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エルガク

 

     ひとりブツリガクのチョウセン

 

 

 

エイゾウ

 

 

 

 

 

はじめに

 

 

 

 わたしは、ズイヒツをネンにニカイテイドシュッパンしている。はじめは、みのまわりのヘンカなどをかいていたが、ダンダン、シャカイケイザイのはなしや、ブツリガクテキなはなしがおおくなってきた。ニュートンがりんごのみがおちるのをみて、ホウソクをみいだしたのにちかい。わたしは、センタクキをみて、ウチュウをかんがえた。

 

 それが、ロクサツシュッパンするなかで、イッサツのブンリョウにタッしたので、まとめてみた。このあともギロンはつづく。だから、またまとめなおすか、ツイカシュッパンすることになろう。

 

 はっきりいってここでのギロンはカッテリュウである。わたしは、コウコウでブツリをまなばなかったし、ダイガクもリケイガクブにかよわなかった。しかし、シャカイやニンゲンをケンキュウするよりも、もののホウがタンジュンである(カガクシキをかいてみたらよい。)。だから、イチからケンキュウするにはとっつきやすいとおもっている。それなりにまじめにギロンしているつもりである。しかし、たまに、あとでそうではないということがある。まちがうのもギロンをすすめるためにユウコウとおもっている。テイセイはしたいとおもうが、かならずしもされているとはかぎらない。

 

また、このケンキュウブンヤをかりに、「エルガク」となづけた。「ブツリガク」でもよいのだが、わたしがカッテにやっているのだから、「ブツリガク」ではない。といわれるのをあらかじめふせいでいる。

 

 また、このチョショは、タイケイカされていない。ジケイレツでギロンをならべただけである。いずれできたらそういうチョショもだしてみたいとおもうが、いまはまだそのときではないとおもう。

 

 

 

  ニセンジュウキュウネンハハチガツなのか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イチ、『アルクカラ カンガエル(イカ、「ア」)』ヒャクジュウゴ

 

 

 

  きのうに てがみを おくることを かんがえたり、あしたなら ジョウケンシダイで タッセイカノウだ。だが、きのうのジブンがいないから とどかないだろうとか。ジカンっていうのは ウンドウリョクなんだとおもう。だからイチ「ロコモーティブ」ではかれると。そういうのは むかしからで チキュウのカイテンではかっている。そこまで おおきなウンドウだと なかなか イチニチすすめるのは タイヘンだが まぁ、イチニチたつだろう。ま、ひかりなんかで おなじようにかんがえている。

 

 

 

ニ、『ア』ヒャクジュウロク

 

 

 

ウチュウのレキシを カセットテープが サイセイするとしたら、「オートリバース」にしたら ウチュウはおわらない。シィディだと ちょっとまがあく。ただ、カセットテープのばあい、ギャクむきに カイテンさせないといけない。エンドレステープが もっともよいかもしれない。

 

 

サン、『ア』ヒャクゴジュウイチ

 

 

 

  なぜ ウチュウがひろがるか。タブン ウチュウのなかでのダンスが はげしすぎて、ウチュウのそとにも エイキョウをおよぼし、おどることを、ヨウセイしてしまうのだろう。だから「ダンスする」ウチュウは ひろがっていくと。チキュウジョウでも、「ジンセイ というダンス」が くりひろげられている。

 

 

 

よん、『ア』ヒャクロクジュウサン

 

 

 

  「ジュウリョク」というのは そもそもないのだとおもう。じゃあ なぜ りんごが きから おちるんだという。それは カイテンの チュウシンに むかうちから だと セツメイする。チキュウが ジテンしている カイテンジクのチュウシンにむけて うごいた と いえるだろう。それを わたしは「うずまきリョク」という。しおのうず(うみの)のヨウリョウだ。そうすると、なぜ チキュウや カセイなどのワクセイが タイヨウのまわりを まわるか セツメイでできる。つまり うずをまいている ということだ。でも それじゃ ワクセイは タイヨウのホウに イドウして ぶつかるじゃないか というかもしれない。しかし、タイヨウは エネルギーというか ひかりをはなっている。そのひかりのちから、おもさというか、で キョリをたもてる。だから、タイヨウが エネルギーをハッしなくなったら、それを「ブラックホール」というかもしれないが、チキュウをはじめ、タイヨウケイのワクセイは、シダイに ヘンカしたタイヨウに ちかづき ショウトツしてしまうだろう。つまり、「りんご」もチキュウの ジテンに ヒッテキするちからが くわわればおちない。ただ、それがないだけだ。だから、チキュウのジテンがなくなれば、ひとは チュウにうくようになるだろう。でも、ニュートンのジダイには、テンドウセツがまだ はばをきかせていて そういうことをいいづらかったのだ とおもう。だから、ダキョウとしての、「ジュウリョク」だったのでは ないだろうか。もっとも わたしはニュートンについて くわしくないので、ジカンがあったら しらべようとおもうが、ニュートンが どうかんがえたかは セイカクにはわからない。

 

  でも、こうかんがえるようになって、なぜ ワクセイが カイテンするのか というなぞがとけた。「かみ」の なせるわざだとか かんがえなくてすむようになった。

 

 

 

ゴ、『ア』ニヒャクキュウ

 

 

 

  「クウチュウテイエン(そらに うかぶ テイエン)」など できるものか、などとおもっていたが、できるのが わかると いろいろモンダイがでてくる。ニッショウケンとか。ま、カイケツはカノウとおもうが、というより、クウチュウは だれのものか、というギロンになる。ま、いまのところ、クウチュウのいえ のケンセツヒヨウが ヒャクオクエンは かかるとおもうので、あまりモンダイにならないが。

 

 

 

ロク、『むしのツゴウ ニンゲンのツゴウ(イカ、「む」)』ジュウシチ

 

 

 

ベツに「かみ(さま)」はヒテイしないが、わかいころは、なぜチキュウがまわっているかセツメイできなかった(そのセツメイは、●よん、『ア』ヒャクロクジュウサン)。そういうバカになんかわるいことをふきこめば、いい(よくないが)キョウキになっていたかもしれない。だから、なんかをふきこまれても、「わからない。」といい、わかるまでまつのがかしこいとおもう。たしかに、だれかにきけばおしえてもくれるだろうが、まぁ、そのひとに「でしいり」するようなものだ。

 

 

 

なな、『む』ニジュウ

 

 

 

「なんでいきているのか」ととわれたとき、「なぜ」というイミなら、「なにかをたべるから」とこたえ、「なにが」「いきさせるのか」なら、「ブッシツがうごけるから」とこたえる。そのこたえだと、もし、ブッシツがうごかないようだったら、「いきられない」んだろう。たとえばまわりのオンドがひくいとか(それだとブッシツのジョウタイがコタイばかりになる)。そういうブッシツが「うごける」ジョウケンがあるからいきられると。

 

エキタイやキタイだとブッシツはうごけるカノウセイがある。だからタイヨウからとおいカセイより、スイセイ、キンセイのホウがセイブツはみつかりそうだとおもうが、そういう、エキタイセイブツとかキタイセイブツはソウテイガイなのだろうか。

 

 

 

ハチ、『む』サンジュウヨン

 

 

ジカンを「エル(アルファベット)(ロコモーティブ)(●イチ、『ア』ヒャクジュウゴ)」ではかるとしたら、キオンがとてつもなくひくくなれば、セイブツはウンドウが(つまり、キタイ、エキタイがトウケツして)テイシされるだろうから、いきられない(●なな、『む』ニジュウ)というかジカンがそのコタイについてはながれない。だから、あるテイドのキオンのたかさがあれば、ニンゲンは(いきられる)うごける、つまり「エル」であるが、きびしいジョウケンでは「エル」にはならない。

 

ニンゲンのイッショウをかりに「エル」とすると、そのナイヨウは、ニジュウヨン(ジカン)かけるサンビャクロクジュウゴ(ニチ)かけるハチジュウ(ネン)になる。ケイサンすると、ナナジュウマンハッピャクである。

 

このスウジを、ウンドウのおそいジョウケンでかんがえてみる。たとえば、ハチわりのはやさだったら(さむいところなどで)、「エル」はドウイツジョウケンとしてかわらない(ウンドウのソウリョウはかわらない)が、ソウリョウがナナジュウマンハッピャクとしても、そのウンドウ(ソウリョウ)をカンリョウするのに、ハチジュウナナマンロクセン(ヒャクサイ)かかることになる。つまり、テイオンでセイゾンしたほうが、ウンドウのソウリョウはかわらないとしても、ニジュッサイながくいきられるカノウセイがある。つまり、さむいくにのホウが、ながくいきられるということである(ジッサイ みなみのくによりキタのくにのホウがながいきである。)。

 

 

 

キュウ、『む』ハチジュウハチ

 

 

 

ビーダマをなにかのまわりでシュウカイ(まわる)させようとすると、タイヘンなエネルギーがヒツヨウであろう。デンキでうごくくるまをつけてまわすではいけない。そのものをまわすのだ。チエシャならもっといいアンをかんがえるかもしれないが、タブンセンタクキのようなところにいれてしまえば、まわりつづけることができるだろう。それだってケッコウなエネルギーだが。つまり、あるクウイキがまわっているというかんがえかたをすれば、チキュウのコウテン(レヴォリューション)をセツメイできる(チキュウが「まわっている」のではなくて、クウイキが「まわる」とかんがえる。これがわたしのチョショ『アルクカラカンガエル』でとなえたクウカイロンである。ダイニテンドウセツといえるかもしれない。●よん、『ア』ヒャクロクジュウサン)。このばあい、「センタクキのカイテンリョク」、もっといえば、「モーターのカイテンリョク」がわたしのいう「うずまきリョク」である。チドウセツ(ビーダマはうごく)、テンドウセツ(クウイキがうごく)でもある。

 

チキュウがコウテンするのはセツメイできるが、「うずまきリョク」とはなにかというのがまだセツメイできていない。タイヨウがそれほどのエネルギーをもつのかというのは、ビーダマをまわすジッケンをすればわかるが、ソウトウなエネルギーだとおもう。

 

 

 

ジュウ、『む』ヒャクロクジュウサン

 

 

 

「みずはジュンカンする」などという。タンジュンにいえば、チジョウのみずがジョウハツして、あめになってふるというものである。たしかにフロにはいっているとみずがジョウハツしたのかテンメンにしずくができる。しかし、なぜそうなるのか。ショウガッコウでは、みずはヒャクドシーでジョウハツするとおそわった。ヒャクドシーでキカするというわけである。ジッサイにフットウさせて、オンドケイではかったおぼえがある。

 

だが、フロのゆはヒャクドシーにカネツするわけではない。せいぜいヨンジュウゴドシーだ。うみやいけのみずだってそうだ。ヒャクドシーにカネツされるわけではない。なのになぜジョウハツするか。ひとつのかんがえかたは、ネツがブブンテキにヒャクドシーにタッして、みずがジョウハツするというかんがえかただ。もし、そのようにネツがイッカショにあつまるのなら、そのブブンでないみずはネツをうばわれてニジュウドシーとかに(もとのスイオンがサンジュウドシーだったとする)なるのではないか。もうひとつのかんがえかたは、ヒャクドシーでみずはキタイにかわるというのはうそ(うそというかヒャクドシーでキカがカンリョウするというところだろう。ヒャクドシーでもジョウハツするとか。)で、ジョウオンでもみずはキカするというものである。

 

たしかにヒャクドシーでジョウハツする。だがサンジュウドシーでもジョウハツするとかんがえる。どういうことかというと、みずはキオンよりオンドがたかければ、ジョウハツするし、キオンよりオンドがたかくなければジョウハツしないとなる。これなら、なぜホッキョクのホウでゆきがふるのかをセツメイできる。なぜゆきがふるか。それは、ふゆにゆきがふるチイキでは、キオンよりスイオンのホウがたかいことがおおいのだ。だから、みずがジョウハツして、サイドひやされてゆきがふるということだ。みずのジョウハツがヒャクドシーでおこるとかんがえていたらゆきがふることをセツメイできない。

 

 

 

ジュウイチ、『よろこぶゲンシジン(イカ、「よ」)』ジュウゴ

 

 

 

「ジカン」とはなにかというといには、あるブッタイがあるキョリをイドウするのにかかるだとこたえられる(●イチ、『ア』ヒャクジュウゴ、ハチ、『む』サンジュウヨン)。それで、テンタイのイドウをカンサツして、「ネン」、「ゲツ」、「ニチ」、「ジ」、「フン」、「ビョウ」とはかれるようにしている。あまりテンタイをみないひとは、とけいのうごきのホウがわかりやすいかもしれない。「フンシン」がうごいたら、それがうごくまえより「ジカン」がおおきくなっていると。

 

「もの」がイドウするばあいには「ジカン」というガイネンでかぞえることはカノウだというのにタイテイイギはないだろう。しかし、それが「ジョウホウ」だったらどうか。あるデンシブンショがベツなところにおくられるのに、それを「ジカン」がかかるといえるのか。

 

いまのジョウホウギジュツではチキュウナイであれば、ほぼすぐさまおくられるのである。むしろサイキンは「ラグ」などという。そういえばむかしはチキュウのうらからのジョウホウが、キタイされているよりおくれることがあった。なぜおくれるか、デンキのながれにムダがあったり、ほそいケーブルでつないでいたりしたために、「ジュウタイ」のようになっていたのだろう。それをおもいだすと、「ジョウホウ(もっというとデンキになってしまうが)」のイドウもやはり「ジカン」がかかるといえそうである。

 

もし、イドウにカンしてまったく「ジカン」がかからないでカンリョウするなら、もうイドウするジュンジョで(もっともはかりづらいだろうが)ケイソクするしかない。トシにいるひとのコウドウをジュンジョづけてハアクするのににている。そんなかんじではほとんど「とき」というガイネンがむずかしくなる。それでも「とき」をセイリツさせようとすれば、なにかのブッタイやジョウホウをどこかにイドウさせて(ゼンテイではすぐというか「ドウジ」についてしまうのだが)わずかなずれをさがして、「ジカン」や「とき」にするんだろうか。もっというなら、ドウジにつかないジョウケンをさがすだろう(たとえば、かがみをタイリョウにつかって、あたかもチョウキョリをイドウさせたかのようなやりかたで。)。そうしないと「とき」だとか「ジュンジョ」がむずかしくなるのである。

 

かりにそういう「とき」のない(すべてイッシュンですんでしまう)カンキョウができたら、ニンゲンはブッシツのイドウがイッキにすすみ、あっというまにしんでしまうかもしれないし、ブッシツのイドウをいつでもできるからと、うごかすことをせず、いつまでもいきるかもしれない(いまのところ「シ」はコクフクされていないので、ゼンシャかとはおもうが[ヨダンだが、ひとりのニンゲンがしぬまえに、そのひとのサイボウをセッシュしバイヨウしてそだてれば、とりあえずまだいきていることにもなる。モンダイはジョウホウのイテンだ【ジョウホウをイテンしないとなまえすらわからない。】。]。)。

 

ニンゲンのジュミョウはハチジュッサイがセンシンコクではヘイキンテキだが、ブッシツのイドウがはやくなると、あっというまにしんでしまうということだ。「シ」までのショリがシュンジにおこなわれるからだ。タンジュンにいえば、ジカンリョコウをするのは、なまけものじゃないと(すぐにしんでしまうから)たえられないのではないかということ。そういうわたしもよくねるなまけものである。タブンねなかったらしんでしまう。ドウジにイドウできるなにかは「ある」が、それはしんでしまっていると、またなまけものは「うごかない」。「デッド」か「セキゾウ(モノ)」がジソウはできないものの、かつてジソウしていたかもしれないなにかだろうか。ソクドがサイコウの「ドウジにトウタツする「ブッタイ」はあるかもしれないが、「あった」のホウがテキセツかもしれない。そのブッタイは「しんでしまう」ゆえにみつからない(「シタイ」はあるだろうが。)。たとえば、なにかのおきものがそうかもしれない。おきものになるまえはイドウしていたと。

 

「シタイ」や「セキゾウ」からもういちど、サイコウのソクドをもブッタイにすることはむずかしいであろう。ただジンルイは「ひかる」ワクセイをつくりだしているからフシギだ。ニンゲンがつくる「セキゾウ」もキョウミぶかい。ゲンリョウからジンコウテキにつくられたものだが、それにもソクドをつけたりする。バイクやロケットである。しかし、「シタイ」にソクドをつけているようなきがする。

 

 

 

ジュウニ、『よ』ニジュウイチ

 

 

 

「タイムマシーン」というのはよくワダイにだされるはなしである。タブン「できない」けどあったらおもしろいものとかんがえられているだろう。たしかに「ジカンリョコウ」はむずかしい。しかし、のぞくことならできそうである。タンジュンにいうと、チキュウからイチコウネンはなれたところにかがみをおく。そうするとチキュウのあるイチニチのえ(えというよりドウガだろう)がイチネンかけてそのかがみにトウタツし、そこではねかえった「え」がイチネンかけてチキュウにもどる。つまりどういうことかというと、ニネンまえの「え」がみられるのである。

 

くわしくみるにはクフウがヒツヨウだろうが、まぁかがみをおくイチをかえれば、もっとちかいカコやとおいカコもみられるようになる。もっともすでにかがみがセッチされていれば、そのキョリかけるニのブンのカコがみられる。そういう「え」をだれかがみているとすると、ものごとのカイゼンがすぐにすすむのだろう。もっともその「え」のみかたによっては「カコ」でセイカツすることもカノウかもしれない。ただしくいうとスウネンおくれの「カコ」である。

 

 

ジュウサン、『よ』ニジュウロク

 

 

 

「ウチュウ」はウンドウタイであろう。チキュウもまわっているし(カクニンしたわけではないが)いろいろうごいている。しかし、「ウチュウ」のそとはどうか(わたしはかつて「か」となづけた。)。「ウチュウ」がウンドウタイだとすると、「ウチュウ」のそとはセイシタイではないか。アンガイ、「ウチュウ」のそとのむこうに、またウンドウタイがあるかもしれない。そうかんがえると、「ウチュウ」なんてキョジンのいえのセンタクキみたいなものかもしれない。

 

 

 

ジュウよん、『よ』ニジュウハチ

 

 

 

「ジカン」を「ジカン」たらしめているのはなにか。「ジカン」をロコモーティブ(エル)ではかるとまえにかいた(●ハチ、『む』サンジュウヨン、ジュウイチ、『よ』ジュウゴ)。ではなにがロコモート(イドウ)させるのか。

 

ニンゲンやドウブツはチキュウジョウではそれなりにうまくあるけるが、ウチュウではうまくあるけない。あるくというよりおよぐだろうが、それはおそろしくクツウなようにおもう。なんらかのスイシンソウチがあったホウがカイテキだろう。

 

そのスイシンソウチについてかんがえると、「おもさ」でうごけるキョリがかわってくる。ネンリョウはイッテイとする。つまり「ジカン」とは「おもさ」によってきめられるメンがあるということだ。わたしはイゼンに「ジカン」のシツリョウのことをタイミックとなづけた。ここでのギロンもコウギのタイミックについてだ。おもさをロコモートさせるにはネンリョウ(エネルギー)がヒツヨウである。おもさブンのエネルギー(ここではマサツなどのこまかいジョウケンははぶく。)がすすむことのできるキョリになる。つまりジカンである(チキュウのコウテンでイチネンをはかっている。)。

 

ただし、エネルギーがあっても、かならずしもすすむことにハツドウしているわけではないとおもわれる。つまり、すすめるのにすすまないということだ。それがセイタイのむずかしさだとおもう。おなじエネルギーリョウなら、シツリョウのちいさいホウがよりジカンをもつ。ジカンとシツリョウをかけるとエネルギー(そのキョリをロコモートするのにヒツヨウなエネルギー)がでる。それをタイミックというかはベツとして。

 

 

 

 

ジュウゴ、『よ』サンジュウニ

 

 

 

 

 

さきにエル(ロコモーティブ[ウンドウリョク])イコールダブリュ(おもさ)ブンのイー(エネルギー)のはなしをした(●ジュウよん、『よ』ニジュウハチ)。

 

 

 

 

 

 

これはわたしのばあい、エルをジカンともかんがえるから、ジカンイコールダブリュブンのイーともいえる(なぜティ[タイム]にしないかというと、かならずしもながれるわけではないからだ。テイシしたら、タイムというのかわからないので。)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、どうやってそれがうごくかまではセツメイできない。うごかなかったらエルとはいえない。だから、「ジカン」についていうときはただしいかもしれないが、うごくをネントウにおくとジャッカンテイセイがヒツヨウである。

 

 

 

うごくとはなにか。それはニンゲンのばあい、あるシツリョウをへらしてドウリョクにかえることである。グタイテキにはタンスイカブツやサンソをサイボウがドウリョクにかえることだ。かえたあとのものをコキュウやベンによりハイシュツする。サンソをとりいれ、ニサンカタンソをだす。タンジュンなブンシキゴウのヒカクではだすホウがシー(カーボン)のブンおおい。つまりそうやってドウリョク(サイボウタンタイをふくみ)をえるためにシツリョウ(シー)をへらしている。モチロンたべることをするのでシツリョウはまたゾウカする。しかし、ウンドウメンにかぎっていえば、シツリョウはゲンショウする。ロケットのばあいはうごくたびにネンリョウをショウヒする。だからつかったネンリョウのブン、シツリョウはへる。そうやってウンドウをカイシするにはシツリョウがイチジテキにせよへるのである。

 

 

 

 

 

 

 

ジュウロク、『よ』ゴジュウニ

 

 

 

 

 

 

 

わたしがガクセイのころ、ウチュウのモシキズをみたことがある。それにはウチュウがまるくえがかれていなかったが、わたしはまるいのではないかとおもう(キュウがた)。コロッケのようなかたちだとしたら、ジョウゲからなにかちからがかかっていないとそうはならない。しかし、そのアツリョクとはなにかともおもう。かべでもあるのだろうか。すくなくともケンキュウシャのあたまのなかにはある。

 

 

 

 

 

 

 

ジュウなな、『よ』ヒャクなな

 

 

 

 

 

 

 

ニンゲンのななわりはみずでできているという。それをエキタイとしてホジしている。チョウドそういうオンドでくらしているからだ。だからもっとあついところ、たとえばスイセイにいけば、ほぼジョウハツしてしまうし、さむいところ、たとえばドセイにいけばほぼかたまってしまう。だからそういうところでいきるには、みずイガイのなかみがヒツヨウだろう。たとえば、タイヨウのちかくならキンゾクだ。キンゾクがエキタイになってからだをジュンカンできるだろう。ギャクにタイヨウからとおいところではチッソのようななかみがいいだろう。やはりエキタイになってジュンカンできる。コキュウもかんがえると、あついところではスイジョウキをつかい、さむいところではニサンカタンソなどをつかう。このようにかんがえると、ウチュウジンは、キンゾクでできていたり、チッソでできていたりするだろう。みずでできたニンゲンはとりあえずできているが、ほかはどうかわからない。

 

 

 

 

 

 

 

ジュウハチ、『よ』ヒャクゴジュウヨン

 

 

 

 

 

 

 

サンビャクニジュッサイまでいきるホウホウがみつかった。ちょっとうさんくさいからヒャクロクジュッサイにしておこう。ヒャクロクジュッサイとはどういうことか。レイサイからヒャクロクジュッサイまでのみちのりをあるくのににている。つまりヒャクロクジュッサイブンうごくわけだ。もちろんサイボウなんかがうごくはやさをかえられるわけではない。

 

 

 

「ジカンかけるはやさがみちのり」という。ジカンやはやさがニバイになれば、ニバイのみちのりをすすむことができる。だからバイソクでうごければ、ニバイいきるようになる。それがコウリツカにもつかわれる。ここでの「コウリツカ」とはキギョウカツドウのである。だからガッコウでは「はやく」とせかされる。はやくできるホウがほめられる。しごとがはやければ、チンギンをすくなくしたり、しごとリョウをふやしたりできる。それはケイエイシャにとってわるくない。だから、ガッコウにニバイソクコースをつくればよい。と『アルクカラカンガエル』でいった。

 

 

 

しかし、ソクドだけではない。ジカンをニバイにしてもニバイのみちのりをあるける。そのジカンとはなにか。ツウジョウはチキュウがイッカイまわってイチニチである。そのイチニチをバイにできるかというと、それはむずかしい。とけいのニジュウヨジカンのあいだにニカイまわるということだからだ。それはいってみると、ガイブのモンダイだ。シゼンカガクテキなモンダイだ。ではそうでない「ジカン」とはなにか。ジブンがイシキするまである。それをもっとこまかくすれば、どういうことかというと、コウツウジコのシュンカンにゆっくりものがうごくようにみえるというぐあいにである。イチビョウのあいだにニビョウブンのこまかさをもてばいいのである。コンピュータでいえば、サンプリングをニバイすればいいということだ。ベツにそれはいそぐわけではない。ただニビョウブンのしごとができそうというはなしである。

 

 

 

それができればツウジョウハチジュサイまでいきるところを、ヒャクロクジュッサイブンいきるということができるだろう。ちなみにサンビャクニジュッキロのはやさですすむくるまがあっても、それだとヒャクロクジュッキロにかんじてしまうが、それでおそいとおもうなら、ロッピャクヨンジュッキロでるくるまをつくればいい。

 

 

 

ジュウキュウ、『よ』ヒャクロクジュウニ

 

 

 

 

 

 

 

むしがわたしのコップのなかにはいっていた。キュウシュツしてみたが、どうもフッカツするきざしがない。スイシ、イチである。なぜ、むしがコップのなかにはいるか。ニンゲンをみればわかる。きもちいいだろうとおもって、かわやプールにはいるのである。むしだってそうなのだろう。しかし、ときにジコがおこる。ニンゲンだっておぼれるのだ。むしにしたってそうなのだろう。このなつはヨンケンぐらいキュウシュツした。ザンネンながら、イッケンをのぞいて「デキシ」である。

 

 

 

 

 

 

 

ニジュウ、『よ』ヒャクハチジュウヨン

 

 

 

 

 

 

 

なぜタイヨウのまわりをワクセイがまわるか。それは、コウセイをチュウシンにまるでうずをまくようなちからがはたらいているからだろう。わたしはそれをうずまきリョクとよぶ(●よん、『ア』ヒャクロクジュウサン、キュウ、『む』ハチジュウハチ)。

 

 

 

そして、コウセイがもえさからなくなったらどうなるか。まず、コウセイからはなたれるブッシツ(たとえばスイソなど。「ひかり」といったホウがわかりやすいいかもしれない。)がはなたれなくなる。すると、そのブッシツによってたもたれていたコウセイとワクセイとのキョリがちぢまる。ニホンのウチュウケンキュウキカンがセイゾウしたエンジンのゲンリをかんがえれば、「ひかり」で、なにかものをスイシンさせたりすることはカノウということがわかるだろう。そしてやがてコウセイにのまれてしまう(それをブラックホールというようだが。)。

 

 

 

そのあとどうなるか。もし、あるケイトウをカイリョウしたホウがいいとなると、これはシュギ、シュチョウがわかれるだろうが、それまではなっていたエネルギー、ブッシツをすべてカイシュウして(うずまきリョクをつかえばカノウだ。)またもえるではないか。むかしのオウベイジンだろうか、しぬことを「テンにめされる。」といった。これはどういうことか。これは、コウセイのもとへいってネンリョウになるということでないか。そうすれば、のこされたひとたちには、ヘイワが(いつもどおり)ケイショウされるのである。

 

 

 

アンガイ、「カガク」がハッテンしたというゲンダイのホウがそういうメンににぶいかもしれない。でも、「リセット」されそうになったら、タイヨウケイのそとにげるというのもわかるはなしだ。ウチュウセンでベツのケイトウににげれば、あるワクセイでハッタツした「ニンゲン」もいきのびるだろう。だが、それをダイダイテキにやったケッカ、「ニンゲン」がハッセイしたケイトウが「サイセイフノウ」になるのは、ただしいかというとむずかしい。たしかにセッカク、シンカしたのだからである。でも、そういうリセットはたびたびおこっているようにおもわれる。だから「ウチュウ」がひろがっているというのは、みているわたしたちのセイゾンへのキボウがひろがっているだけのことかもしれない。ウチュウもやはり、ブッシツをカイシュウしようとするわけだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

ニジュウイチ、『オンガクイチエンのジダイ(イカ、「オ」)』よん

 

 

 

 

 

 

 

エーからビーにすすむのに、イチビョウかかれば、イチビョウカンかかったという。くるまにしても、くるまでもヒコーキでもイドウするにはジカンがかかる。くるまにしても、ヒコーキにしても、ニンゲンがつくりだしたものである。それはチキュウジョウでソクドのはやいブルイだろう。いまのところイチバンはやいとされているのが「ひかり」である。これはニンゲンがつくりだせるか。たしかにデントウはつくったようだ。

 

 

 

ところで、イドウにはエネルギーがヒツヨウである。くるまならガソリン、ヒコーキならジェットネンリョウである。それはどうショウヒされるか。おおきいものをうごかすと、よりおおきなエネルギーをヒツヨウとする。ちいさなものならすくなくすむ。それからなにかいえないか。そう、「ひかり」よりもちいさなブッシツをつくれば、ひかりよりはやくイドウできるだろう。これを「こまびかり」といおう。なんのやくにたつかはわからないが、チキュウジョウのリヨウだけでも、ジョウホウがはやくうごくようになるわけだから、セイサンセイがあがるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

ニジュウニ、『オ』ゴ

 

 

 

 

 

 

 

わたしがまえにかいたホン『よろこぶゲンシジン』に、わたしがかんがえたジカンリョコウ(タイムトラベル)のゲンリをかいた(●ジュウニ、『よ』ニジュウイチ)。ゲンリだけでなく、セッケイもカンタンだが、セッチがむずかしい。コンカイはそのカイゼンバンについてかく。

 

 

 

カンタンにいえば、イチネンマエをみるために、ハンコウネンさきに(オウフクでイチネン)かがみをおくのでなく、チキュウジョウにかがみをおくのだ。そのかがみは、イチネンまえのひかりがみえるように、タイリョウのかがみによるハンシャをくりかえして、イチネンブンイドウするようにハイチする。これでイチネンまえがみえるわけだ。ただ、カコのひかりとゲンダイのひかりでコンランしないように、カコのひかりは しろくろにするなどのショリをしたホウがいいとおもう。

 

 

 

ニジュウサン、『オ』ハチ

 

 

 

セッチョで、ジカンとはエネルギーわるシツリョウといった(●ジュウよん、『よ』、ニジュウハチ)。

 

 

 

 もっとタンジュンにいえば、エネルギーわるシツリョウがコウゾクキョリである。それをセイリするとシツリョウがはじきだせる。そんなことをしなくてもはかりではかればシツリョウはだせるだろうが、それでだせるのは、チキュウジョウでのおもさである。つきでそのはかりをつかってはかれば、スウジがかわってくる。

シツリョウはエネルギーわるジカンである。

 

 

エネルギーがおおきくても、ジカンがレイ(ジリキでうごけないといえばよいだろう。)ならばシツリョウもレイになる。これはどういうことか、あなたのいえのジショはジリキでうごけないから、シツリョウがレイということになる。おもさはあるじゃないかだが、ウチュウにおいておけば、なにかちからをくわえないかぎり、うえにもよこにもうごかないということだろう(コウセイからのうずまきリョク[インリョク、●よん、『ア』ヒャクロクジュウサン、キュウ、『む』ハチジュウハチ、ニジュウ、『よ』ヒャクハチジュウヨン]でひっぱられるとおもうが。)。しかし、チキュウがうごいているために(このレイでいえばエンジンだ。)ジカンがレイではない。そのためにシツリョウがあるとなる。

 

おもしろいのが、ジカンがレイかレイでないかである。フツウ、ニンゲンが「モノ」というモノは、ジリキでうごけないから、シツリョウはレイである。しかし、セイタイだと、レイイジョウになる(たとえば、チキュウジョウであしをつかってうごくだろう。ウチュウでは、てあしをうごかしてもすすめないかもしれない。)そうやって、セイタイとモノをハンベツできる。モノでもロボットはうごくから、シツリョウがレイイジョウになる。だから、ランボウないいかたをすると、ロボットはセイタイといえるかもしれない。だから、ロコモーティブ(うごき)をはかっても、シツリョウをはかってもセイタイかどうかは ソクテイできるのである。

わたしがギロンする「タイミック(●ジュウよん、『よ』ニジュウハチ」はジカン(ティ)イコール ティイチ わる ティシー(タイミック)のティシーである。

 

 

つまり、ジカンにまつわるシツリョウ(イドウにかんするシツリョウ。たとえば、つきのインリョクなど。)をわりだせば、ゼッタイテキなジカン(イドウのイッテイセイ[キョリ])がはじきだせるというものだ。タンジュンにいえば、ウチュウヒョウジュンジができるというわけだ。

ただ、ジカン イコール ゼッタイジカン かける ティシー(ジカンケイスウ)のシキはインリョクがレイになると、

 

 

レイになってしまう。そんなことはありうるかであるが、ウチュウのなかではそういうジョウケンはないとおもわれる(ヨダンだが、たとえばみっつのコウセイのまんなかに、ハイチされるなにかがあったばあいに、ジカンがレイになることはあるかもしれない。これをわたしはデッドロックとよぶ。)。だからこれでいいとかんがえている。わたしは、ウチュウはサイセイ(リサイクル)されたホウが(いまやるということでない。)いいとおもっているので、そうかんがえる。

 

 

ニジュウよん、『オ』ニジュウよん

 

 

 

なぜテンにめされるといういいかたをするか。それはウチュウをサイセイサンしたホウがいいからである(と、わたしはかんがえる。)。どういうことか。ウチュウはひろがりつづけているという。ベツにそんなおおきくかんがえなくてもいい。タイヨウのもっているすべてのシザイをホウシュツしてしまったらどうなるか(ひかりもシザイである。)。タイヨウはもえなくなり、タブン「ブラックホール」になるだろう。そしてもともとのシゲンはとおくにいってしまっている。またもえるのをサイカイさせようとおもったらどうか。またシザイをあつめるしかない。だから、ブラックホールはいろいろとすいこむといわれるのではないか。またシザイがあつまれば、またもえることができるのだ。つまり、ニンゲンなんかはテンにめされたホウがよいのだ(あなたがタイヨウケイのながつづきをキボウするのならだが。)。そうすればタイヨウはながくつづく。テンにめされてもいいし、リンネテンセイでもいいのである。

 

 

 

ニジュウゴ、『オ』サンジュウキュウ

 

 

ウチュウはどんなかたちか。わたしがガクセイのころ、とつがたのズをみたことがある。ひらべったいが、チュウシンフキンはでっぱっている えである。しかしホントウにそうなのか。わたしはいまのところ、たしかめようもないが、キュウケイをカテイしている(カッテカガクをやっています。)。なにかちからがかからないと、ヘンペイにはならないからだ。えにかいたひと、もしくはそのかたちをテイショウしたひとは、なにかちからがかかっているとカテイしているのだろう。ジッサイにそうなっているかはともかく、すくなくとも、かれらのシンリコウゾウのなかではそうなのだろう。イッタイどんなちからがかかっているのだろうか。

 

 

 

ニジュウロク、『オ』ゴジュウニ

 

 

 

「うまれかわり」などという。「ゼンセイはなんだったか。」というはなしも、わたしがこどものころにきいたことがある。それはイデンのはなしではない。マテリアルのはなしである。

 

エーさんというひとがいたとして、そのエーさんのイチブは、もと うし や、もと ホウレンソウでできていることは、ヨウイにソウゾウできる。わたしも(このいいかたがテキトウかはわからない。「わたし」は、ジョウホウであるカノウセイがあるからだ。)、そういうぐあいである。わたしがしんだら、タブン、カソウされて、ほねと キタイと かすがのこるんだろう。そこからどうリサイクルされるか、なんかのドウブツ、ショクブツの かてになるかはわからない。ほねは、はかなどでホゴされるだろうし、キタイはふたたびリクチにおりてこなければわからないし、かすはカソウジョウのゴミとしてショリされるのだろう。

 

こういうかんじでは、「うまれかわり」はゼツボウテキだ。わたしはドソウができないのなら、サンコツとかジュモクソウにしてもらいたいかもしれない。サンコツやジュモクソウなら、ショクブツにほねがキュウシュウされて、それがドウブツにたべられてという「うまれかわり」がセイリツする。わたしをかりにマスター(シソ)としたら、そのイチブたちがうまれかわりをするわけだ。その「イチブ」をワンスルーということにする。ワンスルーがうまれかわりをするということは、もののリサイクルである。だからそうするばあいは「ライセイ」のはなしにもなる。

 

くさからドウブツ、そしてニンゲンになれればたいしたものだ。そういうわたしもカコのだれかのワンスルーがふくまれているかもしれない。ヨウするに、ゼンセイのゼンセイがニンゲンだったかもしれないのだ(ゼンセイはショクブツかドウブツがほとんどだろう。たまにキンルイとかコンチュウもあるかもしれない(きのこ、いなごなど)。

 

だからゼンセイをさかのぼっていくと、やっぱりマスターにいきつくだろう。ニンゲンのマスターのことをセイショではゲンキュウする。そこからまえのはなしになると、どうもたちばがわかれるようだ(かみがつくったとか、シンカしたとか)。マスターヒューマンのゼンセイはどうだったか。やっぱりくさとかドウブツだったとか かんがえるのがシゼンでないか。イデンシをしらべればわかるといったって、サイボウのフクセイギジュツはジョウホウである。ものがなければフクセイはできない。もののありかたにオウじて、ギジュツがハッテンしたのではというきがする。

 

だから、くさとかドウブツのブンシをしらべれば、かこにあったもの、シンカするまえのくさ、ドウブツのすがたがソウゾウできるのではないかとおもう。しかし、くさ、ドウブツ、プリヒューマン、ヒューマンというジュンカンはそれほどかわらないとおもう。だが、セッキ、テッキをハッタツさせるまえの「プリ」ヒューマンはドウブツのセッシュがすくなかったようにおもう。だからゲンシテキなヒューマンは、くさ、プリヒューマンというジュンカンだっただろう。「はか」をハッタツさせるまえだったら、くさ、「プリ」ヒューマン、ドウブツだっただろう。つまりドウブツのホウが、カイソウがたかいのだ。それをマイソウギジュツのハッテン(はじめのうちは、ユウリョクシャだけだっただろう。)により、「プリ」ヒューマンがカイソウをあげた(もはやヒューマンかもしれない。)。セッキのハッタツもジュウヨウだが、それでもやっぱりドウブツのホウがうえとなる。もっとまえになると、ショクブツよりカイソウがひくかったかもしれない。つまり、うごけないプリプリヒューマンである。ショクブツ(こけのような)にキセイされるようなプリプリヒューマンである。

 

プリプリヒューマンのまえはわからないが。さるからハッテンしたといわれたりもするが、ホントウのところはわからない。さるはさるでのこっていわけだから。イデンシがにているといってもそれはショクリョウのキンジであろう。それともコンゴ、ポストヒューマンをみとめるのだろうか。ポストヒューマンをみとめるとしたら、シンカのズシキにあるようなえだわかれもカノウだろう。まぁ、ブゾクあらそいなんかしてもしょうがないのだが。

 

ひとついえるのは、セイショがかかれたのは、はかがハッタツしたあとだろう。それかドウジキだったかもしれない。だから、「ニンゲンがチキュウをシハイ」なのだ。エジプトおうのコウセキがおおきいだろう。あんなおおきなはかをつくったのだから。そのまえはほかのドウブツがチョウテンだった。もしヨゲンシャがジュウヨウなもののハッテンのときにあらわれるのならば、セッキをつくったときにもあらわれるはずだ。ただそれをキロクするものがなかったかもしれない。ただ、はかとドウヨウにフキュウしただろう。ただ、ニホンにはイッパンテキに「サイゴのシンパン」のかんがえがないので、もやしてしまうのだろう。リンネテンセイのホウがいいとおもうのだが。

 

 

 

ニジュウシチ、『オ』ゴジュウなな

 

 

 

さきにはなした「ゼンセイ」のはなし(●ニジュウロク、『オ』ゴジュウニ)は、もののはなしである。イデンシによってサイボウがフクセイされるというのは、どちらかというともののはなしではない。「もの」はほかにヒツヨウだからだ。だから、ジョウホウとかギジュツであろう。サイキンは「ゼンセイ」のはなしをあまりしなくなった。むかしはだれかがしているのをきいたものだ。「オカルト」とかそっちのホウのあつかいになっているかもしれない。そういうわたしも、そのてのはなしは、すきではなかった。ヒカガクテキなはなしのようにおもっていた。

 

しかし、よくかんがえてみると、「もの」のはなしである(ニンゲンのからだをコウセイするブッシツの)。だからそれはたしかなのである。ただそれがどこからどこにいったといったはなしは、タイテイオクソクだからウサンくさい。そういうことである。ジョウホウにはいいカゲンなそれがある。ただそれだけだ。

 

ところが、サイキンそのはなしをしない。どうもイデンのホウが、セットクリョクがあるのだろう。ガッコウでもおそわる。しかし、それがどのザイリョウをつかってカノウになるかはあまりいわない。セツメイはカノウだろうが、そういうもののはなしはしない。そういうのを「ジョウホウカシャカイ」というのだろう。そのジョウホウをしったって、ものがなければくみたてられない。だからしょうがないといえばしょうがないはなしなのである。そういうものぬきのはなしにどこまでたえられるか。オンガクもビデオもホンもデンシカ。もののないなにかである。むかしはジンリキでつくっていた。それをアートとよぶ。どこまでジョウホウカするのかはわからないがアートをダイジにしたい。

 

 

ニジュウハチ、『オ』ゴジュウキュウ

 

 

 

ワンスルーのはなしをした(●ニジュウロク、『オ』ゴジュウニ)。マスターヒューマンのイチブだったそれには、マスターヒューマンのほかのイチブというキョウダイというかドウシというかがあるだろう。マスターヒューマンがしんでブンカイすると、そのタスウのワンスルーはカクサンする。そしてつぎのショクブツやドウブツのコウセイブツになるわけだ。センコ ワンスルーがあれば、センコのドウショクブツのコウセイブツになるかもしれない。そうすると、そのセンコのワンスルーのエンで、センコのドウショクブツはキョウダイといえるかもしれない。それがくりかえされると、シンセキがふえていく。そうかんがえると、カケイでなくて、ものとして、ケッコウなかずのひととキョウダイであるといえそうなのだ。それをニンシキできるかはわからないがそういうエンもありそうだ。

 

 

 

ニジュウキュウ、『オ』ロクジュウキュウ

 

 

 

「はか」がセイブツカイにおけるニンゲンのカイソウをあげたことをシテキした(●ゴジュウニ)。これはユウメイなのでエジプトおうのはかがある。こういったはかでまもれば、ほかのドウブツにシタイをたべられないわけだ。それからキュウヤクセイショができた。「ニンゲンがほかのドウブツをシハイする。」とかかれている。こうかかれると、それをタッセイするために(ほかのドウブツにたべられるようじゃ、くらいがたかいとはいえない。)、はかをつくるだろう。だから、キリストキョウは、はかのシュウキョウとよべるかもしれない。

 

それをヨーロッパではニセンネンほどつづけ、ジュウキュウセイキになってニーチェがでてきた。かれは、「かみはしんだ。」といい、サイセイをといた。ほかのなにかにサイセイされるということを。その「サイセイ」というのは、「リンネテンセイ」のようなはなしでないか。つまり、ニセンネンほどニンゲンがセイブツカイでサイジョウイとして、ほかのドウブツにたべられないようにしていたが、そうではなく、ニンゲンもリサイクルしたホウがいいということではないか。たしかにキリストキョウカイのセイリョクが、よわくなっているときく。しかし、マイソウについては、サンコツやウチュウソウなどでてきたが、まだフツウのマイソウがおおいとおもわれる。たしかにリサイクルのシソウはひろまっているようだが、まだニンゲンのカイソウをおとすようなかんがえが、タスウにシジされにくいとおもわれる。そういうイミではまだ「かみ」はしんでいないのである。ただ、このゴはどうであろう。

 

 

 

サンジュウ、『オ』ななジュウゴ

 

 

 

ウチュウのはじまりは「ビッグバン」でセツメイされることがある。バクハツだから、ウチュウはそとがわにむかってひろがっていく。そうすると、バクハツのチュウシンでは、ものというかシゲンというかはすくなくなるだろう。それでそとへむかってシゲンがイドウし、ウチュウはどうなるのか。

 

ここでいいたいのは、ウチュウのサイセイサンはどうなるのかということだ。そんなことしるかといわれるかもしれないが、ながもちするといいだろう。タンジュンなコウセイのばあい、やがてもえきって、「ブラックホール」になるとおもわれる。それで、うそかホントかはわからないが、シゲンをよびもどすわけである。これならサイセイサンである。ウチュウジタイもやはりそうなのでないか。ムダにしないようなしくみがあるじゃないかとおもう。ちいさなまるとドーナツがたのくりかえしでないか。

 

 

 

サンジュウイチ、『オ』ハチジュウイチ

 

 

 

ニホンでは、ひとがしんだあと、そのシタイをカソウする。そうすると、ほねだけがのこる。それをマイソウする。しかし、それはちょっとどうなのかともおもう。なぜはかにマイソウするかといったら、ひとつはさきにのべたように(●ニジュウロク、『オ』ゴジュウニ、ニジュウキュウ、『オ』ロクジュウキュウ)、ほかのドウブツにたべられないようにするためだといえる。これはキリストキョウケイのカチカンであろう。そうやってニンゲンのくらいをイジするのである。

 

しかし、「リンネテンセイ」だとか「サイセイ」また「リサイクル」というひともいる(●ニジュウキュウ、『オ』ロクジュウキュウ)。それだったらほかのドウブツにたべてもらったホウが、いのちのエイゾクセイがあるともいえる。つまり、あるひとがもっていたブッシツとしてのからだ(わたしはワンスルーといっている[●ニジュウロク、『オ』ゴジュウニ]。)が、ほかのドウブツ、ショクブツにひきつがれるのだ。だから、きみのライセイはたぬきか、などとはなしができる。

 

かならずしもキリストキョウのように、「ニンゲンがほかのドウブツをシハイしなければならない。」ではないから、そうやってリサイクルをすればいいようにもおもえる。たしかにテンにめされることも(●ニジュウよん、『オ』ニジュウよん)(セイブツではなくて)、もののメンでダイジかとはおもうがテキトウなバランスをみて、リサイクルをすればともおもう。カソウしてゼンメツさせなくてもとおもう。「テン」にめされるとナンオクネンとシンカしたのをもうイッカイとなるし、「テン」にめされないひとも、「リサイクル」され、ゲンダイのセイメイのホゼンにひとカツヤクする。それでいいのではないか。

 

 

 

サンジュウニ、『オ』キュウジュウイチ

 

 

 

ガッキはなにかをシンドウさせておとをだす。そのギャクもある。おとがおおきいとなにかがシンドウしはじめる。そのシンドウでもおとがでる。しかし、あるシンドウがとまれば、やがておともやむ。そのおとによってシンドウしたなにかも、ふるえるのをやめる。そのまたおともやむ。チキュウジョウだと、シンドウはやがてとまるようだ。

 

レイガイテキにフィードバックというのがある。おととシンドウをジュンカンさせるわけである。これだといつまでもなっている。ひかりはどうだろうか。ひかりから「シンドウ」のような あるイベントをハッセイさせて、それをループすることができれば、ウチュウはおわないようなきがする。ひかりをサイド、(コウセイがもえつきそうになっている)ブラックホールにかえし、コウセイにもどすのである。

 

 

 

サンジュウサン、『オ』キュウジュウニ

 

 

 

ニンゲンエーがイーにイドウしてエフにイドウした。これはわかりやすいはなしだ。エーがはじめディにあって、イーにいってエフについたと。しかし、(たとえば)イッセンマンニンのひとがイッセイにエフをめざすといったときに、どれだけそれぞれのうごきがわかるだろうか(エフにちかづくことはわかるけれども)。それをセイリすると、ビーさんがイーにイドウした。シーさんがジーにイドウした。ダブリュさんがイーにイドウした。ほかタクサンとなる。ケッキョク、なにかのチツジョ、たとえばジカン、なまえのジュンジョなどをつかって、ひとりずつジュンジョづけていくのがわかるやりかただ。それをおこなってはじめて、そのレキシなどをえがけるようになる。いいカゲンなケイソクをすると、カンゼンなレキシとはよべなくなる。

 

しかし、これはコンキのいるサギョウだ。かならずチョクセンジョウにできごとがキジュツされるわけではない。たとえば、ハチジイップンゴビョウにシーさんがジーに、ワイさんがイーにトウチャクするとなると、どちらをさきにキジュツしたらいいかわからない。そこでどうするかがモンダイとなる。こういうカダイ、かりに「タヨウジョウケンのセツメイ」といっておく、をとくために、ふたつのセンをつかったりするのでないか。もしくはもっとこまかくジカンをはかる。そうすると、どちらがさきかがわかる。それならひとつのセンでつづけられる。

 

ひとつのセンにするというと、まるでゲンザイのカガクのようなこまかいケイソクがヒツヨウになるのだろう。つまり、それを(カガク)をやっているうちは、レキシはひとつでありそうなのである。「タヨウ」だからしょうがないなのだが、それをキレイにセツメイしようとするドリョクは、いろいろなところでおこなわれている。

 

 

 

サンジュウよん、『オ』キュウジュウゴ

 

 

ニンゲンのリサイクル(テンにめされる。)のはなし、ウチュウのイジのはなしをした(●ニジュウよん、『オ』ニジュウよん、サンジュウイチ、『オ』ハチジュウイチ)。そうするとながもちするわけだ。しかし、ジュウヨウなといもある。それは、セッカクできたニンゲンはどういきるかというはなしである。

 

そういう「ながもち」をかんがえなければ、カッテにいきて、カッテにしねばいいんじゃないかとなる。ばあいによってはウチュウがほろびても、ニンゲンだけがいきのこればいいというかもしれない。しかし、タブン、ニンゲンはウチュウのイッコシゲンなわけだから、そのシステムにホウシすべきともいえる。かといって、イッカイジンルイがほろびて、またあたらしくハッセイするようなことをくりかえすというのも、なんだかバカらしいきがする。もうナンカイもニンゲンはほろびたのかもしれない。はたしてニンゲンはどういきるべきか。メイワクかけないテイドにおもいおもいにいきればいいのかな。

 

 

 

サンジュウゴ、『オ』キュウジュウなな

 

 

 

タヨウジョウケンのはなしをした(●サンジュウサン、『オ』キュウジュウニ)。タヨウジョウケンとは、いくつものインガをふくむセイリしづらいゲンショウなどである。そういうのをセイリしていくと、ホウソクがみつかるかもしれない。むかしのひとはカンタンなジョウケンからいくつものホウソクをみいだしていた。それをわかいひとはガッコウでまなぶ。カガクシャになるひとは、そういうモンダイにチョウセンするだろう。

 

しかし、どうもサイキンはコンピューターだよりのきがする。トウケイデータをてケイサンすることもできるが、あまりそういうことをするひとはおおくないだろう。ケンキュウがコンピューターイゾンになっているということだ。それはアートではない(●ニジュウシチ、『オ』ゴジュウなな)。たしかにコンピューターのハッタツにより、よりフクザツなジョウケンでもセイリしやすくなっただろう。ただ、そんなかんじでケンキュウするなら、ケンキュウシャのなまえをかくところに、まるまるコンピューターなどと、ヘイキするといいかもしれない。ニンゲンがケンキュウしているのか、うたがわしいからだ。

 

 

 

サンジュウロク、『オ』ヒャクジュウなな

 

 

タイヨウはうずまきリョク(あたりのものをカイテンさせる)がある(●よん、『ア』ヒャクロクジュウサン、キュウ、『む』ハチジュウハチ、ニジュウ、『よ』ヒャクハチジュウヨン、ニジュウサン、『オ』ハチ)。だからチキュウがコウテンする。しかし、チキュウにもやはりうずまきリョクがある。つきがまわるからそういえる。うずまきリョクとはなんなのか。

 

わたしは、もえることのケッカだとおもう。タイヨウはもえている。チキュウもまたナイブではもえているとされる。たまにフンカするのがそれだ。よく、「とんでひにいる なつのむし」という。ひのあたりにいるむしが、ひのなかにはいってしまうということばだ。このように、ニンゲンにはかんじづらいが、ひのホウにながれるうずがあるのではとおもう。それならチキュウも、のまれちゃうではだが、ひかりなどのアツリョクで、セッキンしないものとおもわれる。

 

 

 

サンジュウなな、『オ』ヒャクジュウハチ

 

 

 

タイヨウケイはやがてタイヨウがブラックホールカし、いろいろブッシをひきよせてサイセイをはかる(●よん、『ア』ヒャクロクジュウサン、ニジュウ、『よ』ヒャクハチジュウヨン、ニジュウよん、『オ』ニジュウよん、サンジュウ、『オ』ななジュウゴ、サンジュウニ、『オ』キュウジュウイチ)。そうなるとチキュウにすむニンゲンもよばれるわけだが、おとなしくネンリョウになるだけでよいのだろうか。

 

セッカクきずいたブンメイも、チキュウごとネンリョウにされては、もはやつづかない。にげていきのびるにせよ、なにもないところからまたはじめなければならない。それでいきのびられるかはフメイだが、そうすることもできる。どこかケイトウガイのワクセイにふたりのニンゲンをおくりこむ。そのふたりがいきのこるかはわからないが、それはまるでセイショのはなしのようである。ふたりがいきのこれそうなところをさがして、おくりこむのもいいかもしれない。これがはじめてかはわからないが。

 

 

 

サンジュウハチ、『オ』ヒャクジュウキュウ

 

 

 

ひかりはなぜすすむか。なにかうごきだすきっかけがあるのだろう。また、そういうきっかけとはベツに、ひかりがイドウすることによる、ベツのもののイドウもおこっているのではないか。タンジュンにいえば、カイチュウをふねのドウタイがイドウして、みずがふねのシンコウホウコウとはギャクにイドウするというぐあいにである。そうだとしたら、わたしたち、なのかだが、は、ひかりをえるとドウジに、なにかをうしなっていることになる。それがなんなのかわたしは いまのところわからない。

 

 

 

サンジュウキュウ、『オ』ヒャクよんジュウロク

 

 

 

「ロンリテキシコウ」などという。ゲンインからケッカまでをチョクセンテキにセツメイすることをそういったりするだろう。そうやって、タショウヘイレツはあるかもだが、ものごとをチョクセンテキにキジュツする。それはなぜか。ニンゲンはことばをドウジにフクスウつかえないからである。たとえば、「みかん」といいながら「コーヒー」ということはできない。だから、チョクセンテキにキジュツするホウホウをとる。ことばのセイシツからそうなるわけである。

 

しかし、よのなかはケッしてチョクセンだけでセイリツしているわけではない。エーさんがたまけりをしていて、ビーさんがさけをのんでいるなんてバメンもあるだろう。ことばとしては、どちらかがさきで、どちらかがあとにされるだろうが、それはドウジになされているし、ニンゲンもそれはドウジになされていることをニンシキする。だから、しかたがないのだが、エーさんがたまをけり、ビーさんがさけをのんでいるというセツメイがただしいとはかぎらない。モチロン、ビーさんがさけをのんでいて、エーさんがたまけりをしているでもない。ニンゲンのことばのツゴウジョウ、そういういいかたをするだけであって、ベツにただしいわけではない。

 

まえにタヨウジョウケンのはなしをしたが(●サンジュウサン、『オ』キュウジュウニ、サンジュウゴ、『オ』キュウジュウなな)、そういうはなしである。ことばジョウはどちらかがさきになるが、ゲンジツはヘイレツテキにうごいているのである。そして、ニンゲンも、チョクセンもリカイするが、ヘイレツもリカイする。だから、チョクセンテキなことばがただしいとはかぎらないのである。というよりも、ことばのセイシツジョウ、ことばでセツメイするのはあやまりといえるかもしれない。それがわかっているからか、わたしはあまりおしゃべりではない。しずかにカンサツするのもすきである。

 

ことばにすると、イチリンのはながさいている。そしてもうイチリンもさいている。だが、ジュウリンのはながさいていることをみていたりする。チョクセンテキなシコウもきらいではないが、ヘイレツテキなプロセスもダイジなのではとおもう。しかし、ことばをつかうのだったら、チョクセンにならざるをえない。たぶん、そういうわけだから、ブンメイジンはチョクセンテキにかんがえたホウがいいだろう。

 

 

 

よんジュウ、『オ』ヒャクゴジュウロク

 

 

 

うずまきリョクがあるから、そのちかくのものは、うずまきにひきよせられる(●よん、『ア』ヒャクロクジュウサン、キュウ、『む』ハチジュウハチ、ニジュウ、『よ』ヒャクハチジュウヨン、ニジュウサン、『オ』ハチ、サンジュウロク、『オ』ヒャクジュウなな)。そのギャクホウコウのちからがあったらどうなるか。ひかりさえもよせつけない、まっくらなセカイになるだろう(●サンジュウロク、『オ』ヒャクジュウなな)。ウチュウにひとのすめるようなクウカンをかんがえると、ひるとよるがあったホウがいいのでは、とかんがえたりするだろう。そういうときにギャクうずまきリョクをつかえれば、ひるとよるができる。しかし、もっともタンジュンなカイケツサクは、よるみたいにしたいばあいは、シャッターをしめることだ。そうすればくらくなる。

 

 

 

よんジュウイチ、『オ』ヒャクロクジュウイチ

 

 

 

ウチュウはくろいというイメージがある。くろはひかりをキュウシュウするから、とおくのほしのひかりもチキュウからみえるのだろう。だから、ひかりをハンシャするという しろでウチュウクウカンがコウセイされていたら、とおくのほしからのひかりは、とどかないとおもわれる。ニンジュツでいうくもがくれだ。そういうわけだから、ウチュウのそとがしろいクウカンでできていたら、ひかりがハンシャしてウチュウにもどるだろうから、ウチュウはながもちするだろう。

 

 

 

よんジュウニ、『オ』ヒャクロクジュウニ

 

 

 

セッチョ『アルクカラ カンガエル』で、うずまきリョクのことをかいた(●よん、『ア』ヒャクロクジュウサン、キュウ、『む』ハチジュウハチ、ニジュウ、『よ』ヒャクハチジュウヨン、ニジュウサン、『オ』ハチ、サンジュウロク、『オ』ヒャクジュウなな、よんジュウ、『オ』ヒャクゴジュウロク)。うずまきリョクとはなにかというと、よくいわれるいいかたでセツメイすると、「ジュウリョク」である。タイヨウのまわりをはなれずに、ワクセイがまわるちからのことだ。「ジュウリョク」でいうと、ジュウリョクが、タイヨウにちかづくちから、「エンシンリョク」がタイヨウからはなれるちからだろう。

 

なぜ、その「うずまきリョク」があるか。「とんでひにいる なつのむし」という(●サンジュウロク、『オ』ヒャクジュウなな)。ベツにひにちかづかなくてもよさそうだが、ひのなかにむしがはいってしまう。そこからかんがえると、うずまきリョクとはもえることが、つくりだすとかんがえられそうだ。フツウによくいわれるはなしでは、「もの」にジュウリョクがあるといわれている。しかし、そうでなく、もえているところから、うずまきリョクがハッセイするのである。よくいわれるようにいうと、もえているからジュウリョクがハッセイするのである。チキュウもナイブではもえているし、ほかのワクセイももえているだろう。ウチュウでひをたくと、そこに、うずまきリョクがハッセイするということだ。だから、ウチュウのごみソウジはアンガイカンタンかもしれない。

 

 

 

よんジュウサン、『スーペリアーをみつけた。(イカ、「ス」)』ジュウキュウ

 

 

 

カコをみるボウエンキョウのはなしをした(●ニジュウニ、『オ』ゴ)。イチネンまえのひかりをみれば、イチネンまえがみえるというわけだ。しかしそれなら、おおきなセツビをととのえて、カコをみなくてもいいかもしれない。ビデオカメラにキロクすればいいからだ。

 

ただ、それでイチネンまえをみたところで、ジカンリョコウをしたきにはならない。それなら、カコのエイゾウとコミュニケーションすればいいかもしれない。たとえば、イチネンまえのエイゾウに、「あしたははれるか。」ときいて、エイゾウのひとが、「はれますよ。」とこたえる。このうけこたえを、エーアイをつかってやれば、ジカンリョコウしたきになるかもしれない。それで、「いや、あしたはあめふるんだよね。キロクにそうある。」などとはなせばよい。カソウジカンリョコウであるが、おもしろいかもしれない。

 

 

 


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よんジュウよん、『ス』ニジュウ

 

 

 

 

 

ジカンイコールゼッタイジカンかけるジカンシツリョウのはなしをした(●ニジュウサン、『オ』ハチ)。

 

 

 

 

 

 

 

 

カンタンにいうと、ジカンシツリョウ(いろいろなほしのインリョク[ウズマキリョク])のエイキョウをのぞけば、ゼッタイジカンがかぞえられるというはなしだ。

 

そして、ジカンイコールエネルギーわるシツリョウ(ジカンをロコモーティブ[コウゾクキョリ]とよみかえれば、わかりやすい。●ニジュウサン、『オ』ハチ、ジュウゴ、『よ』サンジュウニ)だから、

 

 

 

 

 

 

 

いくつかのコウセイにかこまれて、インリョクがつりあって、そのチュウシンにあるなにかが、まったくうごかないとなると、エネルギー イコール レイ ゆえに ジカン イコール レイになる(●ニジュウサン、『オ』ハチ)。スウシキジョウは、ジカンがながれないことになる。これをデッドロックといおう。ジッサイのウチュウにこういうデッドロックがあるかはわからないが、このデッドロックはウチュウのケンキュウにつかえそうなのである。

 

 

 

このデッドロックのチュウシンにコタイがあるとする。コタイはインリョクがつりあいうごかないが、やがて、インリョクにひかれてボウチョウするかもしれない。ベツのいいかたをすると、オンドがあがるわけだ。それがつづくと、コンドはキタイになる。そのキタイはデッドロックのまわりのコウセイにひきつけられ、どうかしてしまうだろう。このデッドロックのチュウシンにあるのをウチュウゼンタイとカテイすれば、ウチュウはやがてウチュウのそとにいってしまうということになる。これが、「ウチュウがボウチョウする」リユウなのでないか。そのゴ、キタイがひやされて、さらにコタイになってもとのイチにもどれれば、ウチュウのサイセイサンはカノウだろうが、どうもサイセイサンができることは、わたしはまだカクニンしていない。

 

 

よんジュウゴ、『ス』サンジュウ

 

 

 

どこかイッテンにネツがあると、まわりのすずしいなにかが、ネツのホウにちかづき、ネツのあるなにかも、すずしいテンのホウにむかい、やがてネツのあるテンとすずしいテンのオンドのヘイキンのオンドにおちつくであろう。だから、その「なにか」に、イドウにあわせて、すずしいホウへのシンコウリョクが、ネツのホウへのインリョクがショウじるといえるだろう。

 

インリョクをもつブッシツより、シンコウリョクをもつブッシツがかるければ、シンコウリョクがひくい(インリョクがつよい)といえるだろうし、インリョクをもつブッシツのホウがかるければ、インリョクがひくい(シンコウリョクがつよい)といえるだろう。

 

タイヨウとそのケイのワクセイは、インリョクとシンコウリョクがわりとつりあっているようである。チキュウをなにかのホウホウでひやせば、タイヨウのホウへひっぱられるだろうし、あっためれば、タイヨウからはなれるであろう。だからチキュウがオンダンカすると、イチネンがながくなるのではないか。イチネンがサンビャクななジュウニチになるかもしれない。しかし、あまりそのことはギロンされない。きになるのは、ヘイジツがふえるか、キュウジツがふえるかであろう。

 

 

 

ヨンジュウロク、『ス』サンジュウイチ

 

 

 

インリョクをもつということはネツがなければならないとなる(●よんジュウゴ、『ス』サンジュウ)。「ビッグバン」のはなしでいえば、ウチュウのチュウシンからネツがそとがわにイドウする。「バクハツ」ならブッシツもそとがわにいくだろう。だから、ウチュウがひろがるとかんがえられている。でも、ネツはそとがわにいくにつれ、ウチュウのチュウシンのオンドとくらべひくくなる。つまりウチュウのそとがわがあたたまるわけだ。ウチュウのそとのオンドがひくければ、ウチュウはそのオンドとのヘイキンまであたたかさがおさえられる。とドウジにウチュウのそとから(あれば)ブッシツがはいってくる(なければオンドはさがらない。)。

 

ウチュウのそとのオンドがたかければ、ウチュウは「ビッグバン」でハッセイしたのではないとおもわれる。ウチュウのそとからのものがはいってくるからだ。ウチュウのつめたさとブッシツが、あたたかいウチュウのそとがわにあるだけだろう。ウチュウのそとがわにあるブッシツがすくなければ、ウチュウからあたたかさとブッシツがでていくのだろう。それだと、ウチュウはシダイにつめたくなる。ウチュウのおおきさテイドにウチュウはつめたくなるし、ブッシツもへっていく。それを「ウチュウはひろがる」というのだろう。そのうち、ニンゲンもすめなくなるテイドにつめたくなるかもしれない。コウセイのちかくにイドウしても、ジカンのモンダイである。そういうイッカイきりのウチュウなのであろうか。だからウチュウのリサイクルをかんがえている。

 

 

 

よんジュウシチ、『ス』サンジュウニ

 

 

ジカンイコールエネルギーわるシツリョウのはなしをした(●よんジュウよん、『ス』ニジュウ、ニジュウサン、『オ』ハチ、ジュウゴ、『よ』サンジュウニ)。

 

 

これだと、エネルギーがレイでも、シツリョウがレイでもジカンはながれないとなる。ジカンでなかったら、イドウがセイリツしないだ。さて、それでは、エネルギーがさきにあるのか、シツリョウがさきにあるのであろうか。ニンゲンがつくったラジコンカーは、この「シツリョウ」にデンチ「エネルギー」をのせたのだろう。レキシをみると、ニンゲン(エネルギー)ができて、シャリン(シツリョウ)ができた。ジンリキシャというわけである。だからドウブツのケンキュウをすれば、こたえがでるかもしれない。

 

テキスト ボックス:  ニンゲンにとってのエネルギーは、タンスイカブツなどである。それがあれば、かなりいきていられるようだ。タンスイカブツとはなにかというと、ショクブツであろう。ショクブツがさきにあったか、ニンゲンがさきにあったかというと、ショクブツがさきにあったといわれる。ニンゲンよりも、ねずみなんかのホウがながいのであろうか。ショクブツができるのにも、ニサンカタンソがヒツヨウであったろうから、ニサンカタンソがどこにあったかをしらべるといいかもしれない。ニサンカタンソがチキュウにあったのだろう。チキュウがもえているから、ニサンカタンソはあったのかもしれない。サンソとタンソがあったのだろう。

 

セイブツのキゲンはサンソとタンソであったようだ。それをチキュウがもっていた。ショクブツとドウブツがなぜえだわかれしたのかというのもキョウミぶかいが、そのはなしはまたにする。なぜチキュウがもえているか。サンソとネツがあるからだろう。どこかのコウセイからとびひしたのかもしれない。そのコウセイもなにかをもやしているのだろう。サンソがさきなのか、もえるがさきなのか。なにもなければもえないようにおもう。「ビッグバン」といったって、ものがなければおこらないだろう。だから「もの(シツリョウ)」がさきにあったとおもわれる。

 

ものがあって、もえるゆえに、ジカンがショウじたと。なぜサンソがもえだしたか。タブンひきのばされたのだとおもう。タンジュンにいうと、タイセキがおおきくなってコウオンになりハッカしたとおもわれる。わたしがガクセイのときにみたえだと、ウチュウ(サンソ)のジョウゲからアツリョクがくわわって、タイセキがおおきくなったとかんがえられる(そのえをかいたひとは、そうかんがえたのだろう。)。だから、「ビッグバン」にせよ、もえるちからがそのまえにあったとかんがえるのがただしいだろう。ウチュウ(サンソ)がひろがったからハッカしたともかんがえられるわけだ。そのひろげるちからとはなにか。またかんがえてみたい。ウチュウ(サンソ)をひきのばすちからがあるなら、ウチュウをちぢめるちからもあるかもしれない。それなら、ウチュウもサイリヨウできるのだろう。

 

 

 

よんジュウハチ、『ス』サンジュウゴ

 

 

 

よくわたしのコップのなかにむしがはいる。おおいときはサンびきぐらいはいってスイシしている。きもちいいからプールにはいるカンカクではいっているのでは(●ジュウキュウ、『よ』ヒャクロクジュウニ)とかいたが、サイキンになって、そのリユウがわかった。それは、ケイコウトウのひかりが、コップのスイメンにあたり、ハンシャするからである。むしはそのハンシャしたスイメンをひかりだとおもい、みずにつかってしまうのだろう。そういうむしとりきがつくれそうである。

 

 

 

よんジュウキュウ、『ス』サンジュウロク

 

イシキはコジンとシゼン、シャカイのおりあいをつけるためにあるとかいた。ところで、そのイシキとはなにでできているか。タンジュンにいうと、デンキシンゴウだろう。カガクブッシツといえるかもしれない。だから、あるはなしのトチュウに、なにかベツのデンキシンゴウをノウにおくりこめば、そのはなしにすりかわっていくかもしれない。しかし、そういったセンノウまがいのやりかたはカンベンしてほしいとおもう。

 

ところで、ことばは、デンキシンゴウをあらわすキゴウともいえるだろう。そのキゴウは、くにやチイキによってちがう。そういうのをセイリして、キョウツウゴをつくればベンリかとおもうが、アンガイつかわれないようだ。いいジョウホウがあるくにのことばがつよくなるのだろう。むかしはワコンカンサイ、いまはワコンヨウサイか。ニホンジンもがんばらねばとおもう。

 

 

 

ゴジュウ、『ス』よんジュウ

 

 

 

いきるとは「キョウリョクすること」である。なぜそういえるか。ニンゲンのカクサイボウがキョウリョクしなかったら、セイゾンがコンナンだからだ。サイボウはそれぞれやくめをもちながらキョウリョクしている。ただ、キョウリョクするだけではだめだ。それぞれのやくめをはたさなければならない。そこをかんちがいしてしまうと、シュウダンにマイボツしたり、ツゴウのいいひとになったりしてしまう。おおきなタンイのセイゾンになにかキョウリョクできればいいのではなかろうか。

 

 

 

つづく。

 

続きは、

https://note.mu/ryusaku/n/ne4fb7e3180b3

または、

https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=171106533

で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この本の内容は以上です。


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