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はじめに

本書の編集作業をしていると、今年の漢字に「令」の字が決まったというニュースが流れてきました。新元号「令」和に新たな時代の希望を感じた一年。「令」和が日本最古の歌集・万葉集からの出典で、海外にBeautiful Harmony=美しい調和と説明されたことや、「令」の字が持つ意味・書き方にも注目が集まったからだとか。

 

令和と改元された今年の五月に『私と台湾』の本を関係者にお分けしたが昨日の如く思い出しました。そしてまた令和になって初めての正月にその続編が発刊できるようにと思い、今月に入ってから編集作業を始めていたのです。

 

本書は二部構成で、第一部には台湾に関わった人たちの思い出とか色々な思いが書き綴られています。なかには「まさか!」とか「なるほど!」とか思う新しい発見があるかと思います

 第二部は台湾生活も早いものですでに三十年が過ぎ、ここ一年余りの台湾事情をFBなどに投稿したものや非公開のものとかまたネットから引用したものなどを、日記風につれづれなるままに記したものを紹介しています。

 

皆さんは「緑のトンネル」の名前を聞いたことがありますか?今から20年前のことです。当時数年間台湾に住んでいた友人が、日本に帰国すると言うので「台湾で一番印象に残っているところは?」と聞いた時に「開口一番に緑色隧道と中国語で答え、そこは南投県集集にあるよ。」と教えてくれました。それでこの目で確かめようと後日現地に行ってみると、道の両脇の4キロにわたる街路樹に緑の葉が覆い茂って、本当に緑のトンネルそのものだったのです。真夏でも直射日光を遮って、時たま風が吹くと心地よく、まるで天燃のクーラーの中にいるようでした。ここは日本時代に住民に楠の苗を植えさせ、このような緑のトンネルにしたのだそうです。3年前に行った台東でも緑色隧道がありました、同じように日本時代にできて、当初は15キロもあったそうで。今では約2キロだけになって残っていました。

 

このように意外と台湾には日本と関係するものが残されているのです。それは戦前の日本統治時代が50年にも及んだ事もあるでしょうがどこかの国のように破壊することなく保存したり復元したりしているからです。

 

このような台湾は別名宝の島と言われているように色々な宝(ネタ)が隠されており、まだまだ日本人にも台湾人にも知られていない面が沢山あります。その辺あたりを今後とも紹介し続けて行きたいと思っています。

 

本書(電子書籍)が日台双方の多くの人たちに読まれ、何らかのお役に立つことができたら幸甚です。

 

最後に寄稿してくれた皆さんまたご協力そしてお世話になった皆様方に紙上を借りて厚く御礼申し上げます。

 

来たる2020年が輝かしい年で昨年以上に前進する年になることを、そして皆様方のご多幸とご健康と平安であることを心よりお祈り致します。


 

                               2019年師走

                                  喜早天海

 


 


暴れん坊将軍(早川友久)

 

 

ぼくの家では夕食時によく『暴れん坊将軍』の番組を見ています。えっ?と驚かれる人もいるかと思います。1978昭和53年)から2002平成14年)にかけてテレビ朝日系列で放映されたものが、ここ台湾でもケーブルテレビで中国語の字幕付きで一日に3回放送しているのです。台日会の日本語族の人たちにも以前聞いてみたら、意外とファンが多く結構皆さん見てるんだなあと思いました、 

 

 「そんな番組知らない。見たことにない」と言う人のために、簡単に紹介すると、八代将軍・八代将軍・徳川吉宗が、町火消“め組”に居候する貧乏旗本の三男坊・徳田新之助に姿を変え、市井しせい)へ出て江戸町民と交流しながら、世にはびこる悪を斬る勧善懲悪ものなのです。

 

過日李登輝総統の早川秘書がこの暴れん坊将軍のことについて下記のようにネットで公開しており、李総統も毎日ほぼかかさず夫婦で見ているのを知りビックリしました

  

「李登輝が「暴れん坊将軍」を愛してやまない理由

 

 

                 早川友久 (李登輝 元台湾総統 秘書

                             (20018/7/13

 

李登輝が「私はね、毎日テレビで『暴れん坊将軍』を見ているんだ」と話すと、一同は笑いながらもビックリする。「暴れん坊将軍」といえば、日本人なら誰もが耳にしたことのある時代劇ドラマだが、まさか台湾の元総統が見ているなどと思いもよらないだろう。

 

 なぜ李登輝が「暴れん坊将軍」を引き合いに出すかと言えば、これが李登輝の考えるリーダー像に合致しているからだ。「暴れん坊将軍」は、将軍吉宗が浪人に扮して町へ出て悪者を懲らしめたり、汚職を暴くというストーリーが主だ。もちろんドラマであることは承知の上だが、李登輝が好きなのは、この吉宗の「心がけ」だという。

 

 つまり、将軍という指導者の立場にありながら、庶民の生活のなかへ飛び込み、庶民の暮らしがどうなっているか、困っていることはないかと、実に細やかに社会を観察している。それこそが指導者のあるべき姿なんだ、と話す。

 

 李登輝はもともと農業経済の分野で台湾を代表する学者だっただけに、若い頃から現場を見ることをモットーとしている。あるいは、李登輝が小さい頃に感じたという社会の不公平と、江戸の封建時代を重ねているのかもしれない。

 

 毎年末になると、地主だった李登輝の家に小作人が鶏や米を抱えてやって来て「来年も畑を耕させてください」と頼みに来る。そうした光景を見た李登輝は、子供心に「なぜ同じ人間なのに不公平なのだろう」と世の中の不条理を感じ取っていたのだ。こうした経験がのちに、農業経済を研究して農民の生活を向上させたいと思うきっかけになったし、総統になっても国民の生活を第一に考えることの原点になった。

 指導者というものは常に庶民のことを気にかけ、今の社会がどうなっているかを知らなければ国を引っ張っていけやしない、というのが李登輝の考えだ。その点からいくと将軍吉宗の行いは、李登輝が考える指導者としての理想像になるのだ。

 時代劇は勧善懲悪がはっきりした物語だが、正義感の人一倍強い李登輝の好みにも合っているのだろう。聞いたことはないが、もしかしたら、幕府の重臣の汚職を暴き「成敗」していく吉宗の姿を、総統として国民党の特権政治を是正していった自分に重ねているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明石台湾総督の墓と鳥居(渡辺崇之)

 

第七代台湾総督明石元二郎氏の墓と鳥居 

 

           台北市  渡辺崇之

 

 台北の中心にある林森、康楽公園の一角に、大小二つの鳥居が立っている。ガジュマルの木がそれらを守るかのように覆いかぶさっているのが印象的だ。大きい方は日本統治時代の第7代台湾総督・陸軍大将の明石元ニ郎氏、小さい方は同氏の秘書官であった鎌田正威氏の墓の鳥居である

 

 

 明石氏は司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもおなじみのように、日露戦争開戦前にロシア駐在武官として、反ロシア帝政への機密工作や秘密資金援助などの諜報活動を行なったことで有名だ。
しかし、氏の功績はそれだけではない。朝鮮半島の擁護を目的として治安を完遂し、日韓併合を実現に寄与。
1918
年に台湾総督として赴任してからは、台北から高雄までの電力送電を実現した日月潭水力発電の開発、台湾人と日本人が同等の教育が受けられるようにした台湾新教育令の発布、海岸線鉄道の開設や司法改革など在任1年4ヶ月の間に数多くの功績を残し、多くの台湾人に慕われた。
 

 

しかし、在任中、帰省中の福岡にて病没する。「もし自分の身の上に万一のことがあったら、必ず台湾に葬るよう」という遺言どおり日本人墓地である「三板橋墓地」に埋葬された。
それが現在の林森、康楽公園である。台湾人による多額の寄付もあり、「軍人で皇族を除いて明石氏のような墓を持ったものはない」といわれるほど立派な墓だったようだ。
歴代の総督の中で今も台湾に眠る総督は明石氏ただ1人である。

 

戦後、この墓地はたちまち大陸から逃れてきた国民党の下級兵士の居住地と化し、バラックが乱立して50年近く放置されたままだった。
民進党の陳水扁氏(後の総統)の市長時代、1997年に補償金を支払うことなどで、ようやくバラックや市場が撤去され公園として再整備された。
明石氏の遺骸もこの時荼毘にふされ、現在は三芝郷のキリスト教共同墓地に埋葬されている。その際、残った2つの大小鳥居は228公園の人目の付きにくい隅に移設され、長らく案内板も無いまま(一時期228記念公園の管理団体によって簡易案内板が設置されたがそれもすぐに撤去)、ひっそりと佇んでいた。

 

林森、康楽公園の裏には欣欣百貨店という老舗デパートがありその中に映画館が入っている。現在の筆者のオフィスからは程近い映画館の為、退勤後にたまにふらりと立ち寄ることがある。
2010
11月、映画を見終えた後、ふと視界に見覚えのある鳥居が目に飛び込んできた。十数年も228公園に移設されていた鳥居が元の場所に戻ってきているのである。それまでのこの地には「明石元ニ郎総督の旧墓碑」という中、英、日文でかかれた簡単な説明のあるプレートがあるだけだった。更に12月中旬に再び訪れて見ると立派な案内板が中・日文で記されていた。

 

中国国民党の総統で市長であるこの時代に誰がどのような意図でこの移設に尽力されたのだろうか。
詳細な説明文を見る限り専門家も関わっていることは容易に理解できる。
公園の向かいのホテルで毎月開催される「台湾歌壇」(日本語世代の方々が自分達でつくった短歌を論評しあう会)に集まる日本語世代のお年寄りに聞いてみても、皆移設の事実自体が初耳だったようだ。
そうこうしているうちに、122日には東京新聞から、13日には朝日新聞から移設の経緯についての報道がなされた。

 

 それらの記事によると、発案者は40年近くこの地に住む地元の里長(町内会長)の王金富氏(62)。「(明石氏が)福岡で死んでも台湾に戻ってきたと知って、感動した。
この地は日本人の宿泊するホテルや免税店も多く日本人が観光ついでに見学しやすい。
多くの日本人に見てもらえるのではないか。」この王氏の提案を受け、台北市議の陳玉梅氏が市政府に働きかけ、実現したとのこと。
陳氏は中国国民党員ながら日本留学経験のある知日派で、「明石さんは台湾を愛した。その心を大事にしたい」と異論も噴出する中、移設実現に奔走されたようだ。

 

台湾人の市井の善意から始まり、途中で政治的な意図もいろいろ錯誤したのだろうが、結果的に鳥居が元の位置に戻され、今でもこうやって受け継がれて、大切に扱われているという事実に、一日本人として心から感謝したい。

 

新設された案内板には小さい方の鳥居は鎌田正威氏の墓の鳥居とある。
実は今回の移設の前まで、この鳥居は第3代総督・乃木希典氏の母親の墓の鳥居とされてきた。筆者自身もこの案内板を見るまでそう思い込んでいた。当時の三板橋墓地には3つの鳥居があり、明石氏、乃木氏の母親、そして鎌田氏の墓用のものとされていた。
この小さい鳥居の裏にはかすかに昭和10年(1935年)と刻銘があり、その年代と照らし合わせると乃木氏の母親とは年代が合わず、残る鎌田氏のものと推測されたようである。
ちなみに乃木氏の母親が亡くなられたのは1896年のことである。

  

つい先日、愛日家の「老台北」として広く知られ、先ほど紹介した「台湾歌壇」の会長でもある蔡焜燦氏から「明石氏についてもっと学ぶように」と明石氏に関する本を送って頂いた。
蔡氏は明石氏のご遺骨を現在の三芝郷の墓地に移設した際に尽力されたお1人である。読み終えてから、再び鳥居を眺めに行くと、その横で案内版に目を通しているお年寄りがいる。台湾人義勇兵としてインパール作戦に参加し、奇跡の生還を遂げた蕭錦文氏だった。
蕭氏も明石氏のご遺骨移設の際にご尽力されたお1人だ。
当時のご遺体を掘り起して荼毘にふした時のことを思い出されているようだった。

明石氏が筆者に新たなご縁を与えてくれているように感じられた。

 

 今や台北市内で最も訪れやすい日本統治時代の遺跡となった大小2つの鳥居。台湾在住の方、または近々台湾訪問予定がおありの方は是非気軽に訪れてみてはいかがだろうか。(2014.06.19


ルバルバおばさん(森本恵作)

 ルバルバおばさん   

 

            愛知県 森本恵作 

 

            (元 高雄日本人学校教員)

 

 屏東縣三地門郷の石板家屋に住む一人の老婦人が亡くなった。86歳であった。多くの人々がその石板屋を訪れては、澄み渡った空気を味わいながら、その老婦人の昔話に耳を傾けた。訪れる人はみな、その老婦人を「ルバルバおばさん」と親しみを込めて呼んだ。

  

ルバルバおばさんと高雄日本人学校の関係は創立当初から続いてきた。夫である陳俄安さんが高雄に住む日本人と関係が深かったこともあり、日本人学校の設立や校舎の移転に多大な協力をくださったのだ。

  

霧台郷出身のルバルバおばさんは元々原住民文化に精通していたし、更に自身の研究熱心な性分もあって、伝統的なトンボ玉の造り方を再現して見せたり、踊り団を形成して各地で踊らせたり、山から採れるゲットと呼ぶ草の繊維を使った編み物を創作たりと、原住民の独特な文化の多様性を表現することに長けていた。だから、日本人学校の子どもたちにもトンボ玉の造り方を教えることもあったし、昔話もたくさん聞かせてあげた。日本人学校の子どもたちの台湾理解に大きく貢献されたことは言うまでもない。

  

 そのようなルバルバおばさんと日本人学校のつながりにあやかって、私も三地門を訪れることがしばしばあった。いつも妻と二人の娘も一緒に行った。ひょっとしたら私よりも妻や娘たちのほうがルバルバおばさんに会いたくて「今度の週末、三地門へ行く?」と合言葉のように言うほどだった。

  

ルバルバおばさんの人柄を言い表すのに、私にはよい例えが思い浮かばない。ただ、すこぶる勘の鋭い人であった。おばさんと話をしていると、いつも心の内まで見抜かれているような気がして決して嘘がつけなかった。下手なお世辞や言い訳などは即座に一蹴される。「せっかく台湾に来たのだから、たくさん研究しなさい。日本に帰るときに、それが一番のお土産になるよ。」と愚鈍な私に厳しく言い聞かせた。私は仕事の忙しさにかまけてルバルバおばさんの言いつけをしっかりと守らなかった。なかなか研究と思しき素振りも見せぬ私にきっとやきもきしたにちがいない。私にとってルバルバおばさんは研究対象ではなく、すでに台湾における心の拠り所になっていたのだ。そこへ行けばいつも受け入れてくれる、時には厳しく言い聞かせてくれる、そう、まるで母のような存在になっていたのだと思う。

 

  そんなある日、ルバルバおばさんから電話がかかってきた。「私が死んだときに、親戚のみんなが見られるような写真のDVDを作ってもらいたいのよ」と言う。霧台の親戚が亡くなった時にそれを見たのだが、自分もこんなふうに懐かしんでもらえたらという思いがある、だれかに作ってもらいたい、ということであった。私はこの要望を受け入れるのに少し躊躇した。なぜなら、あの勘の鋭いルバルバおばさんがそのようなお願いをしてくるというのは、何か不吉なことを暗示しているのではないかという直感がよぎったからだ。

 

 私はそれから何度か三地門を訪れながら、ルバルバおばさんが丁寧に整理した写真が収められたアルバムを借りて持ち帰り、スキャナーでパソコンに取り込む作業を繰り返し行った。と言っても、大量にある写真を一枚一枚取り込んでいく作業は大変な労力と気力を要した。

 

やはり、怠け癖のある私は仕事の忙しさを理由にして、その作業を中断することも多かった。そんなときにルバルバおばさんから電話がかかってくると「もう少しでできるから」などとルバルバおばさんにはバレバレの嘘をつくのであった。

  

「あわてなくてもええよ、今度、私が、これ、これ、と言って選んであげるから、三地門に泊まりに来なさい。まだ、おばさんは死なないから、大丈夫よ」そう言って、私を安心させようとしながらも、どこかあせっているような感じの言いぶり。私も実は、この作業を完了してしまうと不吉なことが起こってしまうのではないかという不安もあった。

 

8月に入り、ルバルバおばさんが倒れ、入院したという知らせを聞いた。その直前に私はルバルバおばさんと直接電話で話していたので、まさかという思いでいっぱいだった。なんとか、DVDを完成させてルバルバおばさんに見せなくては、そんな気持ちと、完成させたらいけないのではないか、という気持ちが相対する中で、私は一先ず試作品を作ってルバルバおばさんの入院先へお見舞いさせていただき、おばさんに見てもらった。意識もはっきりしない中でルバルバおばさんはしっかり見てくれただろうか。それから2カ月余りの入院生活の後、ルバルバおばさんは息を引き取られた。

 

亡くなった知らせを受けてから2日後、私はようやく約束のDVDを完成させた。

 

 DVDの作成にあたっては、できる限り多くの人々と写っている写真を使用した。それはルバルバおばさんがきっと望んだことだろうと思う。ルバルバおばさんは相手がどこの誰であろうといつもあたたかく迎え入れてくれ、どんな人であろうと決して区別しなかった。

 

だから、みんな三地門を訪れ、ルバルバおばさんを愛し、心から慕ったのだ。ただ一つだけ、ルバルバおばさんが人を見極めるときに大切にしていたことは、信じられる人かどうか、それだけだったと思う。

 

信じてもらってDVDの制作を託された私は、約束を果たせなかった。

 


故許昭榮(峰禎)さんのこと( 鈴木誠真)

故許昭榮(峰禎)さんのこと

                                                    高雄市 鈴木誠眞

  

台湾に来て、多くの方にお会いしてこの国の近代史を垣間見させていただいてきましたが、 どなたとの思い出もこの国にかかわる史実に素通りできない物語を教えていただきました。

 

臺中伍圓の會に寄稿された方々の貴重なお話や、まだまだ知らないことなどをこれからもおそわってゆきたいと思います。

 

許昭栄さんにお会いしたのは 台湾高雄に赴任した時からほどないときでした。

 彼のよくゆく日本料理屋で紹介されて 気さくに握手してくれたとき、お年の割にはカッコ良いキャップ、(戦艦のマークが帽子に刺繍してあり、帽子の鍔にはオリーブの葉模様のついた私好みの絵柄)何かすごくナウい感じの印象を受けました。

 その後幾度もお会いしたときには顔を見ると気さくにそばに座らせていろいろな話を聞かせてくれました。

 

許さんはいつもその帽子をかぶっていました。それは彼が乗組んでいた日本海軍の『雪風』のシルエットが正面に縫付けてある(現在は台湾にある『丹陽』)士官用の帽子でした。

 彼はいつもそれをかぶり文字通り肌身離さず、遠くから見るとすぐに誰だかわかりました。

彼が私に話してくれたことは「雪風はどの戦役でも一つも被弾しなかった」為にそのことは米国では非常に興味があり、終戦後 米国本土で徹底的に分解調査して、日本海軍の不沈伝説の秘密兵器を探したそうです。 しかし何も発見できずに台湾に引取りに来るように伝え、許さんは米国からみずからが操船して台湾に回航したといっていました。

 そしてその後の話として、日本は回航した当人を江田島の学校に招待したそうです。

 

江田島では桟橋につくと船着場から学校の玄関まで赤いじゅうたんが敷かれていて 最高の栄誉礼を受けたといっていました。 玄関を入ると「雪風の操舵輪」が展示されていて、懐かしく感激して涙が出たと話してくれました。 許さんは日本海軍の志願兵として太平洋戦争にも従軍しており、乗り組んでいた「雪風」は彼の歴史でもあったそうです。

 

 許さんは海軍兵士として 大戦終結後の台湾の船舶にも乗船して様々な歴史を体験し、私に話してくれました。 そのなかには中国国民党の大陸反攻の兵員輸送と撤収するときの模様を涙ながらに悲しそうに話してくれたことがありました。 台湾人の農民兵を大陸の戦場では最前面で戦わせて、負けて台湾に戻るときには自分たちだけが船に乗って戻り、置き去りにされた台湾人の兵士はバラバラになりながら陸伝いに朝鮮半島まで落ちのびて、朝鮮動乱に使用されていた米国の上陸用舟艇で台湾に戻れたと いっていました。その中には台湾人だけではなく欧米人や日本人もいたそうです。 過ぎたことですが これが当時の実態です。

 

許さんはいろいろな話の中で一度だけ 日本に対して強烈な不満を吐露されたことがありました。 しかし、それがどういう事だったのか、様々な体験談を聞くことばかりが先に立ってしまい、 前号の各記事を読むまで思い出せませんでした。それはまさに台湾人が祖国というものの教育を日本統治時代から受けて、日本国民としての品格・素養を得ながら其の儘今に至っていることだったのです。

 

しかし、許さんは一度そういう事を云ったきりで、その後は何も言いませんでした。

 後日、亡くなられた後 所要で台中に出かけて、農家の方々とお話をする機会がありました。 意気投合して歓談しているうちに、私が高雄に住んでいて、大先輩に許さんという方がいたが亡くなられたというと 聞いていた農民の方々の目つきが変わり、『あなたは峰禎、許峰禎を知っているのか!?』と聞かれ、彼の葬儀には家族扱いで、鳳山教会で告別式の最初にお別れをさせてもらいましたというと、 皆さんは非常に驚かれて、『彼は私達の戦友で同志だ』と言って、同じ兵役に参戦していたのだという話を聞くことになりました。 中には目を潤ませていた方がいたのが忘れられません。 許さんの お人柄からどれだけ多くの兵士仲間がいようとも驚くにはあたらないという事を身にしみて理解できました。 日本統治時代を経て台湾の歴史はどういうものであったのかを理解することは必然でありましょう。 日本では歴史教育は国民の必須教養科目ですが、台湾の若い諸君に聞いても憤然として『台湾自身の大戦終結以前の歴史は習っていない』と言われます。 学生の授業ノートも見せてくれましたが、近代の歴史部分は書かれていないという状態です。  私は過ぎた事であっても、すぎてしまっている事だからこそ、(私たち外国人が立ち入ることの無い政治問題としてではなく) 台湾は台湾自身の歴史を国民が知っているべきではないかと思います。

 

これからの国際社会において台湾の存在は非常に重要だからです。

 

【 許榮(峰禎)さんは2008520日馬英九第二期総統選挙日を控えた日 臺灣退役軍人遺族協會(前全国原国軍臺灣籍老兵遺族協會)が「臺灣退役軍人を祀るための公園」として申請していた旗津で愛車に乗ったまま焼身自殺をしました。肌身離さず被っていた帽子は日本人友人の元に預けていて、事情を知った人達は、わざと残していったと地団駄を踏んで悲嘆にくれました。 】

 

「台湾のスタンスがよくわからない、なにかが矛盾して分解しているようだ」という話が所属しているFFIという国際的なクラブや 西欧の友人から聞こえてきます。

 

(それはなぜでしょうか? 歴史を紐解くことで答えは見つかると思います) 将来はこうなればいいのに?と 願うことができる様にまでなるのには あとどれほどの時間が必要なのか日本人として非常に関心のあるところであります。

 

ときには目を細めて好好爺このうえない『許さんの笑顔』がもういちど見れる日を夢見たいと思います。

 

前号の『私と台湾』誌の中に拝見しました先輩諸氏のお話にもありました『日本国民』として忠誠を尽くしてきた『台湾の日本人に対して』そのご辛苦に日本としてねぎらい報いることは真の終戦につながることではないか 元統治國として果たすべきものが一つ少なく「ならねばならない」のではと思います。

 日本が好かれていると喜んでばかりいるよりも 元国民の方々に恥ずかしくない国でありたいと願います。

 

                            (2019年 令和元年8月)

 

 



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