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図書館は奇跡の始まり

  竹内ユタカは、ざわざわする胸の奥の揺らぎに気づいたが、それがなんであるか判らなかった。ただ10代の頃の燃え上がるような胸の痛みに、酷似しているかもしれないと思った。

  すると、全く予想外なことに、竹内ユタカは中学の時、古ぼけた校舎の教室で、隣に座っていた千恵子という女子を思い出した。初恋だった綾子や、両思いだったひさなどに感じていた胸の痛みとは異質の痛みだったが、今日の痛みは千恵子に感じていたものと同じ波動のようである。

 

 今日は日曜で快晴である。シティコーポ海神というアパートを出ると、西船橋駅の近くにある図書館を竹内ユタカは目指した。

   2016年の秋にオープンしたばかりだから、最新の設備ということで、竹内ユタカもすぐに利用し始めた。3階建てで、基本は床などが木材の特性を生かした作りとなっていて、清潔感があり、居心地が良い。バリアフリーの建物で設備も充実しているし、会社帰りでも寄れるので非常に便利である。

   ただ、階段などが木製の床で、3階まで吹き抜けになっているせいか、学生たちが階段を上って来る足音が、やけに大きな音になるのが欠点だとユタカは思っていた。

   図書館の入り口に近づくと、顔見知りの警備員が挨拶して来る。かなり高齢の男性だが、駐輪場の自転車の整理や各部屋の巡回などで、不審な人間に対しては抑止力になっているようだ。

   最初の自動ドアが開くと、ユタカの胸は早鐘のように鼓動し始めた。今日はあのことを必ず実行しなければという決意が、大きな緊迫感を引き起こしていた。

   二つ目の自動ドアのモーター音が唸っているように聞こえる。30歳の一大決心といえば聞こえがいいが、ユタカは明らかに勇気というエネルギーのようなものが、蜃気楼であるような気がしてきた。

   何度もシュミレーションして来たのになんという有り様であろう。ユタカは踵を返してアパートに帰り、ゆっくりランチをしたくなった。

   わざわざ波風を起こすこともないし、生活を変えるなんて馬鹿馬鹿しい。

   と思いつつも、何故か背中に温かいものが触れるような気がした。その何かがやんわりとユタカを前に足を進めさせる。

   エレベーターの前に来ると、丁度上からカゴが降りてきた。ドアがユタカを待っていたかのように開く。ユタカは踵を返すどころか、目に見えない力でどんどん背中を押され、前から引っ張られようである。

   そう、目を閉じていても自動で動いているような気がする。しかし、胸の鼓動はフルスロットルだ。

   エレベーターの扉のガラス窓から2階のフロアが見える。1階から2階までかかった時間は何分だろうか?2階から3階までの時間は何時間?意味不明なことをユタカは考えていた。3階にゆったりとカゴが到着し、ドアが開くと、ユタカは一種の狂人のように顔が青ざめていたかもしれない。

 ユタカの獣のような鋭い輝きを放つ視線は、レファレンスデスクに座っていた長い髪の女性に向けられた。その女性はパソコンの画面を見ているが、穏やか打ち寄せる波や海原の彼方を見つめているような憂いに満ちた少女のようにも見える。ユタカの感情はすでに脳内ホルモンの仕業で、その美しい佇まいの女性を美化するだけ美化していたようである。

 しかし、この図書館の女性の司書の中では、ユタカにとっては、異質なくらいに飛び抜けた美しさを持っているように見えていたのである。

 ユタカは震える手でブレザーの内ポケットに手を差し入れると、小さなカードのようなものを出してきた。そのカードはユタカの手の中でしばらく留まっていたが、突然と言っていいほどの速さで、パソコンを覗いていた長い髪の女性の前に差し出された。静かに流れていたレファレンスデスクの空気は、 ユタカの持つ緊張しきった心の波動のようなもので、息苦しいほど張り詰めた。

 しかし、その女性は一度目を見開いて動揺したようだったが、ユタカの大きな瞳を見て安心したのか、元の落ち着いた表情になった。

「それは何でしょうか?」

 図書館に何回か来ている男性だと認識したのであろう。

 

 最初にユタカがこの女性を見出した時の驚きは、筆舌に尽くせなかった。彼女の座っている空間が、まるで七宝の金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰の輝きを放っているように見えたからである。

 それからは図書館に来て、3階のエレベーターが開き、彼女が座っているのが見えると、激しいくらいに落ち着きを失った。レファレンスデスクのパソコンでインターネットの席を予約しながらも、彼女の容姿を食い入るように見つめているユタカは、一種の変質者のようであった。

 彼女の横顔は、ギリシアの彫刻のように神聖で完成された曲線を成していた。なだらかに額から整った鼻、そして顎までの曲線は優雅な丸みを持っていた。ユタカは、その美しさに心を奪われ、熱狂的な信者のように尊敬の眼差しを燃やした。大きな瞳と、赤い新鮮味を帯びた唇は、ユタカの脳内ホルモンをじわりじわりと噴出させるようだ。

 身に纏ったファッションも、鋭いほどに洗練されている。ユタカはその服装の上から下まで、瞬時に観察し尽くした。

 履いているシューズまで何の落ち度もない。そして細い足首が均整のとれた下半身を象徴していた。

 このようにして予約画面を見つめているようで、その女性を穴があくほど見ている事が何度か続くと、何回目かには当の本人も気付き始めた。

 その頃からユタカが図書館に訪れると、彼女は軽く会釈をすることもあった。それは、彼女がユタカに対して抱く好意というより、職業的な挨拶のようにも見えたが、それだけでも無いようであった。ユタカの燃え上がり始めた思いの波動を、敏感にキャッチしていたのかもしれない。

 

 その髪の長い大きな瞳の女性は、目を皿のようにしてカードに書かれた文字を追っていた。

 ユタカはその場で倒れ込んでしまうほど、激しい不安を感じていた。反面、微かな期待も入り混じって、乱高下する感情を抑えるのがやっとだった。

 だが、その女性の反応は、不思議な魅力を持ってユタカに返された。

 その女性はさっとメモ用紙を取り出すと、何か数字を書いている。書き終えると、今度はユタカの前にそのメモは差し出された。ユタカは想定外の彼女の行動に、度肝を抜かれたようである。

 ユタカが想像していたシュチエーションは、怪訝そうな顔をされ、カードを突き返される。それも相当困った顔をされてである。最悪の場合はゴミ箱行きと考えていたが、まるで違った。

 メモには女性の氏名と携帯番号が記されていたのである。

ユタカはその回答に本当に足が震え始めた。感情は突然に天界の喜びまで駆け登っていった。もう何が何だか判らなくなっていた。ただ、小さな声で

「ありがとうございます」 

   と言うことしかできなかった。

   ユタカはレファレンスデスクのパソコンの所に戻り、インターネットの席を予約し始めた。タッチペンで会員番号を打っているが、何度か数字を間違えて予約ができない。

   周りにいた常連の初老や、ソファに座っていつもは眠っている人達まで、ユタカの行動を探偵のように探っているような気もした。まさに針の筵に座らされているような思いがした。

   それでも何とか予約席を発券すると、彼女の方を、太陽を見つめているかのように、眩しそうに目を細めた。恥ずかしさで顔を赤らめながら、視線を投げかけたのだが、彼女は穏やかな何時もの業務姿勢でパソコンを覗いていた。それでも、ユタカの眼差しを受け止めるかのように、メラニン色素を多く含んだ茶色の瞳は、しなやかな優しい光を放っていた。口元には小さな笑くぼが作られ、ユタカに対する想像だにしなかった好意が読み取れた。

   ユタカはインターネットコーナーの何時もの席に座ると、受付番号を打ち込み、ニュースを読み始めた。だが、目の前にあるニュース記事の内容が全く頭に入らない。情けないくらいに天界の命の波動に、ユタカの感情は揺さぶられていた。それでもレファレンスデスクに座る彼女の七宝の輝きを時々は盗み見た。

   そう、その女性はユタカの大切な人生の伴侶として今歩きはじめている事に、感動の嵐に包まれながら、見つめる事ができたのであった。

   この図書館の司書たちは、ネームプレートを必ず付けていたが、ユタカは彼女のネームプレートを、今日の今日まで恥ずかしさのためか確認できていなかったが、渡されたメモで初めて名前を知った。

   岩瀬総子、それが彼女の名前であった。

 

   ユタカは手探りしながら岩瀬総子と付き合い始めた。大学を卒業してから、片思いとかはあったが、彼女らしきものは一回もできないまま、30歳まで生きて来たからである。しかし、仕事のスキルアップに没頭していたことによる副産物なのか判らないが、岩瀬総子との奇跡の出会いがあっという間に訪れるという幸運に巡り合ったのである。

 

  2カ月もしないうちにユタカは岩瀬総子にプロポーズをした。そして、その半年後、ヒルトン東京ベイで結婚式を行った。実家の父だけは事情があって来れなかった。それでも、シンプルで記憶に残る結婚式であった。結婚してからは、市川市原木にあるダイワハウスのアパートの、フェリーチェAの一階に所帯を構えた。

   総子は美人な上に、磨き上げたような洗練された佇まいがあった。ユタカのような普通の顔立ちで、年収も目立つほど多いわけではない男のところに嫁いでくれたわけだから、感謝の気持ちしかなかった。ユタカが特段に劣等感の塊でもないが、見かけは不釣り合いなほど総子は魅力的だった。人間は平等であり、一人一人が個性の塊と思えば、ユタカも総子にとっては、限りなく魅力的に見えたのかもしれない。

   ユタカが総子を抱く時は、いつも天界の喜びの中にいた。所有物ではないが、結婚という契約を結んで得たものである。そう、総子は総子だが、ユタカは限りなく自分のものであるという独占欲を満足させていた。

   その独占という満足は永久に続くような気もしたが、そういう気持ちを強く抱くと、今度は失うのではないかという不安が湧き上がってきた。誰が見ても恐らくその美しさに立ち止まるだろうということは、逆に言えば狙われる可能性があるという事だ。

   総子は司書の仕事を一時的に休止し、専業主婦として生活を始めた。朝にはいつも爽やかな笑顔でアパートのベランダからユタカを見送った。会社に行ったユタカは、総子がそばにいない寂しさもあったが、余計な心配もし始めた。

   自分がいない時に強盗に入られてお金を取られた上、強姦されたらどうしよう。周りの住宅の誰かが妻を監視していて、いたずらされたらどうしよう。総子は余りにも魅力的すぎるのだ。美人な上に、スタイルも良い。洒落たファッションを着こなして街に買い物に行ってストーカー被害にあったらどうしよう。

   と心配し始めたら、ユタカの妄想はとどまることを知らない。そうなると仕事をしているパソコン画面は、ただの壁のようにさえ見えるのである。

   このマイナス思考はやがて有り得ないような喪失感まで呼び込む。愛する美しい総子が、交通事故で突然帰らぬ人となったらどうしよう。いや、襲われて殺されたらどうしようと、総子が死ぬことまで想像し始めたのであった。そして、そのもっと先の未来には、死別という恐怖まで想起させられた。 


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許せない時間という魔物

   ユタカは、昔から親しい生身の人間や親族が、この世から居なくなる死に対して、異常なほど忌避していた。

   小学生の時、祖父が亡くなった。その頃は新潟の長岡に住んでいた。粉雪が激しく舞う吹雪の中、訃報を伝えるために買い物に出かけている愛する母親を探しに街に出かけた。街に向かう一本道で、ユタカは母の姿を見つけた。母に祖父の死を告げると顔が雪のように白くなったのを覚えている。母はそのまま祖父が滞在していた湯治場に向かった。その後ろ姿に、人間の死が与える絶望のようなものをユタカは感じ取った。

   祖父の遺体は家の中に安置された。その遺体からはアルコールの匂いがした。祖父は強度のアルコール中毒者であったのである。ユタカは飲んだくれている時の祖父は大嫌いだったが、素面の時はそうでもなかった。時々、母に内緒でこっそりとくれる小遣いが嬉しかった。その祖父が息をしていないのである。息をしていない、そして死んだということは、ユタカにとっては信じられないことなのである。しかも、時間が経つごとに鼻から耳から血が滲み出てくるこの遺体は、醜悪以外の何者でもないと思った。暗黒の世界に祖父のエネルギーのようなものが吸い込まれ、肉体が腐って行くのだ。死とは悲惨で汚くて、辛くて、悲しいものだ。死ねば息をしなくなり、無に帰すのだろうか。小学生のユタカは何も判らなかった。だから、死はイコール不幸だと思った。だって愛する母があんなに泣いている。出張先から帰ってきた父も、苦悶の顔をしている。死は明らかに人間にとって、一番不幸で悲しいことであると、ユタカは幼いながらもそう思い込んでしまった。だから、生まれた時から不幸である死に向かっている人間は、本当は幸せなどなれっこないと考えた。歳を取るごとに死という不幸せに向かうということは、老人イコール不幸せであり、醜悪なもの、忌避するものでもあると決めつけた。

   祖父の葬式は暗くてジメジメしていた。読経する僧侶の声も物悲しい。出棺の際には、あの人の良い顔をした祖父の顔が、吹き出る血のせいなのか黒ずんでいた。

   焼き場に向かう車の中では、母がこれ以上ないというほどの悲しみで泣き続けていた。ユタカにとって、この非日常的とも言える祖父の死は、母を滅茶苦茶に苦しめる悪でしかないような気もしていた。

   火葬場で、炉に棺桶が入り、火葬が始まると、祖父の肉体はこの世から消滅していった。もう祖父には会えないのである。確かに息はしていないが、肉体があればまだ祖父だと認識できていた。それが炎の中で煙となり、灰となり、頑丈な骨だけが残るのである。

   ユタカは骨を拾うのが嫌だった。それはあの祖父ではなく、異質な気味の悪い骸骨が、粉々になったようなものであり、そこには祖父はいなかった。祖父ではないから拾いたくなかった。

   ただ、いつまでも生きていて愛してもらいたかった。なんで骨にならなくてはいけないの。ユタカは祖父の死を恨んでさえいたのであった。

   ユタカは祖父が亡くなってから、めまいや動悸でその場に倒れるような発作に何度も襲われたが、何かに掴まって意地でも倒れないように堪えた。

 

   動物の死も嫌いだった。やはり小学生の時、可愛がっていた黒猫がある日突然いなくなったことがあった。ユタカは心配になり、家の周りを探して歩いた。探しても探しても何処にも見つからなかった。しょぼくれて家に帰ると、母にお使いを言いつけられた。

   買ってもらったばかりの真新しい自転車に乗って、買い物に出掛けた。用事を済まし、いつも通らない細い裏道を快適に自転車を飛ばしていた。夕暮れの光の中でも、辺りの景色はまだ輝いていた。ペダルは足に心地良い負荷をかけてくる。

   やがて少し広い車道に出ようとした時、道路にぼろ切れのようなものが転がっているのが見えた。ユタカはなんだろうと夕闇の中で目を凝らした。するとそれはぼろ切れではなかった。動物の死体のようなのである。

次の瞬間、ユタカは家の黒猫だと悟った。なんでここに横たわっているの。どうしたのクロ。ユタカは泣き出したくなった。

   クロは息してないの?動かないの?

   ユタカは急ブレーキをかけると、自転車を倒してそのぼろ切れのようなものの側に寄った。クロの身体は明らかに車に轢かれたようであった。頭が潰れて内臓も飛び出ていたのである。

   ユタカは愛するクロが、死に追いやられたある種の理不尽とも思えるこの姿に、悲しみというより怒りのようなものが、激流のように吹き出す気がした。運命を呪った。いや神や仏を呪ったのである。可哀想なクロ、なんでお前が死ななければならないの?ユタカは無残に変わり果てたクロの前で、本気で泣き出した。祖父の死の時に泣かなかったのに。こんな辛いことがあるだろうか。あの元気だったクロは、ずっとずっとそばで生き続けると信じていたのに、なんで居なくなっちゃうの。このぼろ切れのようになったクロ、見ているのが辛すぎる。どうか時を戻してください。神様!ユタカはそう言って嘆くだけであった。

   ユタカにとって、生きているものが滅びてしまう事ほど嫌なことは無かった。

   誕生は確かに美しかった。しかし死は汚くて惨めで一番嫌いである。だから、愛する生きているものの最後のお別れなんて真っ平御免である。そばになんかいたくない。見たくも無かった。立ち会いたくも無かった。辛くて見ていられないのである。

  それが、なんの因果だろう。目の前で潰れたクロが、僕との別れのためにこの場所に引き寄せた。いつも通らないこの道で、僕を拾ってくれって言っているかのようだった。クロの命の宿命にユタカは目を背けたかった。逃げて行きたかった。どうしても事故にあうなら、勝手に分からないように何処かで死んでくれた方が良いと思った。

  それでも、ユタカの中にあった一片の良心は、クロを何処かに葬ってやろうと思い始めた。目を瞑って、ちょうど余ったレジ袋にクロの遺体を入れ、空き地に行き葬った。葬るとただただ過ぎ去ったクロの運命を、叱りつけている自分がいた。息をしてないクロが土の中で眠りについたことが、その場所を去ってもいつまでも記憶として残った。

  

   人間も動物も時間という魔物によって命を絶たれ、粉々になって土に帰る。そんな時間という魔物を、ユタカは許せなかったのだ。許せないけど時間は刻々と過ぎていく。だから、許さなくても止めることはできなかった。だから嫌悪するだけで、ユタカは自分は無力だと、泣き寝入りする他なかった。

  それでも、その死に対する激しい嫌悪感、拒否感、憎悪は、ユタカの別の人格のように胸の中に何時も閉じ込めていたつもりだが、事あるごとに表出してくるのである。そんな時の精神状態は、パニックのようになるのであった。

   だから、総子に対して心配し始めたのも、このユタカの別人格が災いして起こって来たのであろう。 


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自分の子供のような愛しいラブ

   ユタカはある日、会社の上司である石原部長に呼ばれた。小会議室に入ると、石原部長はいつもの厳しい顔つきでは無く、柔和な表情になった。どちらかと言えば笑みさえ浮かべている。ユタカが出入り口に近い席に座ると、石原部長は前置きなしで話しかけて来た。

「実は来月にも渡米しなければならなくなった。シカゴの支店長の不正が発覚したので、僕に白羽の矢が立ったんだ。その話が昨日あって、僕も最初は困ったと思ったけど、今日受けるという事で社長には話をした。社長も喜んでくれたが、最低10年は帰れそうもない。ついては、君は課長に協力して今の事業を盛り立てて欲しい。それから、勝手で申し訳ないが、僕の西船のマンションに代わりに住んでもらえないだろうか?ご存知のように妻は病死して子供もいないから、僕が持っていても将来使うことはまずないと思う。不動産屋に売却と言っても、時間がかかるし、面倒な事が多い。それで昨日ふっと君のことを思い出したんだ。竹内君なら結婚したばかりだし、これから本社で活躍していく人間だから、もしマンションを購入する気があるなら安く譲りたいと思ったんだ。どうかね?」

   ユタカは降って湧いたような石原部長の話に、幸運の女神が微笑んでいるような気がした。やらなければいけない煩雑な事があるだろうが、いずれは近くにマンションを購入しようと、妻の総子と話していた矢先であった。ユタカは石原部長の渡りに船のような話に、内心では欣喜雀躍した。

「そうですね、それは良い話です。部長!前向きに考えます!」

   ユタカは後先を考えずに手の内を見せる人の良い所があるが、場合によっては騙されやすいタイプでもある。

「ありがとう竹内君。話がうまくまとまるとありがたいね。それでは、申し訳ないが、奥さんと話しあって決めてください」

「かしこまりました」

   その後、予算的なことや残して行く家具のことや名義書換えのことについて部長からあらかた説明があると、ユタカの中にあった不安要素は掻き消えていた。まだ正式に決まったわけでもないのに、愛する総子との新しいマンション生活を想像すると、ユタカは淡い幸福感につつまれた。今のアパートも新しくて綺麗だが、上からの音や隣の音がかなり聞こえる。聞こえるということは、こちらの音も漏れているというわけだ。マンションなら音の問題はかなり解決されるだろうし、買ってしまえば自分のものになる。有難い良い話である。そんな事を考えていると、石原部長は声のトーンを変えて呟いた。

「実はもう一つ大切な話がある。快く承諾してくれるとありがたいが?」

   ユタカは何だろうと耳をそばだてた。

「僕には宝物がいるんだが、事情があってシカゴにどうしても連れていけない」

「ペットか何か?」

「そう、君が家に来た時は丁度入院していたから、まだ見てないが、可愛いキャバリアだ。それで、君に里親になって欲しいのだけど、どうかな?動物は嫌いではないよね?」

「・・・・・・」

「犬は好きではない?」

「嫌いというわけではないのですが・・・・・・。ネコを飼っていたこともありますし・・・・・・」

「じゃ大丈夫じゃない?老犬だけどとても性格の良い子だし、君が里親になってくれれば安心だし、ラブもう引っ越す必要もないから万々歳だ。良かった良かった」

「部長、マンションの話はOKですけど、ペットを飼って失うというのは耐えられません。そのラブちゃんもそんなに長生きしないでしょう?今何歳ですか?」

「13歳だよ。まだまだだよ」

「部長だから正直に言いますが、ペットを失う事、看取る事は嫌です。昔飼っていたクロが死んだ時は辛くて辛くて、しばらく病んでいましたから。人間が死ぬ時だってもちろん嫌です。いずれにしても、自分が惚れ込んだものや好きな人たちとのお別れなんて、考えただけでパニックです。勘弁してください」

「そう言わずに、マンションも相場より相当安くしてあるし、不動産屋の手数料も取られないし、自慢じゃないが家具も結構良い物を置いて行くよ」

「うーん。困りました。そのラブちゃんとのお別れの時は、やっぱりそばに居なけりゃならないでしょう?辛くて見ていられません。立ち会いたくもありません。それこそ、妻には私より後に逝って欲しいと思っていますし、母や父がなくなる時にも、立ち会いたくないくらいですから・・・・・・」

「竹内君、随分君は子供っぽいこと言うね。そんな事じゃ、部下の面倒なんかも見れないよ。もし、君の部下が親族を亡くした時には、どうやって激励するんだい。もしくは、部下が病気になって看取らなければならないとしたら、逃げるのかい。そんな君だとしたら、人間として恥ずかしいよ?皆んな年齢を重ねれば、それ相応の死別の機会は平等にやってくるものだし、皆んなしっかり対応しているよ。所帯を持ったんだから、家長としてしっかりしないと駄目だよ」

「理屈では判っているんですけど、気持ちがついていかないんです」

「竹内君、君のために言うけど、そう言う弱点だって将来は乗り越えないと、いつまでも子供みたいだと馬鹿にされるよ。しっかりしな!まあ、家に帰って奥さんと相談してから返事してくれるかい。それでもやっぱり、犬は嫌だと言うなら、マンションの話は別に当たるしかなくなるから、良く相談してくれるかい。頼むよ!」

  石原部長との話はそこで終わった。ユタカはザワザワした気持ちで仕事をして家に帰った。

  

   総子と夕食を食べながらユタカは石原部長の話を伝えた。伝えると、総子はもうすぐに有頂天になって、ユタカの根深い危惧などについて、真剣に聞こうとしていないようだった。

「良い話じゃないの。そのマンションは西船の駅にもの凄く近いし、2人で頑張れば何とか返済もできるし、ラッキーだと思うわ」

「だけど老犬の面倒を最後まで見ないと駄目なんだよ。君に出来る?僕ははっきり言って真っ平御免なんだ。歳を取っているからもう死にそうだし、死ぬ時に看取るなんて嫌なんだ。とんでもない、付録だよ!」

   すると、総子は急にユタカの前で立ちあがった。

「ユタカさん。あなたはまだまだ子供ね。でも大丈夫、私が付いているから。もし、その時が来ても、あなたの苦しみの半分は私が引き受けるから、その犬を飼おうよ。こんな良い話をもらったのに、犬が嫌だからと断って部長の印象を悪くしたら、社内の評判にも傷が付くし、馬鹿にされるかもしれないわ。私も半分責任を持つから飼おうよ。ね、そうしようよ!」

   それから、総子は立ち上がったままま、マンション生活の方がいかに良いかの力説するのを、ユタカは黙って聞いていた。確かにアパート暮らしで高い家賃を払うくらいなら、自分のものになる家の方が良いに決まっている。このアパートの作りの悪さには閉口していたし、いずれ2人の間に子供ができれば、それなりの部屋も必要だ。このアパートの部屋数では、とうてい無理だと言うことは判っていた。ユタカは石原部長の話を、総子がこんなにも喜んでいるなら決めても良いと思っていた。ただ、ユタカにとって、付録である老犬を引き取ることは、わざわざ不幸を招き寄せているような気がした。出来るなら避けたかった。

  それでも総子の前では、女々しいようなことを言い続けていたら、尊敬されなくなると思った。そうなるのも嫌だった。それに総子の幸せのためだったら、止むを得ず承諾することにした。その時、ユタカの中にある死を忌み嫌うもう1人の人格は、激しく非難していた。ユタカを激しく罵っているかのようであった。ユタカはその叫びに蓋をして、総子の喜ぶ顔を見たいがために決心した。

 

   レクセルプラザ西船橋の5階にユタカと総子は越して行った。赴任ギリギリまで面倒を見ていた石原は、ラブを2人に渡し、安心したような顔をして早々に立ち去った。恐らく未練が残るのが嫌だったのだろうか。さっぱりとした手放し方であった。総子は初めて会った瞬間に、そのラブを抱っこして、可愛い可愛いを連発している。ユタカはラブを一瞥するだけで、すぐに開梱作業に入った。

   引っ越し作業の間、老犬のラブはゲージに入ったまま、静かにしていた。

   あらかた引越しの作業が終わると、もう夜になっていた。石原部長が書いたラブについてのマニュアルを見ながら、ラブを連れて総子と一緒に軽く散歩に出かけた。帰って来たらドライフードを与え、心臓の薬を飲ませる。総子はカリカリと美味しそうにドライフードを食べるラブを、ニコニコしながらずっと見ていた。総子はもうすっかり愛くるしい顔のラブというキャバリアに、魅せられているようだった。年齢のせいか少し脚が震えているようだが、総子が抱くと、今日出会ったばかりなのにぺろぺろと顔を舐めている。石原部長が言っていたように、人懐っこい犬だと言うことがすぐ判った。前の飼い主である石原部長と別れて淋しかったのだろうか。

「私はあなたに首っ丈よ」

   とでも言わんばかりに、総子の顔を舐めている。散歩の時にはただリードを引っ張っていただけのユタカも、その後に初めてラブを抱いた。7キロはあるだろうか、かなりズシリとくる体重である。心臓が動いているのが手に伝わってくる。すると、ラブは総子にしたようにユタカの顔をぺろぺろと舐めた。人懐っこくて、気持ちが優しく、おだやかな表情をしているラブである。ユタカは胸のあたりが温かくなるような気がした。しかし、ユタカの中にあるもう一人は、別れる時辛くなるから心を許すんじゃないと呟いている。

  

   まだ散らかっている寝室で眠る前に、居間のゲージの中に居るそのキャバリアのラブを確認すると、体を丸めて眠っていた。ユタカが覗き込むと、ラブは眼を開けて尻尾をビュンビュンと振った。折りたたんだがっしりとした脚、見開かれた大きな目は、性格の良さが現れていて、美しい宝石のようだ。ユタカは認めたくは無かったが、それでも少々長い付き合いになるだろう、新しい家族に迎えることを、心の奥で覚悟したのである。ただ、納得していないもう一人の自分は、ラブを認めたくはなかった。死に対する恐怖が、首筋を吹き抜けるような気がした。

 

 ️それでも、マンションの室内でラブと暮らしていると、ユタカの心は妻の総子に対する感情と全く違う愛情を抱き始めた。総子も会うべくして出会えた愛しい女性であるが、ラブはまるで血を分けた自分の子供のように思え始めた。特に、会社から帰宅すると、玄関まで走って来て飛びつく姿は、何という深い情愛に満ちていることか。総子との短い恋愛時代の熱量と同じなのである。今では総子は落ち着いたパートナーというイメージだが、ラブはいつでも恋人であり続けるような気がする。ペットの繰り返す愛情表現のルーチンは、色あせるようなものではないようだ。そんなラブとのやりとりで、3日間一緒に生活しただけで、ユタカは深い感動を覚えた。

 ある意味ラブに虜になった訳だが、今までの人生ではありえない不思議な体験だと思った。そして、美しいブレンハイムの毛並みを撫でながら、抱きしめるのであった。ユタカはラブという命に魅せられたが、それを失うという悲しみの未来については、今は何も考えないことにした。それしか術がなかった。

 妻の総子はユタカと違って、前向きで明るい性格のせいか、いつもラブと楽しく会話をしているようである。老犬であろうと何の心配もしないで、今を楽しく生きようとしているかのようであった。そう、このルクセルプラザ西船橋の5階に引っ越しできたのも、このラブのおかげも多分にあると感謝しているくらいである。 


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前世からの約束でラブに出会った?

   そんなある日、同窓会の案内はがきが届いた。故郷の長岡市内で、中学時代の同級生が集まろう、という内容であった。その案内の幹事の一人に、懐かしい名前を見つけ出した。

   矢野千恵子の千恵子という名の響は、中学2年の頃の鮮やかな光景を目の前に引き出して来た。言わば隣の席のユタカにとって、胸を苦しめるマドンナのような存在であった。ある日、木造の使い込んだ床に落とした小さな消しゴムを拾おうとして、矢野千恵子は屈んで手を伸ばした。ユタカは何気なくその動作を見ていたが、矢野千恵子の白いセーラー服の胸元がパックリと開いていたのが判った。

   その胸元の奥にまだ十分に成長はしていないが、ふっくらとした乳房と乳首が見えたのである。ユタカは心臓が早鐘のように激しく打つのが判った。ユタカにとってその盗み見のような行為は、実際は一秒間ぐらいであったのだが、まるでずっと凝視していたような気がした。もちろん矢野千恵子はあっという間に元の姿勢に戻り、消しゴムを定位置に置いていた。

   この時のユタカは、異性の肉体に対する強烈な関心を惹き起こしたというのが正解であろう。まだ、生身の女性の体をじっくりと見たこともなければ、触ったこともない田舎の少年であった。それ故に、今30代になって妻の総子や、それ以外の女性の体を見てきた経験がありながらも、不思議なほど艶かしい欲望の端緒であったから、鮮烈な記憶は今なお消えない。それから何故か性的な記憶としてユタカの中に残り続け、時々仄暗い空間の中に矢野千恵子を見出すのであった。これも一種の彼女の魅力に対する憧れであったのだろう。

  

   その年の夏、ユタカは長岡の旅館で開かれた同窓会に出席した。ラブはもう老犬で心臓も弱いので、旅行は控えた方が良いと獣医が言うので、妻の総子が面倒を見て、ユタカは同窓会と実家に顔を見せるために単身出かけた。

   実家で一泊して、父母や妹に結婚生活の報告をすると、もう次の日には同窓会の会場である旅館のロビーにいた。懐かしい同級生たちがロビーに入って来ると、ユタカは照れ臭そうに挨拶している。

   矢野千恵子とはロビーに入った時、受付に居たから、お金を払いながら当たり障りのない言葉を交わした。

手続きを終わり、ロビーでソファに腰掛けると、もっと矢野千恵子と親しく会話をすれば良かったともう後悔している。受付での挨拶だけで、後は言葉を掛け合う機会は無いかも知れないという不安に襲われた。

   同窓会の開会前、全員で集合写真を撮る段になった。ユタカは控えめに左側の端に座った。集合して並んだ前の真ん中は、かつての英語教師が座っている。時折、その英語教師が話題を振りまいているので、賑やかさは途切れない。あらかた全員が整列したので、カメラマンが並び方や姿勢などを要望している。ユタカは何気なく右を見ると、駆けつけてきた女性が空いてる右隣に座ってきた。

   それは、矢野千恵子だった。何とも言えない香りがして、ユタカの心臓はまた大きな鼓動を刻み始めている。カメラは何度かフラッシュを焚いたが、隣にいる矢野千恵子の温かい体温を感じて、ユタカはただボーッとしていた。

   撮影大会が終わり、席順のくじ引きが行われた。ユタカは36番を引いた。総勢40名のうちの36番だから、誰が横に来るか、期待できないと思った。くじ引きで上手く行ったことは、今までの人生で余り無かったからである。

   同窓生たちは、番号が記載された紙を持って、席を探し始めた。ユタカも目を皿のようにして、テーブルの上の番号札を見ている。会場が広いせいか、なかなか見つからない。ようやく、ステージのそばの出入り口に近い席に、自分の番号を見出した時は、軽い緊張感が解けた。どっかりとその席に座ると、目の前の料理の皿の豪華さに関心した。

   開会の挨拶のために、近寿太郎がステージに上がった。すると、ユタカの左横の空いた席に、白いサマーニットの女性がゆっくりと座った。

   嗚呼、何ということだろう、再びの巡り合わせなのか、矢野千恵子が座ったのである。ユタカは喜びで胸が張り裂けそうである。妻の総子に対しての感情とは違う、故郷の青春時代の初恋の人に再会した感慨である。

「ユタカさん、またそばに座れますね?」

   千恵子は目を細めて微笑んでいる。白いニットのセーターの成熟した胸の膨らみを、ユタカは正視できないような気がした。

「ありがとう。嬉しいです。千恵子さんとこうして並ぶと、中学2年の校舎の風景が蘇ります」

「あら、すごい記憶力ですね。でも、本当は私もよく覚えているわ。勉強が良くできて、皆が博士、博士と言っていたものね」

「僕は千恵子さんの・・・・・・」 

   と言いかけて、口籠った。まさか、唐突にセーラー服の中の胸の膨らみをはっきり記憶しています、なんて言えるわけがない。

   幹事の挨拶が終わると宴会が始まった。ユタカはビールを何杯か飲み干した。するとアルコールはあっという間に体中に浸透していった。ユタカは饒舌になった。料理を頬張りながら、中学時代の記憶が薄い右隣の女性にも適度に話し掛けながらも、千恵子との会話のボルテージを上げて行った。

   千恵子は淡々とユタカに中学を卒業してからの15年間を語って行った。その来し方は、苦労もしているが、いつも前向きな姿勢で突破してきた自信のようなものが溢れていた。ユタカも自分のことを語りはしたが、ほとんど千恵子の人生物語の聞き役であった。それでも、ユタカがマンションに引っ越して、ラブというキャバリアの老犬を飼いだした話をすると、千恵子の話題は犬の話に変わった。

「ラブちゃん、きっととっても幸せだと思うわ。竹内さんのような優しい飼い主に飼われているんですもの。でも、本当に不思議ね。実は私もトライカラーのキャバリアを飼っていました」

「ということは、今は?」

「去年の暮れに15歳で亡くなりました」

「そうだったんですか?辛かったでしょう? 僕はラブが亡くなったら耐えられるか判りません」 

   ユタカは目の端に涙さえ浮かべている。

「竹内さん、ラブちゃんのこととっても愛しているのね?判るわ。でもね私はうちのワンコが亡くなる時に、二つのことを心に決めていたの。絶対泣かないことと、ワンコのことを思い出しても何時も笑顔でいようってね。そしたら、本当は滅茶苦茶悲しかったけど、大丈夫でしたよ」

「千恵子さんはメンタルが強いんだね?リスペクトしてしまうよ」

「竹内さん、信じなくてもいいけど、聞いてくれる?」

「うん、どんなこと?」

「ペットの魂は、自分自身で飼い主を選んで生まれてくるの。この人の所に飼われれば、いっぱい愛されて自分の魂を成長させることが出来る、と思ってやって来るのよ。だから、ラブちゃんは別の人ところにも居たけど、最後に竹内さんの所に来ることは決まっていたのよ」

「・・・・・・」

「竹内さんの魂とラブちゃんの魂は、今世ではよろしくお願いしますと、あの世で約束した上で今の時代に生まれて来たのよ」

「そうだね。何となく納得するようなしないような不思議な話だね。それって仏教で言う所の輪廻転生の話かな?」

   ユタカは初恋の千恵子との話に舞い上がっていたが、初めて聞く話に、懐疑の念が浮かび、少し冷静さを取り戻したようだ。とは言え酔い始めているから、冷静と驚きと喜びの狭間に漂っているようなものである。

「竹内さん、信じなくても良いの。参考にしてね。私が今言っているのは、ペットと飼い主との間で生前に取り交わされる、輪廻転生のプログラムみたいのものなの。それでもっと凄いのはね、いずれは人間に生まれ変わる予定の動物の魂は、その前に人間のペットになって魂を磨くの。どう思う?」

「千恵子さんの話は興味深いけど、すぐに全部を信じろと言うのは無理です。かと言って、否定するほど間違ってはいないような気もする。そうだね、魂の問題は、科学では何も判っていないらしいし」

「さすが昔博士と言われたことがあるから、竹内君模範解答ね」

   千恵子はそう言いながら目を細めて笑った。ユタカはそんな千恵子の笑顔に心が癒される気がした。

「千恵子の妄想です。聞いてください。何百億年も続く輪廻転生の時間の中で、動物の姿で輪廻転生を繰り返すだけでも何万回もあるのよ。それで、動物から人間に転生する瞬間はたった一度しか起きないの。しかも一度人間に転生できた魂は、逆に動物に転生することはないの」

 

   同窓会は、千恵子とずっと話し込んでいたので、ユタカはすっかり彼女の虜になってしまったようだ。二次会でカラオケを同級生たちが楽しそうに歌っている時も、何故か千恵子はそばから離れなかった。

 

   次の日に千恵子が帰る時、大切な恋人と別れるかのように寂しさを感じたが、ユタカはタクシーに乗った千恵子を、いつまでも見送っていた。

 

   ユタカは自宅に戻ると、嬉しそうに総子に初恋の人に再開したと報告した。心の奥には、強い恋慕の念があったが、さらりと総子に告げることによって、客観的に冷静になろうとはしていた。

   帰りを待っていたラブは、ビュンビュンと尻尾を振ってユタカの顔を舐めた。ユタカは千恵子の言っていたことの一つである、前世からの約束でラブに出会ったということを思い出し、なぜか愛おしくなって抱きしめた。あまり強く抱きしめたのでラブは吠えた。妻の総子はそんなユタカの微妙な心の変化を、本能的に読み取っているかのようだった。

 

   同窓会で出席者全員とライン交換をしたので、グループで故郷の長岡市の情報を得ることができるようになり、ユタカも時々同窓生たちに日々の思いを綴った。もちろん、千恵子とも何度かラインで情報交換をしていた。

   千恵子のラインの文面は、何時も相手を思いやり温かさに満ちていた。そう、5月の薫風のようにユタカの心を吹き抜け、癒し、生きるためのパワーを注入してもらっているような気がした。 


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お父さんラブは先に逝くよ

   秋になると、船橋海浜公園にラブと総子と良く出かけた。コンビニでおにぎりや飲み物を買い、車で飛ばせは10分ぐらいで着いてしまう。到着するとラブは興奮状態になる。それが最初理解できなかったが、海の匂いがして来るからだと言うことがすぐに判った。ユタカの手にあるラブのリードは、海に近づくに従って、引っ張る力を増加させていくからである。終いには息をゼイゼイしながら、海に入りたいとアピールして来るのだ。

   引き潮で海岸の所々に海水の水たまりがあると、嬉しそうに足を入れて吠え始める。何かを強く要求しているようである。やはり最初はなぜ吠えているか想像もつかなかったが、総子は水をくださいと言っているのじゃないかなと言うので、海水を手で掬って口元に放ってみた。すると、ラブが嬉しそうに口でそれを捉える。そして、また鳴く。ユタカがまた掬って放る。ラブはそれをまた上手に口に頬張るのであった。

   ユタカは、前の飼い主の石原部長と、多分こうやって遊んでいたのだと思った。そう考えると、ラブはきっともっと色んなことをして遊んで欲しいのかもしれないから、他にもチャレンジしてみる価値はあると、妻の総子に呟いた。

   昼食は海岸線に沿って作られた堤防の上でとった。太陽の光は総子やラブの周りを眩しいほど照らしている。遠くの視界には貨物船が航行しているのが見える。ユタカは何も考えずにただぼーっとしていた。時折、ラブの頭を撫でながら佇んでいると、心底こんな瞬間こそが幸せであることに、感謝したくなるような気がした。美しい妻に、我が子のように可愛いラブがいれば、何も要らないくらいである。そうやって過ごすひとときは、至福の時であった。

  

   秋が深まったある日の朝、ベッドの下に寝ていたラブの凄まじい鳴き声で、ユタカは起こされた。

   それは突然あまりにも残酷な姿で起こった。あんなに愛嬌があって可愛くてコケテッシュなラブに、死神が不意に飛びかかって来ていたのだ。

   横に寝ている総子を見ると、深い眠りに落ちているようだった。薄目を開けてユタカはベッドの下を覗き込んだ。

 何と言うことだ。そこには足を痙攣させ、目をぐるぐる回しているような、苦悶に満ちたラブが居たのである。ユタカは心臓が早鐘のように鼓動し、日常生活を突き破るような異変に、腰が抜けるような気がした。

「ラブがおかしいよ!」

 総子を起こすと、ユタカは吠え続けるラブを居間に連れて行って、介抱を始めた。

 動物病院が開くまでの間、二人はただおろおろするばかりで、ラブをさすることしかできなかった。それでも8時半には車の後ろにラブを乗せ、ユタカは動物病院に向かった。

 立ち上がることができないラブは、後部座席の下で悲壮感を漂わせて、吠えているだけであった。

   

   動物病院の院長は、照明を消して眼を覗いたりいろいろなことをしていたが、しばらくしてユタカの顔をまじまじと見つめると、深刻な顔で言った。

「眼の揺れや、下半身の痙攣の症状は、恐らく前庭疾患だと思います。しかしかなり重症に見えますので、脳炎の疑いもあります。本当は大学病院でMRIや骨髄の成分の検査を行えば、はっきりとした病名が判るのですが、心臓病のラブちゃんでは、検査の際の麻酔に耐えられるか判りません・・・・・・。ですので、とりあえずお預かりして、血液検査等はしましょう。そして、抗生剤やステロイドの投与で、経過を見ていくしか今のところ方法はないと思います」

 ユタカはいつも冷静に説明する院長の言葉に、『本当に治るんですか?』としがみ付いて聞きたかったが、胸の奥に押し込んだ。

   

   突発的な病気により、今では心から愛していたラブは立てなくなり、その苦悶の姿にユタカは心が掻き毟られるような気がした。忌み嫌っていた愛するものの死の世界が、もうすぐそこまで迫っているのだろうか。

   立ち上がれないラブは、その悔しさなのであろうか、夜鳴きをするようになった。ユタカと総子がベッドに入って眠ろうとしても、ラブは止むことなく吠え続ける。水をあげたり、体をさすっていても鳴き止まない。ユタカは明日の仕事のために睡眠をとりたいのだが、その鳴き声は止まらず眠れない。その状況が4日ほど続いたので、どうしたら夜鳴きが無くなりますか?と院長に電話をした。

   院長は、

「対策としては眠らせるしかありませんので、睡眠薬を処方します」

   と電話口で答えた。

   

   その夜、恐る恐るふやかしたドライフードのご飯に、ピンク色の錠剤を混ぜて食べさせた。

   そして寝てくれることを祈ったが、やはり、一時間おきぐらいに吠えた。仕方なく水を与える。しばらく眠る。また吠える。水を与える。その繰り返しなのであった。

 

   次の日は、睡眠薬が効くように量を二倍にした。すると、飲み始めて30分もしないうちに、ラブはイビキをかいている。ユタカと総子はその音に胸を撫で下ろした。

 院長が言っていたが、やはり立ち上がりたいという欲求で吠えているのであろう。恐らくラブはその意識が強いのかも知れないとユタカは思った。短い間ではあるが、ラブの性格を知っているがゆえに、そう言えるのかもしれない。あとはやっぱり喉が渇いたから、お水をくださいお父さん、と言っているのだろう。そんなことを想像していると、ユタカは自分の命を削ってでも良いから、ラブの身代わりになりたいと思った。ラブは今では犬ではないのである。大切な恋人であり、愛する家族の一員なのであった。

   総子にとっても、ラブは最愛の娘なのであろう。夫婦揃って寝不足なんかくそくらえであったのだ。

 ラブはユタカの寝ているベッドの足元の横の下に寝ていた。吠えるラブを宥めるつもりで、くるりと頭を反対に移動し、ラブの顔の見えるところに寝た。ラブの顔を愛おしく見つめていると、静かになって寝息を立て始めた。ユタカの顔が見えて息が顔にかかるから、安心して眠っているようだ。しばらくしてまた吠えるが、水を飲ませ、ユタカがラブの方に向いて話しかけるようにしていると、また静かになった。その繰り返しで朝を迎えたのである。

  

 その夜は、思い出したようにして千恵子にラインで状況報告した。立ち上がれなくなった時に、ラインで連絡した時は、物凄い激励の言葉が画面に踊っていた。だから、今日も連絡を入れた。

  

――本人は目が回っているのに頑張っているよ!高齢だから治るのに時間がかかるけど、夜中はうるさいくらいに元気だし、睡眠薬は朝方に効いているようです。――

 

  しばらくして、千恵子は安心したようなスタンプと返事を送ってきた。

  しかし、ユタカの中にある未来への不安も、本当は隠れているだけで、今にも嗚咽とともに口から出て来そうであった。それは地獄のような悲観であった。ラブは治るかもしれないという楽観を、嘲笑うかのようにしてそいつは立っていた。どんなに努力したって、不可逆的に死はやってくる。お前はそれに耐えられるのかい。あと少しで死神はラブを連れて行くさ!

 止めることの出来ない時間の進行、その一秒一秒がラブの体を蝕み、ユタカの最も忌むべき死へと誘う。その死は必然であり、宇宙の法則でもあるがゆえに抗うことができない。その時が来るまで、せめて受け入れる心の準備をしたいが、どうしたら受け入れられるのか判らない。それが出来ずに自分がおかしくなってしまうかもしれない。ユタカには来襲して来るラブの死の衝撃を、ソフトランディングで軽く済ますことなど不可能とさえ思った。

 

   その日も睡眠薬を多めに飲ませたが、あまり効かないようだ。とはいえ、もっと増量したら、心臓の弱いラブは死んでしまうかもしれない。薬に対する不安も常にあった。

 ユタカはベッドに横になって、ラブの方へ顔を向けていたが、吠え方の間隔が短くなったので、顔にスヌーピーのタオルをかけて、少しだけ声を遮断しようとしたが、効果があるはずもない。

 そのうちユタカも寝入ってしまった。夢の中でラブの声は聞こえなくなって、草原で一緒に戯れているような光景が浮かんだ。そして、さらさらと手から砂が落ちていくような感触がした。落ちないように押さえているのだが、強い風が吹いて、はらはらと空へその砂は飛んで行った。

 

 明け方近く、ふっと胸騒ぎがしてユタカは跳ね起きた。そして「ラブ!」と大きな声で呼んだ。呼んでも何の反応もない。ベッドの上からラブの体に恐る恐る触った。触ると、悲しみを引き込む悪魔が、高笑いしながら部屋中を飛び回っているような感覚が襲った。

 

『なんだよ~。ラブよ。どうしたんだい?まさか死んだのかお前よ~?』

 

 息をしてない固くなったラブの体は冷たかった。まるで氷のような冷たさだ。息のしてない口からは舌が出ていて、朝のまだ弱い光の中で、はっきりと紫に変色していたのが判った。

 ユタカはベッドからころげ落ちるようにして降り、ラブの体を何度も何度も確認した。それは、息のしてない温かみのないただの肉の塊だった。いや石のように冷たい。生きているものと死んでいるものとの境は、体温と吐息であると、今さらながらユタカは強く感じた。

 

『ラブが死んだ?嘘だろう?夢だろう?そんなことがあるはずがない!』

 

 ユタカはそのラブのどうにも避けられない逃げられない運命を拒絶したかった。打ち消したかった。それでも疲れ切って眠っている総子に告げなければならない。それも冷酷な言葉でだ。

 

「総子、起きて!ラブが冷たくなっているよ!」

 

 その言葉は、眠っていた総子の体を、一瞬にして刺し貫いたようだ。ラブの眠っている場所まで飛ぶようにして近づくと、打ち消しようのない残酷な一線を越えて、天国へ行ってしまったかもしれないラブの抜け殻のような遺体を確認した。

 そして、ベッドに再び戻ると、布団で口をふさぎながら、総子は悲哀に満ちた嗚咽の声をあげた。

 腕時計を見ると、朝の5時過ぎであった。

 ユタカは震える声で総子に言った。

「今日は会社を休むよ。これからラブの遺体をどうするか考えよう。まず、7時まではこのまま待機しようか」

 と言ってベッドに横たわった。

 総子とユタカ、そしてラブ。2人の生きている人間と、息のしていない冷たくなった愛犬が、一つの部屋で一緒に横たわっていた。眠っていたのだろうか、起きていたのだろうかさえも判らないとユタカは思った。

 ユタカの胸の中は、変わり果てたラブの肉体に対する悲しみに満ちていた。そして、救えなかった自分に後悔の念が怒涛のように押し寄せて、胸は切り刻まれるかのように痛かった。激痛が走っていた。このままずっと横たわったまま、自分も一緒に死にたいとさえ思った。

 ラブが間断なく吠えていたのは、

 

『お父さん痛いよ~。助けて。死にたくない。私は立ちたいの。元気になってまた海の匂いを嗅ぎたいの。助けて。お願いだからお父さん!』

 

 と言っていたのかもしれない。誰が元気に吠えているだって?そんな馬鹿なことあるか?でも、こう言っていたのかもしれない。

 

『お父さん。私は先に逝くよ。本当に今まで可愛がってくれてありがとう!ありがとう!お父さん、お母さん。ありがとう。先に逝く私を赦してね。泣かないで送ってください。さようなら皆』

 

 ユタカはそう思うと、知らぬ間に涙が頬を伝わるのが判った。そして、総子と同じように深い悲しみに慟哭したのである。 



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