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私は誰? 第十回

     十 

 

 ピエロを演じることで、何とか、他者の文化に対する不和から生じる摩擦を軽減することは出来ましたが、飽くまでそれは、「軽減」というレベルであって、誤魔化しや正当化の範囲に過ぎず、否定的な言動を受けることへの根本的な解決にはなってはならず、他者からの暴力、暴言を、完全に解消できるのであれば、その方が良いに決まっています――あまりにも、人から不可解な否定を受け続けた結果、いつしか私は、人間関係、コミュニケーション、会話というものを、一種の心理戦、ゲーム、試験の問題として認識するようになりました……如何にして、他人に笑われず、馬鹿にされず、怒らせず、否定されず、劣位に追い込まれず、主従的にならずに、無事に、何事もなく、平穏に、会話を終えられるか、そういう目的を目指した、過酷な、緻密な、地獄の戦い、一歩間違えれば、奈落の底に突き落とされる、盤上ゲームのような、心の読み合い、裏のかき合い、暗黙の駆け引き、そんな風に考えるようになりました――相手が一言発する、これに対し、何と答えれば、からかわれずに済むだろう、こういうときに、どんな反応、どんなリアクションを取れば、馬鹿にする切っ掛けを与えずに終えれるだろう、相手が何か、妙な目つきで、意地悪そうに質問をしてくる、私は直ぐに、それが、一つの罠であること、私を嘲笑うための返答を誘っていることを読み取り、瞬時に、頭の中で、無数の回答を捻出し、棋士のように、幾十幾百ものパターン、相手の動きを目まぐるしく想像し、何が正解なのか、妥当な回答なのかを懸命に考え、その中から一つ選び出し、そうして、意を決して、相手に伝える、そのとき、相手が、ニヤッとした笑みを浮かべ、声が一段高くなったりすると、ああ、しまった、やってしまった、これではなかった、と、相手が自分を馬鹿にしてくることを直ぐに見て取り、猛烈な後悔と反省に駆られる……こんなやり取り、人知れず行う一方的な駆け引きを、クラスメートと顔を合わせる度に毎日毎日行っていたのです…… 

 あんな事をしたら馬鹿にされるんじゃないか、こんなことをしたら馬鹿にされるんじゃないかと、そんなことばかり考え、自分の服装も意識するようになりましたし、好きな物も、本来のものを言わなくなり、色々な部分において、周りの子、リーダー的地位の子に合わせて、仲間はずれになるのを回避しようとしていました……トイレの個室に入ると、馬鹿にされるという文化があることを知って、以来便意を催しても、懸命に我慢して、家に戻る、何かそういう訓練か試練を日々行っているかのようでした(私はトイレを世界一我慢した子供ではないかと思っており、ある日のテストの時など、指先を1ミリも動かすことが出来ないくらいお腹がんでいて、殆ど白紙に近い状態で提出したことさえありました)……。 

 

 他人から否定を受けないようにする、という運動の一環として、私は、私自身の特性、習癖欠点を改善しようと考えました――いつも注意を受けたり、真似されたり、逆に体調が悪いのかと心配される、だらしない姿勢や歩き方、或いは、投げやりに聞こえる滑舌の悪さや、荒っぽい適当な言葉遣い、また、考え事をするときなども、一点を見つめてぼーっとしたり、特定の範囲を延々とうろうろ歩き回ったりしてしまい、人から笑われたり、落ち着きがないと怒られたりすることがあって、当時はその意味が分からず、人は考え事をしないのだろうかと不思議に思ったのですが、しかし指摘される以上は、止めた方が良いと考え、出来るだけ人前では考え事をしないようになりましたし、それに加え、癖が非常に多いことも問題で、次から次へと様々な「癖」に悩まされており、中学の一時期なんか、目を端っこへキョロキョロさせる癖があって、そのせいで、廊下にいるときに、怖い先輩を睨んだような形になってしまって、長い間目を付けられていたこともありました……。 

 特に自分自身問題となったのが、人の話を聞いていない、いや、聞いていない、というより、聞こうとしても入ってこない、聞こえているけど聞こえていない、という特殊な体質でこれは今でも、良くあるのが、お店に行って、買い物をするとき、何らかの説明を受けているときに、自分から用があってそこに来て、面と向かい合っているにもかかわらず、いつも、その言葉を、集中して聞いていない、気がつけば、意識が宙に浮いている、ハッ、となって、また例の状態になっていた、ちゃんと聞かなければ、と自省し、相手の言葉に耳を傾けようとするが、やはり、すぐに、聞こえなくなる、聞いているのに、聞こえない、これが、子供の頃は、先生の話を、自分がいつもぼーっとして、聞き逃しているのを自覚し、しっかり意識しようとするけども、やはり、ダメ、意識が抜け出てしまう、まるで相手が目の前にいないかのように、一点を見つめて無の状態になってしまう、そうして、その結果、いつも自分だけ、違う行動を取ったり、違う場所へ移ったり、違う物を持ってきたり、違う服装を着てきたり……その度に、なんで自分だけ、と、大いに恥をかき、大いに落ち込む羽目になる……電話をしているときなど、相手の言葉のみが情報の全てなので、受話器にぐっと耳を近づけて、一つ一つの言葉を噛み締めて聞こうとするが、耳に飛び込むことなく流れていき、結局は何度も何度も聞き直し、これが友人ならまだしも、目上の人となると、え? はい? と余り何度も繰り返させるのは失礼なので、地獄のような思いで対応することになる……。 

 大人になってから気付いたのですが、人の話を聞いていない、という特質には、二つの型があり、一つは、今の様な、聞こうとしても聞き取れない受動型、そうしてもう一つは、こちらから一方的に話してしまう積極型――母や姉など、割と気楽に砕けた話が出来る相手と、二人で車に乗っているときなど、の方から、ああだこうだと話しけたり、あれって何? それはどうなの? とか、質問を投げ掛けた際に、こちらから話題を振り、こちらから質問したにもかかわらず、それに対する相手の返答を待たず、言い終わる前に、一方的に遮って、あ、そういえばさあ、ねえあれ見て、などと、別の話へと移行し、全く相手の話を聞く気がなく、それを注意され、笑われることが、何度か続いて、その時ようやく、自分が、気を抜くと、べらべらと、一方的に、とりとめのない話を次々にしてしまうということに気付かされたのです……。 

 落ち着きがないのは子供の頃からの問題で、とにかく、じっとしていられない、同じ姿勢を保つことが出来ない、集中力、持続力が無い、映画館でも、じっと座っていることが出来ず、スクリーンに集中できませんし、行列に並ぶのが嫌いな人は珍しくないでしょうが、私はレジの列に並ぶことさえ出来ず、絶対にすぐに並んで大人しく待っていた方が早いに関わらず、時間よりも何よりも、「並んで待つ」というその状態自体が嫌で、一人二人になるのを、その辺をうろうろして待つことを選ぶ……そんな自分ですから、ただ、席に座ってじっとしているだけでも、酷く苦痛で、出来れば度々姿勢を変えたり、寝転んだり、立ち上がったりしたいのですが、私は先生に怒られるのを非常に恐れていたので、授業中にうろついたりサボったりもせず、大人しく我慢して授業を受け続けていました(この怠惰な悪癖後年、物書きを目指す上で、自分を苦しみの底なし沼へと陥れました)……。 

 人の顔や名前を覚えるのも苦手で、間違いなくクラスで一番遅かったと思われます、新しい学級になってからそれなりに時間が経った頃、ノートを配る際に、他の人達がスムーズに各生徒の席へ配っている中、私一人だけ、教卓の上の名簿を見ながらでないと配れないでおり、また、逆に自分の席に、係の人が一直線にノートを渡してきたとき、どうしてこの人は、自分の顔と名前を知っているのだろうか、と、不思議に思ったことがあります……。 

 

 こうしてみると、とにかく、私には、学校生活上、社会生活上の欠点というものが多く、規則正しい、協調性の問われる、型に嵌まることを求められる場には、全然適していないことが分かり、私が引きこもりのニートに陥ることは、既に予見できたようにも感じます……私は誰よりも真面目な生徒でしたけど、本当は誰よりも不真面目な気質を抱えていて、どんな不良生徒よりも、学校を嫌い、学校を苦痛に感じていて、人の文化、人の価値観が分からない上に、本来自由で、適当で、放逸な気質を持った私には、学校は地獄以外の何物でもなかったのです……。 


この本の内容は以上です。


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