。

 私は、たとえば肉体的な力などは他者より劣るが、公共の精神に富んでいること、慎み深い心を持っている事、節度のある行動ができること、身近な人々の誤りに対して不機嫌にならず優しい心で接することができること、そういう点においては、誰よりも優れていると思う。神々と人間に共通する理性をもって事を行うなら何も心配することはない。正しい道を進み、人本来の成り立ちに則った活動をし、また世のためになるとされることを行うなら、自分を阻(はば)むどんな障害も起こりえない。

 現在の状況に感謝して満足し、回りの人々には正義に則って接し、自分の想念には絶えず気を配ること。それらは、いつどこにおいてもお前はしようと思えばできることなのだ。回りのことばかりを気にするのはやめよ。自然の摂理は、お前の身に生ずることをとおして、お前をどこにどのように導こうとしているのかを絶えず考えよ。またお前の本性は、その行為によってどこに自分自身を導こうとしているのかを思案せよ。

   人だれもが行う行為は、人間としての本質的な成り立ちに従ったことである。それでは、人間の本質とは何なのか。第一は、公共的要素にあるということだ。そして第二は、理性を持ち肉体的な欲求や感覚に対して抵抗できるということである。これらは、動物と異なる知性という最高のものを備えている人間にこそあてはまるものである。さらに第三には、軽率な行動や過ちをおかさない部分を持っているということである。つまりこれらのことから、人間の本質たる理性に従い、ただまい進すればそれで良いということになるのである。

 天から与えられたこの残された人生を自然に従って生きるのだ。そして、運命によって自分に起きること、遭遇(そうぐう)することをもっぱら愛することが必要だ。どんなことに遭遇しようと、悲しんだり、悩んだり、動転したり、悪口を吐くような人間にはなるな。お前は、自分が出会う出来事に隙(すき)なく対処できる人間となれ。そのようにあろうとすれば、自然とその力はお前の身につくはずである。ともかく、いかなる行いをするにせよ、自分の意にかなった立派な行動をせよ。自分の心を徹底的に掘り下げていけ。お前の心の底には善の源となるような泉がほとばしるほどの勢いで流れているのだ。

 健康で強い肉体も保て。精神が肉体に影響を及ぼすように、肉体も健全でなければ、人間を善の状況に導けない。生きる術(すべ)は、思わぬ攻撃に対して備えるという点では、舞踏(ぶとう)ではなくレスリングに似ているのではないか。自分の証人になってほしいと思う人間については、その人を徹底的に知ることが大切だ。そのうえで彼らに証言を託するのでなければならない。

 人は、容易に正義・慎み・親切心などを失いやすいということを絶えず頭に入れておけ。そうすれば他人にさらに優しく接することができるようになる。苦痛とは恥ずべきものではなく、精神を劣悪化させるものでもない。それが、理性というものから発して、国家公共に関わるものであるなら、精神を頽廃(たいはい)・崩壊させるものでは決してない。苦痛は、自分で勝手に思いこまない限り、耐えられないものではなく、永遠に続くものでもない。確かに、苦痛はわれわれを不愉快(ふゆかい)にし、不機嫌にするものである。自分が不愉快、不機嫌になっているということは、その時点で苦痛に負けているということであるということは事実なのだ。人間嫌いが人間にいだくような感情を、お前は人間嫌いな人に対していだくな。

 名声高い死を遂げたソクラテスを見よ。寒い夜も泰然として過ごし、気高き勇気を保ち、歩く時は上を向いて悠然(ゆうぜん)と闊歩(かっぽ)し、神に対し敬虔で、人に対して正しく、世の中の悪に悩みもだえることもなく、他人の無知に追従(ついしょう)もしなかった。また、天から与えられるものに、自分には関係ない異質なものだというような態度でもって受け取ることもなく、当然耐えられないものだといわんばかりの態度で不承不承(ふしょうぶしょう)我慢するというようなこともなかった。肉体の状況に影響を受けやすい精神を、絶えず管理し理性的に生きたのである。

 人間が自己の領分において、自分の力で事をなすことは許されている。人知れず、神と変わらぬと言えるほどの生き方をすることも不可能なことではない。そのことを忘れるな。

 幸福な一生を送るには、ほんのわずかなもので事足りるのだ。確かにお前は、論理学や自然学の学者になるという夢は失った。しかし、道義心、公共の精神、神に対する敬虔な心や志を失ってはならない。たとえ、人がどんな悪口を言おうと、肉体的にどんな目に合おうと、無理なあり方をせず、明朗な生き方を貫け。そして絶えず平静な心を持ち、周囲の事物に対して正しい認識を持ち、手に入るものを喜んで使用するなら、お前の生にどんな障害も現れない。そのようにすればお前の行動は、元来人がすべきであったこと、人が求めていたこととみなされるようになるはずだ。なぜならこの世にあるすべてのものは、理性的な公共的なものの材料となるものであり、神や人間にとって本来的なものであるからだ。

 最高の人格とは、一日一日を自分の最後の日だと思って生活し、心が激することもなく、無気力にもならず、偽善にも陥らない人間のあり方なのであるのだ。

 神々は不死の身であるため、どれほどの数のつまらない者に我慢してきて、また今後も我慢しなければならないであろうか。それなのに、何一つ不機嫌な顔などされない。それどころか、あらゆる仕方で人々に数々の配慮をされている。ところがお前はやがて死ぬ身であり、しかもお前自身がつまらぬ者であるにもかかわらず、つまらない者を前にしただけで意気消沈するとでもいうのか。

 自分自身が生み出す悪に対して自分の身を守ることもしないで、他者からの邪悪から身を守ろうなぞお笑いだ。お前が親切を尽くし、相手が親切にされたと思うなら、それだけで良いではないか。それ以上の何を求めるのか。世の評判か、それとも見返りか。

 人が自分のためにあれこれしてくれているのに、それがいやになってもう結構だという人などいない。「他人のためになる」ということは自然に即した行為なのである。自分が人のためになり、自分も人から同じようにされることをもう結構だというようなことは決してあってはならない。万有の本性は、秩序ある宇宙を創ることを意図としたのだ。以上のことを心にあたためていれば、どんな時でも平静でいられるはずだ。

 


(8)

 全生涯を哲学者として暮らすことはもちろん、若くしてそのような生活をすることが不可能になったこと、それどころか自ら哲学の道から遠のいたことを反省すべきだ。今のお前は世俗的なことにどっぷりとつかり、また日々の仕事もあることから、哲学者として評判を得ることはもはや難しくなった。それであるなら、大事なことは何か。人から何と思われようとも、これからの残された人生をお前の本性に従って生き、それに満足するということだ。それではその本性とは何か。ともかく、それをしっかりと考え、他のことには頭を悩ますな。実はそれをお前はすでに知っているはずなのだ。それは、富にも名声にも享楽の中にもなかったであろう。それは、人間を正しく、慎み深く、勇敢に、自由な精神に導く善の信条の中にのみあるのだ。

 一つ一つの行いをなすにあたって、絶えず次のように自問せよ。この行為は自分にとってどんな意味をもっているのか。そのように行動したことを、あとになって後悔することがないのかと。私もそうだが、私を含めて、所詮(しょせん)すべてのものはいくばくもなくして死によって消えてしまうものである。今の自分の行いが理性的で公共の役に立つことであり、人間としてなすべきことを外れていないなら、何をほかに求める必要などあろうか。過去のどんな国の支配者も古の偉大な哲学者に比べればどれほどの者であったと言えるであろうか。偉大と言われた哲学者は、事物の素材とその運動の原因そしてそれらを支配しているものが唯一つのものであることを見抜いていた。しかし、前者の人々は各々の事物や出来事に対してとらわれ、どれほど振り回されていたことであろうか。たとえお前が胸の張り裂けるような思いをして事をなしても世間一般の人々は今日も同じことを繰り返すだけである。

 あれこれ思い煩って心を乱すようなことをするな。すべてのものは、万有の本性にしたがってこの世に生まれ、そして消えていくだけのものなのだ。一方でお前は、すべての事物を注意深く観察して、その正体を見抜く必要がある。当然その時のお前は正しいものの見方ができなければならないのだが。そして、人間の本性は何を求めているかを想い描き、わき目も振らず、ただ正しいと思うことだけを実行せよ。温かい好意にあふれ、慎みの心を持ち、偽善(ぎぜん)をしりぞけよ。

 万物の本性は、ここにあるものをほかの別の所に置き換えたりして、この世に千変万化をもたらしているのである。しかし、お前は見たこともないもの、経験したことのないものの出現を恐れる必要はまったくない。なぜなら、万物の本質的なもの、また万物の配置は何百年たとうとも実は変わらないものだからなのだ。すべてのものは、その本来の道をひたすら進めばそれでよいのである。想念とは、虚偽のものにそれを向けそれに同調しない限りは常に正道を歩むものなのだ。欲求に対しては、公共のこと考えて行う限り何ら問題は生じない。また、われわれが制御できるものだけを対象とすればよく、自然がわれわれにもたらすものを、すべて悦んで受け入れるなら、すべて良い方向に進むものなのだ。

 人間も、もとをただせば自然の本性の一部分なのである。自然は人々にその人の力に応じてではあるが、すべて平等に対処する。そこに不公平など存在しない。ただし、その平等は一つ一つのことに対して貫かれるのではなく、各々の時間経過も含む総体に対しての平等であることを頭に入れておく必要はある。

 本を読んで勉強するような時間は、今の私にはない。しかし、傲慢(ごうまん)を慎むこと、快苦を超越すること、名声にこだわらないこと、人の恩を感じない者に怒らず、そのような者にも気配りしてやることはできるはずだ。宮廷生活を口実とするような言葉を、他人に対しても自分に対しても決して発するな。

 後悔とは、良いことをしなかった自分に対して向けられるものである。徳ある人間は、その機会がある時に良いことをしないことなどはありえない。徳ある人間が自分の一時の快楽を取りこぼしたとしても後悔はしないはずだ。なぜなら快楽は良いものでも、ためになるものでもないからだ。事物を見るにつけ、それがいかなるものであるか。それを存在させたものは何であるか。その素材はいかなるものなのか。それが存在する原因とは何か。何をなすために、いかなる期間それは存在するのか。それらを考えよ。

 眠りとは理性のあるなしに関わらず、動物の本性にかなったものである。同様に、公共の仕事をすることは、まさにお前の本性にかなったことであるはずだ。

 自分の想いに対して、常に自然学的、情念論的、論理学的に考察することが大事だ。人に出会ったとき、まずその人間は善悪に関してどのような考え方を持っているかを見抜け。そうすれば彼の行動がいかなるものであろうと、ただその考え方に従って行動しているに過ぎないと言うことが分かり、決して驚くことなどなくなるはずだ。イチジクの木がイチジクの身をつけたといって驚く人などいないように、この世界が何らかの成果をもたらしたからといって驚くことなど何もない。また、医者が患者が熱を出したといって驚くことも、船長が向かい風が来たからと言って驚くこともおかしなことである。

 お前が批判者の言うことに従って自分の道を変えたとしても、自分がそうすべきだと考えて行ったのなら自ら意志で行った行為と何ら違いはない。ある行為がその人の自由裁量にまかされていて、あまり良からぬ行為を行ったとしてもその人を非難などすべきではない。なぜなら、お前はその人を正しい方向に導けるなら、ただしてやるべきだからだ。仮にそれが不可能であっても、非難することはおかしなことである。そうすることが、お前にとって何の役にも立たないことだからだ。すべての人は何らかの意図をもって行動しているということは当然のことである。

 人間が死んだら、この宇宙の外に捨てられるわけではない。この宇宙で変化し、自分を成り立たせたもとの諸元素に分解されるだけのことだ。そしてその諸元素はまた別のものを成り立たせるもととなる。しかし、このことに諸元素は何一つ不満などもらさない。動物であろうと植物であろうと、すべてのものは、存在する目的があって生じたものである。それをお前は疑うのか。われわれは、ある仕事を果たすためにこの世に生まれてきたのではないのか。まさかお前は、ただ自分が楽しむだけのために生まれてきたとは考えていないよな。そのような考え方が批判に耐えられるものかよく考えてみよ。たとえば、まりが上昇し下降して落ちるように、すべてのものはその本性に従って生まれ、存続し、そして消えていく。まりにとって上昇することに何の良い事があり、下降して落ちることが何か悪いこととでもいうのか。泡が結びはじけ消えるのも、火が付きそして明るく照らし消えるのも全く同じことだ。

 人間の肉体は、老いるし、病気になることもあり、そしてついに死もむかえる。その意味とその正体を見抜け。賞賛する者もされる者も記憶している者も記憶される者も皆、その命は短くはかないものである。それは変わることのない原則である。それなのにこの大地の一隅であるこの地においても人々の協調はむずかしい。自分が自分自身と協調することでさえできないありさまだ。この宇宙から考えればほんの一点にもすぎないこの地でこのような状況なのである。存在するもの、その活動、人々の考え、その言葉の意味するものに心を向けよ。このような目にあった、あのようなことに遭遇したというが、それも当然のことなのである。ともかく、いつも明日に向かって今日よりは立派な人間になれるよう心掛けよ。

 私は人々に親切にし、恵みをもたらすことを旨として行動する。どんなことが私の身に起ころうとすべて心静かに受け入れる覚悟でいる。良いことも良いものも、嘔吐(おうと)をもよおすようないやなことやいやなものも人生には起こるし、世の中には存在するのだ。

 歴史上の偉大と言われた人間もある時は権勢をほしいままにし、やがては衰えあるいは策にはまり滅びていった。ある者は、束の間の記憶にも残らず、ある者は昔の物語の中の人物に姿を変えた。その物語からさえも消え去っていった者も多くいる。お前もやがてはその肉体は滅びる、呼吸もなくなり、消滅し、別の世界に移動する時が来るのは間違いないことだ。

 人間の喜びとは、人間本来のあり方に従って行動することにある。具体的には、他者に対して善意で接すること、感覚的なことに惑わされないこと、物事の是非を的確に判断すること、すべてのものの本性とそれに従って生起するすべてのものについての認識を深めていくことである。魂を包む肉体とはどのようなものであるのか。あらゆるものの誕生ということの根源には何があり、また何が原因となってものは生まれるのか。この世でともに生きている他者とはいったい何であるのかをじっくりと考えよ。

 苦痛とは肉体にとって悪いものなのか、あるいは魂にとって悪いものなのか。もし、肉体にとって悪いものであるのなら、その苦痛をそのまま表に出すがよい。しかし、魂に対するものなら、魂を平静に保つことによって、苦痛自体を立ち去らせることができるのではないか。たとえば、批判・意欲・欲望・忌避(きひ)などは魂の内部に生じることで、外部のものがそこに侵入してくることはないのではないか。このように絶えず自分に言い聞かせて、心に湧き出る感情を制御できるようになれ。自分の心に一つの悪も、一つの卑しい欲望も、どんな困惑も生み出さないようにすることはできるのだ。

 すべてのものの正体を見抜き、それにふさわしい取扱いをせよ。そういう能力をお前は持っていることを忘れてはならない。いついかなる時でも節度を守り、健全な言葉を使え。

  生まれ出た人間は、いつかは死んでしまうし、自分の一族の血筋だけは残そうと心を砕きつとめても誰かは最後の者となり、そしてその一族は絶えてしまうのである。人生とは一つ一つの行いから成り立ち、その一つ一つの行為が人生における自分の使命を果たしているのならそれでよいのである。そしてその限りにおいて、基本的にはその行いを妨害する者は一人として存在しないのである。しかし、外部からその行為を邪魔(じゃま)しようとするものは、時として現れてくるであろう。ただ、それは、お前が正しく、思慮深く、理にかなった態度をとることそのものを妨げるものでは決してない。それでも、確かにお前の行為の一部が邪魔されることはあるだろう。その時は、心にゆとりを持ち、邪魔するものに対して微笑(ほほえ)め。そうしたらおのずと人生の組み立てに沿った新たな道が眼前に示され、そちらへと行為がおもむいていくのである。

   受け取る場合は、横柄な態度はとらず、手放す場合はいやいやながらするな。自分の人生に生ずることを喜ばず、それから離れようとするものや公共を無視したことをなす者は、自分の手足や首を胴体から、自ら切り離す者である。お前は、宇宙の本質という統一体の一部として生まれたはずだ。それなのにお前はそれから切り離されたものとして、いや自ら切り離して生きているのではないか。もしそうであるなら、神は自ら離れたものが、もう一度戻ってくることを拒みはしないということ、その神の恵みというものを考えよ。

 宇宙の普遍的本性が、すべての理性的生き物にその理性という能力を与えたのである。われわれ人間も当然その仲間なのである。普遍的本性は、自らを妨害し邪魔するものもすべてを天命に向かって方向づけ、自分の組織の中に組み込み、自己の一部とするのである。それと同じように、その本性を分け与えられたわれわれも、すべての障害物を自己の材料として取り込み、自己の望むところに向かって用いることができるはずだ。

 人生についてあれこれ思い、心乱されるな。どんな苦難に見舞われるだろうかなどと将来を思い煩うべきではない。現在のことのみに専念し、それに対処する時、次のことを自問すればよいだけのことだ。この仕事のどこが耐えがたく手に負えないものなのかと。今現在のことに、想像できないような苦難などあるはずがない。また、今自分の心にのしかかっているものは、過去でも未来のことでもない。現在のことだけである。もし、それだけを取り出せば、それに対抗できない自分などあろうはずがないではないか。それができない精神なら、もっと自分自身を叱責(しっせき)・叱咤(しった)すべきではないのか。

 何千年も前の偉人の墓の前に今もうずくまって悲しんでいる者がいるであろうか。仮にいたとしてもそのことが、死んだ偉人に分かるのか。さらに聞くなら、それが分かったとして、それによって死んだ偉人はうれしいのか。仮に偉人が喜んだからといって、うずくまっていた連中が不死になるとでもいうのか。偉人の死を悲しむ者も、やがて年を取り、死んでいくのである。彼らが死んだあと、偉人たちは何をしようというのか。死後において敬われることに、いったいどれだけの意味があるというのか。もしお前が、自分に苦痛を与えていると思われるものに対して、そのものの想念を捨て去ることができるなら、お前はそれでその苦痛から逃れることができ、そして精神の安泰を得るであろう。お前は、理性を持つがゆえに自分で自分を苦しめているのではないか。そういうことを考えてみる必要がある。

 感覚器官の障害、欲求に関する機能の障害は自然の中で暮らす植物や動物にとっては悪そのものである。同様に、理性の障害は、理性を有するものにとっての悪である。さて、そこでお前自身について考えてみよう。もしお前が無制限な欲求のいうままになったとすれば、理性的な存在者としてのお前にとってそれは悪以外の何物でもなくなる。そのようにはならず、ともかく万人に共通なものから逸脱(いつだつ)しなければ、何の障害もないのである。

 理性の働きを他人が阻害することなどない。火であろうと、暴君であろうと、中傷であろうと、何ものも理性を傷つけることなどできない。理性は自分自身が完璧を保とうとすれば、それを保持することができるものなのだ。私は自分を痛めつけることなどない。なぜなら、自分以外の他人さえ意識して痛めつけたことなどないからだ。人の心を悦ばせるものは、人それぞれによって異なる。私はといえば、自分をしっかりと制御できて、他者に嫌悪の念をいだかず、すべてを好意に満ちた温かいまなざしで見て、そしてそれを受け入れ、各々をその価値に即したあり方で待遇する時である。

 死後の名声を追ったところで何になるというのだ。後世の連中も今のうっとうしい連中と変わらない人間の再来ではないのか。そして、彼らもまた死んでいく運命のものである。後世の連中が今の連中と同じようなことを言ったとしても、いったいそれが何なのか。誰かが私をどこかに放り出そうと一向にかまわない。どんなところであろうと私は明朗に自足して生きていく。

 そもそも、私がどこかに放り出されるということが、私の心を乱し、堕落させ、恐怖にさいなむことにつながるのか。それが私を欲望の虜(とりこ)にする理由にでもなるというのか。とはいえ、そもそもお前はどこかに放り出されるようなことを今までしてきたのか。人間に対し人間的でないことは生じないのだ。牛であろうとブドウであろうと、石ころであろうと、すべてのものがその本性にかなわぬことは生じないのだ。そうであるなら、お前はお前の前で起こっていることに憤慨する必要などないはずだ。自然の摂理は、お前の本性が耐えられないようなことをお前にもたらしはしないのだ。

 お前が何か苦しむ場合、お前にその苦しみを与えているのは、お前の外にあるものではなく、それに対するお前の内部の判断なのであることを認識せよ。それなら、その苦しみを打ち消すことは、お前の力で十分できるはずである。もし、それを打ち消すことを妨げるものがあるとしたら、それはお前自身ではないのか。また、お前がある健全な行為を自分がしていないといって悩むなら、悩む前になぜそれを実行しないのか、実行すればいいだけのことではないか。もし、自分にはどうすることもできない巨大な力がそれを阻(はば)んでいるというなら、逆に悩むことはやめよ。なぜなら、その原因はお前自身にはないからだ。しかし、もし、それが実行できなければ、自分の生きがいがなくなりますと言うかもしれないが、それでも、優しく温かい心で、お前は、そのお前を阻むものに接してこの世から去っていくべきなのだ。

 自分が望まない、なすべきでないと思うことを絶対にしない。そういう心と態度を持つことができれば、何事にも負けることはない。情念を超越する者は、難攻不落な心を持つ者であり、憂いのない人生を送ることができるのである。このことを知らない者は無知であり、知りながら実践しない者は不幸である。他のものに対して、最初に得た印象以上のことを自分の中につくりあげるな。誰かがお前の悪態をついていると聞かされれば、ただその事実だけを受け入れ、それ以上のことを想像するな。悪態をついたという事実があるとしても、そのことにより、お前は何の直接的な害も受けていないはずだ。ともかく、第一印象以上に自分の心が新たに発するものを付け加えるな。そうすれば、何事も新たに起こることなどないのである。

 苦いきゅうりは捨て、道の上のいばらは傍らにどければいい。なんでこんなものが宇宙にあるのかとあえて文句を言う必要など何もない。大工の仕事場を訪れてかんなくずが出ることに文句を言ったり、靴職人のもとで皮の切れ端が出ることに文句を言ったら物笑いの種になるのではないか。それはともかくとして、彼らはそのくずを捨てる場所をちゃんと持っているのである。自然は、自己の限界を区切り、自己のうちにある破壊されたもの、老化したものをすべて自己に同化させ見事にそれらから新たなものを生み出している。自然は外部からの素材を必要とせずまた、老廃物の投棄場所も必要としないのだ。それは見事に自足しているのである。

 すみやかに行動すること、人と会話する時には話をもつれさせないこと、気持ちをあちこちにフラフラさせないこと、魂が委縮(いしゅく)することもなく興奮することもないこと、あくせくといたずらに忙しがらないことが大事だ。きたない言葉を吐かれ、他者からなじられ、呪われようと、そのことと自分が精神を清浄に保ち正しくあることと何の関わり合いもないことである。底まで透き通るような泉のそばで雑言を吐いたとしても、泉は清らかな水を噴出し続けるのだ。たとえどんな汚物を投げ込もうともたちまち洗い流し浄化してくれる。単なる水槽ではなく、このようなこんこんとわき出る心の泉をお前はどのようにしたら手に入れることができるのだ。いついかなる時も、自分に対して厳しい目をもち、おのが身を慎み、親切、素朴、謙虚の心で自由な明鏡の境地を導くことでそれは可能となるのだ。

 宇宙が何であるかを知らない者は、自分が今どこにいるかも知らない者である。自分が何のために生まれたかを知らない者は、おのれが何者であり、宇宙とは何であるかを知らない者である。これらを知ろうとしない者は、自分の存在理由など語ることができない者である。自分が今どこにいて、何者であるかを知らない者が、他人がお前を拍手喝采(はくしゅかっさい)しほめそやすことを避けたりあるいは求めたりすることなどできるのか。

 自分をいつも呪う者にお前は褒められたいか。自分に満足できないような人間に気に入られたいと思うか。事あるごとに後悔するような人間が、自分に満足などできると思うか。ただ単に回りの雰囲気に同調して生きるな。いつも自分の理性を働かせてその理性の力を体中に浸透させよ。理性の力は空気のように呼吸する者に浸透していく力を持つのだ。

 悪とは決して宇宙を害するものではない。またある一部分に関わる悪が、その外部に害をもたらすこともない。ただ、自分の受ける悪から逃れる力を持っている者に対してのみ、それは有害なものとなるのだ。

私が自ら選び行うことに対して他者は何の関与もすることはできない。自分と他者は相互依存の関係にあるとしても、各々の自主性は保たれている。もしそうでなければ、他人の悪が私の災いとなってしまう。神は決してそのようにならないようにされたのである。私の幸不幸が他人にゆだねられることなどないのだ。

 太陽は四方八方に光を降り注ぐが、決して消滅してしまうことはない。その光は障害物があればそこで止まるが消え去るわけではない。われわれの精神も同じで、注ぎ尽きてしまうことはなく、障害物にぶつかれば、暴力的に破壊するのでも、消え去ってしまうのでもなく、そこで立ち止まればよいのである。

 死を恐れることはない。死とは感覚が消滅してしまうか、今とは違う感覚を持つようになるかのどちらかだ。もし、前者のように感覚がなくなるなら、悪いことを感じることもなくなるので、それはある意味、良いことではないか。また、別の感覚を持つと言うことなら、異なった生き物としてお前は生きつづけることであり、別に生きることをやめるということではないのだ。

 人間は相互関係の中で生まれた。それなら、誤りに対しては相手を正しい方向に教え導くか、それができなければ耐えればよい。矢と精神の飛び方は違うが、もし精神を集中し目的が定まったら、矢と同様まっすぐ飛ばせ。誰に対してであれその精神の中にまで入り込め。また他者がお前の精神の中に入り込むことを許してやれ。

 


 (9)

  不正を行うものは、神を汚すものである。なぜなら、そのような人間は、神が理性的動物を相互に益するために創造したのに、その神の意図を踏みにじっているからだ。また、意識して嘘をつくものも神を汚すものである。なぜなら、この世は「真理」によってつくられており、意識して嘘をつくということは、この真実を欺(あざむ)くという不正を犯しているからである。それなら、意識することなく嘘をつくものは許されるのか。いや、彼らも意識して嘘をつくものと結果的には同罪である。なぜなら意識することもなく嘘をついてしまうということは、自然の本性がわれわれに与えてくれたいろいろなてだてをないがしろにし、そのうえ虚偽と真実の区別がつかなくなっているからだ。さらに、快楽を善いものとし、苦痛を悪いものとして避ける者も神を汚すものだ。なぜなら、そういう輩に限って、いつも自然はつまらぬものを快楽の中に置き、優れたものを労苦の中に投げ出すと言って不平をこぼすからだ。最後に、労苦を恐れるものは宇宙の将来を恐れるものであり、それもまた神を汚すものだ。また、快楽を追うものも不正を行うことを恥としないのであり、これもまた神を汚すものだ。

 自然の本性が平等に造りあげた労苦と快楽、死と生、名声と不評などには、当然、人間は平等・公平な心構えで接しなければならないのである。それらに平等に接しないものも神を冒瀆(ぼうとく)するものだ。なぜなら、自然の本性がこの世に次々に生起させるものや変化は、すべて自然の本性が意図をもってなしていることだからだ。虚言・偽善・軟弱・傲慢(ごうまん)などがどのようなものかを知らずに死ぬとしたらそれは高尚なる君子こそができることであろう。それができないとすれば、それらの悪徳の味を知るやいなやすぐにあの世に旅立つということが次にできることかと思う。

 お前は、今もってそれらの悪徳をできる限り避けることもせず、それに身を任せているのではないだろうな。これらの悪徳に比べれば、肉体の病的異変などものの数ではない。死を忌嫌わず、死も自然が欲するものだとして平静であれ。成長し、子どもができ、白髪が増えることと死は同じ人生の営みの一つなのである。お前の子どもが妻の胎内から生まれ出て誕生するのを待つような態度で、お前の魂がこの肉体から抜け出るのを迎えよ。また死は、一方で難儀な人々との交流から自分を解放してくれるものでもあることも頭に描け。

 過ちちを犯す者は、自分に対して過ちを犯しているのである。同様に、不正をなす者は自分自身を悪に導いて、自分を悪い人間におとしめ、自分に不正をなしているのである。人は不正を働こうと意図しないでも、知らずのうちに不正を犯すことがある。ゆえに、今の自分の心が、対象を正しく把握し、現に行っている行為が公共的性格を持ったものであり、外的要因によって起こるすべてのことに満足できているかを省みよ。

 自分の衝動・欲望の火を消し、自分を制御できる人間になれ。理性を持つものには、宇宙の魂の一部がそのまま与えられている。われわれすべては同じ光でものを見ているのである。ある共通のものを分かち合うものは、同類のものに向かっていく傾向がある。土の性質を持つものはすべて大地に落下するし、火の性質を分かち持つものは天に上るし、水の性質を分け持つものは互いに集まって合流し川となる。それと同様に、理性を持つものは、同じ理性を持つ同類のものに向かう強い傾向を持っている。理性を持たないミツバチや家畜においても群れをなして同類のものに向かっているではないか。理性的な動物においては、政治組織、友情、家庭、条約など持ち、個々は分け隔てられた存在ではあっても、そこに統一と呼べるものが存在する。

 ところが、現状を見てみるとどうであろうか。理性を持っているはずの人間だけが、相互への熱意と結合を忘れているかのように合流などというものが見かけられない。しかし、それら理性を持つものも、結局のところは自然という一つの手の中にとらえられていることを忘れてはならない。秋になるとブドウが実を結ぶように、人も神も宇宙もそれぞれ固有の時が来ると実を結ぶのである。理性もまた同じである。普遍的なものと個別的なものを兼ね備えたものとなり、それが産み出された本体である理性と同質のものとなるのである。

 誤っている者は、正しい方向に教え導いてやればよい。仮にそれが不可能でも、それに接する態度は好意に満ちた温かいものでなければならない。神々は、そういう心構えの者には好意ある態度を示されるはずである。例えば、健康・富・名声などをある程度与えてくださる。お前もそのように他者に接することができるのではないか。

 額に汗して仕事をするときは、惨(みじめ)めたらしい態度はとらず、ものほしげな眼で同情を買うようなことをせず、ひたすら公共のために今の仕事に尽くせ。今日私はすべての面倒なことから解放された。いや捨てたというべきか。なぜなら面倒なことは自分の外ではなく、内にある考えだからである。面倒と思われることは、すべて自分の経験の中で自分がそのように判断しているだけのことである。よく考えてみれば、面倒に思えることも、ほんの短時間ですむような量の少ないものではないか。自分の外部にある事物は、他と無関係に存在し、独立しているのだ。それに対してわれわれの理性は、影響を与えることができるのである。

 人間が幸福か不幸かは、他からもたらされるものにあるのではなく、自らの能動性の中にあることを忘れるな。投げあげられた石は、上がることが良くて、落ちることが悪い事であるのではない。すべては変化の中にある。お前もそして宇宙もそうだ。

 他人の過ちはそのままそっとしておくべきである。活動の停止、意見の終息、死たりとも決して悪い事ではないはずだ。幼年期から青年期、壮年期そして老年期と移ることが恐ろしい事か悪い事か、それもある意味死と変わらないことではないか。母のもとで暮らし養父のもとで多くの変化や終焉(しゅうえん)を見てきたがそれがそら恐ろしいことだったか。そうであるなら、お前も死もけっして恐れるべきではない。お前自身、宇宙、お前の回りの人間をしっかりと考察せよ。

 お前は国家公共の構成要素であり、お前の行為も国家公共に関わったものであるはずだ。その関連を無視して行為することは決して許されることではない。それは国家公共の協和に背き、離反することだ。なぜ、このものが今、この世に存在するのかの意義を考え、また、それがいつまでこの世に存在するのかを思考せよ。

 お前は今、自分のなすべき仕事をしているはずだ。しかし、それに満足することを知らないばかりに、数えきれない厄介(やっかい)ごとに見舞われている。愚かなことではないか。他人がお前のやっていることに非難の気持ちをいだいたり、口にしたりしている時は、その人の人となり、そして心の中を十分に観察せよ。そうすれば、それは、お前の心を惑わすようなものではないことが分かるはずだ。ともかく彼らはもともとお前の同胞だから、温かい心をもって接しなければならないのだ。神々は彼らが悩み苦しんでいる時にも、絶えず助けの手を差し伸べていることを忘れるな。

 宇宙のこの循環は恒常不変である。宇宙の精神は、すべての個々のものにその都度、その意図を及ぼす。もしそれが間違いないことなら、お前はその意図を受け入れねばならないのだ。ひょっとしたら、その意図は最初の一回かぎりで、あとは一定の順序に従って生起しているのかもしれない。しかし、それが何の問題となるのか。神が存在するとすれば、すべてはそれで良いではないか。もし、仮に神は存在せず、ただ無意味な偶然が支配しているというなら、お前はその無意味な偶然に身を任せそれに調子を合わせる必要などないはずだ。

  すべてのものは、大地に帰り、その大地もついには別のものに変化する。それらの変転は永遠に繰り返されるのだ。この悠久(ゆうきゅう)の流れを感得すれば、自分を含めすべてのものは無常であるものとして、心安らかに見ることができるのではないか。宇宙の摂理から見れば、政治を事とし、哲学を土台に行動しているからといって自惚(うぬぼ)れる人間など低劣で卑小(ひしょう)である。はなたれ小僧と変わりはしない。

 お前はただ自然が今お前に求めていることをなせばいいのだ。事情が許さねばやむをえないが、そうでないかぎり今自分に課せられた使命を果たせ。他人がお前の行いを知ってくれているかどうかを気にかけたり、ものほしげに回りを見渡すことはやめよ。

 プラトンの説く理想国家を夢見るな。この種のことは、たとえわずかでも前へ進めることができればそれでよいのである。人々の主義主張などを他人が簡単に変えることなどできないのだ。人々はただ不満をいだきつつも、外面的にはお前に従っているような恰好(かっこう)をしているだけなのだ。国を治めるとは、舞台上で悲劇の主役を演じるのではない。哲学とは外面を飾ることとは程遠い、単純で素朴で慎ましいものなのだ。自分を良い者として気取るためにあるものではない。

 この世に生じ、集まり、消え去る無数のもの、なんと千差万別であることか。これらを高い所から眺めて見よ。死んだ人々の過去の生、現在生活している人々の生、また今から生まれてくるであろう人々の生を考えてみよ。また、いかに多くの者がお前の名前など知らないか、知ったとしてもすぐに忘れる人間が多いことか。あるいは、今お前をめている人間も手のひらを返したように悪態をつくことを知っているのか。人の記憶や名声など口に出して言う価値もないものだ。

 外的な原因によって生ずるものに惑わされるな。内部から生じる公共のためにという想いにしたがって行動せよ。それこそがお前の本性にかなっていることなのだ。お前を悩ませるものは、お前の心の中から生じているものなのだから、それらをお前の心の外に排除してしまえばよいのである。そうすれば、心の内に広々とした余裕の空間を持つことができるのだ。そうすれば永遠の時を見渡すことができるようになり、事物の生成から消滅までがいかに短いかを、そしてその前後の永遠の時がいかに壮大かを感ずることができるようになるのだ。お前の目の前にあるものはすべて無常にも迅速に死滅し、またそれをみとったものも速やかに死滅する。長寿を全うした者も、天寿をまたず夭折(ようせつ)したものも結局、死んだということに変わりはない。

 ある者が何の努力をしているのか、何ゆえにそのものを愛好しているのか、彼らの魂を常に裸にして観察する習慣を身につけよ。もし彼らが、人を非難することによって傷つけており、ほめたたえることによりいい気もちにさせていると考えているのならそれは、自惚(うぬぼ)れているだけのことだ。失うことは変化である。変化とは自然の法則に従ったものだ。その自然の本性に従って万物は未来に向かって次々に生じていくのだ。それなのにお前は、あるものは良くない生じ方をしたとか、将来もそれはその良くないことを変えないなどと言い張るのか。

 物質が腐敗(ふはい)する時、水、塵(ちり)が生じる。大理石とは大地が硬化して出来上がったものに過ぎず、金銀といえどもそのときについでにできたものにすぎない。衣服は動物の毛だし、赤い染料は血液である。われわれの一生もそれらと同様、変化の一部にすぎない。みじめで、不平不満だらけで、猿まねの猿のようにお前は生きていくのか。なぜお前はそのように心を乱し悩むのか。いったい、事物そのものに悩んでいるのか、あるいはそのものを成り立たせている原理原則に対して悩むのか。なぜ、そのようなことで平常心を奪われるのか。お前も十分分別のつく年になったはずだ。神の前に立って素朴純一な人間となってものを見よ。目にするものは、百年見続けようと、3年しか見なくとも変わりはしないのだ。

 ある者が過ちを犯したら、報いはその者にふりかかる。ただ、彼は過ちなど犯してはいないのだ。すべてのものは、理性をもった一つの根源から生まれ出たものだ。その中の一つが、当然全体の利益のために生まれ出た他のものをののしる権利などない。あるいは、この世は根源などない、ただ原子が離合集散しているだけの世界だとも考えられる。この世がどちらの状態であろうと、お前が心を乱し悩む必要などないはずだ。お前はすでに死亡し破滅しているのではないだろうな。単なる動物となって、偽善に染まって、草を食べているだけのものではないよな。

 神々は、何一つなす力を持たないか、あるいは、偉大なる力を持っているかのどちらかだ。もし、神がなんの力も持たないのならば、われわれが神に祈る意味などない。しかし、もし仮に、神が偉大な力を持っているとしても、われわれはこの世に生み出されたものをこうしてほしい、ああしてほしいと祈ってはならない。むしろ、万物に対して、自分が恐れること、欲望すること、悲しむことがないようにと祈るべきではないのか。神に人間を手助けする力があるのなら、必要な時には神はわれわれに手をさしのべてくれるに違いない。たぶんお前は、神は「そういうことは自分でしなさい」と言われると述べるであろう。それなら、お前の力ではがどうすることもできないことに、悪心を持って言い争うよりも、自分ができることを、自由な心で行う方がはるかに良いのではないか。そもそも、神は自分でできることには手助けなどしないと言ったことがあるとでものか。ともかく、次のように祈ってみよ。そうすれば、世の真実が分かるようになるはずだ。「彼女を自分のものにできますように」ではなく「彼女を自分のものにしたいというようなよこしまな欲望を起こしませんように」と。また、「労苦から解放されますように」ではなく「労苦から解放されることを必要としませんように」と。また「子どもを失いませぬ」ようにではなく「子どもを失うことを恐れませぬように」と祈れ。

 たとえ病気になろうとも、病気のことは一切口に出さず、いつも自然を探究する哲学者であることを貫いた人間がかつていた。お前がもし病気にあるいは厄災に見舞われたとしても同じようにせよ。自然を探究する哲学者たる者は、どんなことがあろうとその哲学を手放してはならないのである。恥知らずな人間に怒りをもつなら、この世に恥知らずな者が存在せずにすむのかと問え。それが不可能なことと分かるならそのようなことは願い求めるな。彼もこの世界に存在しなければならない人間の一人なのだからだ。このことは、悪党や信義にもとるやから、罪人と出会っても忘れないことだ。彼らもまた同じことなのだ。彼らもまた、存在しなければならない者なのである。そうであるのなら、お前は、彼らに温かい想いをもって接することができるようになるのではないか。

 また、これらの過ちに対して、自然はどんな徳を人間に与えたかを考えてみることも有益である。恥知らずな人間には温和が、その他の人間にはそれに見合うものが、一種のそれらに対する解毒剤のようお前に与えられてはいないか。もしそれらを、正しく用いるなら、そのことが彼らを正すことにつながっていくのではないか。

 過ちを犯すものは、自分の務めから足を踏み外した迷える者なのだ。お前は彼らからどんな害悪を受けたというのか。お前が憤慨する当の相手は、お前の精神を劣悪にしたのか。気付け、お前の精神の害と災いはお前の心の内にこそあるのだ。無教育なものが無教育なことをしたからといって何が奇怪なことなのだ。むしろそのことが予見できなかったことに対して責めを受けよ。彼が、そのような状況に陥らないようにする手立てをお前は与えられていながら、それが起こったからといってお前は愕然(がくぜん)とするのか。
 ある人に対して約束を守らないとか恩を忘れるやつだと非難する前に自分の内部に目を向けよ。彼らが信義を守るであろうと考えたことも、打算抜きに恵みを与えかつその成果をすぐに得ようとしなかったことも、すべてお前に責任があるのではないか。人に親切をほどこして、何を見返りとして求めるのか、報酬を求めるつもりか。お前の本性に従ってことをなしたのならそれで十分ではないか。それは、まさに目がものを見るからといって、足が歩くからといって報酬を求めるのと同じではないか。
 すべてのものは、そのものの存在理由によって生じ、その存在理由を実現することにより、それ本来の機能を発揮しているだけのことである。それと同じように、人間もまた、人に親切にするべくして生まれたのだから、人に親切なことをする、また公共のために尽くすということは、そのものがその本性の目的を果たしていることであり、その本性に従って行動しているだけのことなのである。

 

 

 


 (10)

 お前の魂は、いつ、肉体よりは澄んだ清いものになるのだろうか。友情と親愛にあふれた心情を楽しむことがあるのであろうか。充実し、他を必要としないものとなり、快楽のために何ものかを熱望することもなく、むやみに何かを欲求することもなくなるのであろうか。享楽のためにより長い時間を欲することもなく、快適な居場所も気の合う人々をも欲しないようになるのであろうか。お前の魂は今、現在の状態に満足し、現在あるすべてのものに悦びを感じているのか。

 すべては、神々より与えられたものである。それはすべて良いもので、将来も良いものであり続けるであろう。自然の摂理は、万物を生み出し、それが役割を終えれば分解し、そしてそれを材料にまた新たなものを生み出す。神々がわれわれに与えるものはすべて、この世において意義あるものであり、今後もそのようにあり続けるものだ。

 お前は神も同胞も非難することなく、また糾弾されることのない人間となれるのか。お前は、自然が与えたお前の本性をしっかりと観察し、その求めるものが何であるかを見極めよ。そして、それがなんらかの事情で良くない状況に陥らされない限り、その本性にしたがって行動せよ。そしてその行動とは、公共的性格をもった行動でなければならないが、その行動によりお前の本性が悪いものにならないかぎりそれを全面的に受け入れることだ。それらのことだけを心して日々行動せよ。

 この世に生起するものは、お前にとって耐えることができるものか、耐えることができないものかのどちらかである。耐えることができるものであるなら不機嫌になることなく耐えればよい。もし仮に、耐えることができないものであっても決して不機嫌にはなるな。なぜならその耐えがたきものも、お前を消耗しつくしたうえで、それ自身もやがては消滅してしまうのであるからだ。ただ、ここで考えてみよ。耐えることができるものは、お前が耐えることができるとして自ら引き受けているものなのだ。またそれを有益なものと考え、そうすることがお前に課せられた義務だと考えているからだ。

 人が過ちを犯したら、好意をもって穏やかに教え諭(さと)し、その見落としている点を指摘せよ。それがお前にできないというなら、お前自身を責めよ。そうでなければ、誰も責めるべきではない。

 お前に起こることは、お前の誕生するはるか以前からお前のために整えられてきたことだ。また、いろいろな原因の積み重ねがお前の誕生からお前に起こる出来事を無限の過去から紡(つむ)いできたのだ。

 この世が単なる原子の群れであるか、あるいは秩序あるものかに関わらず、ともかく、お前は自然の原理に統率された宇宙の一部であることは確かだ。また、他の多くのその一部をなすものたちと密接な関係にあることを認めなければならない。それなら、その全体から与えられたものに不機嫌になることなどないはずだ。なぜなら、全体に有益なものが、部分に有害であることなどあるはずがないからだ。さらに言えば、この宇宙を統率する意思は、外部の力に強いられて、己に有害なものなど生み出すことは、絶対にないからである。

 お前は今、目の前に起こることに何の不満もいだくことはないはずだ。だから自分とそのもとを同じくするものが密接な関係にあるがゆえに、公共のことを無視することは決してせず、公共の利益のために尽力すべきであるのだ。この原則により行動がなされるならば、万事がうまくいくのは間違いないことだ。一人の市民として他の市民を利することを実践し、国家から与えられるものは悦んで受け入れるという人間であれば、物事がうまくいくというのと同じことである。

 自然の本性により宇宙の中に生成され、今存在するものは、必然的に消滅させられる運命にある。ただ、消滅とはなくなることではなく、違うものに変化するという意味である。しかし、この避けがたい仕組みは悪いものであろうか。もし、これが悪いものであるというなら、宇宙とは決して良くできているものだとは言えないことになる。いったい宇宙は、自分が生み出したものに害を与え、そして生み出されたものはその害に抵抗しながらもさからえず悪の道に進ませられるようなことになっているのであろうか。それとも、宇宙はそのようにすべてのものを悪に導いていることに気づかないのであろうか。とてもそのようには考えられない。また、すべてのものは変化するものだという一方で、もし、お前がこの世に生まれ出たものにそれは生まれ出るべきものではなかったなどと言い不機嫌な気持ちを持つのはおかしいではないか。また、個々のものが分解していくのを見て同じような態度をとることも明らかにおかしいことである。なぜなら、分解とは、すべてのものが作り上げられた前の元の状態に戻ることであるか、永遠に繰り返される転換の一つであり更新であり、一旦宇宙の理性の中に取り込まれるだけのことだからなのだ。また、われわれ自身は、すべて外界から取り入れたものを変えることによって、自分自身をつくりあげているのである。変化によって成り立っているということは、変わることのない真実ではないか。

 善良・誠実・思慮(しりょ)・協調などの名称を与えられたら、それらを失わないように心してこれらを保持することに努めよ。例えば、「思慮」とは軽率な思考に陥らず、精神を集中させて物事を判断することである。ただ、人々からそのように呼ばれ、思われることに執着してはならない。もしそれを成し遂げられるならば、さらにお前は進歩できるのだ。なぜかといえば、今までの生活のように日々の活動に引き裂かれ、生に執着するところから一歩歩み出るからである。今までのお前はまるで闘牛場に投げ出され噛(か)み裂かれた闘士なのであった。そして血まみれになりながらもまた翌日にはそこに投げ出される、そのような人間だったのだ。
 だから、先にあげた善良などような名称のところに留まっていよ。もしそこに留まる力を持てないなら、この世の生から去るしかない。そのような覚悟を持て。このことを忘れないためには、まず神々のことを考えよ。神々にへつらえと言っているのではない。神々が欲することは、お前をふくめすべての生成物がその本分を果たした生き方をすることだからなのである。

   茶番劇・戦争・奴隷根性などが、自然の摂理とは何かを追い求めていこうとするお前の聖なる想いを消し去ってしまうことを忘れるな。それならお前はいかにすればよいのか。現にお前にふりかかることに対して立派に対処すること、学問にいそしみ、そこから得られる知識に自信を持ち、それをみせびらかすこともなく、また妙に隠すこともなく行動することだ。それでは、その知識とは何か。それは、事物の本質とは何であるか。それはいつまで存在するのか。その存在目的は何なのか。それは何からできているのか。その持ち主は誰なのか。それを与え奪うことができるのは誰なのかというような知識なのである。蜘蛛(くも)は蠅(はえ)をとることを誇りとし、あるものは野兎(のひつじ)をまた魚をまたイノシシをとることを誇りとする。しかし、考えてみれば彼らはみな強盗なのである。

 万物がどのようにして相互に変化するか、注意深く観察せよ。これ以上に自分の精神を磨くことのできることはない。それは肉体という束縛から離れることにもつながっていく。まもなく、自分はすべてのものを残してこの世から去っていかなければならない。自分の行いについては正義にすべてを委ね、それ以外のことは宇宙全体に自分を委ねるのだ。自分に対して人が何を言い、自分を非難するどのような行為に出るかなどは何の気にもするな。自分の行為を正義にのっとってなし、天から与えられたものを愛するなら、それだけで十分である。あくせくすることはやめて、真っ直ぐな道を歩み、真っ直ぐに進む神のあとに従えばよいのである。自分が何をなすべきかがわかったら、脇目もふらずその道を進め。もし分からないなら、最上の相談相手に尋ねよ。だが、そこに外部からの障害が立ちはだかったら、手元にある手段や方法を活かし、事情を冷静に判断して、正しいと自分が思うものに即してあきらめることなく行動せよ。理性に従うものは、悠々(ゆうゆう)として明朗で節度を失わないものなのである。

 眠りより覚めたら、すぐ自分に尋ねよ。自分が正しいと思う行為をして、それを非難されても平気でおられるか。また、おごった態度で他人に接し、ほめたかと思えばけなすような人間になってはいないかと。そのような人間は、いつどこにいても変わらない態度しかとれないのだ。さらに、そういう連中はいかなることをして、いかなることを避け、どのようなものを追い求め、盗み、奪っているかを考えて見よ。ただ、しっかりと考える必要がある。それらの行為は、自分の中にある信義、誠実などと思い込んでいる部分によってなされがちだということである。このことをいつも思い、自分を反省することを忘れてはいないか。教養あり慎みあるものは、自然に向かって謙虚に頭をたれて「あなたが欲するものを与え、あなたが欲するものを取り上げてください」と言うであろう。

 お前に残されている時間はわずかである。山の中で静かに生活するように生きよ。宇宙という広大なものからすれば、山中も都市も何の変わりはないはずだ。人々に対して誠実な人間であれ。もし人々にとってお前が我慢ならぬものであるなら、彼らにお前の首をはねさせよ。そのまま生きるよりははるかにましである。

  良い人間とはどんな人間かを討論するときではない。良い人間になる時だ。永遠の時、存在の全体というものを想い描くと同時に、お前は全体の一部分にすぎないものであること、ほんの一瞬の存在にすぎないことを知れ。存在するすべてのものは、今も変化や霧散の経過をたどっていること、また死すべき性をもっていることを想え。

 周囲に君臨し威猛々しく振る舞い、怒りにまかせ人を叱責非難する人間が、ほんのわずか前にはどれほど多くの人々の足元に隷属していたことか。またその人間がそのあとにも元の状態にもどってしまうことであろう。

 本性がもたらすものは、いつでその時に有益なものであるのだ。大地が雨を求めるように、宇宙は雨を降らせることを求める。つまり、宇宙は生起する定めのあるものを生み出すことを欲しているのだ。私も宇宙とともに万物を生み出されることを恋望んでいますと述べる。お前はここに今生活している。あるいは、ここから出てよそに行く。あるいは、務めを果たしこの世を去ろうとしている。それでよいのだ。元気を出し心ほがらからかであれ。

 お前の精神を支配するものは、いかなる意味をもつか。また何の目的で働いているか、絶えず考えよ。公共性から離れてはいないよな。肉体の欲求にからみつかれ、きりきり舞いさせられているのではあるまいな。

 主から逃げてはならい。主とは法である。法を犯す者は逃亡した奴隷である。悲しんだり、怒ったり、恐れたりする人間は、過去・現在・未来のこの世の摂理を受け入れない者である。万物の摂理から逃亡した奴隷である。男は子種を母胎に入れたら離れていくが、あとは別の原動力がそれを引き受け胎児へと育てていく。巧妙な生成過程だ。人はのどを通して食物をのみくだすが、あとは別の原動力がそれを引き受け、生命のエネルギーを生み出す。これらは人目につかずひそやかに行われているが、はっきりとその事実を見きわめることである。

 今日生ずるものが、以前にも生じ、未来にも生ずることを想え。それはすべてのものに言えることである。そのように、どの国のどの宮殿もすべて同じ性質のものであり、異なるのはただ登場人物だけなのだ。

何事であれ、悲しんだり不機嫌になる者は、地面をけり悲鳴をあげる犠牲の子豚と同じようなものだ。われわれはいろいろなことに巻き込まれているが、生起することに納得のうえで従うことができるのは理性のある人間だけだ。その他のものはただ否応なく従っているだけだ。

   人の過ちを腹立たしく思うときは、自分について考えてみよ。お前は、金・快楽・名誉を良いものだとみなす過ちを犯していないかと。このことに注意を向けるなら彼の過ちは強いられての結果であることが分かる。そうすれば、怒りは消える。もしできるなら、彼からその強制しているものを取り除いてやれ。

今まで、多くの皇帝がこの世に現れた。彼らは今どこにいるのか。どこにもいない。どこにいるのかを誰も知らない。人間など煙であり、無に等しいものだ。また、ひとたび変化したものは、永遠に存在しないことを想い描け。それなのに、お前はなぜ心を張りつめ、神経をとがらせるのか。なにゆえ心を乱し、その永からぬ命を生き終えることに満足しないのか。人生とは理性の実習の場なのだ。
 強健な胃が摂取した食物をすべて血と肉に変えるように、また燃え盛る火が投げ込まれたものをすべて炎と光に変えてしまうように、お前は人生を刻苦精励(こっくせいれい)して生き、そして心静かに死というその時を待てばいいのである。お前は素朴純一な人間ではない、また善良な人間でないと後ろ指を指されるようなことがないよう心せよ。そのように語る人間はうそつきだと言われないようにしなければならない。すべてはお前の心がけしだいだ。お前が善良で素朴純一であることを妨げる誰かが存在するとでもいうのか。善良でない人間となるなら、これ以上生きながらえることなどしないと決意すべきだ。

 お前は、天から与えられた材料をもとに、人間の本性に従って、日々の言動や活動を行うことである。そしてそのことを楽しみとせよ。理性をもたない水や火はどこにあってもその固有の働きを続けるということはできない。しかし、理性を持つ者は、それに立ち向かう障害物を自ら排除して、進むことが許されている。この突破する力を見失うな。それ以上のものを求めるな。障害となりうるものがあるとすれば、それは自分の肉体的なものにあるか自分がいだく想念にあるかである。
 人間以外のものは、立ちはだかる障害によってそのものは悪となるが、人間はその災いに対して正しく対処することにより自分をより優れたものにすることができるのだ。国家に害を与えない市民にお前は、害を及ぼすことがあってはならない。また、法を損ねない国家に対して害を加えてはならないのである。つまり、法を損ねることのない市民や国家に害を加えてはならないのである。

 みるからに信頼できる口調で大声で呼びかけ、派手なほめ言葉で人を持ち上げる者、あるいは反対に呪いの言葉を吐きかける者、さらには影に隠れてこっそり非難し嘲笑する者、またわれらが死後の名声を語り継ぎ行く連中、すべてのものが風に吹かれて地上に舞い落ちる木の葉と何ら変わらない。そしてその木には、また新たな葉がつくのである。すべてが束の間のことである。ところが、お前は永遠に生きるがごとくに行動し、あるいはそれらについて考えることさえ避けているが、いつかはその目も閉じる時が来るのだ。そしてお前を葬った者もやがては別の者によって葬られるのである。

 健康な目はすべてのものを見るのであって、緑のものだけを見たいと言ってもそれは許されない。それは病んでいる目だ。聴覚であろうと臭覚であろうと、それらはすべてのものを悦んで受け入れなければならない。健康な精神もまた、生起するすべてのものを悦んで受け入れるものでなければならない。「自分のなすことは何でも人がほめてくれますように」「子どもが助かりますように」と願うことは、緑だけを見ようとする目、柔らかいものだけ求める歯、つまり都合のいいものだけ受け入れるということと何ら変わることはないのである。

 自分が死んでいくとき、この悲しい出来事を喜ぶ連中などいないということは幸福なことではあるが、そのような幸せな人間などいないというのが現実であろう。どんな立派な先生であったとしても、その死の前で「これでやっと、この先生から解放されて一息つける。決してわれわれに辛くあたる人ではなかったが、無言のうちに叱責の目を向けていたと感じていた」と独り言を言うような人間がいないと言えるであろうか。ましてや、先の先生のように、立派でもないわれわれから解放されたいと望む人間はどれほど多くいるであろうものか。
 死ぬ時、このことを想い抱くべきである。自分があれほど一所懸命に闘い、祈り、配慮してやった人々がむしろこの私の死を求め、そこから生ずるある種の清新な解放感にひたっているという状況の中で自分は死を迎えるのである。そのような状況の中で死を迎えるがゆえに、お前は満足してこの世を去るべきではないか。いったい、この世に少しでも長く時を過ごすことに執着する必要があるのか。だからといって彼らに対する親切心を鈍らせて去っていくのであってはならない。友愛に満ち、親切な優しい心をもって去っていけ。ただ、仲間からまるで引き裂かれるようにではなく、朗らかにごく自然に彼らから去っていけ。自然はお前を死によって人々から解放させるのである。死はぎこちなく無理なものであってはならない。なぜなら、死もまた自然に従って生ずることの一つだからである。

 行為のすべてにその目的は何かと探究せよ。それは外部に求めても無駄だ。その答えはお前の内部にある。それをいつも心に銘記せよ。

 


 (11)

 理性を持つ人間は、自らの魂で自己がいかにあるべきかを見て、自己が過っていればそれを正して、自己というものをつくりあげ、そしてその成果を自らが刈り取るのである。理性を持たない植物などは、自分で自己をつくりあげることもないし、その成果は他のものにより刈り取られるのである。理性を持つ者は、その生涯の最後がいつであろうと、その目的に向かって進みかつその目的に到達するものである。その意味では、例えば演劇は途中で邪魔が入ると、そこでそれは不完全なものとなってしまうが、人間の人生はそれとは違う。どんな障害に遭遇しようとも、己に課された仕事を充実して行いかつ自足することができていれば、それで完成なのである。さらにその理性は、宇宙全体を考察することができ、永遠の時のかなたまで広がり、万物の周期的再生を把握することができるのである。ゆえに、自分より以前以後の者も、自分が見た以上のものを見ることはないのである。少なくとも40才を超えた者は、知性を持っている限り、当然のこととして今まで起こったことも、今から起こることもすべて見ていることになるのだ。また、理性的な魂に固有なものとは、身近な人々と真実を愛すること、恥じる心を持つこと、そして自己を尊重することである。この意味において、理性と正義や法は同じものなのである。

 音楽や舞踏を個々の音や姿勢に分解して、各々を聞いたり個別の場面のみを見ても決して良いものとは思わないであろう。このことは人生についても言えるのだ。部分的なものに走るのではなく全体をとらえよ。

 死を迎えてもその覚悟ができている魂とはなんとすばらしいものか。それはむき出しの反抗精神に駆られたものではなく、論理立った、威厳のある、落ち着いたものでなければならない。また、他人を説得できるようなものでなければならず、芝居じみた大げさなものであってはならない。私は公共のために生きてきたか。そうであるなら、もう十分報われているはずだ。この真理を肝に銘じて、一瞬たりともなまけることなどないようにしなければならない。立派な人間であるためには、宇宙の原理と人間の原理を知っていなければならない。

 たとえ人生における悲劇といえども、それはなるべくしてそのようになったものである。それを苦々しく思うべきではない。私の運命がどんなものであろうとそれは理由があってのことである。また、事物そのものに怒りをぶつけてもしょうがないのである。また喜劇といえるものもあるであろう。その意図とはなんであるのか。人生とはいったいいかなる目標をもって企画されるのであろうか。お前の今の生活条件は、哲学を学ぶうえにおいて非常にすぐれた状態にあることを考えてみたことがあるか。

 木の枝が隣あう枝から切り離されるということは、その木全体から切り離されることを意味する。同様に、人間がある一人の人間から引き離されるということは、社会全体から逸脱(いつだつ)することを意味する。枝は人間が勝手に切り取るが、人間にあっては、身近な者を憎み、彼に背を向けることにより、自らがその者から自分を遠ざけるのである。そしてそれが社会全体から自分を切り離すことにつながるのである。当然、人間には再び隣のものと共にあるようになり、社会に回復できる機会は与えられるが、そのような離反と回復を繰り返していると、回復がだんだんと困難となってくる。もともと共に誕生し同じ生命力のなかで育ってきたものが、一旦切り取られれば、たとえ接ぎ木されようとも、完全に元の状態には戻れないのである。もちろん、他者と同じ考え方を持てといっているのではない。根幹は一つであるべきだと言っているのである。

 お前が正しいことを行っているなら、誰かがそれを妨害しようとしても、それは不可能である。むしろ、その妨害行為を理由に、彼らに対する寛容な心と温かい心を失うことがないように気を付けよ。いや、進んで次の二つのことに気を付けよ。一つは、自分は誠実な判断をし、誠実に行動をしているかということ、二つ目は、自分を妨害しようとする者や自分に対して悪い感情を抱いている者に柔和な心でいるかどうかということである。すなわち、妨害者に対して怒るということは、自分が正しいとして行っている行為を自ら放棄することであり、その恐怖にとらわれてしっぽをまいて逃げるのと変わらないのだ。つまりお前の弱さの表れなのである。
 妨害者は自分の同胞に背きその絆(きずな)を自ら断ち切ったという意味で、また妨害されることを恐れてその行為を放棄する者も、共に自分の持ち場を捨てた逃亡兵と同じなのである。自然はいかなるものでも、人間の技術に劣るようなものではない。現に人間の技術は、多くの自然のものを模倣して生まれているではないか。それなら、それらのもろもろの自然的なものを包括した大自然と呼ばれるようなものが、人間が生み出したどんな技術や技巧にも劣ることなどあるはずがない。

 あるものを追い求めること、またあるものを避けることによって、お前の心が惑わされるなら、まずお前からそれらについての判断は差し控えよ。そうすればその対象も不動のままであるすだ。魂は、何かに対して突出したり、委縮(いしゅく)したりすることもなく、拡散したり崩壊したりすることもなく、光に照らされ万物の真理とおのれの真理を知る限り完全な形でそれを保持するものなのである。

 人が私を軽蔑しようと、それは彼の思いであり、私には何の関係もない。私の心すべきことは、他人が私が軽蔑に値するような行動をすることを見つけようとしても、見つけることができないようにすることである。私を嫌う人がいても、それはその人の思いである。ともかく、私は人々に好意と親切心を持って行動するのである。そして、私を嫌う人に対して、その過ちを指摘するにしても、決して非難がましい態度を取らず、また我慢しているんだといわんばかりの態度に出ることもなく、誠心誠意男らしい善意にあふれた心で事を為すことである。そういう人間にならなければならないのだ。

 人間は、物事に対しても心楽しめず、苦しみの状況にあることを聞えよがしに神の目にさらすべきではないのだ。お前が本性にかなった行動をし、公共のために為すべきことをしているなら、その状況が悪いことまた、さらに悪くなることなどないからだ。

 人は、内心軽蔑し合いながらも外面では相手に従うような態度をとり、内心では優劣を競いながらも、表向きは互いに譲り合うものである。「ぼくは、単純素朴な態度で君と付き合うことにした」などと言う必要などなにもない。それは態度に自然と表れるものである。そもそも、善良なる人間は彼がそばに近づいただけでそのことが分かる。善良な心持った人間はすべてにそれが表面に表れているものである。恋するものの瞳の中にその想いがおのずと表れ、恋人がそれを理解するのと同じことである。

 善でも悪でもないものには無関心であれ。そうすれば、お前はこの人生を立派に生き貫くことができるはずだ。これらの善でも悪でもないものは、われわれの心に何らある意見を植え付けることもなく、われわれに迫ってくることもなくじっとしているものである。むしろ、われわれがそれらを追いかけ心のなかに留め置こうと、それに対する判断を生み出そうとするのだ。もともと、書かずにすむことであったのだし、仮に書いたとしてもすぐ消せるものだったのだ。それを依怙地(いこじ)になって心に描きつづけたのである。このことに注意するのは人生というわずかの時間の間だけのことだ。そのことで不機嫌になることなどないはずだ。自然に従い、それが本性にかなうことなら、悦んで進めばよい。たやすいことであるはずだ。もし、自然の本性に反していると考えるなら、お前の本性に即しているものが何であるかを探し求めよ。そして自分がかなうと考える道を進めばよいだけのことである。

 もののすべてが、どこからきて、何から成り、何に変わり、そしていかなるものに生まれ変わるか考察せよ。自分の身に被ることは何であれ悪いことなど何一つないはずである。

 第一に、私と人々の関係はどうなのか。われわれは、お互いのために生まれてきたのである。違った論点から言えば、私は人々を監督するために、いわゆる羊の群れを導く犬のような役割のために生まれてきたのである。この世には無数の原子が存在し、それらを支配する自然の本性がある。同様に、多くのより劣ったものと優れたものが存在し、前者は後者のためにあり、後者はお互いのためにある。

 第二に、人々はどのような思いを持ち、何に駆られて、何に強制されて、どんな自負心を持って行動しているのかを考察せよ。

 第三に、人々が正しい行為をしているならそれでよいではないか。正しくない行為をしているのであれば、彼らはたぶん無知であるがゆえにそうしているのである。ゆえに彼らはそれを指摘されると憤慨(ふんがい)するものであることを心に留め置け。

 第四に、お前自身も彼らと同様に多くの過ちをおかすものである。過ちと呼べるほどのものをしないまでも、それを生み出す奴隷根性、名誉欲などの性情は未だ持っているに違いない。

 第五に、人々が実際過ちを今犯しているかどうかが分かっているわけではない。他人の行為についてしっかりと把握するためには多くのことを学びとらなければならないのである。

 第六に、ひどく悩んだり、我慢ならぬと思ったりする時は、人生とは束の間で、遠からずすべてのものは葬り去られると想え。

 第七に、お前を苦しめるのは、彼らの行為にあるではない。それに対していだくお前の意見にあるのだ。それならお前の意見を捨て、彼らの行為が悪いとするお前の判断を捨て去れ。そうすればお前の怒りは消え去るのだ。それならどのようにしたらそれを捨て去ることができるのか。彼らの行為は決して恥ずるべきものではないと考えることだ。なぜなら、恥ずべきものがすべて悪であるなら、お前自身もしょっちゅうその過ちを犯しており、強盗と変わらないといえるからだ。

 第八に、それらの行為に対して抱く怒りのほうが、その行為がもたらす悪い影響よりもはるかに多くの悪影響をお前に与えるのだ。

 第九に、親切心は、それが真のものであればすばらしいものだ。おまえに良からぬことを企てるものには、わが子に対するように、そうすることは、私ではなくあなた自身のためにならないと述べよ。そのことによって害をうけるのは私ではなくあなた自身だと諭すなら、彼は、私に対して害を及ぼすようなことが続けてできるであろうか。そしてそのようなことは、自然に暮らすどんな動物もするようなことではないと指摘することである。ただそれは、皮肉まじりに、非難がましくすべきではなく、他者からの賞賛のためにすべきでもない。周りのものから離れ、ただ本人だけに向かってなすことである。以上の九項目を肝に銘じて、生きているうちにそれをなすことを始めよ。

 人々に怒りをいだくことも、媚(こ)びへつらうこともやめよ。それらは公共を無視し、災いに導くものである。怒りに駆られるときは怒ることが男らしいのではなく、穏やかで紳士的であるのが人間的であり、男らしいのだ。強さ勇敢さは、そのような者の中にあるのだ。

 悲しみが無力なものであり傷つき屈服するものであるように、怒るということも傷つき、屈服してしまうということなのである。もし第十にあげるとしたら、つまらぬ者が過ちを犯すであろうことを予期しなかったことはお前の落ち度だということだ。彼らが、自分以外の他人に対して過ちを犯すのは黙認しておきながら、彼らが自分に対して過ちを犯さないように求めることは、愚かな身勝手なことではないか。

 人の思いの偏りには4つのものがある。一つは、これは必然的なものであると考えてしまうこと。二つ目は、これはけっして社会を破壊するものではないと勝手に判断してしまうこと。そして、三つ目はこのことは私の心の底から発したものではないと言い訳すること。あと一つは、肉体の欲求に敗北してしまということである。

 お前は、自分の体内に存在するもの中で、火のように上昇すべきものでもその場にとどめたり、土のように落下すべきものを押しとどめたりしているのではないか。すべては万有の秩序に従っているのであり、解放と離脱の合図がなされないかぎり、その決められた一定の場所にそれらはとどめられなければならないのだ。何もお前に対して、自然の本性が逆らってそのことを無理やり課しているのではない。それこそが自然の本性に適っているからなのである。それにもかかわらず、お前はその本性と正反対の道に進もうとしているのではないか。不正・放縦・悲嘆・恐怖に向かう動きこそがそれなのである。

 何かの出来事に腹を立てるということは、お前の心の本来のあり方に反するということではないか。変わることのない人生の目標を立て、それを生涯貫け。人々にとって自分の人生の目標は何かと聞いた時、その答えは千差万別であろう。ただ、国家公共に関して自分はいかにあればよいかと聞いた時の答えは、一致するのではないか。国家公共に対するお前の目標をはっきり定めねばならない。そしてその目標に個人的な欲求をすべて向かわせるなら、その人間の行為は変わることのない、不動な人間となることができるのである。

 大衆の考えは、扇動(せんどう)されるとある意味恐いものともなる。人は、客人に対しては、自分を差し置いても歓待すべきである。一方、歓待を受けながらも、みじめなお返ししかできないようなことにはなるべきでない。徳を行い、徳に生きた、過去の偉人をいつも思い浮かべよ。天を見よ。そこには永遠に同一不変の仕事をなし続ける数々の存在がある。

 人に教え導かれる前に、さも知っているかのように人を教え導くな。冬にイチジクを求めること、子どもを産めない年齢になって子どもを求めることもばかげたことである。幼子(おさなご)を愛撫(あいぶ)しながら、お前は明日になったら死ぬかもしれないなというのは、縁起でもないことだろうか。それなら稲の穂が刈り取られるという言葉も縁起でもないことになる。熟していないブドウ、熟したブドウ、干しブドウ、それらは変化である。無への変化ではなく、違う存在への変化である。他人の自主的な決断を強奪しうる人間など現れっこない。

 人は自分の欲求に対して監視しなければならない。 欲求のもととなるものは公共の精神でなければならない。

 

 



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