目次
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体が揚げ物と煮物くさい。電車、空いていてよかった。近くに子どもがいたら最悪だった。お母さん、あの人なんか変な臭いがするよとか無邪気に言うからね。私なら言っただろうな。窓から見えるのは大量の家。そこに人が住んでいるのかと思うとうんざりする。私が目にする家、全部で何軒あるんだか知らないけど、そこの住人一人一人に会うとしたら、生い立ちなんかをいちいち聞くとしたら?悩みや愚痴を相手が言いたいだけ聞くとしたら?どれだけの時間がかかるだろう。もはや自分の人生を放棄するも同然の時を費やさねばならないだろう。いったいなんのためにそんなことするんだろう。そんなことやってる人いないだろうけどさ。私は自分がそれをやっているような気になってさらに滅入ってきた。

「ガチャン」

前のイスを回転させられて、私は知らない人と突然向い合せになった。自分のイスを回転させようかと考えたが、それは物理的に無理だった。向かいのその人は、私に向かって好き勝手にしゃべりだした。ひと通りしゃべるとその人は席を立った。すると別の人が来て私の向かいに座る。一人去ってまた一人現れる。みんな一様に独白をしては、いなくなるのを繰り返した。電車は駅から発車して走り続けているというのに、次の停車駅にはなかなか到着しない。これはもう、何かが終わるまで到着しないな、と観念して私は動かず、じっとそこにいた。申し訳ないが途中うとうとして、ほとんど話を聞いていなかった人もいた。別にその態度を責められることもなかったので、私が聞いていようが、いまいが、どちらでもいいのだと思えた。

「私、急にここへ来なきゃいけない気がしたんです。席は、ここしか空いていなかったし」

と何人目かの女が言った。

「え?」

女は席からちょっとだけ立ち上がって、そーっと周りを見た。

「ね」

もちろん、この〝ね〟は、見て見て、他の席は人が座っているでしょう、ね、のねだ。車内はがらがらなのに、だ。どう見てもがらがら。私の目には。そこが問題。私今、目も心も節穴だから信用できない。私にだけ見えないのかもしれない。

「次はつぎです」

と、唐突に車内アナウンスが流れた。この手の電車ではたいていアナウンス前に短い音楽が流れるし、駅の名前は繰り返されるんだけど、そうじゃなかった。客が少ないから手を抜いているんだ、という考えを、私が乗っているからだという※で、すぐに打ち消した。アナウンスを繰り返してもらう価値さえない私。お前なんか、聞き逃して乗り越しちまえばいいんだ。そう言われているみたいな気がした。私は向かいの女に視線と意識を戻した。

「ここ、いいですか?って私きちんとお尋ねしたんですよ。そしたらあなたが、えっ?と、嫌そうな顔をしたので私、他の席がいっぱいだからって」

私そんな顔しただろうか?人にはそういうふうに映るのかな。まあ、客観性ないって言われていたしなあ。

「そんなつもりはなかったのですが、嫌な思いをさせてしまってすみません。私にはあなたのおっしゃる、いっぱいの人っていうのが誰一人見えないんです。すみません、本当になんていうか、…無能で」

「そうですか。まあ、人には得手不得手いろいろありますからくよくよしないことです。とにかく、せっかくの旅を楽しめばいいんじゃないですか?」

私は、彼女の言葉の行間ばかりが聞こえた。

「ホント、あんたは無能な女。陰気くさいったらありゃしない。誰にでもできることができない、ダメなやつ。もっと気を遣いなさいよ。あんたみたいな人どこへ行こうが無駄足になるんだよ。楽しむこともできない心の貧しい人。死ぬまで一人、苦悩して過ごすがいいわ」

私にはこんなふうに聞こえるのだ。というか言っているという自信が私にはある。それで、この人も他の人たち同様、勝手にしゃべりだすはずだ。体いっぱいに嫌な気分だ。私はこの人の顔をわざと焦点をしぼらずに見た。しゃべり出した。

「鈍い、感情が。感受性が劣っている。頭も回転しない。つまらない人。客観性もないわね。自分が思っているよりもっとひどいのよ実際。それなのに背伸びしちゃって愚かだわ。自分を分かっていないから苦しむのよ。生きていてなにが楽しいのかしら。楽しいことがあるのかしら。期待するのも図々しい。これから楽しいことなんて一つもないよ、あんた。本当になんのとりえもないぐ、どん、人。一生こんな感じで生きていくんでしょ。死ぬ勇気もないからだらだら生きながらえて、誰にも愛されることもなく朽ち滅ぶ。哀れだわ」

私はこの人が私のことを言っている気がして苦しくなった。

「息、して下さい」

「え?」

「吐いてー。吸ってー。吐いてー、吸ってー」

私はとにかく、向かいの女性の言う通りにした。

「あの…私、し、死ぬんでしょうか?」

「心配しなくても、いつかは死ねますよ」

「もう死んでるとか?」

「いいえ。そうは思いませんし、これから死にに行くというわけでもないと思いますが。ちなみに私も生きていますよ」

「そう…ですか」

何か話さなければならないわけではないが、言葉が続かず、私は窓の外を眺めた。別に死んでいてもいいかって思った。びっしりあった住居は姿を消し、辺りは気体をまき散らす工場ばかりに取って代わっていた。

「次の海峡を抜けると、すごく田舎になるわよ。もう、国が変わるくらいにガラッとね」

と言ったその人はついさっきしゃべっていた人とは別人だった。見た目は。いつの間に代わったんだろう。それとも見た目も声もさっきと違うけど中身は同じ人だろうか?私は試してみたくなって、あえてさっきの話を蒸し返してみた。

「さっきの話って、誰のことなんですか?」

「急にどうしました?みどりさん。大丈夫?」

この見知らぬ人はなぜか私の名を知っている。名札なんて付けていない。いったいなんなんだこれは。そもそも私は本当にみどりなのか?海峡を抜けているかと思って窓をちらっと見たのだが、反射して自分と向かいの御婦人を映しただけだった。

「長いですね、トンネル」

御婦人は黙って微笑んでいた。もしかしたら私には見えていない、けれども私の座っているところに座っている別の人を見ているのかもしれない。その笑みが私に向けられているようで、そうではない感じがちょっとしたのだ。海峡のトンネルを抜けると、アナウンスが流れた。

「お待たせいたしやした。本日のメインエベント。ただいまより、当列車は15分間低速運転をば致します。下車をご希望のお客様は列車最後部までお急ぎお越しください。最前列の車両からですと、最後部までは概ね5分はかかるとお見積りください。よろしいですね?ワンチャンスです。待ったなし!迷っている余裕はありません。さあ、急いで急いで」

やけにあおるアナウンスだなと思った。

「みどり、行かないのですか?」

「え?私ですか?」

「そうそう、そこのあなた、あなたたち!ぼやぼやしていると15分なんてあっという間ですよ。さあ、立って立って早く。もう一度言っちゃうよ、ワンチャン、スーです。チャンスは逃しちゃいけないんだ」

このアナウンス、しゃべっている人が芝居がかっていて気に障るのだけど、下車してみたいかも、と感じてしまっていた。私はため息交じりにこう、口に出した。

「行ってみますか」

そのときごく自然に向かいの御婦人も同伴することを決めていた。


2

御婦人が言っていた通り、海峡を越えるとすごく田舎になった。アナウンスに従い、最後部に行くと他の車両とは仕様が異なっていた。座席がない替わりにスタンディング用の背の高いテーブルがいくつかあった。だが、人の姿はなかった。

 

私たちが下車したのはこんなところで降りて大丈夫なんだろうかと思うくらいに、ただただ草っ原が広がる所で、私は、ええいままよと、その草野原に降り立ったのだ。草の砂漠のような景色が目前に展開していた。列車はしばらく小走りすれば安易に乗れるような速度で走行していた。目にした限りでは私たち以外に下車している人の姿はなかった。ここら辺に駅があるわけでもなく、ホテルのようなものがあるわけでもなく、帰りはいったいどうするんだろうかと通常なら考えるのだろうが、私には不思議と不安が押し寄せて来なかった。間違いなくこの御婦人のおかげであろう。

「どこへ行きましょう?」

正面を見て、御婦人を背中に感じながら言った。

「どこへでも行きましょう」

私にはそれが、どこへでも行けるよって言われたみたいに聞こえた。

 

自由なんだ。どう自分の進む方向を決めよう。におい?風向き?第六感?何を頼りに決める?何も頼りにしない?待つ?受け身か。私はそればっかり。自分では何も決められない。勇気を振り絞って自分から動けばうまくいかない。…なんのことだこれは。恋愛か。友人、家族、生き方、全部だ。だったらいっそのこと誰かに決めてもらってその通りに生きればいいのにそれはそれでできないんだ。ああ、へこたれる。

「みどり?」

「あ、ごめんなさい。えーと、…なんてお呼びすれば」

「私に、何か、かわいいニックネームをつけて」

「かわいい?」

「そう」

私は思わずにやにやしてすぐにそれをかみ殺した。

「それでいいです。今思い浮かんだの。なんですか?」

「マーラ。私好きなんです、マーラ。思い出しただけでも顔がゆがみます、とてもかわいくて」

「マーラは何?キャラクター?」

「動物です。げっ歯目テンジクネズミ科。ですが、感じとしては、柴犬サイズのうさぎっぽいです。うさぎより獰猛そうで、草原がとても似合いますね」

御婦人も表情を緩ませて私の話を聞いてくれていた。

「とてもいいです。マーラと呼んで」

私はたった今マーラさんになった御婦人にさっき考えていたことを話して、こう続けた。

「今からちょっと目と耳を閉じて歩きます。それでマーラさんにはあたしを飼い犬かなにかと思って、見守ってほしいんです。できれば、私がいいですよと言うまで。ただし、危険だと思ったら止めてほしいんです。例えば、穴に落ちそうだとか、猛獣が近付いているとか。こんなことお願いするのは申し訳ないのですが、お願いできますか?」

「もちろんですとも。どうぞ始めてください」

「では」

あたしは目を閉じた。耳も閉じた。そして行きたい方向はどっち?ということに意識を向けた。

 

 上。上だ。上に行きたい。自力で、生身で飛べたらなあ。って、そんなの無理じゃない。じゃあ、…左。いや、右かなあ…。やっぱり上かなあ。あーあ。久しぶりに、なかなかいい気分になっていたのに。だめだめだ。 楽しめそうな楽しみを自分でぶち壊してしまうんだ私。ああ、なんか急に力がなくなってきた。やっぱり何やってもダメなんだ。もう、すっかすか。こんなに重いのにすかすかってどういうことだ?どうでもいいや。いつもの投げやり。こんなことやーめた。

「マーラさん、聞いてもらえます?」

と言いながら振り返った。

 

マーラさんはマーラになっていた。

 

 かわいい。そう、柴犬サイズのうさぎねずみマーラ。ふざけているのだ。世界が私をおちょくっているに違いない。あんたが望むありえないことはただのありえないことで終わるけど、コッチはありえないことなんて簡単に起こせちゃうんだよーって言われてるみたい。コッチがどっちか分かりませんが、大きな漠然とした塊として存在するコッチ。そう思いながらもやっぱり私の顔は半分だけゆるんで片頬笑いになっていた。とにかく体が重くてたまらない。一日中炎天下の中、海で泳いでそのまま徹夜して、風呂につかってあがって体ふいたあとにどぶ池に突き落とされたみたいな感じだ。

 

私は小動物特有の意思の感じられない目をじっと見た。かわいいけど、噛みつかれたら指がちぎれるかも。マーラにとっては何か特別な事があったわけではないので、ごく当たり前に草をつまみ始めていた。私には早くも下心が芽生えた。自分で選んだ方向へ行くよりも、マーラが良いところへ連れて行ってくれるのではないか、と。ついて行こうと。

 

ところがマーラは勢いよく走り出し、あまりの速さにすぐに見失ってしまった。私はマーラがいなくなった草原を呆然と眺めていた。空が薄暗くなって猛烈な風が吹いた。草が急に伸び始めさやさやと音を立てていた。足の裏に圧力を感じつつただ伸びる様子を見ていた。まるで下から幕がおりているみたいだった。私は手で草をかき分けながら進んだ。何かと出くわすんじゃないかとドキドキした。だが、行けども行けども、景色は変わらず視界は草に覆われていた。私はいずれこの土地で、誰にも気が付かれることもなく干からびてしまうのかと思った。あんまり悲しむ人もいないな。親くらいかな。お姉ちゃんは内心喜ぶかもな。私には友達と呼べる人は、時々はいたけれど、結果音信が途絶える人ばかりだったなあ。その程度の友人しかいなかったということだ。自分から関係を継続しようという努力も怠り、距離を縮めるのがおそろしくもわずらわしくもあった。だから人から好かれない。誰か他人に愛されてみたかったな。できれば私も愛せる人で。いつの間にかいろいろな感覚が鈍ってしまった私。鈍ったんじゃなくて初めからそういうものだったのかもしれない。何をしたら楽しいかを想像してみても何も思いつかない。無駄な一生を経験する回なのだろうか、私のこの今の生は。草をかき分け進むと、草原が途切れ、人間が行き交う姿が目に入って来た。あの人たちどこへ向かっているのだろう。行列を作って歩いている。ちっとも楽しそうには見えないけれど、後をついて行こうかと思った。

「ダメですよ」

声の方に向くとマーラさんが首を横に振りながら仁王立ちしていた。

「マーラさん、どこへ行っていたんですか?」

「どこへも。ずっとあなたに言われた通り後ろをついて来ていましたよ」

「そんなはずは」

「あなたはどうしてもあちらの人たちの方へひかれていってしまうようですね」

「あちらの人?」

「死者ですよ」

そう言われてもう一度振り返ると、さっき歩いていた人たちは、一人残らず消えたようにいなくなっていた。私は再びマーラさんの方を見た。

「あちらへ行きたいですか?」

「行ってみたい気もします」

「それはなぜ?」

「…楽になれるのかなあ」

マーラさんにというよりは自分自身に問いかけていた。

「どうぞ続けて」

「楽しいことは疲れるんじゃないかって思うし、私なんにつけ、楽しむことが苦手なんです。人に楽しめ、とか楽しめばいいんだよ、そんな簡単なことなんでできないの?って言われるのがすごく嫌だった。だから楽しいなんて興味ないし別に楽しくなくていいって思ってきた。他人が楽しそうなのを見て一層落ち込むんです私。なんなんだろうって。楽しめない私は感覚が欠落してるんじゃないか、とか、物事や他人の批判ばっかりが思い浮かんで、嫌なやつだなとか。こんなんじゃ誰も寄り付かないから、そんな考えは持っちゃいけない。多少無理してでも明るく振る舞わなくちゃ。でも、私には無理だった。その繰り返し」

「変えたっていいんですよ、それを今」

「簡単には難しいです。今までずーっとそうだったから。第一、私には心の、体の底から楽しいって感じた体験がないんですよ。ふり、つもり、思い込みそれしかないんです。本当は楽しいってどんなだかよく分かんないです私」

楽しむという言葉自体に拒否反応が出るし、あんまり言われると憎しみまでも感じてしまう。こんなんだったら、あっちのどんよりした空気の方が性にあっているんだ、やっぱりって思う。

「もう、やめましょう」

「え?」

「自分を痛めつけるのは心地よいですか?」

「…」

「誰のため?」

「誰って」

「何のため?」

「…」

分かりません。確かに、誰のためだろう?自分を律するためとか?

「列車の中で向かいに座って話をした人たちがいたでしょう?あの人たちは全員あなたなんですよ」

「え?」

「あなた自身。ひどい言葉を浴びせていたのも自分です。頭の中のことが表出されただけ。自分で自分にいつも言っていることを他人に言われるとそれはそれで頭にくるでしょう?ひどい言葉を浴びせようが、ほめ言葉を浴びせようがどっちだっていいんです。選べるんです。つまりあなたは自分ですき好んで自分を罵っているわけです。誰も責められやしませんよ。自分の中の口汚くて性悪なやつをのさばらせておいていいんですか?いうことを聞けば聞くほど、どんどん言いますよやつらは。言っておきますが、あなたの中の他人じゃなくて、あなたの中のあなた、なんですからね」

「……」

「どうです?頭ちょっとは静かになりました?」

「…」

なんか知らないけど、熱い。むかむかする。なんだこの気持ち。これはなんだ。

「怒ってもいいんですよ」

怒る?マーラさんに対して?いや違う。自分?世の中?いや、分からない。だけどすごくむかついているのは確からしい。怒ることはいけないこと、落ち着こう。いや、別に怒ったっていいだろう。何に怒っている?自分?誰?人のせいにしてはいけない。自分?違う。そんなはずない。いやそうだ。ああ気持ちわるい。※Z体からなんかにおってくる。腐敗臭か。※ZZZうるさい。もう、勝手なこと言わないで。騒がしい頭。※そんなこと思ってない。黙れ。※ゾンビか私。うるさい頭。私を腐らすんだ。いつまでも死なない。死んでもすぐに生き返るゾンビ思考。いらない、いやだ、こういうの。誰が言ったんだ、普通とかつまんないとかさ。誰って、みんな思ってるよ私のこと。※何?うっせえんだ、ばか。普通でつまんなくて悪かったなクソ。でもさあ…。※うっせえな、ゾンビ。だーれもとくしないんだよあたしが自分いたぶって落ち込んでも。ひーあぶねーあぶねー。※超しつけー、ゾンビ、死ね。二度と生き返るな。※って殺したそばからぞーんって生き返ってるし。くそゾンビ。だめだ、おわんねえ。※ZZZZZ


3

「だんな、おもしろいところがありまっせ」

 

舌打ちして、上を見たら気球に乗った陽気なおっさんが、私に手招きしていた。あの人列車の中でふざけたアナウンスしてた人だ。ばかにしてんのか、おっさん。私は今、背中に背負った怒りの炎で気球をも飛ばせるんじゃないかと思う。

 

 浮かんでいた。背中が熱かったのできっとこれが燃料なんだ。おじさんと空中で同じ高さになると、

「ほらよ」

と何か筒状のものを投げ渡された。ONOFFのレバーが付いていてONにするとシューという音がした。おじさんはその筒状のものと背中を指さした。あたしはシューという音がなったまま背中に近づけると小型バーナーになった。

「焼いちまいなよ」

野原を?と思い下を見ると、うんこみたいに私が発生していた。

「ぞーん」

少し離れたところからも人型の生き物が歩いて来ていた。ぞーん、以外にもなにか言っているなと思いその生き物というかうんこに意識を集中させた。

「たのしむことがへたなわたしのてにかかれば、どんなたのしいことでもつまらなくなる」

と、私が何分間か前に考えたことをぶつぶつ言う固体がのたうちまわり始めていた。私は今や空中ではなく野原に足をつけその固体を見ていた。あれはなんだ?どうすべきなんだと思っていると、私が歩いて来た道々にぞーん、ぞーんと、ぞーんが発生し、口々に何かそれぞれ言いながら噛みつき合っていた。やがてそれらは互いに噛みつ噛まれつしながら統合された。

「あれが私ということ?」

『うんざりする死にたくなる』ぞーん。

「うんざりするしにたくなる」

と言ったぞーんは統合されたぞーんではなく私に向って来た。

『あいつに噛まれたらあいつになるんだ』と思い、『それでもいいかな』ぞーん。

「それでもいいかな」

は、うんざりするしにたくなると貪り食いちぎりはじめ統合したところで私はバーナーを向けた。固体は別に苦しむ様子もなくバーナーを当てる傍から無になっていった。固体はただの言葉を発する個体で人間なんかじゃない。統合したぞーんを無にして道に戻った。道々ぞーんがいたので、ぞーんが何を言っているかを聞きながらバーナーを当て、怒り、恥ずかしさ、くやしさ、がっかり感を再体験しながら歩いた。次々と過去のぞーんは姿を現した。そんな一見いらないと思える感情にも関わらず、すぐにバーナーをむけることができないものもあった。うんこではなく私でもなく、いかにもぞーんらしい顔をしたぞーんは、バーナーを当てられない限りは私の後をぶつぶつ言いながらついてくるか、噛み合い統合するかをしていた。

「わたしはいきるかちもない」

とつぶやくぞーんに私は、

「どうしてそう思うの?」

と質問を投げかけた。少し間があってああ、何か答えを考えているのだなと思っていると、

「わたしはいきるかちもない」

と答えた。

「生きる価値のない人間なんて一人もいないんだよ」

と熱を込めず反射的に言った。本当にそうだろうかという疑問がすぐにわいた。そんなの偽善的一般論で価値のない人間はそこらじゅうに溢れていて自分もその中の…とためらっていると、

「わたしはいきるかちもない」

と再び発音したぞーんは私に近付いた。そのぞーんを狙っている様子の別のぞーんが、

「くそ、そんなことだれがきめたんだ」

と参戦してきた。私は、わたしはいきるかちもない、と、くそそんなことだれがきめたんだ、のどっちが噛み勝つか見ていた。だれがきめたんだ、が、かちもないの左肩を噛むと、かちもないが振り向きざまにだれがきめたんだの頭に噛みつき、

「わたしはいきるかちも―」

と言うとだれがきめたんだが口封じに口を食った。食うって言うくらいだからさぞかし血みどろなんだろうと思うが、ぞーんはゾンビではないのでぞーんらしくただ砂文字が風で飛ばされるみたいに消えていた。くそそんなことだれがきめたんだ、が残り、こいつはまあいいかと思い残しておくとまたどこからともなくぞーんが湧いて来た。この中にお友達になれそうなやつはいないかと思った。ほら、自分だけの幻のお友達を作るみたいにさ。友達いないにもほどがある。そもそもなぜ私には友達がいない。『つまらないから』

「つまらないからいない」

『誰も私を必要としない』

「だれもわたしをひつようとしない」

『情の交換ができない。だから恋愛も、そうだ愛情にも友情にも縁がない。これは素質だ。情の素質がないんだ私は。うまくやれない。社会の歯車にさえなれない』6ぞーんくらい発生していてそれぞれが食い合うこともせず、交わることもせず、各々ぶつぶつ言っていた。あーあ、と思って空を見ると気球のおじさんが、やれやれと苦笑いした後にバーナーを機関銃に見立ててぶっ放して、顎をちょっと上げて、やれ、と指示していた。私は再び視線を落とし、ぞーんを見た。みたらしだんご。全身にみたらしだんごのたれを塗られている感覚がよみがえった。言っておくが弁当屋の仕事で染みついた臭いという意味ではない。とてもいやなかんじ。抜け出せる気がしない。前に誰かが本かなんかでそういう感覚(だんごのたれとは書いていなかったがなにか全身に見えない膜か何かが張り付いている感じとか書いていた)がきたらそれを味わうとか、ただそこにいる以外ない、さもなくば繰り返しやって来る、と聞いた。だが、それが難しいのだ。実際に指先から股ぐらまでたれが塗りたくられていてそれを自分の舌で味わい(なめて)、なめ終わったら終了とかならわかりやすくていいのにな、と思う。だが実際はそうはいかない。たとえというのは難しい。いやたとえがじゃなくて、たとえから意味を汲み取り物事の核をとらえることが、だ。

「ともだちほしい」

と言うぞーんの声に『あたしがなったげるよ』と言うと、

「おまえはけっきょくひとりになるんだ」

「ひとりはいや」

「どうかかわればいいかわからない」

と、どれも一理ある言葉が返ってきて私は気が遠くなってきた。私はいちだんごだ。米粉だ。だんごの白い部分で簡易人型の私は上の方からたれを味わう。頭を味わうと、『考えるのをやめようなるべく』という考えが浮かび、まあこの時点でなるべくもなんもないんだけど。ただ静かにたれをなくしていく。腹あたりまでくると飽きてきてしまった。私はたれ半がけのまま、気を取り戻す。目の前には、

「わたしはつまらない」

「わたしはぐどんだ」

「わたしはちゅうとはんぱだ」

「わたしはひとをあいせない」

「わたしはだれからもあいされない」

と、単体で繰り返すぞーんたちが、うろうろしていた。

「なんでさっさとやっちまわないんだよう」

と、上空からマイクを通した声が聞こえて、あの人と話してみようかと思う。

「あなた誰ですか?そこで何してるんですか」

マイクのキーンという音の後に、

「わたしの名前はラテンだ。ここで君を見守っているよ」

『うそだ。そうだな…名前はピッチーニとかで、暇つぶししているだけだな』

「とでも言ってほしいのかい?」

『あんたはピッチーニ、ただの暇な中年』

「あのさあピッチーニ」

「え?誰だって?」

「ピッチニーニ。たれを味わわないで消す方法知らない?」

「あああ、あきたの?まずそいつらの声を聞いてからな」

ぶちっ、とマイクが切れる音がした。つまらない。愚鈍。中途半端愛せない愛されない。評価、しかも悪口ばっかし。

「いいとこはないの?私にはいいとこがないっての?そんなわけないじゃない」

ぞーんたちは、その言葉に少々怯んだ、ように見えたがやはり、つまらない、ぐどん、などなどと各々が繰り返すだけだった。

「わかったよもう」

私はぞーんに向かってバーナーを機関銃をぶっ放すみたいに当てた。原っぱは静かになった。ピッチニーニが上から降りてきた。

「ちびちびなめるのがいいんだよ、たれは。冷水をかぶっちまう手もあるけどね、結局だんごを削ることになるからすすめないよ」

『急がば回れですか。けっ』あたしはひねくれ始めていたことに気がついていたが、ひねくれをもはや止められない。『あのゴミどもはどこに行ったのよ』

「言っておくけどあれらはあんただからね」

「知ってる」

と言ったものの、ほぼ、全然わかっていなかった。

「これからは見たい現実をみましょう」

というマーラさんの言葉を懐かしく思った。私の見たいものはこんなもんじゃない。自分がいかにすばらしいかだ。私はすばらしいはず。どうして、どうしても私はすばらしいと思えないか。自分だけが思えばいいだけなのにね。『でも、無理だって私は私が嫌いだから』ぞーん。

「だってわたしはわたしがきらいだから」

発生したぞーんに腕を取られてふいに胸元を噛みつかれた私はぞーんに胸のかなり奥まで食いつくされてしまった。ちょっと気持ちよかったりもした。だって私は私が嫌いだから。これしか思い浮かばなくて、私は消えていった。

「だって私は私が嫌いだから」

それで、ぞーんになった。


4

 これで終われない。ぞーんになろうが私は私を消去できない。死ななければ。じゃあ死ねよっていうのはなしでお願い申し上げたい。ぞーんに食われた私は念仏や宣伝みたいに

「だってわたしはわたしがきらいだから」

というフレーズを繰り返していた。リピートハイを経て、思考放棄して臓器と水分その他を含むただの袋になった。いち袋の私は気球の重しの袋になるべく気球のおじさんに飛びついた。まあ考えればすぐに分かるんだが、50kgそこそこ(サバをよんでいる)の重しで気球は下降するはずがない。私は考えることを放棄しようと試みているのでよく考えもせず行動するし口にする。っていうか私の名前みどりじゃないし。みどりって迷った2つのうちの使わなかった方の名前だし。で、つけた方の名前ってなんだっけか。佐藤佐藤…佐藤さん。佐藤さーん。佐藤アオミドロ。みどりってアオミドロみたいって子どものころよくからかわれたなって偽記憶ばかりがよみがえる。違うんだ、私はこんなふうにからかわれていない。すごいありきたりな名前だった気がする。みどりよりもさらに。明子とか幸子とかだったっけか。佐藤にその名前かよみたいな。いっか、佐藤で。で、私佐藤は思考にうんざりどっと疲れたので、放棄して感覚に意識を向けるということを思い出す。今の気分は?『まあまあ』『私はさあ、結局自分を好きになりたいわけ?そりゃあなりたい。好きになれる自分になりたいってとこでしょ、どうせ。でもさ、その好きになれる自分ってまあ、頑張っても無理な感じの人物設定なんだよね。妥協しろってこと?ありのままを受け入れましょう。人間はみなすばらしいんです』『佐藤以外はな!』ぞーん。

「さとういがいのにんげんはすばらしい」

だから、もう考えるのやめるんでしょ。

「お取り込み中悪いね、乗るの、引きずり落としたいのどっち?」

私は新しいぞーん、すなわち、さとういがいのにんげんはすばらしいになりながら、浮いている(空中の)気球にぶらさがっていた。気球はロケットみたいに下があつあつじゃないから、気がつかなかった。

「どっち」

「引きずりおろ」

全部言い終える前におじさんはゴンドラにひっかかっていた私の手をひっぺがして、突き落した。草原に袋は叩きつけられた。私はいち袋にもなれないことを苦々しく思った。ほめろ、誰か私をほめろー。『さとうってかわいいよとかさ』ぞーん。

「さとうってかわいいよ」

さとうってかわいいよぞーんがわたしに食いかかるのを待っていたが一向に食いつく気配はなく様子が今までのぞーんとは少し違う。

「あんたはぞーんじゃないの?」

と問いかけると少しはにかんでもじもじしながらやはりといえばやはり、

「さとうってかわいいよ」

と繰り返すだけだった。試しにふりふりしている足元を蹴ってみた。私は蹴った痛みと蹴られた痛みで、足を抱え草っぱらに転げまわった。青春のけんかで疲れ果てて寝転ぶみたいに私は仰向けになって空を見た。が、空ではなかった。管か穴のようなものが見えた。急にこわくなってきて、マーラさん、マーラさんと呼び続けた。呼んでも来ないのが常と思いながら半ばおまじないみたいに叫んだ。マーラーさーん。頭に熱が溜まって沸騰しているみたいだった。呼吸は荒いし鼓動は早いし。あーああーあたまー。きれる。穴を開けなきゃ外に出られない。たまるぜ。頭熱。あーああ。

「しっ」

とにかく落ち着こう。息をしよう。してるけど。もっと息を。またここへ来てしまったとわたしは思った。ここは生身の人間が入って来て攻撃することができない場所だ。安全だがずっとここにはいられない。本当は、全て一人のここでの出来事で、本当は?いや、起こっていることに違いはない。私は見上げていた頭を下げて草っぱらに手をついた。風が吹き、草原が広がった。何か言っているのは確かだが、内容までは聞きとれないくらいの距離に、絶滅したと思っていたぞーんらしき姿が見えた。ぞーんはふらふらと近付いてくる。

「かわいいさとういがいのにんげんはみなすばらしい」

ぞーんも混乱しているのだろうか?若干褒められている気がするのは気のせいだろうか?

「もう一回言ってみてよ」

ぞーんは奇妙な動きをしながら、かわいいさとういがいのにんげんはみなすばらしいと言い、私はまだそれでもそのセリフがどんな感情で聞けばいいものなのか分からず、繰り返した。かわいい佐藤以外。ということはかわいくない佐藤は含まれていないつまりかわいくない佐藤はすばらしいということだ。わー。やっぱりどう反応していいのか分からない。『ぞーんはみんなくそだからとっととやっちまえ』という考えがやってきて、バーナーを向けてやろうと思ったのだけどわたしは手にバーナーを持っていなかった。

「ぞーんはみんなくそだからとっととやっちまえ」

というぞーんが新たに現れてかわいいさとういがいはみなすばらしいと食い合うのかと思ったが、各々がたった一言しかないセリフを繰り返し言っているだけだった。いちいち相手になって動揺しているのがばからしくなった。私は自分と思しき声で自分の周りをうろうろするぞーんを焼くこともせず、ぶん殴りもせずただそのままのぞーんでいさせておいた。私はぞーんとすれ違い、自分のあとをついてくるのを感じていたが、なんというか勝手にすれば、いるならいるで、という気持ちで草原を歩いた。そういえば、つけなかった方じゃない方の名前なんだっけと思った。ああ、揚物と煮物くさい。私はこの自分にこびりついているにおいに耐えられなくなってきて、温泉宿でもないかと思う。列車から降りた場所からは大分離れてしまったのだろうなと思いながら、線路を探す。またあの列車が走ってやって来るかもしれないと思いながら、レールの横を歩いた。列車が突然現れて轢かれる気がしたから。あ。やっぱり死にたくないんじゃん。また奴らがっていうか私が、と思って振り返ると、

「でんしゃなんかこないにきまっている」

「こんどこそしぬ」

「いがいとすぐくるかも」

「でもいつくるかわかんない」

と言葉を変えてしぶとく私の傍にいるのだった。あああ、どっちがいいんだろ、こいつらが頭の中だけにいるのと、私の体の外でうろうろしてうるさいのと。そんなことを考えていたら、壁にぶちあたってしまった。なんで壁と思うとそこに扉があって、戻ろうかな、って振り返った。げ。もう気持ち悪いくらいにぞーんで密集していて私はその扉を開けるしかなかった。扉の先がどんな部屋だかも考えないで足を踏み入れ扉を閉めた。実際閉めたかどうかは分からない。足を踏み出していた時にはもう落下しはじめていたから。今もまだ落下し続けている。足はいつまでたっても地面につかず、速すぎてどんな景色かも見えない。これが永遠に続く、と想像した瞬間急に恐ろしくなって声を上げて足をばたつかせた。すると今度はゴムかバネかなんかで弾き飛ばされた。白昼で空を舞い、目にした紐が掴めそうだったので手を伸ばした。その紐は、ぴんと張られていたわけではなかったので、私は結局その紐を掴んだまま地面に身体を強く打ちつけた。何でこんな目に遭うんだと思いながら息ができなくて転げ回った。立ち上がろうと手をつくと誰かの靴が当たった。長いスカートをはいた、にこやかではない顔。私はやっと息が一定にできるようになって、顔をしっかりと見た。マーラさん。無表情で私を見てる、と思いながら私は、語りかけた。

「マーラさん、あの」

それを遮るように私の思考から、マーラさんより先に、マーラさんの言葉が発せられた。

「あなたと一緒にいると足を引っ張られるだけで時間のムダ。あなたみたい人本当は大っ嫌いなの。もう関わりたくないんです」

私は、あ、いなくなってしまうんだなと、うつむくといなくなってしまった。私には彼女をひきとめて本人からきちんと言葉を聞く勇気と強さはなかった。人はそういうもんだと決め付けて納得した。傷は最小限に、他人は自分を傷つけるもの、という考えが私をより縮小させているのだなと思ったけど、もう取り返しがつかなかった。列車が走って来るのが見えて私はそれにどうにか乗り込んだ。端から車内中を探し回ったけど、マーラさんの姿はなかった。陽気なアナウンスもなかったし、7割ぐらいは席が埋まっているなんの変哲もない特急列車だった。翌日いつものように電車で職場に向かった。通勤中、財布に入っている免許証で自分の名前を見た。佐藤みどりではなかった。そこに書かれた名前がしっくりこなくて、弁当屋に着いてからもタイムカードで名前を確認した。佐藤。佐藤としか書いていない。かわいくないさとういがいはみんなすばらしい。という言葉を思い出して再び混乱しそうになったが、すぐにカードを元の場所において手を洗い自分の名前を頭の中で呼んだ。さとうめぐみ。名前だけは違和感でいっぱい。私はみどりのままめぐみ界にやってきてしまったのかもしれない。みどり界ではめぐみがやはり違和感いっぱいでありながら生活はあまり変わらないもんだから適当にもんもんとしながらやりすごしているのかもしれない。ときどき行き来してるとしても、あまりにかわりばえしないので損な気がする。それはあたしがそういう人間だから。そうに決まっている。ぞーん。ああまただ。ぞーん。毎日毎日ぞーんでぎゅうぎゅう詰めになって、落っこちてもがいて飛んで息ができなくなっての繰り返し。でももう、どこにもマーラさんという人は現れない。


この本の内容は以上です。


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