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私は誰? 第三回

     三 

 

 人の考えていることが分からず、人に嫌われないように、人の動きを観察し、人の文化を学び、人の形に己を合わせ、人の中に溶け込もうとする、そんな世渡りの方法が、完全に確立された場所、それが学校でありました……。 

 幼稚園の頃はまだ、子供達自身に、社会性というものがなく、集団の形成も緩やかで、それぞれ自分の世界に浸って、バラバラに遊ぶ事も多く、人付き合いにおける礼儀や、常識、マナーだとか言ったものは、あってないようなものであり、互いの事を気にせず、自由に振る舞うのが普通でしたので、確かに、就学する以前から、多少、意地悪の的にされやすかったり、先生が怖くて逃げ回ったり、大事な場面で精神的にダウンしたり、私自身の神経質な性格による些細なトラブルはありましたけども、しかし、世間の文化や、道徳観、コミュニケーションのルールといったものについて、疑問や葛藤に苛まれることも特になく、概ね平穏に過ごしておりました……。 

 しかし、小学校に入って、集団行動や、クラスメートとの付き合い、大人に近づくための礼儀や常識を必要とされるようになることで、少しずつ、人々の価値観、考え方、習性、生態というものに触れる機会が増え、それに伴って、自ずと、自分と他人との違い、というものが、際立つようになり、何故、どうして、という疑問、困惑、煩悶に悩まされる日々が始まり、それは、学年が上がり、より、社会人としての正しい振る舞いを求められるようになることで、ますます、加速度的に増えていく一方であり、とにかく、自分でも分からないことで、注意を受ける、何の悪意もないのに、相手を怒らせる、何も変なことをしてる積もりは無いのに、皆から笑われる、そんなことばかりが続き、どうして怒っているんだろう、何がいけなかったんだろう、何でそれを言ってはいけないんだろう、何でそれをしてはいけないんだろう、何でこんな事で馬鹿にされるんだろう、と、悲嘆に暮れる毎日が続いたのです……。 

 とにかく私は、人からああだこうだと、否定的な事を言われることが多かったのですが、確かに、今振り返れば、ある種、致し方ないところもあるのかも知れません――というのも、当時、私という子供は、他の子達に比べ、変わり者、というか、そのキャラクターが、とても際立っていて、非常にインパクトがあり、個性的で、癖がかなり強い人間だったのも事実であり、例えば、見た目を取り上げてみても、元々、容姿に対する気遣い、おしゃれへの関心が一切無かった自分は、髪はいつもぼさぼさ、体型は丸々と太っていて、服装も適当、ただ着ることさえ出来れば何でも良く、着こなしという発想自体が無く、清潔感という概念も端から存在せず、ろくに風呂も入らず、汗をかいたって全然気にしない、それに加え、姿勢や歩き方、仕草や手足の動きという点においても、どこか、変、学校で教わる模範的な姿勢、綺麗な歩き方とは真逆の、崩れた、曲がった、だらしのない、不安定な動き、さらに、言葉を発してみれば、そのしゃべり方、言葉遣い、発音に関しても、やたら滑舌が悪かったり、擬音だらけで曖昧だったり、独特のワードセンスを持っていたり……その他にも、神経質な性格によって、変な癖に代わる代わる取り憑かれたり、おっちょこちょいな性格によって、些細なミスや怪我が毎日のように続いたり、空想好きな性格によって、不意に自分の世界に入り込んでは、ぼーっとしたり、独り言をしゃべったり、ニヤニヤ笑みを浮かべたり、人の話を聞いてなかったり……当時の私を一言で言えば、天然、と言いましょうか、自由人、と言いましょうか、とにかく、ぱっと見て、軽く触れ合っただけで、そこから受け取れる全てが、人から見れば、風変わりな、珍妙な、面白おかしいものに映ったでしょうし、クラスメートに取っては、馬鹿にする素材の宝庫、からかいの格好の的でしかなかったでしょうし、また、上級生や先生、親、大人達からは、礼節、行儀、態度が悪い子供として映ったことでしょう――事あるごとに、失礼だとか、やる気が無いのかとか、ふざけているのかとか、自分ではちゃんとしているつもりなのに、何故か注意を受けて、それが全く不意のことなので訳が分からず、悲しい気持ちになることが多々ありました……。 

 

 どうして人は、人のことを一々馬鹿にするのだろう、どうして人は、人のことを一々気にするのだろう――それが周りの子供達と触れ合う事で抱いた、一番強い印象でした……とにかく、彼らは、自分の事を、何でも馬鹿にしてくる、とにかく、彼らは、自分の事に、何でも口を出してくる、まるで、人を馬鹿にし、からかい、嘲笑うチャンスを、常に窺っているかのよう、餌を垂らして、竿を揺らして、獲物を惑わせ、誘い込み、引っかかるのを待っているかのよう、朝、家を出て、教室に入り、顔を合わせる度に、今日は何か、突っ込める場所はないかと、妙な目つきで見てきて、新しい服を着ていったり、髪を切ったりしてくれば、何かこう、相手の秘密をのぞき見るかのように、ニヤニヤとした顔つきで、じろじろ眺めてきては、ああだこうだと、嘲笑を浴びせられ、私がしゃべる度に、言葉尻を捉えては、捲し立てるように罵声を浴びせてきたり、何か質問をされて、それに返答しようとするれば、まだ何も言っていないのに、私が恥を掻く方向へ、立場が悪くなる方向へ無理矢理持って行って、勝手に決めつけては、皆で笑い合っていたり、やたら人のプライベートを詮索してきては、人に聞かれたくないことをでかい声で言い触らされたり、見られたくないものを覗こうとしてきたり、私の行動や動作を一々監視してきては、全く意図していないような解釈を勝手に施し、見下してきたり、責め立ててきたり、皆で遊ぶとなれば、すぐに私が標的にされたり、私が悪いことをしたかのように皆から非難を受けたり、私が何かドジを見せれば、それを周りに伝え漏らして、次の日からずっと、事あるごとに掘り返されたり……。 

 単純に馬鹿にしてくるだけではありません、人のやることを一々構って、気にして、干渉して、否定して、強制してくること、つまりは、と同じであることを求められるのもまた、私には全く理解の及ばない生態でありました――クラスのボスのような奴と、違う行動を取ったり、違うやり方をしたり、違うことを言ったり、違うものを好んだりすると、何故か、否定をしてくる、まるで私が、相手の意見、相手の価値観に逆らい、非難を浴びせたかのように、変な空気になる、同じ時間に、同じ事をし、同じ遊びをし、同じ物を買い、同じ服を着て、同じ習慣に付き従わなければ、喧嘩を売っているかのように捉えられる、まるで自分と他人が同一の存在であり、責任や成果を共有しているかのように、常に一体であることを求められる……何で一々人のやることに口を出すんだろう、何で放っておいてくれないんだろう、一体、これがそっちに何の関係があると言うんだろう、そっちがどんな損をすると言うんだろう、こっちはこっちで、そっちはそっちで、やりたいように自由にやれば良いし、自分はそっちに何の文句も言うつもりはないのに、何で一々こっちの事に干渉してきて、口を出して、否定して、強制してくるんだろう……。 

 私は細かい事や小さな事を、全く気にしない人間でしたので、人が一々、人を馬鹿にしたり、人を否定したり、人を気にしたり、人に構ったり、人に怒ったりする意味が分からず、相手にぶつかってしまった、当たってしまった、物を傷つけてしまった、変なことを口走ってしまった、非難するように聞こえてしまった、些細なミスをしてしまった、そんなどうでも良いことで、どうして一々怒り、一々喧嘩し、一々罵声を浴びる気になれるのか、その神経が全然分からなかったのです……。 

 

 どうも、子供というのは、日々、人の上に立ち、人を支配し、人を所有しようと、クラス内の権力闘争に勤しみ、それがコミュニケーションの基本的な目的、通常型となっているような気がして、私なんは、そもそも人のやることに余り関心がなく、人を気にせずどんな相手だろうが、どんなハプニングが起きようが、どうでも良いというタイプの、大らかというか、大雑把というか、例えるなら、童話か何かに出てくるような、心優しい怪物、みたいなところがあったので、周りの子供達の意地悪な生態に、付いていくことが出来なかったのです……。 

 

 しかし、こういった、子供特有の残酷さ、野蛮さ、狡さ、排外性、暴力性への悩み、葛藤、戸惑いというものは、大小の違いはあれど、温厚な変わり者であれば、大抵の人が経験し、苦しめられるものでしょうし、周りが大人になるにつれて、自然と緩和されていくものと思われます――しかし、私が、他人との触れ合い、交流、付き合いにおいて、真に理解できなかった、いや、今でも、その本質を全く理解できていないもの、それは、子供特有の習性ではなく、より普遍的、社会的な文化であり、むしろ、大人になるにつれて、要求される機会が増え、必須となっていくばかりで、その観念に対する、自分の中の葛藤、疑問、謎は、年を重ねるごとに増し、膨れ上がり、癌が進行するように、体内を蝕んでいき、自分の普段の生活の、重大な場所を占めるようになり、いつしかそれは、自分が社会と関わり、世間と交わっていく上で、最も厄介な、難儀な、巨大な障壁となっていたのです……。 

 それは一体何か……? 一言で言うなら、「礼儀」、とでも言えるかも知れません……。 


この本の内容は以上です。


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