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六 白い一日

 

白い部屋があった。天井も壁も床も、照明も、カーテンさえも真っ白だった。白いテーブルの上には、白い陶磁器のコーヒーカップが二脚置いてある。さすがに、白いコーヒーカップの中は、焙煎されたコーヒー豆から抽出された黒褐色のコーヒーの液体が八分ほど注がれていた。その分、コーヒーカップの白さがより一層際立っていた。

 

白いソファーには、年老いた、白髪の白年ではなく、白い肌がつやつやとした、光沢のある黒髪が時には白く光っているように見える青年が座っていた。青年は、この部屋にふさわしいように白いシャツを羽織り、白いズボンと白い靴下、白い靴を履いていた。

 

真っ白な青年は所在なさげにソファーに寝転んでいる。彼は頭を肘掛けに乗せ、やや無理なように見えるぐらいに首を傾けていた。首から続く体はソファーと平行に横たわりながらも、足のかかとは、頭と同じように、肘掛けの上に乗り、鍛えられたアキレス腱が自己主張していた。

 

足首の曲がり具合は、頭の傾きと対をなしているようで、船のへさきのように見える。そうだ。青年はソファーに置かれた船なのだ。ただし、自分から進むべき方向を見失って、漂うしかない船なのだ。その船が今は、ソファーに座礁したかのように、身動き一つもしないで、じっとしていた。

 

ただし、青年の目は開いている。何かを見つめている。白い肌に象徴的な黒い瞳だ。その眼をやや目を細めながら、白い壁を飽きもせずに凝視している。いや、青年が見つめているのは、白い壁ではない。写真だ。壁に掛かった写真だ。だが、その写真は、古くなったのか、昔は、極彩色を誇っていたものの、今は、色がかなり落ちて、それこそ、白い壁に同化しつつあった。いや、青年さえも、黒い瞳以外は、この部屋と同化しつつあった。

 

写真には女性が映っていた。女性は若い。寝転ぶ青年とは対照的に椅子に座っていた。その女性が青年の方を見つめている。もちろん、女性は写真だ。本当に青年を見つめているわけではない。だが、あたかも、青年を見つめているかのようにこちらを向いていた。

 

青年は思う。もう何時間も、もう何日もこうしているのだろう。彼女の最後の言葉が思い出された。

 

「嫌いにならないで」

 

その言葉通り、青年は彼女を嫌いにはならなかったものの、次第に、互いに、会うことも、連絡を取り合うこともなくなってきた。それにつれて、自然と彼女と交わした言葉や手を繋ぎ合った記憶さえも白く失っていった。

 

記憶も白くなるものか。青年は苦笑いを浮かべた。そして、唯一、彼女が存在したという確認できる証拠がこの写真なのだ。そして、その写真さえも白い壁と白い記憶の中に埋没していく。

 

白い一日は日一日と過ぎていった。ソファーに寝転んでいた青年は、寝転んだまま中年となり、寝ころんだまま老人へと変化していく。あの光沢のある黒い髪に白いものが混じりだし、やがて、今度は、白い髪に黒いものが混じったようになり、最終的には、白髪と化した。光るような白い肌も、太陽に当たらない日々が続いたのか、弾力を失うように、活きる力を失っていくかのように、白くくすんでいく。

 

外は白い世界だ。その白さは、灼熱の太陽の光なのか、それとも凍てつく雪の白さからくるものなのか、かつての青年にはどちらかわからなかった。もはや、どちらでもよかった。そして、外の白さが家の中の部屋にまで容赦なく浸食してきた。もはや、外と内は混在して、一体化していく。それとともに、老人の体は白く冷たくなっていく。やがて、がくりとかつての青年の首が垂れた。船は身動き一つもしなくなった。

 

老婆がよいしょと自分に声を掛けながら、ドアの取っ手に掴まり、新地球行きの列車の車両に乗り込んだ。

 

「ばあちゃん、大丈夫。荷物を持とうか?」

 

孫娘は老婆を気遣って、老婆が唯一持っている白い布で包まれた四角い額縁のような物を持とうとする。

 

「いいんだよ。これは」

 

老婆はやさしく手で遮る。

 

「これは、ばあちゃんの宝物なんだ。ずっーと、持っていたいんだ」

 

「ふーん」

 

孫娘はもう宝物に関心がなくなると、銀河列車の窓から外を見渡した。

 

「あそこで遊んだことがあるよ」

 

孫娘が指さした先には公園があった。そして、その公園の向こうには、かつては白い壁と白い屋根を誇っていたであろう古びた家があった。

 

「そうかい」

 

老婆は孫娘の言葉を聞きながらも、視線は公園を通り過ぎ、白い家だけを見つめていた。誰も住んでいそうにない家を。老婆は白い包みを開いた。

 

「あっ、写真だ」

 

外を見ていた孫娘がその包みの中に気付いた。

 

「これ、誰?」

 

額の中には若い女性が椅子に座っている姿が映っていた。

 

「さあ、誰だろうね」

 

老婆は孫娘になぞなぞを問い掛けたようににこやかに笑った。

 

「ママみたい。でも、ママじゃないみたい」

 

孫娘は謎を解こうと眉間に必死に皺を寄せながら、考えている。そして、やっぱりわからないというように首を傾げた。

 

「あっ」

 

さっきまで、写真を見つめていたはずの孫娘が、突然、声を上げた。

 

「孝弘君だ」

 

公園の近くの線路沿いの金網の前に、一人の少年が立っていた。少年は地面から空まで届くかのように大きく手を振っていた。

 

「やっぱり、来てくれたんだ」

 

孫娘も車両の中から手を振り返す。互いの声は聞こえない。多分、姿さえも見えないだろう。だが、気持ちは聞こえるはずだ。

 

「新地球へ行ったら、また、公園で遊ぼうね」

 

孫娘が大声を出した。老婆は、その声に合わせて、「嫌いにならないでね」と呟いた。その二人の声も、高速で走る列車の騒音にかき消された。

 

老婆は、白い布で大事に覆われた写真をじっと見つめる。若い頃の自分。その写真を撮影してくれた彼と自分だけために二枚だけ焼き増しをした。その写真も、長い年月のせいか、白っぽく、輪郭が消えかかっていた。それでも、これだけは新天地であり、何もかもが新しくなる新地球へと持っていきたかった。

 

「消えないでね」

 

老婆は、もう一度、写真を見つめ直すと、再び、写真を再び、白い布に包んだ。銀河列車は滑走していたレールから離れると、空高く昇って行った。

 

 

 


この本の内容は以上です。


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