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私は誰? 第八回

     八 

 

 大概の幼稚園児が、目上の人への態度を意識したり、初対面の子供と距離を開けたり、場をわきまえて発言をしたり、そういう対人のマナーを全く持たないのと同じような感覚、私はいつまでも抜け出すことが出来ないでいたのです……。 

 距離が縮まれば縮まるほど、互いの欠点や意見、要望を、悪意なく素直に言い合えるものでしょう、そのため私は、言って良いことといけないことの違いが分からず、場を凍り付かせるようなことを平気で口にしてしまうことがありました……小学生の頃、野球の練習中に、父兄の方達が、差し入れとして、近所のお店から、ペットボトルの飲み物を人数分買ってきてくれたことがあって、私はその中から、口にしたことのない飲料水を、適当にスッと手にとって、飲んでみたのですが、それが、熱中症予防や水分補給に特化した飲料水で、得てしてそういうのは、苦みが強く、子供にとって余り口に召すものではないため、私はそれを口にした瞬間、「不味い!」と、他の人に普通に聞こえるような声で、素直な感想を反射的に口にしたことがありまして、その声を聞いた途端、隣にいた友達が、慌てたように、周りをキョロキョロ見渡しながら、私の耳元に顔を近づて、おいおい、何言ってるんだ、聞こえたらどうするんだ、わざわざ買ってきてもらったのに、失礼だろ、と、驚いた様子で私に注意してきたことがあり以降、友人は、このエピソードを、変わったクラスメートの話として、他の子たちによく聞かせていたのですが、私は例の如く、何がおかしいのかが分からず、別に、飲み物を買ってきてくれた大人たちを責めているわけでも、或いは、その商品の会社を責めているわけでも何でも無く、単純に、味を確かめたとき、全く口に合わない物だったので、ただその事実を、声に出してみただけなのに、なんで、失礼に値するのか、どうして、非難めいた言葉として捉えるのか、訳が分からなかったのです……。 

 

 形を気にしない、という意味では、物、に対するこだわり、執着、思い入れが全くなかったのも、共通する特徴と言えるかも知れません、私には、物を大切にする、という発想がないのです――中学生の時、授業で回収したノートを、係だった私が、各生徒の席へ配っていた際、手を伸ばしても若干届かないところの席があると、その席の近くまで迂回して近づくのではなく、少し放り投げるような形で、雑に配っていると、それを見ていたクラスメートから、投げるなよ、と、笑いながら突っ込まれたことがありまして、私はそれに対し、その方が早くて楽じゃないか、何がいけないんだろう、と、心の中で不思議に思っていたことがあり、また、友達からもらった、お土産の玩具を、もらってから割とすぐに、特に必要なかったので、他の子にあげてしまったことがあり、それを聞いた友達から、普通そういうものはすぐ人にあげないだろ、と、注意を受けたことがあり、それに関しても、意味が分からず、どんな経緯、どんな物であろうが、それをもらった時点で、それは私の物なのだから、自分がどうそれを扱おうが、処分しようが、売ってお金にしようが、他人にあげようが、こちらの勝手、こちらの自由ではないか、なぜならそれは、私の物なんだから、と、極端に割り切って考えるとこがあり、そもそも、プレゼント、贈り物という習慣そのものに対しても、人に物を贈ったところで、それがその時の相手にとって、本当に欲しい物かどうか確実ではないのだから、そのプレゼント分の額を現金として直接あげて、本人の完全な意思によって、欲しいときに欲しい物を購入してもらった方が、合理的である、と、そんな風に、全く人情味や義理、恩の感情が欠けた、甚だ無機質な考えを持っておりました(こうしてみると、礼儀、に対する私の無理解は、生まれついての個人主義、合理主義、効率主義、実用主義によってもたらされているようで、私にとって、人間の対人文化は、とても曖昧で、不合理で、分かりにくく、もっとスッキリ、簡単に、明瞭にすれば良いのに、と、そう思ってしまうのです……)。 

 

 これら、人間の文化に対する不可解によって、私は年を重ねるごとに人の世界から遠ざかるようになり、それは確実に、私を対人恐怖症に、引きこもりに追いやった、大きな要因の一つであり、今でも、一歩外に出れば、通行人、地域の住人、親戚の大人たち、車のドライバー、店員、医者、役人、様々な状況の、様々な人間に対して、常に不安を感じ、臆病になり、緊張を感じ、己の言動に懐疑的になり、自分は今、間違った動き、失礼な態度、非常識な行為をしてしまっているんじゃないだろうか、自分のこの仕草、この動作、この姿勢、この服装は、変な風に思われているんじゃないだろうか、何か、周囲の人に、不快感を、苛立ちを、不安を、恐怖を、おかしみを与えてしまっているんじゃないだろうか、と、疑心暗鬼に駆られてばかりなのです……。 

 日常生活の、様々な場面において、どうすれば良いのか、どう立ち振る舞えば良いのか、分からない、自分は全く、相手に不快な思いをさせたくない、相手を怒らせたくない、相手に対する敵意もない、しかし、何が失礼なのか、何がおかしな事なのか、分からない、感謝の気持ちを表現した方が良いのか、謝罪の言葉を口にした方が良いのか、逆にそれは不自然なのか、分からない、自分から声を掛けて手助けをした方が良いのか、それとも、そっとしておいた方が良いのか、分からない、とにかく、何も、分からない――結果、いつも人の顔色を窺い、いつもおどおどし、いつも疑念に苛まれ、その苦しさに絶えられなくなり、人の世界から逃げ出す……小さい子供が、大人の世界に放り込まれ、大人と同じように行動し、大人と同じような振る舞いを求められれば、不適応を起こし、精神を病み、頭がおかしくなってしまうのは、必然かと思われます――私も何とか、適応しようと、自然に溶け込もうと、人を観察し、人まねをする、その行為の価値を分からなくとも、表面だけでも、取り繕う、そんな生き方を続けていく内に、気がつけば、自分というものが、分からなくなる、本来の自分の感覚、自分の倫理観、自分の姿、自分の佇まいが、分からなくなり、自分は元々、どうであったか、目の前の現象に、どういう反応を示すのか、それは、純粋な自分なのか、それとも、作られた自分なのか、本来この親切を、やろうと思うのか、やろうと思わないのか、いつも、人助けやボランティアをするとき、不純な動機を感じてしまい、自分本来の感覚に従った結果なのか、世間体を気にした結果なのか、分からなくなる、人との関わりで身に付けた習性なのか、それとも、自分自身が元々持っている感覚なのか、逆に、他人に対して、不親切だなあ、マナーがないなあ、と思ったときもまた、それが、世間に染まった価値観の結果なのか、もしくは、そうではないのか……礼儀やマナー、親切に関わる全ての言動が、何だか嘘をついているような感じがしてしまい、他人と自分、双方の言動に疑念を感じながら生きる羽目になる……。 

 

 こういった苦しみを、私は物心ついたときから抱えていて、特に、学校のような、限られた空間で、何十人、何百人もの、乱暴で無神経な生き物に囲まれて生き続けるのは、至難の業でありまして、人との密接な関わりを日々強制される状況において、私のような、変人、奇人、生まれながらのよそ者は、他者の文化、価値観、常識、何が失礼で、何がおかしいものなのかが理解できず、常に非難や嘲笑、暴力の危険性に晒され続けておりました……故に、これを何とか、切り抜けなきゃ行けない、他人との不和を軽減、解消しなければいけない、人に嫌われないように、怒られないように、敬遠されないようにしなければいけない……そこで、私の中で、一番初めに自然と身に付いた、己を守るための習性……それ、ピエロになり切ることでした……。 


この本の内容は以上です。


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