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 天より与えられるものに、変幻自在に適応できるように柔軟な心を持て。自分の人生の目標にまい進し、同時にその途上で生じてくるものを、その目標達成のために活かしていけ。例えて言うなら、小さな火は、たとえ燃える材料となるものでも、それらが一度に多く投げ込まれれば消えてしまう。しかし、燃え盛る大きな火は、それらをすべて材料にして、ますます、その火の勢いを増していく。この大きな火のようにいろいろなものを吸収し材料として生きて行けということである。

 どんな行動もでたらめにしないで、その規律に従って行え。人間は憩(いこ)いの場所として田園や海浜や山地を求める。しかし、自己の内に憩える場所があることを忘れてはならない。自分の中に良い秩序を持てば、そこに安らぎの場所があるのだ。保たれた秩序ある心こそが快適な憩いの場所であるのだ。日々の生活に疲れれば、そこで憩い、そしてまた新たな生気でもって日々生活すればよい。

 何をお前は、そんなにいみ嫌うのか。他人の悪か。すべての人間はお互いのために生まれてきたのだ。忍耐とは正義の徳の一部なのだ。人は過ちを犯そうとして犯しているのではない。今までにどれだけ多くの人間が他人に敵意を持ち、憎み、争い死んでいったことかよく考えてみよ。お前のそのいみ嫌う気持ちを捨てよ。

 第一、この世に分かち与えられたものに対して何故嫌う感情を持つのか。それとも、この世に存在するものは単なる偶然による原子の集合体とでもいうのか。この宇宙はいわば国家と呼べるような、秩序ある組織体であることは承知のはずではないのか。それとも、お前の肉体が足枷(あしかせ)となって、精神が解き放たれず、そのような良からぬ考えに支配されているのか。あるいは、名声というものに心を乱されているのか。人の名声などすぐ忘れ去られる。後世の評判などむなしいものである。仮にお前の賛美者などという者が現れても、彼らは批判精神が欠如した者たちでかつ変わり身は早い者であることを忘れるな。たとえ、この狭い土地の片隅にお前を将来ほめる人間がいたとしても、どれだけの人数でかつ彼らがどれほどの人間だというのか。悩まず、憤らず、自由な市民、一個人として、死すべきものとしてすべてを見よ。

 そして、次の二つのことを心にとどめよ。一つは、お前の苦悩は外の事物がお前にもたらすのではなく、お前の内部の考えが生み出しているものだということ。二つ目は、お前の目の前にあるものなどやがて変化し存在しなくなるものであるということである。生きるということは主観による判断にすぎないのだ。

 理性が普遍的なものなら、法もまた普遍的なものである。法が普遍的なら国家も普遍的なものである。国家が普遍的ならわれわれが存在する宇宙も普遍的なものだ。その普遍的な宇宙にまさにわれわれは生活しているのである。そして畏(おそ)れ多くもこの宇宙からこれらの法や理性が生み出されたのである。それ以外にこれらを生み出したものなど存在するはずがない。

 死とは本質的に生と同質の神秘的なものである。生は同一不変の元素の結合であり、死とはその元素への分解である。死は何ら恥ずべき、卑下すべきものではない。なぜなら、死とは理性的動物の本性に必然的なものであり、自然の理法に反していないからである。死とはどんなものに対しても不可避なものである。この事実が受け入れられない者は、植物が花をつけ実を実らせることを欲しないものである。人生とは束の間であり、死後、人々の心の中に自分の名前がきざまれているのもわずかな期間であることを心にきざめ。

 自分中心の考え方を取り除けば、自分が害されたという思いは消え去るのだ。自分が害されたという思いを取り除けば、自分に対する害そのものも消えていくのだ。自分の人生を悪くしたり、損なったりするものはいなくなるのだ。また逆に自分にとって有益なものは、その役割を果たしてくれるはずだ。すべてこの世で生起することは、しかるべき意味があって生じるのだ。このことをしっかりと認識すれば、人生において見落とすことなどなくなる。たとえていうなら、なぜこの順序で生じたのか、何のために生じたのか、どのような力が働いて生じたのかを知ろうとして、それを理解することである。このことをいつも心にきざみこんで行動せよ。それが「善き人」となる一つの道である。傲慢な振る舞いでお前に害を与えるものがいたら、彼らがいだく考えや、彼らがお前にいだかせようとする考えを決して受け入れるな。絶えず、真理というものだけをとおしてすべてを見よ。

 天が人間のためを思って命ずることのみを実行せよ。また誤れるお前を正しく導いてくれる者がそばにいるならば、心改めてその者に従え。ただし、その改心は、それが正義にかない公共の利益になるとすべての者が認める時のみ行うのは当然のことである。つまり、そのように改めた方が見た目がよいとか評判がよいからなどという理由で行ってはならないということである。

 お前は、理性を持っているのか。持っているならなぜ、その理性を用いないのか。理性が本来の働きをしているなら、それ以上にお前は何を求めるというのか。お前は今、この世界にその一部分として存在している。そしてお前は、やがて、そのお前を生み出したものの中に再び帰っていくのだ。言い方を変えれば、お前を生み出した理性の中に再び受け入れられるのだ。すべてのものが、この世に産み落とされ、また元の所に帰っていく。遅いか早いかの違いはあっても、すべてのものに例外などない。お前は今、人々から猛獣だ、猿だと思われているだろうが、もし、お前が万物の原理に立ち戻り、理法に崇敬(すうけい)の念をいだくようになれば、お前をさげすんできた多くの者の目に、やがてお前は神ともうつるようになるであろう。

 自分は1万年も生きながらえることになっているとでもいうような生活態度を改めよ。死は間近に迫っているのではないか。善き者となることが可能なうちに善き者となれ。回りの者が何と言おうと、どんなことをしようと、何を考えようと、そのことを気にするな。お前は、自分がひたすら正しく善にかなうと信じた行動をすればよいのだ。そうすれば、生活にゆとりの時間が生まれる。人の心の中をあれこれ覗(のぞ)き見することを止めて、自分の目標に向かってわき目をふらず、まい進せよ。

 死後の自分の名声などにとらわれるな。お前はもちろんのこと、お前を知る者も次から次へと死んでいくのであり、その後継者もまた死んでいくのだ。記憶は一時的には受け継がれるであろうが、間もなくそのすべては忘れ去られるのだ。仮にその記憶が不滅だとしても、それがお前に何の意味を持つというのだ。それだからといって、故人の業績を意味のないものだと言うわけではない。今生きているお前が、賞賛を得るために何かをするということにどんな意味があるのかということを言いたいのである。ともかく、お前が人の評判のみを気にかけて行動しているので、このように諭(さと)したのだ。

 美とはそのもの自体が美を持ち、そのものだけで完結するものである。それが賞賛を受けようと受けまいとその美がよりよくなるわけでも、より悪くなるわけでもない。それは自然の事物についても、法や真理、道徳などすべてのことにもあてはまる。黄金も象牙(ぞうげ)も賞賛されようとされまいと美しいことに何ら変わりはないではないか。

 もし魂が永遠に存在し続けるなら、大気はどのようにして増え続ける魂にその場所を提供してきたのであろうか。また死体も永遠にそのままなら大地はそれらにどのようにして場所を提供してきたのであろうか。つまり、われらの屍(しかばね)は、分解し次のものの血と肉となり、その場所を次のものに引き渡してきたのである。魂も同じである。しばしの間大気中にとどまるではあろうが、やがては変化流散し、万物の根源にもどり、次の魂にその場所を提供してきたのである。いや人間だけではない。我々は、日々どれだけの数の獣を食べ、体内にて埋葬(まいそう)し、それを自分の血と肉に変えていることであろうか。しかし、そのことにより、それらのものにもまた新たな場所を提供しているのでもある。

 心を外に向けて煩うことはやめよ。何かをしようと思う意志が芽生えたら、まず心を内に向け、正義にかなった行動をしながら、自分の理性がいつも最善となるような状態に保て。宇宙に調和したものは、自分にも調和する。宇宙にとって好機なものは、自分にとっても早くも遅くもなくいつも好機である。自然が今必要だとしてもたらすものは、ことごとく自分にとっても実りの時である。すべてのものは、お前より出て、お前の内にあり、お前のもとに帰ってくると言えるのではないか。

 自分の理性が求めることをそのとおり行なえばよい。余計なことはしなくても、それだけで十分である。そうすれば、嘘やごまかしのない人間となれる。われわれの日々の生活には言わない方がいい、しない方がいいものが結構多くある。それらを捨て去るなら、生活にゆとりもでき、心乱されることも少なくなるものだ。いつも事を行うとき、これは必要不可欠なことか自分に問いかけよ。行いだけでなく想念もそうだ。これは必要な想念なのかいつも問え。必要でない想念を取り除くことによって、人はすべきでないこと、する必要のないことをしなくなるのである。

 自分に与えられたものに満足し、自分の行いを正しくし、心を優しく親切にするにはお前はどのようにあればよいか考え、そしてそれを試みてみよ。心を乱さず、単純素朴な心の持ち主となれ。誰かが過ちを犯しても、彼は自分自身に対してそれを犯したのであり、お前とは何の関わりもないものなのだ。たとえそのことにより、お前の身に何かが起こったとしても、すべてのことは、悠久(ゆうきゅう)の太古より宿命づけられたものであることを知れ。
 人生は短い。現在ここで、自分の人生の成果を摘(つ)み取れ。いつも正しく冷静であれ。いたずらな過度の緊張に陥ることなく、心のびのびと生きよ。この世は秩序つげられた世界か、あるいは無秩序の単なるものの集まりかのどちらかに過ぎないのだ。ただ、よく考えよ。お前だけに秩序というものが内在していて、おまえ以外の外の世界は無秩序の集合体に過ぎないということがあるとでも思うのか。

 腹黒い人柄、女々しい人柄、頑固な人柄、粗野で残忍なもの、怠惰なもの、暴君的なものなど、国家の法から逃れるものが亡命者であるように、宇宙に対して明確な認識を持たないもの、宇宙が生み出した事物をそれと認めないものは、宇宙に対しての異邦人、宇宙の吹き出物だ。心眼を閉じる者は盲目であり、自分の生活に必要なものを自分で獲得しようとしないものは乞食()である。

 この世に起こる出来事に不満を持ち、自然の本性から独立して生きようとするものは宇宙の吹き出物だ。なぜなら、その本性がお前を生み出したのだし、すべての事物・出来事を生じさせたのは宇宙の本性そのものだからだ。ある者は肌着も着けずに哲学を究(きわ)め、ある者は書物も持たずに哲学をなす。ある哲学者は「私はパンを持たないが、理性は持っている」と言ったという。さて私は、学習で得られるような知識は持たないが、理性は堅持している人間だ。

 お前が今まで学び手に入れた知識・技術は、わずかなものであるかもしれないが大事にし、信頼してそれに身をまかせよ。残りの人生を生きるにあたり、神に心からゆだねる心情をもち、人々に対しては決しておごらず、また奴隷的ないやしい態度もとるな。

 過去の偉大な皇帝に統治されていた国を思い浮かべて見よ。そこにも、今われわれがこの国で目にするすべてのものがあったであろう。人々の結婚、子育て、病気、死、戦争、そして田畑を耕す人、他人におもねる人、傲慢な振る舞いをする人間、偽善をおかすやから、陰謀をたくらむやから、さらに人の死を祈るような人間、天命に不平をこぼす奴、金をためこむ人、高い地位を望む人間。ただそのような国も今はなくなってしまっている。

 また、違う偉大な皇帝に治められた国を見てみよう。その国も同様なことにあふれていたが、そこもまた今は存在しない。今まで数えきれないほどの国の中で、多くの人々がこのような暮らしを送ってきたが、それらも、すべてなくなり、すべての人々は命を終え、諸元素に分解してしまったのである。しかし、どのような状況にあろうと、お前は一時の悦楽にふけり、自分のなすべきことを怠り、現状に不満を持ち、より多くのものを得ようとするようなことはあってはならない。また、それと同時に、お前が何らかの行動をする時には、それに適した度合というものがあり、それ以上のものを求めるようなことがあってはならない。ささいなことに関わずらって意気消沈をするな。

 昔よく使われていた言葉で、現在はほとんど使用されなくなった言葉は多くある。同様に、かつては多くの人々の記憶にあった人の名前で、今はほとんどの人が忘れてしまったというものも多々ある。どんなにすばらしいものもやがては色あせ忘れ去られるものである。永遠に名を残す人間などいない。それなら大事にすべきこととは何か。それは、ただひとえに正義を身につけた精神、公共に尽くす行い、嘘のない言葉、この世に起こることはすべて必然であることを知り、それは一つの偉大なる根源から生み出されたことだと認識し、それを喜んで引き受けるという心持、態度、行動、ただそれだけである。

 自分の運命をすべて神にゆだねよ。思い出される人間も、思い出す人間も、すべてはかげろうのようにはかないものなのである。万物は、変転し、また新たなものとして生起する。ただ、その繰り返しなのである。この世に生れ出るものはすべて将来に生まれ出るものの種でもある。大地にまかれ、母胎の中で育つものだけが将来につながるものではない。あっと言う間にお前はこの世を去っていくだろう。それにもかかわらす、お前の心は素直ではなく、平静心もなく、外から害を受けないかと疑心暗鬼(ぎしんあんぎ)し、すべての人に優しく接することができないでいる。賢明とは正しい行動をすることだということにすら気づかないでいる。賢い人間とは、何を避け、何を求めるのかを知っているのだ。お前の災いの原因は、他人にでもお前の外部に存在する事物の変化にあるのでもない。お前の災いは、お前の判断そのものの中に存在するのだ。だから、どんなことも独断的に判断してはならない。それさえ守れば、物事はうまくいくものだ。たとえ、肉体的にはどんなひどい目にあおうとも、心は平静に判断しなければならない。善人にも悪人にも同じように起こることは、善くも悪くもないとことであると思え。すなわち、自然の本性に従って生きるものにも、逆らって生きるものにも等しく生じることは、自然の本性に適ったものでも、それに反したものでもないということだ。

 この宇宙を一つの魂を持つ生き物、意志として考えよ。さらに、すべてのものがどのようにして宇宙に帰属し、また宇宙はどのようにしてすべてのものを生み出したか、また宇宙そのものがどのような構造をもったものなのかに絶えず思いをめぐらせろ。お前は、肉体の衣をまとった、ちっぽけな魂にすぎない。この世に生まれ、変転し流転するものに、善いものも悪いものもないのだ。

 永遠の時とは、いろいろなものが生まれそして目の前に現れては流れ去っていく川のようなものである。そこに生まれ流れるものは、たとえば、バラの花であり秋に実る果実でもあり日常よく知られたものである。さらには、病も死も中傷も裏切りも愚か者を悦ばせるものも、また彼らを悲しませるものも、すべてこの川を流れては去っていく。すべてのものは常に先に生まれたものと関連を持って生じている。万物は、無
意味に無秩序に生まれているのではなく、驚くほどの深い関係のもとに生じているのである。

 自分の進んでいる道がどこに通じているかを知れ。すべてを支配している理性の存在に目を開け。まるで眠っているとしか思えないようなしゃべり方をしたり、行動をしたりしてはならない。また、親から受け継いだものにもっぱら従うだけというような考えのない行動もするな。

 お前の命があと2日と宣告されたら、お前は、明日より明後日を大事にするのか。たとえまだ死ぬのは先だとしても明日以上に明日以降のことを大事だとは考えないだろう。どれほど多くの医者が病人を憂い治療をしたあげく自分も死んでいったことか。多くの人の死を預言した占星術師も、死について述べてきた哲学者も、多くの人間の首をはねてきた王も、人の命を思うままにしてきた暴君も、どれほどの者が今までに死んでいったことか。そしてまた、どれほど多くの国家が栄えては滅亡してきたことか。ある者を葬った者が、また別の者に葬られてきた。すべては束の間の存在であり、人間とはかげろうのようにはかないものだということ、今日栄えたものも明日は灰となるかも知れないことをしっかりと認識せよ。オリーブの実は、熟すれば、自分を育んでくれた大地にそしてその幹に感謝して大地に落ちるように、お前も心穏やかにその時を迎えよ。

 このようなことがあったから私は不幸であるのだとは考えるな。そのようなことがあったにもかかわらず、自分は現在、くじけることもなく、また未来のことを恐れることもなく、苦しむこともなく今ここにいるではないか。あのようなことは誰にも起こりうることなのだ。しかし、その中でくじけることもなくいることは誰にもできるわけではない。そのようなお前が不運であるとでもいうのか。人間の本性に関わるような失敗でもないものが、なにゆえ不運だと言えるのか。人間の本性のもつ意図に反しないものは失敗などではない。
 それでは、その人間の本性の持つ意図とは何であるか。それは、心正しく、慎み深く、賢明にかつ慎重に、嘘もつかず、節度をもって生活することである。その状況で生じたことが失敗などであるはずがない。つまり、そこで生じた失敗と思われるものは、不運なことではなく、むしろそれを耐えることができたことが幸運なのだ。死をおおげさに考えないために、ただ長く生きることのみに執着して日々過ごしている人々のことを思い起こしてみるのもいい。彼らにいったい何があるというのか。ただ、多くの人々の死を見送り、自分もやがて死んで見送られていっただけのことである。この世に生きる時間は短い。この世に生きることは果たして一大事なことなのか。長い悠久の過去の時間と未来の時間を考えれば3日しか生きられないものも、人の3倍も生きたものも何の変わりがあるというのか。

 絶えず近道を行け。それは自然にかなった道であるはずだ。それは、苦難、陰謀(いんぼう)や虚飾(きょしょく)などから解放された道であるはずだ。


 (5)

 お前は、自分がなすべき仕事をするためにこの世に生まれてきたはずだ。そして、その目的を果たすために日々仕事をしている。そのお前が、なぜ気難(きむずか)しくなる必要があるのか。それとも、お前はふとんにくるまってぬくぬくと暮らすためにこの世に生まれてきたとでも言うのか。確かにそうしていることは快いことだが、お前は、ただそのような快楽をむさぼるために生まれてきたのではないであろう。お前は外から働きかけられるために生まれてきたのか、あるいは外に働きかけるために生まれてきたのかをよく考えて見よ。

 ミツバチやアリ、いやどんなちっぽけな動植物であろうと、すべてが彼ら自身にふさわしい役割をこの世で果たしているのがお前には見えないのか。それなのに、お前は人間としての役割を果たそうとしないのか。自分の本性にのっとった仕事をすべきではないのか。休息をするなと言っているのではない。ただ、飲み食いに限度があるように、それにも限度があるのだ。それなのに、お前はその限度を超えて休息していながら、行うべき仕事には勝手に自分の限界を設定して、その枠の中にまんまとおさまっているのではないか。それは、実は自分というものを大事にしていないことであり、自分を愛していないことになるのだ。もし自分を愛しているのなら、天から与えられたお前の本性とそれに対する意図を愛し、それに従うに違いないからだ。

 この世には寝食を忘れてまで自分の仕事に関する技術の上達に打ち込む者がいる。たとえば彫刻や歌や舞に寸暇(すんか)を惜しんで励むものなどがいる。それらの中には、金や名誉のためにひたすら励むものもいるが、それらの人々よりもお前は、はるかに劣るのではないか。お前のたずさわるべき、この公共に関わる仕事は、それらと比べたら、大した価値のないものだとでも思っているのか。

 お前自身と本質的に何の関係もない、お前の心を乱すだけの想念は捨て去り、平静な心を持て。自分がいつも自然の摂理に従った発言や行動をしているのなら、他人の悪口に心を乱されるな。自分が良い発言や行動をしていると考えるなら、自信をもってそれらを行へばよいのであって、自分を卑下することなどはやめよ。他人はそうすることが自分にとって都合が良いと思っているからそのようにしているにすぎないのである。そのようなやからに気を配ることはやめて、自分の信念と自然の摂理に従ってひたすらまっすぐ歩め。真理の道も自然の摂理に従った道も同じものなのである。

 お前は、自然に従って諸々の行いをし、そして死んでいく。お前が息を引き取る場所は、父と母がお前を生み育てた所である。またその場所は、お前が食べてきた食物を育み、お前がさんざん踏みしめてきたこの大地でもある。お前は才知あふれた人間などではない。しかし、それで良いのだ。それ以外の多くの良いところをお前は持っているではないか。いやそのようなものなどありませんとお前は言うことはできないし言うべきでもない。それゆえ、お前はその良いところをこの世で発揮しなければならないのだ。たとえば、純粋さ、慎み深く厳格であること、忍耐強さ、色恋におぼれないこと、天命を知っていること、親切心をもっていること、自主性があること、質素を旨とすること、不平不満を言わないこと、気高い心を持っていることなどだ。

 それなのに、自分は生来無力な人間だと卑下し、何もしないでいるのではないか。それとも不平不満を言い、強欲に身を任せ、だめな自分を恨み、人に媚びへつらい、大ぼらを吹き、心を乱し、このように生まれたのだからしょうがないとでも言うつもりではないだろうな。いや違う。とうの昔にそのようなものは、克服できたはずだ。仮に非難されるとしても、お前は精神的に鈍く聡明ではないと言われる程度だ。しかし、それとて努力で克服できないものではない。自分がなまけものであることに安住(あんじゅう)して、そのようにあることに慣れてはならないのだ。

 人に親切にしたとき、感謝を得ようとする者がいる。あるいは、あたかもそれにより、相手に貸しをつくったのだと考える者もいる。それに対して、そのような行為をしても何一つ見返りなどを期待しない者もいる。馬は駆け、ミツバチは蜜をつくり、ブドウの木は季節になると実を付ける。このように、人間も善い行いをしてもそれを触れ回ることもなく、また次の行いに移っていく、そのような人間にならなければならないのだ。
 お前は、自分は公共のために活動していると思っている。またそうしていることを自分の同胞に知ってもらわなければならないと考えているかもしれない。しかし、それは前に話した見返りを求めて人に親切にするような人間に自分をしてしまうということにつながることを忘れてはならないのだ。

 神に祈ることなどすべきではないと思うが、もし必要が生じたなら「水が必要なので雨を降らせてください」のように単純率直に行え。人は健康を望むが、たとえ病気にかかろうと損失をこうむろうと、各人に生起したことはすべて運命としてその人間に割り当てられたものであるのだ。この世には、ある一つの調和というものが存在し、宇宙はそれにかなうようあらゆるものを現在あるように運命づけているのである。宇宙がそれぞれにもたらしたものなのだ。だから、われわれはたとえそれが難儀(なんぎ)なものであろうとも、それを悦んで受け入れなければならないのだ。自然の本性が、自らの支配するところに、個々のものについても、全体に関わるものやことがらについても、都合の悪いものや出来事など生起させるはずがないのである。だからお前は、自分の前に生起するものにすべて好意を持たねばならない。もしお前がそれらに不満をいだくとしたら、それはお前が宇宙の調和を破壊することになるのだということを忘れるな。

 お前が行動する時、未だ真理にかなった行いをするという習慣づけができていないなら、どんな行動も放棄したり、途中でやめたり、拒絶したりすることはすべきではない。その場合はたとえ失敗しようともめげることなく根気強く行い、その行為が十中八九、人間としての名に値するほどのものならば、それでよしとしその務めを続けよ。
 また、哲学を学ぶ時もいやいやではなく、病人がその病状を和らげる薬を処方してもらう時のような気持ちで、自分にとって必要なことだと理解して行うべきである。そのようなあり方を人に見せびらかすことがなくても、その時のお前は心のなかにやすらぎを見い出すであろう。ともかく、哲学を学ぶということは、お前の本性が求めていることであることを忘れるな。快楽をお前の本性は求めていると思うか。そうではないであろう。単なる快楽は、人間の心を破滅に導くだけのものではないか。この本性が求めていることとは、つまり精神の自由や自主、清らかさ、純朴で素直なこと、慈悲に富み親切であることではないか。これらこそが真の快楽と言えるのではないか。

 事物の本当の姿を知ることは困難である。哲学者さえ、それをつかみ取ることは難しい。たとえ把握できたとしても、その時にはその事物は変化しているかもしれないし、われわれの精神は移り変わるもので、一旦つかみ取った思えたことにも、また新たな疑いを持ち始めることだってあるのではないか。第一、この世の中に変化しないものなど自分を含めて何もないであろう。このような世界の中でわれわれは何を対象として、また何を目的として努力し生きていくべきなのか。だからといって、もういいといってあきらめて時間の経過だけを待つのか。いや違う。宇宙の本性によらなければ何一つ自分には生じないこと、神や神霊に反しては何一つ行えないことをまず悟れ。自分が行動する時、どんなものが自分の心を支配しているか考えよ。

 お前は、青二才(あおにさい)、暴君、家畜や野獣が持つような心ではあるまいな。知恵、健全な思慮、正義、勇気など、世の人々が良いとみなすものは人間にとって重要なものである。しかし、ただ単に量だけそれらを多く持てばいいというものではないであろう。それらがもし、名声や富のための手段であるならば、多く手に入れたがゆえに邪魔(じゃま)となり、かえって身動きができなくなることがあることも忘れてはならない。

 私が死んでも、その魂や肉体が無になることはない。なぜなら、それらは決して無から生じたのではないからだ。私の魂や肉体は、もともとこの宇宙の別のものに組み込まれていたもので、それが素材となって生じたものだ。私が死ぬということは、それがまた違うものに組み込まれ、新たなものが誕生するということだ。ただそのものも、やがては滅び、また別のところに組み込まれていくであろう。そしてそれは果てしなく永遠に続いていくのである。私もそのようにして誕生したのであり、また私を産んでくれた両親も同じことである。未来が永遠であるように、過去にさかのぼっても限りはない。いや限られた周期があり、繰り返されるだけだとしても、その繰り返しもまた永遠なのである。

 理性とは、その発動も働きも自己完結したものと考える。つまり、理性は必要とされた時にそれ自身により発動し、その進む方向もその目的も理性自身の中に組み込まれているのである。したがって理性により行動するということは、それだけで、無条件に正しい行為なのである。

 普遍的な意味における人間の本質に帰属しない個人的な事柄に特別に注目するな。それらは、人間に対して要求されるものではない。そこには、人間としての目標、その目標を達成させるうえでの核心的要素などに関わるものは何も存在しない。そのような態度を可能な限り貫くことが良い人間となる道である。 お前の精神は、お前がいだく想念と同じ性質のものとなっていくのだ。それゆえにお前の想念を、たえずお前を創造したものに向かわせよ。なぜなら、そこには究極の目標があり、そしてその目標のあるところに善と利益があるからだ。

 さて、理性的動物の善とは公共性である。公共性のためにわれわれは生まれ出たことは間違いないことである。生あるものは、生なきものにまさり、理性あるものは、生あるものにまさるのである。不可能な事を追い求めるな。人間にその人間が本性上耐えられないことは決して生じない。もし、ある人に自分にはとても耐えがたいようなことが起こっていて、それにもかかわらず彼が泰然(たいぜん)として動じていないとするなら、彼はただその事実を知らないか、心の大きさを誇示しているかだけのことである。単に、無知と虚栄(きょえい)が叡智(えいち)にまさっているだけで、それはある意味ではひじょうにおぞましいことなのである。事物そのものが人の心に直接侵入し、それを動かしたりその向きを変えたりすることは金輪際(こんりんざい)起こり得ない。人の心は独力で自分の向きを変え、逆に外界の事物を自分にふさわしいものに合わせていくものなのである。

 人には親切にしなければならない。また他者がもたらす耐えがたいことにもできうる限り耐えねばならない。なぜなら、人はわれわれにとって最も有機的に関係が深いからである。しかし、人々の中には私の仕事の邪魔をする者もいる。ある程度の活動は阻害されるかも知れないが、ただ、それは自分にとって何の関係のないものにすることができるのだ。なぜなら、自分がそれらを遠ざければよいし、あるいはそれから自分の身をかわせばよいからだ。そうすれば、自分の心のあり方にまで影響を受けるようなことは起らないのだ。いや、自分の働きかけによってそのものの方向を変えさせ、自分の仕事に役立つものにすることだってできるのだ。立ちはだかるものを、自分の仕事を促進させるものにすることができるのだ。

 この宇宙にあって最も力がありすぐれたものを崇(あが)めよ。それは、万物を使役しそしてそれを制御するものである。同時に自分の内にある最も力のあるすぐれたものを尊敬せよ。その内なるすぐれたものは、実は前者の宇宙を使役、制御するものと同類なものなのである。なぜなら、その前者のものが後者のお前のうちなるものを指しずし働かせているからである。国家に対して害を与えないものは、国民にも害を与えないし、私にも害を与えない。しかし、国家に害を与える者がいたとしたら、それに対しては怒り、そしてその誤りを彼に諭(さと)すべきである。

 今存在するもの、生起しつつあるものを見よ。なんと早い速度で変化し、消え去っていくのであろうか。まるで流れる川のようだ。不断に続いてはいるが、永続的に変化している。一つとして不動なものはない。すべてのものは、未来という中に消滅していくのである。そんな中で、身をかきむしり地団駄(じたんだ)を踏み、不平不満の限りを口に出して言うものがいるならなんと愚かなことであろうか。お前には、全体のほんの取るに足らない一部しか与えられていないのだ。またたく間に過ぎさるわずかな時間、宇宙全体からすればほんの一部の物質。ほんとうにお前という人間はささいなものに過ぎないものだということを悟れ。そして、同時にこの広大な世界全体の運命たるものに思いをめぐらせよ。

 他人が何か非道なことをお前にしでかしたでもと言うのか。それは彼の問題であり、その人間の気質と行動によるもので、彼なりの考えがあってのことだ。一方、お前は万物がもつ普遍的本性が自分に命じていることをなしているだけのはずだ。それでいいではないか。お前の精神がお前の肉体的な要因で生ずるものにねじ曲げられてはならない。肉体を原因として生ずるものは、できる限り最少に抑え込んでおかなければならない。ただ、その肉体的なものでも、普遍的本性と一体化していると判断されるものである場合は、それは自然のものであるがゆえに、それに対し勝手に善悪の判断を下してはならない。

 自分の魂が天から与えられるものに満足し、宇宙の分身である自分に課せられた使命、つまり理性に従って事をなし、また、世の人々にそのことを指し示すするなら、お前は神々とともに生きるものとなれるのだ。

 お前は体臭や口臭のある人間に対して憤(いきどお)ることはないはずだ。そのことは彼らにとってどうしようもないことで、お前に対してどうすることもできないことだからである。いや、人は自分が犯している過ちを把握する力があるはずだという人がいる。それならそれでいいではないか。もし他者が過ちを犯しているなら、怒ることなく、順序よく諭していくことだ。彼に力を貸して、その誤りを正していけばいいのだ。なにゆえ、彼に対して憤らなければならないのだ。

 死んであの世にいったらどのように暮らそうかと思案しているのではないだろうな。そのようなことに気を取られるくらいなら、この世においてその考えどおりの生き方をすればよい。それがいやなら、いさぎよくこの世を去れ。やれ、人に邪魔されたからそれができなくなったというような態度はとるべきではない。よく考えてみよ。お前の欲することを為すにあたり、それを妨げるものなどあるのか。理性を持ち公共のために本性に従って行動するところに障害などないはずではないか。

 宇宙の理性は、より劣ったものをより優れたもののためにつくり、優れたものどうしは互いによく適合しあうように調整したのである。それがこの世における縦の秩序であり、また横の秩序となっているのである。
 お前は今日まで、神々・両親・兄弟・妻・子どもら・教師・友人・しもべにどのような態度をとってきたのか。不法な言葉づかい、態度をとってきてはいないだろうな。さらに、お前は今まで、どのような経験をし、どのようなことに耐えるだけの力を持ったことがあるのかを思い起こしてみよ。また、今までに、どれほどの美しいものを見てきたか、どれほど多くの快苦を嫌ってきたか、人から褒(ほ)められることを無視してきたか、恩を忘れるような人間にも善意をもって接してきたかを考えてみよ。技と知を持つ魂とはどんなものなのか。それは万有の始まりと終わりを知り、全存在を貫いて遍在(へんざい)し、一定の周期をもって永遠にわたり万物を統率する理性を認識した魂なのである。
 やがて、お前は、灰になり、名前が残るか、またはその名すら消え去るのだ。名など、音でありこだまであるに過ぎない。この世で尊重されるということも、一皮むけば中身のない空しいものである。じゃれ合ってかみ合う犬ころのさわぎに過ぎない。ともかく、死は消滅であれ、ここからむこう岸への移動であれ、心静かにそれを待つのだ。それまでは、神々を崇め、人間には親切にし、何事にも耐えるのだ。肉体や気息はお前のものではないのだ。お前の力の及ばないものであることを心に銘記せよ。

 お前が良い道を選び、しっかりとした行動をするなら、何ら障害のない流れるような人生を歩むことができるはずだ。他より妨害されることなどありえない。正しい心と正しい行為の中に身を置き、そこにお前のあらゆる欲望を閉じ込めておくことが大事だ。もしある出来事が自分の不徳が原因でなく、かつ公共に害を与えるものでなければ、それに対して何も思い煩う必要はない。幸福な人間とは良い心の傾向や良い欲求を自分自身に与える者なのである。

 


(6)

 万物の素材は素直であり、どのようにでもなる。また、それを統御する理性もその中に悪い部分を持たない。理性に邪心(じゃしん)はなく、何かに危害を加えることもないし、それにより何物かが損なわれることもない。すべてはその善き理性により生じ、事が成し遂げられるのである。お前が何かをなす時、その身が寒さに凍(こご)えているか、暖かいか、十分寝たか、寝足りないか、人から良く言われているか、悪く言われているか、死期がせまっているか、まだ先なのかなどに心を煩わされるな。死といえども自分の人生の中における出来事の一つであるなら、その際にあっても今自分がしなければならないことを行えばよいだけのことである。

 事物の内面をいつも奥底まで注視せよ。お前の心の目でその固有の性質と価値を見抜け。すべてのものは迅速に変化し、より次元の高いものに姿を変えるかあるいは雲散霧消(うんさんむしょう)して去っていくのだ。宇宙を統御する理性は、自分がいかなる状態であるか、また、何を材料にして、何をなすべきかを知っているのだ。悪に対する最良の対処方法はそれらに同化しないことである。神に対する想いをいつもいだき、国家公共のために絶えず行動せよ。そしてそのことにより悦びを見い出し、心に安らぎを得よ。自分を統制するものとは、自分を目覚めさせ、進むべき方向を定め、自分を形作り、すべての出来事を自分の望み通りの姿にして目の前に出現させてくれるものである。

 この世のすべてのものは、そのものが生まれたと同時に与えられた自然の本性に従っているのである。この世は、何の秩序もない単なるものの集まりであるのか。または秩序やある摂理のもとに統一されたものであるのか。もし前者なら、そのような無意味とも思える世界に何故私は恋々(れんれん)として生きようとするのであろうか。私は、いったい何に意味や関心を求めるというのか。なぜ、わが心をここまで乱す必要があるのか。自分が何をしようとも消え去る時は容赦(ようしゃ)なくやってくるだけなのだ。一方、後者なら、私は神を敬い、確固不動の態度をもって、この宇宙を統御するものを信頼して、心中に一片の曇りもなく、何ものにも臆(おく)することなく生きていけばよいのだ。

 お前の心がお前を取り巻くものたちによって混乱させられている時には、必要以上にそれらの中にいることをやめ、お前の中にある本来の秩序ある自然の調和の場所に戻れ。もし、お前に義理の母と生みの母がいるなら、義理の母に仕えながら生みの母のもとに絶えず帰っていくであろう。お前にとって義理の母とは宮廷生活であり生みの母とは哲学なのだ。哲学のもとに帰って、そこで休息せよ。心が帰るところがあってこそお前は、宮廷でのことも辛抱(しんぼう)もでき、良き人間性を保つこともできるのだ。

 肉を食べる時、それは生きていた動物の死体であるということ、ワインはブドウの果汁で衣服は動物の皮膚で、性の交わりは性器の摩擦と痙攣(まひ)と粘液の射出(しゃしゅつ)であるということをそれぞれ頭に思い描け。これらの想いというのは、事物の核心を刺し貫き、物事の正体を見とどけているということである。人生全般のことにおいても同じことである。たとえば、あまりにもよくできすぎているものに出会ったら、それらを裸にして、その低劣(ていれつ)さを見抜く力を持ち、正体をあばけ。おごりたかぶる心とは、人を詭弁(きべん)でたぶらかす恐ろしいものであることを悟れ。今、自分は人生において重要な時にあると思う時には、よくそのようなものに騙(だま)されていることがあることも承知しておけ。

 一般の人間はものをあがめる。多少気の利いた人間は、ある種の技術や熟練をあがめる。しかし、真にあがめるべきものは、国家公共を大切にするような理性であるのではないか。まずはそのような心をよいものとして育てるとともに、そのような心を持つ者と協力し合え。

 宇宙において今も、あるものは生成しようとし、またあるものはその存在を終えようとしている。生まれつつあるものの中には早くも消え去ろうとしているものもある。このような流動と変化は永遠に続いて、この宇宙はたえず新しくなっていく。そのような中で流れ過ぎゆくものを尊いものだとして惜しんでいったい何の意味があるというのか。流れいくものの上には立つことはできない。また、かわいい雀(すずめ)が目の前を飛び去るのを見て、もっと見ていたいと思っても、それはかなわないことである。人間の人生もこれと変わりはしないのだ。死などは、生まれた時に持った呼吸作用を日々吸い込んでは吐き出した大気の中に返すだけのことである。

 呼吸できること、食物を消化してエネルギーを生み出すこと、ものを見て認識できることが賞賛されることなのか。単なる取り込んで排泄(はいせつ)するだけのことで尊ばれるようなものではない。では、何が尊ばれることなのか考えて見よ。拍手喝采(はくしゅかっさい)されることなのか。お前は人に尊ばれるために生きているのか。そこに何の意味があるのか。大事なことは、自分自身の振る舞いを自己本来の成り立ちに従って行うことである。なぜなら、技術の目指すところは、つくりあげたものがちゃんとその作成意図のとおりにその機能を果たすことである。庭師もブドウを栽培する人も犬の調教師も皆、求めるところはそこであり決して変わることはい。だからお前は自己の成り立ちに従ってその行為をなし、その役割を果たせばよいのである。それ以外、お前に何が求められるというのか。自足し、自分の関わりの外にあることに対しては不動の境地であればいいのだ。

 元素の運動は上下左右であるが、徳の動きは神的なものであり、人知によって測りがたい道を歩むものである。人は自分と同時代に生きる人々のことを褒(ほ)めようとはしない。一方、自分が見たこともなく、また見るであろうこともない将来の人々から褒められることを大事なこととみなしている。なんと愚かなことなのか。過去の人々が現在のお前を賞賛しないことを悲しむ愚かさと酷似(こくじ)している。

 自分がとてもできそうにないからといって、人間の力ではできないことだとは考えるな。むしろ、人間にとって可能なことはお前にとってもできることなのであると考えよ。格闘の練習や試合では相手に打撃を与え、あるいは打撃を受け、頭突きをくらわし、くらわされるが、だからといって相手を悪だくみしているのではないかと疑うことも恨むことなどもない。相手から自分の身を守ろうとするのは当然のことだが、相手を敵視して憎むことなど決してない。明朗な気持ちをもって、その攻撃から身をかわすだけである。人生においてもこれと同じであらねばならない。人々のすることに黙って目をつぶろうではないか。疑いの念をいだかないこと、身をかわすことが大事だ。相手を嫌って近寄らせないような振る舞いなどはしてはならないのである。

 私の正しくない所を指摘しそれを証明しうる者がいれば、喜んで私はその正しくない所を改める。なぜなら、私は真理を求めているのであって、未だ真理によって損なわれた人間など一人もいないことを知っているからだ。むしろ、自分をだましたり、無知であることこそが自分をダメにしてしまうことなのである。私は本来の自分の務めを果たせば良いのであって、それ以外のことで心を煩わされる必要などない。

   お前は、理性のない動物や理性を欠いている事物には、それらにふさわしい、広い心で接するべきだ。一方、理性を持つ人間に対しては、相手も同じ理性を持つ同胞として接する必要がある。事に当たっては、いつまでそれをやり続けなければならいかなどということを考えて心乱すな。どんなことでもやり続ければ、それはすみやかに終わることなのである。

 王であろうと奴隷であろうと死ねば、同じように原子として霧散する。生きている間にどれだけ多くの事がこの自分の心身に起きているか考えてみよ。そうすれば、この宇宙全体ではどれだけ多くのことが生起し存在しているかが分かるであろう。ある人がお前の名前のつづりを教えてくれと言ったら一つ一つ丁寧に教えるか。もし相手が、その教え方では分からないと言って怒ったらお前も怒り返すのか。いやそれでもお前は一つ一つ丁寧に示していくのだ。そのように、この世にあってお前のなすべきことは定まっているはずだ。ともかく、それを心乱されることなく、怒らず、理性に則って行うことだ。

   人々が自分たちに有益だと思うものを追い求めることは、当然許されることだ。とはいえ、彼らがそのことで過ちを犯しているとしたら、それに対してお前は怒りを覚えることもあるであろう。しかし、怒る必要などないのだ。なぜなら、彼らはその行為は自分たちにとって本来的なもの、有益なものと誤解しているだけのことであるからだ。そうであるなら、お前は、彼らにその行為が過ちであることを教え示せばよいのである。そのようなことでお前の心を悩ませるな。

 死とは、理性・魂のはたらき、肉体に対する配慮や面倒をみることの停止である。もし、お前の肉体が滅びる前に魂の活動が力尽きるとしたら、それは恥ずべきことである。心の底まで「皇帝」に染まりきるな。気をつけなければ、それはお前にも起こりうることだ。常に、単純素朴にして善良で汚れなく慎み深く虚飾のない心であれ。いつも正義を友とし神を敬い、心に笑みを忘れず親愛に満ちた心持ちでおのれの義務に忠実な者であれ。哲学で学んだ生き方ができるような人間であれ。神を畏敬し人々の安全を計れ。人生は短い。この地上の生の成果は、敬虔(けいけん)な心構えと公共を想う行為にあるのだ。

 理法に従う強い心、いついかなる時においても平静である心、人を敬う心、明るい表情、温和な心、名声にとらわれぬ心、真実を探求しようとする心を持て。また、物事を事前に徹底的に観察し考慮したうえで行うこと。さらに、たとえ自分に対して不正な中傷を受けようとも耐えること、何事にも深追いなどすることなく、人からの非難にもとりあわず、その一方で人々の人柄と行動はしっかりと把握しようとすることが大事だ。人を非難するな。臆病で疑い深い人間になるな。住まい・食事・衣服など身の回りのことはわずかなもので満足し、骨身惜しまず辛抱強い人間であれ。簡素な食事で規則正しい生活をせよ。また友情を大事にし、自分に対して反駁(はんばく)する人々も嫌うことなく受け入れ、自分より優れたものを示す者がいれば、素直にそれを悦び、かつ迷信などにとらわれない敬虔な態度を貫け。

 心を澄ましてもう一度自分を内省してみよ。すると今まで自分を悩ましてきたものは夢にすぎないことが分かるのではないか。そして、再び目覚めるのだ。私は、ちっぽけな肉体と魂からできている。肉体は、この世の事物に対して何の影響を与えることはできない。肉体の力は限られている。しかし、精神は違う。精神は、その精神活動の範囲外にあるものは別にしても、その活動の範囲内にあるものは、その精神の力によっていかにでも変えることができるものである。もちろんそれは現在のものに対してであり、過去と未来に対しては影響を与えることはできない。自分の手や足に対して課せられる労苦は、それが本来課せられるべきものであるのならば、それは自然に反しているものではない。それと同様に人間そのものに対する労苦もそれがその人にとって本来かくあるべきと判断されるものなら、当然受けいれられるべきものである。自然に反しないものがこの世において悪いものであるはずがない。

 快楽をひたすら追い求め楽しんだところで、この短い一生でどれほどのことが楽しめるというのだ。職人は自分が持っている技術を手放すことなどは我慢ならないであろう。しかし、人間が持つ理性を尊重するより以上にその技術を大切にしようとするなら、それは恐ろしくおぞましい事である。アジアもヨーロッパも地球の一角であり、この地球も宇宙全体からみれば一滴のしずくにも過ぎない。現在というお前の生も永遠の時の流れからすれば消滅する一瞬のことにも過ぎない。ほんのちっぽけな移ろいやすく、消え去っていくものなのだ。ただ、現在を見ている者は、過去から未来までのすべてのものを見ているとも言えないわけではない。なぜなら、万物はどこにおいても、いつの時代においても同類、同質だからである。

 この宇宙にある万物のつながりと関係に想いをめぐらせよ。万物はすべて関連し合っていることが分かるはずだ。それらの各々の動き、順序正しくさ、協調し合うあり方などからすべては同胞の関係にあることが分かる。天から与えられた事物に、お前を調和させよ。また宿命によりともに生きることとなった人々に対しては愛情を寄せよ。器具・道具・容器は、その役割を果たす限りで満足でき、結構なものなのである。ただし、それらに作成者といえる者は存在しない。しかし、自然により組成されたものには、それをつくりあげた力がそれらに内在しているのだ。そうであるならば、お前はその力を尊敬すべきである。そしてその力の意図するところにかなった生活態度をとればいい。そうすれば、万事はお前の想いのままになるはずだ。

 お前が何が良くて、何が悪いと考えるかはとりあえず置こう。もし、お前の努力の及ばないことで、お前にとって悪いことが生じたり、逆に良いことを取りこぼしたとしたならば、そのことで、お前が神々をののしり、その原因をつくった人々を憎悪するとしても、それはやむを得ないことだと思いもする。しかし、もしお前がお前の力でどうにかすることができるこで、そのようなことが生じたならば、そういう態度を取ることは決して許されることではない。

 われわれすべての者は、それを意識するかしないかは別にして、ある一つの目的の実現に向けて協同しているのである。その協同とは人それぞれその仕方で、またその役割でもって行われているのである。宇宙の出来事に罵詈雑言(ばりぞうごん)を唱える者も、反逆してそれを破棄しようとする者でさえ、実はそれに協調する結果となっているのである。宇宙にとっては、彼らも必要な存在なのである。それゆえ、お前は自分をどこの立場において協力するのかを、はっきりと認識しておかねばならない。

 お前は、宇宙を統括するものにとって重要な力量のある協同者にならなければならないのだ。宇宙にとって、嘲笑に値するような安っぽい喜劇の一員になってはならないのだ。太陽も雨も各々その役割は異なるものであるが、一つの目的に向かって協力している。星々もその一つ一つは異なるものであるが、ある統一した秩序のもとにある。神々は、お前に対してもいろいろと配慮をされているに違いない。配慮しない神がいるなど私には考えられないからだ。なにゆえ神々が私に対して酷なことをする必要があるのか。そのようなことをして私を苦しめても、それが神々にとってまた宇宙にとって何の意味があるというのか。もし、仮に私に対しては配慮がなされていないとしても、宇宙全体については万全の配慮をなされていることは間違いないことである。だから宇宙に生起したものはすべて必然の定めに従ったものである。それゆえに、お前は当然、それらに対して満足と愛情の念を持つべきなのだ。

 もし、仮に神々が何も配慮していないとするなら、まあそれなら神々に対するすべての祈り・儀式などの行為はやめるべきだと思うが、お前は自分自身で自分の行為を配慮することができるのだから、自分自身のためになることだけを行えばいいのである。お前にはそれだけの力があるはずだ。当然お前がなすべき行いとは、お前の場合は自分自身だけでなく、すべての人のためになることであり、国家に関わることであるはずだ。それは一個人のお前としてはローマのためであり、人間のお前としては宇宙のためである。つまり公共に有益なことを行えばよいのである。そしてお前の場合、それが自分にとっても良きものとなるのである。

 そもそも各人の身に起こることはすべて全体のためになることなのである。それが分かれば、一人の人間のためになることは、他の人々のためにもなるということに気づくはずだ。ただ、このためになるという意味は、善悪どちらでもない中間的なものも含んでいることを忘れるな。

 円形闘技場で演ぜられるものは、同じことの繰り返しでお前にとっては退屈きわまりないものになっているであろう。人生も多かれ少なかれこれと変わらないものかもしれない。万物は時の流れに身を委ねてはいるが、新しいものなど何もなく、同じ根源から成り立っているのである。このようなことは一体今後いつまで続くのであろうか。

 過去の多くの人間の営みに想いをめぐらせよ。傑出した雄弁家、荘重たる哲学者、多くの英雄、将軍、僭主(せんしゅ)、自分の才知に自信をもっていた人、あるいははかない生をかげろうのように過ごした人、悪ふざけのような生き方をした人間、そこには計り知れないドラマがあったであろう。しかし、彼らのすべては今、地下において永遠の眠りについている。それが一体何なのか。それなら、生きるうえにおいて大事なこととは何か。それは、誠実でかつ正義を愛し、嘘つき・不正の輩にも好意を拒まず暮らしていくことではないか。

 楽しく生きようとするなら、ともに生活する人々の長所を想え。あの人にはこんな、また違う人にはこんないいところがあるというように。それらの人々の徳ほど私の心を和ませてくれるものはないはずだ。それらから目を離すことなく、常に心にとどめておくべきである。

 お前は自分の体重がある値に満たないからといって不機嫌になることはあるまい。また、自分が生きる歳月がある期間以上でないからといって同様に機嫌が悪くなることもないだろう。今、お前は天から与えられた物質に満足しているはずだ。生かされるであろう時間の長さについても同じような態度を取るべきである。

 正義の道と自分が判断するなら、他人がそれを承知しないならまず、彼らを説得せよ。そして、それでも仮に彼らが承知しなくても正しい道だとお前が考えるなら、実行に移せ。しかし、それに対して暴力で立ちはだかる者があれば、自分の身をひるがえし、その相手の力を別の徳のために利用せよ。お前に不可能なことをせよなどとは望んではいない。お前は今までそのようにしてすべてのことを実現させてきたのではないのか。

 名声にこだわる者は、自分を幸福にしてくれる他人の行動ばかり考え、快楽に執着するものは自分の感覚のことばかりを考える。それに対して、理性を持つ者は、自分の行動についてまずしっかりと考える。

 事物に対してわれわれは心悩ますことなしに済ませることができる。なぜなら事物には、われわれの心を悩ませようとする意図などないからだ。自分に対する他人の言葉に注意深く耳を傾け、そしてその人の心中に自分の身を置いて、その人の気持ちになって考える習慣を身に付けよ。一群のミツバチのためにならないものは、一匹のミツバチのためにもならないことを悟れ。船員や病人にとって船長や医者は自分たちをどのようにして安全に健康にしてくれるのかだけが関心事なのである。

 考えてみたら私と同じころこの世に生を受けたものがもはやどれぐらい死んでしまったであろう。なぜお前は怒りに身を任せるのか。怒りとは病気がその人間に、怪我がその人間に与える影響以上の悪いものをその人間にもたらすことを忘れるな。

 お前が自分の理性に従って生きるのを妨げる人間などいない。また、お前の身に自然の理性に逆らって起こることなど何もないのだ。人に気に入られたいと考える人物とはどんな人間か。また何を求めてそうしようと思うのかを考えてみよ。時は多くのものをすでに消滅させてきたし、今後もいかに多くのものを消し去っていくことであろうか。


(7) 

 善とは悪とは何か。それをお前は、しばしば見てきたはずである。今ここに生起するすべてのことは、お前が繰り返し、繰り返し見てきたものなのだということを絶えず念頭(ねんとう)に置け。頭上、足元、どこを見ても見えるものは、過去から変わらぬ同じものだけだ。その同じものによって歴史は満たされているのだ。現在のすべての都市や家それ自体は束の間のものではあるが、すべては過去から変わらぬものにより満たされているのである。一つとして新しいものなどないのだ。この世界の原則は今も変わらず存在する。その原則は消え去ることなどない。しかし、その原則にどのように関わり、それをどのように活かしていくかは全くお前の自由である。

 何事に対しても、私はある見解をもつことができる。もし、持てないようなことがあるとしても何らうろたえる必要などない。自分の精神の外にあるものなど、自分とは何の関係もないものだからだ。このことをしっかりと胸に受けとめれば、毅然(きぜん)とした態度でいられるはずだ。そのような目で眺めればすべてはまた違った新たなものとして見えてくるはずだ。

 水槽に泳ぐ魚たちは、そこに投げ込まれた一片の餌(えさ)に我先にと群がる。それと対して変わらないこの人間世界において、お前は決して優しさを失わず、尊大にふるまうことなどないようにせよ。人間の価値はその人が目指し、精進しようとする努力の目標によって決まるのだ。言葉が交わされる時はいつもその言葉が意味するものを考え、行動する時は絶えずその行為の目標が何であるかを意識せよ。

 私に与えられた力が十分なものなら、私はそれを使って私自身で公共のための仕事をする。しかし、その力が不十分なものだとしたら、今の仕事を他者にゆだねるか、または優秀な助手を雇い、その手助けを受けながら、自分のできる限りの努力をしてその仕事に励む。ともかく、自力にせよ、他人の力を借りるにせよ、私が行うことは、世の中に役立つことでなければならないのは確かだ。 かつて世の中で賛美の的であった多くの人がすでに忘れ去られ、また彼らを賛美した人々さえ、とうの昔にこの世を去っている。

 人から助けを受けることを恥じるな。どんな形であるにせよ、お前には課せられた任務を果たす必要があるからだ。たまたま、お前が力不足でそれができない時、他人の助けを借りればできるならその助けを頼りしないことが良い事なのか。未来のことに心を煩わせるな。その時には、今お前が処理できているように、同じくその力でそれらに対応できるに違いない。

 すべてのものは、神聖なかたちでつながっているのだ。何一つ孤立無縁なものはない。なぜなら、すべてのものは、この同じ一つの世界をつくりあげているものだからだ。この世界は一つであり、それは万物により構成され、神は唯一で、その中のすべてのものを貫き、素材も法も理性も真理もすべて一つなのである。

 あらゆるものは、それが生み出された根源の中に戻りそして消滅する。すべての原因や記憶も同様にその源である万有の理性の中に立ち戻り、消滅していく。われわれ理性あるものにとって、自然にかなうということと理性にかなうということは同じことである。自力で立つか、人の力で立たせてもらうかの違いだけである。手足がお前の一部であるように、お前も理性あるものの一つとして他と協調するようにつくられたものである。お前は、この宇宙の本性の手足そのものなのなのである。もし、自分は宇宙の本性の単なる付属物に過ぎないなどと思っているのなら、人に対し善行を行う時、真の喜びを感じることなどできない。単に義務として履行しているだけだ。しかし、その手足を担っていると思うなら、それを行うことに悦びを感じるはずだ。

 自分に外界からやってくるもので、自分のところにやってきてほしいというものがあれば、何でも拒んではならない。それらのもののうちで自分に対して良からぬものがあったとしたら、非難すればそれですむことだからだ。しかし、私は自分の身にやってきたことは、たとえどのようなものでも悪いものだとは考えない。なぜなら、未だ何一つとしてそれらのもののうちで私に害を与えたものなどないことを知っているからだ。そして私はそれらを悪いものだと考えないようにすることはいつだってできることなのだ。

 人が何をしようとまた何を言おうと、私は常に良き人間でなければならない。たとえば、エメラルドは、人が何をし、何を言おうと私は輝き続けると言うであろう。

 自分の理性が自分自身を苦しめることは決してない。たとえば、お前を恐怖におののかせて、何らかの欲望に駆り立てることなどない。もし仮に、他人がお前の理性に恐怖や苦痛を与えるようなことをするとしても、そのままにさせておけばよい。理性そのものは、対象を醒(さ)めた目で洞察し、事態に冷静に対処するものであるのだ。理性が、本来の道をはずれることなどないからである。ただ、肉体については、そのようにはいかないので、絶えずひどい目にあわないよう注意しなければならない。しかし、精神は違う。自分から意図的なものを持ち出さない限り、精神が惑乱することなどない。自分が自分に障害を与えないかぎり、何ら心配する必要はないのである。精神は外部からやってくるものからは全く自由なのである。

 お前は変化を恐れるのか。変化なくして何が生まれるというのか。この世に変化なくして成し遂げられるものなどあるのか。薪が燃えて変化しないとしたら風呂に入れるのか。食物が変化しなければ、われわれは栄養が摂れるのか。すべて変化が必要なのだ。当然、お前にも変化が必然なのだ。しごく、あたりまえのことではないか。
 万物は、われわれの身体の各部分と同じように、相互に関わり合いながら、作用しあい生成において宇宙全体と一体となっているのである。

 永遠の時は今までどれほど多くの人々や事物を飲み込んできたのだろうか。このことを肝に銘ぜよ。私の不安は、自分が人間としての本来するべきでない行動をしてしまうのではないかということである。また人間としての本質が今、すべきでないとされる行動をしているのではないかということである。身近な大事なことを人間は忘れがちなものであることを心せよ。

 過ちを犯す人間をも愛せるのは人間だけである。もし、愛せないとしたら次のことを思い起こせ。彼らは無知のゆえに過ちを犯すのであるということを。彼らももとはお前と類を同じくする者であることを。彼らも自分も遠からず死んでいく者であることを。彼らは、お前を悪に導いたのではないゆえにお前に何ら害などもたらしてはいないことを。

 自然の本性は馬をつくり、同じ材料で樹木をつくり、今度はそれを溶かして人間を作った。そのようにして、万物を生成してきたのである。そして、それらのすべてのものは、ほんのわずかの期間この世に存在したにすぎない。あるものが壊されるということは、新たなものがつくられるということで、何ら恐れることではない。怨恨(えんこん)や怒りなどでゆがんだ顔は自然に反していて実に醜(みにく)いものである。そして繰り返しそのような顔をしていれば、その人間の容貌(ようぼう)すべてが、二度と元に戻らないほど醜悪(しゅうあく)なものになってしまうのだ。まさしく、それは自然に反することであり、もし、過っているということに気づかなくなったら、その人間は生きる価値など失ってしまうことになるのだ。

 自然の本性は、宇宙の永遠の若さを保つため、お前の目にしているものを使っては絶えず新しいものに作り変えているのだ。他人がお前に対して過ちを犯した場合には、まず彼は何を善、何を悪と思って過ちを犯したのかを考えてみよ。この点を考えてみたら、相手に同情して、いぶかることも怒ることもないであろう。第一、お前も彼と同じような、本質的に変わらない善悪の観念を持っているのなら彼を許してやらなければならない。またもし、そのような善悪の観念をお前はもはや持っていないというなら、彼の誤りに温かく好意をもって接してやらなければならないのである。

 在りもしないものを在ったらよいのにと考えるのはやめよ。現在あるものの中の良いものがなかった場合のことを考えてみよ。そしたら、お前は血眼(ちまなこ)になってそれらのものを探し求めるのではないか。ただし、それらを最高のものとしてしまい、それを失ったら心乱してしまうことのないように心することは必要なことである。

  お前は自分のうちなる理性に従い、正しい行いをせよ。そして、そのことにより心が平安であるならそれで良しとせよ。外のものによって動かされるような、操り人形になるな。今この時に目を向け、自分や人々に対して起こる出来事をしっかりと認識せよ。自分の最後の時のことについて考えてみよ。ひとの犯した過ちなどは、生じた場所にそのままにしておけ。

 人の言葉をおろそかに聞かず、それにいつも意識を集中させよ。ある主体がある行為をする時、その主体と行為の両方の核心にまでお前の精神しっかりと向けよ。

 素朴純一であれ。恥じる心を持て。美徳とも悪徳とも言えないものに関心を向けるな。これらに注意して、ともかく自分を磨け。

 人類を愛し、神に従え。いろいろな色をしたもの、甘いもの苦いものなど雑多に存在しているように見えるが実はそこにあるのは元素だけなのだ。もし、この世に存在するものが原子だけであるなら、死とはその原子が散らばることであり、この世界に一体化した何かがあるなら、死とは変移であるのだ。

   苦痛は人をまいらせてダメにしてしまうものだから、苦痛が持続しているということは、実は、それに耐えているということ、耐える力を持っているということなのだ。人間の精神はそれらの苦痛からうまく退くことにより、自己の平静を実現し、自分の理性が傷つけられることをうまく防ぐのだ。それに対し、肉体に対する苦痛は、どんなものかを自分で把握することが必要である。

 名声について考えてみよ。人をほめそやす連中の精神の正体とはいかなるものであるかを見破れ。堆積物(たいせきぶつ)は積もるごとに以前に積まれたものを隠していく。人の世にあっても同じで、前のものは後のものによって隠されることの非情さを悟るのだ。

 国を治める者は、たとえ人に親切にしても悪く言われるものである。顔は、その人の心のありようによって形作られる。そしてその心とは自分自身で作り上げるのではないか。もしそうすることができないのならそれは恥ずかしいことである。

 事物に対して怒るべきではない。事物に対して怒ることに何の意味があるのか。お前は、神にそして他者に喜びを与える者であってほしい。

 実った稲穂を刈り取るようにお前の人生の実りを刈り取れ。もし、お前とお前の二人の息子が神々から見放されたとしても、それは理由のあることだ。善と正義はお前の味方であるはずだ。

 人と一緒になって嘆き悲しむようなことはするな。お前はある行動を行う時、真っ先に死や自分の身の危険を考えるようなことであってはならない。まず、自分は今正しいことをしているか、不正をしてはいないかだけを考えよ。また自分の行いは善人がすることか悪人がすることかをいつも考えよ。

 自分の意志であろうとあるいは他者の命令であろうと、自分が最善であると考えてそのことをなしているなら、たとえ危険があっても毅然としてそれに立ち向かうべきである。自分命が長らえるかどうかなどは問題外のことである。人間ただ長く、ともかく生きていればよいというものではない。いたずらに命に恋々とすべきではない。いつ死ぬかなどの運命は神に任せておけばいいのだ。ただひたすら、生きていくこれからの歳月を、どうしたらより善く立派に過ごすことができるかだけを考えよ。

 星々がどのように動いているか、この世の諸々の元素がどのように変化しているかを考察することで、地上の生の汚れを拭い去ることができる。地上にあるすべてのもの、すべての出来事を上空からながめるような見方をして、それらに対する考えを深めよ。それらは、家畜の群れ、農耕、結婚、離婚、出生、死亡、裁判、荒地、祭、広場など混沌(こんとん)とした相反するものの集合ではあるが、そこには見事な調和と秩序があるではないか。

 過去の王朝の頻繁(ひんぱん)なる盛衰の歴史を省み、またこれからの未来どれほどの国々が生まれては滅びることであろうかを考えてみよ。しかし、それでも諸物は今までと全く同質で変わらず、今後も今までの規則に従ってすべてのものは生まれ変化していくはずだ。決して今までの秩序を逸脱(いつだつ)することはありえない。そのことを想い描けば、40年という一生も1万年の生も変わりはない。長く生きれば、それだけより多くのものを見ることができるということにはならないのだ。大地から生まれたものは大地に、天空より生まれたものは天空に帰るのである。人々は死を逃れんとしてひたすら供物をささげたり、呪文を唱えたりするが、人間は、自分に下された運命にただ従うのみしかないのである。

 私は、たとえば肉体的な力などは他者より劣るが、公共の精神に富んでいること、慎み深い心を持っている事、節度のある行動ができること、身近な人々の誤りに対して不機嫌にならず優しい心で接することができること、そういう点においては、誰よりも優れていると思う。神々と人間に共通する理性をもって事を行うなら何も心配することはない。正しい道を進み、人本来の成り立ちに則った活動をし、また世のためになるとされることを行うなら、自分を阻(はば)むどんな障害も起こりえない。

 現在の状況に感謝して満足し、回りの人々には正義に則って接し、自分の想念には絶えず気を配ること。それらは、いつどこにおいてもお前はしようと思えばできることなのだ。回りのことばかりを気にするのはやめよ。自然の摂理は、お前の身に生ずることをとおして、お前をどこにどのように導こうとしているのかを絶えず考えよ。またお前の本性は、その行為によってどこに自分自身を導こうとしているのかを思案せよ。

   人だれもが行う行為は、人間としての本質的な成り立ちに従ったことである。それでは、人間の本質とは何なのか。第一は、公共的要素にあるということだ。そして第二は、理性を持ち肉体的な欲求や感覚に対して抵抗できるということである。これらは、動物と異なる知性という最高のものを備えている人間にこそあてはまるものである。さらに第三には、軽率な行動や過ちをおかさない部分を持っているということである。つまりこれらのことから、人間の本質たる理性に従い、ただまい進すればそれで良いということになるのである。

 天から与えられたこの残された人生を自然に従って生きるのだ。そして、運命によって自分に起きること、遭遇(そうぐう)することをもっぱら愛することが必要だ。どんなことに遭遇しようと、悲しんだり、悩んだり、動転したり、悪口を吐くような人間にはなるな。お前は、自分が出会う出来事に隙(すき)なく対処できる人間となれ。そのようにあろうとすれば、自然とその力はお前の身につくはずである。ともかく、いかなる行いをするにせよ、自分の意にかなった立派な行動をせよ。自分の心を徹底的に掘り下げていけ。お前の心の底には善の源となるような泉がほとばしるほどの勢いで流れているのだ。

 健康で強い肉体も保て。精神が肉体に影響を及ぼすように、肉体も健全でなければ、人間を善の状況に導けない。生きる術(すべ)は、思わぬ攻撃に対して備えるという点では、舞踏(ぶとう)ではなくレスリングに似ているのではないか。自分の証人になってほしいと思う人間については、その人を徹底的に知ることが大切だ。そのうえで彼らに証言を託するのでなければならない。

 人は、容易に正義・慎み・親切心などを失いやすいということを絶えず頭に入れておけ。そうすれば他人にさらに優しく接することができるようになる。苦痛とは恥ずべきものではなく、精神を劣悪化させるものでもない。それが、理性というものから発して、国家公共に関わるものであるなら、精神を頽廃(たいはい)・崩壊させるものでは決してない。苦痛は、自分で勝手に思いこまない限り、耐えられないものではなく、永遠に続くものでもない。確かに、苦痛はわれわれを不愉快(ふゆかい)にし、不機嫌にするものである。自分が不愉快、不機嫌になっているということは、その時点で苦痛に負けているということであるということは事実なのだ。人間嫌いが人間にいだくような感情を、お前は人間嫌いな人に対していだくな。

 名声高い死を遂げたソクラテスを見よ。寒い夜も泰然として過ごし、気高き勇気を保ち、歩く時は上を向いて悠然(ゆうぜん)と闊歩(かっぽ)し、神に対し敬虔で、人に対して正しく、世の中の悪に悩みもだえることもなく、他人の無知に追従(ついしょう)もしなかった。また、天から与えられるものに、自分には関係ない異質なものだというような態度でもって受け取ることもなく、当然耐えられないものだといわんばかりの態度で不承不承(ふしょうぶしょう)我慢するというようなこともなかった。肉体の状況に影響を受けやすい精神を、絶えず管理し理性的に生きたのである。

 人間が自己の領分において、自分の力で事をなすことは許されている。人知れず、神と変わらぬと言えるほどの生き方をすることも不可能なことではない。そのことを忘れるな。

 幸福な一生を送るには、ほんのわずかなもので事足りるのだ。確かにお前は、論理学や自然学の学者になるという夢は失った。しかし、道義心、公共の精神、神に対する敬虔な心や志を失ってはならない。たとえ、人がどんな悪口を言おうと、肉体的にどんな目に合おうと、無理なあり方をせず、明朗な生き方を貫け。そして絶えず平静な心を持ち、周囲の事物に対して正しい認識を持ち、手に入るものを喜んで使用するなら、お前の生にどんな障害も現れない。そのようにすればお前の行動は、元来人がすべきであったこと、人が求めていたこととみなされるようになるはずだ。なぜならこの世にあるすべてのものは、理性的な公共的なものの材料となるものであり、神や人間にとって本来的なものであるからだ。

 最高の人格とは、一日一日を自分の最後の日だと思って生活し、心が激することもなく、無気力にもならず、偽善にも陥らない人間のあり方なのであるのだ。

 神々は不死の身であるため、どれほどの数のつまらない者に我慢してきて、また今後も我慢しなければならないであろうか。それなのに、何一つ不機嫌な顔などされない。それどころか、あらゆる仕方で人々に数々の配慮をされている。ところがお前はやがて死ぬ身であり、しかもお前自身がつまらぬ者であるにもかかわらず、つまらない者を前にしただけで意気消沈するとでもいうのか。

 自分自身が生み出す悪に対して自分の身を守ることもしないで、他者からの邪悪から身を守ろうなぞお笑いだ。お前が親切を尽くし、相手が親切にされたと思うなら、それだけで良いではないか。それ以上の何を求めるのか。世の評判か、それとも見返りか。

 人が自分のためにあれこれしてくれているのに、それがいやになってもう結構だという人などいない。「他人のためになる」ということは自然に即した行為なのである。自分が人のためになり、自分も人から同じようにされることをもう結構だというようなことは決してあってはならない。万有の本性は、秩序ある宇宙を創ることを意図としたのだ。以上のことを心にあたためていれば、どんな時でも平静でいられるはずだ。

 


(8)

 全生涯を哲学者として暮らすことはもちろん、若くしてそのような生活をすることが不可能になったこと、それどころか自ら哲学の道から遠のいたことを反省すべきだ。今のお前は世俗的なことにどっぷりとつかり、また日々の仕事もあることから、哲学者として評判を得ることはもはや難しくなった。それであるなら、大事なことは何か。人から何と思われようとも、これからの残された人生をお前の本性に従って生き、それに満足するということだ。それではその本性とは何か。ともかく、それをしっかりと考え、他のことには頭を悩ますな。実はそれをお前はすでに知っているはずなのだ。それは、富にも名声にも享楽の中にもなかったであろう。それは、人間を正しく、慎み深く、勇敢に、自由な精神に導く善の信条の中にのみあるのだ。

 一つ一つの行いをなすにあたって、絶えず次のように自問せよ。この行為は自分にとってどんな意味をもっているのか。そのように行動したことを、あとになって後悔することがないのかと。私もそうだが、私を含めて、所詮(しょせん)すべてのものはいくばくもなくして死によって消えてしまうものである。今の自分の行いが理性的で公共の役に立つことであり、人間としてなすべきことを外れていないなら、何をほかに求める必要などあろうか。過去のどんな国の支配者も古の偉大な哲学者に比べればどれほどの者であったと言えるであろうか。偉大と言われた哲学者は、事物の素材とその運動の原因そしてそれらを支配しているものが唯一つのものであることを見抜いていた。しかし、前者の人々は各々の事物や出来事に対してとらわれ、どれほど振り回されていたことであろうか。たとえお前が胸の張り裂けるような思いをして事をなしても世間一般の人々は今日も同じことを繰り返すだけである。

 あれこれ思い煩って心を乱すようなことをするな。すべてのものは、万有の本性にしたがってこの世に生まれ、そして消えていくだけのものなのだ。一方でお前は、すべての事物を注意深く観察して、その正体を見抜く必要がある。当然その時のお前は正しいものの見方ができなければならないのだが。そして、人間の本性は何を求めているかを想い描き、わき目も振らず、ただ正しいと思うことだけを実行せよ。温かい好意にあふれ、慎みの心を持ち、偽善(ぎぜん)をしりぞけよ。

 万物の本性は、ここにあるものをほかの別の所に置き換えたりして、この世に千変万化をもたらしているのである。しかし、お前は見たこともないもの、経験したことのないものの出現を恐れる必要はまったくない。なぜなら、万物の本質的なもの、また万物の配置は何百年たとうとも実は変わらないものだからなのだ。すべてのものは、その本来の道をひたすら進めばそれでよいのである。想念とは、虚偽のものにそれを向けそれに同調しない限りは常に正道を歩むものなのだ。欲求に対しては、公共のこと考えて行う限り何ら問題は生じない。また、われわれが制御できるものだけを対象とすればよく、自然がわれわれにもたらすものを、すべて悦んで受け入れるなら、すべて良い方向に進むものなのだ。

 人間も、もとをただせば自然の本性の一部分なのである。自然は人々にその人の力に応じてではあるが、すべて平等に対処する。そこに不公平など存在しない。ただし、その平等は一つ一つのことに対して貫かれるのではなく、各々の時間経過も含む総体に対しての平等であることを頭に入れておく必要はある。

 本を読んで勉強するような時間は、今の私にはない。しかし、傲慢(ごうまん)を慎むこと、快苦を超越すること、名声にこだわらないこと、人の恩を感じない者に怒らず、そのような者にも気配りしてやることはできるはずだ。宮廷生活を口実とするような言葉を、他人に対しても自分に対しても決して発するな。

 後悔とは、良いことをしなかった自分に対して向けられるものである。徳ある人間は、その機会がある時に良いことをしないことなどはありえない。徳ある人間が自分の一時の快楽を取りこぼしたとしても後悔はしないはずだ。なぜなら快楽は良いものでも、ためになるものでもないからだ。事物を見るにつけ、それがいかなるものであるか。それを存在させたものは何であるか。その素材はいかなるものなのか。それが存在する原因とは何か。何をなすために、いかなる期間それは存在するのか。それらを考えよ。

 眠りとは理性のあるなしに関わらず、動物の本性にかなったものである。同様に、公共の仕事をすることは、まさにお前の本性にかなったことであるはずだ。

 自分の想いに対して、常に自然学的、情念論的、論理学的に考察することが大事だ。人に出会ったとき、まずその人間は善悪に関してどのような考え方を持っているかを見抜け。そうすれば彼の行動がいかなるものであろうと、ただその考え方に従って行動しているに過ぎないと言うことが分かり、決して驚くことなどなくなるはずだ。イチジクの木がイチジクの身をつけたといって驚く人などいないように、この世界が何らかの成果をもたらしたからといって驚くことなど何もない。また、医者が患者が熱を出したといって驚くことも、船長が向かい風が来たからと言って驚くこともおかしなことである。

 お前が批判者の言うことに従って自分の道を変えたとしても、自分がそうすべきだと考えて行ったのなら自ら意志で行った行為と何ら違いはない。ある行為がその人の自由裁量にまかされていて、あまり良からぬ行為を行ったとしてもその人を非難などすべきではない。なぜなら、お前はその人を正しい方向に導けるなら、ただしてやるべきだからだ。仮にそれが不可能であっても、非難することはおかしなことである。そうすることが、お前にとって何の役にも立たないことだからだ。すべての人は何らかの意図をもって行動しているということは当然のことである。

 人間が死んだら、この宇宙の外に捨てられるわけではない。この宇宙で変化し、自分を成り立たせたもとの諸元素に分解されるだけのことだ。そしてその諸元素はまた別のものを成り立たせるもととなる。しかし、このことに諸元素は何一つ不満などもらさない。動物であろうと植物であろうと、すべてのものは、存在する目的があって生じたものである。それをお前は疑うのか。われわれは、ある仕事を果たすためにこの世に生まれてきたのではないのか。まさかお前は、ただ自分が楽しむだけのために生まれてきたとは考えていないよな。そのような考え方が批判に耐えられるものかよく考えてみよ。たとえば、まりが上昇し下降して落ちるように、すべてのものはその本性に従って生まれ、存続し、そして消えていく。まりにとって上昇することに何の良い事があり、下降して落ちることが何か悪いこととでもいうのか。泡が結びはじけ消えるのも、火が付きそして明るく照らし消えるのも全く同じことだ。

 人間の肉体は、老いるし、病気になることもあり、そしてついに死もむかえる。その意味とその正体を見抜け。賞賛する者もされる者も記憶している者も記憶される者も皆、その命は短くはかないものである。それは変わることのない原則である。それなのにこの大地の一隅であるこの地においても人々の協調はむずかしい。自分が自分自身と協調することでさえできないありさまだ。この宇宙から考えればほんの一点にもすぎないこの地でこのような状況なのである。存在するもの、その活動、人々の考え、その言葉の意味するものに心を向けよ。このような目にあった、あのようなことに遭遇したというが、それも当然のことなのである。ともかく、いつも明日に向かって今日よりは立派な人間になれるよう心掛けよ。

 私は人々に親切にし、恵みをもたらすことを旨として行動する。どんなことが私の身に起ころうとすべて心静かに受け入れる覚悟でいる。良いことも良いものも、嘔吐(おうと)をもよおすようないやなことやいやなものも人生には起こるし、世の中には存在するのだ。

 歴史上の偉大と言われた人間もある時は権勢をほしいままにし、やがては衰えあるいは策にはまり滅びていった。ある者は、束の間の記憶にも残らず、ある者は昔の物語の中の人物に姿を変えた。その物語からさえも消え去っていった者も多くいる。お前もやがてはその肉体は滅びる、呼吸もなくなり、消滅し、別の世界に移動する時が来るのは間違いないことだ。

 人間の喜びとは、人間本来のあり方に従って行動することにある。具体的には、他者に対して善意で接すること、感覚的なことに惑わされないこと、物事の是非を的確に判断すること、すべてのものの本性とそれに従って生起するすべてのものについての認識を深めていくことである。魂を包む肉体とはどのようなものであるのか。あらゆるものの誕生ということの根源には何があり、また何が原因となってものは生まれるのか。この世でともに生きている他者とはいったい何であるのかをじっくりと考えよ。

 苦痛とは肉体にとって悪いものなのか、あるいは魂にとって悪いものなのか。もし、肉体にとって悪いものであるのなら、その苦痛をそのまま表に出すがよい。しかし、魂に対するものなら、魂を平静に保つことによって、苦痛自体を立ち去らせることができるのではないか。たとえば、批判・意欲・欲望・忌避(きひ)などは魂の内部に生じることで、外部のものがそこに侵入してくることはないのではないか。このように絶えず自分に言い聞かせて、心に湧き出る感情を制御できるようになれ。自分の心に一つの悪も、一つの卑しい欲望も、どんな困惑も生み出さないようにすることはできるのだ。

 すべてのものの正体を見抜き、それにふさわしい取扱いをせよ。そういう能力をお前は持っていることを忘れてはならない。いついかなる時でも節度を守り、健全な言葉を使え。

  生まれ出た人間は、いつかは死んでしまうし、自分の一族の血筋だけは残そうと心を砕きつとめても誰かは最後の者となり、そしてその一族は絶えてしまうのである。人生とは一つ一つの行いから成り立ち、その一つ一つの行為が人生における自分の使命を果たしているのならそれでよいのである。そしてその限りにおいて、基本的にはその行いを妨害する者は一人として存在しないのである。しかし、外部からその行為を邪魔(じゃま)しようとするものは、時として現れてくるであろう。ただ、それは、お前が正しく、思慮深く、理にかなった態度をとることそのものを妨げるものでは決してない。それでも、確かにお前の行為の一部が邪魔されることはあるだろう。その時は、心にゆとりを持ち、邪魔するものに対して微笑(ほほえ)め。そうしたらおのずと人生の組み立てに沿った新たな道が眼前に示され、そちらへと行為がおもむいていくのである。

   受け取る場合は、横柄な態度はとらず、手放す場合はいやいやながらするな。自分の人生に生ずることを喜ばず、それから離れようとするものや公共を無視したことをなす者は、自分の手足や首を胴体から、自ら切り離す者である。お前は、宇宙の本質という統一体の一部として生まれたはずだ。それなのにお前はそれから切り離されたものとして、いや自ら切り離して生きているのではないか。もしそうであるなら、神は自ら離れたものが、もう一度戻ってくることを拒みはしないということ、その神の恵みというものを考えよ。

 宇宙の普遍的本性が、すべての理性的生き物にその理性という能力を与えたのである。われわれ人間も当然その仲間なのである。普遍的本性は、自らを妨害し邪魔するものもすべてを天命に向かって方向づけ、自分の組織の中に組み込み、自己の一部とするのである。それと同じように、その本性を分け与えられたわれわれも、すべての障害物を自己の材料として取り込み、自己の望むところに向かって用いることができるはずだ。

 人生についてあれこれ思い、心乱されるな。どんな苦難に見舞われるだろうかなどと将来を思い煩うべきではない。現在のことのみに専念し、それに対処する時、次のことを自問すればよいだけのことだ。この仕事のどこが耐えがたく手に負えないものなのかと。今現在のことに、想像できないような苦難などあるはずがない。また、今自分の心にのしかかっているものは、過去でも未来のことでもない。現在のことだけである。もし、それだけを取り出せば、それに対抗できない自分などあろうはずがないではないか。それができない精神なら、もっと自分自身を叱責(しっせき)・叱咤(しった)すべきではないのか。

 何千年も前の偉人の墓の前に今もうずくまって悲しんでいる者がいるであろうか。仮にいたとしてもそのことが、死んだ偉人に分かるのか。さらに聞くなら、それが分かったとして、それによって死んだ偉人はうれしいのか。仮に偉人が喜んだからといって、うずくまっていた連中が不死になるとでもいうのか。偉人の死を悲しむ者も、やがて年を取り、死んでいくのである。彼らが死んだあと、偉人たちは何をしようというのか。死後において敬われることに、いったいどれだけの意味があるというのか。もしお前が、自分に苦痛を与えていると思われるものに対して、そのものの想念を捨て去ることができるなら、お前はそれでその苦痛から逃れることができ、そして精神の安泰を得るであろう。お前は、理性を持つがゆえに自分で自分を苦しめているのではないか。そういうことを考えてみる必要がある。

 感覚器官の障害、欲求に関する機能の障害は自然の中で暮らす植物や動物にとっては悪そのものである。同様に、理性の障害は、理性を有するものにとっての悪である。さて、そこでお前自身について考えてみよう。もしお前が無制限な欲求のいうままになったとすれば、理性的な存在者としてのお前にとってそれは悪以外の何物でもなくなる。そのようにはならず、ともかく万人に共通なものから逸脱(いつだつ)しなければ、何の障害もないのである。

 理性の働きを他人が阻害することなどない。火であろうと、暴君であろうと、中傷であろうと、何ものも理性を傷つけることなどできない。理性は自分自身が完璧を保とうとすれば、それを保持することができるものなのだ。私は自分を痛めつけることなどない。なぜなら、自分以外の他人さえ意識して痛めつけたことなどないからだ。人の心を悦ばせるものは、人それぞれによって異なる。私はといえば、自分をしっかりと制御できて、他者に嫌悪の念をいだかず、すべてを好意に満ちた温かいまなざしで見て、そしてそれを受け入れ、各々をその価値に即したあり方で待遇する時である。

 死後の名声を追ったところで何になるというのだ。後世の連中も今のうっとうしい連中と変わらない人間の再来ではないのか。そして、彼らもまた死んでいく運命のものである。後世の連中が今の連中と同じようなことを言ったとしても、いったいそれが何なのか。誰かが私をどこかに放り出そうと一向にかまわない。どんなところであろうと私は明朗に自足して生きていく。

 そもそも、私がどこかに放り出されるということが、私の心を乱し、堕落させ、恐怖にさいなむことにつながるのか。それが私を欲望の虜(とりこ)にする理由にでもなるというのか。とはいえ、そもそもお前はどこかに放り出されるようなことを今までしてきたのか。人間に対し人間的でないことは生じないのだ。牛であろうとブドウであろうと、石ころであろうと、すべてのものがその本性にかなわぬことは生じないのだ。そうであるなら、お前はお前の前で起こっていることに憤慨する必要などないはずだ。自然の摂理は、お前の本性が耐えられないようなことをお前にもたらしはしないのだ。

 お前が何か苦しむ場合、お前にその苦しみを与えているのは、お前の外にあるものではなく、それに対するお前の内部の判断なのであることを認識せよ。それなら、その苦しみを打ち消すことは、お前の力で十分できるはずである。もし、それを打ち消すことを妨げるものがあるとしたら、それはお前自身ではないのか。また、お前がある健全な行為を自分がしていないといって悩むなら、悩む前になぜそれを実行しないのか、実行すればいいだけのことではないか。もし、自分にはどうすることもできない巨大な力がそれを阻(はば)んでいるというなら、逆に悩むことはやめよ。なぜなら、その原因はお前自身にはないからだ。しかし、もし、それが実行できなければ、自分の生きがいがなくなりますと言うかもしれないが、それでも、優しく温かい心で、お前は、そのお前を阻むものに接してこの世から去っていくべきなのだ。

 自分が望まない、なすべきでないと思うことを絶対にしない。そういう心と態度を持つことができれば、何事にも負けることはない。情念を超越する者は、難攻不落な心を持つ者であり、憂いのない人生を送ることができるのである。このことを知らない者は無知であり、知りながら実践しない者は不幸である。他のものに対して、最初に得た印象以上のことを自分の中につくりあげるな。誰かがお前の悪態をついていると聞かされれば、ただその事実だけを受け入れ、それ以上のことを想像するな。悪態をついたという事実があるとしても、そのことにより、お前は何の直接的な害も受けていないはずだ。ともかく、第一印象以上に自分の心が新たに発するものを付け加えるな。そうすれば、何事も新たに起こることなどないのである。

 苦いきゅうりは捨て、道の上のいばらは傍らにどければいい。なんでこんなものが宇宙にあるのかとあえて文句を言う必要など何もない。大工の仕事場を訪れてかんなくずが出ることに文句を言ったり、靴職人のもとで皮の切れ端が出ることに文句を言ったら物笑いの種になるのではないか。それはともかくとして、彼らはそのくずを捨てる場所をちゃんと持っているのである。自然は、自己の限界を区切り、自己のうちにある破壊されたもの、老化したものをすべて自己に同化させ見事にそれらから新たなものを生み出している。自然は外部からの素材を必要とせずまた、老廃物の投棄場所も必要としないのだ。それは見事に自足しているのである。

 すみやかに行動すること、人と会話する時には話をもつれさせないこと、気持ちをあちこちにフラフラさせないこと、魂が委縮(いしゅく)することもなく興奮することもないこと、あくせくといたずらに忙しがらないことが大事だ。きたない言葉を吐かれ、他者からなじられ、呪われようと、そのことと自分が精神を清浄に保ち正しくあることと何の関わり合いもないことである。底まで透き通るような泉のそばで雑言を吐いたとしても、泉は清らかな水を噴出し続けるのだ。たとえどんな汚物を投げ込もうともたちまち洗い流し浄化してくれる。単なる水槽ではなく、このようなこんこんとわき出る心の泉をお前はどのようにしたら手に入れることができるのだ。いついかなる時も、自分に対して厳しい目をもち、おのが身を慎み、親切、素朴、謙虚の心で自由な明鏡の境地を導くことでそれは可能となるのだ。

 宇宙が何であるかを知らない者は、自分が今どこにいるかも知らない者である。自分が何のために生まれたかを知らない者は、おのれが何者であり、宇宙とは何であるかを知らない者である。これらを知ろうとしない者は、自分の存在理由など語ることができない者である。自分が今どこにいて、何者であるかを知らない者が、他人がお前を拍手喝采(はくしゅかっさい)しほめそやすことを避けたりあるいは求めたりすることなどできるのか。

 自分をいつも呪う者にお前は褒められたいか。自分に満足できないような人間に気に入られたいと思うか。事あるごとに後悔するような人間が、自分に満足などできると思うか。ただ単に回りの雰囲気に同調して生きるな。いつも自分の理性を働かせてその理性の力を体中に浸透させよ。理性の力は空気のように呼吸する者に浸透していく力を持つのだ。

 悪とは決して宇宙を害するものではない。またある一部分に関わる悪が、その外部に害をもたらすこともない。ただ、自分の受ける悪から逃れる力を持っている者に対してのみ、それは有害なものとなるのだ。

私が自ら選び行うことに対して他者は何の関与もすることはできない。自分と他者は相互依存の関係にあるとしても、各々の自主性は保たれている。もしそうでなければ、他人の悪が私の災いとなってしまう。神は決してそのようにならないようにされたのである。私の幸不幸が他人にゆだねられることなどないのだ。

 太陽は四方八方に光を降り注ぐが、決して消滅してしまうことはない。その光は障害物があればそこで止まるが消え去るわけではない。われわれの精神も同じで、注ぎ尽きてしまうことはなく、障害物にぶつかれば、暴力的に破壊するのでも、消え去ってしまうのでもなく、そこで立ち止まればよいのである。

 死を恐れることはない。死とは感覚が消滅してしまうか、今とは違う感覚を持つようになるかのどちらかだ。もし、前者のように感覚がなくなるなら、悪いことを感じることもなくなるので、それはある意味、良いことではないか。また、別の感覚を持つと言うことなら、異なった生き物としてお前は生きつづけることであり、別に生きることをやめるということではないのだ。

 人間は相互関係の中で生まれた。それなら、誤りに対しては相手を正しい方向に教え導くか、それができなければ耐えればよい。矢と精神の飛び方は違うが、もし精神を集中し目的が定まったら、矢と同様まっすぐ飛ばせ。誰に対してであれその精神の中にまで入り込め。また他者がお前の精神の中に入り込むことを許してやれ。

 



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