閉じる


私は誰? 第六回

      

 

 礼儀、に対する違和感、疑問、理解の欠如は、勿論、「親切」だけに限ったことではありません、それ以外にも、人に対する常識、非常識、礼、失礼の判断が分からない、という瞬間が、日常的にたくさんありました……。 

 例えば私は、挨拶、の意味が分かりませんでした――どうして、人は一々、朝、顔を合わせる度に、おはよう、と挨拶を交わすのか、理解が出来ず、何の意味があるのか分からず、どうせ、毎日会っているのだから、わざわざ「おはよう」から会話を始める意味なんてないじゃないか、必要のある話から始めれば良いじゃないか、形だけの言葉を交わすことに、何の意味があるんだろう、と、常々そう思っておりました……挨拶、という文化が自分の中にないため、誤って人の挨拶を無視してしまったこともありました――中学生の時に、教室に入ってきた友人の挨拶に気付かず、おい無視かよ、と言われ、その言葉だけは耳に入ってきて、瞬時に、一寸前の記憶を思い返して、おはよう、という言葉を誰かが発していたイメージが、無意識ながらにも残っていて、そこでようやく、自分が挨拶を無視する形になっていたこと気き、あ、おはよう、と焦りながら返したのを覚えています(しかしまた、自分が故意に人の言葉を無視するような人間ではないと分かっているはずなのに、なぜ、偶然気付かなかった、という判断につながらず、無視した、という解釈によって即時に断定するのか、こういう瞬間が、とても悲しい気持ちになるのです)……。 

 挨拶、に限らず、礼儀に関連する様々な言葉、特に、「感謝」と「謝罪」の使いどころ、その存在意義が、分からない――つまり、ごめんなさい、ありがとう、という言葉自体が、私の世界、私の習慣の中に基本的に存在せず、どういった瞬間にそれを使えば良いのかが分からなかったのです……それは決して、人に対して冷たい、きつい、厳しいからではなく、私としては、むしろ、逆、つまり、私自身が、とても大らかで、寛容で、細かいことを全然気にしない人間だったので、ちょっとしたことで、一々ありがとうだの、ごめんなさいだの、そんな他人行儀なこと言われたいと思わないし、逆にこちらから言うのも不自然だと、そう初めから思い込んでいたのです……。 

 特に気になっていたの、人にぶつかる瞬間――誰かが、不注意で、私に肩をぶつける、すると、その人は、あ、となって、ごめん、と謝罪の言葉を述べてくる……私はこの瞬間が、いつも、不可思議でなりませんでした、何故不意に、体がぶつかってしまったくらいで、一々謝られなければならないのか、そんなこと、どうでも良いじゃないか、何もなかったように、普通にそのまま行けば良いじゃないか……世間では、人と体が当たってしまったら、お互いにすいませんと言うのがマナーとされていますが、私はむしろ、お互いに気にしないで、無視すれば良いのではと思ってしまうのです、その方が、無駄な動作が一個減って、効率が良いと考えてしまうのです……。 

 これに関してもまた、謝罪という概念のない独自の文化のせいで、人を怒らせてしまった失敗談があります――学校の昼休み、体育館に行って、バスケットボールを持ち出して、各々が、ゴールに向かって適当にシュートやドリブルの練習、遊びをしていたことがありまして、その際、私が投げたボールが、ゴールに跳ね返って、別の方向に飛んでいってしまい、それが偶然、他の子の体に当たってしまったことがあります、しかし、私は何も気にせず、ちょっとしたハプニングに、ただヘラヘラ笑いながら、その子に何の言葉も掛けることなく、自分のボールを追いかけて、そのまま普通に、遊びを再開し始めました、すると、その直後、あらぬ方向から、突如、勢い良くボールが飛んできて、私の体に衝撃が走り、何だ、と思って、ボールが飛んできた方向を見ると、先ほどの子が、明らかに、私に向かって、故意にぶつけているのが見て取れました……しかし、私は、良く意味も分からず、喧嘩みたいになるのも嫌だったので、やはり、ただ、ヘラヘラ笑って、何事もなかったかのように、そのまま遊び始めたのでした……。 

 私としては、別に、意図的に彼を狙ったわけでなく、予測不可能な、偶然の結果によって、たまたま彼の体に当たってしまっただけ、しかも、一度バスケットのゴールを通して、跳ね返って当たったわけで、私の手から、何も経由せずに、直接当たったわけでもなく、そんなことでも一々謝罪をしなければならないという常識を、ただ知らなかっただけなのです……野球をしていても、デッドボールを食らうと、たかが小学生同士の軟球にも関わらず、当てられた方が怒ったり、当てた方が帽子を脱いで頭を下げたり、なんでそんなことで……と毎回思っていたのです……。 

 

 ありがとう、に関しても、人から言われる度に、何故こんなことでありがとうと言われなければいけないのかが、分からない、という瞬間が、幾らでもあって、逆に言えば、自分も、ちょっとしたことで、感謝の気持ちを述べなければならないのかと、次第に不安に駆られるようになっていきました……これは、人が何に怒るか分からない、何が親切に当たるか分からない、という疑問と共通すると思われ、人が怒るポイント、人が親切と見なす行為が何か分からないから、人に謝罪や感謝を示すべきタイミングが分からないのでしょう――しかし、だからと言って、保険のために、しつこく、頻繁に、深々と言い過ぎると、逆に、おかしく思われる、慇懃無礼な感じを与えてしまう、正に、「こんなことで」、と不審がられてしまう……そこで、私が最終的に縋り付いたもの、それ、「すいません」、という言葉でした……。 

 すいません――このワードは、私のように、人に対して弱気で、臆病で、不安で、その文化、価値観が理解できない人間、つまり、人は分からないが、人に嫌われたくない、という人間にとって、非常に便利な、魔法の言葉、オールマイティなジョーカー、救世主のような存在で、この言葉最大の利点は、感謝と謝罪、という、私が客観的に把握することの出来ない二つの意味を共に汲んでくれる部分にあり、どんな状況、どんな相手であれ、とりあえず、この言葉さえ述べておけば、謙虚な姿勢、悪意の無さ、配慮の気持ちを、最低限、相手に伝えることが出来、大抵の危機を、乗り越えることが出来る、しかも、その一言一言は、決して重くない、社会人として日常的に、至る所で使われる言葉なので、連呼したところで、まあ、違和感を持たれることないのです……。 

 私は、大人になってからというものの、人を前にする度に、小刻みに頭を下げながら、やたらこの言葉を口にするようになり、買い物をするときでさえ、店員に、すいません、すいません、と、一々頭を下げながら、商品を受け取っていて、それは、何が失礼なのか、何が人を怒らせるのか分からない私にとって、とりあえず、この言葉さえ言っておけば、災いは降りかからないという、一つの呪文、おまじない、魔除けのような役割を果たしていたのです……。 


この本の内容は以上です。


読者登録

akagi-tsukasaさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について