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 私はたぶん今日も、お節介(せっかい)な人間や恩知らずの人、傲慢(ごうまん)な輩(やから)やうそつき、さらには人を非難したがる人間や非社交的な人間に出会うことであろう。なぜ、彼らはこのような悪い性質を持っているのか。おそらく彼らは、自分がそのような性格であることを悪いことだとは思っていないからであろう。
 しかし、私は彼らと付き合っても彼らから悪い影響を受けるようなことは決してない。なぜなら、私は善とは美しいものであり、悪とは醜いものであることをよく知っているからだ。また、彼らも私と同様に理性というものを持ち、神からひとかけらではあろうが、その神の性質を分け与えられてこの世に生まれてきた者であること、さらには彼らと私は、手と足や上のまぶたと下のまぶたの関係と同じように、協力し合うためにこの世に生まれ出てきたことを知っているからである。そのような人間たちが互いを悪い方向に導きあうことなどないのである。同様に、私は彼らに怒りをいだいたり、彼らを避けたりすることもない。人間同士が互いに怒りをいだいたり、相手に背を向けたりするということは、自然の本性に反することなので、あってはならないことなのである。 

 私という存在は、肉体と呼吸、そして私自身を支配・統率する精神の三つから成り立っている。肉体とは何であるか。それは単なる臓器の集まりに過ぎないものだ。それほど重視すべきものではない。それでは、呼吸とは何か。それは、そのつど異なるものを吸い込みそして吐き出す営みにすぎない。しかし、三つ目の私自身を支配・統率する精神とはそれらのものとは異なるのだ。お前は十分に分別の持てる年齢になっている。この精神というものを決して肉体や呼吸の支配下に置くようなことはするな。そして、公共のことを無視するような欲求に操(あやつ)られるな。現在の運命に不満をいだくことなく、同時に未来の運命に疑いの目を持つようなこともないようにせよ。

  この世は、神々の完全なる摂理(せつり)に満ちている。運命も自然の本性に従って進んでいる。この世に欠けているものなど何もない。すべては、この摂理より生まれ出たもので出来上がっている。この摂理や本性に従うものはすべて善である。すべての事物は変化するではないかとお前は言うかも知れないが、それも宇宙の摂理を保つために必要なことなのである。以上のことをお前は心して、このことをお前の信条とせよ。不平をこぼさず、真に優しい心を持ち、神々に感謝して生きよ。生きるうえでの知識を、やたらに書物をにのみ求め、そこから得ようとするような態度は止めよ。お前は自分のしなければならないことをせず、どれほどの月日を無駄に過ごしてきたかを考えたことがあるのか。神々からその都度、猶予(ゆうよ)をもらいながらもそれを活用できずに来たことを自覚しているのか。お前には、今すでに次のことが当然のこととして分かっていなければならないはずだ。それは、お前を生み出した宇宙はいかなるもので、その宇宙を支配しているのは何ものであるのか。またお前に与えられた時間には限りがあり、それを大事に使わねば、永遠に去り二度と戻ってこないということが。 

 どんな時にもお前は次のことをしっかりと頭に入れ、肝に命じよ。仕事は偽りのない態度で親愛の情をもって、自由な精神と正義にかなう方法ですること。そして、すべてのことを、慎重に、正しく、利己心からではなく、運命への不満などから離れて、それが一生の最後の行為であるかのように行うのだ。そうすれば、そこに安らぎが生まれる。お前が心し、なすべきことはそれほど多くはない。それだけで十分である。

自分の顔に自分で泥をぬるようなことはするな。自分を尊べ。お前のこの人生は一回限りのものである。もっと自分に対して畏敬(いけい)の念を持て。お前の幸福は他人が決めるものではなく、自分自身の心が決めるものだ。外からお前の身にふりかかることで、自身の心を乱して正しい道からはずれることがあってはならない。暇を見つけては善いことを習得し知識を増していくのだ。日々の生活の中でいたずらに右往左往(うおうさおう)することは止めよ。また、目の前の仕事をこなしていくことのみに心をくだいて疲れ果て、人生のその他の目標を見失うようなことは愚かなことだと自覚せよ。

 他人が今、何を考えているかを知ることができなくても何ら不都合はない。大事なのは、自分の心の動きにたえず注意を向けることだ。宇宙の原理と自分の本性とはどういう関係にあるのか。また宇宙の原理とはどのようなものであるのか。そして自分という存在はその宇宙の原理のいかなる部分を構成しているのか。これらのことをお前は、心の中で常に問い続けなければならない。また、お前がこの宇宙の根本原理に則った行動をする限りにおいて、その行動を妨げることのできる人間など決して現れないということを心の中に留め置かなければならない。

 欲情による過ちは、怒りによる過ちより罪が重い。なぜなら、怒りにより過ちを犯す者は内面的苦痛や良心の呵責(かしゃく)に悩まされながらも理性に背くのだが、欲情に駆(か)られて過ちを犯す者は、ただ単に快楽に負けるだけのことだからだ。怒りは例えばわが身に不正を受け、やむにやまれず発生に至るとも考えられるが、欲情とは単なるよこしまな感情が起こったに過ぎないとも言えるのではないか。ゆえに、欲情により過ちを犯す者は、自分の心を抑制できない女々(めめ)しい人間だと言え、人々の非難をより多く受けるべきだということは当然なことだと考える。

   いつこの世を去っても良いように為すべきことを行い、発言し、考えるのだ。もし神が存在するなら、この世から去ることは何も恐れる必要のないことだ。なぜなら、神がお前を悪いことに巻き込むことなどないからだ。また、もし神が存在しないか、仮に存在していたとしても人間のことなどに何の関心も持っていないのならば、そんな世の中に生きていてもお前には何の意味もないのではないか。しかし、現実に神は存在し、人間のことを気にかけ、人間が悪に陥らないように人間にあらゆる力を与えているはずである。その神がなぜ、この生きている人間を悪い方向に導いていくことがあるであろうか。神とも言える宇宙の摂理が諸悪を知らないはずはないし、知りつつ過ちを犯すということもありえないのだ。また、当然、神は善人にも悪人にもすべて平等に物事を生じさせるということもないのだ。だから、もし、善人にも悪人にも等しく生ずるものがあれば、たとえば死も生も、また名声も不評も、財貨も貧乏もそうだが、善いものでも悪いものでもないのである。

 無限とも言えるこの広大な宇宙からすればこの世に存在するすべての物、また永遠の時間からすれば、人間の感覚や記憶、人を気持ちよくさせる虚栄心(きょえいしん)や他人からの賞賛、あるいは逆に人を苦しめる恐怖などは、いかに安っぽくはかないものであることか分かるはずだ。死とは何なのか。恐ろしくて忌嫌(いみきら)うべきものなのか。いや、死とは自然な営みであり、自然を益するものであるのだ。もし、それを恐れるというなら、それは子どもじみた愚かな振る舞いと言えるのではないか。

 また、人間はいかにして、いかなる部分がいかなる状態にある時に神に相対することができるのかも考えてみよ。最も憐れな不幸とは、他人の心の内をあれこれ詮索(せんさく)するくせに、この世の真理を正しく認識していないとである。そのようにならないためには、自分の中にわき起こる情念やこの世の出来事に対して生ずる不平不満に心が汚されることなく、わが身を常に清らかにに保つことが必要である。

 また、神からもたらされるものには絶えず畏敬の念を持ち、他人からもたらされることには、この宇宙において人間同士は同胞であるがゆえに好ましいものであるものとして歓迎することだ。ただ、人間によって引き起こされることは、その人間の無知のゆえに、善もあれば悪もあることは承知しておくべきだ。

 たとえ3千年、いや3万年生きようとも、今のこの命以外のことをあれこれ考える必要はない。今のこの命以外のものは、初めから持っているものではないので、得ることもなければ、失うこともない。ただ、どんなに永らえてもいつかは、ただ一つのもとに帰っていくだけである。現在あるものは万人に対して等しくあるものであり、消滅するものは、われわれには無縁なものである。過去も未来も失うことなどありえない。なぜなら、現在持っていないものを、人は失うことなどできないからである。
 次の二つのことを肝に命じよ。一つは、万物は永遠の昔より同一不変で未来永劫回帰(えいごうかいき)するものである。だから、たかが人間の一生のうちに変わるところなどありえないということ。二つ目は、人は長生きしようが早く死のうが失うものには変わりはない。現に持っているものを失うだけで持っていない多くのものなど失いようがないということ、その二つである。

 すべてのことや物とは、つまるところ人の想いにすぎないのだ。そして、人間の想いである魂は、その人間本人を痛めつけることがあることを注視せよ。それでは、それはどんな時起こるのであろうか。第一に、その魂が宇宙の摂理に従わない時である。それは宇宙の原理原則から離れた時を意味する。第二に、他人に背を向けたり、刃向ったりする時である。第三には、快楽や労苦に自分が屈服する時である。第四には、偽善な行為を行ったり、嘘をついたりする時である。第五に、筋を通すことなく、でたらめに物事を行う時である。

 人間の一生など点に過ぎず、肉体は朽(く)ち安く、魂は狂乱の渦にすぎない。運命など誰にも分からず、名声も不確実なものである。肉体は流れる河であり、魂は夢であり煙である。人生とは一時の滞在に過ぎず、後世の評判など忘れ去られるものに過ぎない。それなら我々を護(まも)り導くものは何か。それは哲学のみである。それでは、その哲学とは何であるか。自分をおごらず、かといって卑下(ひげ)することもなく、快楽と労苦に打ち勝ち、欺瞞(ぎまん)と偽善ででたらめに行為することなく、他人に対し何かをしてくれるようにあるいはしないように求めることもしないことだ。

 また、自分とは天から生まれ、その一部分であるということを受け入れることである。そして死を心温かく迎えることだ。死はすべての生物の構成要素の変化にすぎない。すべての要素がその構成の仕方を変えるだけのことだ。なにゆえ、それを恐れる必要があるであろうか。死とは自然の本性に従ったものではないのか。自然の本性に悪というものは、絶対に存在しないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


(3)

 人間は人並み以上に長生きできればそれで幸せだというものではない。大事なことは、この世に存在するもの、また神々のこと、人間のことについて知りつくそうとする精神的エネルギーをいつまでも失うことなく生き続けているかということである。人はもうろくしても、呼吸する、食べるなどの欲求は消えることはない。しかし、自分がなすべき務めを自覚し、現象を明晰(めいせき)に分析し、心眼でもって物事を見るような能力は、失われやすいものである。それゆえに、そのような精神は、いつも心して働かせるようにしなければならないのである。

 自然はわれわれに優美さと魅力を与えてくれる。焼きたてのパンのひび割れているところにわれわれは食欲をそそられ、イチジクは熟したときに裂け、オリーブは腐る寸前が最も美しい。稲は実った時に低く頭を垂(た)れる。ライオンの眉間の盛り上がったところ、イノシシの口から流れる泡など、それだけを取り出せば、美しいとはいえないが、それらが自然の中で生ずる時には、それらを見た人々はそれに心を引かれるのである。宇宙に生じる諸々のものも、人が感受性や深い心を持ちそれをながめるなら、その心に楽しくうつるはずである。獣の大きく開いた口も美であり、老人の成熟も美であり、子どもも魅惑的なものである。ただこの心情は、自然の営みに親しんでいる人間にしか感じることができないものなのである。

 ある多く患者を治療した偉大な医者も病によって死んだ。人々の死を予言した占い師自身もその定めに従い死んでいった。偉大な戦績を残した指導者もついにはこの世を去った。宇宙天文の研究家も同じように自分の身体の不全により死んでいった。どんな偉大な人間もすべて最後には死んでいったのである。彼らは人生という船に乗船し、航行し、そして下船したのである。下船したのちに、新たな地に上陸するがよい。そこが現世とは違うところであっても、そこに神々がいないはずがない。もし、そこでの存在が無感覚の状態なら、もはや肉体の苦楽に悩まされることはなくなる。肉体とは精神と比べれば卑しく、劣ったものにすぎない。そこでは、もはや肉体に束縛されることもなくなり、理性・神霊のみに気を配ればよくなるのだ。

 お前は、残されたその生涯を公益に貢献しないことに費やすべきではない。つまり、誰々が何を何のためにしているとか、また何を言い何を思い何を企んでいるとかに気をとられ、それらを詮索(せんさく)することに時間を浪費するなということだ。

 また、心に沸き起こる分けのわからないこと、よこしまなよけいなことに心奪われてはならない。たとえば、今、突然人から「お前は何を考えて行動しているのか」と問われても、「こういうことです」と堂々と答えられるような考えでもって絶えず行動せよということだ。それなら、それは具体的にはいかにあれということか。まず、単純直接で好意にあふれ、快楽・享楽・勝利欲・嫉妬心(しっとしん)・猜疑心(さいぎしん)などから離れたものでなければならない。また、恥ずかしくて他人にはとても言えないような心の持ち方であってはならないということだ。これらの思いをいつも心に持ち行動する者は、心の内に湧き出る快楽にその心が汚されることもなく、労苦に苦しむこともなく、傲慢(ごうまん)さに損なわれることもなく、邪悪に影響されず、情念に打ち負かされることもない。さらに、心の中まで正義感がみなぎり、天のもたらすすべてのものを悦(よろこ)びでもって受け入れ、他人の言葉や思いに惑わされることもなく、公共のこと以外で心を惑わされることはなくなるのだ。
 そのうえ、その者は、自己の務めを果たすことのみに心をくだき、天より与えられたものをすべて良いものだとする信念を持っている。なぜなら、それらの運命もまた自分と一緒に天よりもたらされたものであることを知っているからだ。またそのような人間は、万人のことを考えて行動することは人間の本性にかなった良いことだと信じており、このようなあり方を理解しない、自分に満足しようとしない連中が自分に持つ評判など気にせず、ありのままに生きる人々の評判のみを気にかけるのである。

 公共のことを無視し、よく考えずに行動すること、自分の意思に反した行動をとること、これらは避けなければならないことである。自分の心を飾りたてるな。つまらない行いはするな。口数は少なくあれ。統率者としての地位を退くことも、死を迎えることも、その時が来たと判断したらいさぎよくあれ。さらに、明るく、他人に頼ることなく、自らの力で日々の暮らしをせよ。

 正義・真実に則り、慎み・勇気を持って行動するならそれで十分であり、あとは天命に従って生きればそれでよい。そして、自分の内にある感覚的誘惑に引きずられることなく、絶えず人々に配慮して生きる姿勢を持ち続けよ。特に、一旦正しい道から外れたことを行うと、もはや正道に戻ることが困難となるようなことがこの世には比較的多くあることを心せよ。例えば、他者からの賞賛・支配欲・富・快楽などは一時的には我々の心と調和するが、突如として我々を良くない方向に導くものだ。信義にそむくこと、心が濁っていること、人を憎み、そねみ疑う心を持ち、偽善に走り、そして人を呪うこと、そのようなことを自分の心にもたらすようなものを捨てよ。人間、それらを捨て去ることができれば、悲しみから離れ、ため息をもらすこともなく、孤独にさらされることも、喧噪(けんそう)に悩むこともなくなるのである。さらに、物事をやたら追いかけもせず、それかといってむやみに避けることもなく、また長く生きるか、早く死んでしまうかに頭を悩ますこともなく、その時が来たと思ったら潔く清らかに死を迎えることができるのである。

   自分の悪いところを絶えず正し、自分を磨(みが)き、清浄で無垢(むく)な人間であれ。そのような人間は、自分の人生を全うする前に、早死にしてしまうようなことなどないであろう。人生の役割を果たす前に、人生から降板することはない。そればかりか、そのような人間には、奴隷根性も虚飾(きょしょく)の心も宿らず、人と結びつきすぎたり、あるいは離れすぎることもない。さらに、他人に対し自分が身動きが取れないほどの責任を肩に背負うようなこともないし、その逆に、人から離れて身を隠すような生き方をする必要もなくなる。

 自分の意見を正しく述べることのできる能力を磨け。また、必要最小限のものだけを持ち、それ以上のものは捨てよ。人はすべて今という束(つか)の間を生きているにすぎないことを忘れるな。過去は終わったことだし、未来は不確定なのである。人生は短く、その占める場所も大地のほんのひとすみにすぎない。名声とて、それを語る人間さえも泡のごとく消えてしまうのである。お前だって過去の人間の名声など知る由もないであろう。

 自分の心にいろいろと思いを抱かせるものが何であるかを明確に認識することが大事である。また自分の人生にふりかかることをしっかり見極(きわ)め、吟味(ぎんみ)することが重要なことである。それらは、宇宙の中でどのような役割を果たし、他の物とはどのような関係で有効性を発揮するのか、また人間に対しては何を利するのかなどである。さらに、それらは何からできているのか、いつからいつまで存在するのか、何を必要としているのか、神から与えられたものなのか、偶然に生じたものなのか、仲間からもたらされたものなのかなども知りおかねばならない。それを知っているからこそ私はそれらを、その価値にふさわしいやり方で有効に使うことができるのだ。

 幸福な人生を送ろうとするなら、次のような態度で生活すればよい。正しい理法に従って真摯(しんし)にかつ力強く、人に対しては善意にあふれ、自分の務めを真面目に果たし、すべきでないことはせず、自分の心を清く保ち、いつ死んでもよいだけの覚悟で生きることである。また、どのようなことを行うにしても他者に何も期待せず、他者を避けることもなく、ただ真心をもってひたすら自分がなさなければならないことをただひたすらなすだけである。このような生き方をすれば、それを妨害するような人間など現れない。

 医者は、急患にそなえていつもメスなどの道具を手元に置いている。同様にお前は、神と人間とは結びついていることを絶えず認識し、すべてのことを念頭において、事を為さなければならない。生き方について知るために、著書に知識を求める必要はもはやない。ともかく、自分の人生の目的に向かって進むだけだ。いたずらに多くの望みをもつことを止め、自分が大事であると思うことのみを行え。

 いろいろなものを肉体の目ではなく、心(理性)の目で見て正しく判断せよ。肉体は感覚・知覚を形作っているものですべての動物に備わっているものである。それなら、心(理性)とは何であろうか、それは人間だけに備わっているものである。もし、欲求に操られるだけの生活しているのであれば、それは単なる動物にすぎないことを意味する。ただ、仮にそれらを統御(とうぎょ)できるとしても、神を信じず、単に義務として行っているだけの者は、外面をつくろっているだけに過ぎず、鍵をかけて家の中でひそかに悪事をはたらいていることと何ら変わりはないのである。
 それなら、理性を持った善人とはいかなるものか。それは天から生み出し与えられるものを愛し、それを悦んで受けとり、自分の心を汚すことなく、いろいろな想いに心を惑わされることもなく、柔和で、神に慎み従い、真実に背くことせず、正義にかなった行動をする人間である。ただお前は、たとえそれらのことが理解できない人間がいても、彼らに対して怒ることがあってはならない。たえず、身を清く保ち、もの静かで、くつろいだ気持ちを持ち、己の運命に従い、無理なく、向かうべき人生の目的の道からはずれることなく生きていくことが肝要(かんよう)なのである。

 


(4)

 天より与えられるものに、変幻自在に適応できるように柔軟な心を持て。自分の人生の目標にまい進し、同時にその途上で生じてくるものを、その目標達成のために活かしていけ。例えて言うなら、小さな火は、たとえ燃える材料となるものでも、それらが一度に多く投げ込まれれば消えてしまう。しかし、燃え盛る大きな火は、それらをすべて材料にして、ますます、その火の勢いを増していく。この大きな火のようにいろいろなものを吸収し材料として生きて行けということである。

 どんな行動もでたらめにしないで、その規律に従って行え。人間は憩(いこ)いの場所として田園や海浜や山地を求める。しかし、自己の内に憩える場所があることを忘れてはならない。自分の中に良い秩序を持てば、そこに安らぎの場所があるのだ。保たれた秩序ある心こそが快適な憩いの場所であるのだ。日々の生活に疲れれば、そこで憩い、そしてまた新たな生気でもって日々生活すればよい。

 何をお前は、そんなにいみ嫌うのか。他人の悪か。すべての人間はお互いのために生まれてきたのだ。忍耐とは正義の徳の一部なのだ。人は過ちを犯そうとして犯しているのではない。今までにどれだけ多くの人間が他人に敵意を持ち、憎み、争い死んでいったことかよく考えてみよ。お前のそのいみ嫌う気持ちを捨てよ。

 第一、この世に分かち与えられたものに対して何故嫌う感情を持つのか。それとも、この世に存在するものは単なる偶然による原子の集合体とでもいうのか。この宇宙はいわば国家と呼べるような、秩序ある組織体であることは承知のはずではないのか。それとも、お前の肉体が足枷(あしかせ)となって、精神が解き放たれず、そのような良からぬ考えに支配されているのか。あるいは、名声というものに心を乱されているのか。人の名声などすぐ忘れ去られる。後世の評判などむなしいものである。仮にお前の賛美者などという者が現れても、彼らは批判精神が欠如した者たちでかつ変わり身は早い者であることを忘れるな。たとえ、この狭い土地の片隅にお前を将来ほめる人間がいたとしても、どれだけの人数でかつ彼らがどれほどの人間だというのか。悩まず、憤らず、自由な市民、一個人として、死すべきものとしてすべてを見よ。

 そして、次の二つのことを心にとどめよ。一つは、お前の苦悩は外の事物がお前にもたらすのではなく、お前の内部の考えが生み出しているものだということ。二つ目は、お前の目の前にあるものなどやがて変化し存在しなくなるものであるということである。生きるということは主観による判断にすぎないのだ。

 理性が普遍的なものなら、法もまた普遍的なものである。法が普遍的なら国家も普遍的なものである。国家が普遍的ならわれわれが存在する宇宙も普遍的なものだ。その普遍的な宇宙にまさにわれわれは生活しているのである。そして畏(おそ)れ多くもこの宇宙からこれらの法や理性が生み出されたのである。それ以外にこれらを生み出したものなど存在するはずがない。

 死とは本質的に生と同質の神秘的なものである。生は同一不変の元素の結合であり、死とはその元素への分解である。死は何ら恥ずべき、卑下すべきものではない。なぜなら、死とは理性的動物の本性に必然的なものであり、自然の理法に反していないからである。死とはどんなものに対しても不可避なものである。この事実が受け入れられない者は、植物が花をつけ実を実らせることを欲しないものである。人生とは束の間であり、死後、人々の心の中に自分の名前がきざまれているのもわずかな期間であることを心にきざめ。

 自分中心の考え方を取り除けば、自分が害されたという思いは消え去るのだ。自分が害されたという思いを取り除けば、自分に対する害そのものも消えていくのだ。自分の人生を悪くしたり、損なったりするものはいなくなるのだ。また逆に自分にとって有益なものは、その役割を果たしてくれるはずだ。すべてこの世で生起することは、しかるべき意味があって生じるのだ。このことをしっかりと認識すれば、人生において見落とすことなどなくなる。たとえていうなら、なぜこの順序で生じたのか、何のために生じたのか、どのような力が働いて生じたのかを知ろうとして、それを理解することである。このことをいつも心にきざみこんで行動せよ。それが「善き人」となる一つの道である。傲慢な振る舞いでお前に害を与えるものがいたら、彼らがいだく考えや、彼らがお前にいだかせようとする考えを決して受け入れるな。絶えず、真理というものだけをとおしてすべてを見よ。

 天が人間のためを思って命ずることのみを実行せよ。また誤れるお前を正しく導いてくれる者がそばにいるならば、心改めてその者に従え。ただし、その改心は、それが正義にかない公共の利益になるとすべての者が認める時のみ行うのは当然のことである。つまり、そのように改めた方が見た目がよいとか評判がよいからなどという理由で行ってはならないということである。

 お前は、理性を持っているのか。持っているならなぜ、その理性を用いないのか。理性が本来の働きをしているなら、それ以上にお前は何を求めるというのか。お前は今、この世界にその一部分として存在している。そしてお前は、やがて、そのお前を生み出したものの中に再び帰っていくのだ。言い方を変えれば、お前を生み出した理性の中に再び受け入れられるのだ。すべてのものが、この世に産み落とされ、また元の所に帰っていく。遅いか早いかの違いはあっても、すべてのものに例外などない。お前は今、人々から猛獣だ、猿だと思われているだろうが、もし、お前が万物の原理に立ち戻り、理法に崇敬(すうけい)の念をいだくようになれば、お前をさげすんできた多くの者の目に、やがてお前は神ともうつるようになるであろう。

 自分は1万年も生きながらえることになっているとでもいうような生活態度を改めよ。死は間近に迫っているのではないか。善き者となることが可能なうちに善き者となれ。回りの者が何と言おうと、どんなことをしようと、何を考えようと、そのことを気にするな。お前は、自分がひたすら正しく善にかなうと信じた行動をすればよいのだ。そうすれば、生活にゆとりの時間が生まれる。人の心の中をあれこれ覗(のぞ)き見することを止めて、自分の目標に向かってわき目をふらず、まい進せよ。

 死後の自分の名声などにとらわれるな。お前はもちろんのこと、お前を知る者も次から次へと死んでいくのであり、その後継者もまた死んでいくのだ。記憶は一時的には受け継がれるであろうが、間もなくそのすべては忘れ去られるのだ。仮にその記憶が不滅だとしても、それがお前に何の意味を持つというのだ。それだからといって、故人の業績を意味のないものだと言うわけではない。今生きているお前が、賞賛を得るために何かをするということにどんな意味があるのかということを言いたいのである。ともかく、お前が人の評判のみを気にかけて行動しているので、このように諭(さと)したのだ。

 美とはそのもの自体が美を持ち、そのものだけで完結するものである。それが賞賛を受けようと受けまいとその美がよりよくなるわけでも、より悪くなるわけでもない。それは自然の事物についても、法や真理、道徳などすべてのことにもあてはまる。黄金も象牙(ぞうげ)も賞賛されようとされまいと美しいことに何ら変わりはないではないか。

 もし魂が永遠に存在し続けるなら、大気はどのようにして増え続ける魂にその場所を提供してきたのであろうか。また死体も永遠にそのままなら大地はそれらにどのようにして場所を提供してきたのであろうか。つまり、われらの屍(しかばね)は、分解し次のものの血と肉となり、その場所を次のものに引き渡してきたのである。魂も同じである。しばしの間大気中にとどまるではあろうが、やがては変化流散し、万物の根源にもどり、次の魂にその場所を提供してきたのである。いや人間だけではない。我々は、日々どれだけの数の獣を食べ、体内にて埋葬(まいそう)し、それを自分の血と肉に変えていることであろうか。しかし、そのことにより、それらのものにもまた新たな場所を提供しているのでもある。

 心を外に向けて煩うことはやめよ。何かをしようと思う意志が芽生えたら、まず心を内に向け、正義にかなった行動をしながら、自分の理性がいつも最善となるような状態に保て。宇宙に調和したものは、自分にも調和する。宇宙にとって好機なものは、自分にとっても早くも遅くもなくいつも好機である。自然が今必要だとしてもたらすものは、ことごとく自分にとっても実りの時である。すべてのものは、お前より出て、お前の内にあり、お前のもとに帰ってくると言えるのではないか。

 自分の理性が求めることをそのとおり行なえばよい。余計なことはしなくても、それだけで十分である。そうすれば、嘘やごまかしのない人間となれる。われわれの日々の生活には言わない方がいい、しない方がいいものが結構多くある。それらを捨て去るなら、生活にゆとりもでき、心乱されることも少なくなるものだ。いつも事を行うとき、これは必要不可欠なことか自分に問いかけよ。行いだけでなく想念もそうだ。これは必要な想念なのかいつも問え。必要でない想念を取り除くことによって、人はすべきでないこと、する必要のないことをしなくなるのである。

 自分に与えられたものに満足し、自分の行いを正しくし、心を優しく親切にするにはお前はどのようにあればよいか考え、そしてそれを試みてみよ。心を乱さず、単純素朴な心の持ち主となれ。誰かが過ちを犯しても、彼は自分自身に対してそれを犯したのであり、お前とは何の関わりもないものなのだ。たとえそのことにより、お前の身に何かが起こったとしても、すべてのことは、悠久(ゆうきゅう)の太古より宿命づけられたものであることを知れ。
 人生は短い。現在ここで、自分の人生の成果を摘(つ)み取れ。いつも正しく冷静であれ。いたずらな過度の緊張に陥ることなく、心のびのびと生きよ。この世は秩序つげられた世界か、あるいは無秩序の単なるものの集まりかのどちらかに過ぎないのだ。ただ、よく考えよ。お前だけに秩序というものが内在していて、おまえ以外の外の世界は無秩序の集合体に過ぎないということがあるとでも思うのか。

 腹黒い人柄、女々しい人柄、頑固な人柄、粗野で残忍なもの、怠惰なもの、暴君的なものなど、国家の法から逃れるものが亡命者であるように、宇宙に対して明確な認識を持たないもの、宇宙が生み出した事物をそれと認めないものは、宇宙に対しての異邦人、宇宙の吹き出物だ。心眼を閉じる者は盲目であり、自分の生活に必要なものを自分で獲得しようとしないものは乞食()である。

 この世に起こる出来事に不満を持ち、自然の本性から独立して生きようとするものは宇宙の吹き出物だ。なぜなら、その本性がお前を生み出したのだし、すべての事物・出来事を生じさせたのは宇宙の本性そのものだからだ。ある者は肌着も着けずに哲学を究(きわ)め、ある者は書物も持たずに哲学をなす。ある哲学者は「私はパンを持たないが、理性は持っている」と言ったという。さて私は、学習で得られるような知識は持たないが、理性は堅持している人間だ。

 お前が今まで学び手に入れた知識・技術は、わずかなものであるかもしれないが大事にし、信頼してそれに身をまかせよ。残りの人生を生きるにあたり、神に心からゆだねる心情をもち、人々に対しては決しておごらず、また奴隷的ないやしい態度もとるな。

 過去の偉大な皇帝に統治されていた国を思い浮かべて見よ。そこにも、今われわれがこの国で目にするすべてのものがあったであろう。人々の結婚、子育て、病気、死、戦争、そして田畑を耕す人、他人におもねる人、傲慢な振る舞いをする人間、偽善をおかすやから、陰謀をたくらむやから、さらに人の死を祈るような人間、天命に不平をこぼす奴、金をためこむ人、高い地位を望む人間。ただそのような国も今はなくなってしまっている。

 また、違う偉大な皇帝に治められた国を見てみよう。その国も同様なことにあふれていたが、そこもまた今は存在しない。今まで数えきれないほどの国の中で、多くの人々がこのような暮らしを送ってきたが、それらも、すべてなくなり、すべての人々は命を終え、諸元素に分解してしまったのである。しかし、どのような状況にあろうと、お前は一時の悦楽にふけり、自分のなすべきことを怠り、現状に不満を持ち、より多くのものを得ようとするようなことはあってはならない。また、それと同時に、お前が何らかの行動をする時には、それに適した度合というものがあり、それ以上のものを求めるようなことがあってはならない。ささいなことに関わずらって意気消沈をするな。

 昔よく使われていた言葉で、現在はほとんど使用されなくなった言葉は多くある。同様に、かつては多くの人々の記憶にあった人の名前で、今はほとんどの人が忘れてしまったというものも多々ある。どんなにすばらしいものもやがては色あせ忘れ去られるものである。永遠に名を残す人間などいない。それなら大事にすべきこととは何か。それは、ただひとえに正義を身につけた精神、公共に尽くす行い、嘘のない言葉、この世に起こることはすべて必然であることを知り、それは一つの偉大なる根源から生み出されたことだと認識し、それを喜んで引き受けるという心持、態度、行動、ただそれだけである。

 自分の運命をすべて神にゆだねよ。思い出される人間も、思い出す人間も、すべてはかげろうのようにはかないものなのである。万物は、変転し、また新たなものとして生起する。ただ、その繰り返しなのである。この世に生れ出るものはすべて将来に生まれ出るものの種でもある。大地にまかれ、母胎の中で育つものだけが将来につながるものではない。あっと言う間にお前はこの世を去っていくだろう。それにもかかわらす、お前の心は素直ではなく、平静心もなく、外から害を受けないかと疑心暗鬼(ぎしんあんぎ)し、すべての人に優しく接することができないでいる。賢明とは正しい行動をすることだということにすら気づかないでいる。賢い人間とは、何を避け、何を求めるのかを知っているのだ。お前の災いの原因は、他人にでもお前の外部に存在する事物の変化にあるのでもない。お前の災いは、お前の判断そのものの中に存在するのだ。だから、どんなことも独断的に判断してはならない。それさえ守れば、物事はうまくいくものだ。たとえ、肉体的にはどんなひどい目にあおうとも、心は平静に判断しなければならない。善人にも悪人にも同じように起こることは、善くも悪くもないとことであると思え。すなわち、自然の本性に従って生きるものにも、逆らって生きるものにも等しく生じることは、自然の本性に適ったものでも、それに反したものでもないということだ。

 この宇宙を一つの魂を持つ生き物、意志として考えよ。さらに、すべてのものがどのようにして宇宙に帰属し、また宇宙はどのようにしてすべてのものを生み出したか、また宇宙そのものがどのような構造をもったものなのかに絶えず思いをめぐらせろ。お前は、肉体の衣をまとった、ちっぽけな魂にすぎない。この世に生まれ、変転し流転するものに、善いものも悪いものもないのだ。

 永遠の時とは、いろいろなものが生まれそして目の前に現れては流れ去っていく川のようなものである。そこに生まれ流れるものは、たとえば、バラの花であり秋に実る果実でもあり日常よく知られたものである。さらには、病も死も中傷も裏切りも愚か者を悦ばせるものも、また彼らを悲しませるものも、すべてこの川を流れては去っていく。すべてのものは常に先に生まれたものと関連を持って生じている。万物は、無
意味に無秩序に生まれているのではなく、驚くほどの深い関係のもとに生じているのである。

 自分の進んでいる道がどこに通じているかを知れ。すべてを支配している理性の存在に目を開け。まるで眠っているとしか思えないようなしゃべり方をしたり、行動をしたりしてはならない。また、親から受け継いだものにもっぱら従うだけというような考えのない行動もするな。

 お前の命があと2日と宣告されたら、お前は、明日より明後日を大事にするのか。たとえまだ死ぬのは先だとしても明日以上に明日以降のことを大事だとは考えないだろう。どれほど多くの医者が病人を憂い治療をしたあげく自分も死んでいったことか。多くの人の死を預言した占星術師も、死について述べてきた哲学者も、多くの人間の首をはねてきた王も、人の命を思うままにしてきた暴君も、どれほどの者が今までに死んでいったことか。そしてまた、どれほど多くの国家が栄えては滅亡してきたことか。ある者を葬った者が、また別の者に葬られてきた。すべては束の間の存在であり、人間とはかげろうのようにはかないものだということ、今日栄えたものも明日は灰となるかも知れないことをしっかりと認識せよ。オリーブの実は、熟すれば、自分を育んでくれた大地にそしてその幹に感謝して大地に落ちるように、お前も心穏やかにその時を迎えよ。

 このようなことがあったから私は不幸であるのだとは考えるな。そのようなことがあったにもかかわらず、自分は現在、くじけることもなく、また未来のことを恐れることもなく、苦しむこともなく今ここにいるではないか。あのようなことは誰にも起こりうることなのだ。しかし、その中でくじけることもなくいることは誰にもできるわけではない。そのようなお前が不運であるとでもいうのか。人間の本性に関わるような失敗でもないものが、なにゆえ不運だと言えるのか。人間の本性のもつ意図に反しないものは失敗などではない。
 それでは、その人間の本性の持つ意図とは何であるか。それは、心正しく、慎み深く、賢明にかつ慎重に、嘘もつかず、節度をもって生活することである。その状況で生じたことが失敗などであるはずがない。つまり、そこで生じた失敗と思われるものは、不運なことではなく、むしろそれを耐えることができたことが幸運なのだ。死をおおげさに考えないために、ただ長く生きることのみに執着して日々過ごしている人々のことを思い起こしてみるのもいい。彼らにいったい何があるというのか。ただ、多くの人々の死を見送り、自分もやがて死んで見送られていっただけのことである。この世に生きる時間は短い。この世に生きることは果たして一大事なことなのか。長い悠久の過去の時間と未来の時間を考えれば3日しか生きられないものも、人の3倍も生きたものも何の変わりがあるというのか。

 絶えず近道を行け。それは自然にかなった道であるはずだ。それは、苦難、陰謀(いんぼう)や虚飾(きょしょく)などから解放された道であるはずだ。


 (5)

 お前は、自分がなすべき仕事をするためにこの世に生まれてきたはずだ。そして、その目的を果たすために日々仕事をしている。そのお前が、なぜ気難(きむずか)しくなる必要があるのか。それとも、お前はふとんにくるまってぬくぬくと暮らすためにこの世に生まれてきたとでも言うのか。確かにそうしていることは快いことだが、お前は、ただそのような快楽をむさぼるために生まれてきたのではないであろう。お前は外から働きかけられるために生まれてきたのか、あるいは外に働きかけるために生まれてきたのかをよく考えて見よ。

 ミツバチやアリ、いやどんなちっぽけな動植物であろうと、すべてが彼ら自身にふさわしい役割をこの世で果たしているのがお前には見えないのか。それなのに、お前は人間としての役割を果たそうとしないのか。自分の本性にのっとった仕事をすべきではないのか。休息をするなと言っているのではない。ただ、飲み食いに限度があるように、それにも限度があるのだ。それなのに、お前はその限度を超えて休息していながら、行うべき仕事には勝手に自分の限界を設定して、その枠の中にまんまとおさまっているのではないか。それは、実は自分というものを大事にしていないことであり、自分を愛していないことになるのだ。もし自分を愛しているのなら、天から与えられたお前の本性とそれに対する意図を愛し、それに従うに違いないからだ。

 この世には寝食を忘れてまで自分の仕事に関する技術の上達に打ち込む者がいる。たとえば彫刻や歌や舞に寸暇(すんか)を惜しんで励むものなどがいる。それらの中には、金や名誉のためにひたすら励むものもいるが、それらの人々よりもお前は、はるかに劣るのではないか。お前のたずさわるべき、この公共に関わる仕事は、それらと比べたら、大した価値のないものだとでも思っているのか。

 お前自身と本質的に何の関係もない、お前の心を乱すだけの想念は捨て去り、平静な心を持て。自分がいつも自然の摂理に従った発言や行動をしているのなら、他人の悪口に心を乱されるな。自分が良い発言や行動をしていると考えるなら、自信をもってそれらを行へばよいのであって、自分を卑下することなどはやめよ。他人はそうすることが自分にとって都合が良いと思っているからそのようにしているにすぎないのである。そのようなやからに気を配ることはやめて、自分の信念と自然の摂理に従ってひたすらまっすぐ歩め。真理の道も自然の摂理に従った道も同じものなのである。

 お前は、自然に従って諸々の行いをし、そして死んでいく。お前が息を引き取る場所は、父と母がお前を生み育てた所である。またその場所は、お前が食べてきた食物を育み、お前がさんざん踏みしめてきたこの大地でもある。お前は才知あふれた人間などではない。しかし、それで良いのだ。それ以外の多くの良いところをお前は持っているではないか。いやそのようなものなどありませんとお前は言うことはできないし言うべきでもない。それゆえ、お前はその良いところをこの世で発揮しなければならないのだ。たとえば、純粋さ、慎み深く厳格であること、忍耐強さ、色恋におぼれないこと、天命を知っていること、親切心をもっていること、自主性があること、質素を旨とすること、不平不満を言わないこと、気高い心を持っていることなどだ。

 それなのに、自分は生来無力な人間だと卑下し、何もしないでいるのではないか。それとも不平不満を言い、強欲に身を任せ、だめな自分を恨み、人に媚びへつらい、大ぼらを吹き、心を乱し、このように生まれたのだからしょうがないとでも言うつもりではないだろうな。いや違う。とうの昔にそのようなものは、克服できたはずだ。仮に非難されるとしても、お前は精神的に鈍く聡明ではないと言われる程度だ。しかし、それとて努力で克服できないものではない。自分がなまけものであることに安住(あんじゅう)して、そのようにあることに慣れてはならないのだ。

 人に親切にしたとき、感謝を得ようとする者がいる。あるいは、あたかもそれにより、相手に貸しをつくったのだと考える者もいる。それに対して、そのような行為をしても何一つ見返りなどを期待しない者もいる。馬は駆け、ミツバチは蜜をつくり、ブドウの木は季節になると実を付ける。このように、人間も善い行いをしてもそれを触れ回ることもなく、また次の行いに移っていく、そのような人間にならなければならないのだ。
 お前は、自分は公共のために活動していると思っている。またそうしていることを自分の同胞に知ってもらわなければならないと考えているかもしれない。しかし、それは前に話した見返りを求めて人に親切にするような人間に自分をしてしまうということにつながることを忘れてはならないのだ。

 神に祈ることなどすべきではないと思うが、もし必要が生じたなら「水が必要なので雨を降らせてください」のように単純率直に行え。人は健康を望むが、たとえ病気にかかろうと損失をこうむろうと、各人に生起したことはすべて運命としてその人間に割り当てられたものであるのだ。この世には、ある一つの調和というものが存在し、宇宙はそれにかなうようあらゆるものを現在あるように運命づけているのである。宇宙がそれぞれにもたらしたものなのだ。だから、われわれはたとえそれが難儀(なんぎ)なものであろうとも、それを悦んで受け入れなければならないのだ。自然の本性が、自らの支配するところに、個々のものについても、全体に関わるものやことがらについても、都合の悪いものや出来事など生起させるはずがないのである。だからお前は、自分の前に生起するものにすべて好意を持たねばならない。もしお前がそれらに不満をいだくとしたら、それはお前が宇宙の調和を破壊することになるのだということを忘れるな。

 お前が行動する時、未だ真理にかなった行いをするという習慣づけができていないなら、どんな行動も放棄したり、途中でやめたり、拒絶したりすることはすべきではない。その場合はたとえ失敗しようともめげることなく根気強く行い、その行為が十中八九、人間としての名に値するほどのものならば、それでよしとしその務めを続けよ。
 また、哲学を学ぶ時もいやいやではなく、病人がその病状を和らげる薬を処方してもらう時のような気持ちで、自分にとって必要なことだと理解して行うべきである。そのようなあり方を人に見せびらかすことがなくても、その時のお前は心のなかにやすらぎを見い出すであろう。ともかく、哲学を学ぶということは、お前の本性が求めていることであることを忘れるな。快楽をお前の本性は求めていると思うか。そうではないであろう。単なる快楽は、人間の心を破滅に導くだけのものではないか。この本性が求めていることとは、つまり精神の自由や自主、清らかさ、純朴で素直なこと、慈悲に富み親切であることではないか。これらこそが真の快楽と言えるのではないか。

 事物の本当の姿を知ることは困難である。哲学者さえ、それをつかみ取ることは難しい。たとえ把握できたとしても、その時にはその事物は変化しているかもしれないし、われわれの精神は移り変わるもので、一旦つかみ取った思えたことにも、また新たな疑いを持ち始めることだってあるのではないか。第一、この世の中に変化しないものなど自分を含めて何もないであろう。このような世界の中でわれわれは何を対象として、また何を目的として努力し生きていくべきなのか。だからといって、もういいといってあきらめて時間の経過だけを待つのか。いや違う。宇宙の本性によらなければ何一つ自分には生じないこと、神や神霊に反しては何一つ行えないことをまず悟れ。自分が行動する時、どんなものが自分の心を支配しているか考えよ。

 お前は、青二才(あおにさい)、暴君、家畜や野獣が持つような心ではあるまいな。知恵、健全な思慮、正義、勇気など、世の人々が良いとみなすものは人間にとって重要なものである。しかし、ただ単に量だけそれらを多く持てばいいというものではないであろう。それらがもし、名声や富のための手段であるならば、多く手に入れたがゆえに邪魔(じゃま)となり、かえって身動きができなくなることがあることも忘れてはならない。

 私が死んでも、その魂や肉体が無になることはない。なぜなら、それらは決して無から生じたのではないからだ。私の魂や肉体は、もともとこの宇宙の別のものに組み込まれていたもので、それが素材となって生じたものだ。私が死ぬということは、それがまた違うものに組み込まれ、新たなものが誕生するということだ。ただそのものも、やがては滅び、また別のところに組み込まれていくであろう。そしてそれは果てしなく永遠に続いていくのである。私もそのようにして誕生したのであり、また私を産んでくれた両親も同じことである。未来が永遠であるように、過去にさかのぼっても限りはない。いや限られた周期があり、繰り返されるだけだとしても、その繰り返しもまた永遠なのである。

 理性とは、その発動も働きも自己完結したものと考える。つまり、理性は必要とされた時にそれ自身により発動し、その進む方向もその目的も理性自身の中に組み込まれているのである。したがって理性により行動するということは、それだけで、無条件に正しい行為なのである。

 普遍的な意味における人間の本質に帰属しない個人的な事柄に特別に注目するな。それらは、人間に対して要求されるものではない。そこには、人間としての目標、その目標を達成させるうえでの核心的要素などに関わるものは何も存在しない。そのような態度を可能な限り貫くことが良い人間となる道である。 お前の精神は、お前がいだく想念と同じ性質のものとなっていくのだ。それゆえにお前の想念を、たえずお前を創造したものに向かわせよ。なぜなら、そこには究極の目標があり、そしてその目標のあるところに善と利益があるからだ。

 さて、理性的動物の善とは公共性である。公共性のためにわれわれは生まれ出たことは間違いないことである。生あるものは、生なきものにまさり、理性あるものは、生あるものにまさるのである。不可能な事を追い求めるな。人間にその人間が本性上耐えられないことは決して生じない。もし、ある人に自分にはとても耐えがたいようなことが起こっていて、それにもかかわらず彼が泰然(たいぜん)として動じていないとするなら、彼はただその事実を知らないか、心の大きさを誇示しているかだけのことである。単に、無知と虚栄(きょえい)が叡智(えいち)にまさっているだけで、それはある意味ではひじょうにおぞましいことなのである。事物そのものが人の心に直接侵入し、それを動かしたりその向きを変えたりすることは金輪際(こんりんざい)起こり得ない。人の心は独力で自分の向きを変え、逆に外界の事物を自分にふさわしいものに合わせていくものなのである。

 人には親切にしなければならない。また他者がもたらす耐えがたいことにもできうる限り耐えねばならない。なぜなら、人はわれわれにとって最も有機的に関係が深いからである。しかし、人々の中には私の仕事の邪魔をする者もいる。ある程度の活動は阻害されるかも知れないが、ただ、それは自分にとって何の関係のないものにすることができるのだ。なぜなら、自分がそれらを遠ざければよいし、あるいはそれから自分の身をかわせばよいからだ。そうすれば、自分の心のあり方にまで影響を受けるようなことは起らないのだ。いや、自分の働きかけによってそのものの方向を変えさせ、自分の仕事に役立つものにすることだってできるのだ。立ちはだかるものを、自分の仕事を促進させるものにすることができるのだ。

 この宇宙にあって最も力がありすぐれたものを崇(あが)めよ。それは、万物を使役しそしてそれを制御するものである。同時に自分の内にある最も力のあるすぐれたものを尊敬せよ。その内なるすぐれたものは、実は前者の宇宙を使役、制御するものと同類なものなのである。なぜなら、その前者のものが後者のお前のうちなるものを指しずし働かせているからである。国家に対して害を与えないものは、国民にも害を与えないし、私にも害を与えない。しかし、国家に害を与える者がいたとしたら、それに対しては怒り、そしてその誤りを彼に諭(さと)すべきである。

 今存在するもの、生起しつつあるものを見よ。なんと早い速度で変化し、消え去っていくのであろうか。まるで流れる川のようだ。不断に続いてはいるが、永続的に変化している。一つとして不動なものはない。すべてのものは、未来という中に消滅していくのである。そんな中で、身をかきむしり地団駄(じたんだ)を踏み、不平不満の限りを口に出して言うものがいるならなんと愚かなことであろうか。お前には、全体のほんの取るに足らない一部しか与えられていないのだ。またたく間に過ぎさるわずかな時間、宇宙全体からすればほんの一部の物質。ほんとうにお前という人間はささいなものに過ぎないものだということを悟れ。そして、同時にこの広大な世界全体の運命たるものに思いをめぐらせよ。

 他人が何か非道なことをお前にしでかしたでもと言うのか。それは彼の問題であり、その人間の気質と行動によるもので、彼なりの考えがあってのことだ。一方、お前は万物がもつ普遍的本性が自分に命じていることをなしているだけのはずだ。それでいいではないか。お前の精神がお前の肉体的な要因で生ずるものにねじ曲げられてはならない。肉体を原因として生ずるものは、できる限り最少に抑え込んでおかなければならない。ただ、その肉体的なものでも、普遍的本性と一体化していると判断されるものである場合は、それは自然のものであるがゆえに、それに対し勝手に善悪の判断を下してはならない。

 自分の魂が天から与えられるものに満足し、宇宙の分身である自分に課せられた使命、つまり理性に従って事をなし、また、世の人々にそのことを指し示すするなら、お前は神々とともに生きるものとなれるのだ。

 お前は体臭や口臭のある人間に対して憤(いきどお)ることはないはずだ。そのことは彼らにとってどうしようもないことで、お前に対してどうすることもできないことだからである。いや、人は自分が犯している過ちを把握する力があるはずだという人がいる。それならそれでいいではないか。もし他者が過ちを犯しているなら、怒ることなく、順序よく諭していくことだ。彼に力を貸して、その誤りを正していけばいいのだ。なにゆえ、彼に対して憤らなければならないのだ。

 死んであの世にいったらどのように暮らそうかと思案しているのではないだろうな。そのようなことに気を取られるくらいなら、この世においてその考えどおりの生き方をすればよい。それがいやなら、いさぎよくこの世を去れ。やれ、人に邪魔されたからそれができなくなったというような態度はとるべきではない。よく考えてみよ。お前の欲することを為すにあたり、それを妨げるものなどあるのか。理性を持ち公共のために本性に従って行動するところに障害などないはずではないか。

 宇宙の理性は、より劣ったものをより優れたもののためにつくり、優れたものどうしは互いによく適合しあうように調整したのである。それがこの世における縦の秩序であり、また横の秩序となっているのである。
 お前は今日まで、神々・両親・兄弟・妻・子どもら・教師・友人・しもべにどのような態度をとってきたのか。不法な言葉づかい、態度をとってきてはいないだろうな。さらに、お前は今まで、どのような経験をし、どのようなことに耐えるだけの力を持ったことがあるのかを思い起こしてみよ。また、今までに、どれほどの美しいものを見てきたか、どれほど多くの快苦を嫌ってきたか、人から褒(ほ)められることを無視してきたか、恩を忘れるような人間にも善意をもって接してきたかを考えてみよ。技と知を持つ魂とはどんなものなのか。それは万有の始まりと終わりを知り、全存在を貫いて遍在(へんざい)し、一定の周期をもって永遠にわたり万物を統率する理性を認識した魂なのである。
 やがて、お前は、灰になり、名前が残るか、またはその名すら消え去るのだ。名など、音でありこだまであるに過ぎない。この世で尊重されるということも、一皮むけば中身のない空しいものである。じゃれ合ってかみ合う犬ころのさわぎに過ぎない。ともかく、死は消滅であれ、ここからむこう岸への移動であれ、心静かにそれを待つのだ。それまでは、神々を崇め、人間には親切にし、何事にも耐えるのだ。肉体や気息はお前のものではないのだ。お前の力の及ばないものであることを心に銘記せよ。

 お前が良い道を選び、しっかりとした行動をするなら、何ら障害のない流れるような人生を歩むことができるはずだ。他より妨害されることなどありえない。正しい心と正しい行為の中に身を置き、そこにお前のあらゆる欲望を閉じ込めておくことが大事だ。もしある出来事が自分の不徳が原因でなく、かつ公共に害を与えるものでなければ、それに対して何も思い煩う必要はない。幸福な人間とは良い心の傾向や良い欲求を自分自身に与える者なのである。

 


(6)

 万物の素材は素直であり、どのようにでもなる。また、それを統御する理性もその中に悪い部分を持たない。理性に邪心(じゃしん)はなく、何かに危害を加えることもないし、それにより何物かが損なわれることもない。すべてはその善き理性により生じ、事が成し遂げられるのである。お前が何かをなす時、その身が寒さに凍(こご)えているか、暖かいか、十分寝たか、寝足りないか、人から良く言われているか、悪く言われているか、死期がせまっているか、まだ先なのかなどに心を煩わされるな。死といえども自分の人生の中における出来事の一つであるなら、その際にあっても今自分がしなければならないことを行えばよいだけのことである。

 事物の内面をいつも奥底まで注視せよ。お前の心の目でその固有の性質と価値を見抜け。すべてのものは迅速に変化し、より次元の高いものに姿を変えるかあるいは雲散霧消(うんさんむしょう)して去っていくのだ。宇宙を統御する理性は、自分がいかなる状態であるか、また、何を材料にして、何をなすべきかを知っているのだ。悪に対する最良の対処方法はそれらに同化しないことである。神に対する想いをいつもいだき、国家公共のために絶えず行動せよ。そしてそのことにより悦びを見い出し、心に安らぎを得よ。自分を統制するものとは、自分を目覚めさせ、進むべき方向を定め、自分を形作り、すべての出来事を自分の望み通りの姿にして目の前に出現させてくれるものである。

 この世のすべてのものは、そのものが生まれたと同時に与えられた自然の本性に従っているのである。この世は、何の秩序もない単なるものの集まりであるのか。または秩序やある摂理のもとに統一されたものであるのか。もし前者なら、そのような無意味とも思える世界に何故私は恋々(れんれん)として生きようとするのであろうか。私は、いったい何に意味や関心を求めるというのか。なぜ、わが心をここまで乱す必要があるのか。自分が何をしようとも消え去る時は容赦(ようしゃ)なくやってくるだけなのだ。一方、後者なら、私は神を敬い、確固不動の態度をもって、この宇宙を統御するものを信頼して、心中に一片の曇りもなく、何ものにも臆(おく)することなく生きていけばよいのだ。

 お前の心がお前を取り巻くものたちによって混乱させられている時には、必要以上にそれらの中にいることをやめ、お前の中にある本来の秩序ある自然の調和の場所に戻れ。もし、お前に義理の母と生みの母がいるなら、義理の母に仕えながら生みの母のもとに絶えず帰っていくであろう。お前にとって義理の母とは宮廷生活であり生みの母とは哲学なのだ。哲学のもとに帰って、そこで休息せよ。心が帰るところがあってこそお前は、宮廷でのことも辛抱(しんぼう)もでき、良き人間性を保つこともできるのだ。

 肉を食べる時、それは生きていた動物の死体であるということ、ワインはブドウの果汁で衣服は動物の皮膚で、性の交わりは性器の摩擦と痙攣(まひ)と粘液の射出(しゃしゅつ)であるということをそれぞれ頭に思い描け。これらの想いというのは、事物の核心を刺し貫き、物事の正体を見とどけているということである。人生全般のことにおいても同じことである。たとえば、あまりにもよくできすぎているものに出会ったら、それらを裸にして、その低劣(ていれつ)さを見抜く力を持ち、正体をあばけ。おごりたかぶる心とは、人を詭弁(きべん)でたぶらかす恐ろしいものであることを悟れ。今、自分は人生において重要な時にあると思う時には、よくそのようなものに騙(だま)されていることがあることも承知しておけ。

 一般の人間はものをあがめる。多少気の利いた人間は、ある種の技術や熟練をあがめる。しかし、真にあがめるべきものは、国家公共を大切にするような理性であるのではないか。まずはそのような心をよいものとして育てるとともに、そのような心を持つ者と協力し合え。

 宇宙において今も、あるものは生成しようとし、またあるものはその存在を終えようとしている。生まれつつあるものの中には早くも消え去ろうとしているものもある。このような流動と変化は永遠に続いて、この宇宙はたえず新しくなっていく。そのような中で流れ過ぎゆくものを尊いものだとして惜しんでいったい何の意味があるというのか。流れいくものの上には立つことはできない。また、かわいい雀(すずめ)が目の前を飛び去るのを見て、もっと見ていたいと思っても、それはかなわないことである。人間の人生もこれと変わりはしないのだ。死などは、生まれた時に持った呼吸作用を日々吸い込んでは吐き出した大気の中に返すだけのことである。

 呼吸できること、食物を消化してエネルギーを生み出すこと、ものを見て認識できることが賞賛されることなのか。単なる取り込んで排泄(はいせつ)するだけのことで尊ばれるようなものではない。では、何が尊ばれることなのか考えて見よ。拍手喝采(はくしゅかっさい)されることなのか。お前は人に尊ばれるために生きているのか。そこに何の意味があるのか。大事なことは、自分自身の振る舞いを自己本来の成り立ちに従って行うことである。なぜなら、技術の目指すところは、つくりあげたものがちゃんとその作成意図のとおりにその機能を果たすことである。庭師もブドウを栽培する人も犬の調教師も皆、求めるところはそこであり決して変わることはい。だからお前は自己の成り立ちに従ってその行為をなし、その役割を果たせばよいのである。それ以外、お前に何が求められるというのか。自足し、自分の関わりの外にあることに対しては不動の境地であればいいのだ。

 元素の運動は上下左右であるが、徳の動きは神的なものであり、人知によって測りがたい道を歩むものである。人は自分と同時代に生きる人々のことを褒(ほ)めようとはしない。一方、自分が見たこともなく、また見るであろうこともない将来の人々から褒められることを大事なこととみなしている。なんと愚かなことなのか。過去の人々が現在のお前を賞賛しないことを悲しむ愚かさと酷似(こくじ)している。

 自分がとてもできそうにないからといって、人間の力ではできないことだとは考えるな。むしろ、人間にとって可能なことはお前にとってもできることなのであると考えよ。格闘の練習や試合では相手に打撃を与え、あるいは打撃を受け、頭突きをくらわし、くらわされるが、だからといって相手を悪だくみしているのではないかと疑うことも恨むことなどもない。相手から自分の身を守ろうとするのは当然のことだが、相手を敵視して憎むことなど決してない。明朗な気持ちをもって、その攻撃から身をかわすだけである。人生においてもこれと同じであらねばならない。人々のすることに黙って目をつぶろうではないか。疑いの念をいだかないこと、身をかわすことが大事だ。相手を嫌って近寄らせないような振る舞いなどはしてはならないのである。

 私の正しくない所を指摘しそれを証明しうる者がいれば、喜んで私はその正しくない所を改める。なぜなら、私は真理を求めているのであって、未だ真理によって損なわれた人間など一人もいないことを知っているからだ。むしろ、自分をだましたり、無知であることこそが自分をダメにしてしまうことなのである。私は本来の自分の務めを果たせば良いのであって、それ以外のことで心を煩わされる必要などない。

   お前は、理性のない動物や理性を欠いている事物には、それらにふさわしい、広い心で接するべきだ。一方、理性を持つ人間に対しては、相手も同じ理性を持つ同胞として接する必要がある。事に当たっては、いつまでそれをやり続けなければならいかなどということを考えて心乱すな。どんなことでもやり続ければ、それはすみやかに終わることなのである。

 王であろうと奴隷であろうと死ねば、同じように原子として霧散する。生きている間にどれだけ多くの事がこの自分の心身に起きているか考えてみよ。そうすれば、この宇宙全体ではどれだけ多くのことが生起し存在しているかが分かるであろう。ある人がお前の名前のつづりを教えてくれと言ったら一つ一つ丁寧に教えるか。もし相手が、その教え方では分からないと言って怒ったらお前も怒り返すのか。いやそれでもお前は一つ一つ丁寧に示していくのだ。そのように、この世にあってお前のなすべきことは定まっているはずだ。ともかく、それを心乱されることなく、怒らず、理性に則って行うことだ。

   人々が自分たちに有益だと思うものを追い求めることは、当然許されることだ。とはいえ、彼らがそのことで過ちを犯しているとしたら、それに対してお前は怒りを覚えることもあるであろう。しかし、怒る必要などないのだ。なぜなら、彼らはその行為は自分たちにとって本来的なもの、有益なものと誤解しているだけのことであるからだ。そうであるなら、お前は、彼らにその行為が過ちであることを教え示せばよいのである。そのようなことでお前の心を悩ませるな。

 死とは、理性・魂のはたらき、肉体に対する配慮や面倒をみることの停止である。もし、お前の肉体が滅びる前に魂の活動が力尽きるとしたら、それは恥ずべきことである。心の底まで「皇帝」に染まりきるな。気をつけなければ、それはお前にも起こりうることだ。常に、単純素朴にして善良で汚れなく慎み深く虚飾のない心であれ。いつも正義を友とし神を敬い、心に笑みを忘れず親愛に満ちた心持ちでおのれの義務に忠実な者であれ。哲学で学んだ生き方ができるような人間であれ。神を畏敬し人々の安全を計れ。人生は短い。この地上の生の成果は、敬虔(けいけん)な心構えと公共を想う行為にあるのだ。

 理法に従う強い心、いついかなる時においても平静である心、人を敬う心、明るい表情、温和な心、名声にとらわれぬ心、真実を探求しようとする心を持て。また、物事を事前に徹底的に観察し考慮したうえで行うこと。さらに、たとえ自分に対して不正な中傷を受けようとも耐えること、何事にも深追いなどすることなく、人からの非難にもとりあわず、その一方で人々の人柄と行動はしっかりと把握しようとすることが大事だ。人を非難するな。臆病で疑い深い人間になるな。住まい・食事・衣服など身の回りのことはわずかなもので満足し、骨身惜しまず辛抱強い人間であれ。簡素な食事で規則正しい生活をせよ。また友情を大事にし、自分に対して反駁(はんばく)する人々も嫌うことなく受け入れ、自分より優れたものを示す者がいれば、素直にそれを悦び、かつ迷信などにとらわれない敬虔な態度を貫け。

 心を澄ましてもう一度自分を内省してみよ。すると今まで自分を悩ましてきたものは夢にすぎないことが分かるのではないか。そして、再び目覚めるのだ。私は、ちっぽけな肉体と魂からできている。肉体は、この世の事物に対して何の影響を与えることはできない。肉体の力は限られている。しかし、精神は違う。精神は、その精神活動の範囲外にあるものは別にしても、その活動の範囲内にあるものは、その精神の力によっていかにでも変えることができるものである。もちろんそれは現在のものに対してであり、過去と未来に対しては影響を与えることはできない。自分の手や足に対して課せられる労苦は、それが本来課せられるべきものであるのならば、それは自然に反しているものではない。それと同様に人間そのものに対する労苦もそれがその人にとって本来かくあるべきと判断されるものなら、当然受けいれられるべきものである。自然に反しないものがこの世において悪いものであるはずがない。

 快楽をひたすら追い求め楽しんだところで、この短い一生でどれほどのことが楽しめるというのだ。職人は自分が持っている技術を手放すことなどは我慢ならないであろう。しかし、人間が持つ理性を尊重するより以上にその技術を大切にしようとするなら、それは恐ろしくおぞましい事である。アジアもヨーロッパも地球の一角であり、この地球も宇宙全体からみれば一滴のしずくにも過ぎない。現在というお前の生も永遠の時の流れからすれば消滅する一瞬のことにも過ぎない。ほんのちっぽけな移ろいやすく、消え去っていくものなのだ。ただ、現在を見ている者は、過去から未来までのすべてのものを見ているとも言えないわけではない。なぜなら、万物はどこにおいても、いつの時代においても同類、同質だからである。

 この宇宙にある万物のつながりと関係に想いをめぐらせよ。万物はすべて関連し合っていることが分かるはずだ。それらの各々の動き、順序正しくさ、協調し合うあり方などからすべては同胞の関係にあることが分かる。天から与えられた事物に、お前を調和させよ。また宿命によりともに生きることとなった人々に対しては愛情を寄せよ。器具・道具・容器は、その役割を果たす限りで満足でき、結構なものなのである。ただし、それらに作成者といえる者は存在しない。しかし、自然により組成されたものには、それをつくりあげた力がそれらに内在しているのだ。そうであるならば、お前はその力を尊敬すべきである。そしてその力の意図するところにかなった生活態度をとればいい。そうすれば、万事はお前の想いのままになるはずだ。

 お前が何が良くて、何が悪いと考えるかはとりあえず置こう。もし、お前の努力の及ばないことで、お前にとって悪いことが生じたり、逆に良いことを取りこぼしたとしたならば、そのことで、お前が神々をののしり、その原因をつくった人々を憎悪するとしても、それはやむを得ないことだと思いもする。しかし、もしお前がお前の力でどうにかすることができるこで、そのようなことが生じたならば、そういう態度を取ることは決して許されることではない。

 われわれすべての者は、それを意識するかしないかは別にして、ある一つの目的の実現に向けて協同しているのである。その協同とは人それぞれその仕方で、またその役割でもって行われているのである。宇宙の出来事に罵詈雑言(ばりぞうごん)を唱える者も、反逆してそれを破棄しようとする者でさえ、実はそれに協調する結果となっているのである。宇宙にとっては、彼らも必要な存在なのである。それゆえ、お前は自分をどこの立場において協力するのかを、はっきりと認識しておかねばならない。

 お前は、宇宙を統括するものにとって重要な力量のある協同者にならなければならないのだ。宇宙にとって、嘲笑に値するような安っぽい喜劇の一員になってはならないのだ。太陽も雨も各々その役割は異なるものであるが、一つの目的に向かって協力している。星々もその一つ一つは異なるものであるが、ある統一した秩序のもとにある。神々は、お前に対してもいろいろと配慮をされているに違いない。配慮しない神がいるなど私には考えられないからだ。なにゆえ神々が私に対して酷なことをする必要があるのか。そのようなことをして私を苦しめても、それが神々にとってまた宇宙にとって何の意味があるというのか。もし、仮に私に対しては配慮がなされていないとしても、宇宙全体については万全の配慮をなされていることは間違いないことである。だから宇宙に生起したものはすべて必然の定めに従ったものである。それゆえに、お前は当然、それらに対して満足と愛情の念を持つべきなのだ。

 もし、仮に神々が何も配慮していないとするなら、まあそれなら神々に対するすべての祈り・儀式などの行為はやめるべきだと思うが、お前は自分自身で自分の行為を配慮することができるのだから、自分自身のためになることだけを行えばいいのである。お前にはそれだけの力があるはずだ。当然お前がなすべき行いとは、お前の場合は自分自身だけでなく、すべての人のためになることであり、国家に関わることであるはずだ。それは一個人のお前としてはローマのためであり、人間のお前としては宇宙のためである。つまり公共に有益なことを行えばよいのである。そしてお前の場合、それが自分にとっても良きものとなるのである。

 そもそも各人の身に起こることはすべて全体のためになることなのである。それが分かれば、一人の人間のためになることは、他の人々のためにもなるということに気づくはずだ。ただ、このためになるという意味は、善悪どちらでもない中間的なものも含んでいることを忘れるな。

 円形闘技場で演ぜられるものは、同じことの繰り返しでお前にとっては退屈きわまりないものになっているであろう。人生も多かれ少なかれこれと変わらないものかもしれない。万物は時の流れに身を委ねてはいるが、新しいものなど何もなく、同じ根源から成り立っているのである。このようなことは一体今後いつまで続くのであろうか。

 過去の多くの人間の営みに想いをめぐらせよ。傑出した雄弁家、荘重たる哲学者、多くの英雄、将軍、僭主(せんしゅ)、自分の才知に自信をもっていた人、あるいははかない生をかげろうのように過ごした人、悪ふざけのような生き方をした人間、そこには計り知れないドラマがあったであろう。しかし、彼らのすべては今、地下において永遠の眠りについている。それが一体何なのか。それなら、生きるうえにおいて大事なこととは何か。それは、誠実でかつ正義を愛し、嘘つき・不正の輩にも好意を拒まず暮らしていくことではないか。

 楽しく生きようとするなら、ともに生活する人々の長所を想え。あの人にはこんな、また違う人にはこんないいところがあるというように。それらの人々の徳ほど私の心を和ませてくれるものはないはずだ。それらから目を離すことなく、常に心にとどめておくべきである。

 お前は自分の体重がある値に満たないからといって不機嫌になることはあるまい。また、自分が生きる歳月がある期間以上でないからといって同様に機嫌が悪くなることもないだろう。今、お前は天から与えられた物質に満足しているはずだ。生かされるであろう時間の長さについても同じような態度を取るべきである。

 正義の道と自分が判断するなら、他人がそれを承知しないならまず、彼らを説得せよ。そして、それでも仮に彼らが承知しなくても正しい道だとお前が考えるなら、実行に移せ。しかし、それに対して暴力で立ちはだかる者があれば、自分の身をひるがえし、その相手の力を別の徳のために利用せよ。お前に不可能なことをせよなどとは望んではいない。お前は今までそのようにしてすべてのことを実現させてきたのではないのか。

 名声にこだわる者は、自分を幸福にしてくれる他人の行動ばかり考え、快楽に執着するものは自分の感覚のことばかりを考える。それに対して、理性を持つ者は、自分の行動についてまずしっかりと考える。

 事物に対してわれわれは心悩ますことなしに済ませることができる。なぜなら事物には、われわれの心を悩ませようとする意図などないからだ。自分に対する他人の言葉に注意深く耳を傾け、そしてその人の心中に自分の身を置いて、その人の気持ちになって考える習慣を身に付けよ。一群のミツバチのためにならないものは、一匹のミツバチのためにもならないことを悟れ。船員や病人にとって船長や医者は自分たちをどのようにして安全に健康にしてくれるのかだけが関心事なのである。

 考えてみたら私と同じころこの世に生を受けたものがもはやどれぐらい死んでしまったであろう。なぜお前は怒りに身を任せるのか。怒りとは病気がその人間に、怪我がその人間に与える影響以上の悪いものをその人間にもたらすことを忘れるな。

 お前が自分の理性に従って生きるのを妨げる人間などいない。また、お前の身に自然の理性に逆らって起こることなど何もないのだ。人に気に入られたいと考える人物とはどんな人間か。また何を求めてそうしようと思うのかを考えてみよ。時は多くのものをすでに消滅させてきたし、今後もいかに多くのものを消し去っていくことであろうか。



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