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バセドウ病がもたらす奇想奇行   神宮清志

 

わたしが何か書くと、多くの人から指摘されるのが「記憶力のよさ」である。わたしの記憶力については以前から不思議がられてきた。「コンピューター」という渾名を貰ったことさえある。ところがその一方で「記憶力がいいというのは嘘だ」と言い切る者も居る。それは我が息子で、最も身近に居る家族が言うのだから、これもまた真実に違いない。詮索好き、几帳面、自分勝手、凝り性、といった性格があるので、物書きの時などその特性が発揮される一方、自分に興味のないことはまったくの無関心で、家族との約束などすぐにどこかへ吹っ飛んでしまうということだろうと思う。それともう一つ無視出来ない事項を付け加えておかなければならない。それはわたしの持病である「バセドウ病」である。

  この病気は正式には「甲状腺機能亢進症」と言い、この病名のほうがその実相をより伝えている。先天的にもっていたこの持病によって、どのくらい苦しんだか分からなかったが、この存在に気付いたのは中年過ぎてからだった。四四歳になったとき、発熱がしつこく続き、痩せていって、苦しくてならず、調べてみた。その結果この病気が判明した。入院すること約二ヶ月、退院後の闘病約半年で健康を取り戻した。甲状腺というのは喉のところにある胡桃に似た形状の器官である。ここから甲状腺ホルモンを出している。このホルモンの働きは交感神経と副交感神経をバランスよく統御することにある。「働け」という命令と「休め」という命令がバランスよく統御されているのは、このホルモンの働きによる。甲状腺の働きに狂いが生じて、機能が亢進するとどうなるか。「働け」という命令が「休め」という命令を抑え込んでしまう。体の機能として休まずに働き続けることになる。 

具体的には新陳代謝が異常に活発になる。体温が上昇して、いつも微熱が出ている。発汗がひどい。顔色はよく、動きが活発になる。いっぽう不眠となって、一晩ぐっすり眠ることはなくなる。疲労感が著しい。消化器官が働き過ぎて慢性下痢となる。その結果体重が落ち込む。このとき頭の回転もすこぶるよくなって、記憶力も抜群に向上する。入院する前などは、自分でも気味悪いくらいなんでも覚えられた。三〇分の落語を聴くと、そのすぐ後に全く一語も違えずに再現して喋ることが出来た。二、三日後でも可能だったので、それを録音したことがある。それをその後聴いてみると、言葉が違っていないばかりか、会話のタイミングとか言葉の強弱なども再現できている。麻雀で牌をガラガラかき回して山を作るとき、どの牌がどこに入ったか覚えることが出来た。これではほとんど負けない。 

わたしの叔父は麻雀八段で、その稼ぎだけで旅行ができたという。彼は知らない町に行って、歩いて来た道筋にあった店の順序から屋号まですべて覚えていた。彼もまたこの病気をもっていたのだろう。この病気が進んで末期的になると、脈拍が極端に速くなり、心臓が割れ鐘のように打ち続ける。そしてばたりと心臓が止まって万事休すとなる。わたしの父も同じ病をもっていて、四七歳にして心不全で亡くなった。ヨーロッパ語のほとんどすべてをマスターしていた、あの記憶力からしても間違いないと思う。同時にとんでもない変奇人だった。 

この病気の特徴は目が飛び出す、喉が腫れるという症状が現われるところにある。ところがわたしのようにこの症状が表面に全く現われない場合も稀にあるのだ。わが一族では誰もその症状が表面に出た人が居ないので、この病気を発見できずに中年過ぎに命を落とした。わたしの場合でも、かかりつけの医者は「風邪だろう」といった。わたしはそんなはずはないといろいろ調べて、甲状腺機能亢進症に間違いないと確信した。そこで病院に行ってそのことを告げると、「たぶんそうではない」といいながら検査だけはしてくれた。検査結果が出たとき即入院となった。まさに危機一髪の瀬戸際だった。

 

甲状腺機能亢進症の逆で、「甲状腺機能低下症」という病気がある。別名「橋本病」がそれである。いつもドロンとして動きが鈍く、頭の働きが悪く(時に知的障害)、眠くて仕方ないといったことになる。甲状腺の専門医に言わせると、認知症患者は甲状腺機能が低下していることは客観的事実だとある。ということは認知症の患者が、この方面から治療を受ければ治る可能性があるということになる。甲状腺の専門医が少ないので、現実には難しいだろう。 

甲状腺機能亢進症は、総体的に命を縮める。脈拍が一分間に一〇〇以上もあって、それだけ体全体の器官を消耗しているからである。しかし生き長らえて六〇歳を過ぎると逆に有利だといえる。それは認知症にかかる要素が少ないからだ。それともう一つあって、癌にかかる確率が一〇〇〇人に一人というデータがある。よってわたしは癌と認知症にはかからないと確信している。そのことを信じて疑わないように意識的にしている。以上をもってわたしの記憶力のよさを示す理由のひとつは説明できたと思う。 

なんだかうらやましいと思われそうだが、ちょっと待って欲しい。うらやむには及ばないのだ。現代医学の進歩によって、特効薬が開発されており、治療は確実になった。しかしこの薬には諸々の副作用があり、その為の多種の薬を飲まなければならない。一切の刺激物を摂ってはならないので、普通のお茶でさえ飲めない。予後でもホルモンのバランスが崩れてそのほうの調整もある。甲状腺値が一定水準まで落ち着いてくれば全快となるが、甲状腺の値は何かにつけて上がりたがる。普通人より常に高い傾向にある。この傾向はすでに青春のころに現われており、いろいろと厄介な問題を引き起こしていた。発汗作用がひどく、そのため風邪を引きやすく、年に一〇回くらい風邪を引いていた。手足がいつも汗ばんでいて、冷たい。冷え性のしつこい状態である。いつも手先が湿っていて紙をめくるとき湿らせる必要はなく、後に会計担当になったときなど、指先に何もつけずに一〇〇〇万円でも数えることが出来た。 

いつも追いつめられたように動き回らずにはいられず、不眠と疲労感にさいなまれ、不安が募る。四六時中射精衝動に責められ、頭の中の想像だけで射精することが可能なほどだった。四四歳でこの病が発見され、全快して社会復帰したとき、ほんとうに人心地ついたという実感をもった。落ち着いて辺りを見回す余裕がもてた。生きているというのはこういうことだったのかと気付いた。それまでそうした感覚を味わったことが一度もなかったのである。いかに苦しい生活をしてきたことかと思ったものである。 

甲状腺機能亢進症がもたらす災いで、さらに重要なものがある。南山堂発行『医学大辞典』に、「バセドウ病」に続いて「バセドウ病精神異常」という項目があり、次のように書かれている。 

「甲状腺機能亢進症による精神症状をいう。不安、いらいら感があり、刺激に敏感で多弁、多動を示す。気分は高揚し抑制を欠き、躁状態に至る。易疲労的で注意は集中せず、思考はまとまりを欠く。妄想も生じうる。精神症状は軽いものを含めればバセドウ病のときほとんど必発である。」 

これを読んだときショックを受けた。今まであった心の病はこの病気と深い関係があったと分かったからだ。この本は一般人には眼に触れることがない。医師とか心理学者などの持つ書である。専門家しか見ることの出来ない医学辞典を見る機会に恵まれて、さっそく開いてみたのが「バセドウ病」の項目だった。十代後半から今に至るまでずっと続いた心の闇、この難問の原因がこの病気にあったと知ったのである。この驚きは大きかったが、同時に光明が見えてきたことも事実である。この辞典にあることはすべて当てはまることばかり、しかもこの病気をもった者には「必発」と記されていたことに強い衝撃を受けた。 

いつも頭の中を駆け巡っている「奇想」と、しばしば人を驚かし迷惑をかけてきた「奇行」は、「甲状腺機能亢進症」によるところが大きかった。このことが分かって、いろいろと思い当たることがあり過ぎて、急転直下長年の疑問が解決してゆくように思えた。よくぞ長生きしてこんな境地に達することが出来たと思うと、感慨無量なものがあった。幸運といってはまだ足りない、何か運命的なものさえ感じた。 (了)


昭和は遠くなりにけり?(3)  高島りみこ

 

私が多摩美術大学に入学したのは一九七八年で、一九六〇年後半から一九七〇年初めに起きた大学闘争の影響で、元々は世田谷区にあった本校舎は八王子の山の上に移っていた。八王子駅前からスクールバスが出ていて、二十分位かかっただろうか。今ではすっかり変わってしまったと思うが、当時は大学の敷地内で筍が採れたり、周りの山には羊が放牧されていたりなどして、誠にのどかな田舎そのものだった。

 親のスネかじりで西荻窪の一軒家の一室を間借りして通っていた。今の大学生の多くが貸与型奨学金に頼らざるを得ない状況下にあり、勉学に支障が出るほどに日夜、生活のためにアルバイトに精を出さなければならない状況を思うと誠に申し訳ない気持ちになる。大学時代の私はもっぱら自分のお小遣いのためにアルバイトをしていたのだし、こんな生きにくい日本にしてしまった責任の一端は私の世代にもあるのだから。 

若い女性が手っ取り早くお金を稼ぐとしたら、今も昔も水商売なのかもしれない。私も大学一学年を終え、長い春休みに入ってから一ヵ月半ほど、歌舞伎町のパブでアルバイトをして、その頃にしてはかなりいいバイト料を手にした。そのパブは「女子大生がいる店」を売り物にしていて、私の他にも三〜四人の女子大生が働いていた。「女」をウリにするのは好きではないが、まあ単にお金に目が眩んだのだった。安っぽいロングドレスを着せられ、化粧をして胸元には源氏名と共に「○○大学」と書かれた名札を付けさせられた。客の隣りに座ったりすることはなく、テーブルの横に跪いて客がキープしたウィスキーのボトルから水割りを作るのがもっぱらの仕事だった。ウィスキーの水割りというのがいかにも「昭和」である。平成(今はもう令和になったが)にはウィスキーの水割りはほとんど淘汰されてしまい、水割りといえば焼酎だし、ウィスキーは炭酸で割ってハイボールで呑むというのが一般的になった。パブに勤め始めてすぐの頃は学生のノリで、客のグラスに目いっぱいウィスキーを注いで、「水割りの作り方も知らんのか! 店長を呼んでこい!」とお叱りを受けたりしたものだった。カラオケを入れている店も多くなっていったが、そのパブでは珍しくグランドピアノが置いてあって、専属のピアニストが歌謡曲を弾き語りで歌ったり、客が店の女の子を指名してデュエット曲を歌ったりしていた。私も何度か指名を受けたが、いかせん歌はうまくなかったし、流行歌にも疎かったので次第に指名を受けることはなくなった。客商売にも向いていなかったのだろう。春休みが終わると同時にパブ勤めは辞めた。 

私にとってウィスキーの水割りと共に昭和的なものといえば「ディスコ」だ。私より年長の方にとっては「ディスコ」よりも「ダンスホール」の呼称の方が「昭和」な存在なのかもしれないが……。今では「ディスコ」という呼称もバブル崩壊と共にすっかり淘汰されて、ちまたでは「クラブ」と呼ばれるようになっている。ディスコでかけられていた曲は、ソウルミュージックというジャンルのダンスミュージックが主流だったが、そのソウルミュージックも、もはや懐かしのメロディーと化している。 

ディスコも私には合わなかったのだろう。学友たちと何回かディスコに通い、へたくそな自己流ダンスなどを繰り広げていたが、すぐに飽きてしまい通うこともなくなった。替わりにやってきたのが「パンクロック」だ。イギリスのパンクバンド「セックスピストルズ」の登場は衝撃的だった。通う先もディスコからライブハウスに替わった。パブ勤めの頃のロングヘアを酔っ払った勢いで、美容師でもない友人にバッサリ散切りにしてもらい、スタイリング剤でツンツンに尖らせて、ハイヒールを脱ぎ捨て、厳ついエンジニアブーツを履き、破れた革ジャンを纏った。ついでに化粧も止めてしまった。

二十歳を迎え、父は成人式には私の振り袖姿を見たかったようだ。しかし、そこはそれ。何といっても私は散切り頭である。そんな娘が振り袖に憧れるわけもなく、父の願いは呆気なく砕かれた。そしてわがまま娘は「ヨーロッパに行ってみたい」と宣ったのである。数日後、父は満面の笑みを浮かべて私に一冊のパンフレットを差しだした。そこには「印刷組合 ドルッパ見学の旅」と書かれていた。ドルッパとは国際印刷・メディア印刷展の正式名称で、四年に一度、ドイツのデュッセルドルフで今でも開催されている。そう、父は娘とのふたり旅の機会を得て、振り袖姿を見られなかった虚しさを払拭したのである。すでに二年前の一九七八年に成田空港が開港していた。成田空港を建設するにあたり起こった、三里塚闘争も忘れてはならないだろう。新左翼が関わったことが問題を複雑化した面はあると思うが、住民の意思をまったく無視し、強硬に土地を収奪していった国の姿勢は、現在の沖縄辺野古の強硬土砂投入に通じている。当初、成田空港は世界の一大拠点のハブ空港になると詠われていたが、すっかり韓国の仁川空港にその地位を奪われ、いつの間にか成田の代わりに、利便性に優れた羽田を重要な国際空港として位置づけていく方向に変わっている。遠くて不便な成田空港は本当に必要だったのだろうか? 

さて私たちは、そのいわくつきの成田空港からヨーロッパへと旅だったわけだが、その頃はまだ直行便は開通しておらず、いわゆる「南回り」でヨーロッパに向かったのである。航空会社はスイス航空だった。 

成田を飛び立って最初の中継地は香港だった。その頃はまだイギリス領で、夏の夜だったこともあり、上空からの夜景の美しさと降り立った時の蒸し暑さを憶えている。飛行機から一端降りて空港内の免税店で買い物ができたと思うが、宝石やブランド物に全く興味のなかった私は何も買わずに飛行機に戻った。 

次の中継地はパキスタンのカラチだった。当時のパキスタンは軍事政権下にあり、一九七九年にソビエト連邦(現ロシア)が隣国のアフガニスタンに侵攻したこともあって、武装したパキスタンの兵士が私たちの乗った飛行機の周りを囲んでいたのが印象的だった。飛行機から降りることはできず、給油を終えると物々しいカラチを後にして、スイスのチューリッヒ空港に到着。そこで飛行機を乗り換え、やっとドイツのフランクフルトに辿り着いたのである。そうそう、当時はまだドイツは統一されておらず「西ドイツ」と呼ばれていたのだった。(続く)


パンケとペンケ    宿谷志郎

 

 

   パンケとペンケ(一)

 

夕べ、夢の中にえらいヒゲおやじが現れた。
パピプペ言葉で何やら語っている。
都合のいいことに、ちゃんと日本語のナレーションが重なり、彼の言っていることはよくわかる。

何でも、3つの滝のある場所で今年「我らが里の守り神の男女が産まれる」と言う。

「えっ、令和元年ですか?」と聞くと「いや、今から200年ほど前じゃよ」と笑う。

まあ夢だからと、何となく納得して眼をさました。

 

 

   パンケとペンケ(二)

 

昨夜のヒゲおやじは、目覚める寸前に夢枕に立った。
あれっ、またお越しになりました?・・・昨夜の3つの滝というのは「三階滝」のことですか?
あれは本来「三戒滝」といい、我らが民族に戒めを教えつづけているのだ。

空を飛ぶあの鳥を見なさい。彼らは種を蒔くことも、作物を刈ることも、自分のために蓄えることもしない。「蒔かず、刈らず、蓄えず」それが三戒じゃ。

あれっ、それは西洋の・・・と言うと「どこでも真理はひとつじゃ」と言って消えて行った。

同時に目覚めた。うーーーん、確かになあ。あのヒゲおやじは誰なんだろう。

 

 

 


アラン『大戦の思い出』(二十五) 高村昌憲 訳

 

第二十一章

  

 私に関する通達が総司令部から到着しました。私が軍の気象任務へ配属されるのは、行わざるを得なかった要求として求められていたとのことでした。でも、この要求は無駄でした。他のことをやるしかなかったのです。しかし、その点について私は決して譲歩しませんでした。私は大尉に言いました、「私の任務は簡単です。足の怪我は少しずつ治っています。私はここでは必要であり、私だけはもっと必要になるだろうとあなたは私に言っていますよね。私は望んだことだけで満足していますし、私たちは一緒に残るでしょう」。しかし大尉は管理する術を知っていました。彼は言います、「あなたはこの要求のことに関しては最新の休暇までを話さなければなりません。司令部が口を出すのですから、確かに向こう側でのあなたには興味があるのです。それなのにあなたは司令部が何であるか知らないのです」。私たちは自分の仕事とその話に戻りました。雪は積もった儘でした。戦いは、うとうとして進展せずにまどろんでいました。私は准尉と同じ様にこの生活に適応していました。人間関係の秩序、軍隊の流儀、暗号、そして最後には軍隊の事務仕事の部分を全て知りました。私は絵葉書の上等なコレクションを持っていましたし、私の肖像写真は殆ど眼鏡を掛けて写っていました。従って大尉が良く用意した任務の通達が届きました。「C上等兵(1)は直ちにデュニー(セーヌ県)へ向かうこと。この命令の実行に関しては報告すること」。大尉は言いました、「命令は以上です。あなたが出発したならば、私が報告します。今から三日間で、あなたは後任者を養成する様にお願いします。その後で一頭立て二輪馬車でニクゼウィルまで行って下さい。到着は急がなくて良いです。一週間で行って下さい」。この三日間は大変に快適でした。それから私は名残惜しい思いをしなければなりませんでした。しかし、例え何かが考えられるとしても、嬉しい思いで戦場から離れます。それは馬たちが補給のために戻って来た時に見られるものと同じです。でも、動物たちは別ですし、歩き方も聞く音も別ものです。結局のところ私は、雪の中を朝早く出発しました。そしてジャンナンは、あの何時もの言い方で私の荷物を持ちながら言いました、「あなたの居場所はここではなかったのだ」。何故五十歳の男は参戦しないのか、私は良く知りたいと思います。トゥールの国士防衛兵たちの中には、彼らの世代とは別の六十歳以上の人も多くいる様ですし、あらゆる種類の疲労に耐えていました。任務を少し和らげることは容易ですし、激しい死の危険が生じるのも別であると私はつけ加えて言います。多分、高齢者たちは嫌われているのです。取分け教養ある人はどんな人でも将校にならなければならないという一種の原則は嫌われます。ところが、教養ある人が将校になることを拒絶するとなると、その反対であると私は思います。それを強制出来る法は何もありません。何故なら特別試験を何時でも拒絶することが出来るからです。公正で人間的な上官でいたい気持ちは、学識ある人には自然なものです。しかし権力は、権力を行使する人を非常に変えることを知らなければなりません。それは少なくとも社会的な伝播に繋がりません。その理由は命令の必然性にあり不屈のものであるからです。一代議士が大臣になることには用心しなければならないことであり、一労働者が使用者会議への代表者とか労働組合の代表者になることにも用心しなければならないことであるのは、同じ理由のためです。拒絶のための制度を導く処が要求されます。それは恐るべき制度を第一に否定することです。そして聖人たちは司教や小修道院の院長や神父になることを拒否することによって、昔の不平等に大いに反対したのだと私は思います。神であってもそうでなくとも、救いであってもそうでなくとも、聖人たちは権力者たちの罠を見分けました。彼らは勲章を持っている高位聖職者たちに無言の非難を浴びせていました。宗教は社会の中の人間たちを、永遠の場所に生き生きとしたイマージュとして翻訳するだけでしたし、全ては哀れな人々が直ぐに自分たちの友人や忠告者たちを失う様に決められているのです。今日では給費生たちが出身地の人々を速やかに捨てます。この裏切りは偉大な言葉に染まります。国を愛することとは、常に統治する世論に従って栄光と富裕と権力を愛することになっているのです。この美徳は少しばかり容易すぎます。長としての仕事を選択することは満足感のための一つの選択なのです。そして全ての危険は等しく、将校は一兵卒よりも幸いです。更に将校には権力があり、酔わせる物もあります。その上、危険は天候だけです。私は、野心を忠誠心に変装させている者たち全てを敢えて笑います。「しかしもう一度、私たちは何処へ行くのでしょうか。あなたが行う理性的な働きは、高潔な精神に基づいて行動するのが本来のものです。何ですって。私たちは最早冷淡な野心家たちしか大臣と見做さないでしょうが、私たちの将校たちは無知で粗野でしょうか」と理性的な人は尋ねます。そのことにあなたはあなた自身で知る以上には政治の未来を最早知らないのであると私は答えます。私が良く知っていることはあなたが私に話す、頭を下にした状態は可能でなく、権力の制度はその時に激しく変わるということです。私が、表された世論と言っている世論は阿ることに抵抗します。これらの効果はゆっくりとしていて眼に見えず巨大なものです。そして、これはローマ教皇や司教たちの古い権力になるのでしょうが、非常に早く腐敗し、その度に実際に一種の絶対に過たないものに基盤が置かれます。もしもあらゆるギリシア語学者たちがブラック(2)の様に考えたなら、そしてあらゆる物理学者たちがアインシュタインとかランジュヴァンの様であったなら、考えた以上に偉大な革命家になるでしょう。そして多くの人々に沿った自分自身の正しい誓いに変わりありません。しかし優れた精神がありふれた考えの政治家たちに賛成するなら、どんな革命も意味が無くなるでしょう。(完)

 

(1)アランの本名は、Émile-Auguste CHARTIER(エミール=オーギュスト・シャルティエ)である。

2)ウィルヘルム・ブラック(一八四二~八〇)は、ドイツの政治家で社会民主主義労働者党の創立者の一人である。

 


執筆者のプロフィール(五十音順)

 

出雲筑三(いずもつくぞう)

一九四四年六月、東京都世田谷区下北沢生まれ。千葉工業大学工業化学科卒。混迷と淘汰のたえない電子部品の金めっき加工を手掛けた四十五年を無遅刻無欠勤で通過した。芝中時代は実用自転車1000mタイムトライアルで東京都中学新記録で優勝、インターハイでは自転車ロードレースでチーム準優勝、立川競輪場での個人2000m速度競争において総理大臣杯で三位となった。趣味として歴史と城物語をこよなく信奉し、日本百名城に挑戦中である。仕事面では日本で最初の水質第種公害防止管理者免許を取得、そのご東京都一級公害防止管理者、職業訓練指導員免許など金属表面処理技術者として現役で勤務している。三行詩集『走れ満月』(二〇一一年三月)・『波涛を越えて』(二〇一二年九月)・『五島海流』(二〇一七年五月)を出版。埼玉県所沢市在住四〇年になる。日本詩人クラブ・時調の会・世界詩人会議各会員。

 

北岡善寿(きたおかぜんじゅ)

一九二六年三月十日生まれ、鳥取県出身。文化果つる所と言われたばかりか、県下の馬鹿の三大産地の一つという評判のあった農村に生まれ育ち、一九四三年に出来の悪い生徒が集まる地元の中学を出て上京したが、一九四五年三月現役兵として鳥取連隊に入隊。半年後敗戦で復員し再上京。酒ばかり飲んでいる無能なジレッタントにすぎなかった。大学のころは今は故人の北一平や東大生の本郷喬らと同人誌「彷徨」で一緒。一九七四年文芸同人誌「時間と空間」創立同人。二五号から六四号(終刊)まで編集担当。一九九四年「風狂の会」会員となり現在に至る。詩集『土俗詩集』(一九七八年)、『高麗』(一九八六年)、『』(一九九一年)、『痴人の寓話』(一九九四年)を出し、詩集以外のものとして随筆集『つれづれの記』(二〇〇三年)、『続・つれづれの記』(二〇〇九年)、『一読者の戯言』(二〇一四年)を出版。日本詩人クラブ永年会員。日本ペンクラブ会員。風狂の会主宰者。

 

高 裕香(こうゆうか)

一九五八年二月二一日生まれ、大阪市出身。幼い頃から、日曜日になると父親に大阪城公園に連れていってもらい公園中を駆けめぐる。菜の花畑やレンゲ畑で ちょうちょうやトンボを追いかけたり、おたまじゃくし、ザリガニを取って遊んでいた自然児。なんとなく父からルソー教育を受けていた。五歳からピアノを習う。大阪基督教学院の児童教育学科を卒業後小学校教員になる。現在、東京韓国学校で日本語の講師を務めている。日本語教育学会会員。ヤマハピアノPSTA指導者。「心のアルバム」・「虹の架け橋」・「赤い月」・「日韓文化交流合同詩集」などのアンソロジー詩集に参加。二〇〇七年度「民団文化賞」優秀賞受賞。二〇〇九年、二〇一一年度「民団文化賞」佳作賞受賞。日本詩人クラブ・時調の会・世界詩人会議各会員。

 

さとうのりお

1950年、新潟県生まれ。

1974年、セツモードセミナー卒。

日本詩人クラブ会員

「山脈」同人

 

宿谷志郎(しゅくやしろう)

一九四七年東京都青梅市に生まれる。一九七〇年群馬県高崎市に転居。名曲喫茶「あすなろ」(催華国氏経営)を経てデザイン事務所に勤務。群馬交響楽団のPRを担当し演奏会のポスターなどをデザインする。一九七七年広告代理店を設立し医薬品、検査機器の広告をはじめ編集、イベントなどを手がける。トヨタ財団助成の「シビックトラストフォーラム」に参加。まちづくりのための資金づくりについて学ぶ。自治体学会創設に市民の立場で参加。一九八七年東京・青山に編集プロダクションを設立し主に書籍の制作。高村昌憲氏の「パープル」に関わり、一九九九年「風狂の会」に参加。大分県経済誌「アド経」に一年間エッセイを連載。明星大学教授・清宮義博氏の『花々の花粉の形態』などを出版。二〇一二年廃業。一年半の休養後、革工芸(革絵)を始める。二〇一七年より北海道に半年の移住を繰り返し専念。趣味はフルート。よく聴く音楽はバッハ、モーツアルトの作品。

  

神宮清志(じんぐうきよし)

 一九三七年一月九日、盧溝橋事件のあった年、徳富蘆花の住処の近く(東京府千歳村)で生まれ、幼年時代をそこで過ごした。二歳で父に死に別れ、敗戦前後の混乱の中、引っ越すこと十回あまり、小学校時代から働き、冬でも素足で過ごすという貧困の中で育った。大学卒業後サラリーマンとなって暮らしは安定し、三十歳代半ばに能面師に弟子入り、以後三人の師匠についた。個展四回、団体展出品多数、最近では創作面も作り、イエス、ジャンヌ・ダルク等も作成した。能面制作はほぼ毎日ながら、最近は視力・体力の衰えもあり午前中のみ、午後は筋肉トレーニングとボールルームダンスに打ち込んでいる。いっぽう随筆同人誌「蕗」に四十年ほど在籍して、二百二十編の随筆を発表してきた。手作業をしていると、思いと考えが限りなく浮かんできて、書かずにいられない。いわば物狂おしいため息のようなものか。

 

高島りみこ(たかしまりみこ)

一九六〇年高知県生まれ、東京都中野区在住。

日本詩人クラブ、日本現代詩人会会員

詩誌「山脈」「花」同人

詩集『海を飼う』(二〇一八年 待望社 第32回福田正夫賞)

装幀家(高島鯉水子)

究極の趣味はキックボクシング(アマチュア)!最近は試合に出ていないが…

 

高村昌憲(たかむらまさのり)

一九五〇年三月、静岡県浜松市生まれ。明治大学文学部(仏文専攻)卒業。詩集『螺旋』(一九七七年)、『六つの文字』(二〇〇四年)、『七〇年代の雨』(二〇一〇年)。評論集『現代詩再考』(A&E・二〇〇四年)。翻訳『アランの「エチュード」』(創新社・一九八四年)、アラン『初期プロポ集』(土曜美術社出版販売・二〇〇五年)、ジャン・ヴィアル『教育の歴史』(文庫クセジュ971・白水社・二〇〇七年)。共同編纂『齋藤怘詩全集』(土曜美術社出版販売・二〇〇七年)。一九九八年「現代詩と社会性─アラン再考─」が詩人会議新人賞(評論部門)。二〇一二年からパブーの電子書籍に、随想集『アランと共に』(全3巻)及びアラン作品の翻訳『一ノルマンディー人のプロポ』(全5巻)『神々』『わが思索のあと』『思想と年齢』『ガブリエル詩集』『精神と情熱とに関する八十一章』などを登録。日本詩人クラブ会員・日本仏学史学会理事

 

富永たか子(とみながたかこ)

一九三四年 福岡県柳川市生

日本ペンクラブ・日本現代詩人会・横浜詩人会各会員

「回游」「めびうすの輪」「相模原詩人クラブ」に所属

既刊詩集①『シルクハットをかぶった河童』(第二四回横浜詩人会賞受賞)

    ② 『月が歩く』

詩人北原白秋と同郷。幼児教育に携わり、詩に親しんできた。相模原詩人クラブ主宰。三十五年間詩誌「ひばり野」を年一回発刊し現在に到る。「風狂の会」にて多くを学び席をおく。

 

長尾雅樹(ながおまさき)

一九四五年生まれ 岩手県出身

詩と思想研究会所属

既刊詩集

『悲傷』『山河慟哭』『長尾雅之詩集』

日本詩人クラブ理事長

 

なべくらますみ

一九三九年 東京世田谷生 日本大学文理学部国文学科卒業 

日本現代詩人会・日本詩人クラブ・時調の会各会員

欅自由詩の会同人

詩集『同じ空』『城の川』『色分け』『人よ 人』『川沿いの道』『なべくらますみ詩集』『大きなつゞら』

エッセー集『コリア スケッチラリー』(共著)

訳詩集『花たちは星を仰ぎながら生きる』(韓国・呉世榮)他

 

詩夏至(はらしげし)

詩人・歌人・俳人・小説家。一九六四年生まれ。東京都中野区在住。著書に詩集『波平』『現代の風刺二五人詩集』(共著)、句集『マルガリータ』『火の蛇』(第十回日本詩歌句随筆評論大賞俳句部門努力賞)、歌集『レトロポリス』(第十回日本詩歌句随筆評論大賞短歌部門大賞)『ワルキューレ』等。小説集『永遠の時間、地上の時間』。

日本詩人クラブ・日本詩歌句協会各理事。

日本現代詩人会・日本短歌協会・現代俳句協会各会員。

 

三浦逸雄(みうらいつお) 

一九四五年四月二日 札幌郡琴似町で生まれる。

一九六七年上京し 高円寺フォルム美術研究所、新宿美術研究所に通う。

一九七〇年スペインに渡り、マドリードの美術サークルCircro de bellas artesで人体デッサンをかさねる。帰国前の一年は、ベラスケス、グレコ、ゴヤ、ムリーリョを見るために、プラド美術館へ足繁く通う。一九八三年に帰国。

一九七五年以降、現代画廊(東京・銀座)、東邦画廊(東京・京橋)他で作品を発表する。

 

(以上)

 



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