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私は誰? 第四回

 礼儀……或いは、マナー、常識、作法、親切、人助け、気遣い、心配り、思いやり、つまり、人が、人と関わり、人と交流し、人の世界に参加していく上での、コミュニケーション上の、暗黙のルール、要求される行動、正しいとされる振る舞い――これを理解する能力が、私には、ない、先天的に欠けている、与忘れられている、人が、何を親切と思い、人が、何を優しいと思い、人が、何を気遣いと思い、人が、何を礼儀と思うのか、その適切な判断が、出来ない、対人において、こういうときは、こう動くべき、こういうときは、こう言うべき、こういうときは、こうすべき、その場、その状況、その時々において、人に対し、どんな行動、どんな言葉、どんな態度を取るのが、正解なのか、親切なのか、礼儀なのか、気配りなのか、それを自然に理解し、判断し、実行することが、出来ない……。 

 特に目立ったのが、「親切」に対する考え方でした、私は、人が親切だと思うこと、優しいと感じる行為の対象がよく分からず、親切という行為をされると、嬉しいどころか、むしろ、困惑や抵抗を覚えるばかりだったのです……よく覚えているのは、小学生の時――友達の家に、何人かで遊びに行って部屋に入って遊んでいると、その友達、或いは友達のご家族が、お菓子や飲み物を持ってきて、どうぞと差し出してくる、すると、それに対して、一緒に来ていた他の子達は、嬉しそうな表情を浮かべ、ありがとうと感謝の言葉を述べる、これが普通のリアクションかと思われます、しかし、私は、全く違う感想を抱きます、即ち、「どうして何も言っていないのに持ってきたんだろう」、「欲しいなんて一言も言った覚えはないのに、なぜ飲み物が出てきたんだろう」…… 

 これが素直な感想でした、私はいつも、人から物を差し出されたり、或いは、手を貸されたりする度に、こういう疑問、つまり、「何も言っていないのに、なぜ?」、という戸惑い、混乱、不安の感情に襲われていて、それが一般的に、親切、優しさ、気遣いであるという価値観を、知らなかったのです……クラスメートが、お土産を買ってくる、同僚が、差し入れを入れてくる、自分が物を運んでいるときや、倒してしまったとき、落としてしまったときに、周りの人が自然と加勢してくる、食事の席に着くと、勝手に料理を皿に盛りつけられ、勝手に飲み物をコップに注がれ……何故、そんなことするんだろう、どうして、人のことまでやろうとするんだろう、自分のペースで、自分の食べたいものを、自分の食べたい量だけ盛った方が、間違いがなくて合理的で(私は「お酌」という文化がさっぱり分からないのです)、何かが欲しくなったら、自分から言うし、何かして欲しかったら、自分から頼むのに、どうして、人は、勝手に、人にものを与えて、人の行為に参加し、人の作業を共有してくるのだろう……しかし、世の中ではどうも、これが親切であり、優しい人とされるらしい、何か欲しい物ある? ジュース買ってきたよ、持ってあげるよ、何か困ってるの? 代わりにやってあげるよ、と、まるで、他人が、自分であるかのように、相手のことを、一々気にし、一々入り込み、一々手を掛けてくることが、優しくて、心配りが出来る、良い人らしい――しかも、恐ろしいことに、そういった行為を、断ってはいけないらしい、要らなくても、受け取らなければならないらしい、拒否拒絶は、善意を踏みにじる行為らしい、その上、相手にお礼を言わなければいけないらしい、ありがとう、すいませんと言って、頭を下げなければいけないらしい……お礼を要求するなら、初めからしなければ良いのに……。 

 ここまで行くと、私にはもう、親切というものが、脅迫のように感じてしまい、相手の意図も確かめずに、要らないものを押し付けて、自分のペースに巻き込んで、他人を自分の一部みたいに扱って、その上で、礼を要求する、何だかそれは、「感謝の当たり屋」「親切の押し売り」みたいな感じがして、よく、日本人は、困っている人を見て見ぬ振りをする、などと言われますけども、私に言わせれば、見て見ぬ振りも何も、どうして、何も頼んで来ない人に対して、こっちが勝手に手助けしなければならないのかが不思議で、むしろ、知らない他人に、何も頼まれてないのに、あれこれと世話をしようとする方が、気味が悪いというか、押しつけがましいというか、自分本位というか、周りの子供達が、私のことを、意地悪という形でやたら構ってくるのと、似たような気持ち悪さがあって、私の感覚で言うと、干渉、迷惑、自己満足、もっと酷い言い方をすれば、嫌がらせ、みたいな感じがして、何だか、人の家に、急に土足で入り込んできて、内装や物の配置を見て、ああした方が良いこうした方が良いと、怒濤の如く並べ立て、こちらの意見も聞かぬまま、あっという間に、勝手にアレンジして、そうして、良いことをしたと、満足げな表情を浮かべて、「礼は要らない」などというおまけまで付けて、颯爽と過ぎ去っていくような、殆ど、通り魔、ひったくり、こちらは呆然として、腑抜けみたいになって、何とも言えぬ恐怖に駆られてしまう、そんな感覚を抱いているのです……。 

 

 こういう疑問、不気味さ、恐ろしさを感じ取った事例は、昔からいくらでもありました……私の小学校では、年に一度相撲の大会があり、その為の授業の中で、必ず、「倒れた相手や土俵の外に落ちた相手に手を差し伸べてあげる」という相撲の礼儀、マナーを教えられるのですが、私には、それが何だか、早く起きろ、早く戻れ、と、相手を無理矢理引っ張り起こし、すぐに特定の位置、特定の姿勢に戻ることを、強要しているような感じがして、相手が起きるのを待ってあげれば良いのに、と、むしろ不親切に感じ取っていたのです……また、建物に出入りするときに、後ろから来ている人のために、自分が通過しても、そのままドアを開けて、次の人が来るのを待ってる、それが世の中ではマナーとされていて、そこでさっさと手を放せば、思いやりがない、冷たい、と、人の怒りを買うみたいなのですが、私は、これもやはり、そんなことをされると、早く、通らなきゃ行けない、自分はゆっくり、自分のペースで行きたいのに、或いは、本当は引き返そうと思っていたのに、気まずくて引き返すことが出来ず、ササッと通過しなければいけない、別に、ドアを開けるくらいの労力、自分で十分払えるのに、どうしてわざわざそんなことするんだろうと、疑問に駆られるばかりでした……最近は聞かれなくなりましたが、昔は、トイレを使用した後に、次の人が使用しやすいように、紙を三角に折るとか、これに関してはもう、とことん訳が分からず、何でわざわざ他の人のことをそんなにも意識するのか、気味が悪くて仕方なかったのです……。 

 中でも特に、限られた空間で、一定時間他人と場を共有しなければならないような状況が、私を苦しめました……エレベーターでは、誰かが、代表してボタン操作を行い、目的の階を尋ね、人の乗り降りの補佐務めたり、或いは、別の人が、ボタンを押してもらおうと、目的の階を伝えて、そうして、出て行く際に、頭を下げてお礼の言葉を口にする……こういうやりとりが、互いを気遣える、気持ちの良い関係、マナーのある利用の仕方とされるようですが、私はむしろ、そっちの方が気持ちが悪く感じ、他人に一々関わらず、それぞれがそれぞれ、自分の目的のために、勝手に動けば良いじゃないかと、そう思ってしまうのです……。 

 一番私を不安と緊張のどん底に陥れる空間、それは、電車でした……「足腰の弱い人を見つけたら、電車を譲りましょう」「最近の若者は、お年寄りに席を譲らない」「誰にも言われず自ら進んでスッと席を譲るような、そんな世の中になって欲しい」、こういうメッセージを耳にする度に、私はいつも、強い戸惑いや煩悶に駆られ、頭を悩ませます――なぜ、相手が何も言っていないのに、自分から立って、自分から声を掛けて、気に掛けなければいけないのか、それは果たして、「譲る」という行為なのだろうか、譲るというのは、人に頼まれて、人の意図が伝えられた上で、行うことなんじゃないだろうか、むしろ、その人が譲って欲しいかどうか分からないのだから、譲って欲しい側が声を掛けた方が、無駄なやり取りが一個減って、合理的なんじゃないだろうか、いや、それ以前に、席に座るというのは、原則早い者勝ちで、日常生活で、長時間立っていたり歩いたりする状況など普通にあるのだから、よほどの問題を抱えていない限り、人の席を奪う権利などなく、多少の距離くらい我慢していれば良いし、自分の方が立っているのがきついからという理由で、席をよこせと思う方が図々しく、一々誰がきついかなんて考えて譲り合う方が、遙かに面倒くさいように思え、それが義務であると言うのなら、あらゆる状況において、一々他人を気にしなければならなくなって、その方が余計全体の心労が増える、と、そんな風に考えてしまうのです……。 

 私は、人に席を譲るという行為が途轍もなく恐ろしく、それは無論立っているのが嫌なわけではなくて、「他人への親切」が、相手や周囲への暴力のように感じ、申し訳ないという気持ちさえ働いてしまって、席に座っていて、電車が停車した時に、お年寄りや子供、妊婦などの姿が目に入ると、ハッとなって、急に不安に襲われて、目の前に立たれると、ガタガタと震え、どうしたら良いんだろう、譲るべき相手なのだろうか、余計な行為なのだろうかと、息が苦しくなるほどに煩悶し、よし、と意を決して、立ち上がり、どうぞ、と、猛烈な羞恥と恐怖と共に、振り絞るように声を掛け、そのまま逃げるように去って行き、譲った後も、何だか、傲慢な奴だと、冷ややかな視線を浴びているような気がし、変な罪悪感みたいなのに襲われ、その車両にいられなくなるほどの気まずさを感じ、駅を早めに降りてしまうことさえあったのです……そうしていつからか、席が空いていても、その内混み合うかも知れない、またあの譲り合いの恐怖に巻き込まれるかもしない、と、出入り口付近やデッキのところに立つことにしていて、しかし、それはそれで、何であの人は立っているんだろう、みたいな、変な視線を感じて、もう、電車に乗ることそれ自体が嫌になってくるのです……。 

 

 私はこの悪癖、「親切への不可解」によって、今まで散々注意を受けてきました――人が作業をしていたり、重い荷物を持っているのを眺めてて、普通手を貸すでしょ、と怒られたり、交通のマナーにおいても、運転中に、横から出るタイミングを待っている車がいたら、間を開けて入れてあげる、というのが常識だと分からず、たまたま開くのをじっと待つのが普通と思っていた為、道を塞いでしまって、クラクションを鳴らされたり、人の家に遊びに行ったときに、何の手伝いも片付けもしないで、説教を食らったり、焼き肉や鍋をするときに、人が入れた肉をただ食べるばかりで、笑われてしまったり……そんなこと言ったって、何も言ってなかったじゃないか、そっちが勝手にやってることじゃないか、と、「親切」の分からなさに、とても惨めな、泣きそうな思いになっていました……。 

 私は決して、人に冷たくしたいわけでも、手助けが面倒なわけでもありません、現に、人に手助けを要求されたとき、私は一度だって断ったことがないのです――ただ、自主的に手を貸す、意思を確かめずに物をあげる、という行為が、親切である、相手の為になる、優しい行為である、という根本的な認識、価値観、感じ方自体が、生まれつき備わっていないのです……それは逆に言えば、私自身が、それをされることに、嬉しさを感じないからで、私のやることに、どうして干渉してくるのか、私の失敗を、どうして共有しようとしてくるのかと、何だか人に支配され、自由を奪われ、奴隷になるような、そんな気分に陥ってしまい、店員に、どうかしましたかと、一々声を掛けられるのさえ苦痛で、たとえ私が怪我をしていようが、トラブルに巻き込まれようが、よっぽど緊急でない限り、別に他人に声を掛けられたいと思いませんし、周りの人を冷たいとも思わないのです……昔、中学の時のクラスメートに、やたら人に声を掛け、やたら手を貸したがる男子がいましたが、私はその人に、図々しい、無神経な印象しか抱いておらず、やってあげるよと言って、私のすべきことを奪われると、変な恥ずかしさや居心地の悪さに駆られるのでした……。 

 

 しかし、私も、経験を重ねることで、こういうことをしなくちゃいけないんだな、これが世間にとっての礼儀なんだな、と、徐々に、世の中の常識やマナーの価値観を理解し始め、自分も、人から言われる前に、積極的に、人に手を貸さなくてはいけない、人に声を掛けなくてはいけない、と、多少心掛けるようにはなったのですが、しかし、その「理解」は、やはり、飽くまで、頭だけで考えるような、知識としての、記号的な理解であって、自分の中から自然と出てくる、相手と感情を共有できるような、実感としての理解ではなく、言わば、美術品を前にして、何が良いのか分からないけど、こういうのが奥の深い芸術作品らしい、と、その作品の価値を、知識として蓄えるようなもので、いざ、それについて、自分の言葉で語れとか、自分で描いてみろとか、真贋を見分けてみろ、と言われても、何も出来ないのと同じく、自分もまた、いざ人を前に、手助けをしようと考えても、それが親切に当たるという確証が、自分自身の内奥から湧き出たわけではないので、自分がしようとしている行為に対し、常に不安と躊躇が付きまとってしまい、やるにしても、一体どのタイミングで、どれくらいの感じで、どんな風に行けば良いのか、それぞれの状況に応じて、臨機応変に、適切な動きを、瞬時に、無意識に、自然と行うことが出来ず、ただ、過去に見掛けたことのある、似通った複数の事例を思い返して、その時の人々の動きから、現在取るべきであろう「礼儀ある振る舞い」を演繹し、そうして目の前の状況に当てはめているだけで、実際にそれが正しいのかどうか判別できず、とてもぎこちなく、あたふたし、戸惑ってしまい、そのため私は、人に親切をするときは、一世一代の大勝負のような、決死の思いで、人から罵倒を食らう覚悟で、勇気を持って踏み出していて、それが済んだ後も、本当に、あれで良かったのだろうか、迷惑だったんじゃないだろうか、変に思われたんじゃないだろうかと、不安や羞恥心でいっぱいになるのです……。 

 

 私のこの様な、親切に対する感覚的欠損は、どこから来ているのでしょうか? 一つは、私の、特殊な倫理観、言わば、「極端な個人主義」とでも呼べそうなところから来ていて、私の中で、他人と自分は違う、人は皆バラバラである、という基本的な対人認識があって、故に、人には人のやり方、人には人の生き方があるから、余計なことをしない、他人にあれこれ口を出したり、手を掛けたりしない、と、そういう意識が働いており、他人に手助けさえも、他人への干渉行為、と、そういう見方を生み出しているのかも知れません……。 

 こういった個人主義的な発想、つまり、人の自由を極力尊重し、人の責任を極力背負わない、という考えによって、私は昔から、ギャンブルだとか、売春だとか、大人と子供の恋愛、果ては、八百長やら、薬物の使用までも、本人が、当事者同士が、良しとしているなら、他人が口を出す権利はない、というのが本音でして、学校の規則でも、何でそんなプライベートな部分まで、管理される必要があるのか、遊ぶ場所や物の貸し借りまで、一々縛られるのか、そうして何故それを、他のクラスメートまでもが、何の被害も被っていないのに責めてくるのか、なぜ授業以外の状況でのトラブルで、学校が責任を取るのか、意味が分からなかったのです……。 

 どうも人は、人と自分を一体化させ、行動の結果を共有しようとする働きがあるみたいで、小学生の時に、野球のスポーツ少年団で、練習を休んで遊びに行っていたら、次の日に、他の皆が、何で来なかったと、寄ってたかって私を責め立ててきて、別に、自分はまだ下級生で、レギュラーメンバーでも何でもなく、誰の迷惑になるわけでもないし、こっちがお金をもらっているならまだしも、お金を払って参加しているのに、休もうがどうしようが、こっちの勝手じゃないか、と、心の中で強く嘆いたことがあるのです……。 

 

 原因はこれだけではありません――私が人を恐れるようになったのは、先天的資質と後天的な経験の双方の影響だと先に述べましたが、親切に対する嫌悪感もまた、生まれたときから常に、自分を執拗に構い続ける、ある一人の存在からもたらされた経験が、災いしているのかもしれません……それは、父と並んで、私という人生において大きな意味を持つ巨大な存在、即ち、母でした……。 


この本の内容は以上です。


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